after the ball

 まさか、こうなるとは。
 空港のベンチに座り込んで趙雲は荷物を見下ろしていた。ホテルのチェックアウトの日付を間違えていたことに気が付いたのが今日の朝。かといって航空券を取り直すわけにもいかずホテルを取り直すには時期が悪かった。出張最終日に、何とも運がない。というか間抜けな。

 溜息と共につくのはある種の諦めだ。ささやかな振動を起こすスマートフォンの、その液晶を隠すカバーを開く。そこに表示されるのは彼女の名前。ジューン・ブライドの友人代表だった彼女と知り合ってから付き合うまで、お互い初心でもないからそう時間はかからなかった。垂れ目がちの大人っぽい目元も、腰まで伸ばされた栗色の髪も、どこをとっても最高の彼女だと思う。
 それでも感じるのは紛れもない飽きだ。元からそういう性格なのは自認済み。好きと言い寄られてはいい気になって応える癖に、寄りかかられれば重いと押しのけたくなってしまう。俺だってそんな俺は嫌だけど、変えられるものでもない。こうしていつ帰るのと甘えてくるメールもダストボックスへ投げ込みたくて仕方がなかった。さすがにそういうわけにはいかず(彼女は同僚でもあるのだ)明日帰るよ、と一言。冷たかったかなと思い直して相手の予定を確かめる旨の文字列を打ち込む。たったそれだけのことなのに、途方もない疲労感が襲ってきた。

 なんとなくそのまま座っていることに嫌気がさしたのは多分単なるきっかけに過ぎない。最終便まではまだ時間があるはずと、適当なロッカーに荷物を放り込みラウンジへ向かう。仕事柄、カードは持っていた。エレベーターで上階へ、見慣れてすらいる入り口を抜けて夜の静けさにのまれたラウンジへ入る。床から天井までをのびる磨ききられた硝子の向こうには出発を前に薄ぼんやりと光る飛行機がいた。ちかちかと赤は光り、重鈍な鉄の塊が地を滑り出す。
 いつまでもそう突っ立っていても仕方がない。空いている席はと見回そうとも誰もいなかった。寝る気にもなれないし、珈琲でも一杯。そう思って飲食スペースへ足を進める。入り口付近のずらりと並ぶソファとは別の、曲がり角の先。しかしそこには先客がいた。ローテーブルの前、革のソファへ腰かけるのは妙に気を惹く男だった。
 ナチュラルブロンドに清潔そうな白のシャツ。ダークグレイのジレーの下に伸びる厭味なほどに長い脚は、同じ色のトラウザーズが包んでいる。そして異国めいた造作とぴったりな金眼はぼんやりと机を見下ろしていた。釣られるように視線を追えば、そこには白い紙箱がある。菓子や、ケーキを入れるようなそれ。

「どうかしましたか」

 静かな、低い声。慌てて顔を上げると、男は足を組みなおして此方を向いていた。その瞳は、照明を反射しながらもどこか虚ろだ。見ていたことに、気づかれただろうかと今更な後ろめたさが過る。怒った様子はない。ただ、訝しむような。
 趙雲は答えられずに男の前のソファに腰かけた。それでから、あ、と気が付く。

「相席、失礼します」

 浮かんだのは明らかな困惑の表情。男はちらと視線を余所にやってから、背もたれへ身を沈めた。
 これは、了承ということでよいのだろうか。こちらに尋ねたきり口を閉ざした男の目には無人の滑走路が映っている。確かめれば、きっと他へ移ってしまう。綱渡りのような緊張感が背を這った。
 ラウンジスタッフに頼んだ珈琲はキリマンジャロブレンド。男の手元にも珈琲はあったが、とうに冷めてしまったようだ。冷えた水面が男の呼吸に合わせて揺らいでいた。そのまま何も言わず眺めていると、根負けしたように男はこちらを向いた。

「どうしてまた、こんな時間に」

 問いながら、男は嗤っていた。無論趙雲の間抜けな失態を、男が知っているわけはない。だからきっと、笑っているのは己なのだろう。それは強引に相席に持ち込んだ相手へ話しかけることに対してか、それとも。

「ホテルを取り損ねたんです」

 探るように見る。男は呟くように、そうですかと言うだけだった。つまらない答え、だったのだろうな。そう思ったから、そのままの調子で普段は何をと問うてくるのに少し驚く。

「営業ですね。今回は、出張です」
「それは、災難で」
「本当に。次からは気を付けないと」
「で、まだ時間はあると」

 え、と聞き返そうとすると丁度スタッフがやってきた。湯気が立ったカップをどうもと受け取り一度啜る。

「まあ、あります」

 此方がカップを置くと、男は卓上の白い紙箱を開けた。ずる、と引きずり出されたトレーにはバームクーヘンがホールで一つ。スーツに、バウム・クーヘン。好きな子だったのかな、と邪推してしまう。言ったらどうなるか、わからない程馬鹿じゃない俺は口を噤んだ。男は付属の使い捨てナイフを取り出して一切れ切り出す。スタッフに持ってこさせたのか、白い皿にそれとフォークをつけて差し出してきた。

