Ⅱ 目覚め
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どれほど歩いただろう。
時間の感覚はなかった。
何度も木の根につまずいた。
何度も立ち止まった。
喉が渇いている。
身体も限界だった。
それでも歩いた。
──そのときだった。
「…………?」
足を止める。
何かが聞こえる。
風の音ではない。
鳥でもない。
「……歌……?」
誰かが歌っている。
遠くから。
とても美しい声だった。
言葉は聞き取れない。
そもそも、人の言葉なのかすら分からない。
それなのに。
なぜか、分かるような気がした。
──おいで。
そう呼ばれているような気がした。
「……誰……?」
返事はない。
ただ歌だけが続いている。
私は、その声に導かれるように歩き出した。
不思議と身体の痛みさえ忘れていた。
もっと聞きたい。
あの声の主に会いたい。
理由なんて分からない。
ただ。
行かなければならない。
そんな気がした。
木々をかき分ける。
そして──。
森が途切れた。
「…………」
思わず息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、大きな湖だった。
どこまでも澄み切った水。
波ひとつない湖面は鏡のようで、空も森も、そのまま閉じ込めている。
そして。
歌は──湖の中心から聞こえていた。
「……そこに、いるの……?」
一歩。
湖へ近づく。
水面に自分の姿が映った。
金色の髪。
緑色の瞳。
傷だらけの知らない少女。
これが自分なのだと理解するまで、少し時間がかかった。
けれど今は、それすらどうでもよかった。
歌が聞こえる。
私は靴のまま水へ足を踏み入れた。
冷たい。
それなのに足は止まらない。
一歩。
また一歩。
水が足首を覆う。
膝まで上がる。
腰まで沈む。
普通なら怖いはずなのに。
何も感じなかった。
ただ歌だけを追いかける。
やがて──。
歌が止んだ。
「…………?」
静まり返った湖。
その中心で。
水面が、ゆっくりと盛り上がった。
水が人の輪郭を作っていく。
頭。
肩。
腕。
長い髪のように流れ落ちる水。
それは、人の姿をしていた。
けれど、人ではない。
透き通った身体の向こう側に、湖が見える。
水でできた精霊。
そうとしか表現できない存在だった。
「……あなたが……歌ってたの?」
水の精は答えない。
ただ静かに、私を見つめている。
怖くなかった。
むしろ。
ずっと昔から、この存在を知っていたような。
そんな奇妙な感覚があった。
私は手を伸ばした。
けれど、指先が触れるより先に。
精霊の身体が崩れた。
「……!」
ぱしゃん、と水へ戻るのではなかった。
人の輪郭だけが静かにほどけていく。
腕が。
髪が。
顔が。
すべてが透明な水へと変わり、一点へ集まっていく。
やがて私の目の前に残ったのは──。
ひとつの球体だった。
透き通った、水の球。
それは宙に浮かび、静かに揺れている。
「…………」
なぜなのか。
私は、それが何なのか知らない。
なのに。
身体は知っていた。
口を開く。
水の球が、ゆっくりと近づいてくる。
そして。
私は──それを飲み込んだ。
次の瞬間。
「──っ……!!」
喉を内側から引き裂かれた。
そう思った。
声すら出なかった。
私は喉を押さえ、その場に崩れ落ちる。
「ぁ……っ……!」
熱い。
痛い。
何かが身体の中を暴れ回っている。
喉の奥からせり上がってきたものを吐き出す。
真っ赤な血だった。
「げほっ……!」
水面へ血が散る。
口元から血が溢れる。
それだけではない。
首筋が裂けた。
細い傷が走り、そこから鮮血が流れ出していく。
「ぁ……っ、う……!」
痛い。
苦しい。
息ができない。
両手で首を押さえる。
そのとき。
異変に気づいた。
血が──落ちない。
首筋から流れた血が、重力に逆らって動いている。
まるで意思を持っているように。
赤い血が私の首へ絡みついていく。
「なに……これ……」
血は少しずつ黒ずみながら凝固していく。
細く。
首を一周するように。
そして、その中央へ。
血とは違う、深い赤色の光が集まっていく。
小さな光は徐々に形を持ち、一つの縦長の宝石へと変わった。
やがて。
痛みが止まった。
「……はぁ……っ……はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、恐る恐る首へ触れる。
そこに血はなかった。
代わりに。
細い、赤黒いチョーカーがあった。
「…………」
触れた瞬間。
──ドクン。
心臓が大きく脈打った。
それと同時に。
チョーカーもまた、脈打ったような気がした。
その瞬間、理解した。
言葉を教えられたわけではない。
