ハルソラノイロ(桐島兄弟幼馴染設定)
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白球が壁にぶつかる音が、テンポよく響いている。
史哉と夏彦の目の前では、秋斗が壁に向かって黙々とボールを投げていた。左腕を大きく引いて、リズム良く壁に当て、跳ね返ってくるボールをすくうようにキャッチする。その動きに無駄はなく、どこか心地よいリズムがあった。
朝の光は柔らかく、眩しいほどに白い。時折吹く風が、向かいの家の桜の花を小さく揺らしている。
そんなうららかな春の陽の中、史哉は夏彦と並んでベランダに座り、秋斗の壁当てをじっと見ていた。
「左利きって、カッコいいね」
「それ、親父と同じこと言うんやな」
憧れ混じりの声に秋斗はふっと微笑むと、左手でボールを真上に投げてみせる。
「俺も夏彦も左利きやねん。兄弟揃って左利きいうんも、ちょっと珍しいやろ?」
そう言いながらも、壁に向かってまた腕を振る。
史哉は、楽しげに秋斗の横顔を眺めていた。そしてその史哉の横顔を、夏彦は怪訝に見つめている。
「秋斗の球投げなんか見てオモろいかァ?」
寝起きそのままのボサボサ頭で、夏彦がごろりと寝転がる。
つまらなさそうに悪態をつき、わざと大きなアクビをして。その強い視線に振り返った史哉は、一瞬考えたように瞳を上向かせ、すぐに微笑んだ。
「……楽しいよ?」
小さく首を傾げて見つめ返した史哉が、あまりにも素直で。夏彦は一瞬言葉を喉に詰まらせたが、すぐに「はァ?」と鼻白んでみせる。
「物好きなヤツやな。ただボール投げとるだけやん。こんなん、何がオモろいねん」
妙に威勢の悪い夏彦の声に、秋斗がぷっと吹き出す。
「朝からテンパっとるやん、夏彦」
「うっさい!テンパっとらんわ!黙って球投げとけや!」
喧々と捲し立て、への字に唇を曲げると、夏彦はぷいと視線をそらした。
だけどその頬は、不機嫌というにはどこか緩んでいて。秋斗は決まりの悪い夏彦の様子に、密かに笑いを噛み締めていた。
「史哉はさ、史哉のとーちゃんとキャッチボールとかせぇへんの?」
秋斗がふとそんな風に尋ねた。史哉は一瞬考えてから、そっと首を横に振った。
「……ううん。俺、運動あんまり得意じゃなくて」
「史哉、トロそうやもんなァ〜」
「……うん。自分でもそう思う」
夏彦にからかわれ、気後れした史哉が苦笑う。そんな史哉を、夏彦は「おォ、わかってんねや」と茶化して笑う。
「得意なモンはそれぞれちゃうやろ。みんなスポーツできるわけちゃうしな」
額から流れる汗を拭い、秋斗が兄貴然と口を挟む。ボールをくるりと回し、史哉に向き直ると、秋斗は優しく微笑んでみせる。
「なァ、史哉は何が得意なん?」
唐突な問いに、史哉はぱちくりと瞳を瞬かせた。
けれど、秋斗の笑顔は真剣そのもの。ただのフォローでも冷やかしでもないことは、表情から伝わってきた。
「……えっと」
言葉を迷わせ、そして、思い切って口を開く。
「写真、が……好き」
恥ずかしそうに、けれどしっかりとした声で伝えて。史哉は恐る恐る、ふたりの顔を窺う。
「得意ってほどじゃないけど……でも、撮るのは、すごく好き」
それを聞いた秋斗は、きゅっと目を細めて頬を崩した。
「へェ。なんや似合うな、そういうの。史哉が撮った写真、見てみたいわ」
「……見たい?ほんとに?」
「嘘なんかついてどないすんねん」
軽やかに笑う秋斗に、史哉がほっと安心したように息をつく。そして隣で聞いていた夏彦は、「写真なァ」とつぶやき、空を仰いだ。
「写真なんかすぐブレるやん。マトモに撮れた試しないわ」
「それは夏彦の腕と性格の問題やな」
「あァ!?ケンカ売っとんのかクソあにき!!」
間髪入れずにイジられ、夏彦の怒りのスイッチが入る。裸足で庭に飛び出し、秋斗に勢いよく詰め寄ると、勢いそのままに体をぶつけていく。
「秋斗かてクソみたい写真ばっか撮っとるやろ!」
「お前よりはええの撮るわ」
「嘘つけ!この前『あの車カッコええなァ』言いながら撮ったヤツ、なんも写ってへんかったやろ!!」
「速すぎたんやからしゃーないやろ。スピード違反や、あれは。今頃ケーサツ捕まっとるわ」
昨日と同じようなケンカが始まる。そんなふたりを見守る史哉の胸には、少しだけあたたかい誇らしさが灯っていた。
「得意なもの」を聞いてくれた。
ちゃんと、興味を持ってくれた。
——それが、とっても嬉しくて。
「史哉。コイツな、機嫌悪なったり反抗するとき、いっつもブッサイ顔すんねん」
夏彦の体当たりをいなしながら、秋斗が史哉へと歩み寄る。
「せやから今度一緒に写真撮って、夏彦のブス顔コレクション作ろうや」
「撮んなやアホ!」
ふたりの声が、無邪気に響く。
史哉は向けられたその言葉を飲み込むと、一拍遅れて、小さく笑った。
「……うん」
けれど、その声にはどこか曖昧な揺れがあった。
——本当はまだ、怖かった。
初めて撮った友達の写真を、目の前で破られてしまったから。
