ちはつち『Look over here』
こんなはずじゃなかった。
そんなセリフを、今日も俺は心の奥で呟き続けていた。朝起きてから夜寝るまでの間、過ごす時間の端々に葛藤は湧き、苦悩は生まれる。とりわけ、学校で過ごす時間は特にひどい。なぜなら、この苦しみの原因である土屋さんと接触する機会が多いからだ。
もちろん、彼に非があるわけではない。この苦しみは彼に対して誤った感情を抱いてしまった自分のせいであって、俺自身が一人、勝手に心を揺り動かされているだけなのだから。
ふつ、とまた、脳裏に土屋さんの笑顔が浮かぶ。もう何度想い浮かべたかもわからない面影は、初めこそふわふわとした光のように頼りないものだったが、繰り返されるたびに鮮明さは増し、今では白昼夢めいてさえいる。
シャープペンを走らせ、ノートの隅を無意味に黒く塗りつぶす。授業中だというのに、こんな風に彼のことを考る隙があるのが憎い。それもこれも、静まり返った教室に響くこの念仏のような古典教師の読み上げが悪い。板書もない問題もない時間は冗長すぎて、自然と思考が逸れる。せめて俺の興味を引くだけの授業をして欲しい。
そんな願いも虚しく、時間は遅々と針を刻む。腕時計にチラリと目を落とすと、さっき確認した時から十分も進んでいない。
絶望すら感じながらふと窓の方へと目を向けると、開け放たれた窓の外、晴れ渡った秋空の下から体育を行っているクラスの声がかすかに聞こえた。今は昼休み前の四時限目であり、たしか、土屋さんのクラスが体育をしているはずだ。何気ない会話の中で得た情報が巡り、俺の意識は一気に外へと向かう。
窓際の席ではないうえ、グラウンドが見えるような教室の位置でもないというのに、必死すぎやしないか。俺の中の冷静な俺が、馬鹿な直情を嘲笑する。それでも想いを馳せることをやめられないのだから、どうしようもない。
見ないふりをして、名を付けずに放置していたこの病は、すでに重症の域だ。今となってはもう手遅れもいいところで、得意な上辺の笑顔を貼りつけて接しながらも、内心ではその疼きの意味を痛感させられている。
だけどどうしたって認め難いのだ。この、「恋」という感情は。
いくら良い先輩とはいえ、男に向けるには悪趣味なベクトルだという自覚はあるし、何より、土屋さんは俺をそんな目で見ていないのがわかるからこそ、どうする事も出来ずにいる。彼にとって俺のカテゴリは部活仲間で、後輩という立場ながら野球が出来て、時には教えてくれる人とか、そんな程度のものだろう。
今の関係が妥当でベストな距離だと理解しているし、それ以上は望むべくもない。これから先、彼と過ごす時間はせいぜい良い後輩でいる事が一番だと思っているし、それが出来るという自負もあった。
そう、俺は、友情と恋情を両天秤にかけても、その重さを均等に保ち続けられると思っていたんだ。この感情は友好の線上を少し過ぎただけのものであって、盲目的なまでの恋心でも、生々しいほどの欲情でもないと信じていたからだ。
だが実際はどうだ。今では朝から晩まで事あるごとに彼の姿、彼の表情、彼の言葉一つ一つを浮かべては、切なさに苦しんでいるじゃないか。内心浅く見下していたクラスメートの色恋沙汰や、安い恋愛ドラマで耳にする「一日中好きな人のことで頭が一杯」なんてものを、今の俺は笑えない。因果応報とはまさにこのことだ。
さらに白状すると、良い後輩でいる事が一番などと体裁のため内外的に取り繕ってはいるが、正直穏やかではいられないし、大人しくもしていない。想いが強まるにつれ、いっそ避けだすくらいあからさまな態度になるかと思いきや、むしろ積極的に接点を持とうと躍起になっている自分に戸惑ってすらいる。
