ハルソラノイロ(桐島兄弟幼馴染設定)
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ハルソラノイロ
春の空は青く、真新しかった。
引っ越し初日、重たい段ボールが積まれた新居のリビングの隅で、眞城 史哉は父から譲り受けたカメラを握りしめたまま俯いていた。
目の前では、母の晴子と父の義貴が忙しなく荷解きをしている。それを黙ったまま眺めながら、史哉は慣れない家屋をソワソワと見回していた。
ーー今日からここが、新しい家になるんだ。
東京を出て、新幹線に乗ってやってきた場所は、見知らぬ土地だ。それまで住んでいた町を離れ、大阪で暮らす。まだ小さい史哉にとって初めての引越しは少しの安心と、たくさんの不安でいっぱいだった。
これからどんな生活になるのだろう。新しい学校には馴染めるのだろうか。むくむくと膨らみ出した恐怖を感じていると、ふと外から何かが壁にぶつかる乾いた音が聞こえてきた。
「あら、何の音かしら」
母の晴子が気がつき、つぶやくように言った。
つけたばかりのカーテンを開き外をのぞくと、隣家の庭では、一人の少年が壁当てをしていた。
金属製の柵の向こう、隣家の庭の奥。そこには、片側だけが長い、特徴的な前髪の少年がいた。史哉とそう変わらない歳頃であろうその子は、額に汗を光らせながら、何度も同じフォームで左腕を振っている。
「あの子、一生懸命投げてるわね」
「いいキッカケになるかもしれないな。ご挨拶に行こうか。史哉、一緒に行こう」
義貴に促されても史哉はうつむいたまま動かずにいたが、晴子にそっと手を引かれると、しぶしぶと立ち上がった。
玄関を出て、義貴はすぐ隣のインターホンを押す。チャイムの音に気づいたのか、ピッチングをしていた少年がボールを拾い振り返った。しかしすぐに視線を戻すと、何も言わずに壁当てを再開した。
ーーピンポーン、ピンポーン。
音が二度鳴り響く。すると、インターホン越しにこの家の母親だと思われる女性の声が聞こえた。
「はいはーい。どちらさま?」
「突然すみません。今度隣に越してきました眞城と申します。引っ越しのご挨拶に参りました」
「まぁご丁寧にどうも。待っててくださいね、今開けますから」
そう言ってまもなく開いたドアから出てきたのは、快活そうな女性だった。整ったショートヘアに、どこか涼しげで印象的な瞳。明朗な中にも女性らしさのある、綺麗な女性だった。
「どうぞどうぞ、上がってくださいな」
招かれた義貴と晴子、史哉は敷居を跨ぐ。玄関に入るとそこにはラフな格好をした、父親と思われる男性も一緒に立っていた。義貴は玄関に立つと頭を下げ、丁寧に手土産を差し出す。
「初めまして。東京から引っ越してきました眞城義貴と申します。こちらは妻の晴子と、息子の史哉です」
「まあまあ、ご丁寧にありがとうございます。私は桐島冬美いいます。そんでこっちはーー」
「桐島清春いいます。どうも初めまして」
男性ーー桐島清春はひょろりとした体格で、親しげな笑顔が印象的な朗らかな人物だった。義貴は一礼しながらも、にこやかに笑顔を返す。
「桐島さん。これから色々とご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「堅苦しいのはええですって。困った時はお互い様でやってきましょ」
気さくにそう返すと、清春はふと史哉に目を止める。
「史哉くんいうたな。ウチにも史哉くんと同じくらいの子二人おるんですよ。よかったら上がってきません?」
「まぁ、いいんですか?ありがとうございます」
晴子が驚いたように笑顔を浮かべながらも、遠慮なく申し出を受ける。史哉はその後ろに隠れ、止めるように晴子の服を引いたが、すでに両親は乗り気だ。
ーーいきなり知らない人の家に上がるなんて。
