embrace
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ああ、苛々する。
今日すべき事を全て終え帰宅の途につく雲雀の心情は決して穏やかとは言えなかった。頭を占めるのは今や視線すら合わせる事の無い我が妻の事。
正直もうどうすれば良いのかさっぱり分からない。彼女は余りに身勝手だと言う腹立たしさと、反面酷い事をしてしまった後ろめたさ。
こんな時に面と向かって距離を詰める手法など持ってはいないから、ただただ仕事に打ち込む。完璧に黒曜を再興させてしまいさえすれば、頑ななあの女の態度も少しは軟化するのではないかと。
しかし。
昨晩彼女は泣いた。熱に浮かされた頭で帰りたいと静かに涙を流した。
胸が締め付けられた。
あの日以降すっかり自分に怯えきり、全てに一切の抵抗を見せなくなってしまったルイ。いっそ詰られ罵られた方がまだ気が楽なのに。
それでも関係を求めてしまうのは、それが今の自分達を繋ぐ唯一の糸のように思えたから。
ぐしゃり、髪を掻き上げる。
帰してあげた方が良いのだろう。けれど、手離したくない。あの女がどうしても良い、どうしても良いのだ。
全く、彼女に出会ってから自分はどうかしている。
もう思考すら煩わしく連日の仕事で体はくたくたに疲れ切っているのに、足はあらぬ方向へと向かってしまう。着いた先は──
熱も下がり切り体調のすっかり回復した夜更け。思う存分眠ったからかもう寝る気がせず縁側に腰掛け風に当たっていると、ぼんやり思い出される草壁の話。
“私は早くに両親を亡くしましてね、それ以外には生きる術が無くヤクザの小間使いとして飼われていたんですよ。そこから救ってくれたのが恭さんだったんです”
彼はある日突然組の拠点とする屋敷に乗り込んで来たかと思えば、窃盗、騙し討ち、禁じられた薬物の売買と下劣な仕事に手を染める大人達を叩きのめし屋敷を乗っ取った。そして常日頃から折檻を受け続け全身青アザだらけの草壁に乱雑な手当を施しながら一言。
「僕はこの町の風紀を正す。行くあてが無いのなら付いて来なよ」
当時を懐かしそうに邂逅した草壁は、何とも楽しそうに微笑んで、どこか誇らしげにこう言ったのだ。
“あれからもう十年以上経って組織も随分大きくなりました。が、反逆者など出た事はありません。力で人は従えられども心までは統率出来ぬ⋯と、私は思っています”
さわり、肌を擽る風は涼やかで優しい。
雲雀を酷い男へと変えてしまっているのは自分なのかも知れない。だって、初めての夜触れて来た手はとてもとても優しかった。認めたくなかっただけで。
⋯けれど、それでも。幾ら良い面を見ようとした所で自分には自分で夢があったのだ。それを壊したのもあの人で⋯
ぐるぐる回る思考を打ち切ったのは近付いて来る車輪の音。深夜に来訪した人力車、ガス灯が薄暗く照らし出した光景にルイは思わず立ち上がった。
「全く、初めてですよこんな事は⋯」
眠り込む雲雀を布団に落ち着けた草壁はひたすらに困惑顔。どこぞで飲んでいたらしい彼はすっかり酔い潰れ、御丁寧にも人力車で送られ帰って来たという訳だ。
「まぁ禄に睡眠も取らず働き詰めでしたからね⋯疲れが出たのかも知れません」
奥様はもうお部屋へ、そう促す草壁に自分が見ておくと申し出ると、彼は少し驚いたようだったが一つ頷いて退室して行った。
しんと静かな部屋。畳に腰を下ろし眠る雲雀をじっと見つめる。穏やかな寝息を立てるその顔はまるであどけない幼子のそれで、少し不思議な気分だ。
草壁は何も言わなかったけれどルイは気付いていた。彼は花街に行っていたのだと。黒曜が安泰だった頃にシャマルが時折纏わせていた特有の香り、それと同じ匂いがしたから。勿論怒りなど湧きはしないし、他所で済ませてくれるならばその方が都合が良い。
けれど⋯。そこはかとなく心を蝕んで来る申し訳無さ。