誰かに説明されたわけでもない。
それでも。
これは、自分の一部になったのだと。
そして──。
あの水の精は消えたのではない。
今ここにいる。
私の中に。
このチョーカーとして。
「……私を……選んだの……?」
湖は何も答えない。
再び静けさを取り戻した水面に、私だけが映っている。
けれど。
ほんの一瞬。
どこからか、あの歌が聞こえた気がした。
そのときだった。
身体の奥から、じんわりと温かいものが広がっていく。
「……え……?」
喉から胸へ。
胸から腹へ。
そして、腕へ、脚へ。
優しい熱が全身を巡っていく。
ずっと身体を支配していた痛みが、少しずつ遠ざかっていく。
瓦礫で切り裂かれていた腕の傷が塞がっていく。
血で汚れていた脚の傷も。
身体中に残っていた痣も。
ひとつ、またひとつと消えていく。
私は呆然と自分の腕を見つめた。
「……傷が……」
消えている。
それだけではなかった。
目を覚ましたときからずっと感じていた、身体の重さ。
立っているだけで膝が震えるほどの疲労。
空っぽになっていた身体の奥に、少しずつ力が戻ってくる。
深く息を吸う。
苦しくない。
もう、胸も痛まない。
試すように拳を握る。
指先まで、ちゃんと力が入る。
まるで──。
この身体そのものを、作り直されたみたいだった。
私は首元のチョーカーを見る。
「……あなたが……?」
答えはない。
けれど、中央の宝石が一瞬だけ淡く光った。
その光を見た瞬間。
なぜか胸の奥が温かくなった。
「…………」
私は首元のチョーカーを握った。
自分が誰なのかは、まだ分からない。
024という数字の意味も。
頭の中に一瞬だけ浮かんだ、誰かの姿も。
何も思い出せない。
名前さえない。
それでも。
この世界で初めて。
何かが私を選んだ。
私はゆっくりと湖から上がった。
振り返る。
鏡のような湖には、もう何もいない。
「……ありがとう」
なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
私は再び森へ向かって歩き始める。
首には、赤黒いチョーカー。
身体の内側には、あの水の精。
どこへ行けばいいのか分からない。
ここがどこなのかも分からない。
自分の名前すら知らない。
それでも。
今度は歩ける。
私は一歩を踏み出した。
そしてもう一歩。
やがて森を抜け──。
人の行き交う街道へと辿り着くまで。
私は、自分の足で歩き続けた。
時間の感覚はなかった。
何度も木の根につまずいた。
何度も立ち止まった。
喉が渇いている。
身体も限界だった。
それでも歩いた。
──そのときだった。
「…………?」
足を止める。
何かが聞こえる。
風の音ではない。
鳥でもない。
「……歌……?」
誰かが歌っている。
遠くから。
とても美しい声だった。
言葉は聞き取れない。
そもそも、人の言葉なのかすら分からない。
それなのに。
なぜか、分かるような気がした。
──おいで。
そう呼ばれているような気がした。
「……誰……?」
返事はない。
ただ歌だけが続いている。
私は、その声に導かれるように歩き出した。
不思議と身体の痛みさえ忘れていた。
もっと聞きたい。
あの声の主に会いたい。
理由なんて分からない。
ただ。
行かなければならない。
そんな気がした。
木々をかき分ける。
そして──。
森が途切れた。
「…………」
思わず息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、大きな湖だった。
どこまでも澄み切った水。
波ひとつない湖面は鏡のようで、空も森も、そのまま閉じ込めている。
そして。
歌は──湖の中心から聞こえていた。
「……そこに、いるの……?」
一歩。
湖へ近づく。
水面に自分の姿が映った。
金色の髪。
緑色の瞳。
傷だらけの知らない少女。
これが自分なのだと理解するまで、少し時間がかかった。
けれど今は、それすらどうでもよかった。
歌が聞こえる。
私は靴のまま水へ足を踏み入れた。
冷たい。
それなのに足は止まらない。
一歩。
また一歩。
水が足首を覆う。
膝まで上がる。
腰まで沈む。
普通なら怖いはずなのに。
何も感じなかった。
ただ歌だけを追いかける。
やがて──。
歌が止んだ。
「…………?」
静まり返った湖。
その中心で。
水面が、ゆっくりと盛り上がった。
水が人の輪郭を作っていく。
頭。
肩。
腕。
長い髪のように流れ落ちる水。
それは、人の姿をしていた。
けれど、人ではない。
透き通った身体の向こう側に、湖が見える。
水でできた精霊。
そうとしか表現できない存在だった。
「……あなたが……歌ってたの?」
水の精は答えない。
ただ静かに、私を見つめている。