そう思い尻込んでいた史哉のその耳には、まだ庭から聞こえる、ボールの音が届いていた。
リビングに通されると、広々とした空間にはどこか安らぐ木の香りがふわりと漂った。
テレビではニュースが流れ、ソファには小さな少年がだらしなく寝転がりながら、スマホをいじっている。
ツンツンと逆立った髪と切れ長の目。口元には、明らかな不機嫌さが漂っている。
「夏彦!お客さん来とるから挨拶しぃ!」
冬美がだらりとした様子を咎めるように声をかけるが、少年はキッと目尻を釣り上げ反発する。
「はァ?なんで俺があいさつせなアカンねん!」
夏彦と呼ばれた少年は不満をあらわにして、スマホを持った手をそのまま上に突き上げた。冬美がピシャリと睨みつけ、「あんたまたそんな口きいて!」と叱ると、ようやく夏彦はグネグネと体をよじり腰を上げる。
「ダリ〜」
ダルそうに立ち上がりながら、史哉をちらりと一瞥する。その瞳の鋭さに、史哉はびくりと身を竦めた。
「夏彦ォ!も〜!」
少年の態度に呆れながらも冬美は義貴たちに向き直ると、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「ホンマすみません、誰に似たんかわからんくて。夏彦いいます。春から小学2年なんやけど……この通りで」
「あら、じゃあウチの史哉と同じね」
晴子が優しく笑いかけると、冬美と夏彦の視線が一斉に史哉へ向いた。
びくっ。史哉の小さな肩がわずかに震える。
まっすぐに見つめられたことに気づくと、史哉はうつむき加減で手のひらをギュッと握りしめる。
「……その…… 眞城、史哉です」
か細い声が、ようやく彼の口からこぼれた。聞き取れたかどうか分からないくらいの、小さな声。夏彦はそんな史哉をじっと見つめる。
「何言うたか全然聞こえへんわ。声ちっさ」
さらりと返された刺々しさに刺され、史哉は視線を伏せた。
ーー怖い。早く帰りたい。
立ち塞がる恐怖に、うっすらと涙が滲みそうになる。
そんな不安の沈黙を破ったのは、もう一人の少年の足音だった。
「かーちゃん、誰か来とんの?」
廊下から声がして、リビングに入ってきたのは、先ほど庭で壁当てをしていた少年だった。
汗ばんだ額を拭い、手にはグローブを持っている。右目は長い前髪に隠されていて見えないが、左目の目元は涼しげで、冬美と夏彦とよく似ていた。少し日焼けした頬は健康的だ。
史哉が思わず目を向ける。
この子は、さっきの――
「お隣に越してきた眞城さんやで」
冬美がもう一人の少年に嬉しそうに紹介する。
「その子は史哉くんいうて、夏彦と同い年やて。秋斗の一個下やね」
「ああ、そうなんや」
秋斗は頷くと、「桐島秋斗です」としっかりとした声で挨拶をした。義貴と晴子が自己紹介を返しながらにこやかに頭を下げると、秋斗の視線がふと史哉に向く。
ぱちりと、二人の目が合った。
史哉はわずかにたじろぎながら、絞るように声を出した。
「あ、あの…… 眞城、史哉です」
また声が小さいと言われるだろうか。史哉が怯えていると、秋斗は一瞬きょとんとしたが、すぐに目元を和らげた。
「史哉いうんか。なんや大人しいな。夏彦とは大違いやな」
「はァ?なんやねんそれ!文句あるんかクソあにき!」
すかさず夏彦が反応し、ソファのクッションを秋斗に投げつけた。秋斗はクッションを片手で受け止めながら、あっけらかんと返す。
「ホンマのこというただけで文句やないわ」
「どう聞いても文句やろ、アホ!」
史哉は始まった兄弟のそのやりとりを、ぽかんと見つめていた。
スピーディーにポンポンと交わされる会話。ケンカのようでいて、でもどこか楽しげで。そう感じた史哉は、ほんの少しだけ、胸の奥にあった硬い氷が解けかけたような気がした。
「この通り面倒くさいヤツやから、夏彦にはあんま関わらん方がええで」