妻の故郷の為日がな一日仕事に打ち込みながら、疲労困憊の体で夜通し妻の看病まで。だと言うのにその妻は享受しているものをまるっと知らん顔で我を貫くばかりでは、それはどこかで発散したくもなるだろう。苛立ちも性欲も。
「⋯あなたは、どうして私を選んだんですか⋯?」
少し赤らんだその頬に触れてみる。昨晩彼がそうしてくれていたのだろう風に、そっと撫でてさすって。眠る彼を見つめ続ける。返事が無いと分かっていても。
すると静けさの中不意に伸びて来た腕。びくりとする間も無くぐいと強い力で引っ張られ胸元へと抱き込まれた。鼻を付く酒の匂い。
「、」
「ごめんね」
「え?」
見上げればその瞼は薄らと開いていて。酒の所為か僅かに潤んだ瞳に確かにルイを映し、切なげな声で何度も。ごめんね、ごめんね⋯
ずきん、途端に酷く疼く胸。
何も言えずにいる内に目は閉じられ、再び安らかな寝息。夢を見ていたのか。
何に対しての謝罪?浮気をした事?それとも⋯
「⋯⋯」
つぅと一筋頬に温かな感触。泣きたい訳では無いのに、次から次へと溢れ出しては止まらない。競り上がって来たこの感情は何だろう。
酒臭いその袂に頬を擦り付け声を殺して泣く。漏れる嗚咽が掠れてしまうまで。
今は、今だけは、甘えさせて下さい。あなたが無理矢理に連れて来たんですから。
私もう、苦しくて苦しくてどうして良いかも分からなくて、気が変になってしまいそうで、堪らないんですから⋯
感情がどうであれ時間は進む。
翌日雲雀より先に起き出したルイが朝食作りを終え広い庭で洗濯を干していると、背後から近付く気配。
「⋯行って来るよ」
振り返ると少し先の方に佇んでいたその人は、ルイの顔は見る事無くそっぽを向いてぼそりと一言。
「⋯⋯、行ってらっしゃい」
ルイもふいと視線を外して呟くように返す。
聞こえていたのかいないのか、それでも踵を返した雲雀の口角は僅かに上がっていて。
傍らに控えその様子を見守っていた草壁は、爽やかな早朝の風を肌に感じながらくすりと小さな笑みを洩らした。
今日すべき事を全て終え帰宅の途につく雲雀の心情は決して穏やかとは言えなかった。頭を占めるのは今や視線すら合わせる事の無い我が妻の事。
正直もうどうすれば良いのかさっぱり分からない。彼女は余りに身勝手だと言う腹立たしさと、反面酷い事をしてしまった後ろめたさ。
こんな時に面と向かって距離を詰める手法など持ってはいないから、ただただ仕事に打ち込む。完璧に黒曜を再興させてしまいさえすれば、頑ななあの女の態度も少しは軟化するのではないかと。
しかし。
昨晩彼女は泣いた。熱に浮かされた頭で帰りたいと静かに涙を流した。
胸が締め付けられた。
あの日以降すっかり自分に怯えきり、全てに一切の抵抗を見せなくなってしまったルイ。いっそ詰られ罵られた方がまだ気が楽なのに。
それでも関係を求めてしまうのは、それが今の自分達を繋ぐ唯一の糸のように思えたから。
ぐしゃり、髪を掻き上げる。
帰してあげた方が良いのだろう。けれど、手離したくない。あの女がどうしても良い、どうしても良いのだ。
全く、彼女に出会ってから自分はどうかしている。
もう思考すら煩わしく連日の仕事で体はくたくたに疲れ切っているのに、足はあらぬ方向へと向かってしまう。着いた先は──
熱も下がり切り体調のすっかり回復した夜更け。思う存分眠ったからかもう寝る気がせず縁側に腰掛け風に当たっていると、ぼんやり思い出される草壁の話。
“私は早くに両親を亡くしましてね、それ以外には生きる術が無くヤクザの小間使いとして飼われていたんですよ。そこから救ってくれたのが恭さんだったんです”
彼はある日突然組の拠点とする屋敷に乗り込んで来たかと思えば、窃盗、騙し討ち、禁じられた薬物の売買と下劣な仕事に手を染める大人達を叩きのめし屋敷を乗っ取った。そして常日頃から折檻を受け続け全身青アザだらけの草壁に乱雑な手当を施しながら一言。