土屋さんを意識するきっかけになった盗塁の勉強会も、なんだかんだ理屈をこねて誘導し、その後二週に一回の定期開催に結びつけたくらいだ。我ながらなかなかの計算高さ、強かさだと思う。
グルグルと彼のことを考えていると、気づけば時が止まっているのではと感じていた時間は過ぎ、授業は終礼に入っていた。教師のやる気がないのか、本来の予定より五分近く早い。
退屈な束縛から解放されたクラスメートは一足早い昼休みの訪れに沸き立ち、購買のパン戦争に向かう者はこれ幸いとフライングダッシュを始めた。俺はその戦争を横目にし、鞄から持参した昼食を取り出すと、暗黙の部の集まりになった屋上での昼食に備える。天気もいいし、少し早めに行くのも悪くない。
そう思って席を立つと、隣の席の藤堂くんが机の引き出しに手を突っ込み、苦い顔でクシャクシャのプリントを引き出した。
「ヤベェ。進路希望調査出すの忘れてた」
「何日前の提出物だかわかってます?早く出せって何度も担任が言ってたじゃないですか」
「うるせーな、出したつもりだったんだよ」
シワだらけのプリントには確かに記載した痕跡がある。が、書き殴られた字もプリントの状態も酷いものだ。雑極まりない。
「しゃーねェ、職員室行って提出してからメシ行くわ」
「特に待ってませんのでごゆっくり」
「別に待ってろとは思ってねーけど、言い方がムカつくわー」
睨みと悪態を置き土産にして、藤堂くんは教室を後にした。徐々に他のクラスも昼休みに入り始めたのか、やや遠い騒めきが耳に届き始める。俺は騒がしさが本格的になる前に教室を後にすると、まだ人の少ない廊下から屋上に向かう階段を目指した。
その先に待つ、土屋さんとの時間を強く思い描きながら。
「あ、千早くん!今日は早いね」
屋上への扉を開けた途端、そこには会いたいと焦がれていた件の人物がいた。それも、彼以外誰もいないという副産物付きでだ。俺は目の前に用意されたあまりの幸運に動揺し、周囲に視線を巡らせると、背後の校内へも意識を向けた。やはり屋上には俺と土屋さん以外いないし、階下からやってくる人の気配も今のところない。
あまりにも恵まれた状況に、早く誰かが来てほしいような、逆にこのまま誰も来てほしくないような相反した感情が争いだす。
「土屋さんこそ、早かったんですね」
さも自然な態度を装い、屋上の扉を閉めて。コンクリートの壁に凭れて座る彼の真向かいをさりげなく陣取り、同じく腰を下ろす。正面には三角に折った膝を立てた土屋さんがいて、目が合うとにこりと微笑まれた。良い位置だ。
「僕は前の授業体育で、時間より少し早く終わったんだ。だから一番乗りしちゃった」
「なるほど。俺のクラスもやる気のない古典教師のおかげで早く終わったんですよ。退屈な授業だったんで助かりました」
「そうなんだ。あれ?藤堂くんは一緒じゃないの?」
「提出物を出し忘れたとかで職員室に行きましたよ。しばらくしたら来るんじゃないですかね」
「そっか。要くん達もまだだね。もうすぐ来るかな」
ふと出来た会話の隙間に、「そうだ!」と土屋さんが唐突に声を上げた。何かを思い出したのか、ブレザーのポケットからスマホを取り出すと液晶をタップし、画面を俺へと見せつけてくる。
「あのね、昨日新しいゲーム始めたんだけど、このゲームのキャラがすごく千早くんに似てるんだ!」
差し出されたスマホに軽く身を乗り出し、注目する。ゲームジャンルはRPGだろうか。画面には、ファンタジー風に描かれた参謀役らしき外見の青年が映っていた。
赤い縁の眼鏡をかけ、少し外へ跳ねた髪型や色はたしかに俺に通じるものがある。とはいえ、そこまで似ているかと言われると少々懐疑的だが。
「見た目もだけど、話し方とか性格がすごく似てるんだよ。昨日から始まったイベントにこのキャラが出てるんだけど、めちゃくちゃカッコいい活躍してて、ホント最高で」
