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ジリジリ地を焼く太陽、纒わり付く温風。並盛の夏は暑い。
「⋯⋯」
顰め面の雲雀の眼前には文机に散乱する書類、書類、書類。全くえらい事になってしまったものだ。何も突然舞い込んだ不遇では無く外回りにかまけていたツケが回って来ているだけなのだが、それにしても酷い。
昨日から私室に缶詰状態で必死に事務処理を行うも終わりなど一向に見えはせぬ。
ジージージー⋯
喧しい蝉の鳴き声が昼下がりの籠る熱気と相まり不機嫌を煽る。こめかみを伝う汗をぐいと乱雑に拭った時。
「失礼します」
響く薄い声。伏し目がちに入室して来た妻の手には涼し気なギヤマンの水差し、そして揃いの水飲みが乗った盆。畳へ膝をつき注いで行く。カラカラ、水差しの中で揺れる氷の音が小気味良い。
飽和した頭でぼんやりと猛暑にあって尚白い白いその手に見入る。極端に色素の薄い彼女にとって強い日差しは猛毒なのだとはシャマルの言。
“積み重なれば将来的に命に関わって来る事だ。どうか考慮してやって下せぇよ”
その言葉通り、最近の彼女は洗濯も縁側の掃除も未だ辺りが暗いうちに起きて済ませている模様。難儀な事だ。
折角茶を持って来てくれたのだし少し休憩を取ろうとかちこちに凝り固まった肩を回し首を左右に傾ければポキポキと嫌な音。全く何処の爺さんだろう。
横目にすくりとルイが立ち上がったのを確認すると同時に空気が揺れ彼女特有のえも言われぬ香が鼻腔を擽る。何なのだろう、同じ石鹸を使っている筈なのにこの女は本当に堪らない匂いを放つ。柔らかく鼻を抜け脳髄を痺れさせる⋯まるで麻薬だ。
「?」
ふと肩に触れる指の感触。出て行くのだとばかり思っていたルイが背後に回り座り込んでいる。
ぐぐ⋯、肩から首にゆっくりと加えられる圧。ほぐしてくれるのか。後頭部の方まで絶妙にツボを抑えて来るそれはひどく心地が良くて、無意識に零れる安らぎの吐息。
驚く程棘が抜けたものだと思う。ろくすっぽ口を開かずにこりともしないのは相変わらず、しかし以前とは明らかに雰囲気が違う。それは薄ら記憶に残るあの晩──ぐでんぐでんに酔い潰れるなどと言う最悪の失態を演じたあの悪夢の晩以降の事。
正直な所、あの日どうして謝ってしまったのか未だに分からずに居る。責められる謂れなど無かった筈なのに。けれども⋯
“あなたはどうして私を選んだんですか⋯?”
力無く投げ掛けられた問に、触れて来た優しい手に、言葉にはならぬ思いが込み上げて来て。
彼女にどのような心境の変化があったのかは知らない。それでも伏し目がちながらも視線を合わせて来るようにはなったし日々の挨拶も欠かさない。それどころかここの所は毎朝わざわざ手製の塩飴など持たせてすらくれる。曰く、熱中りを防ぐからと言う理由で。
ジージージー⋯
折角の機会だ。何か話したい、とは思う。けれど何を話せば良いのか分からない。この女はどんな話題に興味を持ち笑ったり悲しんだり、様々な顔を見せてくれるのだろう。結局相手が自分では詮無い事か。
考えているうちにこくりこくり、傾ぐ首。
脱力する程に気持ちの良い指圧、規則的な蝉の鳴き声、連日不足している睡眠時間。この状況で眠くならない訳が無い。しかしすべき事は未だ凶悪な迄に残っていて⋯
「⋯あの、」
びくり!突然の声に思わず肩が跳ねる。
「あ、すいません⋯」
「何?」
振り返ればやはり彼女はふいと俯いてしまう。その表情はどこか惑っているように見えた。
「あの⋯、昨晩は、一晩中襖の隙間から灯りが」
「ああ、迷惑だったかい?」
「そうではなくて⋯少し眠られては?半刻だけでも」
お忙しいとは存じますが⋯。おずおずと進言するルイにドクンその働きを強める心臓。塩飴の件といい、心配してくれているのだろうか、妻の役目という体裁だろうか。何にせよ彼女が自発的に言葉を掛けてくれた事実が柄にも無く嬉しくて。
「⋯ずっと眠らずに居たらどうなるの?医者としての見解を聞かせてくれるかな」
医者としての、その問にきっとルイは喜び乗ってくれるものだと思った。なのに返って来たのははっきりと強張り顔。
「⋯揶揄いですか?私はもう医者ではないのに」
そう捉えたか。その職を奪った根源たる男が医者でありたかった自分を嘲り揶揄っているのだと。これは困った。完全に想定外。
「⋯どうしてそう悪く取るの。他人事でないから気になっただけだよ。今がどうあれ黒曜の人間は口を揃えて君は優秀な医者だったと言っていたから」
