藤ヤマ『ホワイトロンリネス』

ホワイトロンリネス

 新しいミットを買った。
 いくつになっても新品の用具はときめくもので、僕も例に漏れず、胸に抱えた箱に帰宅中ずっとドキドキワクワクしていた。
 部屋に帰るなり丁重に机に置き、一呼吸。梱包された袋を紐解き、メーカーロゴが映える紙箱を開ければ、途端に広がった真新しい皮の匂いが鼻をくすぐった。緩衝材に包まれた宝物をそっと手に取ってみると、くすみも傷もないライトブラウンの美しさに胸が鳴る。
 初めて買った、ファースト用のミット。左手にはめ、閉じては開き、開いては閉じるを繰り返す。そうしながら僕は、藤堂くんの、千早くんのーーチームみんなの球を捕る場面を想像した。
 脳裏に浮かんだ様々な景色。状況。自分の姿。
 それはどれももう、過去(捕手)の僕と重なることはなかった。
 

ホワイトロンリネス


「ヤマちゃん昨日買ったのそれ?いいじゃんいいじゃん、カッコイイじゃん!」
 翌日の放課後、練習のためみんなが部室に集まった時のこと。僕が新しいミットを鞄から取り出すと、すぐ横にいた要くんが興味津々な様子で覗き込んできた。テンション高く囃立てる要くんに気を引かれたのか、周囲のみんながこぞって僕の周りに集まり、ちょっとした輪になる。
「わぁ、本当だ。やっぱり新品はキレイだね!」
「使いやすそうな型ですし、捕球もしやすそうですね。良いチョイスです」
 土屋さんと千早くんに交互に褒められ、なんだか少し照れくさくなる。僕も新しいの欲しくなってきたなぁとか、部の備品とは大違いだねとか、土屋さんや鈴木さんが口々にする輪の外側では、藤堂くんが黙々と着替えを進めていた。少しだけ距離のある横顔を見れば、どこか思い詰めた様子に見えるのは僕の気のせいだろうか。
(いつもなら話に入ってくるのに)
 気にかかって声をかけようとする。が、次の瞬間、僕と藤堂くんの間に音もなく大きな人影が挟まり、壁となって立ちはだかった。いつのまにか着替えを終えていた清峰くんだ。
「圭。球捕れ」
「まーた始まった!今日はまずノックするって瞬ちゃん言ってたじゃん!」
 いつもの投げたいアピールが僕を挟んで始まる。バッテリー二人の見慣れた光景だ。
「今日は清峰くんにも守備練してもらいますよ。内野連携は重要ですからね」
「必要ない。打たれなきゃいい」
「そういうわけにいくかーい!」
 ビシッと要くんのツッコミが清峰くんの小脇に炸裂する。相変わらずクソ程のゴーイングマイウェイだなと思う反面、この人なら本当に打たれないようにするかもと思わされる辺りが清峰くんの怖いところだ。
「オラ、アホなことやってねーでさっさと練習始めるぞ」
 そんなやりとりを仕切って制し、藤堂くんが一足先に部室の扉を開いた。雑談していた僕たちと違い、着替えも用具の準備も済んでいた彼は、特に待つでもなく部室を出ていく。
「藤堂くん、今日も張り切ってるね」
 グラウンドに向かった藤堂くんの後ろ背を見送った土屋さんが、感心したようにぽつりと呟いた。だけど僕は思う。果たしてあれは、張り切っているのだろうかと。
 会話に加わらなかったこと、盗み見した横顔、そして一人先に向かう後ろ姿。
 小さな事柄ひとつひとつに疑念の種が芽吹き、違和感が育っていく。だけどそれが何に由来しているのかはわからず、考えてみても答えは出なかった。
「俺たちも行きましょうか。山田くん、守備練習では一塁へ返球しますのでお願いします」
「うん」
 役目を請われ、思考を切り替えた僕は新品のファーストミットを手に部室を後にする。
 傷もくすみもないこのミットは、これから練習を重ねるたびに汚れ、傷付いていくのだろう。そうして刻まれていくものが、いつかこのチームの勝利へと結びついてくれればいいと、僕はひっそりと願った。
 