ーーこの語りは長くなりそうだな。
そう予想していたのに、意外にもゲームの話が繰り広げられることはなかった。スマホを自分の手元に戻し、じっと画面を見つめた土屋さんは、ほぅ、と感慨深げな吐息を落とす。
「千早くんに似てるなって思ったら、他のキャラもみんなに似てるなって思うところが出てきてさ。改めて清峰くんや要くん、藤堂くんや千早くんってみんなカッコいいし、存在が二次元だなって実感しちゃって」
他のメンバーと並べられてではあるが、カッコいいと言われるのは満更でもない。というか、もっと言って欲しいくらいだ。だがそんな喜びを無様に晒すわけにはいかず、俺は緩みそうになる口元を引き締めつつ、「そうですか?」なんてとぼけた相槌をうつ。
「そうだよ!みんなが野球してるところなんて、特にカッコいいんだから!」
控えめに受け止めると土屋さんの語調は強まり、グイグイと押してきた。更なる賞賛を浴びせられながら、引いてみたのは正解だったと隠れてほくそ笑む。
「真剣な表情で野球してるみんなの姿って、すごくキラキラして見えるんだよ。乙女ゲーの攻略対象なんじゃないかって思っちゃうくらい」
ゲームに例えるあたりが土屋さんらしいなと思いつつも、次々と飛び出す褒め言葉にもう内心テンションは青天井状態だ。
今日は良い一日だ。
ーーそう断言したくなるほど、気を良くしていたのに。
「でも、その中でも究極の二次元ってやっぱ圭様だよね!あの完璧さ、すっごくカッコいいよね〜。ホント智将って感じで、隙がないし」
彼の口から出た他者への最大の賛辞でブレーキがかかり、チリ、と心底に小さな火花が走る。
「僕なんて何ひとつ自信ないから、何でも出来て堂々としてる圭様に憧れちゃって。あんな風になれたら、世界が違って見えるんだろうなぁ」
さっきまでの高揚感に水をかけられ、一転、急速に冷えた心地が胸を支配する。走った火花が知らない導火線に火を点け、ジリジリと心を端から焦がしていく。
ゆっくり、ゆっくりと。カウントダウンをするように。
「……俺たちが攻略対象なら、山田くんや土屋さんはどんな位置なんですか?」
予想以上に平坦になった俺の口調に、しかし土屋さんは気がつかない。話を振られて一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに彼の見解は早口で続けられる。
「山田くんも野球上手いし優しいし、攻略対象だよね。親友キャラに見せかけて隠しルートで攻略対象!とか。でも僕はせいぜいモブキャラーー」
「なるほど、それでは」
話を遮り、トン、と立てたローファーの爪先を鳴らして。
前のめりに伸ばした両手を、彼の背後の壁に押しつけて。
ーー黒く篭った感情を、表情に乗せて。
「土屋さんは俺に攻略される側、というわけですね」
俺は、これ以上ないくらいの笑顔で笑った。
時が進むのを放棄した。
そう錯覚するほどに息詰まる時間が訪れ、俺の両腕と壁に囲われた狭い空間では、土屋さんがつぶらな瞳をこれでもかと見開いていた。いつも前髪で隠れがちな双眸はこんな時に限ってはっきりと見えていて、気まずい事この上ない。
低い中天の太陽が俺に遮られ、土屋さんに影を落とす。その薄暗さを目にし、急速に冷静さを取り戻した俺は、血の気が引くと同時に、背筋が凍る思いに強襲される。
勢いとはいえ、俺はなんて事をしでかしているんだ。
取り返しのつかない状況にどうしていいかわからずにいると、驚いたまま硬直していた土屋さんの唇が、わずかに動いた。
「………………かッ」
発せられた、小さな言葉の切れ端。
それを耳にした瞬間、一気に恐怖に慄いた俺は慌てて身を離し、顔を大きく背けた。
ーー言葉の先を知るのが怖い。
体感したことのない怖ろしさにビビり、途端に、自分の弱さとカッコ悪さをこれでもかというほど思い知らされる。
