ちはつち『雨は嫌いだけど』
雨は嫌いだけど 千土バージョン
雨は嫌いだ。
湿気で髪はまとまらないわ、眼鏡は曇るわ、靴下はローファーごと濡れて汚れるわ、不愉快なことばかりで何一つ良いことがない。
それに、野球も出来なくなる。小手指のグラウンドはスポーツ強豪校と違って土質も良くなければ、水捌けも悪い。一度降れば、乾いて使い物になるまで時間がかかる。おまけに少人数で発足し、ギリギリ部として成り立っている小手指野球部は、体育館や廊下の割り当ても恵まれていないため、雨天時の練習はままならないのが現状だ。
だから雨は嫌いだ。
色々理由を挙げ連ねてみたが、その中でも多分今は、野球が出来ない時間がもどかしいというのが一番デカいと思う。散々野球を遠ざけようとしていたくせに、いや、だからこそなのか。キャッチボール、ノック、バッティング、ベースラン。正直今は、野球に関わる何もかもが楽しくて仕方ない。
嫌いだとうそぶいていた時間の分だけ、本当は飢えていたのだと気付いたのは、なし崩しで入部した練習初日のキャッチボールーーもしかしたらそれよりも前、グラブの封印を解いた、あの瞬間からかもしれない。
何重にもかけられていた南京錠を外して……あぁ、これ以上思い返すのはやめよう。また恥ずかしさで死にたくなるだけだ。
雨は嫌いだけど
お気に入りのエレクトロニカが、朝の訪れを告げる。浮遊感のあるビートに意識を掬われた俺は、寝ぼけ眼のままスマートフォンを手探りし、アラームを止める。
ーー目覚めが重い。覚醒しきらない身体をベッドから起こすと、自室の薄暗さと外から聞こえる雨音が嫌でも気になった。
気怠い身体を引きずって窓際へ行き、カーテンを開ける。窓の外の景色は、昨夜から降り続く止まない雨と、陽光を塞ぐ濃灰の雨雲ばかりだ。
この重々しい天気のせいで、朝から気分は最悪だ。低気圧、空の暗さ、雨の湿度と、重なる憂鬱に辟易する。
今日は間違いなく部の練習はなしだ。早朝ランニングも、この降りの強さだと無理がある。
一日のスケジュールをいくつも潰され、恨みがましく窓ガラスの向こうを睨む。無意味な行為は好転の兆しになるはずもなく、諦めを覚えた俺は気を取り直すため登校の準備を始めた。
洗面台で顔を洗い、歯を磨いて、いつもより時間をかけて朝食を取る。それでも余った時間は、湿気で膨らむ髪を懸念して、念入りにセットをすることで消費をした。
一通りの用意を済ませ、家を出る時間が近づいた頃。仕上げに制服へと着替え、汚れる前提で選んだ靴下を履いたところで、スマートフォンの電子音が鳴っていることに気付いた。続けて三回。この音は、LINEの着信音だ。
ーーこんな時間に珍しいな。
滅多に来ない時間帯の知らせが気に掛かり、ベッドに放置していたスマートフォンを手に取る。新着メッセージの送信主はとロック画面に目を落とせば、相手は土屋さんだった。
『おはよう。朝からごめんね!今日って、この雨だと野球の練習ないよね?』
『実は僕新しいグラブが欲しいなって思ってるんだけど、もし今日の放課後予定がなければスポーツショップに付き合ってもらえたりしないかな』
『どういうの選べばいいかわからないから、千早くんに教えて欲しくて』
届いていたメッセージに目を通し終わったところで、『どうかな?』と描かれたスタンプが丁度着信する。
これは、光明だ。
一転して幸運に恵まれた俺は、重苦しい憂鬱も忌々しさもキレイさっぱりと忘れ、弾かれるように返答を打ち出す。
『仰るとおり練習は無理ですね。放課後予定は特にないので、ご一緒しますよ。』
