Ⅰ 白の教会
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警報が鳴ったのは、消灯時刻をとうに過ぎた頃だった。
耳をつんざくような音が、白い廊下を駆け抜ける。
赤い非常灯が明滅し、壁も床も、見慣れたはずの部屋さえも不気味な赤に染め上げていた。
遠くから、研究員たちの怒鳴り声が聞こえる。
「侵入者だ!!」
「なんだ、あの化け物は……!?」
「被験体を収容しろ! 研究区画を封鎖しろ!」
「撃ってくるぞ! 伏せろ!!」
その向こうから響いてくるのは、人間のものではない甲高い笑い声。
024はベッドの上で毛布を握りしめていた。
何が起きているのか分からない。
ただ──いつもと違う。
いつも自分たちを無表情に見下ろしていた研究員たちが、怯えている。
その事実だけで、どうしようもなく怖かった。
『024!』
勢いよく扉が開いた。
飛び込んできたのは045だった。
「045……?」
『逃げるよ!』
駆け寄ってきた045が、024の手首を掴む。
「でも、部屋から出ちゃ駄目って……」
『そんなこと言ってる場合じゃない!』
強く手を引かれ、024は裸足のまま廊下へ飛び出した。
そこにはもう、見慣れた白の教会の面影はなかった。
壁には大きな亀裂が走り、床には割れた培養槽から流れ出した液体が広がっている。
白衣を血で汚した研究員が二人の横を駆け抜けていった。
誰も、024たちを止めない。
『こっち!』
045に手を引かれ、024は走った。
裸足の足が床を叩くたび、遠くで爆発音が響く。
怖い。
何が起きているのか分からない。
それでも、045の手だけは離さなかった。
「045、どこ行くの……!?」
『外!』
024の足が一瞬止まりかけた。
「……外?」
『今なら出られるかもしれない!』
外。
その言葉だけは、024にとって特別だった。
一度も見たことのない場所。
けれど、何度も夢に見た場所。
045が、たくさん教えてくれた世界。
空は、どこまでも続いている。
風が吹けば木々が揺れて、葉っぱ同士が擦れる音がする。
春には花が咲く。
雨というものが空から降ってくる。
海は青くて、向こう側が見えないくらい大きくて――壁がない。
夕方になれば空が赤く染まり、夜には星が瞬く。
全部、045が教えてくれた。
実験を終えて眠れなかった夜。
ベッドを並べて、何度も聞かせてもらった。
045自身が少しずつ忘れていくたび、今度は024が教え返した。
──海は青いんだよ。
──向こう側が見えないくらい大きいの。
──045が教えてくれたんだよ。
だから024は、外を知らない。
知らないのに。
誰よりも、外に憧れていた。
『024!』
045の声で我に返った。
廊下の突き当たり。
そこには、大きな窓があった。
いつも見ていた景色が広がっている。
青い空。
白い雲。
遠くには緑の森。
何度も二人で眺めた景色。
そしていつか、この窓の向こう側に立とうと約束した景色だった。
『ここから出よう!』
045が床に落ちていた金属片を拾い上げる。
『下がって!』
024が数歩後ろへ下がった。
045は金属片を両手で握ると、力いっぱい窓へ叩きつけた。
ガンッ!!
鈍い音が響いた。
「……え?」
二人とも動きを止める。
ガラスが砕ける音ではなかった。
045がもう一度、叩きつける。
ガンッ!