「飲み物を忘れましたので、ちょっと買いに行ってきます」
それでも去勢を張りバランスを保とうとするのが、いかにも俺らしい。かろうじていつもの自分を取り繕うと、何でもなかったように振る舞い、俺はなるべくゆっくりと体勢を整え席を立った。
逃げの一手を選びつつも、距離を離した土屋さんを視界の端で捉えれば、こちらを凝視しているのが見える。
その視線の意味は単なる驚愕か、それとも、嫌悪なのか。
余裕のない今の俺には図り知ることは出来ないし、何より、脳も心も知りたくないと強く拒否をしている。
俺の言い訳に、土屋さんからの応答はない。焦れた俺は屋上の扉を開き、そのまま校内へと退避をすると、無心で階段を降り続けた。
昼休みの喧騒に、乱れた心を紛れさせ。
地に付して叫びたい想いを、数分前の自分を叱りつけたい想いを、グッと喉の奥で堪える。
後悔と恥にまみれた、行き場のない身と想い。そんな重荷を抱えながら、俺は校内を彷徨うのだった。
その後の俺がどうしたかというと。
事実証明のために本当に飲み物を買いに行った俺は、たまたま途中で藤堂くんと鉢合わせし、ここぞとばかり合流しては屋上へと戻ったのだった。
今度は土屋さんだけでなく要くんたちも揃っていて、いつもの部の集まりに変遷していることに深く安堵すると、俺は何食わぬ顔で輪に加わり昼食を広げた。
俺が作り出したあの異様な空気と時間は、もうどこにもなかった。
わざと彼の視界から外れるような位置に座って、世間話に合わせて。
疼き響く、胸の苦しみを隠し続けて。
そんな臆病な俺だからこそ、知るよしもなかった。
知りたくないと拒否した、彼の発した言葉、『か』の続きが、まさか。
『かッ、壁ドンだ……。すごい……二次元みたい』
ーーそんな斜め上の感想で、胸をときめかせていたなんて。
そんなセリフを、今日も俺は心の奥で呟き続けていた。朝起きてから夜寝るまでの間、過ごす時間の端々に葛藤は湧き、苦悩は生まれる。とりわけ、学校で過ごす時間は特にひどい。なぜなら、この苦しみの原因である土屋さんと接触する機会が多いからだ。
もちろん、彼に非があるわけではない。この苦しみは彼に対して誤った感情を抱いてしまった自分のせいであって、俺自身が一人、勝手に心を揺り動かされているだけなのだから。
ふつ、とまた、脳裏に土屋さんの笑顔が浮かぶ。もう何度想い浮かべたかもわからない面影は、初めこそふわふわとした光のように頼りないものだったが、繰り返されるたびに鮮明さは増し、今では白昼夢めいてさえいる。
シャープペンを走らせ、ノートの隅を無意味に黒く塗りつぶす。授業中だというのに、こんな風に彼のことを考る隙があるのが憎い。それもこれも、静まり返った教室に響くこの念仏のような古典教師の読み上げが悪い。板書もない問題もない時間は冗長すぎて、自然と思考が逸れる。せめて俺の興味を引くだけの授業をして欲しい。
そんな願いも虚しく、時間は遅々と針を刻む。腕時計にチラリと目を落とすと、さっき確認した時から十分も進んでいない。
絶望すら感じながらふと窓の方へと目を向けると、開け放たれた窓の外、晴れ渡った秋空の下から体育を行っているクラスの声がかすかに聞こえた。今は昼休み前の四時限目であり、たしか、土屋さんのクラスが体育をしているはずだ。何気ない会話の中で得た情報が巡り、俺の意識は一気に外へと向かう。
窓際の席ではないうえ、グラウンドが見えるような教室の位置でもないというのに、必死すぎやしないか。俺の中の冷静な俺が、馬鹿な直情を嘲笑する。それでも想いを馳せることをやめられないのだから、どうしようもない。