そのせいで、人を撮るのが怖くなってしまったから。
不安から逸らした瞳に、ひらひらと舞う桜の花びらが映る。
——落ちていくその欠片が、破られ、放り捨てられた写真と重なる。
「……史哉?」
秋斗がふと、黙り込んだ史哉を覗き込むようにして声をかける。
「どないしたん。大丈夫か?」
「うん」
今度は少しだけ早く、でもやっぱり弱い声で答える。
秋斗の顔に、ほんの一瞬だけ影が差した。けれどすぐに笑いに変えると、軽い調子で肩をすくめてみせた。
「まァ、夏彦の顔は破壊力あるから、カメラ壊れてまうかもしれんな。やめといた方がええかもな」
「壊れへんわッ!!てかお前から言い出しといてなんやねん、それ!!」
夏彦が叫び、秋斗が笑う。その空気の中で、史哉もいつの間にか、小さく笑っていた。
撮りたい気持ちは、今もどこかにある。
けれどそれに触れるには——まだほんの少し、時間が必要だった。
***
「史哉、お前カメラ持っとんの?」
夏彦にそう問いかけられたのは、冬美に招かれ、リビングでジュースを飲んでいた時だった。
突然の問いに、史哉は少し驚いて目を見開いた。夏彦から普通に話しかけられたのは、これが初めてだったから。
「……うん。お父さんから、お下がりをもらったんだ」
少し間を置いて、ゆっくりと頷いて。史哉は、思い切って言葉を続ける。
「俺……昔から、喋るの、得意じゃなくて」
視線を落とし、コップを握りしめ。ぽつりぽつりと懸命に繋ぐ。
「友達も、ずっといなくて。……ひとりで部屋にいることが多くてさ」
その声に、夏彦も秋斗も、ふざけることなく耳を傾けていた。
「……そんな俺に、お父さんが『写真撮ってみるか』って言ってくれたんだ。カメラの使い方とか、撮り方とか、色んなこと……教えてくれたんだ」
そこまで言って視線を上げると、史哉は少しだけ声を弾ませる。
「空とか、花とか、景色とか……そういうの撮ってると、気づかれなくても、ちゃんと『ここにいる』って……そう思える気がして。だから、写真が好きなんだ」
言葉にすると、急に照れくさくなってしまう。史哉は赤くなった頬を誤魔化そうと、思い切りストローでジュースを吸い上げた。
その向かい側で、秋斗は微笑みを和らげる。
「史哉が写真好きになったんは、そういうキッカケやったんやな」
言って、秋斗は思う。史哉のカメラと、自分の野球は同じなのだと。
清春と庭でしたキャッチボール。左利きはカッコええとしきりに褒められ、秋斗はいつの間にか野球に興味を持っていた。
投げることが好きになった。上手いなと褒められると嬉しかった。
それはとても単純で——けれど心が惹かれるには、十分すぎる動機だった。
夏彦が口を開きかける。しかし得意の憎まれグチは、なかなか出てこない。
秋斗の史哉を見る目には、どこか静かな共感の色が浮かんでいる。
そんなふたりが言葉少なにわかり合っている気がして、夏彦は面白くなさに顔を顰める。
——なんやねん、この空気。
イライラが募り、ジュースのストローを噛んでぶくぶくと息を吹き込む。するとキッチンから、「夏彦ッ!また行儀悪いことして!」と、すぐに冬美の注意が飛んできた。
「なァ。やっぱ今度、史哉が撮った写真見せてや」
秋斗はそう言ってから、にやっとイタズラっぽく付け加える。
「夏彦と違て、史哉はセンス良さそうやしな」
「はァ!?また俺のことバカにしとんのか!!」
またもイジられ、夏彦はすぐさま沸騰する。
「お前かて学校の工作、しょっぼいモンばっか作っとるやろ!」
「は?俺の“海に沈んだロボット”の貯金箱、ディスっとんのか?」
「意味わからんっちゅーねん!なんで海に沈んでんねん!大人しく地上に立っとけや!」
「テーマにロマンがあるんやって!」
史哉はそんなふたりのやりとりをぽかんと見つめていたが——思わず、小さく吹き出してしまった。
「……ふふっ」
その楽しげな笑いに、秋斗と夏彦がピタッと口を止める。
「どないしたん、史哉」
「何がオモろいねん」
「ごめん。だって、海に沈んだロボットの貯金箱って……どんなのかなって思っちゃって」
心の底から、自然に浮かんだ笑みだった。秋斗はその笑顔を満足げに眺めながら、隣の固まった夏彦に顔を寄せる。
「……史哉、笑ったら結構かわええな〜、とか思ってへん?」
「アホかッ!!思ってへんわ!!」
過剰に反応した夏彦が、ギャンと叫ぶ。
「誰がそんな話してんねん!こっちはマジメに話してたやろ!!」
「どこがマジメやねん。俺の工作ディスっただけやん」
「俺のことディスったんが先やろ、アホあにき!!」
ふたりの言い合う声が、ベランダの網戸から忍び込む春の風に攫われていく。
史哉はそれを見つめながら、静かに、でも確かに思っていた。
——ふたりのこと、いつか、撮ってみたいかもしれない。
風景じゃなくて、この時間を。この瞬間を。
大切にしたいと思えるふたりを、レンズの奥に閉じ込めたいと——そう思ってしまう。
ふたりのじゃれ合うような口ゲンカは、賑やかに響いていた。
「ロボットに貯金して何が悪いねん!」