書き切って、変に食いついていないかと推敲をする。二度読み直し、自分のイメージと内容を擦り合わせたところで意を決して送信をすると、すぐに『ありがとう!』と描かれた見知らぬアニメキャラのスタンプが返ってきた。続いて、放課後昇降口で待ち合わせようという旨のメッセージが届く。俺がそれに了承を返すと、話題に区切りがつき、短いメッセージの応酬は終わりを告げた。
俺は沈黙したスマートフォンを握ったまま、今交わしていたメッセージを確かめる。
ーーこれは、俺「だけ」を誘っているんだよな。
文面を深読みして手応えを得ると、ふつふつと湧いた喜びが知らず唇を緩めた。災い転じて福となすーーそんなことわざが、脳裏を駆け巡る。
液晶の時計を見れば、出発にはまだ少し早い時間が表示されている。にも関わらず俺は鞄を手に取り、足取りを軽くして部屋を後にした。
学校に行っても、今日は野球がない。登校までの道で、靴も靴下も濡れるだろう。念入りにセットした髪も、やはり崩れるかもしれない。
雨がもたらす不快を数え、だけど、と反旗を翻す。
替えの靴下を鞄に用意した。帰りにもやはり汚れてしまうかもしれないが、せめて気分を上げるためにと、五本の指に入る程度に気に入っている柄のものを持った。
それに髪も乱れたとしても、携帯用のクシを抜かりなく忍ばせてある。酷くならないに越したことはないが、早く家を出て学校に着いた分だけ、時間に余裕はある。その分は髪を整えるために有効活用しよう。
静かに意気込んでマンションのエントランスを踏み出せば、待っていたのは、一面の濃灰色。そこに、俺はゆっくりと傘をさす。
咲き誇る、灯火に似たオレンジ。
その色が、彩を失くしたモノクロームの世界を退ける。
雨は嫌いだ。
だけど、土屋さんと出かけられるこんな日なら、雨も悪くない。
ローファーの爪先が散らした水溜りに、飛沫と期待が跳ねる。
待ち望む想いを鞄と共に背負った俺は、感じるはずの雫の冷たささえも、いつの間にか忘れていた。
雨は嫌いだ。
湿気で髪はまとまらないわ、眼鏡は曇るわ、靴下はローファーごと濡れて汚れるわ、不愉快なことばかりで何一つ良いことがない。
それに、野球も出来なくなる。小手指のグラウンドはスポーツ強豪校と違って土質も良くなければ、水捌けも悪い。一度降れば、乾いて使い物になるまで時間がかかる。おまけに少人数で発足し、ギリギリ部として成り立っている小手指野球部は、体育館や廊下の割り当ても恵まれていないため、雨天時の練習はままならないのが現状だ。
だから雨は嫌いだ。
色々理由を挙げ連ねてみたが、その中でも多分今は、野球が出来ない時間がもどかしいというのが一番デカいと思う。散々野球を遠ざけようとしていたくせに、いや、だからこそなのか。キャッチボール、ノック、バッティング、ベースラン。正直今は、野球に関わる何もかもが楽しくて仕方ない。
嫌いだとうそぶいていた時間の分だけ、本当は飢えていたのだと気付いたのは、なし崩しで入部した練習初日のキャッチボールーーもしかしたらそれよりも前、グラブの封印を解いた、あの瞬間からかもしれない。
何重にもかけられていた南京錠を外して……あぁ、これ以上思い返すのはやめよう。また恥ずかしさで死にたくなるだけだ。
雨は嫌いだけど
お気に入りのエレクトロニカが、朝の訪れを告げる。浮遊感のあるビートに意識を掬われた俺は、寝ぼけ眼のままスマートフォンを手探りし、アラームを止める。
ーー目覚めが重い。覚醒しきらない身体をベッドから起こすと、自室の薄暗さと外から聞こえる雨音が嫌でも気になった。
気怠い身体を引きずって窓際へ行き、カーテンを開ける。窓の外の景色は、昨夜から降り続く止まない雨と、陽光を塞ぐ濃灰の雨雲ばかりだ。
この重々しい天気のせいで、朝から気分は最悪だ。低気圧、空の暗さ、雨の湿度と、重なる憂鬱に辟易する。