見ないふりをして、名を付けずに放置していたこの病は、すでに重症の域だ。今となってはもう手遅れもいいところで、得意な上辺の笑顔を貼りつけて接しながらも、内心ではその疼きの意味を痛感させられている。
だけどどうしたって認め難いのだ。この、「恋」という感情は。
いくら良い先輩とはいえ、男に向けるには悪趣味なベクトルだという自覚はあるし、何より、土屋さんは俺をそんな目で見ていないのがわかるからこそ、どうする事も出来ずにいる。彼にとって俺のカテゴリは部活仲間で、後輩という立場ながら野球が出来て、時には教えてくれる人とか、そんな程度のものだろう。
今の関係が妥当でベストな距離だと理解しているし、それ以上は望むべくもない。これから先、彼と過ごす時間はせいぜい良い後輩でいる事が一番だと思っているし、それが出来るという自負もあった。
そう、俺は、友情と恋情を両天秤にかけても、その重さを均等に保ち続けられると思っていたんだ。この感情は友好の線上を少し過ぎただけのものであって、盲目的なまでの恋心でも、生々しいほどの欲情でもないと信じていたからだ。
だが実際はどうだ。今では朝から晩まで事あるごとに彼の姿、彼の表情、彼の言葉一つ一つを浮かべては、切なさに苦しんでいるじゃないか。内心浅く見下していたクラスメートの色恋沙汰や、安い恋愛ドラマで耳にする「一日中好きな人のことで頭が一杯」なんてものを、今の俺は笑えない。因果応報とはまさにこのことだ。
さらに白状すると、良い後輩でいる事が一番などと体裁のため内外的に取り繕ってはいるが、正直穏やかではいられないし、大人しくもしていない。想いが強まるにつれ、いっそ避けだすくらいあからさまな態度になるかと思いきや、むしろ積極的に接点を持とうと躍起になっている自分に戸惑ってすらいる。
土屋さんを意識するきっかけになった盗塁の勉強会も、なんだかんだ理屈をこねて誘導し、その後二週に一回の定期開催に結びつけたくらいだ。我ながらなかなかの計算高さ、強かさだと思う。
グルグルと彼のことを考えていると、気づけば時が止まっているのではと感じていた時間は過ぎ、授業は終礼に入っていた。教師のやる気がないのか、本来の予定より五分近く早い。
退屈な束縛から解放されたクラスメートは一足早い昼休みの訪れに沸き立ち、購買のパン戦争に向かう者はこれ幸いとフライングダッシュを始めた。俺はその戦争を横目にし、鞄から持参した昼食を取り出すと、暗黙の部の集まりになった屋上での昼食に備える。天気もいいし、少し早めに行くのも悪くない。
そう思って席を立つと、隣の席の藤堂くんが机の引き出しに手を突っ込み、苦い顔でクシャクシャのプリントを引き出した。
「ヤベェ。進路希望調査出すの忘れてた」
「何日前の提出物だかわかってます?早く出せって何度も担任が言ってたじゃないですか」
「うるせーな、出したつもりだったんだよ」
シワだらけのプリントには確かに記載した痕跡がある。が、書き殴られた字もプリントの状態も酷いものだ。雑極まりない。
「しゃーねェ、職員室行って提出してからメシ行くわ」
「特に待ってませんのでごゆっくり」
「別に待ってろとは思ってねーけど、言い方がムカつくわー」
睨みと悪態を置き土産にして、藤堂くんは教室を後にした。徐々に他のクラスも昼休みに入り始めたのか、やや遠い騒めきが耳に届き始める。俺は騒がしさが本格的になる前に教室を後にすると、まだ人の少ない廊下から屋上に向かう階段を目指した。
その先に待つ、土屋さんとの時間を強く思い描きながら。
「あ、千早くん!今日は早いね」
屋上への扉を開けた途端、そこには会いたいと焦がれていた件の人物がいた。それも、彼以外誰もいないという副産物付きでだ。俺は目の前に用意されたあまりの幸運に動揺し、周囲に視線を巡らせると、背後の校内へも意識を向けた。やはり屋上には俺と土屋さん以外いないし、階下からやってくる人の気配も今のところない。