冷静を装いながら慌てて繕う自分は全く何て滑稽なんだろう。事実ではあるにしろ御機嫌取りのような真似をするなんて。しかしどうやら効果はあったらしい。美しい顔に刻まれた僅かな眉間の皺が消える。
「⋯そうですね、務め人ならば恐らく」
「恐らく?」
遠慮がちに発された全く遠慮の無い言葉。
「人前で倒れて、診断がつき次第自己管理不足と言うそれなりの醜態晒す羽目になるかと⋯」
「⋯⋯。それは先日の僕への皮肉かな?」
「え?あ、いえ、そういう事では⋯」
驚いた顔、瞬かれる瞼。悪意は更々無かったらしい。気付けばしっかりと合っている目線。彼女もそれを意識したのか不自然な程慌てて逸らされてしまったけれど。
せり上がって来た思いは一つだけ。ああ、可愛い。可愛い可愛い。もっと色んな表情を見たい、声を聴きたい。しかし心情とは裏腹に会話を繋ぐ言葉が見つからない⋯
訪れた沈黙、けれど最早新婚当初のような重苦しい空気にはならなかった。動揺からか結い上げた長い髪に触れる彼女も何となく出方を伺っているように見えるのは希望的観測だろうか。
「⋯まぁ良いや。醜態なんぞ晒すのはもう勘弁だ、少し寝るよ」
「あー⋯別に私──、いえ、はい⋯お布団敷きますね」
歯切れ悪く立ち上がろうとしたルイを制しごろりとその場に寝転がる。つまり、正座状態にある彼女の膝を枕にして。
精神的な関係がどうあれこのくらいは許されるだろう、自分達は夫婦なのだから。ほんの半刻の事、このくらいは。
「あの」
「駄目。布団入ったらもう出られる気がしない」
「いえ、そこの団扇取って下さい」
文机の隅に置かれた団扇。暑いのだろう。腕を伸ばして掴み渡すと目を閉じる。柔らかな太股の感触。
「⋯⋯」
ぱたぱた、汗ばんだ顔を緩やかに撫ぜる涼しい風。成程こちらを仰いでくれる為だったのか⋯優しいではないか。初めて目にした時の柔和な声が蘇る。六道骸に向けられた、それはそれは穏やかな⋯否、これは考えてはいけない。折角良い気分で居たのが台無しだ。
というか、六道とは結局どのような関係だったのだろう。随分と親しそうだった。聞いた所でろくな返答は無いかも知れないが──⋯
思考していればあっという間に訪れる睡魔。微睡み特有のひどく心地良い感覚に包まれながら、いつしか意識が沈殿して行った。
「⋯⋯」
顰め面の雲雀の眼前には文机に散乱する書類、書類、書類。全くえらい事になってしまったものだ。何も突然舞い込んだ不遇では無く外回りにかまけていたツケが回って来ているだけなのだが、それにしても酷い。
昨日から私室に缶詰状態で必死に事務処理を行うも終わりなど一向に見えはせぬ。
ジージージー⋯
喧しい蝉の鳴き声が昼下がりの籠る熱気と相まり不機嫌を煽る。こめかみを伝う汗をぐいと乱雑に拭った時。
「失礼します」
響く薄い声。伏し目がちに入室して来た妻の手には涼し気なギヤマンの水差し、そして揃いの水飲みが乗った盆。畳へ膝をつき注いで行く。カラカラ、水差しの中で揺れる氷の音が小気味良い。
飽和した頭でぼんやりと猛暑にあって尚白い白いその手に見入る。極端に色素の薄い彼女にとって強い日差しは猛毒なのだとはシャマルの言。
“積み重なれば将来的に命に関わって来る事だ。どうか考慮してやって下せぇよ”
その言葉通り、最近の彼女は洗濯も縁側の掃除も未だ辺りが暗いうちに起きて済ませている模様。難儀な事だ。
折角茶を持って来てくれたのだし少し休憩を取ろうとかちこちに凝り固まった肩を回し首を左右に傾ければポキポキと嫌な音。全く何処の爺さんだろう。
横目にすくりとルイが立ち上がったのを確認すると同時に空気が揺れ彼女特有のえも言われぬ香が鼻腔を擽る。何なのだろう、同じ石鹸を使っている筈なのにこの女は本当に堪らない匂いを放つ。柔らかく鼻を抜け脳髄を痺れさせる⋯まるで麻薬だ。
「?」
ふと肩に触れる指の感触。出て行くのだとばかり思っていたルイが背後に回り座り込んでいる。
ぐぐ⋯、肩から首にゆっくりと加えられる圧。ほぐしてくれるのか。後頭部の方まで絶妙にツボを抑えて来るそれはひどく心地が良くて、無意識に零れる安らぎの吐息。
驚く程棘が抜けたものだと思う。ろくすっぽ口を開かずにこりともしないのは相変わらず、しかし以前とは明らかに雰囲気が違う。それは薄ら記憶に残るあの晩──ぐでんぐでんに酔い潰れるなどと言う最悪の失態を演じたあの悪夢の晩以降の事。
正直な所、あの日どうして謝ってしまったのか未だに分からずに居る。責められる謂れなど無かった筈なのに。けれども⋯
“あなたはどうして私を選んだんですか⋯?”
