ちはつち『Shake』

「千早くん、お願いがあるんだ!」
 部の練習が終わり。部室で着替えを終えた俺の前にやって来て開口一番そう言ったのは、土屋さんだった。張り上げた声が想像以上に大きかったのだろう。土屋さんは慌てて口を片手で覆い、恥ずかしそうに周囲を見回した。見れば、同じように帰り支度をしていた要くんや藤堂くん、山田くんたちが何事かとこちらに注目している。
「俺に、ですか?」
 問い返すと、集まる視線の中で言いづらくなったのか、土屋さんは頬を赤くしながらもじもじと両手の指を遊ばせはじめた。あの、その、と緊張に語頭が遠回りする。そんな膠着する空気の中、遠慮なく間に割って入ってきたのは要くんだった。
「なになに、つっちー先輩。遠慮しないで何でも言ってよ〜。俺たちチームメイトでソウルメイトじゃん?あ、言い出しにくいことなら緊張ほぐすのに一発、いっとく?」
「おめーに言ってねーだろ!黙ってろ!」
「くッ、離せ葵っち!つっちー先輩が俺のパイ毛を必要としてるッ」
「してねーよ!!」
「してないね」
 気安く声をかけ、そのうえ不穏な一発ギャグの振りをする要くんを慌てて阻止したのは藤堂くんと山田くんだ。その横でさほど関心がなさそうな清峰くんは、「パイ毛は面白い」とだけ呟き、マイペースに要くんを(おそらく)援護している。
 繰り広げられる、いつものバカなやりとり。結果それが緊張をほぐすのに役だったのか、土屋さんの表情が柔らかく崩れだした。見計らい、促すようにと目線を送れば、パチリと互いの目が合う。
「邪魔が入ってすみません。それで、俺にお願いというのはなんでしょう」
「その、出来ればなんだけど……僕に盗塁のこと、教えてくれないかな!」
 やや上擦った声で切り出されたのは、至極単純かつ簡単な願いだった。だが口にした当の本人にとっては勇気がいる事だったらしく、両手をグッと拳に変え、土屋さんは力説を続ける。
「この前の試合で初めて千早くんが盗塁してるの見て、すごくカッコイイなって思って。それで……ぼ、僕も……出来たら良いなって、思って。あ!図々しいお願いでごめんね!無理ならいいんだ!」
「構いませんよ」
 一気に言い切ったかと思えば、すぐに自己完結しそうになる彼に了承を示す。すると消極的に俯きかけていた顔向きが上がり、揺れた長い前髪の隙間から嬉しそうに見開かれた瞳がちらりと見えた。
「むしろ大歓迎です。土屋さんの脚が実戦で使えれば、チームの戦略に幅が増えますし」
「下位打線の土屋さんが塁に出て走ってくれれば、俺ら上位で点取れる可能性広がるしな」
 俺と藤堂くんに肯定的に受け入れられ、途端に彼の表情はパァッと華やいだ。一喜一憂にくるくると変わる面持ちはあまりに無邪気で、先輩だということをいつも忘れそうになる。
「じゃあ今日この後、時間があればお願いしてもいいかな!千早くん、予定とか入ってない?」
「大丈夫ですよ。どこか寄っていきましょうか」
「わぁ、ありがとう!」
 両手を合わせて喜びを示す土屋さんに、同じ笑顔をした山田くんが「よかったですね」と寄り添う。あどけなくはしゃぐ姿を前にし、そこまで喜ぶことかと冷静に思う反面、褒め称えられ、教えを乞われるのは悪い気がしなかった。というよりむしろ、気分がいい。
「よかったじゃんつっちー先輩!じゃ、せっかくだしみんなで勉強会といきますか?吉祥寺に繰り出してさ!」
「俺は帰ってメシ作んなきゃいけねェからパス。つか、盗塁の話すんなら俺らいると邪魔になンだろ」
「そうだね。マンツーマンで教えてもらったほうが土屋さんもじっくり勉強できるよね」
「俺は最初からそのつもりでしたよ。要くんがいると話が脱線して邪魔になりますし」
「瞬ピーひどッ!」
 大袈裟に傷ついたアピールをする要くんを宥めすかして場を執り成すと、ようやく俺たちは揃って荷物を持ち、帰路へと動き出した。
古びた木製の扉を開くと、待ち構えていた夕陽が差し込む。
 溶けた鉄を思わせる、強い茜色。同時に感じたのは、弱い風と温い湿気に運ばれてきた、草木の青い匂い。
 ーーーもう、夏だな。
 晴れ渡った夕空を仰ぎ、夏の到来に目を細めると、静かに肩を並べた土屋さんが倣うように続いた。