「意味がわからん言うてんねん!」
史哉は、それを見ながら笑っていた。
胸の奥では、不安がまだかすかに揺らぐ。
——また破られたらどうしよう。
見せても、気に入ってもらえなかったら……
そんな恐れを、けれど史哉は飲み込んだ。
目の前で破られた光景は、今も瞼の裏に焼きついている。
だからこそ誰にも見せないようにとしてきたけれど、でも、目の前で言い合っている秋斗と夏彦を見ていたら、不思議と——
……ふたりなら、ちゃんと、見てくれるかもしれない。
そんな思いが、心の奥からふわりと浮かんできた。
大切な思い出を壊されたこと。
理不尽な怒りをぶつけられたこと。
——悲しみを理解されなかったこと。
深い心の澱を混ぜ返しながら、それでもこのふたりを信じたいと、史哉の小さな胸が声を上げた。
だから、勇気を出して。
ぽつりと、小さな声で切り出した。
「……秋斗、夏彦。今度、俺が撮った写真……見てくれる?」
ふたりのやりとりがピタリと止まる。秋斗と夏彦が、同時に史哉の方を振り返った。
史哉はちょっとだけうつむきながら、それでもしっかりとふたりを見返した。
少しの沈黙のあと、秋斗は真っ直ぐな声で答えた。
「もちろんや」
夏彦は少し口を開けたままぽかんとしていたが、やがて不器用に言った。
「しゃーないから見たるわ。ヘタやったらヘタって言うけどな」
「……うん」
秋斗と夏彦の瞳を見つめる。あの時の自分の写真を破った子の目とは、まるで違う。
このふたりの目は、ちゃんと見てくれる目だ。
ふたりに見せてみたい。
——見て欲しい。
そんな小さな決意を抱いた瞬間。
夏彦が、すぐさま思いつきを口にした。
「ほな、今見せろや」
突然の夏彦のひと言に、史哉の目が大きく開いた。
「え!?いッ、今?」
「せや。どうせ今ヒマなんやろ。今日でええやん」
あまりにあっさり言い切る夏彦に、史哉は口を開いたまま言葉を失くす。
「いやお前、さすがに急すぎるやろ。史哉にも準備とか気持ちの整理とかあるやん。昨日会ったばっかの相手に、いきなり見せろはないで」
秋斗が呆れたように眉をひそめた。けれど夏彦は、悪びれた様子もなく言い返した。
「はァ? 写真なんて急に見せれるモンやん。別にええやろ。見てくれるか言うたんは史哉なんやし」
無神経に言い放つ。けれど史哉は、夏彦の言葉のどこかに、興味を持ってくれているという気配を感じた。
史哉なら大丈夫やろ。
どうせならすぐ見たい。
そんな風に思っているのが、妙に真っ直ぐ伝わってきて——史哉は戸惑いながらも、ほんの一瞬、視線を伏せて考えた。
そしてすぐに、小さく息を吸って、口を開いた。
「……じゃあ」
目を上げて、ふたりを見つめる。
「俺の部屋……来る?」
その言葉は、ほんの少し震えていた。けれど、精一杯の勇気を込めた誘いだった。
「おっしゃ!」
「うわ、マジか……いや、史哉がええ言うならええんやけど」
ガッツポーズを取る夏彦と、驚きつつも期待を滲ませる秋斗。
史哉はそんなふたりに、胸の奥がぽわっとあたたかくなるのを感じていた。
昨日までは、誰かを自分の部屋に入れるなんて、想像もできなかった。
でもきっと、このふたりなら大丈夫だと——
史哉はもう、まっすぐに信じていた。
***
桐島家を出てすぐの眞城家。
先頭に立った史哉が玄関の扉を開くと、秋斗と夏彦がぞろぞろと後に続いた。
「晴子ォ〜!遊びに来たで〜!」
「おジャマしますー」
夏彦は遠慮という概念を持たない足取りでズカズカと上がり、秋斗は軽く頭を下げながら行儀よく靴を脱ぐ。
するとふたりのその声を聞いた晴子が、段ボールと格闘する手を止め、リビングから顔を覗かせた。
「あらっ!」
嬉しそうな笑顔が、ぱっと花開く。
「秋斗くんに夏彦くんじゃない。いらっしゃい。遊びに来たの?」
「史哉が写真見て欲しい言うから来たわ」
「それ言い出したんお前やろ」
「史哉が見せる言うたんは本当やろ!」
「見せろ言うてプレッシャーかけとったやん」
「しつッこいわ!ええ言うたんは本当なんやからええやろ!!」
いつもの掛け合いが、眞城家の玄関に明るく響く。
史哉はというと、玄関のドアを閉めながら、そのやり取りに小さく笑っていた。
晴子はそんな史哉の顔を見て、嬉しそうに笑顔を深める。
「ふふっ。史哉が見せたいって言えたの、すごくいいことね」
「……うん」
史哉は照れたように頷いてから、二人を振り返る。
「じゃあ、部屋……二階だから」
「よっしゃ行くで!」
「どうぞ言われる前に上がっとるよな、お前……」
テンションの高い夏彦に、秋斗が呆れながら続いていく。
***
眞城家の玄関を上がったすぐ横に、二階へと続く階段はあった。
ふたりを引き連れて階段を上がる史哉は、わずかな緊張とあたたかさにずっとドキドキしていた。
なんとなく、チラッと振り返る。すると家内を見回していた秋斗が、ふと疑問を口にした。
「引っ越してきたばっかやけど、史哉の部屋ってもう片づいとんの?」
「うん。俺の部屋は、お父さんが先に全部片付けてくれたんだ」
