ハルソラノイロ(桐島兄弟幼馴染設定)
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秋斗に手を引かれて階段を上がる間、史哉の胸はずっと落ち着かなかった。思わず手を取ったものの、本当は誰かと二人きりになるなんて、まだ怖い。けれど秋斗の手はあたたかくて、ぎゅっと強くもなく、優しく包んでくれているようだった。
「ここやで」
秋斗が開けた扉の向こうは、子ども部屋だった。
広くはないけれど、整った室内に机がふたつ、ベッドもふたつ。カーテンの柄は青と白のチェックで、壁には野球のポスターや兄弟の写真が無造作に貼られていて、生活のにおいがする空間だった。
「適当に座ってええで」
史哉は戸惑いながらそっと床に膝を折ると、フローリングの隅にちょこんと座った。そのあまりの遠慮ぶりに、秋斗が思わず目を丸くする。
「えッ、椅子あるのに床なん?」
「ごっ、ごめんなさい……」
「謝ることちゃうけどな。ま、落ち着く場所がそこならそれでええやん」
秋斗が笑いながら、向かい合って座った。その笑顔に、史哉はほんの少しだけ目を細めた。
「なんや、夏彦が怖がらせてもうたみたいやな」
秋斗はあぐらをかいて、じっと史哉の顔を見つめ返した。そして、ゆっくりと優しい声色で話しかける。
「もう怖ないか?」
史哉は、小さく首を縦に振った。まだ少し怯えが残っているように見えるが、それでも逃げるような様子はなかった。
秋斗の目に映ったのは、弟と同い年とはとても思えないほど大人しくて気弱で、壊れそうなくらい繊細そうな少年。どこか儚げで、けれど一生懸命に今ここに立とうとしている——そんな姿が、秋斗にはとても健気に思えた。
(……なんやろな、この感じ)
気がつけば、自然と胸の奥に。
——守ってやらなきゃという気持ちが、静かに芽生える。
「夏彦はな、ああ見えて悪いやつやないねん。口悪いし、乱暴やし、雑なんやけど」
「……うん」
「さっきはビビってたみたいやけど……でも俺な、その前の史哉、ちょっとオモろいなって思ってたわ」
「……え?」
「晴子さんにつねられてる夏彦見て、ちょっと笑いそうになってたやろ?」
史哉は目を見開いて、少しだけ顔を赤くした。秋斗がにやりと笑う。
「見てたで」
恥ずかしさと気まずさを入り混ぜた史哉に、秋斗はどこか楽しそうな表情を浮かべる。
「史哉は素直やなぁ」
そう言って秋斗は後ろ手を床につけると、少しだけ身を逸らした。照れて俯いた史哉が、チラリと上目で秋斗を窺う。すると柔らかに細められた瞳と、ぱちりと出会ってしまう。
「これから仲良うしてこうや」
それは、初めて会ったとは思えないほどまっすぐで、優しい言葉だった。
——秋斗くんの言葉は、どれもふわりと軽くて、なんだかあたたかい。からかったり笑ったりしながらも、どこか自分のことをちゃんと見てくれている気がする。
そんな安心感が、少しずつ史哉の胸の中に広がっていく。
兄弟のいない史哉にとって、その距離感も声のトーンも、なにもかもが新鮮だった。兄がいたら、きっとこんなふうに隣に座って、笑ってくれるのかもしれない。
思わずそんなくすぐったさを覚え、史哉がついに、無意識のうちにぽつりと口を開いた。
「……えっと、秋斗、くん……?」
呼んだ瞬間、史哉はすぐに自分の声が小さすぎたかもしれないと不安になった。けれど秋斗は、控えめなその声を聞き逃さなかった。
「ん?」
顔を向けた秋斗が、あっけらかんとした笑みを浮かべる。
「“くん”とかいらんで。秋斗でええって」
その言葉に、史哉はぱちくりと瞬いた。こんな気軽に名を呼ぶことを許されたのは初めてだ。本当にいいのだろうか。
史哉は迷いながら、指先をもじもじさせる。しかしやがて、恥ずかしそうに顔を伏せながら口を開いた。
「じゃあ…………秋斗」
言ってみると、胸の奥がじんとした。
名前を呼ぶことがこんなに緊張して、こんなに特別なことだとは思わなかった。
秋斗はその声を聞くと思わず笑みを深めて、どこか嬉しそうにうなずいた。
「うん、それでええよ」
その何気ないひと言が、史哉の胸の奥に、ぽつりとほのかな灯りを生んだ。
解れた心とともに、時間が足を緩める。
そんな穏やかさに包まれ始めた時——突然、バンッ!と勢いよく部屋の扉が開いた。
「クソあにき! なに俺のことハズしてんねん!」
怒鳴りながら飛び込んできたのは夏彦だった。眉をつり上げ、むくれた顔でズカズカと部屋の中に踏み込んでくる夏彦に、史哉の肩がびくりと跳ねた。
