藤ヤマ『雨のち二人』

「雨、止まないね」
 軒を叩く雨音の強さに、ヤマがぽつりと呟いた。梅雨入り宣言から早三日。久々に一日中晴れだと告げた予報は、見事空に裏切られてしまった。
「降水確率0%って言ってたから、傘いらねェと思ったんだけどな」
「だよね。僕もいつもだったら折りたたみ傘持ってるんだけど、さすがに今日はいらないかなと思って置いてきちゃったよ」
 部活のない休日にヤマを誘い、一緒に出掛けた帰り道。晴れ切った青空はどこからか雲を連れて来て、気づいた時にはどしゃ降りへと変わっていた。慌てて走ったものの、この公園の東屋に辿り着くまでの間に、俺たちは揃ってびしょ濡れになってしまった。
「ヤマ、寒くねェか」
「僕は上着を頭から被ってたから大丈夫。僕より、何も被ってなかった藤堂くんの方が寒いんじゃない?」
 確かに、上着を犠牲にしたヤマより俺の方がずぶ濡れだ。気温は低くないが、肌に張り付いた服は冷たくて気持ち悪いし、髪や額から次々と落ちる雫は鬱陶しい。
「今はそうでもねェけど、このまま止まなかったらさすがに冷えてくっかな」
 邪魔になった前髪をかきあげ、空を見上げる。弱まるどころか強くなっていく雨に終わりは見えないし、厚さを増した雲のせいで周囲は夜のように暗い。
 ツイてねェな。と、いつもだったら腐るところだが、今の俺はむしろこの幸運に感謝していた。
 なぜなら。
「?どうしたの、藤堂くん」
 ずっと片想いしている相手であるヤマと、二人でいられる時間が伸びたからだ。
 横に座るヤマと、目と目が合う。幅の狭いベンチに並んだ距離は近くて、きょとんとした無防備な顔はすぐ目の前だ。
 手を伸ばせば、届く距離。
 だけどその手を伸ばす事が出来ずにいるから、こうして二人きりの状況をなんとか作り、一分一秒伸びた二人の時間を喜んだりしてるんだ。
 我ながら情けないと思うが、拒否されて嫌われたりでもしたらと考えると、どうしても踏み出す気にはなれずにいた。それに俺たちには野球があり、仲間がいる。大事な今、ヤマにも仲間にも影響を与えたくないし、困らせるくらいなら、嫌な想いをさせるくらいなら、こんな気持ちは墓まで持っていくべきだと腹を括っている。
 だから、このままでいいんだ。
「いや、ヤマに風邪でも引かれたら、誘った手前申し訳ねェなと思ってさ」
 そう思っているのに。
「そんなこと気にしないでよ。今日は買おうと思ってたグリップテープ、藤堂くんに良いの選んで
もらえてすごく助かったよ」
 こんな一言と笑顔だけで、決心は簡単に鈍る。 
 建前に潰される本音。どんよりと燻る想い。積もり積もったものはまるでこの時期の天気のようで、いい加減自分でも嫌気が差してくる。
「そっか。それならよかった」
 短く切って目線を逃すと、突然ヤマが「あ」と小さな声をあげた。
「そういえば僕、タオル持ってたんだった。藤堂くん使ってよ」
 濡れて色を濃くしたカバンから、ヤマがスポーツタオルを取り出し差し出してきた。汚れのないふわふわとした白いタオルは、何だかヤマらしい。
「いや、ヤマのなんだからヤマが使えよ」
「ダメだよ!僕より藤堂くんの方が濡れてるんだから」
 俺の遠慮はバッサリ切り捨てられ、問答無用で頭にタオルを掛けられた。前頭に垂れ掛かったタオルに視界の外周を遮られ、ヤマの姿や顔がきちんと見えなくなったけど、こういうところがまた好きなんだよなぁ、と噛み締めてしまう。
 じわりと心が暖まり、ありがたく使わせてもらおうと思った、その時。
「ジッとしててね」
 俺の頭に、何かが触れた。視界の見えない場所から伸びただろうそれは、タオル越しから俺の髪をワシワシと撫で付け、丁寧に水気を拭いていく。
 見えてはいないが感触でわかる。これは、ヤマの手だ。
「これで少しでも寒くなくなるといいんだけど」
 ヤマが俺の髪を拭いている。俺の方に少しだけ身を寄せて伸ばして、優しい声と手つきで俺の心配をしている。
 俺のために。
 ーーーそう思った瞬間、何かが壊れた気がした。
「こんなものかな」
 至福の時間はすぐに終わり、ずれたタオルに視界が拓く。
 誰も居ない、強いにわか雨が降る暗い公園。
 すぐ目の前には、柔らかく笑うヤマが居て、そこで。