あまりにも恵まれた状況に、早く誰かが来てほしいような、逆にこのまま誰も来てほしくないような相反した感情が争いだす。
「土屋さんこそ、早かったんですね」
さも自然な態度を装い、屋上の扉を閉めて。コンクリートの壁に凭れて座る彼の真向かいをさりげなく陣取り、同じく腰を下ろす。正面には三角に折った膝を立てた土屋さんがいて、目が合うとにこりと微笑まれた。良い位置だ。
「僕は前の授業体育で、時間より少し早く終わったんだ。だから一番乗りしちゃった」
「なるほど。俺のクラスもやる気のない古典教師のおかげで早く終わったんですよ。退屈な授業だったんで助かりました」
「そうなんだ。あれ?藤堂くんは一緒じゃないの?」
「提出物を出し忘れたとかで職員室に行きましたよ。しばらくしたら来るんじゃないですかね」
「そっか。要くん達もまだだね。もうすぐ来るかな」
ふと出来た会話の隙間に、「そうだ!」と土屋さんが唐突に声を上げた。何かを思い出したのか、ブレザーのポケットからスマホを取り出すと液晶をタップし、画面を俺へと見せつけてくる。
「あのね、昨日新しいゲーム始めたんだけど、このゲームのキャラがすごく千早くんに似てるんだ!」
差し出されたスマホに軽く身を乗り出し、注目する。ゲームジャンルはRPGだろうか。画面には、ファンタジー風に描かれた参謀役らしき外見の青年が映っていた。
赤い縁の眼鏡をかけ、少し外へ跳ねた髪型や色はたしかに俺に通じるものがある。とはいえ、そこまで似ているかと言われると少々懐疑的だが。
「見た目もだけど、話し方とか性格がすごく似てるんだよ。昨日から始まったイベントにこのキャラが出てるんだけど、めちゃくちゃカッコいい活躍してて、ホント最高で」
ーーこの語りは長くなりそうだな。
そう予想していたのに、意外にもゲームの話が繰り広げられることはなかった。スマホを自分の手元に戻し、じっと画面を見つめた土屋さんは、ほぅ、と感慨深げな吐息を落とす。
「千早くんに似てるなって思ったら、他のキャラもみんなに似てるなって思うところが出てきてさ。改めて清峰くんや要くん、藤堂くんや千早くんってみんなカッコいいし、存在が二次元だなって実感しちゃって」
他のメンバーと並べられてではあるが、カッコいいと言われるのは満更でもない。というか、もっと言って欲しいくらいだ。だがそんな喜びを無様に晒すわけにはいかず、俺は緩みそうになる口元を引き締めつつ、「そうですか?」なんてとぼけた相槌をうつ。
「そうだよ!みんなが野球してるところなんて、特にカッコいいんだから!」
控えめに受け止めると土屋さんの語調は強まり、グイグイと押してきた。更なる賞賛を浴びせられながら、引いてみたのは正解だったと隠れてほくそ笑む。
「真剣な表情で野球してるみんなの姿って、すごくキラキラして見えるんだよ。乙女ゲーの攻略対象なんじゃないかって思っちゃうくらい」
ゲームに例えるあたりが土屋さんらしいなと思いつつも、次々と飛び出す褒め言葉にもう内心テンションは青天井状態だ。
今日は良い一日だ。
ーーそう断言したくなるほど、気を良くしていたのに。
「でも、その中でも究極の二次元ってやっぱ圭様だよね!あの完璧さ、すっごくカッコいいよね〜。ホント智将って感じで、隙がないし」
彼の口から出た他者への最大の賛辞でブレーキがかかり、チリ、と心底に小さな火花が走る。
「僕なんて何ひとつ自信ないから、何でも出来て堂々としてる圭様に憧れちゃって。あんな風になれたら、世界が違って見えるんだろうなぁ」
さっきまでの高揚感に水をかけられ、一転、急速に冷えた心地が胸を支配する。走った火花が知らない導火線に火を点け、ジリジリと心を端から焦がしていく。