大きな声。怒った顔。
——その全てが、胸の奥にまだ残っていたトラウマを無意識に呼び起こす。
そして気づけば、史哉の体は小さく身をすくめ、秋斗の背中のほうへ隠れるように動いていた。
「……ッ」
夏彦は一瞬、目を見開いて言葉を飲んだ。目の前で明らかに自分を怖がって身を引いた史哉に、思わず動きを止めてしまう。
史哉は、夏彦と秋斗を気まずそうに見やっている。
怒らせてしまったかもしれない。でも、怖いと感じたのも本当で——
何も言えずに唇をギュッと結べば、そんな史哉の様子に、秋斗がため息混じりに口を開いた。
「夏彦。せやからそういう態度のせいで史哉が怯えんねん」
秋斗は史哉の肩に軽く手を添え、さりげなくその体を引き寄せる。その動作はどこか自然で優しくて、安心できるもので。それが史哉に伝わり、心を落ち着かせてくれる。
「お前、ちょっとはそのバカ声落としぃや。柴田さんちのノコとちゃうねんから、デカい声で威嚇せんでもええやろ」
「あのバカ犬と一緒にすんなや!威嚇なんかしてへんわ!」
夏彦は口を尖らせたが、さっきの史哉の怯えた目が、まだ胸に引っかかっていた。
視線を向ければ、史哉の瞳とぶつかる。
すぐに逸らされるのだろうか。そう思っていたのに——史哉は、怯えながらも懸命に夏彦を見つめていた。
——泣くかと思った。クラスの弱虫のように、夏彦は乱暴だとかひどいとか言いながら、怖いと泣き喚くのかと思った。
なのに、そんなことはなくて。夏彦はその健気で芯のある史哉の様子に、ぶつけようと思っていたわだかまりを宙に浮かせてしまう。
そして——
「……お前のこと嫌いやとか、そういうとるわけやないからな」
少しだけ、気まずそうに。まるで誰にも聞こえてほしくないみたいに、夏彦は言葉をこぼす。
それでも、秋斗も史哉も、その言葉をちゃんと聞いていた。
「せやったら普通に仲良くせぇ」
秋斗が呆れたように、でもどこか本気で言う。
「そんなんやから友達おらんねん、お前」
その一言に、ピキンッと音がしたかのように、夏彦の表情が引きつった。
「余計なお世話やクソあにき!!」
「図星やからキレるんやろ」
「はァ!? お前こそなんやねん、調子乗って!!」
「調子もなにも、事実言うただけやし」
「あ゛~~っ!! ホンマ腹立つわ!!」
夏彦が床をダンダンと踏み鳴らすと同時に始まった兄弟ゲンカに、史哉は目を丸くして固まった。
あっちでにらみ合い、こっちで机をバンと叩く。取っ組み合いこそしないものの、ふたりの言葉の応酬はどんどんヒートアップしていく。
「え、えっと……あの……」
史哉は小さく手を前に出してみるが、それはまるで、台風の前の紙風船のようで。止めることなんて出来ないまま、史哉は完全に目の前の勢いに飲まれていく。
「……ケンカ……やめようよ……」
それでもおろおろと二人を見つめながら、史哉は精一杯の勇気を持って消えそうな声を上げた。
兄弟ゲンカなんて、今まで目の前で見たことがない。止まる気配のない言い争いの中、史哉はどうすることもできず、ただ視線をさまよわせるしかなかった。
何もできず、ただ混乱しながらふたりを見つめていると——ふと、視界の端で秋斗がにやりと笑った。
その笑みには、どこかイタズラっぽい光が宿っていて。
「史哉」
そう言ったかと思うと——秋斗は、ぐいっと体を近づけてきた。
「えっ……?」
驚く間もなく、秋斗の腕がスッと伸びてきた。史哉の小さな体がやわらかく引き寄せられ、秋斗のふわっとした温かさと、ほんの少しの汗の匂いを感じた。
「あーあ、俺、夏彦やなくて史哉を弟にしよかな〜」
「は!? なに言うてんねん!!」
瞬間、夏彦が全力でツッコむ声が飛ぶ。
けれどその反応を気にする様子もなく、秋斗は史哉を抱き寄せたまま微笑んでいる。
史哉は、というと——
「え、あの、その……!」
顔を真っ赤にして、カチコチに固まっていた。
耳まで染まった顔で、わけがわからず、声も震えてうまく言葉にならない。
「い、いや、でも、え……?」
「……あかん、可愛すぎて夏彦じゃ勝てへんな」
「アホかーーッ!!!」
夏彦の怒声が部屋中に響いた。その声にびくっとなった史哉だったが、秋斗の腕の中は、なんだか不思議と安心するぬくもりだった。
「なんで史哉がクソあにきの弟にならなアカンねん!調子に乗るのもええ加減にせぇよ!!」
夏彦が叫ぶように抗議する。そして、ビシッと史哉へ指を指す。
