順不同御礼掌編三編

スイッチ(趙馬)

 血肉の香りを運ぶ風が、髪を揺らした。
 激戦の末、蜀軍の旗はこの地に掲げられ、足元には兵と兵であった何かが無造作に転がっている。敵と味方の境は、そこにない。地に伏して漸くそんな平和が叶うのに、なんだか可笑しくなってしまう。視線を滑らせた先、食い出るように鮮やかな旗は立っていた。麾下たちに囲まれた錦の将は槍を掲げて声を張り上げる。
「この勝利こそ、正義の証っ」
 場の空気が熱くなった。戦を終えた後の徒労感が勝利の高揚へと形を変えていく。張ってはないがよく通る声は麾下たちを労り、然し気は抜かぬようにと言い添えた男はそのまま幕舎へと引いていった。麾下たちは戦の跡片付けと武具の手入れを始めその塊を解いた。
 一人でいたいのだろうとは、分かる。戦のあとには様々な人がある。人を殺してその罪悪感に苛まれるもの、ただただ勝利の高揚に酔いしれるもの、誰かとそれを共有したいもの、一人でそれを噛み締めたいもの、落ち着きたいもの。男はどれとも言えなかった。戦の後に残るのは、えぐられたような、失ったような、虚無感。戦を終えると、男はそういう何かに身を投げ出しているようだった。役目を終えた獣が静かに目を閉じるように。役目など、もう無いと言うように。
 でもそれは所詮男の自認だ。
「馬将軍。この度の働き、流石のものだった」
 断りも入れず幕舎へ踏み込み、武装を解かんとしていた男はひとつ眉をあげた。それでから楽しそうに笑ってみせて、少し上擦った声を出す。
「これは、趙将軍。俺の信ずる正義の、」
「そう身構えないで下さい」
 見ていられない。言えば、僅かに目が細められた。嬉しいという顔ではない。敢えて言葉にするのであればなんだろうか。苦しいというのが一番合うような気がする。それでも、それも一瞬だった。直ぐに金の瞳は伏せられ口角は皮肉気に上げられる。錦を下ろした、垣間見るのも難しい普段の男。
「事後処理の類なら少し待っていただけないか」
「そうじゃなく。少し相談したいことがあるのですが」
 漸く警戒を解いたように、中途半端に手にあった鎧を床に置いて男は座った。目線で示された方へ趙雲も座って、話を始めた。相談というのは馬のことだ。最近愛馬の調子が悪く、かといって診てくれる人もいない。まだある程度は大丈夫だったが今日で大分調子が落ちたのをどうしようということだ。
 西涼では姜族の者は特に馬に親しむと聞く。人馬一体と名高いこの将もその辺りは医者に任せきりということは無いだろうと踏んだのだ。
「症状が詳しくわからん限りはな。あとで見せては頂けぬか?」
「勿論。馬将軍はそのようなことも分かるのですね」
「医者ではないからその程度だ。期待はなさらぬ方がよろしい」
 報告書がある、と遠回しな追い返し。ありがとうございましたと礼をして幕舎をあとにすると麾下が走り寄ってきた。軍には入ったばかりだが筋がいい。今日の戦も古参の趙雲麾下に揉まれながら必死に食らいついてきた。自分も相当気にっているのだろう。
 不意に、やめておけと首を振った将の顔が脳裏を過ぎった。確かあれは野良の猫に餌をやろうとしていたときだ。趙雲は振り払うようにいくつか瞬きして、青年が告げた軍師の呼出しへ足を早めた。

「これは、ここだな」
 胡服のみの簡単な出で立ちで馬の名を冠する男は趙雲の愛馬の脚を優しく撫でた。覗き込んでも、何が駄目なのか趙雲には分からなかった。そうするのを見ながら男は腫れては無いから分かりにくいが、と言った。諦めて撫でた愛馬の顔は、先程よりは幾分か良くなったように見えた。勿論何の処置を施したわけでもないのだが、手当とも言う。男の手つきにはそういう説得力もあった。
 脚は冷やしておけばいいらしい。話を聞きながら何をするでもなくただ馬を撫でていた。馬のことになると、男は口数が少し増える。皮肉や自嘲とは違った、笑顔を見せる。気づいて、何とも言え無い気持ちになった。
 いいな、と言うのは流石に童のようだろうから。

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