ゆっくり、ゆっくりと。カウントダウンをするように。
「……俺たちが攻略対象なら、山田くんや土屋さんはどんな位置なんですか?」
予想以上に平坦になった俺の口調に、しかし土屋さんは気がつかない。話を振られて一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに彼の見解は早口で続けられる。
「山田くんも野球上手いし優しいし、攻略対象だよね。親友キャラに見せかけて隠しルートで攻略対象!とか。でも僕はせいぜいモブキャラーー」
「なるほど、それでは」
話を遮り、トン、と立てたローファーの爪先を鳴らして。
前のめりに伸ばした両手を、彼の背後の壁に押しつけて。
ーー黒く篭った感情を、表情に乗せて。
「土屋さんは俺に攻略される側、というわけですね」
俺は、これ以上ないくらいの笑顔で笑った。
時が進むのを放棄した。
そう錯覚するほどに息詰まる時間が訪れ、俺の両腕と壁に囲われた狭い空間では、土屋さんがつぶらな瞳をこれでもかと見開いていた。いつも前髪で隠れがちな双眸はこんな時に限ってはっきりと見えていて、気まずい事この上ない。
低い中天の太陽が俺に遮られ、土屋さんに影を落とす。その薄暗さを目にし、急速に冷静さを取り戻した俺は、血の気が引くと同時に、背筋が凍る思いに強襲される。
勢いとはいえ、俺はなんて事をしでかしているんだ。
取り返しのつかない状況にどうしていいかわからずにいると、驚いたまま硬直していた土屋さんの唇が、わずかに動いた。
「………………かッ」
発せられた、小さな言葉の切れ端。
それを耳にした瞬間、一気に恐怖に慄いた俺は慌てて身を離し、顔を大きく背けた。
ーー言葉の先を知るのが怖い。
体感したことのない怖ろしさにビビり、途端に、自分の弱さとカッコ悪さをこれでもかというほど思い知らされる。
「飲み物を忘れましたので、ちょっと買いに行ってきます」
それでも去勢を張りバランスを保とうとするのが、いかにも俺らしい。かろうじていつもの自分を取り繕うと、何でもなかったように振る舞い、俺はなるべくゆっくりと体勢を整え席を立った。
逃げの一手を選びつつも、距離を離した土屋さんを視界の端で捉えれば、こちらを凝視しているのが見える。
その視線の意味は単なる驚愕か、それとも、嫌悪なのか。
余裕のない今の俺には図り知ることは出来ないし、何より、脳も心も知りたくないと強く拒否をしている。
俺の言い訳に、土屋さんからの応答はない。焦れた俺は屋上の扉を開き、そのまま校内へと退避をすると、無心で階段を降り続けた。
昼休みの喧騒に、乱れた心を紛れさせ。
地に付して叫びたい想いを、数分前の自分を叱りつけたい想いを、グッと喉の奥で堪える。
後悔と恥にまみれた、行き場のない身と想い。そんな重荷を抱えながら、俺は校内を彷徨うのだった。
その後の俺がどうしたかというと。
事実証明のために本当に飲み物を買いに行った俺は、たまたま途中で藤堂くんと鉢合わせし、ここぞとばかり合流しては屋上へと戻ったのだった。
今度は土屋さんだけでなく要くんたちも揃っていて、いつもの部の集まりに変遷していることに深く安堵すると、俺は何食わぬ顔で輪に加わり昼食を広げた。
俺が作り出したあの異様な空気と時間は、もうどこにもなかった。
わざと彼の視界から外れるような位置に座って、世間話に合わせて。
疼き響く、胸の苦しみを隠し続けて。
そんな臆病な俺だからこそ、知るよしもなかった。
知りたくないと拒否した、彼の発した言葉、『か』の続きが、まさか。
『かッ、壁ドンだ……。すごい……二次元みたい』
ーーそんな斜め上の感想で、胸をときめかせていたなんて。
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