+++++

 日暮れと同時に、練習終了を告げる声が上がる。集まって入念にクールダウンを行った僕たちは、その後、各々が後片付けへと動き始めた。
 二年生はグラウンド整備を。一年生は用具の片付けを。
 要くんや清峰くん、藤堂くんや千早くんがそれぞれグラブやバット、防球ネットなどを片付ける中、僕は散らばったボールを拾い集め始めた。土に塗れた古いボールをいくつも両手に抱え、大型のプラスチックカゴへと積み上げる。そうして仕舞い終えたボールを物置へと運ぼうとしたその時、僕の側に藤堂くんがやってきた。
「ヤマ」
 短く掛けられた声に弾かれ、顔を上げる。逆光に遮られた表情はやけに暗く見えて、どこか居心地が悪そうだ。
「どうしたの、藤堂くん」
「あー……そう、それ。運ぶの手伝うわ」
 言い淀みながら、ボールの山となったカゴを藤堂くんが指差す。その申し出が本意ではないことはすぐに分かったが、正直重労働だなと思っていたので、僕は遠慮なく甘えることにした。
「ありがとう、助かるよ。じゃあ半分持ってくれる?」
「おう」
 左右の持ち手を分け合い、持ち上げる。身長の違いを考慮してか、藤堂くんが僕の高さに合わせてくれるおかげで、カゴは平行を保ちボールは溢れることなく運ばれていく。
 ーーこういうとこ、意外と気が利くんだよな。感心を込めてチラリと隣を窺えば、汗を滲ませた横顔は、どこか心あらずといった様子で遠くを見ている。
 何か言いたいことがあるのだろうというのはわかる。だけど、言わないままでは何もわからない。
 こちらから探っていいものか、などと考えているうちに妙な緊張感に包まれた僕たちは、短い距離をただ無言で歩いた。物置の前までたどり着き、ガタつく鋼板の扉を引くと、むせかえるようなカビと土の臭いに出迎えられる。しばらく続いていた雨のせいか、鼻につく臭いはひどく濃い。
「だいぶ空気こもってるね。少し開けっぱなしにして換気しようか」
「そうだな」
 中へと足を踏み入れた僕たちは定位置にカゴを戻し、換気の時間稼ぎのため軽く用具整理を
始めた。遠く離れたグラウンドからは、何やら要くんの騒いでいる声が聞こえてくる。ヘトヘトと言っていた割には、まだ元気が残っているみたいだ。
「これくらいでいいかな」
 土埃のついた手を叩いて払い、片した物置内を見回す。短い時間ではあったけど、換気もきちんと出来たようだ。
 整然と並べられた用具に満足し、二人揃って物置を後にすれば、グラウンドに足を踏み入れた途端に強い風が吹きつけた。夜の温度に変わったそれは砂塵を巻き上げ、残る体の熱を冷まし、藤堂くんの結った髪の一房を崩していく。
「風が出てきたな」
 乱れた髪を手で流しながら、藤堂くんが呟く。独り言めいたセリフとはいえ、相槌ばかりだった彼がようやく口を開いたことに、僕は安堵を覚える。
「今日はたくさん練習したね。お昼少なかったせいか、もうお腹ペコペコだよ」
 言って、反応を待つ。すぐには返らない言葉にまた疑念が湧き上がりかけるが、次の瞬間、切実めいた表情が僕へと向いた。
「だったら、今日の帰り、ウチで飯食ってかねェか」
 口にされたその誘いが、やけに重々しくて。僕は何てことのない言葉を確かめるように、彼を真っ直ぐと見返した。
「いや、だったらってのもヘンなんだけど。でも、ヤマさえよければ、寄ってかねーか」
 凝視する僕に、辿々しい誘いが畳み掛けられる。
 藤堂くんちでのご飯のお誘いは、これが初めてではない。何度も訪ねたわけでもないが、過去にお邪魔したことがあるのだから、別に改まる必要もないと思うのだけど。
 と、そこまで考えて、ふいにピンときた。
 おそらく藤堂くんは、僕に話したいことがあるのだろう。それも多分、みんなが居ない場所を望んでる。
 考えてみれば昨日、僕がショップに残ってファーストミットを選ぼうとした時から彼は気にした風だった。やけに意味深長な言動は、そこからずっと続いていたのかもしれない。
「予定とかあんなら、今度でもいいんだけどよ」
「ううん、特に予定ないから大丈夫だよ。じゃあ、ご馳走になろうかな」
 引こうとする藤堂くんの誘いに遅れて乗ると、ようやく硬くなっていた彼の頬に綻びが生まれた。露骨に緩んだ口元は安心したといわんばかりで、僕も思わず釣られて破顔してしまう。
「ヤマちゃーん!葵ちゃんー!帰ろー!!」
 和やかに解れた空気に渡る、要くんの声。緊張感のない、子供のようなその呼び掛けが日々の長閑さを感じさせ、僕たちはさらに心を緩ませる。
「今日の晩飯は豚の生姜焼きなんだけど、食えるか?」
「うん、大好き。前にご馳走になったハンバーグが美味しかったから、楽しみだよ」

