embrace
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しとしと。曇天より降り続く雨を眺めながらルイはズキズキと軋む身体を布団に横たえていた。
酷く怠く吐く息は熱い。風邪をひいてしまったようだ。
春が過ぎ梅雨が訪れ、気付けば此処へ来て早二ヶ月。
雲雀とは互いに口を聞かなければ目も合わせない生活が続いている。彼はずっと忙しくしているらしく早朝に出ては深夜に帰宅、帰って来ない日も珍しくは無かった。そんなだと言うのに度々眠るルイの部屋を訪れては行為を強要して来る。
逃げる事の叶わぬこの屋敷はルイにとって牢獄そのものだった。
はぁ、つらさに体の持って行き場が無く大きく息を吐いた所で「奥様、失礼します」すっかり聞き馴染んだ声。草壁だ。
「お便りが届いていますよ。…具合は如何ですか?」
枕元に封筒を置き気遣わしげな口調。ルイは雲雀の腹心の部下と言えるこの男にかなり良い印象を持っていたから素直にしんどいと伝え、それから喉が渇いたと付け加えておいた。すぐに水を持って来ましょうと退室する彼の温厚で誠実な人柄は、この地獄のような場所で唯一の拠り所でもあった。
受け取った封筒は随分と分厚く、開けてみると中には十数枚の便箋。一番上にある親愛なる父親シャマルからの便りにトクン、心臓が静かに音を立てる。
「お待たせしました」
再び草壁が入室した際、ルイはそっと目元を拭う仕草を見せた。手紙の差出名は黒曜、恋しいであろう故郷からの便りに思う所があったのかも知れない。
気丈な人だと思う。草壁はこのいつも感情の死んだ目をしている女が気掛かりで仕方が無い。同時に雲雀の事も。
来たばかりの頃台所で彼とやり合った日以降、彼女は極端に彼への怯えを見せるようになり、又彼も彼女に話し掛けようともしなくなった。そして何処か機嫌が悪く常日頃の草壁への軽口も陰を潜めては仕事へ没頭している。
あの日何かあったに違いないが何せ夫婦間の事、草壁の立場では聞く訳にも行かず全ては闇の中だ。
「…あの、草壁さん。あの人は度々黒曜へ…?」
「はい、週に一度は必ず…お便りに書かれていましたか?」
「え、ええ…」
沢山の町人達から届いた手紙にはルイへ、それ以上に雲雀への感謝がこれでもかとしたためられていて。
忙しい彼が並盛から通うには幾分骨の折れる黒曜へ頻繁に顔を出し、わざわざ自らが指揮を取り町の再興に尽力してくれている事。ルイが提示した条件以上のものを供給し乱れきった治安までも取り締まってくれている事。その上で、黒曜はあくまで六道骸の領分であり並盛の統治下に置くつもりは一切無いと明言した事。
ルイは何も知らなかった。
「どうして…?」
何故そこまでするのだろう。彼にとっての利点など何一つ無い筈なのに。受け取った水を飲む事も忘れじっと見つめて来る不思議な赤い瞳に、草壁は小さく微笑む。
「どうしてでしょうね、私にも分かりません。ただ、」
思い出す浅利診療所を訪ねた日の事。主の突飛な決断。
他人へ関心を持つ事の極端に少ない男が突如この女を娶るだなどと言い出したくらいだ、余程何か感じるものがあったに違いない。
だからこそ。
「あなたがそっぽを向いていらっしゃるから、少し意地になられているのかと。完璧に黒曜を再興させればあなたとて恭さんを認めざるを得ないでしょう?」
「⋯認める?私がですか?あの人は別にそんな事」
「或いは、安心させて差し上げたいのかも知れませんね」
「まさか」
即座の否定は無理からぬ事、それでも草壁は伝えておきたかった。もう二人は夫婦となったのだから。今のまま、こんな状態で居て良いわけが無いのだ。差し出がましいと分かってはいても。
「奥様、今のあなたに御理解を求めるのは難しいとは存じます。ですがこれだけは知っていて頂きたいのです」
「何を⋯」
「恭さんは決して冷酷なだけの人ではありません。私の個人的な心情としては、あなたのお気持ちは察するに余りありますが…それでも、」
恭さんと向き合ってみてはあげられないでしょうか。憎い男と切って捨てるのでは無く、一人の人間として⋯あの人を、きちんと見てあげて欲しいのです。
余りにも真摯な瞳に心が揺れる。けれど、だって、そんな事を言われても。
緩やかな思考の漣。
認められたい、安心させてあげたい、自分に対してそんな風に思っている?彼が?何故。
自分が娶られた理由など考えもしなかった。この真白い肌と奇怪な瞳の色が原因だと思い込んでいたから。人とは違うこの色に惹かれ、綺麗なお人形として所有しておきたいのだろうと。その様な輩は掃いて捨てるほど居たし、散々な目に合わされて来た。彼もその一人に違いないと。
けれど⋯
認められたい?安心させてあげたい?意志を求めぬただの人形に?