秋斗がぽつりと、しかしわざと聞こえるような声で史哉に言う。すると、夏彦がバチリと反応した。
「はァ!?なんやとクソあにき!!」
ソファを飛び出し、夏彦は秋斗に詰め寄る。
「誰が面倒くさいや!どつくぞ!!」
その剣幕に史哉は思わずびくりと肩をすくめ、晴子の背からそっと服を握りしめた。
「あらまあ」
苦笑しつつ、そっと史哉の頭をなでる。晴子は背後の史哉ににこりと笑顔を残すと、正面でケンカする兄弟に、のんきに声をかけた。
「秋斗くんと夏彦くん、二人ともお母さんソックリねぇ。将来きっとイケメンになるわね」
「はァ?」
「それはどうも~!」
場違いな言葉に水を差され、拳を振いかけてた夏彦の手が止まった。話題の的となった冬美は、用意していたお茶を盆に乗せ、キッチンからヒョイと笑顔を出す。
「せやけど性格までは似んでねぇ。私に似たら、もう少し大人しゅうなったと思うんですけど」
義貴たちを席に勧めた冬美は、どこかひょうきんな様子で肩をすくめた。そんな冬美に、秋斗は即座に口を挟む。
「いや、かーちゃんも相当にぎやかやけどな」
「誰がやねん!!」
「うわ、出た!かーちゃんのツッコミ!」
秋斗が笑いながらおどけると、場は一転して和やかになる。夏彦ももう、苛立ちをどこかに放り投げたようだ。
お茶が入った湯呑が配られる。温かな湯気とその会話の空気に、史哉は胸の奥で何かがゆるりとほどけていく気がした。
怒鳴り声も笑い声も、知らない町の知らない家なのに、どうしてだろう……どこか、あたたかくて。
ーーここなら、大丈夫かもしれない。
ほんの少しだけ、そう思った。
「夏彦くんはずいぶんヤンチャなのねぇ」
「ヤンチャ言うなババァ!」
晴子がにこやかに言うと、夏彦がすかさず尖らせた目で振り返った。そして、悪びれもせず睨みつける。
その瞬間、リビングが一瞬静まったが――
「まあッ、ババァだなんて!」
大げさに目を見開いた晴子はすぐに朗らかな笑みに変え、ひょいっと身をかがめて夏彦へと手を伸ばした。
「そんなこというおクチはどれかしら〜?」
「ちょッ、やめッ、あーッ!痛ッた!!」
夏彦の両頬を、晴子の両手の指がつまみ上げる。強すぎず、けれど弱すぎず。そのやや痛い加減に、夏彦がバタバタと手足を振るう。
「やッ、やめろやババァーー!!」
「まだ言うのねぇ?」
くすくすと笑いながら、晴子はさらに少し力を入れる。ぎゅうっ、とつねられる頬に、夏彦は眉を顰めて晴子を睨む。
「ホンマにやめろや!離せ!!」
夏彦が珍しく翻弄されている。そう思いながらも冬美と清春は苦笑いを浮かべ、頭を下げる。
「晴子さん、ウチのがホンマ失礼してまって……もう、しばいたってください!」
「いえいえ、おもしろくって可愛いわぁ。ウチの子もこのくらい元気だったらよかったのに」
言われて、史哉は小さく目を丸くした。晴子が自分を見て、にこっと含蓄に微笑む。
それがまるで、「大丈夫よ」と言ってくれているようで。史哉は少しだけ安心したように、肩の力を抜いていった。
ーーしかし。
「なァお前。晴子の子なんやろ」
ようやく解放された夏彦にふと歩み寄られ、史哉はまたも硬直する。
「さっきからずっとビクビクしとるけど、ホンマに晴子の子なんか?全然ちゃうやん。めっちゃ気ィ弱そうやし、すぐ泣きそうやし」
その言葉に、史哉の身体がぴくりと揺れた。
夏彦の口調は口さがないものだったが、攻撃する意図はなく、ただの好奇心から出たものだ。けれどその荒っぽさが、史哉の胸に鋭く突き刺さる。
瞬間――まぶたの裏に、過去の情景がフラッシュバックした。
ビリビリと音を立てて破られた大切な写真。
「ーーこんなものッ!」と叫ぶ男の子の声。
目の前でヒラヒラと床に落ちていく、宝物だったものーー
「……っ!」
史哉の顔色がさっと青ざめ、細い肩が震え出す。