 期待を込めて伝えれば、嬉しそうに。「任せとけ」と、いつもの彼が微笑んだ。


+++++

 帰宅途中にみんなと別れ、僕たちは藤堂くんの家へと向かった。プロ野球の話や夏休みの話なんかで盛り上がっていると家路はあっという間で、感じていた空腹さえも忘れるほどだった。
 やがて藤堂家に着き、促されるまま敷居を跨いで。お姉さんと妹さんに挨拶をした僕は、藤堂くんに案内され彼の部屋に足を踏み入れた。
「チャッチャと作ってくっから、部屋で待っててくれるか」
「僕も何か手伝おうか」
「客なんだから座ってろって。暇ならそこら辺の本とか読んでていいからよ」
 ブレザーの上着を脱ぎ、代わりにエプロンをつける彼に手伝いを申し出るも、即却下されてしまう。一人部屋に取り残された僕は仕方なしに座布団へと座ると、ローテーブルの上に置かれたままのプロ野球雑誌を手に取った。特集記事は、以前藤堂くんがファンだと言っていた贔屓選手についてだ。
 ヨレた表紙をめくり、ページを開く。軽く目を通してみれば、思った以上にためになる記事が多く、時間潰しのつもりだったはずがいつのまにか熱中して読み耽ってしまった。特に連続写真でのバッティングフォーム解析は丁寧に解説がしてあり、バッティングに自信のない僕にとっては興味をそそられる記事だった。
「おう、出来たぞ」
 そうして没頭しているうちに、料理を作り終えた藤堂くんが大きなトレイを手に部屋へと戻ってきた。トレイの上には二人分の生姜焼きとご飯とみそ汁が乗っていて、ほかほかの湯気と美味しそうな匂いを漂わせている。
 テキパキと配膳され、目の前に出来立ての料理が並ぶ。どれもこれも美味しそうだが、付け合わせの野菜や肉、ご飯の盛り方が豪快な辺りがいかにも藤堂くんらしい。
「さぁ、食おうぜ。おかわりもあるから、遠慮せずに言えよ」
「ありがとう。じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 箸を手に取り、早速生姜焼きを口に運ぶ。家で出る甘めの味付けと違い、ピリッとした生姜の辛味を感じるのが特徴的で、甘味、塩味、辛味が上手く合わさっていてすごくご飯が進む味だ。正直、家の味よりも藤堂くんの味の方が好きかもしれない。
「藤堂くん、すごい美味しいよ!」
「だろ?昨日の夜から仕込んどいたからな。焼く前の追い生姜もコツな」
 捻りのない賞賛にも関わらず、満足げに笑った藤堂くんが作り方を披露する。こだわりのレシピに頷いてみせるが、それよりも食べることに夢中になる僕を、藤堂くんは嬉しそうに見て。そのまま言葉を少なくした僕たちは、ただひたすら、笑顔でご飯をかきこむのだった。