その瞬間だった。
青空に、一本の奇妙な線が走った。
「……なに?」
024が一歩近づく。
空が、歪んでいた。
白い雲が四角く崩れ、遠くに見えていた森の一部が細かな粒になって消えていく。
そして。
プツン。
すべてが消えた。
そこに残ったのは───
真っ黒な板だった。
「…………」
024には理解できなかった。
ついさっきまで、そこには空があった。
森があった。
雲が流れていた。
なのに今は、何もない。
045が震える手で、その表面に触れた。
硬い。
冷たい。
『……窓じゃ、ない』
024が045を見る。
「え……?」
『これ……窓じゃない』
045の声が震えていた。
そのとき、画面が一瞬明滅した。
再び、青空が現れる。
何事もなかったかのように、白い雲がゆっくりと流れていた。
024は恐る恐る手を伸ばした。
指先が、青空に触れる。
冷たい。
風なんて吹いてこない。
雲は動いているのに。
何も感じない。
「……じゃあ」
024が呟いた。
「この空……なに?」
045は答えなかった。
「森は?」
返事はない。
「夜に見てた星も……?」
024の声が震えた。
「夕焼けも……?」
毎日見ていた。
実験が怖かった日も。
痛くて眠れなかった夜も。
045と二人で、この窓を見上げていた。
いつか本物を見ようと話していた。
そのたびに024は思っていた。
この窓の向こうに、045が話してくれた世界があるのだと。
「……嘘だったの?」
ぽつりと零れた。
「わたしたち……ずっと、偽物を見てたの?」
024の目から涙が落ちる。
「じゃあ……」
小さな指が、偽物の空に触れた。
「045が教えてくれた空も……海も……」
『024』
「お花も、街も……全部──」
『違う』
強い声だった。
024が振り返る。
045は、泣いていた。
それでも024の手を強く握った。
『違うよ』
「でも……」
『ある』
「……どうして?」
『見たことがあるから』
024の目が大きく見開かれた。
045は目元を乱暴に拭った。
『いっぱい忘れちゃったけど……まだ覚えてる』
途切れ途切れに、言葉を探す。
『風って、本当に冷たいんだよ』
024は黙って聞いていた。
『雨に濡れたら服が重くなるし、土はぐちゃぐちゃになる』
「…………」
『花だって……たぶん、ここで見せられた写真より、もっといっぱい色があった』
そして少しだけ笑った。
『海も、本当にある』
「……青い?」
045は一瞬だけ黙った。
もう、色までははっきりと思い出せなかった。
すると024が言った。
「青だよ」
045が024を見る。
「045が教えてくれたもん」
『……そっか』
「向こう側が見えないくらい大きくて、壁がないんでしょ?」
『うん』
今度は045が、しっかり頷いた。
『あるよ。絶対に』
そして二人は、偽物の空を見上げた。
『ここにあるのが偽物なら』
045が024の手を握り直す。
『本物を探しに行こう』
「……本物の空?」
『うん』
轟音が響いた。
天井が大きく揺れ、白い粉が降り注ぐ。
《侵入個体、第三研究区画へ到達!》
《被験体を――》
館内放送が途中で途切れた。
045が走り出す。
『行こう、024!』
024も走った。
数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
偽物の青空は、何事もなかったかのようにそこにあった。
「045!」
『なに!?』
「約束、覚えてる!?」
走りながら045が振り返った。
『覚えてるよ!』
──もし誰か一人だけ外へ出られたら。
「『皆の分まで生きる!』」
二人の声が重なる。
それでも。
「でも、二人で出よう!」
024が叫んだ。
045が笑った。
『うん!』
二人は手を繋いだまま、偽物の空に背を向けた。
本物の空を見るために。
耳をつんざくような音が、白い廊下を駆け抜ける。
赤い非常灯が明滅し、壁も床も、見慣れたはずの部屋さえも不気味な赤に染め上げていた。
遠くから、研究員たちの怒鳴り声が聞こえる。
「侵入者だ!!」
「なんだ、あの化け物は……!?」
「被験体を収容しろ! 研究区画を封鎖しろ!」
「撃ってくるぞ! 伏せろ!!」
その向こうから響いてくるのは、人間のものではない甲高い笑い声。
024はベッドの上で毛布を握りしめていた。
何が起きているのか分からない。
ただ──いつもと違う。
いつも自分たちを無表情に見下ろしていた研究員たちが、怯えている。
その事実だけで、どうしようもなく怖かった。
『024!』
勢いよく扉が開いた。
飛び込んできたのは045だった。
「045……?」
『逃げるよ!』
駆け寄ってきた045が、024の手首を掴む。
「でも、部屋から出ちゃ駄目って……」
『そんなこと言ってる場合じゃない!』
強く手を引かれ、024は裸足のまま廊下へ飛び出した。
そこにはもう、見慣れた白の教会の面影はなかった。
壁には大きな亀裂が走り、床には割れた培養槽から流れ出した液体が広がっている。
白衣を血で汚した研究員が二人の横を駆け抜けていった。
誰も、024たちを止めない。
『こっち!』
045に手を引かれ、024は走った。
裸足の足が床を叩くたび、遠くで爆発音が響く。
怖い。
何が起きているのか分からない。
それでも、045の手だけは離さなかった。
「045、どこ行くの……!?」
『外!』
024の足が一瞬止まりかけた。
「……外?」
『今なら出られるかもしれない!』
外。
その言葉だけは、024にとって特別だった。
一度も見たことのない場所。
けれど、何度も夢に見た場所。
045が、たくさん教えてくれた世界。
空は、どこまでも続いている。
風が吹けば木々が揺れて、葉っぱ同士が擦れる音がする。
春には花が咲く。
雨というものが空から降ってくる。
海は青くて、向こう側が見えないくらい大きくて――壁がない。
夕方になれば空が赤く染まり、夜には星が瞬く。
全部、045が教えてくれた。
実験を終えて眠れなかった夜。
ベッドを並べて、何度も聞かせてもらった。
045自身が少しずつ忘れていくたび、今度は024が教え返した。
──海は青いんだよ。
──向こう側が見えないくらい大きいの。
──045が教えてくれたんだよ。
だから024は、外を知らない。
知らないのに。
誰よりも、外に憧れていた。
『024!』
045の声で我に返った。
廊下の突き当たり。
そこには、大きな窓があった。
いつも見ていた景色が広がっている。
青い空。
白い雲。
遠くには緑の森。
何度も二人で眺めた景色。
そしていつか、この窓の向こう側に立とうと約束した景色だった。
『ここから出よう!』
045が床に落ちていた金属片を拾い上げる。
『下がって!』
024が数歩後ろへ下がった。
045は金属片を両手で握ると、力いっぱい窓へ叩きつけた。
ガンッ!!