「へェ。優しいな、義貴さん」
感心したようにうなずけば、あっという間に二階へと辿り着く。そうして上がってすぐの白いドアの前で、史哉は足を止める。
ドアには、史哉の名前がひらがなで書かれた木のプレートがかかっていた。ナチュラルウッドの小さなプレートは、どこか手作り感があって、史哉の雰囲気によく似合っている。
史哉は一瞬だけそのプレートを見上げてから、ゆっくりとドアノブに手をかけた。
「……あの」
扉を開けながら、少しだけ言いよどむ。
「ゲームとかないし、あんまり面白くないと思うけど……」
不安げにつぶやいて、けれどきちんと、ふたりを招き入れた。
部屋の中は、ピカピカときれいに整っていた。
白を基調にしたシンプルな内装で、窓から差し込む朝の光は、やわらかくフローリングの床を照らしている。
壁際には本棚と、小さなデスク。
そしてそのデスクの上には、黒いカメラとレンズ、そして何枚もの写真が丁寧に置かれていた。
「おー、めっちゃ整ってるやん。片付けバッチリやな」
「意外と普通やなァ」
秋斗と夏彦が、部屋に入ってきょろきょろと見渡す。
揃って部屋を眺める思い思いのつぶやきには、からかいも皮肉もない。その様子に史哉はそっと安心し、小さく笑った。
自分の部屋に、自分以外の誰かがいる。
それがちょっと照れくさくて、だけど、すごく嬉しくて。
——部屋の奥、デスクの上のカメラのレンズが、そんな史哉をまじまじと見つめていた。
「なァ、もしかしてこれ全部、史哉が撮ったん?」
秋斗が、デスクの上の写真の山に気がついた。無造作に、だけど大切に扱われているのがすぐわかる何枚もの写真を指差し、驚いたような声を上げる。
「うん」
少し緊張した様子で、史哉が写真の束をそっと手に取る。
——その手は、ほんの少しだけ震えていた。
カメラと過ごした時間。
誰にも見せなかった景色たち。
誰かに「見せたい」と思ったのは、たぶん、これが初めて。
ドキドキと高鳴る胸の音を隠すように、史哉は静かに口を開く。
「……これ」
ふたりの前に、そっと写真を差し出す。
「東京で撮った……風景ばっかりなんだけど」
曇り空の下の公園。
雨上がりのアスファルトに映る夕焼け。
木漏れ日に照らされた、誰もいない神社の参道。
そこには、喧騒の中の静けさや、日常の中の美しさが確かにあった。
史哉が見て、感じて、残した「世界」。
秋斗はそっと写真を受け取り、深い瞳でじっと見つめる。
「……すごいな」
静かにつぶやいたその声は、冗談でも社交辞令でもなかった。
「なんや……このへん、普通の景色やのに、めっちゃ綺麗に見える」
夏彦も、身を乗り出して写真を覗き込む。
「これ、夕方か?空、やば」
「……うん。雨のあとだったから、空の色が変わるの早くて、急いで撮ったんだ」
史哉の緊張が、少しずつほどけていく。
自分の『好き』を見てもらえることの嬉しさと照れくささが、胸の中で優しく交差する。
——この瞬間、史哉はようやく思えた。
見せてよかった。
そして同時に——この新しい土地を写したい、とも。
秋斗は、数枚の写真を手に取りながら、じっと眺め続けていた。
電線の向こうに輝く一番星。
水たまりに映る青空と虹。
——どこか寂しげなのに、やさしい色が滲む風景たち。
「……なァ、史哉」
「ん?」
史哉が顔を上げると、秋斗が穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「やっぱ今度、俺らのことも撮ってや」
「えっ……」
史哉が、思わず息をのむ。
秋斗は、思いのまま続ける。
「風景だけやなくてさ。俺らのことも、史哉の目で撮って欲しいんや。どんな風に写るんか見てみたいし、いつもの俺らが、史哉のカメラ通したらちょっとカッコよくなる気がするんよな」
そう言って、秋斗は少し照れたように笑う。
それを横目にした夏彦は、ぶすっとした顔で声を大にする。
「俺、めっちゃ動くからブレるかもなァ〜」
「お前、じっとしとるの3秒が限界やしな」
「んなワケあるか!!」
「大体、夏彦かてホンマは史哉に撮って欲しいんやろ。目立つの好きなくせに」
秋斗が肩をすくめると、夏彦が「うっさいわ!誰がそんなこと言うてんねん!!」と吠え立てる。
でもその頬は、ほんの少しだけ赤かった。
史哉は、そんなふたりを見ながら、静かに息をついた。そして、少しうつむいていた顔を上げ、やわらかく微笑む。
「……俺、撮ってみたい」
その言葉は、かつて閉ざしてしまった想いの扉を、自分自身で少しだけ開いた証だった。
「……こっちに来てからの写真……撮ってみようかな」
ぽつりとこぼしたその言葉に、秋斗がにっと笑う。
「おォ、ええやん!じゃあモデルは任せてくれや」
「はァ!?なんで秋斗が主役気取りやねん!俺のが映える顔やっちゅーねん!!」
「どこがやねん、寝癖ついたままのくせに」
わちゃわちゃと言い合うふたりの声が、史哉の部屋に明るく響く。
史哉はそんな光景を、そっと胸に刻むように見つめていた。