息がうまく吸えない。冷たくなる手で、無意識に服の裾をきゅっと握りしめる。
「は?」
史哉の急変に、夏彦が驚いたように動きを止めた。
「おい、史哉……?」
秋斗もすぐに異変に気づき、眉をひそめて顔を覗き込む。
その時――
「ごめんね」
優しい声が割って入った。
声の主は義貴だった。史哉のそばにすっと立ち、彼の肩に手を置き、宥めるように撫でている。
「ウチの史哉は……ちょっと気が弱くてね。びっくりさせちゃってごめんね」
義貴の静かな微笑みに、場の空気がふわりとやわらぐ。
「…… 史哉、なんや顔色悪いやん」
秋斗が軽口を控えて、真剣な表情で言った。
「夏彦のこと、そんなに怖かったん?」
夏彦はその言葉に呆然とし、「なんやねん」とぽつりつぶやいた。
史哉は何も言わなかった。ただ俯いたまま、口元をぎゅっと結んでいる。
だがその背中を父の手が包んでくれていることだけは、確かな頼もしさとして感じていた。
「……ふつうに話しかけただけやろ!」
上ずった夏彦の声が上がる。驚きと、戸惑いと、少しの苛立ちが混ざったような声だった。
「なにそんなビクついてんねん!別になんもしてへんやろ!」
言いながら、夏彦自身、何にこんなに動揺しているのかよくわかっていなかった。
ただ、自分の言葉で誰かがこんなにも青ざめて怯えるのはーー初めてだった。
「そういう言い方がアカンねん」
秋斗がすっと夏彦の前に立ち、穏やかに、しかしはっきりと釘を刺した。
「お前、怒鳴ってるつもりなくても声デカいしトゲあんねん。そら怖がるわ」
夏彦は口を開いたが何も言えず、唇を噛んだまま視線をそらした。秋斗はそんな弟に一瞥をくれたあと、ふっと視線を史哉に戻す。
「史哉」
優しい声音で、名を呼んで。
秋斗は、そっと手を差し出した。
「コイツすぐブチギレんねん。俺にも、昔からしょっちゅう噛みついてくるしな」
少しおどけたような調子で笑ってみせる。すると、史哉は恐る恐る伏せた瞳を戻した。
「夏彦は置いて、俺と二階の部屋行くか?」
史哉は秋斗の手を見つめたまま、迷うようにまばたきを繰り返す。それでも――どこか安心できる何かを感じて、小さくうなずいた。
秋斗の手が、やわらかく史哉の手を包む。
「ほな行こか」
リビングを出ていく二人の背中を、夏彦は複雑な表情で見送った。何も言わずに、ただ史哉、の怯えた目だけが胸に刺さって抜けなかった。
「あらぁ…… 史哉が秋斗くんの手を取るなんて」
二人の光景を見送った晴子が、ぽつりと感嘆の声を漏らす。
ふだん人に触れられるのさえ怖がる史哉が、自分から誰かについていくなんて――
それだけで、晴子にとっては信じられない出来事だった。
「史哉くんは大人しい子なんやなぁ。ウチの兄弟とは大違いやな」
清春が静かに笑いながら言った。その言葉に義貴は小さく頷き、手にした湯呑をテーブルに戻すと、柔らかく微笑んで話し始めた。
「……実は、東京で通ってた学校で、史哉にちょっと辛いことがありまして」
隣の晴子はそっと目を伏せ、何も言わずに静かに耳を傾けている。
「人間関係がうまくいかなくて……それがキッカケで、しばらく学校にも行けなくなってしまったんです」
リビングの空気が、少しだけ静まり返る。
「環境変えたら、何か変わるんじゃないか。立ち直れるキッカケが掴めるかもしれない……そう思って、思い切って引っ越してきたんです」
義貴はそう言いながら、自然と夏彦の方を見た。まだ少しむくれたようにソファに座っている夏彦に向かって、義貴はにこりと優しく微笑みかける。
「秋斗くんや夏彦くんみたいに、歳の近い子が仲良くしてくれたら……僕としても、本当に嬉しいよ」
夏彦はサッと視線をそらした。でもその顔には、さっきの苛立ちも怒りも、もう残っていなかった。
ただ、居心地の悪そうな、でもちょっと悔しそうな――そんな、どこか照れくさそうな顔をしていた。