 お腹いっぱいになるまでご飯を平らげた僕たちは食器を片付け、部屋で食後の一息を過ごしていた。満腹感と満足感に放心しつつ、用意してもらった冷たい麦茶で喉を潤すせば、ふと向かい側に座る藤堂くんが何やら真剣な表情で俯いていることに気がついた。
「ヤマ」
 意を決した声色に、空気がふと変わる。顔を上げた藤堂くんは、それでもどこか言い出しづらそうに、手をつけないままの麦茶のコップを握りしめた。
「……俺、ヤマには感謝してんだ」
 ゆっくりと、押し出すように心が開かれ。僕はその真摯に応えるため、静かに居住まいを正した。
「俺の送球がワンバンでなんとか形になったのは、ヤマが捕ってくれたおかげだと思ってる」
 熱に堪えきれなくなった雫が、薄い硝子を伝って藤堂くんの指を濡らす。冷たいはずの指先を厭うこともなく、万謝の念を紡ぎ続ける彼は、定まった瞳を決して僕から逸らすことはなかった。
「何度も何度もクソみたいな方向に投げて、バウンドもあっちこっち飛んでって。それでもヤマが一球ごとに声かけてくれて、捕ってくれて。そういうのに、スゲー救われた」
 明瞭に、ひたむきに。織り成された想いが、ふと転調を迎える。
「ーーでも」
 言葉が、切に途切れる。繋がらないその先は、けれど俯いた表情が雄弁に物語っていて、確信を覚えるほどに痛切に伝わってくる。

 ーー俺が遊撃手にこだわってるせいで、ヤマが、一塁手にならなきゃいけなくなったんなら。

 それは、重い自責の念なのだと思う。歪んで下がった眉も、引き絞った唇も、固く握って膝に揃えた両手も。どれもこれもが藤堂くんの心の苦しさを見せていて、僕は居ても立っても居られない想いに駆られる。

「藤堂くん」

 だから僕は、きちんと伝えなければいけないと思った。彼が感じている重責を取り払うために。僕の意思を正直に、全て。

「これさ、ショップの店長さんに勧められて決めたんだけど、すごく使いやすいんだ」

 鞄からファーストミットを取り出し、殊更明るい声で切り出す。言葉の続きをーーーおそらく、謝罪の言葉を続けようとしていた藤堂くんは、虚をつかれ目を丸くする。

「店長さんが型付けしてくれたんだけど、それが激しくてさ。ドッコンドッコン叩いてて、すごい迫力だったんだよ」

 オーバー気味に語れば、藤堂くんが呆気に取られ、反応に迷っているのがわかった。それでも、僕は気にせずに話を続ける。

「でもそのおかげでね、新品なのにすごく手に馴染むんだ」

 遠回りな言い方。それでもきっと、藤堂くんはわかってくれるだろう。

「まるで、ずっと前から使ってたみたいに」

 藤堂くんの瞳が揺れる。彼の表情が伝えたみたいに、僕の言葉も、真っ直ぐ彼に伝わっているだろうか。

「僕、清峰くんと要くんのバッテリーと対戦した時、怖い、速い、ムリって、もう情けないくらいビビっちゃってさ。それまでは一番僕が上手いんだって、弱小チームの中でお山の大将気取ってたけど、次元の違いを知ったっていうか、目が覚めたっていうか」

 自然と昔話が口をついて出る。隠していたいと思ったわけでもない、悔やんでいるわけでもない過去がここで飛び出したことに、自分でも少し驚く。
 それでもなぜか、今、話したいと思った。