シャッターはまだ、切っていない。
けれど、撮りたい『景色』はもう——すぐ、目の前にあった。
史哉と夏彦の目の前では、秋斗が壁に向かって黙々とボールを投げていた。左腕を大きく引いて、リズム良く壁に当て、跳ね返ってくるボールをすくうようにキャッチする。その動きに無駄はなく、どこか心地よいリズムがあった。
朝の光は柔らかく、眩しいほどに白い。時折吹く風が、向かいの家の桜の花を小さく揺らしている。
そんなうららかな春の陽の中、史哉は夏彦と並んでベランダに座り、秋斗の壁当てをじっと見ていた。
「左利きって、カッコいいね」
「それ、親父と同じこと言うんやな」
憧れ混じりの声に秋斗はふっと微笑むと、左手でボールを真上に投げてみせる。
「俺も夏彦も左利きやねん。兄弟揃って左利きいうんも、ちょっと珍しいやろ?」
そう言いながらも、壁に向かってまた腕を振る。
史哉は、楽しげに秋斗の横顔を眺めていた。そしてその史哉の横顔を、夏彦は怪訝に見つめている。
「秋斗の球投げなんか見てオモろいかァ?」
寝起きそのままのボサボサ頭で、夏彦がごろりと寝転がる。
つまらなさそうに悪態をつき、わざと大きなアクビをして。その強い視線に振り返った史哉は、一瞬考えたように瞳を上向かせ、すぐに微笑んだ。
「……楽しいよ?」
小さく首を傾げて見つめ返した史哉が、あまりにも素直で。夏彦は一瞬言葉を喉に詰まらせたが、すぐに「はァ?」と鼻白んでみせる。
「物好きなヤツやな。ただボール投げとるだけやん。こんなん、何がオモろいねん」
妙に威勢の悪い夏彦の声に、秋斗がぷっと吹き出す。
「朝からテンパっとるやん、夏彦」
「うっさい!テンパっとらんわ!黙って球投げとけや!」
喧々と捲し立て、への字に唇を曲げると、夏彦はぷいと視線をそらした。
だけどその頬は、不機嫌というにはどこか緩んでいて。秋斗は決まりの悪い夏彦の様子に、密かに笑いを噛み締めていた。
「史哉はさ、史哉のとーちゃんとキャッチボールとかせぇへんの?」
秋斗がふとそんな風に尋ねた。史哉は一瞬考えてから、そっと首を横に振った。
「……ううん。俺、運動あんまり得意じゃなくて」
「史哉、トロそうやもんなァ〜」
「……うん。自分でもそう思う」
夏彦にからかわれ、気後れした史哉が苦笑う。そんな史哉を、夏彦は「おォ、わかってんねや」と茶化して笑う。
「得意なモンはそれぞれちゃうやろ。みんなスポーツできるわけちゃうしな」
額から流れる汗を拭い、秋斗が兄貴然と口を挟む。ボールをくるりと回し、史哉に向き直ると、秋斗は優しく微笑んでみせる。
「なァ、史哉は何が得意なん?」
唐突な問いに、史哉はぱちくりと瞳を瞬かせた。
けれど、秋斗の笑顔は真剣そのもの。ただのフォローでも冷やかしでもないことは、表情から伝わってきた。
「……えっと」
言葉を迷わせ、そして、思い切って口を開く。
「写真、が……好き」
恥ずかしそうに、けれどしっかりとした声で伝えて。史哉は恐る恐る、ふたりの顔を窺う。
「得意ってほどじゃないけど……でも、撮るのは、すごく好き」
それを聞いた秋斗は、きゅっと目を細めて頬を崩した。
「へェ。なんや似合うな、そういうの。史哉が撮った写真、見てみたいわ」
「……見たい?ほんとに?」
「嘘なんかついてどないすんねん」
軽やかに笑う秋斗に、史哉がほっと安心したように息をつく。そして隣で聞いていた夏彦は、「写真なァ」とつぶやき、空を仰いだ。
「写真なんかすぐブレるやん。マトモに撮れた試しないわ」
「それは夏彦の腕と性格の問題やな」
「あァ!?ケンカ売っとんのかクソあにき!!」
間髪入れずにイジられ、夏彦の怒りのスイッチが入る。裸足で庭に飛び出し、秋斗に勢いよく詰め寄ると、勢いそのままに体をぶつけていく。
「秋斗かてクソみたい写真ばっか撮っとるやろ!」
「お前よりはええの撮るわ」
「嘘つけ!この前『あの車カッコええなァ』言いながら撮ったヤツ、なんも写ってへんかったやろ!!」
「速すぎたんやからしゃーないやろ。スピード違反や、あれは。今頃ケーサツ捕まっとるわ」
昨日と同じようなケンカが始まる。そんなふたりを見守る史哉の胸には、少しだけあたたかい誇らしさが灯っていた。
「得意なもの」を聞いてくれた。
ちゃんと、興味を持ってくれた。
——それが、とっても嬉しくて。
「史哉。コイツな、機嫌悪なったり反抗するとき、いっつもブッサイ顔すんねん」
夏彦の体当たりをいなしながら、秋斗が史哉へと歩み寄る。
「せやから今度一緒に写真撮って、夏彦のブス顔コレクション作ろうや」
「撮んなやアホ!」
ふたりの声が、無邪気に響く。
史哉は向けられたその言葉を飲み込むと、一拍遅れて、小さく笑った。
「……うん」
けれど、その声にはどこか曖昧な揺れがあった。
——本当はまだ、怖かった。
初めて撮った友達の写真を、目の前で破られてしまったから。
そのせいで、人を撮るのが怖くなってしまったから。
不安から逸らした瞳に、ひらひらと舞う桜の花びらが映る。