春の空は青く、真新しかった。
引っ越し初日、重たい段ボールが積まれた新居のリビングの隅で、眞城 史哉は父から譲り受けたカメラを握りしめたまま俯いていた。
目の前では、母の晴子と父の義貴が忙しなく荷解きをしている。それを黙ったまま眺めながら、史哉は慣れない家屋をソワソワと見回していた。
ーー今日からここが、新しい家になるんだ。
東京を出て、新幹線に乗ってやってきた場所は、見知らぬ土地だ。それまで住んでいた町を離れ、大阪で暮らす。まだ小さい史哉にとって初めての引越しは少しの安心と、たくさんの不安でいっぱいだった。
これからどんな生活になるのだろう。新しい学校には馴染めるのだろうか。むくむくと膨らみ出した恐怖を感じていると、ふと外から何かが壁にぶつかる乾いた音が聞こえてきた。
「あら、何の音かしら」
母の晴子が気がつき、つぶやくように言った。
つけたばかりのカーテンを開き外をのぞくと、隣家の庭では、一人の少年が壁当てをしていた。
金属製の柵の向こう、隣家の庭の奥。そこには、片側だけが長い、特徴的な前髪の少年がいた。史哉とそう変わらない歳頃であろうその子は、額に汗を光らせながら、何度も同じフォームで左腕を振っている。
「あの子、一生懸命投げてるわね」
「いいキッカケになるかもしれないな。ご挨拶に行こうか。史哉、一緒に行こう」
義貴に促されても史哉はうつむいたまま動かずにいたが、晴子にそっと手を引かれると、しぶしぶと立ち上がった。
玄関を出て、義貴はすぐ隣のインターホンを押す。チャイムの音に気づいたのか、ピッチングをしていた少年がボールを拾い振り返った。しかしすぐに視線を戻すと、何も言わずに壁当てを再開した。
ーーピンポーン、ピンポーン。
音が二度鳴り響く。すると、インターホン越しにこの家の母親だと思われる女性の声が聞こえた。
「はいはーい。どちらさま?」
「突然すみません。今度隣に越してきました眞城と申します。引っ越しのご挨拶に参りました」
「まぁご丁寧にどうも。待っててくださいね、今開けますから」
そう言ってまもなく開いたドアから出てきたのは、快活そうな女性だった。整ったショートヘアに、どこか涼しげで印象的な瞳。明朗な中にも女性らしさのある、綺麗な女性だった。
「どうぞどうぞ、上がってくださいな」
招かれた義貴と晴子、史哉は敷居を跨ぐ。玄関に入るとそこにはラフな格好をした、父親と思われる男性も一緒に立っていた。義貴は玄関に立つと頭を下げ、丁寧に手土産を差し出す。
「初めまして。東京から引っ越してきました眞城義貴と申します。こちらは妻の晴子と、息子の史哉です」
「まあまあ、ご丁寧にありがとうございます。私は桐島冬美いいます。そんでこっちはーー」
「桐島清春いいます。どうも初めまして」
男性ーー桐島清春はひょろりとした体格で、親しげな笑顔が印象的な朗らかな人物だった。義貴は一礼しながらも、にこやかに笑顔を返す。
「桐島さん。これから色々とご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「堅苦しいのはええですって。困った時はお互い様でやってきましょ」
気さくにそう返すと、清春はふと史哉に目を止める。
「史哉くんいうたな。ウチにも史哉くんと同じくらいの子二人おるんですよ。よかったら上がってきません?」
「まぁ、いいんですか?ありがとうございます」
晴子が驚いたように笑顔を浮かべながらも、遠慮なく申し出を受ける。史哉はその後ろに隠れ、止めるように晴子の服を引いたが、すでに両親は乗り気だ。
ーーいきなり知らない人の家に上がるなんて。
そう思い尻込んでいた史哉のその耳には、まだ庭から聞こえる、ボールの音が届いていた。
リビングに通されると、広々とした空間にはどこか安らぐ木の香りがふわりと漂った。