そんな事有り得るだろうか。
主を慕う草壁の必死の虚言なのかも知れないが、それがやたらと真実味を帯びて響くのはきっとシャマルからの便りの所為。
“上手く行っていないのは奴の雰囲気から伺えるよ。何なら一度腹を割って話してみなさい、意外と分からん奴でもないようだから”
どう解釈すれば良いのだろう。
熱に浮かされた頭では上手く答えが導けず、曖昧な相槌で会話を打ち切る他無かった。
その夜見たのはとても幸せな夢。
夢の中でルイは小さな子供に戻っていて、何度も何度もシャマルにせがむ。せんせー、しんどい、あつい。こおりなめたい。そうすればシャマルが大きな手でそっと髪を撫で、ひんやりした手拭いを額にあてがい、カラカラの唇に氷の欠片を含ませてくれるのだ。すぐに治るよ⋯世界で一番ルイを落ち着かせる低く深い声でそう繰り返して。
ひどく安心して、涙が込み上げて来て、思わず零してしまった心の叫び。
せんせー、かえりたい。せんせーのとこ、かえりたい⋯
そして暗転。
ふと目を覚ました頃には、もうすっかり太陽が昇り切っていた。久しぶりの晴れやかな空。
いけない、寝過ごしてしまった。雲雀の食事の支度に洗濯掃除、昨日に引き続き草壁がしてくれてるに違いない。迷惑を掛けてしまった。と言うよりそもそも雲雀は昨晩帰宅したのだろうか。
幾分楽になった体を起こすと枕元には水の注がれた盥と手拭い、湯呑み。
「⋯え⋯?」
夢では無かった?
肌に残る優しい手の感触、拭われた額の心地良さ、乾き切った喉を潤す冷たい氷の美味かった事。
草壁だったのだろう。朦朧とした脳が彼の温かな雰囲気をシャマルと混同させ、情けなくも甘えてしまったのかも知れない。
なんて体たらく、謝っておかなければ。思った所で障子が開き丁度良く本人のお出ましだ。
「おや、起きられていましたか。調子は如何です?」
「お陰様で⋯あの、昨晩はすみませんでした。御迷惑お掛けしてしまって」
しかし草壁はとんと知らぬとばかりに首を捻る。置かれた盥を指し示すと、あぁと微笑んで思いもよらぬ言葉。
「それは恭さんですよ。夜中私が伺おうとしたら丁度お帰りになった所を鉢合わせましてね。自分がするから良いと」
「え⋯」
「今朝方は随分と眠そうでしたから、ずっと起きていたのかも知れません」
あの人もあれで居て色々と考えておられるのだと思いますよ、なんて。そんな事を言われても⋯。昨日突如齎された困惑だって未だ処理出来てはいないのに。
「⋯⋯」
どう捉えれば良いのかもうさっぱり分からない。
雲雀はルイにとって、権力の権化の如き底抜けに忌々しい男。けれど他人の目に別の姿が映っているらしい。それこそルイを一番に想ってくれている筈のシャマルですら良い関係の構築を推奨する様な文面を書いて寄越す程に。
嫌い、嫌い、大嫌い。けれども。
“僕なりに君を大事にしようと思ってたけど”
不意に甦るいつかの夜の呟き。酷く乱暴にされたあの日、彼は凍り付いた声で確かにこう言っていた。今迄気に留めもしなかったのはきっと、憎し憎しとそれだけで頭が埋め尽くされていたから。
鉄壁で囲っていた筈の胸が僅かにざわめく。
彼はどんな人間なのか。ほんの少し、それを知りたいと思ってしまった。
「⋯草壁さん、あなたはどうしてあの人の下に?」
「私ですか?それは⋯」
酷く怠く吐く息は熱い。風邪をひいてしまったようだ。
春が過ぎ梅雨が訪れ、気付けば此処へ来て早二ヶ月。
雲雀とは互いに口を聞かなければ目も合わせない生活が続いている。彼はずっと忙しくしているらしく早朝に出ては深夜に帰宅、帰って来ない日も珍しくは無かった。そんなだと言うのに度々眠るルイの部屋を訪れては行為を強要して来る。
逃げる事の叶わぬこの屋敷はルイにとって牢獄そのものだった。
はぁ、つらさに体の持って行き場が無く大きく息を吐いた所で「奥様、失礼します」すっかり聞き馴染んだ声。草壁だ。