鈍い音が響いた。
「……え?」
二人とも動きを止める。
ガラスが砕ける音ではなかった。
045がもう一度、叩きつける。
ガンッ!
その瞬間だった。
青空に、一本の奇妙な線が走った。
「……なに?」
024が一歩近づく。
空が、歪んでいた。
白い雲が四角く崩れ、遠くに見えていた森の一部が細かな粒になって消えていく。
そして。
プツン。
すべてが消えた。
そこに残ったのは───
真っ黒な板だった。
「…………」
024には理解できなかった。
ついさっきまで、そこには空があった。
森があった。
雲が流れていた。
なのに今は、何もない。
045が震える手で、その表面に触れた。
硬い。
冷たい。
『……窓じゃ、ない』
024が045を見る。
「え……?」
『これ……窓じゃない』
045の声が震えていた。
そのとき、画面が一瞬明滅した。
再び、青空が現れる。
何事もなかったかのように、白い雲がゆっくりと流れていた。
024は恐る恐る手を伸ばした。
指先が、青空に触れる。
冷たい。
風なんて吹いてこない。
雲は動いているのに。
何も感じない。
「……じゃあ」
024が呟いた。
「この空……なに?」
045は答えなかった。
「森は?」
返事はない。
「夜に見てた星も……?」
024の声が震えた。
「夕焼けも……?」
毎日見ていた。
実験が怖かった日も。
痛くて眠れなかった夜も。
045と二人で、この窓を見上げていた。
いつか本物を見ようと話していた。
そのたびに024は思っていた。
この窓の向こうに、045が話してくれた世界があるのだと。
「……嘘だったの?」
ぽつりと零れた。
「わたしたち……ずっと、偽物を見てたの?」
024の目から涙が落ちる。
「じゃあ……」
小さな指が、偽物の空に触れた。
「045が教えてくれた空も……海も……」
『024』
「お花も、街も……全部──」
『違う』
強い声だった。
024が振り返る。
045は、泣いていた。
それでも024の手を強く握った。
『違うよ』
「でも……」
『ある』
「……どうして?」
『見たことがあるから』
024の目が大きく見開かれた。
045は目元を乱暴に拭った。
『いっぱい忘れちゃったけど……まだ覚えてる』
途切れ途切れに、言葉を探す。
『風って、本当に冷たいんだよ』
024は黙って聞いていた。
『雨に濡れたら服が重くなるし、土はぐちゃぐちゃになる』
「…………」
『花だって……たぶん、ここで見せられた写真より、もっといっぱい色があった』
そして少しだけ笑った。
『海も、本当にある』
「……青い?」
045は一瞬だけ黙った。
もう、色までははっきりと思い出せなかった。
すると024が言った。
「青だよ」
045が024を見る。
「045が教えてくれたもん」
『……そっか』
「向こう側が見えないくらい大きくて、壁がないんでしょ?」
『うん』
今度は045が、しっかり頷いた。
『あるよ。絶対に』
そして二人は、偽物の空を見上げた。
『ここにあるのが偽物なら』
045が024の手を握り直す。
『本物を探しに行こう』
「……本物の空?」
『うん』
轟音が響いた。
天井が大きく揺れ、白い粉が降り注ぐ。
《侵入個体、第三研究区画へ到達!》
《被験体を――》
館内放送が途中で途切れた。
045が走り出す。
『行こう、024!』
024も走った。
数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
偽物の青空は、何事もなかったかのようにそこにあった。
「045!」
『なに!?』
「約束、覚えてる!?」
走りながら045が振り返った。
『覚えてるよ!』
──もし誰か一人だけ外へ出られたら。
「『皆の分まで生きる!』」
二人の声が重なる。
それでも。
「でも、二人で出よう!」
024が叫んだ。
045が笑った。
『うん!』
二人は手を繋いだまま、偽物の空に背を向けた。
本物の空を見るために。