テレビではニュースが流れ、ソファには小さな少年がだらしなく寝転がりながら、スマホをいじっている。
ツンツンと逆立った髪と切れ長の目。口元には、明らかな不機嫌さが漂っている。
「夏彦!お客さん来とるから挨拶しぃ!」
冬美がだらりとした様子を咎めるように声をかけるが、少年はキッと目尻を釣り上げ反発する。
「はァ?なんで俺があいさつせなアカンねん!」
夏彦と呼ばれた少年は不満をあらわにして、スマホを持った手をそのまま上に突き上げた。冬美がピシャリと睨みつけ、「あんたまたそんな口きいて!」と叱ると、ようやく夏彦はグネグネと体をよじり腰を上げる。
「ダリ〜」
ダルそうに立ち上がりながら、史哉をちらりと一瞥する。その瞳の鋭さに、史哉はびくりと身を竦めた。
「夏彦ォ!も〜!」
少年の態度に呆れながらも冬美は義貴たちに向き直ると、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「ホンマすみません、誰に似たんかわからんくて。夏彦いいます。春から小学2年なんやけど……この通りで」
「あら、じゃあウチの史哉と同じね」
晴子が優しく笑いかけると、冬美と夏彦の視線が一斉に史哉へ向いた。
びくっ。史哉の小さな肩がわずかに震える。
まっすぐに見つめられたことに気づくと、史哉はうつむき加減で手のひらをギュッと握りしめる。
「……その…… 眞城、史哉です」
か細い声が、ようやく彼の口からこぼれた。聞き取れたかどうか分からないくらいの、小さな声。夏彦はそんな史哉をじっと見つめる。
「何言うたか全然聞こえへんわ。声ちっさ」
さらりと返された刺々しさに刺され、史哉は視線を伏せた。
ーー怖い。早く帰りたい。
立ち塞がる恐怖に、うっすらと涙が滲みそうになる。
そんな不安の沈黙を破ったのは、もう一人の少年の足音だった。
「かーちゃん、誰か来とんの?」
廊下から声がして、リビングに入ってきたのは、先ほど庭で壁当てをしていた少年だった。
汗ばんだ額を拭い、手にはグローブを持っている。右目は長い前髪に隠されていて見えないが、左目の目元は涼しげで、冬美と夏彦とよく似ていた。少し日焼けした頬は健康的だ。
史哉が思わず目を向ける。
この子は、さっきの――
「お隣に越してきた眞城さんやで」
冬美がもう一人の少年に嬉しそうに紹介する。
「その子は史哉くんいうて、夏彦と同い年やて。秋斗の一個下やね」
「ああ、そうなんや」
秋斗は頷くと、「桐島秋斗です」としっかりとした声で挨拶をした。義貴と晴子が自己紹介を返しながらにこやかに頭を下げると、秋斗の視線がふと史哉に向く。
ぱちりと、二人の目が合った。
史哉はわずかにたじろぎながら、絞るように声を出した。
「あ、あの…… 眞城、史哉です」
また声が小さいと言われるだろうか。史哉が怯えていると、秋斗は一瞬きょとんとしたが、すぐに目元を和らげた。
「史哉いうんか。なんや大人しいな。夏彦とは大違いやな」
「はァ?なんやねんそれ!文句あるんかクソあにき!」
すかさず夏彦が反応し、ソファのクッションを秋斗に投げつけた。秋斗はクッションを片手で受け止めながら、あっけらかんと返す。
「ホンマのこというただけで文句やないわ」
「どう聞いても文句やろ、アホ!」
史哉は始まった兄弟のそのやりとりを、ぽかんと見つめていた。
スピーディーにポンポンと交わされる会話。ケンカのようでいて、でもどこか楽しげで。そう感じた史哉は、ほんの少しだけ、胸の奥にあった硬い氷が解けかけたような気がした。
「この通り面倒くさいヤツやから、夏彦にはあんま関わらん方がええで」
秋斗がぽつりと、しかしわざと聞こえるような声で史哉に言う。すると、夏彦がバチリと反応した。
「はァ!?なんやとクソあにき!!」