「お便りが届いていますよ。…具合は如何ですか?」
枕元に封筒を置き気遣わしげな口調。ルイは雲雀の腹心の部下と言えるこの男にかなり良い印象を持っていたから素直にしんどいと伝え、それから喉が渇いたと付け加えておいた。すぐに水を持って来ましょうと退室する彼の温厚で誠実な人柄は、この地獄のような場所で唯一の拠り所でもあった。
受け取った封筒は随分と分厚く、開けてみると中には十数枚の便箋。一番上にある親愛なる父親シャマルからの便りにトクン、心臓が静かに音を立てる。
「お待たせしました」
再び草壁が入室した際、ルイはそっと目元を拭う仕草を見せた。手紙の差出名は黒曜、恋しいであろう故郷からの便りに思う所があったのかも知れない。
気丈な人だと思う。草壁はこのいつも感情の死んだ目をしている女が気掛かりで仕方が無い。同時に雲雀の事も。
来たばかりの頃台所で彼とやり合った日以降、彼女は極端に彼への怯えを見せるようになり、又彼も彼女に話し掛けようともしなくなった。そして何処か機嫌が悪く常日頃の草壁への軽口も陰を潜めては仕事へ没頭している。
あの日何かあったに違いないが何せ夫婦間の事、草壁の立場では聞く訳にも行かず全ては闇の中だ。
「…あの、草壁さん。あの人は度々黒曜へ…?」
「はい、週に一度は必ず…お便りに書かれていましたか?」
「え、ええ…」
沢山の町人達から届いた手紙にはルイへ、それ以上に雲雀への感謝がこれでもかとしたためられていて。
忙しい彼が並盛から通うには幾分骨の折れる黒曜へ頻繁に顔を出し、わざわざ自らが指揮を取り町の再興に尽力してくれている事。ルイが提示した条件以上のものを供給し乱れきった治安までも取り締まってくれている事。その上で、黒曜はあくまで六道骸の領分であり並盛の統治下に置くつもりは一切無いと明言した事。
ルイは何も知らなかった。
「どうして…?」
何故そこまでするのだろう。彼にとっての利点など何一つ無い筈なのに。受け取った水を飲む事も忘れじっと見つめて来る不思議な赤い瞳に、草壁は小さく微笑む。
「どうしてでしょうね、私にも分かりません。ただ、」
思い出す浅利診療所を訪ねた日の事。主の突飛な決断。
他人へ関心を持つ事の極端に少ない男が突如この女を娶るだなどと言い出したくらいだ、余程何か感じるものがあったに違いない。
だからこそ。
「あなたがそっぽを向いていらっしゃるから、少し意地になられているのかと。完璧に黒曜を再興させればあなたとて恭さんを認めざるを得ないでしょう?」
「⋯認める?私がですか?あの人は別にそんな事」
「或いは、安心させて差し上げたいのかも知れませんね」
「まさか」
即座の否定は無理からぬ事、それでも草壁は伝えておきたかった。もう二人は夫婦となったのだから。今のまま、こんな状態で居て良いわけが無いのだ。差し出がましいと分かってはいても。
「奥様、今のあなたに御理解を求めるのは難しいとは存じます。ですがこれだけは知っていて頂きたいのです」
「何を⋯」
「恭さんは決して冷酷なだけの人ではありません。私の個人的な心情としては、あなたのお気持ちは察するに余りありますが…それでも、」
恭さんと向き合ってみてはあげられないでしょうか。憎い男と切って捨てるのでは無く、一人の人間として⋯あの人を、きちんと見てあげて欲しいのです。
余りにも真摯な瞳に心が揺れる。けれど、だって、そんな事を言われても。
緩やかな思考の漣。
認められたい、安心させてあげたい、自分に対してそんな風に思っている?彼が?何故。
自分が娶られた理由など考えもしなかった。この真白い肌と奇怪な瞳の色が原因だと思い込んでいたから。人とは違うこの色に惹かれ、綺麗なお人形として所有しておきたいのだろうと。その様な輩は掃いて捨てるほど居たし、散々な目に合わされて来た。彼もその一人に違いないと。
けれど⋯
認められたい?安心させてあげたい?意志を求めぬただの人形に?