——落ちていくその欠片が、破られ、放り捨てられた写真と重なる。
「……史哉?」
秋斗がふと、黙り込んだ史哉を覗き込むようにして声をかける。
「どないしたん。大丈夫か?」
「うん」
今度は少しだけ早く、でもやっぱり弱い声で答える。
秋斗の顔に、ほんの一瞬だけ影が差した。けれどすぐに笑いに変えると、軽い調子で肩をすくめてみせた。
「まァ、夏彦の顔は破壊力あるから、カメラ壊れてまうかもしれんな。やめといた方がええかもな」
「壊れへんわッ!!てかお前から言い出しといてなんやねん、それ!!」
夏彦が叫び、秋斗が笑う。その空気の中で、史哉もいつの間にか、小さく笑っていた。
撮りたい気持ちは、今もどこかにある。
けれどそれに触れるには——まだほんの少し、時間が必要だった。
***
「史哉、お前カメラ持っとんの?」
夏彦にそう問いかけられたのは、冬美に招かれ、リビングでジュースを飲んでいた時だった。
突然の問いに、史哉は少し驚いて目を見開いた。夏彦から普通に話しかけられたのは、これが初めてだったから。
「……うん。お父さんから、お下がりをもらったんだ」
少し間を置いて、ゆっくりと頷いて。史哉は、思い切って言葉を続ける。
「俺……昔から、喋るの、得意じゃなくて」
視線を落とし、コップを握りしめ。ぽつりぽつりと懸命に繋ぐ。
「友達も、ずっといなくて。……ひとりで部屋にいることが多くてさ」
その声に、夏彦も秋斗も、ふざけることなく耳を傾けていた。
「……そんな俺に、お父さんが『写真撮ってみるか』って言ってくれたんだ。カメラの使い方とか、撮り方とか、色んなこと……教えてくれたんだ」
そこまで言って視線を上げると、史哉は少しだけ声を弾ませる。
「空とか、花とか、景色とか……そういうの撮ってると、気づかれなくても、ちゃんと『ここにいる』って……そう思える気がして。だから、写真が好きなんだ」
言葉にすると、急に照れくさくなってしまう。史哉は赤くなった頬を誤魔化そうと、思い切りストローでジュースを吸い上げた。
その向かい側で、秋斗は微笑みを和らげる。
「史哉が写真好きになったんは、そういうキッカケやったんやな」
言って、秋斗は思う。史哉のカメラと、自分の野球は同じなのだと。
清春と庭でしたキャッチボール。左利きはカッコええとしきりに褒められ、秋斗はいつの間にか野球に興味を持っていた。
投げることが好きになった。上手いなと褒められると嬉しかった。
それはとても単純で——けれど心が惹かれるには、十分すぎる動機だった。
夏彦が口を開きかける。しかし得意の憎まれグチは、なかなか出てこない。
秋斗の史哉を見る目には、どこか静かな共感の色が浮かんでいる。
そんなふたりが言葉少なにわかり合っている気がして、夏彦は面白くなさに顔を顰める。
——なんやねん、この空気。
イライラが募り、ジュースのストローを噛んでぶくぶくと息を吹き込む。するとキッチンから、「夏彦ッ!また行儀悪いことして!」と、すぐに冬美の注意が飛んできた。
「なァ。やっぱ今度、史哉が撮った写真見せてや」
秋斗はそう言ってから、にやっとイタズラっぽく付け加える。
「夏彦と違て、史哉はセンス良さそうやしな」
「はァ!?また俺のことバカにしとんのか!!」
またもイジられ、夏彦はすぐさま沸騰する。
「お前かて学校の工作、しょっぼいモンばっか作っとるやろ!」
「は?俺の“海に沈んだロボット”の貯金箱、ディスっとんのか?」
「意味わからんっちゅーねん!なんで海に沈んでんねん!大人しく地上に立っとけや!」
「テーマにロマンがあるんやって!」
史哉はそんなふたりのやりとりをぽかんと見つめていたが——思わず、小さく吹き出してしまった。
「……ふふっ」
その楽しげな笑いに、秋斗と夏彦がピタッと口を止める。
「どないしたん、史哉」
「何がオモろいねん」
「ごめん。だって、海に沈んだロボットの貯金箱って……どんなのかなって思っちゃって」
心の底から、自然に浮かんだ笑みだった。秋斗はその笑顔を満足げに眺めながら、隣の固まった夏彦に顔を寄せる。
「……史哉、笑ったら結構かわええな〜、とか思ってへん?」
「アホかッ!!思ってへんわ!!」
過剰に反応した夏彦が、ギャンと叫ぶ。
「誰がそんな話してんねん!こっちはマジメに話してたやろ!!」
「どこがマジメやねん。俺の工作ディスっただけやん」
「俺のことディスったんが先やろ、アホあにき!!」
ふたりの言い合う声が、ベランダの網戸から忍び込む春の風に攫われていく。
史哉はそれを見つめながら、静かに、でも確かに思っていた。
——ふたりのこと、いつか、撮ってみたいかもしれない。
風景じゃなくて、この時間を。この瞬間を。
大切にしたいと思えるふたりを、レンズの奥に閉じ込めたいと——そう思ってしまう。
ふたりのじゃれ合うような口ゲンカは、賑やかに響いていた。
「ロボットに貯金して何が悪いねん!」
「意味がわからん言うてんねん!」
史哉は、それを見ながら笑っていた。
胸の奥では、不安がまだかすかに揺らぐ。