「明日も晴れるといいね」

こぼれたささやかな希望に、俺は小さく頷いた。


 帰りの道中でみんなと別れ、土屋さんと二人で向かったのは、お互いの帰り道の大体中間に位置するファーストフード店だった。普段から授業終わりの学生で溢れる店だが、さすがに時間も遅いせいか疎らに席が空いている。
 練習後でさすがに空腹だった俺と土屋さんはそれぞれハンバーガーセットを頼むと、窓際の席に着き、先に腹ごしらえをすることにした。
 ハンバーガーと一緒に口にするのは、他愛のない話。クラスのこと、テストのこと、そしてやはり野球のこと。
 話題は移ろいながらも、ゆったりとしたスピードの会話は途切れることなく続いている。流れる空気に気まずさを覚えることもなく、それどころか、どこか落ち着くとさえ感じているのだから不思議だ。
(一つ上の先輩と二人きりで食事をしながら話をして、なんて)
 コンプレックスを抱え、徹底して周囲から距離を置き個を追求していた頃から考えると、あり得ないと思えるような状況だ。
 都立入学という、逃げの選択の先。そこに待っていた巡り合わせの妙とはいえ、自分が再び野球に向き合い、あまつさえこんな人付き合いをすることになるとは、本当に人生は何が起こるかわからないと思う。
(そして、それを悪くないと思っている自分がいる)
 感慨が降って湧き。追随する照れくささとカッコ悪さを噛み砕くため、俺はひたすら冷めたポテトを口へと運んだ。
 向かい側では、土屋さんがただただ楽しそうに話をしている。
 高い壁に囲まれていた過去。それを乗り越えた今、目の前にあるのは、あまりに平穏で暖かな時間だった。

 お互いが一通り食べ終わると、土屋さんがトレイを端に寄せ、満を持して鞄からノートとシャープペンを取り出した。「お願いします!」と律儀に頭を下げる仕草に釣られ、ドリンク片手だった俺も居住まいを正し、正面を見据える。
「では始めましょうか。ああ、そんなに畏まらなくていいですよ。リラックスして聞いてください」
 背筋を伸ばし、シャープペンを握る手に力を入れる彼に先んじて軽い笑みを送る。先手を打たれ、ぎこちなくも姿勢を緩めたのを見届けると、俺は小さく隠した咳払いで場を整える。
「盗塁についてですが、成功させるためにはいくつかカギがあります」
 講釈を切り出せば、素早くシャープペンがノートを走りだす。表情は真剣そのものだ。
「まずは、分析と決断。配球を読む、相手投手のモーションを盗む、スタートを決断する。足が遅くとも、この技術が優れている選手は盗塁が出来ます」
 俺の言葉が、一言一句記されていく。何度も深く頷く彼の速度を測り、俺は二の説を継いでいく。
「盗塁はただ足が速いだけで成功するものではありません。ですが、足が速いというのは当然大きなアドバンテージです。逆を言えば、多少技術が低くとも、足が速ければ成功する確率をカバー出来るということです」
 自他共に認める得意分野。それを語り出せば興が乗り、熱が込み上げてくる。
「技術を得るには経験が何より大事になります。  対戦相手が変われば、投手も捕手も変わる。すると配球の傾向、モーションも変わります。試行回数を増やし、失敗と成功を重ねることで技術は磨かれ、勘が備わります。……と、まあここまで色々と並べましたが、最も重要なのはスタートをする勇気です。シンプルですが、これがなければ何も始まらないですからね」
 ーーつい力が入ってしまった。
 熱情のまま口を走らせたことを自覚し、俺は眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。平静に置いた間に土屋さんはと様子を窺えば、それまでの意欲は翳り、困惑に眉を下げていた。
「……やっぱり、難しそうだね。僕には無理な気がしてきたよ」
 そう弱音を吐き、ノートに目を落とす。走り書きにも関わらず整った文字は、けれど小さく、彼の自信のなさを表しているように見える。
元々「気が弱い」と自分で口にするほどだ。それに加え、野球から逃げた過去もまた、彼にとって引け目になっているのだろう。
「土屋さん」
 もったいないと、心底思う。
自身に対して正当な評価が出来れば、その才能はもっと花開くだろうに、と。
「貴方の足の速さは俺が保証します。自信を持ってください」
 だからせめて、俺は彼を強く認め、言い聞かせる。それは本人に自覚を促す意味もあるが、何より。
 ーー俺は、俺が認めた才能(土屋さん)を否定されることが悔しいんだ。
「……千早くん」
 迫真に圧され、俺の名を零した彼の瞳が大きく瞬き、僅かに潤む。一足遅れで驚きが動揺に変わったのか、それとも涙目を誤魔化すためか。目線がそわそわと泳ぎ、それでも最後には俺へと帰ってくる。
「……ありがとう。僕のこと、そんな風に言ってくれて」
 照れくさそうに微笑んで、受け止めて。胸がいっぱいとばかりに手を胸に当てると、土屋さんは懐古に目を細める。
「なんか、要くんに連れられて野球部に来た日のこと思い出しちゃった。千早くんが、僕の足の速さを褒めてくれた時のこと」
 暖かさを灯した声が、記憶を綴る。大切な宝箱を、ひっそりと開くように。
「軟式をやっていた頃は誰かに褒められることなんてなかったから、すごくビックリしたけど……でも僕、本当に嬉しかったんだ。あの言葉がなかったら、きっと僕は、野球部に入ってなかったと思う」
 ヒーローを前にした子供みたいに、笑って。
「本当にありがとう。僕が知らなかった僕を、見つけてくれて」
 土屋さんは真っ直ぐにーー俺を、見つめている。
「千早くんの走ってる姿って、本当にカッコイイよね!ボテボテのゴロでも、浅いフライでも、自信満々でスタート切って。迷いなく次の塁へドンドン進んじゃう姿を見てると、点が入るかも!ってすごく期待しちゃうんだ」
 滑らかに流れる賞賛を耳にしながら、俺は戸惑い、沈黙していた。
 渡された謝意に、彼の屈託のなさにーーー今の俺を肯定し、称する言葉全てに。
不覚にも、心が締めつけられてしまったから。
「ドキドキして、もう、千早くんから目が離せないくらい!」
 与えられることのなかった、『天賦の才』という絶対的資質。
 持たざる者であるはずの俺が、それでも『特別』 なのだと。
 そう自惚れてしまいそうになるほどのとびきりの笑顔が、胸の奥の奥、未だ刺さったままの劣等感のカケラを揺さぶる。