「そこで冷静になって周りを見てみたら、藤堂くんとか千早くんとか、外のチームには僕よりも才能のあるすごい選手がいっぱいいるんだってわかって」

 ーーああ。僕には、あんな才能はないんだって、知って。

「それで僕は、あっさり野球を辞めたんだ」

 あっさり、と。口にしてみれば、過去の自分の決断が本当に軽挙なことのように感じられる。

「その程度なんだよ」

 藤堂くんや千早くんのような才能溢れる選手が壁にぶつかった時、高い次元からの絶望は、僕程度の凡人には計り知れないものがあったのだと思う。それは初めて彼らと会った時、すでに推し量ったことだ。
 絶望は、彼らが日々積み上げてきた技術や努力、自信といった、確かな足場の崩壊によるもの。築き上げたものが大きければ大きいほど、多ければ多いほど、痛みは、深く強いものだろう。
「藤堂くんと違って、僕は昔のポジションに拘りもプライドもないんだ」
 だからこそ思う。僕が捕手を辞めたこと、野球を辞めたことなんて、比べるのもおこがましいことなんだと。
 悩まなかったわけじゃない。僕なりに迷って出した結論だ。だけど、同じ決断だというにはあまりにも稚拙で、容易すぎて。
「今はチームの役に立ちたいし、それに僕はずっと前から、遊撃手、藤堂葵のファンだからさ」
「ヤマ……」
「僕が望んでるんだよ。小手指の遊撃手は、藤堂くんしかいないって。僕だけじゃない。清峰くんも言ってたでしょ?それに口にしてないけど、要くんも千早くんも……チームみんながきっと、同じこと思ってるよ」
 そう言って、笑う。君は遊撃手であることを誇るべきだと、一番大切にすべきなんだと、強く後押しするように。
「だからさ、僕に気を遣うこと事なんて、何もないんだよ」

 心からの言葉だった。思いの丈を全てぶつけられたと思った。
 だけど、何故だろう。

「むしろ僕が立ち直るきっかけの一つになれたなら、それがすごく嬉しいよ」

 唇の端が、少しだけ引きつるのは。

「…………ありがとな」

 深い深い声で、藤堂くんが絞り出す。万感が込められた柔らかな呟きに胸を打たれ、不覚にも目が潤みだす。

「俺、ヤマじゃなきゃ、きっとダメだった」

 そこに、さらに涙腺を刺激する追い打ちがやって来た。これ以上ないほどの受容と感謝を差し出され、僕は堪えることすら忘れて涙を流し始める。
 ヤバいな。僕って、こんなに泣き虫だったっけ。

「お、おいッ、ヤマ!泣くな!」

 僕が泣き出したことで、藤堂くんがギョッとした表情で慌てふためきだす。前にも一度彼の前で泣いたことがあったけど、あの時と全く同じ反応で何だか懐かしい気さえする。

「いや、違っ……これは、嬉しくて。藤堂くんのーーチームの役に立ててるんだって思ったら、急に。それに、僕の事気にしてくれてたんだなーって思ったら、なんか込み上げてきて……」

 涙を溢れさせるこの気持ちは、嬉しさだ。また野球をしている喜び、憧れだった選手と並び立ってプレイをする喜び。自分が役に立てているという喜び。
 どこをどう見渡しても、この気持ちは嬉しさ以外の何物でもない。
 なのに、どうして。

「あれ、おかしいな……」

 どうして涙が止まらないのだろう。
 どうして、胸が苦しいんだろう。

「なんでだろ、止まらないや。ヘンだな」

 喜びの感慨だけじゃない何かが、ツンと目を、鼻を、胸を刺激する。大量に流れ、拭いきれなかった涙が唇に届くと、その熱さとしょっぱさに自分で驚いた。
 渋滞し、迷子になる感情に困惑する僕に、藤堂くんが近寄る気配がする。涙でグシャグシャになった顔を上げれば、すぐ傍には藤堂くんがいて。
 ーーそれがなんだか、ほっとして。

「ヤマに支えてもらった分は、俺がきっちり返してやる」

 伸びた藤堂くんの大きな手が、僕の後ろ頭を引き寄せ、広い肩口へと押し付ける。唐突に塞がる視界。まだ止まらない涙は藤堂くんのシャツに吸い込まれていって、じわじわと湿り気を帯びていく。
 僕は、そのまま泣くだけ泣いた。ぐちゃぐちゃした思考も感情も、全部涙にして流して、藤堂くんの肩に押し付けた。

 藤堂くんは何も言わなくて、僕も何も言わないで、そして、最後には。

 額に触れる体温の心地良さに、何もかも、どうでもよくなってしまっていた。
1/1ページ
    スキ