——また破られたらどうしよう。
見せても、気に入ってもらえなかったら……
そんな恐れを、けれど史哉は飲み込んだ。
目の前で破られた光景は、今も瞼の裏に焼きついている。
だからこそ誰にも見せないようにとしてきたけれど、でも、目の前で言い合っている秋斗と夏彦を見ていたら、不思議と——
……ふたりなら、ちゃんと、見てくれるかもしれない。
そんな思いが、心の奥からふわりと浮かんできた。
大切な思い出を壊されたこと。
理不尽な怒りをぶつけられたこと。
——悲しみを理解されなかったこと。
深い心の澱を混ぜ返しながら、それでもこのふたりを信じたいと、史哉の小さな胸が声を上げた。
だから、勇気を出して。
ぽつりと、小さな声で切り出した。
「……秋斗、夏彦。今度、俺が撮った写真……見てくれる?」
ふたりのやりとりがピタリと止まる。秋斗と夏彦が、同時に史哉の方を振り返った。
史哉はちょっとだけうつむきながら、それでもしっかりとふたりを見返した。
少しの沈黙のあと、秋斗は真っ直ぐな声で答えた。
「もちろんや」
夏彦は少し口を開けたままぽかんとしていたが、やがて不器用に言った。
「しゃーないから見たるわ。ヘタやったらヘタって言うけどな」
「……うん」
秋斗と夏彦の瞳を見つめる。あの時の自分の写真を破った子の目とは、まるで違う。
このふたりの目は、ちゃんと見てくれる目だ。
ふたりに見せてみたい。
——見て欲しい。
そんな小さな決意を抱いた瞬間。
夏彦が、すぐさま思いつきを口にした。
「ほな、今見せろや」
突然の夏彦のひと言に、史哉の目が大きく開いた。
「え!?いッ、今?」
「せや。どうせ今ヒマなんやろ。今日でええやん」
あまりにあっさり言い切る夏彦に、史哉は口を開いたまま言葉を失くす。
「いやお前、さすがに急すぎるやろ。史哉にも準備とか気持ちの整理とかあるやん。昨日会ったばっかの相手に、いきなり見せろはないで」
秋斗が呆れたように眉をひそめた。けれど夏彦は、悪びれた様子もなく言い返した。
「はァ? 写真なんて急に見せれるモンやん。別にええやろ。見てくれるか言うたんは史哉なんやし」
無神経に言い放つ。けれど史哉は、夏彦の言葉のどこかに、興味を持ってくれているという気配を感じた。
史哉なら大丈夫やろ。
どうせならすぐ見たい。
そんな風に思っているのが、妙に真っ直ぐ伝わってきて——史哉は戸惑いながらも、ほんの一瞬、視線を伏せて考えた。
そしてすぐに、小さく息を吸って、口を開いた。
「……じゃあ」
目を上げて、ふたりを見つめる。
「俺の部屋……来る?」
その言葉は、ほんの少し震えていた。けれど、精一杯の勇気を込めた誘いだった。
「おっしゃ!」
「うわ、マジか……いや、史哉がええ言うならええんやけど」
ガッツポーズを取る夏彦と、驚きつつも期待を滲ませる秋斗。
史哉はそんなふたりに、胸の奥がぽわっとあたたかくなるのを感じていた。
昨日までは、誰かを自分の部屋に入れるなんて、想像もできなかった。
でもきっと、このふたりなら大丈夫だと——
史哉はもう、まっすぐに信じていた。
***
桐島家を出てすぐの眞城家。
先頭に立った史哉が玄関の扉を開くと、秋斗と夏彦がぞろぞろと後に続いた。
「晴子ォ〜!遊びに来たで〜!」
「おジャマしますー」
夏彦は遠慮という概念を持たない足取りでズカズカと上がり、秋斗は軽く頭を下げながら行儀よく靴を脱ぐ。
するとふたりのその声を聞いた晴子が、段ボールと格闘する手を止め、リビングから顔を覗かせた。
「あらっ!」
嬉しそうな笑顔が、ぱっと花開く。
「秋斗くんに夏彦くんじゃない。いらっしゃい。遊びに来たの?」
「史哉が写真見て欲しい言うから来たわ」
「それ言い出したんお前やろ」
「史哉が見せる言うたんは本当やろ!」
「見せろ言うてプレッシャーかけとったやん」
「しつッこいわ!ええ言うたんは本当なんやからええやろ!!」
いつもの掛け合いが、眞城家の玄関に明るく響く。
史哉はというと、玄関のドアを閉めながら、そのやり取りに小さく笑っていた。
晴子はそんな史哉の顔を見て、嬉しそうに笑顔を深める。
「ふふっ。史哉が見せたいって言えたの、すごくいいことね」
「……うん」
史哉は照れたように頷いてから、二人を振り返る。
「じゃあ、部屋……二階だから」
「よっしゃ行くで!」
「どうぞ言われる前に上がっとるよな、お前……」
テンションの高い夏彦に、秋斗が呆れながら続いていく。
***
眞城家の玄関を上がったすぐ横に、二階へと続く階段はあった。
ふたりを引き連れて階段を上がる史哉は、わずかな緊張とあたたかさにずっとドキドキしていた。
なんとなく、チラッと振り返る。すると家内を見回していた秋斗が、ふと疑問を口にした。
「引っ越してきたばっかやけど、史哉の部屋ってもう片づいとんの?」
「うん。俺の部屋は、お父さんが先に全部片付けてくれたんだ」
「へェ。優しいな、義貴さん」