そんな事有り得るだろうか。
主を慕う草壁の必死の虚言なのかも知れないが、それがやたらと真実味を帯びて響くのはきっとシャマルからの便りの所為。
“上手く行っていないのは奴の雰囲気から伺えるよ。何なら一度腹を割って話してみなさい、意外と分からん奴でもないようだから”
どう解釈すれば良いのだろう。
熱に浮かされた頭では上手く答えが導けず、曖昧な相槌で会話を打ち切る他無かった。
その夜見たのはとても幸せな夢。
夢の中でルイは小さな子供に戻っていて、何度も何度もシャマルにせがむ。せんせー、しんどい、あつい。こおりなめたい。そうすればシャマルが大きな手でそっと髪を撫で、ひんやりした手拭いを額にあてがい、カラカラの唇に氷の欠片を含ませてくれるのだ。すぐに治るよ⋯世界で一番ルイを落ち着かせる低く深い声でそう繰り返して。
ひどく安心して、涙が込み上げて来て、思わず零してしまった心の叫び。
せんせー、かえりたい。せんせーのとこ、かえりたい⋯
そして暗転。
ふと目を覚ました頃には、もうすっかり太陽が昇り切っていた。久しぶりの晴れやかな空。
いけない、寝過ごしてしまった。雲雀の食事の支度に洗濯掃除、昨日に引き続き草壁がしてくれてるに違いない。迷惑を掛けてしまった。と言うよりそもそも雲雀は昨晩帰宅したのだろうか。
幾分楽になった体を起こすと枕元には水の注がれた盥と手拭い、湯呑み。
「⋯え⋯?」
夢では無かった?
肌に残る優しい手の感触、拭われた額の心地良さ、乾き切った喉を潤す冷たい氷の美味かった事。
草壁だったのだろう。朦朧とした脳が彼の温かな雰囲気をシャマルと混同させ、情けなくも甘えてしまったのかも知れない。
なんて体たらく、謝っておかなければ。思った所で障子が開き丁度良く本人のお出ましだ。
「おや、起きられていましたか。調子は如何です?」
「お陰様で⋯あの、昨晩はすみませんでした。御迷惑お掛けしてしまって」
しかし草壁はとんと知らぬとばかりに首を捻る。置かれた盥を指し示すと、あぁと微笑んで思いもよらぬ言葉。
「それは恭さんですよ。夜中私が伺おうとしたら丁度お帰りになった所を鉢合わせましてね。自分がするから良いと」
「え⋯」
「今朝方は随分と眠そうでしたから、ずっと起きていたのかも知れません」
あの人もあれで居て色々と考えておられるのだと思いますよ、なんて。そんな事を言われても⋯。昨日突如齎された困惑だって未だ処理出来てはいないのに。
「⋯⋯」
どう捉えれば良いのかもうさっぱり分からない。
雲雀はルイにとって、権力の権化の如き底抜けに忌々しい男。けれど他人の目に別の姿が映っているらしい。それこそルイを一番に想ってくれている筈のシャマルですら良い関係の構築を推奨する様な文面を書いて寄越す程に。
嫌い、嫌い、大嫌い。けれども。
“僕なりに君を大事にしようと思ってたけど”
不意に甦るいつかの夜の呟き。酷く乱暴にされたあの日、彼は凍り付いた声で確かにこう言っていた。今迄気に留めもしなかったのはきっと、憎し憎しとそれだけで頭が埋め尽くされていたから。
鉄壁で囲っていた筈の胸が僅かにざわめく。
彼はどんな人間なのか。ほんの少し、それを知りたいと思ってしまった。
「⋯草壁さん、あなたはどうしてあの人の下に?」
「私ですか?それは⋯」