 俺の思考は、ぷつりと途切れた。

「あとは身体とか拭くのに使ってーーー」

 全部無意識だった。

 言葉を待たずに、身を引こうとしたヤマに手を伸ばした。
 両肩を掴んで力任せに引き寄せたら、勢いに負けたヤマの頭がガクンと揺れた。
 驚いた瞳。その目と合うその前に。
 ーーー俺は、ヤマの唇を奪った。
 想像よりも柔らかい衝撃に、チカチカと眩暈がする。身体に火が走り、溜まり溜まった欲望の成就に手足の先までが痺れて、まるで。
 まるで、雷が落ちたみたいで。
「ッ!!と、」
 ビクリと肩をすくめ、慌てて離れようとするヤマが何かを口にしようとした。その瞬間、自分がやらかした事のデカさを自覚し、途端に言葉の先が怖くなった。
 ーーーやってしまった。おしまいだ、何もかも。
 だが過ぎった後悔は、走り出した欲を止めるには役立たずだった。
「ッ、う…んッ!」
 俺は罪を重ねた。
 追いかけて、言葉や吐息が漏れ出す隙間すらも喰らい尽くすように、深く深く口付けた。
 そうしてどれくらいの間か、呼吸も忘れて、俺はヤマの唇を味わい続けた。
 ーーーずっとこうしていたい。そんな自分勝手な想いは叶うはずもなく。
 ばさり、と頭から滑り落ちたタオルに気を取られた瞬間、俺たちの間に亀裂は走った。
「ッ…!藤堂くん!!」
 身体を、強く押し返される。俺のせいで乱れた呼吸を整えながら、ヤマは精一杯伸ばした手で距離を取る。
 その力の強さは当然、拒絶なんだろう。
「ヤマ、俺…………」
 何一つ言い訳の聞かない状況で、目と目が合ってしまう。
 真っ直ぐな瞳に射抜かれ、罪悪感からすぐさま土下座したい気持ちに駆られるが、そんなことで許されるはずもないし、単なる自己満足になるだけだ。
 それに、俺は、この気持ちに言い訳なんてしたくはなかった。
 ヤマは逃げることもせずに俺を見つめている。だから俺も、いっそ心を決めた。
「俺、ヤマのことが、ずっと好きで」
 最悪な告白。いや、自白だろうか。取り返しのつかないことをしでかしたくせに、開き直って想いを伝えたいだなんて、身勝手なヤローだと自分でも思う。
 だから俺は、罵倒でも軽蔑でも拳でも、真っ向から受け止める気でいた。やらかしたのは俺なんだから、こっぴどく振られようが辛かろうが、そんなものは全部自業自得だ。
「藤堂くん」
 冷静な呼び声に、審判が下るのを覚悟した。思わずギュッと目を瞑り、硬く唾を飲む。
 が、次の瞬間。耳に、信じられない言葉が飛び込んだ。
「知ってたよ」
「…………は?」
 思いもよらない返事に、死ぬほど間抜けな声が出た。
「確信してたわけじゃないけど、もしかしたらそうなのかなって、何となく」
「いや、それ、いつから」
「一年くらい前からかな。あの頃藤堂くん、急によそよそしくなったでしょ。その前までは僕に気軽に触れてきたのに、それもしなくなったし」
 一年前って、俺が好きだって自覚した頃じゃねェか!そんな最初からバレてたのかよ!
 そう叫びたいのに喉が引き攣って声は出ず、俺はパクパクと口だけを動かすしかなかった。
「藤堂くん、わかりやすいから」
 顔がみるみる熱くなっていく。俺の顔は今、絶対に真っ赤だろう。なんなんだ。金魚か俺は。
「…………え、じゃあヤマ、わかってて俺と二人で出掛けたりしてたのか?」
 たっぷり時間をかけて飲み込んだ反応に、大きな謎が浮かぶ。しれっとしているヤマの感情はわからないが、怒ってる風でも嫌がってる風でもなさそうなのは、俺に都合よく見えてるだけなんだろうか。
「それおかしくね?何で?普通二人きりになるの避けたりしねェか?」
 アホみたいに疑問を並べたら、ヤマがちょっとだけ呆れた顔になる。
「何でって、そんなの」
 さっきまで触れていた唇から、はぁ、と小さな吐息が漏れた。意識をすればドキリと大きく鼓動が跳ね、爆速で動く心臓に息が苦しくなってくる。
 なぁヤマ、その『はぁ』はなんの『はぁ』なんだ。
「僕も藤堂くんのこと、好きだからに決まってるじゃない」
 は?
 ……………………………………………幻聴か?
 長い思考の末辿り着いた結論はそれ。なんだ、これは長い夢かなんかか?俺に都合が良すぎて現実感がなさすぎる。
「すまんヤマ。もっかい言ってくれ」
「言わないよ!」
「いやマジで。頼む」
「言わないってば!」
 頼み込んでも許しはもらえず、俺は仕方なしに黙りこくった。
 好き。好きって言ったよな、今。間違いないよな。
 いまだに信じきれず、何度も直前の記憶を確かめながら唸っていると、ふっ、とヤマの笑う声が聞こえた。
「藤堂くん、すごい顔してる」
 何とか笑いを堪えているが、クスクスと小さな声は溢れてるし、顔は完全に笑顔だ。クソ、なんだよ!可愛いな!
「そんなんしょーがねェだろ!こんな展開、誰が予想するかよ」
「全く気がついてなかったんだ」
「そりゃそーだろ。ヤマはいつも周りみんなに気ィ遣ってるし、優しくされたと思っても、それは俺だけにってワケじゃねェし」
 ヤマにとって俺は単なる仲間。どう考えてもそうとしか思えなかったが、でも、思い返してみると。
「藤堂くんのこと、ずっと見てたんだよ」
 ーーーよく、目が合っていたような気はしていた。今日だって。
「ッ……!ヤマ!!」
 溢れ出した想いに手を伸ばす。遠慮なく強く抱き締めれば、触れ合った瞬間、「冷たッ!」とヤマが声を上げたが、悪いと思いながらも無視をした。
「ヤマ、好きだ」
「うん。わかってるよ」
「すげー好き」
「もう、何回言うのさ」
 耳元に、嬉しそうなヤマの声が触れた。胸が締め付けられるくらい好きが溢れて、俺は何度だって好きだと言いたくなる。

 不思議なもんだ。気持ちを隠してた間は、あんなにも暗くジメジメとしていたのに。 

「藤堂くん。見て、晴れてる」
「いつの間に……。すげェな、快晴じゃん」

 にわか雨が過ぎ去れば、世界は眩しいほどに輝いていた。
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