「史哉!お前も触んなカス!とか、嫌やボケ言うたれや!」
ぐりんと向けられた夏彦のしかめ面と無茶ぶりに、史哉はぱちくりとまばたきをした。
秋斗の腕の中で、まだほのかに頬を赤らめたまま——それでも、史哉は少しだけ勇気を出して口を開く。
「えっと……でも、その……」
視線を落としながら、小さな声で、ぽつりと。
「……俺、兄弟いないから……ちょっと、嬉しいなって……思って」
その言葉に、夏彦と秋斗の動きがピタリと止まった。
「……は?マジで?」
夏彦が目をまん丸にする。秋斗も一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと嬉しそうに微笑んだ。
「せやったら、弟もつけたるわ」
そう言いながら、史哉の頭を軽くポンと撫でる。
「クソガキやけどな。ウチの夏彦、弟にしてええで?」
「なんで俺が史哉の弟やねん! 逆やろ!!」
すかさず、夏彦が噛みつくように叫んだ。
「どう考えても俺の方が兄やろ!!むしろ史哉は下僕や!!!」
「下僕て。兄弟やのうなってるやん。そんなん言うたらお前、また晴子さんにほっぺつねられるで?」
「うっさいわ!!」
史哉はそんなふたりのやりとりを見ながら——自然と、笑っていた。
自分が笑っていることに気づいて、ちょっとだけ驚いて、けれど、すぐにまた笑った。
この家はにぎやかで、うるさくて、だけど、なんだかすごくあたたかい。
もしかしたら、ここでなら、自分も変われるかもしれない。
ほんの少しだけ、そんな気がした。
「じゃあ……」
史哉が、ぽつりと口を開く。先ほどまでの戸惑いや緊張が少しだけ和らいで——口元には、ほんのりとした笑みが浮かんでいた。
「夏彦、お兄ちゃん?」
ふざけたような、けれどどこか本気の、いたずらっぽい響き。
その言葉に、夏彦は「……は?」と一瞬固まった。
横で聞いていた秋斗も、意外そうに目を見開く。
笑っていた史哉の表情は、さっきまでの彼からは想像できないくらい、無防備でやわらかかった。
あどけなく、でもどこか嬉しそうで——今まで見せなかった、本当の子どもの顔だった。
その笑顔に、ふたりは言葉を失ったまま、しばし見とれてしまう。
「……なんやねん、そのだっらしない顔」
夏彦がようやく、苦し紛れに小さな唸りを漏らす。
「お前……そんな顔するんか」
「……ダメだった?」
史哉はちょっとだけ困ったように笑って、視線をそらした。しかし夏彦はバツが悪そうに頭をかくと、ぼそっとつぶやいた。
「……べつに、ええけど」
「……え? なに?」
「もうええっちゅーてんねん!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ夏彦に、秋斗が思い切り吹き出した。ケタケタと笑い出した秋斗に、夏彦はすぐさま視線を尖らせる。
「はは!やられたなァ、夏彦。お兄ちゃん呼びで落ちとるやん」
「落ちとらんわボケ!!」
そんなやり取りの中で、史哉は声を潜めて小さく笑った。
——こんなふうに笑ったの、いつぶりだろう。
部屋の空気はあたたかく、そして、とても優しかった。
***
「秋斗〜、夏彦〜、史哉く〜ん! 晩ご飯やで〜! 降りといで〜!」
階下から、冬美の明るい声が響いた。その声に秋斗が返事をして、すぐさま立ち上がる。
「行こか、史哉」
秋斗が手を差し出し、史哉はそれを見つめると、そっと手を取り自分の足で立ち上がった。
夏彦を先頭にリビングへと降りていく途中、ふわりと漂ってきたのは、食欲をくすぐる香ばしい肉とソースの匂い。その香りに秋斗が鼻をひくつかせると、にんまりと唇を緩めた。
「この匂い、ハンバーグやな」
言って、手を握る史哉へと振り返る。
「史哉、ラッキーやな。ハンバーグはウチのかーちゃんの一番の得意料理なんやで」
「一番は唐揚げやろ」
すかさず口を挟んだ夏彦に、秋斗は反論する。
「唐揚げはちょっと揚げすぎるときあるやん」
「うっさい、揚げたての唐揚げが一番うまいんや!」
じゃれあうような兄弟の会話を聞きながら、史哉は笑っていた。その笑みに気づいたのか、ふいに夏彦が振り返る。
「なァ、晴子の飯って美味いん?」
「……どうだろう」
その問いに、史哉は考え込むように指を唇に寄せる。
「……俺、友達のおうちで食べたことないから、比べたことなくて」
その言葉に、秋斗と夏彦は一瞬だけ黙った。それは寂しいという声ではなかったけれど、どこかに滲む静かな孤独が、ふたりの胸に届いた。