力無く投げ掛けられた問に、触れて来た優しい手に、言葉にはならぬ思いが込み上げて来て。
彼女にどのような心境の変化があったのかは知らない。それでも伏し目がちながらも視線を合わせて来るようにはなったし日々の挨拶も欠かさない。それどころかここの所は毎朝わざわざ手製の塩飴など持たせてすらくれる。曰く、熱中りを防ぐからと言う理由で。
ジージージー⋯
折角の機会だ。何か話したい、とは思う。けれど何を話せば良いのか分からない。この女はどんな話題に興味を持ち笑ったり悲しんだり、様々な顔を見せてくれるのだろう。結局相手が自分では詮無い事か。
考えているうちにこくりこくり、傾ぐ首。
脱力する程に気持ちの良い指圧、規則的な蝉の鳴き声、連日不足している睡眠時間。この状況で眠くならない訳が無い。しかしすべき事は未だ凶悪な迄に残っていて⋯
「⋯あの、」
びくり!突然の声に思わず肩が跳ねる。
「あ、すいません⋯」
「何?」
振り返ればやはり彼女はふいと俯いてしまう。その表情はどこか惑っているように見えた。
「あの⋯、昨晩は、一晩中襖の隙間から灯りが」
「ああ、迷惑だったかい?」
「そうではなくて⋯少し眠られては?半刻だけでも」
お忙しいとは存じますが⋯。おずおずと進言するルイにドクンその働きを強める心臓。塩飴の件といい、心配してくれているのだろうか、妻の役目という体裁だろうか。何にせよ彼女が自発的に言葉を掛けてくれた事実が柄にも無く嬉しくて。
「⋯ずっと眠らずに居たらどうなるの?医者としての見解を聞かせてくれるかな」
医者としての、その問にきっとルイは喜び乗ってくれるものだと思った。なのに返って来たのははっきりと強張り顔。
「⋯揶揄いですか?私はもう医者ではないのに」
そう捉えたか。その職を奪った根源たる男が医者でありたかった自分を嘲り揶揄っているのだと。これは困った。完全に想定外。
「⋯どうしてそう悪く取るの。他人事でないから気になっただけだよ。今がどうあれ黒曜の人間は口を揃えて君は優秀な医者だったと言っていたから」
冷静を装いながら慌てて繕う自分は全く何て滑稽なんだろう。事実ではあるにしろ御機嫌取りのような真似をするなんて。しかしどうやら効果はあったらしい。美しい顔に刻まれた僅かな眉間の皺が消える。
「⋯そうですね、務め人ならば恐らく」
「恐らく?」
遠慮がちに発された全く遠慮の無い言葉。
「人前で倒れて、診断がつき次第自己管理不足と言うそれなりの醜態晒す羽目になるかと⋯」
「⋯⋯。それは先日の僕への皮肉かな?」
「え?あ、いえ、そういう事では⋯」
驚いた顔、瞬かれる瞼。悪意は更々無かったらしい。気付けばしっかりと合っている目線。彼女もそれを意識したのか不自然な程慌てて逸らされてしまったけれど。
せり上がって来た思いは一つだけ。ああ、可愛い。可愛い可愛い。もっと色んな表情を見たい、声を聴きたい。しかし心情とは裏腹に会話を繋ぐ言葉が見つからない⋯
訪れた沈黙、けれど最早新婚当初のような重苦しい空気にはならなかった。動揺からか結い上げた長い髪に触れる彼女も何となく出方を伺っているように見えるのは希望的観測だろうか。
「⋯まぁ良いや。醜態なんぞ晒すのはもう勘弁だ、少し寝るよ」
「あー⋯別に私──、いえ、はい⋯お布団敷きますね」
歯切れ悪く立ち上がろうとしたルイを制しごろりとその場に寝転がる。つまり、正座状態にある彼女の膝を枕にして。
精神的な関係がどうあれこのくらいは許されるだろう、自分達は夫婦なのだから。ほんの半刻の事、このくらいは。
「あの」
「駄目。布団入ったらもう出られる気がしない」
「いえ、そこの団扇取って下さい」
文机の隅に置かれた団扇。暑いのだろう。腕を伸ばして掴み渡すと目を閉じる。柔らかな太股の感触。
「⋯⋯」
ぱたぱた、汗ばんだ顔を緩やかに撫ぜる涼しい風。成程こちらを仰いでくれる為だったのか⋯優しいではないか。初めて目にした時の柔和な声が蘇る。六道骸に向けられた、それはそれは穏やかな⋯否、これは考えてはいけない。折角良い気分で居たのが台無しだ。
というか、六道とは結局どのような関係だったのだろう。随分と親しそうだった。聞いた所でろくな返答は無いかも知れないが──⋯
思考していればあっという間に訪れる睡魔。微睡み特有のひどく心地良い感覚に包まれながら、いつしか意識が沈殿して行った。