「好きな女、ではあったかもしれない。でもそれだけです」

 数拍遅れて、気づく。まさか声に出しただろうかと視線を泳がせると、それを察したか男は軽く鼻を鳴らす。口に出ていたわけでは。そう言いってもう一切れを切り分けていた。
 居た堪れなくなってフォークを手に取る。一口分を分けて食べてみると、流石は引き出しものといったところだ。繊細な甘みはただ砂糖を入れただけの胃もたれするそれとは違い単体でも十分に美味しい。食べ進めて、珈琲を含めばそれもあった。男の皿に、手はついていない。
 もし、バウム・クーヘンが無くなったら。きっと男は去るのだろう。そうでなくとも最終便が飛び立ったその時には。ラウンジは閉じられこの奇妙な時間は終了の鐘を鳴らされる。それが、そのことが趙雲を『らしく』なくさせた。

「どうせ今日だけなんです。こう、普通に話さない?」

 きょとんとしてから、男は吹き出すように笑う。いいだろう。言葉と同時に銀のフォークが砂糖の年輪を突き刺した。

 §

 話していてわかったのは、今日あったらしい結婚式が男の元許嫁のものだったこと。あとは高校時代はテニスをやっていたこととか、ツーリングが趣味なこととか。大型バイクの免許なら俺も持ってるよ。そんな無難な安全球には縦断旅行でも行くかと大胆な返球。勿論すぐに冗談だとは分かった。だってここだけと言ったのは自分。なのに一瞬言葉に詰まって、妙な間の後出たのは今の彼女にフラれたらね、なんて戯言だ。傷心旅行かと返すなら、彼の心の在処は明々白々だけど。そんなことくらいは俺もわかってる。
 現に今も、男はもう二切れしか残っていないバウム・クーヘンを見ている。

「じき、か」

 時期、それとも磁気だろうか。意味のない思考を通して『すぐ』と理解するのに時間はかからなかった。わざと目をそらしていた腕時計を見ればわかる。あと三十分がいいところか。じき。そう零す掠れ声に寂しさを見たのはただの期待だ。

「ねえ、本当にツーリング行ってみない?」
「お前そういう趣味あったのか」

 本気で厭そうなしかめ面。君が噛んでるのはとんでもなく甘い菓子なはずだけど。投げやりにぼす、とソファーに頭まで沈めると眠気に襲われた。この後ロビーのあの硬いベンチに身を預けるのかと思うと嫌気がさす。

「違うって。君どうせ正月帰んないんでしょ」

 それも違う。確かに男はきっと帰らない。でも一人になるのが嫌なのは自分だ。
 男はそうだなと言うだけ。残ったバウム・クーヘンはもう全部が皿の上。いつの間にか振り出した霧雨の音すら聞こえる気がする。二杯目の珈琲は口を温もらせ、男の手はフォークでか細い金属音を鳴らしている。きっともうあの口が紡ぐのは上っ面の感謝と社交の挨拶だけだろう。どうせ萎む風船の紐を、いつまでも握り続ける理由なんてない。
 でも、ハロウィーンの夜握った風船というのはひどく手放し難いものだ。


「名前、教えてよ」


 躊躇いと、高揚。微かに歪んで、その唇は引き結ばれた。
 気だるげに立ち上がった男は箱を潰し、袋で包んで鞄へ突っ込んでいく。翻ってジャケットを羽織り、スタッフに目礼をして。男は振り返らない。見えたのは、今日一番の楽しげな横顔。
 ほうけて下したフォークは何の手応えもなくかつん、と音を立てた。立ち去るその瞬間、その口がなぞった名前。

「馬超、か」

 なるほど腑に落ちた。一目見た時感じた、ある種のデジャヴ。
 あれはまだ父が生きていたころだ。手を引かれやってきた競馬場で見た、美しい白毛の馬。名前も知らないあの馬は幼かった自分の視線を搔っ攫い、見事に走り抜けていった。今も、そうだ。
 男の前で思い出さずいて、よかったと思う。もしこの顔まで見られたら、今度こそ怒られていただろう。
 職業も出身も、何も知らない。でもまた会う予感は確かにあって。
 誰もいなくなったラウンジで、にやける顔は隠せなかった。

fin.

あとがき
 初対面の時の口調無理みざわ~~~~などと思いながら書いた記念すべき初回。遅筆過ぎて一か月くらいかかったことは言いっこなしです。その割に三千字とかなのも言いっこなしです。
 兎にも角にもこれが二人のプロローグということで。お粗末様でした。
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