「そんなんやったら、ウチのと比べてみたらええやん」
秋斗が、あっけらかんと笑って言った。
「せやな。唐揚げの日に、また食いにきたらええんちゃう」
夏彦も、ぶっきらぼうに続いた。
史哉は驚いたように二人を見て——少しだけうつむきながらも、しかしその口元にはちゃんと笑みを浮かべていた。
「……うん。また来てもいいなら」
「ええに決まっとるやん」
「好きにせぇや」
にぎやかな会話と共に、三人はあたたかなリビングへと足を踏み入れていく。
その先には、ふわふわの湯気と、おいしそうな匂いと——それぞれの両親の笑顔が、穏やかな待っていた。
***
リビングに入ると、ダイニングテーブルの上には出来たばかりの料理がずらりと並んでいた。
それぞれの席に置かれた皿の中央には、大きなハンバーグがドンと置かれていて、周りには照り焼き風のソースがたっぷりかかっている。付け合わせの人参グラッセとポテト、サラダも彩を添え、皿の隣では、ボウル型の器にコーンスープが甘い香りの湯気を立てていた。
「わ……」
史哉が思わず声を漏らすと、冬美がエプロン姿のままにっこりと微笑んだ。
「史哉くんもお肉好きって聞いたからね。ぎょうさん作ったで〜」
「何から何まで、お気遣いに甘えっぱなしですみません」
「ホントこんなにしていただいて……ありがとうございます」
義貴は料理の豪勢さに目を丸くしながら、静かに席に着いた。その隣に晴子も座ると、笑顔を浮かべつつ、桐島家と眞城家全員は食卓に揃った、
「ほな、いただきますやな!」
「「「いただきます!」」」
清春の声に合わせて手を合わせ、元気な声が重なった。
史哉は少しだけタイミングが遅れて、ぽつりと口にした。
「……いただきます」
フォークを手に取り、ハンバーグを切る。するとすぐにじゅわっと肉汁があふれ出し、あつあつの湯気が鼻先をくすぐった。
おそるおそる、一口。
お肉はふんわりやわらかくて、ソースはじんわりと甘くて——史哉は、思わず目を見開いた。
「……おいしい」
そう口にすると、秋斗がにんまりと笑う。
「せやろ。うちのかーちゃんなかなかやるやろ?なんせ一番得意なハンバーグやからな」
「一番は唐揚げやっていうとるやろ!」
「はいはい、ケンカせんといてよ〜。どっちも得意ってことでええやん」
冬美が苦笑しながら、冷たい麦茶を配り始める。その様子を見ながら、史哉はゆっくりと周りを見回した。
誰かが笑ってる。
誰かが言い合ってる。
でも、誰も怖くない。
そんな輪に、自分がいる。
——こんな賑やかな食卓は、初めてだった。
「史哉くん、足りひんかったらおかわり言うてな?」
冬美が麦茶を手渡してくれる。小さなガラスコップを受け取ると、小さな史哉の手のひらがひんやりと冷やされていく。
「……ありがとう、ございます」
だけど、胸の奥はぽかぽかとあたたかい。
心の中に灯がともっているような、そんな温度を感じる。
「えっと……すごく、おいしいです」
フォークをそっと置いて、史哉が控えめに微笑んだ。おずおずと冬美を見つめながら、声は小さかったけれど、まっすぐな言葉には気持ちがいっぱいに込められていた。
「あらまぁ」
そんな史哉に冬美が一瞬目を丸くし、すぐにふわりと頬をゆるめた。
「史哉くん、大人しいけど、ちゃんとお礼も褒め言葉も言えるお利口さんやなぁ」
優しく笑みを返された史哉は、恥ずかしそうに目線を伏せる。
「……そんな、ことないです……」
「ほら見て見て、ちゃんと謙遜までできるやん」
冬美はからかうように、けれどあたたかい声で続けた。
「東京の子やからかもしれんけど、なんやウチの子らとは違って上品やしなぁ。雰囲気も可愛らしいし……」
と、そこで思いついたように、冬美はイタズラに目を細める。
「女の子やったらウチにお嫁さんに来て欲しかったわぁ~」
「ちょッ、いきなり何言うてんねんかーちゃ!!!」
夏彦が口にしていた水を吹き出しかけて、咳き込みながら抗議する。
「アホなこと言いすぎやろ!」
「あははッ」
隣では秋斗が、肩を揺らして笑っていた。そんな賑やかさに乗るように、晴子もまた口元を手で押さえ、冗談めかして笑った。
「あらぁ、じゃあどっちのお嫁さんになるか、ケンカになっちゃうわね〜?」
「晴子までアホなこと言うなや!!」
夏彦は赤くなりながら大声で抗議する。
「どっちもならんでええし!てか史哉は男やし、それに俺らまだガキやん!!」
「……えっと、えっと……」
