小話詰め合わせ
池のほとりに座り込んだ趙雲は秋風に当たっていた。
周りには誰もいない昼下がり、執務から抜け出してきたのだ。池の表面に映り込む鳥をぼんやりと眺めながら鎧を磨いている様は、彼の部下が見れば目を疑う光景だろう。別に具合が悪いわけでもないのに、ふと執務が嫌になってしまった事には趙雲もまた驚いている。どうしてなのかは解らないけれど、あの場所に居たくなかった。そう思ってしまえば、ある程度仕事を片付けた後には古参である自分程度しか知らないこの場所に来ていた。
静かだ。本当に静かで、彼等と出会うよりもずっと前の、常山を出てきたばかりに帰った気がする。仲間に入り、急に始まった喧騒に包まれた日々。少しずつ大きくなる軍に不安を覚えながらも、同じように志を持って生きる者達との出会いは、何よりも幸福だった。それだというのにこの静けさに心安らぐ自分は、相当年を取ったものだと自嘲する。
突然、がさりと落ち葉を足でかくような音が背後からした。
まあ誰にも見つからないか、と高をくくっていたのが悪かった。罪悪感と驚きで体制を崩し、磨いていた鎧諸共池に突っ込みそうになる。が、半分池に迫り出した状態のままぴたりと止まった。無論趙雲はどこぞの軍師ではない。落ちそうになったから宙に浮いたという事ではないのだ。その身体を陸の方まで引き上げたのは足音の主。着痩せしている筋肉達磨を片手で引き戻せる更なる筋肉の塊だろう。普通ならば此処では同じ古参故にやってくる可能性も高い張飛、関羽などを思い浮かべるところだが、その手に趙雲は覚えがあった。比較的最近にこの劉蜀に降りた、張飛にも次ぐ筋肉男、馬超だ。
何故此処に居るのかという質問はさておき礼を言う。思いっ切り手首を掴まれたものだから一瞬肩が外れた気もしたけれど、そうでなかったら今頃池の中だ。綺麗とはいえ執務をさぼってずぶ濡れで帰るなんて嫌だ。三重苦じゃないか。
「して、趙将軍は何故此処におられる」
「執務を抜けてきた。まあ普段の貴方のようなものだ」
「失礼な。そうにして彼様な場所でとは」
馬超は先程までの趙雲がしていたように座り込んだ。格好は遠征帰りということでもなく、馬超もまた執務中と思われる。だが彼を追う影も、困ったように呼んでいる声も無い。そういえば、今馬岱は遠方へ行っているのだったかと思い出す。そしてその部隊の帰還が直。
「貴方は馬岱殿を出迎えに出てきたのではないか?」
「お見通しか」
「あの部隊にはうちの者も数名貸したからな。だが、執務をして待った方が彼は喜んでくれるだろうに」
馬岱の印象といえば専ら馬超の世話を焼いているものばかりだ。仕事もできるし戦もできると言うのに、母が子にするように世話を焼く。別に面倒見のいい性格は感じられないから、おそらく馬超限定なのだろう。そんな馬岱が日々悩まされているのが、彼のさぼり癖というやつだ。馬超は机の前に座れば直ぐに何処かへ行ってしまう。それを連れ戻したり肩代わりするのも馬岱の仕事なのだ。本人曰く。
だが遠方からの帰還。流石に疲れているであろう馬岱にそれをやらせるのは随分と酷だ。出迎えてやるというのであればその間にも執務は熟していた方が喜ばれるのでは無いだろうか。
「執務などとうに終わっている。あれしきの量、一刻もあれば充分過ぎるくらいだ」
その言葉に、馬超が一国を担う若大将だったこと思い出す。確かに言っていることは正しい。まあ趙雲は元の教養が不足していたためその数倍の時間はかかるが、彼はこれよりよっぽど多い執務を熟していた。馬超にとっては赤子の手をひねるようなものだろう。しかしその一刻だって席に着いていない日頃を見れば疑問は浮かぶ。何故馬岱の心労を増やすようなことをするのか。馬超は不器用ではあるが配下の者を大切にする質だ。それも従兄弟である馬岱は誰よりも重用している。揖斐っている訳でもなく、何故。
これまではてっきり、涼州に居た頃も執務をさぼり、そう得意な方では無いものだとばかり思っていた。しかし本人はこの程度何でもないだろうと言う。それこそ故意に馬岱の心労を増やしているようにしか見えない。そう素直に伝えれば乾いた笑い声が返ってくる。
「岱の為だ。あれは俺の世話を焼くことに自分の価値を見出だしている。俺が一人でなんでもできたら、自分はいらないのだと勘違いする。故に俺はあいつの前で執務なんてできない無能で、だが最上の武功を挙げる英雄であらねばならない。あれに、自分が居ないと駄目だと思わせなければならない」
お前には解らん話だろう?と水面に視線を落としたまま馬超は言った。確かに、解らない。周囲の者は趙雲を慕うことこそあれど、執着してくることも、また自らが誰かに執着することも無かったからだ。
「重くはないんですか」
「命だ。重いに決まっている」
そう言った馬超の笑みはいとしい者を思うものだった。
何時か自分もこの彼の目に映るのだろうか。そんな日が、来るといい。
「いや、そうでもないか」
「何を独り合点なさっている」
「私は背を追うくらいが丁度いい、とだけ」
「それは、御辺らしい」