「僕はこの町の風紀を正す。行くあてが無いのなら付いて来なよ」
当時を懐かしそうに邂逅した草壁は、何とも楽しそうに微笑んで、どこか誇らしげにこう言ったのだ。
“あれからもう十年以上経って組織も随分大きくなりました。が、反逆者など出た事はありません。力で人は従えられども心までは統率出来ぬ⋯と、私は思っています”
さわり、肌を擽る風は涼やかで優しい。
雲雀を酷い男へと変えてしまっているのは自分なのかも知れない。だって、初めての夜触れて来た手はとてもとても優しかった。認めたくなかっただけで。
⋯けれど、それでも。幾ら良い面を見ようとした所で自分には自分で夢があったのだ。それを壊したのもあの人で⋯
ぐるぐる回る思考を打ち切ったのは近付いて来る車輪の音。深夜に来訪した人力車、ガス灯が薄暗く照らし出した光景にルイは思わず立ち上がった。
「全く、初めてですよこんな事は⋯」
眠り込む雲雀を布団に落ち着けた草壁はひたすらに困惑顔。どこぞで飲んでいたらしい彼はすっかり酔い潰れ、御丁寧にも人力車で送られ帰って来たという訳だ。
「まぁ禄に睡眠も取らず働き詰めでしたからね⋯疲れが出たのかも知れません」
奥様はもうお部屋へ、そう促す草壁に自分が見ておくと申し出ると、彼は少し驚いたようだったが一つ頷いて退室して行った。
しんと静かな部屋。畳に腰を下ろし眠る雲雀をじっと見つめる。穏やかな寝息を立てるその顔はまるであどけない幼子のそれで、少し不思議な気分だ。
草壁は何も言わなかったけれどルイは気付いていた。彼は花街に行っていたのだと。黒曜が安泰だった頃にシャマルが時折纏わせていた特有の香り、それと同じ匂いがしたから。勿論怒りなど湧きはしないし、他所で済ませてくれるならばその方が都合が良い。
けれど⋯。そこはかとなく心を蝕んで来る申し訳無さ。
妻の故郷の為日がな一日仕事に打ち込みながら、疲労困憊の体で夜通し妻の看病まで。だと言うのにその妻は享受しているものをまるっと知らん顔で我を貫くばかりでは、それはどこかで発散したくもなるだろう。苛立ちも性欲も。
「⋯あなたは、どうして私を選んだんですか⋯?」
少し赤らんだその頬に触れてみる。昨晩彼がそうしてくれていたのだろう風に、そっと撫でてさすって。眠る彼を見つめ続ける。返事が無いと分かっていても。
すると静けさの中不意に伸びて来た腕。びくりとする間も無くぐいと強い力で引っ張られ胸元へと抱き込まれた。鼻を付く酒の匂い。
「、」
「ごめんね」
「え?」
見上げればその瞼は薄らと開いていて。酒の所為か僅かに潤んだ瞳に確かにルイを映し、切なげな声で何度も。ごめんね、ごめんね⋯
ずきん、途端に酷く疼く胸。
何も言えずにいる内に目は閉じられ、再び安らかな寝息。夢を見ていたのか。
何に対しての謝罪?浮気をした事?それとも⋯
「⋯⋯」
つぅと一筋頬に温かな感触。泣きたい訳では無いのに、次から次へと溢れ出しては止まらない。競り上がって来たこの感情は何だろう。
酒臭いその袂に頬を擦り付け声を殺して泣く。漏れる嗚咽が掠れてしまうまで。
今は、今だけは、甘えさせて下さい。あなたが無理矢理に連れて来たんですから。
私もう、苦しくて苦しくてどうして良いかも分からなくて、気が変になってしまいそうで、堪らないんですから⋯
感情がどうであれ時間は進む。
翌日雲雀より先に起き出したルイが朝食作りを終え広い庭で洗濯を干していると、背後から近付く気配。
「⋯行って来るよ」
振り返ると少し先の方に佇んでいたその人は、ルイの顔は見る事無くそっぽを向いてぼそりと一言。
「⋯⋯、行ってらっしゃい」
ルイもふいと視線を外して呟くように返す。
聞こえていたのかいないのか、それでも踵を返した雲雀の口角は僅かに上がっていて。
傍らに控えその様子を見守っていた草壁は、爽やかな早朝の風を肌に感じながらくすりと小さな笑みを洩らした。