史哉は顔を真っ赤にしながら、なにか言い返そうとするけど、言葉がうまく出てこない。でもその顔には、さっきまでにはなかった、照れ笑いが浮かんでいた。
温かい空気の中で、史哉は少しずつ、確かにこの家の輪の中に溶け込んでいた。
「ここやで」
秋斗が開けた扉の向こうは、子ども部屋だった。
広くはないけれど、整った室内に机がふたつ、ベッドもふたつ。カーテンの柄は青と白のチェックで、壁には野球のポスターや兄弟の写真が無造作に貼られていて、生活のにおいがする空間だった。
「適当に座ってええで」
史哉は戸惑いながらそっと床に膝を折ると、フローリングの隅にちょこんと座った。そのあまりの遠慮ぶりに、秋斗が思わず目を丸くする。
「えッ、椅子あるのに床なん?」
「ごっ、ごめんなさい……」
「謝ることちゃうけどな。ま、落ち着く場所がそこならそれでええやん」
秋斗が笑いながら、向かい合って座った。その笑顔に、史哉はほんの少しだけ目を細めた。
「なんや、夏彦が怖がらせてもうたみたいやな」
秋斗はあぐらをかいて、じっと史哉の顔を見つめ返した。そして、ゆっくりと優しい声色で話しかける。
「もう怖ないか?」
史哉は、小さく首を縦に振った。まだ少し怯えが残っているように見えるが、それでも逃げるような様子はなかった。
秋斗の目に映ったのは、弟と同い年とはとても思えないほど大人しくて気弱で、壊れそうなくらい繊細そうな少年。どこか儚げで、けれど一生懸命に今ここに立とうとしている——そんな姿が、秋斗にはとても健気に思えた。
(……なんやろな、この感じ)
気がつけば、自然と胸の奥に。
——守ってやらなきゃという気持ちが、静かに芽生える。
「夏彦はな、ああ見えて悪いやつやないねん。口悪いし、乱暴やし、雑なんやけど」
「……うん」
「さっきはビビってたみたいやけど……でも俺な、その前の史哉、ちょっとオモろいなって思ってたわ」
「……え?」
「晴子さんにつねられてる夏彦見て、ちょっと笑いそうになってたやろ?」
史哉は目を見開いて、少しだけ顔を赤くした。秋斗がにやりと笑う。
「見てたで」
恥ずかしさと気まずさを入り混ぜた史哉に、秋斗はどこか楽しそうな表情を浮かべる。
「史哉は素直やなぁ」
そう言って秋斗は後ろ手を床につけると、少しだけ身を逸らした。照れて俯いた史哉が、チラリと上目で秋斗を窺う。すると柔らかに細められた瞳と、ぱちりと出会ってしまう。
「これから仲良うしてこうや」
それは、初めて会ったとは思えないほどまっすぐで、優しい言葉だった。
——秋斗くんの言葉は、どれもふわりと軽くて、なんだかあたたかい。からかったり笑ったりしながらも、どこか自分のことをちゃんと見てくれている気がする。
そんな安心感が、少しずつ史哉の胸の中に広がっていく。
兄弟のいない史哉にとって、その距離感も声のトーンも、なにもかもが新鮮だった。兄がいたら、きっとこんなふうに隣に座って、笑ってくれるのかもしれない。
思わずそんなくすぐったさを覚え、史哉がついに、無意識のうちにぽつりと口を開いた。
「……えっと、秋斗、くん……?」
呼んだ瞬間、史哉はすぐに自分の声が小さすぎたかもしれないと不安になった。けれど秋斗は、控えめなその声を聞き逃さなかった。
「ん?」
顔を向けた秋斗が、あっけらかんとした笑みを浮かべる。
「“くん”とかいらんで。秋斗でええって」
その言葉に、史哉はぱちくりと瞬いた。こんな気軽に名を呼ぶことを許されたのは初めてだ。本当にいいのだろうか。
史哉は迷いながら、指先をもじもじさせる。しかしやがて、恥ずかしそうに顔を伏せながら口を開いた。
「じゃあ…………秋斗」
言ってみると、胸の奥がじんとした。
名前を呼ぶことがこんなに緊張して、こんなに特別なことだとは思わなかった。
秋斗はその声を聞くと思わず笑みを深めて、どこか嬉しそうにうなずいた。
「うん、それでええよ」
その何気ないひと言が、史哉の胸の奥に、ぽつりとほのかな灯りを生んだ。
解れた心とともに、時間が足を緩める。
そんな穏やかさに包まれ始めた時——突然、バンッ!と勢いよく部屋の扉が開いた。
「クソあにき! なに俺のことハズしてんねん!」
怒鳴りながら飛び込んできたのは夏彦だった。眉をつり上げ、むくれた顔でズカズカと部屋の中に踏み込んでくる夏彦に、史哉の肩がびくりと跳ねた。
大きな声。怒った顔。
——その全てが、胸の奥にまだ残っていたトラウマを無意識に呼び起こす。
そして気づけば、史哉の体は小さく身をすくめ、秋斗の背中のほうへ隠れるように動いていた。