怖くなかった。
むしろ。
ずっと昔から、この存在を知っていたような。
そんな奇妙な感覚があった。
私は手を伸ばした。
けれど、指先が触れるより先に。
精霊の身体が崩れた。
「……!」
ぱしゃん、と水へ戻るのではなかった。
人の輪郭だけが静かにほどけていく。
腕が。
髪が。
顔が。
すべてが透明な水へと変わり、一点へ集まっていく。
やがて私の目の前に残ったのは──。
ひとつの球体だった。
透き通った、水の球。
それは宙に浮かび、静かに揺れている。
「…………」
なぜなのか。
私は、それが何なのか知らない。
なのに。
身体は知っていた。
口を開く。
水の球が、ゆっくりと近づいてくる。
そして。
私は──それを飲み込んだ。
次の瞬間。
「──っ……!!」
喉を内側から引き裂かれた。
そう思った。
声すら出なかった。
私は喉を押さえ、その場に崩れ落ちる。
「ぁ……っ……!」
熱い。
痛い。
何かが身体の中を暴れ回っている。
喉の奥からせり上がってきたものを吐き出す。
真っ赤な血だった。
「げほっ……!」
水面へ血が散る。
口元から血が溢れる。
それだけではない。
首筋が裂けた。
細い傷が走り、そこから鮮血が流れ出していく。
「ぁ……っ、う……!」
痛い。
苦しい。
息ができない。
両手で首を押さえる。
そのとき。
異変に気づいた。
血が──落ちない。
首筋から流れた血が、重力に逆らって動いている。
まるで意思を持っているように。
赤い血が私の首へ絡みついていく。
「なに……これ……」
血は少しずつ黒ずみながら凝固していく。
細く。
首を一周するように。
そして、その中央へ。
血とは違う、深い赤色の光が集まっていく。
小さな光は徐々に形を持ち、一つの縦長の宝石へと変わった。
やがて。
痛みが止まった。
「……はぁ……っ……はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、恐る恐る首へ触れる。
そこに血はなかった。
代わりに。
細い、赤黒いチョーカーがあった。
「…………」
触れた瞬間。
──ドクン。
心臓が大きく脈打った。
それと同時に。
チョーカーもまた、脈打ったような気がした。
その瞬間、理解した。
言葉を教えられたわけではない。
誰かに説明されたわけでもない。
それでも。
これは、自分の一部になったのだと。
そして──。
あの水の精は消えたのではない。
今ここにいる。
私の中に。
このチョーカーとして。
「……私を……選んだの……?」
湖は何も答えない。
再び静けさを取り戻した水面に、私だけが映っている。
けれど。
ほんの一瞬。
どこからか、あの歌が聞こえた気がした。
そのときだった。
身体の奥から、じんわりと温かいものが広がっていく。
「……え……?」
喉から胸へ。
胸から腹へ。
そして、腕へ、脚へ。
優しい熱が全身を巡っていく。
ずっと身体を支配していた痛みが、少しずつ遠ざかっていく。
瓦礫で切り裂かれていた腕の傷が塞がっていく。
血で汚れていた脚の傷も。
身体中に残っていた痣も。
ひとつ、またひとつと消えていく。
私は呆然と自分の腕を見つめた。
「……傷が……」
消えている。
それだけではなかった。
目を覚ましたときからずっと感じていた、身体の重さ。
立っているだけで膝が震えるほどの疲労。
空っぽになっていた身体の奥に、少しずつ力が戻ってくる。
深く息を吸う。
苦しくない。
もう、胸も痛まない。
試すように拳を握る。
指先まで、ちゃんと力が入る。
まるで──。
この身体そのものを、作り直されたみたいだった。
私は首元のチョーカーを見る。
「……あなたが……?」
答えはない。
けれど、中央の宝石が一瞬だけ淡く光った。
その光を見た瞬間。
なぜか胸の奥が温かくなった。
「…………」
私は首元のチョーカーを握った。
自分が誰なのかは、まだ分からない。
024という数字の意味も。
頭の中に一瞬だけ浮かんだ、誰かの姿も。
何も思い出せない。
名前さえない。
それでも。
この世界で初めて。
何かが私を選んだ。
私はゆっくりと湖から上がった。
振り返る。
鏡のような湖には、もう何もいない。
「……ありがとう」
なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
私は再び森へ向かって歩き始める。
首には、赤黒いチョーカー。
身体の内側には、あの水の精。
どこへ行けばいいのか分からない。
ここがどこなのかも分からない。
自分の名前すら知らない。
それでも。
今度は歩ける。
私は一歩を踏み出した。
そしてもう一歩。
やがて森を抜け──。
人の行き交う街道へと辿り着くまで。
私は、自分の足で歩き続けた。