感心したようにうなずけば、あっという間に二階へと辿り着く。そうして上がってすぐの白いドアの前で、史哉は足を止める。
ドアには、史哉の名前がひらがなで書かれた木のプレートがかかっていた。ナチュラルウッドの小さなプレートは、どこか手作り感があって、史哉の雰囲気によく似合っている。
史哉は一瞬だけそのプレートを見上げてから、ゆっくりとドアノブに手をかけた。
「……あの」
扉を開けながら、少しだけ言いよどむ。
「ゲームとかないし、あんまり面白くないと思うけど……」
不安げにつぶやいて、けれどきちんと、ふたりを招き入れた。
部屋の中は、ピカピカときれいに整っていた。
白を基調にしたシンプルな内装で、窓から差し込む朝の光は、やわらかくフローリングの床を照らしている。
壁際には本棚と、小さなデスク。
そしてそのデスクの上には、黒いカメラとレンズ、そして何枚もの写真が丁寧に置かれていた。
「おー、めっちゃ整ってるやん。片付けバッチリやな」
「意外と普通やなァ」
秋斗と夏彦が、部屋に入ってきょろきょろと見渡す。
揃って部屋を眺める思い思いのつぶやきには、からかいも皮肉もない。その様子に史哉はそっと安心し、小さく笑った。
自分の部屋に、自分以外の誰かがいる。
それがちょっと照れくさくて、だけど、すごく嬉しくて。
——部屋の奥、デスクの上のカメラのレンズが、そんな史哉をまじまじと見つめていた。
「なァ、もしかしてこれ全部、史哉が撮ったん?」
秋斗が、デスクの上の写真の山に気がついた。無造作に、だけど大切に扱われているのがすぐわかる何枚もの写真を指差し、驚いたような声を上げる。
「うん」
少し緊張した様子で、史哉が写真の束をそっと手に取る。
——その手は、ほんの少しだけ震えていた。
カメラと過ごした時間。
誰にも見せなかった景色たち。
誰かに「見せたい」と思ったのは、たぶん、これが初めて。
ドキドキと高鳴る胸の音を隠すように、史哉は静かに口を開く。
「……これ」
ふたりの前に、そっと写真を差し出す。
「東京で撮った……風景ばっかりなんだけど」
曇り空の下の公園。
雨上がりのアスファルトに映る夕焼け。
木漏れ日に照らされた、誰もいない神社の参道。
そこには、喧騒の中の静けさや、日常の中の美しさが確かにあった。
史哉が見て、感じて、残した「世界」。
秋斗はそっと写真を受け取り、深い瞳でじっと見つめる。
「……すごいな」
静かにつぶやいたその声は、冗談でも社交辞令でもなかった。
「なんや……このへん、普通の景色やのに、めっちゃ綺麗に見える」
夏彦も、身を乗り出して写真を覗き込む。
「これ、夕方か?空、やば」
「……うん。雨のあとだったから、空の色が変わるの早くて、急いで撮ったんだ」
史哉の緊張が、少しずつほどけていく。
自分の『好き』を見てもらえることの嬉しさと照れくささが、胸の中で優しく交差する。
——この瞬間、史哉はようやく思えた。
見せてよかった。
そして同時に——この新しい土地を写したい、とも。
秋斗は、数枚の写真を手に取りながら、じっと眺め続けていた。
電線の向こうに輝く一番星。
水たまりに映る青空と虹。
——どこか寂しげなのに、やさしい色が滲む風景たち。
「……なァ、史哉」
「ん?」
史哉が顔を上げると、秋斗が穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「やっぱ今度、俺らのことも撮ってや」
「えっ……」
史哉が、思わず息をのむ。
秋斗は、思いのまま続ける。
「風景だけやなくてさ。俺らのことも、史哉の目で撮って欲しいんや。どんな風に写るんか見てみたいし、いつもの俺らが、史哉のカメラ通したらちょっとカッコよくなる気がするんよな」
そう言って、秋斗は少し照れたように笑う。
それを横目にした夏彦は、ぶすっとした顔で声を大にする。
「俺、めっちゃ動くからブレるかもなァ〜」
「お前、じっとしとるの3秒が限界やしな」
「んなワケあるか!!」
「大体、夏彦かてホンマは史哉に撮って欲しいんやろ。目立つの好きなくせに」
秋斗が肩をすくめると、夏彦が「うっさいわ!誰がそんなこと言うてんねん!!」と吠え立てる。
でもその頬は、ほんの少しだけ赤かった。
史哉は、そんなふたりを見ながら、静かに息をついた。そして、少しうつむいていた顔を上げ、やわらかく微笑む。
「……俺、撮ってみたい」
その言葉は、かつて閉ざしてしまった想いの扉を、自分自身で少しだけ開いた証だった。
「……こっちに来てからの写真……撮ってみようかな」
ぽつりとこぼしたその言葉に、秋斗がにっと笑う。
「おォ、ええやん!じゃあモデルは任せてくれや」
「はァ!?なんで秋斗が主役気取りやねん!俺のが映える顔やっちゅーねん!!」
「どこがやねん、寝癖ついたままのくせに」
わちゃわちゃと言い合うふたりの声が、史哉の部屋に明るく響く。
史哉はそんな光景を、そっと胸に刻むように見つめていた。
シャッターはまだ、切っていない。
けれど、撮りたい『景色』はもう——すぐ、目の前にあった。