「……ッ」
夏彦は一瞬、目を見開いて言葉を飲んだ。目の前で明らかに自分を怖がって身を引いた史哉に、思わず動きを止めてしまう。
史哉は、夏彦と秋斗を気まずそうに見やっている。
怒らせてしまったかもしれない。でも、怖いと感じたのも本当で——
何も言えずに唇をギュッと結べば、そんな史哉の様子に、秋斗がため息混じりに口を開いた。
「夏彦。せやからそういう態度のせいで史哉が怯えんねん」
秋斗は史哉の肩に軽く手を添え、さりげなくその体を引き寄せる。その動作はどこか自然で優しくて、安心できるもので。それが史哉に伝わり、心を落ち着かせてくれる。
「お前、ちょっとはそのバカ声落としぃや。柴田さんちのノコとちゃうねんから、デカい声で威嚇せんでもええやろ」
「あのバカ犬と一緒にすんなや!威嚇なんかしてへんわ!」
夏彦は口を尖らせたが、さっきの史哉の怯えた目が、まだ胸に引っかかっていた。
視線を向ければ、史哉の瞳とぶつかる。
すぐに逸らされるのだろうか。そう思っていたのに——史哉は、怯えながらも懸命に夏彦を見つめていた。
——泣くかと思った。クラスの弱虫のように、夏彦は乱暴だとかひどいとか言いながら、怖いと泣き喚くのかと思った。
なのに、そんなことはなくて。夏彦はその健気で芯のある史哉の様子に、ぶつけようと思っていたわだかまりを宙に浮かせてしまう。
そして——
「……お前のこと嫌いやとか、そういうとるわけやないからな」
少しだけ、気まずそうに。まるで誰にも聞こえてほしくないみたいに、夏彦は言葉をこぼす。
それでも、秋斗も史哉も、その言葉をちゃんと聞いていた。
「せやったら普通に仲良くせぇ」
秋斗が呆れたように、でもどこか本気で言う。
「そんなんやから友達おらんねん、お前」
その一言に、ピキンッと音がしたかのように、夏彦の表情が引きつった。
「余計なお世話やクソあにき!!」
「図星やからキレるんやろ」
「はァ!? お前こそなんやねん、調子乗って!!」
「調子もなにも、事実言うただけやし」
「あ゛~~っ!! ホンマ腹立つわ!!」
夏彦が床をダンダンと踏み鳴らすと同時に始まった兄弟ゲンカに、史哉は目を丸くして固まった。
あっちでにらみ合い、こっちで机をバンと叩く。取っ組み合いこそしないものの、ふたりの言葉の応酬はどんどんヒートアップしていく。
「え、えっと……あの……」
史哉は小さく手を前に出してみるが、それはまるで、台風の前の紙風船のようで。止めることなんて出来ないまま、史哉は完全に目の前の勢いに飲まれていく。
「……ケンカ……やめようよ……」
それでもおろおろと二人を見つめながら、史哉は精一杯の勇気を持って消えそうな声を上げた。
兄弟ゲンカなんて、今まで目の前で見たことがない。止まる気配のない言い争いの中、史哉はどうすることもできず、ただ視線をさまよわせるしかなかった。
何もできず、ただ混乱しながらふたりを見つめていると——ふと、視界の端で秋斗がにやりと笑った。
その笑みには、どこかイタズラっぽい光が宿っていて。
「史哉」
そう言ったかと思うと——秋斗は、ぐいっと体を近づけてきた。
「えっ……?」
驚く間もなく、秋斗の腕がスッと伸びてきた。史哉の小さな体がやわらかく引き寄せられ、秋斗のふわっとした温かさと、ほんの少しの汗の匂いを感じた。
「あーあ、俺、夏彦やなくて史哉を弟にしよかな〜」
「は!? なに言うてんねん!!」
瞬間、夏彦が全力でツッコむ声が飛ぶ。
けれどその反応を気にする様子もなく、秋斗は史哉を抱き寄せたまま微笑んでいる。
史哉は、というと——
「え、あの、その……!」
顔を真っ赤にして、カチコチに固まっていた。
耳まで染まった顔で、わけがわからず、声も震えてうまく言葉にならない。
「い、いや、でも、え……?」
「……あかん、可愛すぎて夏彦じゃ勝てへんな」
「アホかーーッ!!!」
夏彦の怒声が部屋中に響いた。その声にびくっとなった史哉だったが、秋斗の腕の中は、なんだか不思議と安心するぬくもりだった。
「なんで史哉がクソあにきの弟にならなアカンねん!調子に乗るのもええ加減にせぇよ!!」
夏彦が叫ぶように抗議する。そして、ビシッと史哉へ指を指す。
「史哉!お前も触んなカス!とか、嫌やボケ言うたれや!」
ぐりんと向けられた夏彦のしかめ面と無茶ぶりに、史哉はぱちくりとまばたきをした。
秋斗の腕の中で、まだほのかに頬を赤らめたまま——それでも、史哉は少しだけ勇気を出して口を開く。