ソファを飛び出し、夏彦は秋斗に詰め寄る。
「誰が面倒くさいや!どつくぞ!!」
その剣幕に史哉は思わずびくりと肩をすくめ、晴子の背からそっと服を握りしめた。
「あらまあ」
苦笑しつつ、そっと史哉の頭をなでる。晴子は背後の史哉ににこりと笑顔を残すと、正面でケンカする兄弟に、のんきに声をかけた。
「秋斗くんと夏彦くん、二人ともお母さんソックリねぇ。将来きっとイケメンになるわね」
「はァ?」
「それはどうも~!」
場違いな言葉に水を差され、拳を振いかけてた夏彦の手が止まった。話題の的となった冬美は、用意していたお茶を盆に乗せ、キッチンからヒョイと笑顔を出す。
「せやけど性格までは似んでねぇ。私に似たら、もう少し大人しゅうなったと思うんですけど」
義貴たちを席に勧めた冬美は、どこかひょうきんな様子で肩をすくめた。そんな冬美に、秋斗は即座に口を挟む。
「いや、かーちゃんも相当にぎやかやけどな」
「誰がやねん!!」
「うわ、出た!かーちゃんのツッコミ!」
秋斗が笑いながらおどけると、場は一転して和やかになる。夏彦ももう、苛立ちをどこかに放り投げたようだ。
お茶が入った湯呑が配られる。温かな湯気とその会話の空気に、史哉は胸の奥で何かがゆるりとほどけていく気がした。
怒鳴り声も笑い声も、知らない町の知らない家なのに、どうしてだろう……どこか、あたたかくて。
ーーここなら、大丈夫かもしれない。
ほんの少しだけ、そう思った。
「夏彦くんはずいぶんヤンチャなのねぇ」
「ヤンチャ言うなババァ!」
晴子がにこやかに言うと、夏彦がすかさず尖らせた目で振り返った。そして、悪びれもせず睨みつける。
その瞬間、リビングが一瞬静まったが――
「まあッ、ババァだなんて!」
大げさに目を見開いた晴子はすぐに朗らかな笑みに変え、ひょいっと身をかがめて夏彦へと手を伸ばした。
「そんなこというおクチはどれかしら〜?」
「ちょッ、やめッ、あーッ!痛ッた!!」
夏彦の両頬を、晴子の両手の指がつまみ上げる。強すぎず、けれど弱すぎず。そのやや痛い加減に、夏彦がバタバタと手足を振るう。
「やッ、やめろやババァーー!!」
「まだ言うのねぇ?」
くすくすと笑いながら、晴子はさらに少し力を入れる。ぎゅうっ、とつねられる頬に、夏彦は眉を顰めて晴子を睨む。
「ホンマにやめろや!離せ!!」
夏彦が珍しく翻弄されている。そう思いながらも冬美と清春は苦笑いを浮かべ、頭を下げる。
「晴子さん、ウチのがホンマ失礼してまって……もう、しばいたってください!」
「いえいえ、おもしろくって可愛いわぁ。ウチの子もこのくらい元気だったらよかったのに」
言われて、史哉は小さく目を丸くした。晴子が自分を見て、にこっと含蓄に微笑む。
それがまるで、「大丈夫よ」と言ってくれているようで。史哉は少しだけ安心したように、肩の力を抜いていった。
ーーしかし。
「なァお前。晴子の子なんやろ」
ようやく解放された夏彦にふと歩み寄られ、史哉はまたも硬直する。
「さっきからずっとビクビクしとるけど、ホンマに晴子の子なんか?全然ちゃうやん。めっちゃ気ィ弱そうやし、すぐ泣きそうやし」
その言葉に、史哉の身体がぴくりと揺れた。
夏彦の口調は口さがないものだったが、攻撃する意図はなく、ただの好奇心から出たものだ。けれどその荒っぽさが、史哉の胸に鋭く突き刺さる。
瞬間――まぶたの裏に、過去の情景がフラッシュバックした。
ビリビリと音を立てて破られた大切な写真。
「ーーこんなものッ!」と叫ぶ男の子の声。
目の前でヒラヒラと床に落ちていく、宝物だったものーー
「……っ!」
史哉の顔色がさっと青ざめ、細い肩が震え出す。
息がうまく吸えない。冷たくなる手で、無意識に服の裾をきゅっと握りしめる。
「は?」
史哉の急変に、夏彦が驚いたように動きを止めた。
「おい、史哉……?」