今日は間違いなく部の練習はなしだ。早朝ランニングも、この降りの強さだと無理がある。
一日のスケジュールをいくつも潰され、恨みがましく窓ガラスの向こうを睨む。無意味な行為は好転の兆しになるはずもなく、諦めを覚えた俺は気を取り直すため登校の準備を始めた。
洗面台で顔を洗い、歯を磨いて、いつもより時間をかけて朝食を取る。それでも余った時間は、湿気で膨らむ髪を懸念して、念入りにセットをすることで消費をした。
一通りの用意を済ませ、家を出る時間が近づいた頃。仕上げに制服へと着替え、汚れる前提で選んだ靴下を履いたところで、スマートフォンの電子音が鳴っていることに気付いた。続けて三回。この音は、LINEの着信音だ。
ーーこんな時間に珍しいな。
滅多に来ない時間帯の知らせが気に掛かり、ベッドに放置していたスマートフォンを手に取る。新着メッセージの送信主はとロック画面に目を落とせば、相手は土屋さんだった。
『おはよう。朝からごめんね!今日って、この雨だと野球の練習ないよね?』
『実は僕新しいグラブが欲しいなって思ってるんだけど、もし今日の放課後予定がなければスポーツショップに付き合ってもらえたりしないかな』
『どういうの選べばいいかわからないから、千早くんに教えて欲しくて』
届いていたメッセージに目を通し終わったところで、『どうかな?』と描かれたスタンプが丁度着信する。
これは、光明だ。
一転して幸運に恵まれた俺は、重苦しい憂鬱も忌々しさもキレイさっぱりと忘れ、弾かれるように返答を打ち出す。
『仰るとおり練習は無理ですね。放課後予定は特にないので、ご一緒しますよ。』
書き切って、変に食いついていないかと推敲をする。二度読み直し、自分のイメージと内容を擦り合わせたところで意を決して送信をすると、すぐに『ありがとう!』と描かれた見知らぬアニメキャラのスタンプが返ってきた。続いて、放課後昇降口で待ち合わせようという旨のメッセージが届く。俺がそれに了承を返すと、話題に区切りがつき、短いメッセージの応酬は終わりを告げた。
俺は沈黙したスマートフォンを握ったまま、今交わしていたメッセージを確かめる。
ーーこれは、俺「だけ」を誘っているんだよな。
文面を深読みして手応えを得ると、ふつふつと湧いた喜びが知らず唇を緩めた。災い転じて福となすーーそんなことわざが、脳裏を駆け巡る。
液晶の時計を見れば、出発にはまだ少し早い時間が表示されている。にも関わらず俺は鞄を手に取り、足取りを軽くして部屋を後にした。
学校に行っても、今日は野球がない。登校までの道で、靴も靴下も濡れるだろう。念入りにセットした髪も、やはり崩れるかもしれない。
雨がもたらす不快を数え、だけど、と反旗を翻す。
替えの靴下を鞄に用意した。帰りにもやはり汚れてしまうかもしれないが、せめて気分を上げるためにと、五本の指に入る程度に気に入っている柄のものを持った。
それに髪も乱れたとしても、携帯用のクシを抜かりなく忍ばせてある。酷くならないに越したことはないが、早く家を出て学校に着いた分だけ、時間に余裕はある。その分は髪を整えるために有効活用しよう。
静かに意気込んでマンションのエントランスを踏み出せば、待っていたのは、一面の濃灰色。そこに、俺はゆっくりと傘をさす。
咲き誇る、灯火に似たオレンジ。
その色が、彩を失くしたモノクロームの世界を退ける。
雨は嫌いだ。
だけど、土屋さんと出かけられるこんな日なら、雨も悪くない。
ローファーの爪先が散らした水溜りに、飛沫と期待が跳ねる。
待ち望む想いを鞄と共に背負った俺は、感じるはずの雫の冷たささえも、いつの間にか忘れていた。
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