「えっと……でも、その……」
視線を落としながら、小さな声で、ぽつりと。
「……俺、兄弟いないから……ちょっと、嬉しいなって……思って」
その言葉に、夏彦と秋斗の動きがピタリと止まった。
「……は?マジで?」
夏彦が目をまん丸にする。秋斗も一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと嬉しそうに微笑んだ。
「せやったら、弟もつけたるわ」
そう言いながら、史哉の頭を軽くポンと撫でる。
「クソガキやけどな。ウチの夏彦、弟にしてええで?」
「なんで俺が史哉の弟やねん! 逆やろ!!」
すかさず、夏彦が噛みつくように叫んだ。
「どう考えても俺の方が兄やろ!!むしろ史哉は下僕や!!!」
「下僕て。兄弟やのうなってるやん。そんなん言うたらお前、また晴子さんにほっぺつねられるで?」
「うっさいわ!!」
史哉はそんなふたりのやりとりを見ながら——自然と、笑っていた。
自分が笑っていることに気づいて、ちょっとだけ驚いて、けれど、すぐにまた笑った。
この家はにぎやかで、うるさくて、だけど、なんだかすごくあたたかい。
もしかしたら、ここでなら、自分も変われるかもしれない。
ほんの少しだけ、そんな気がした。
「じゃあ……」
史哉が、ぽつりと口を開く。先ほどまでの戸惑いや緊張が少しだけ和らいで——口元には、ほんのりとした笑みが浮かんでいた。
「夏彦、お兄ちゃん?」
ふざけたような、けれどどこか本気の、いたずらっぽい響き。
その言葉に、夏彦は「……は?」と一瞬固まった。
横で聞いていた秋斗も、意外そうに目を見開く。
笑っていた史哉の表情は、さっきまでの彼からは想像できないくらい、無防備でやわらかかった。
あどけなく、でもどこか嬉しそうで——今まで見せなかった、本当の子どもの顔だった。
その笑顔に、ふたりは言葉を失ったまま、しばし見とれてしまう。
「……なんやねん、そのだっらしない顔」
夏彦がようやく、苦し紛れに小さな唸りを漏らす。
「お前……そんな顔するんか」
「……ダメだった?」
史哉はちょっとだけ困ったように笑って、視線をそらした。しかし夏彦はバツが悪そうに頭をかくと、ぼそっとつぶやいた。
「……べつに、ええけど」
「……え? なに?」
「もうええっちゅーてんねん!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ夏彦に、秋斗が思い切り吹き出した。ケタケタと笑い出した秋斗に、夏彦はすぐさま視線を尖らせる。
「はは!やられたなァ、夏彦。お兄ちゃん呼びで落ちとるやん」
「落ちとらんわボケ!!」
そんなやり取りの中で、史哉は声を潜めて小さく笑った。
——こんなふうに笑ったの、いつぶりだろう。
部屋の空気はあたたかく、そして、とても優しかった。
***
「秋斗〜、夏彦〜、史哉く〜ん! 晩ご飯やで〜! 降りといで〜!」
階下から、冬美の明るい声が響いた。その声に秋斗が返事をして、すぐさま立ち上がる。
「行こか、史哉」
秋斗が手を差し出し、史哉はそれを見つめると、そっと手を取り自分の足で立ち上がった。
夏彦を先頭にリビングへと降りていく途中、ふわりと漂ってきたのは、食欲をくすぐる香ばしい肉とソースの匂い。その香りに秋斗が鼻をひくつかせると、にんまりと唇を緩めた。
「この匂い、ハンバーグやな」
言って、手を握る史哉へと振り返る。
「史哉、ラッキーやな。ハンバーグはウチのかーちゃんの一番の得意料理なんやで」
「一番は唐揚げやろ」
すかさず口を挟んだ夏彦に、秋斗は反論する。
「唐揚げはちょっと揚げすぎるときあるやん」
「うっさい、揚げたての唐揚げが一番うまいんや!」
じゃれあうような兄弟の会話を聞きながら、史哉は笑っていた。その笑みに気づいたのか、ふいに夏彦が振り返る。
「なァ、晴子の飯って美味いん?」
「……どうだろう」
その問いに、史哉は考え込むように指を唇に寄せる。
「……俺、友達のおうちで食べたことないから、比べたことなくて」
その言葉に、秋斗と夏彦は一瞬だけ黙った。それは寂しいという声ではなかったけれど、どこかに滲む静かな孤独が、ふたりの胸に届いた。
「そんなんやったら、ウチのと比べてみたらええやん」
秋斗が、あっけらかんと笑って言った。
「せやな。唐揚げの日に、また食いにきたらええんちゃう」
夏彦も、ぶっきらぼうに続いた。