秋斗もすぐに異変に気づき、眉をひそめて顔を覗き込む。
その時――
「ごめんね」
優しい声が割って入った。
声の主は義貴だった。史哉のそばにすっと立ち、彼の肩に手を置き、宥めるように撫でている。
「ウチの史哉は……ちょっと気が弱くてね。びっくりさせちゃってごめんね」
義貴の静かな微笑みに、場の空気がふわりとやわらぐ。
「…… 史哉、なんや顔色悪いやん」
秋斗が軽口を控えて、真剣な表情で言った。
「夏彦のこと、そんなに怖かったん?」
夏彦はその言葉に呆然とし、「なんやねん」とぽつりつぶやいた。
史哉は何も言わなかった。ただ俯いたまま、口元をぎゅっと結んでいる。
だがその背中を父の手が包んでくれていることだけは、確かな頼もしさとして感じていた。
「……ふつうに話しかけただけやろ!」
上ずった夏彦の声が上がる。驚きと、戸惑いと、少しの苛立ちが混ざったような声だった。
「なにそんなビクついてんねん!別になんもしてへんやろ!」
言いながら、夏彦自身、何にこんなに動揺しているのかよくわかっていなかった。
ただ、自分の言葉で誰かがこんなにも青ざめて怯えるのはーー初めてだった。
「そういう言い方がアカンねん」
秋斗がすっと夏彦の前に立ち、穏やかに、しかしはっきりと釘を刺した。
「お前、怒鳴ってるつもりなくても声デカいしトゲあんねん。そら怖がるわ」
夏彦は口を開いたが何も言えず、唇を噛んだまま視線をそらした。秋斗はそんな弟に一瞥をくれたあと、ふっと視線を史哉に戻す。
「史哉」
優しい声音で、名を呼んで。
秋斗は、そっと手を差し出した。
「コイツすぐブチギレんねん。俺にも、昔からしょっちゅう噛みついてくるしな」
少しおどけたような調子で笑ってみせる。すると、史哉は恐る恐る伏せた瞳を戻した。
「夏彦は置いて、俺と二階の部屋行くか?」
史哉は秋斗の手を見つめたまま、迷うようにまばたきを繰り返す。それでも――どこか安心できる何かを感じて、小さくうなずいた。
秋斗の手が、やわらかく史哉の手を包む。
「ほな行こか」
リビングを出ていく二人の背中を、夏彦は複雑な表情で見送った。何も言わずに、ただ史哉、の怯えた目だけが胸に刺さって抜けなかった。
「あらぁ…… 史哉が秋斗くんの手を取るなんて」
二人の光景を見送った晴子が、ぽつりと感嘆の声を漏らす。
ふだん人に触れられるのさえ怖がる史哉が、自分から誰かについていくなんて――
それだけで、晴子にとっては信じられない出来事だった。
「史哉くんは大人しい子なんやなぁ。ウチの兄弟とは大違いやな」
清春が静かに笑いながら言った。その言葉に義貴は小さく頷き、手にした湯呑をテーブルに戻すと、柔らかく微笑んで話し始めた。
「……実は、東京で通ってた学校で、史哉にちょっと辛いことがありまして」
隣の晴子はそっと目を伏せ、何も言わずに静かに耳を傾けている。
「人間関係がうまくいかなくて……それがキッカケで、しばらく学校にも行けなくなってしまったんです」
リビングの空気が、少しだけ静まり返る。
「環境変えたら、何か変わるんじゃないか。立ち直れるキッカケが掴めるかもしれない……そう思って、思い切って引っ越してきたんです」
義貴はそう言いながら、自然と夏彦の方を見た。まだ少しむくれたようにソファに座っている夏彦に向かって、義貴はにこりと優しく微笑みかける。
「秋斗くんや夏彦くんみたいに、歳の近い子が仲良くしてくれたら……僕としても、本当に嬉しいよ」
夏彦はサッと視線をそらした。でもその顔には、さっきの苛立ちも怒りも、もう残っていなかった。
ただ、居心地の悪そうな、でもちょっと悔しそうな――そんな、どこか照れくさそうな顔をしていた。
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