周りには誰もいない昼下がり、執務から抜け出してきたのだ。池の表面に映り込む鳥をぼんやりと眺めながら鎧を磨いている様は、彼の部下が見れば目を疑う光景だろう。別に具合が悪いわけでもないのに、ふと執務が嫌になってしまった事には趙雲もまた驚いている。どうしてなのかは解らないけれど、あの場所に居たくなかった。そう思ってしまえば、ある程度仕事を片付けた後には古参である自分程度しか知らないこの場所に来ていた。
静かだ。本当に静かで、彼等と出会うよりもずっと前の、常山を出てきたばかりに帰った気がする。仲間に入り、急に始まった喧騒に包まれた日々。少しずつ大きくなる軍に不安を覚えながらも、同じように志を持って生きる者達との出会いは、何よりも幸福だった。それだというのにこの静けさに心安らぐ自分は、相当年を取ったものだと自嘲する。
突然、がさりと落ち葉を足でかくような音が背後からした。
まあ誰にも見つからないか、と高をくくっていたのが悪かった。罪悪感と驚きで体制を崩し、磨いていた鎧諸共池に突っ込みそうになる。が、半分池に迫り出した状態のままぴたりと止まった。無論趙雲はどこぞの軍師ではない。落ちそうになったから宙に浮いたという事ではないのだ。その身体を陸の方まで引き上げたのは足音の主。着痩せしている筋肉達磨を片手で引き戻せる更なる筋肉の塊だろう。普通ならば此処では同じ古参故にやってくる可能性も高い張飛、関羽などを思い浮かべるところだが、その手に趙雲は覚えがあった。比較的最近にこの劉蜀に降りた、張飛にも次ぐ筋肉男、馬超だ。
何故此処に居るのかという質問はさておき礼を言う。思いっ切り手首を掴まれたものだから一瞬肩が外れた気もしたけれど、そうでなかったら今頃池の中だ。綺麗とはいえ執務をさぼってずぶ濡れで帰るなんて嫌だ。三重苦じゃないか。
「して、趙将軍は何故此処におられる」
「執務を抜けてきた。まあ普段の貴方のようなものだ」
「失礼な。そうにして彼様な場所でとは」
馬超は先程までの趙雲がしていたように座り込んだ。格好は遠征帰りということでもなく、馬超もまた執務中と思われる。だが彼を追う影も、困ったように呼んでいる声も無い。そういえば、今馬岱は遠方へ行っているのだったかと思い出す。そしてその部隊の帰還が直。
「貴方は馬岱殿を出迎えに出てきたのではないか?」
「お見通しか」
「あの部隊にはうちの者も数名貸したからな。だが、執務をして待った方が彼は喜んでくれるだろうに」
馬岱の印象といえば専ら馬超の世話を焼いているものばかりだ。仕事もできるし戦もできると言うのに、母が子にするように世話を焼く。別に面倒見のいい性格は感じられないから、おそらく馬超限定なのだろう。そんな馬岱が日々悩まされているのが、彼のさぼり癖というやつだ。馬超は机の前に座れば直ぐに何処かへ行ってしまう。それを連れ戻したり肩代わりするのも馬岱の仕事なのだ。本人曰く。
だが遠方からの帰還。流石に疲れているであろう馬岱にそれをやらせるのは随分と酷だ。出迎えてやるというのであればその間にも執務は熟していた方が喜ばれるのでは無いだろうか。
「執務などとうに終わっている。あれしきの量、一刻もあれば充分過ぎるくらいだ」
その言葉に、馬超が一国を担う若大将だったこと思い出す。確かに言っていることは正しい。まあ趙雲は元の教養が不足していたためその数倍の時間はかかるが、彼はこれよりよっぽど多い執務を熟していた。馬超にとっては赤子の手をひねるようなものだろう。しかしその一刻だって席に着いていない日頃を見れば疑問は浮かぶ。何故馬岱の心労を増やすようなことをするのか。馬超は不器用ではあるが配下の者を大切にする質だ。それも従兄弟である馬岱は誰よりも重用している。揖斐っている訳でもなく、何故。
これまではてっきり、涼州に居た頃も執務をさぼり、そう得意な方では無いものだとばかり思っていた。しかし本人はこの程度何でもないだろうと言う。それこそ故意に馬岱の心労を増やしているようにしか見えない。そう素直に伝えれば乾いた笑い声が返ってくる。
「岱の為だ。あれは俺の世話を焼くことに自分の価値を見出だしている。俺が一人でなんでもできたら、自分はいらないのだと勘違いする。故に俺はあいつの前で執務なんてできない無能で、だが最上の武功を挙げる英雄であらねばならない。あれに、自分が居ないと駄目だと思わせなければならない」
お前には解らん話だろう?と水面に視線を落としたまま馬超は言った。確かに、解らない。周囲の者は趙雲を慕うことこそあれど、執着してくることも、また自らが誰かに執着することも無かったからだ。
「重くはないんですか」
「命だ。重いに決まっている」
そう言った馬超の笑みはいとしい者を思うものだった。
何時か自分もこの彼の目に映るのだろうか。そんな日が、来るといい。
「いや、そうでもないか」
「何を独り合点なさっている」
「私は背を追うくらいが丁度いい、とだけ」
「それは、御辺らしい」
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