史哉は驚いたように二人を見て——少しだけうつむきながらも、しかしその口元にはちゃんと笑みを浮かべていた。
「……うん。また来てもいいなら」
「ええに決まっとるやん」
「好きにせぇや」
にぎやかな会話と共に、三人はあたたかなリビングへと足を踏み入れていく。
その先には、ふわふわの湯気と、おいしそうな匂いと——それぞれの両親の笑顔が、穏やかな待っていた。
***
リビングに入ると、ダイニングテーブルの上には出来たばかりの料理がずらりと並んでいた。
それぞれの席に置かれた皿の中央には、大きなハンバーグがドンと置かれていて、周りには照り焼き風のソースがたっぷりかかっている。付け合わせの人参グラッセとポテト、サラダも彩を添え、皿の隣では、ボウル型の器にコーンスープが甘い香りの湯気を立てていた。
「わ……」
史哉が思わず声を漏らすと、冬美がエプロン姿のままにっこりと微笑んだ。
「史哉くんもお肉好きって聞いたからね。ぎょうさん作ったで〜」
「何から何まで、お気遣いに甘えっぱなしですみません」
「ホントこんなにしていただいて……ありがとうございます」
義貴は料理の豪勢さに目を丸くしながら、静かに席に着いた。その隣に晴子も座ると、笑顔を浮かべつつ、桐島家と眞城家全員は食卓に揃った、
「ほな、いただきますやな!」
「「「いただきます!」」」
清春の声に合わせて手を合わせ、元気な声が重なった。
史哉は少しだけタイミングが遅れて、ぽつりと口にした。
「……いただきます」
フォークを手に取り、ハンバーグを切る。するとすぐにじゅわっと肉汁があふれ出し、あつあつの湯気が鼻先をくすぐった。
おそるおそる、一口。
お肉はふんわりやわらかくて、ソースはじんわりと甘くて——史哉は、思わず目を見開いた。
「……おいしい」
そう口にすると、秋斗がにんまりと笑う。
「せやろ。うちのかーちゃんなかなかやるやろ?なんせ一番得意なハンバーグやからな」
「一番は唐揚げやっていうとるやろ!」
「はいはい、ケンカせんといてよ〜。どっちも得意ってことでええやん」
冬美が苦笑しながら、冷たい麦茶を配り始める。その様子を見ながら、史哉はゆっくりと周りを見回した。
誰かが笑ってる。
誰かが言い合ってる。
でも、誰も怖くない。
そんな輪に、自分がいる。
——こんな賑やかな食卓は、初めてだった。
「史哉くん、足りひんかったらおかわり言うてな?」
冬美が麦茶を手渡してくれる。小さなガラスコップを受け取ると、小さな史哉の手のひらがひんやりと冷やされていく。
「……ありがとう、ございます」
だけど、胸の奥はぽかぽかとあたたかい。
心の中に灯がともっているような、そんな温度を感じる。
「えっと……すごく、おいしいです」
フォークをそっと置いて、史哉が控えめに微笑んだ。おずおずと冬美を見つめながら、声は小さかったけれど、まっすぐな言葉には気持ちがいっぱいに込められていた。
「あらまぁ」
そんな史哉に冬美が一瞬目を丸くし、すぐにふわりと頬をゆるめた。
「史哉くん、大人しいけど、ちゃんとお礼も褒め言葉も言えるお利口さんやなぁ」
優しく笑みを返された史哉は、恥ずかしそうに目線を伏せる。
「……そんな、ことないです……」
「ほら見て見て、ちゃんと謙遜までできるやん」
冬美はからかうように、けれどあたたかい声で続けた。
「東京の子やからかもしれんけど、なんやウチの子らとは違って上品やしなぁ。雰囲気も可愛らしいし……」
と、そこで思いついたように、冬美はイタズラに目を細める。
「女の子やったらウチにお嫁さんに来て欲しかったわぁ~」
「ちょッ、いきなり何言うてんねんかーちゃ!!!」
夏彦が口にしていた水を吹き出しかけて、咳き込みながら抗議する。
「アホなこと言いすぎやろ!」
「あははッ」
隣では秋斗が、肩を揺らして笑っていた。そんな賑やかさに乗るように、晴子もまた口元を手で押さえ、冗談めかして笑った。
「あらぁ、じゃあどっちのお嫁さんになるか、ケンカになっちゃうわね〜?」
「晴子までアホなこと言うなや!!」
夏彦は赤くなりながら大声で抗議する。
「どっちもならんでええし!てか史哉は男やし、それに俺らまだガキやん!!」
「……えっと、えっと……」
史哉は顔を真っ赤にしながら、なにか言い返そうとするけど、言葉がうまく出てこない。でもその顔には、さっきまでにはなかった、照れ笑いが浮かんでいた。
温かい空気の中で、史哉は少しずつ、確かにこの家の輪の中に溶け込んでいた。