ーー手離せばいいと、優しく。

「……ありがとうございます」

 自然と口をついて出た感謝に、彼が俺にくれたものと同じだけのものは込められていただろうか。多分に絆され、取り繕ってはいるものの、平常心を失っている自覚はある。どうにも、適切な距離感が把握できていない。そんな気がする。
「話、脱線させちゃってごめんね。あ!千早くんもう飲み物ないよね?何か飲む?今日のお礼に、僕がおごるよ」
 都合良く変わった流れにようやく人心地を得て、俺は深く息継ぎをする。呼吸を整え、努めて普通に装って「では、アイスティーをお願いします」とリクエストすれば、土屋さんは「アイスティーだね!」と反復し、レジカウンターへと向かい歩いていった。

 物理的に離れた距離に、少しだけ心のバランスを取り戻す。窓へと視線を投げれば、目に入るのは硝子に隔てられた夕闇の街よりも、内の光に反射して写る自分の顔だった。
 真向かう、大嫌いだったはずの顔。
 本心を隠すため、嫌いな自分を偽るための伊達眼鏡は今も変わらずかけているけれど、今はもう、あの時のようにどうしようもない嫌悪感に歪むことはない。
 磨かれた透明度に、見慣れない、見慣れた顔の俺がいる。そしてその後ろに土屋さんの姿が一緒に映り、俺はゆっくりと振り返る。
「お待たせ。はい、アイスティー」
 ドリンク二つを乗せたトレイを机に置き、戻ってきた土屋さんが俺に手渡す。短く礼を言って受け取ると、紙コップ越しのひんやりとした温度に、いつのまにか火照っていた手のひらを知覚させられる。
「土屋さんは……バニラシェイク、ですか」
 薄い透明色のプラスチックカップに満ちた、オフホワイトの半液体。
涼しげで甘そうなその見た目が、不意に俺の胸を衝く。
「うん。ポテト食べた後だからか、甘いもの飲みたくなっちゃって。よかったら千早くんも一口飲む?」
 注目していると、欲しがっていると思われたのだろうか。土屋さんはストローを刺し、口をつけずに目前へと差し出してくれた。だが、俺はそれを反射的に片手で制する。
「いえ、俺は……シェイクは、少し苦手で」
 追想が追想を呼ぶのか。
 ーーやけに今日は、過去を誘発する出来事が重なるものだ。
「そうなんだ。千早くんて、甘いの苦手だったりする?」
「そういうわけではないんですがーー」
 純粋な質問に、返答が迷う。
 なんて事のない場面だ。適当に流すことはいくらでも出来る。
 なのに、俺はなぜか、開いてしまった。

「……昔、無理をしてまして」

 ダサくて、この上なくみじめな思い出を隠していた、胸の内を。

「身体を大きくしたくて、ひたすらカロリーを摂ろうとしてた時期があったんです。その時に、毎晩寝る前に溶かしたアイスクリームを飲んでたんですよ」

 久しく忘れていた、乳脂肪と砂糖の甘ったるさを幻覚する。毎晩、毎晩、毎晩。一体いくつのアイスクリームを胃に流し込んだのか、覚えてもいない。

「晩飯も大量に食べた上でのそれだったので、気持ち悪くなることも多くて。そのせいか、今はアイスやシェイクといった類のものを避けてしまうんですよ」
「……そこまで努力、してたんだね」
「大した事ではありませんでしたよ。まぁ、この通り効果はなかったので、結局無理に食べること自体辞めてしまいましたが」

 深刻になる土屋さんは、予想通り。気丈に振る舞い、自ら笑い飛ばしてみれば、どこか胸がすいてゆく気がする。
「じゃあ、見るのも嫌だよね」
「ええ。そう、なんですが」
 彼の手に収まったまま行き場を失くした、件のバニラシェイク。黒い歴史に塗れ、嫌気の塊でしかなかったはずのものが、今は少し、違って見えた。
 野球を始めるより前、幼い頃の記憶がじわじわと上塗りによみがえり始める。
 ーーあの頃はたしか、「美味しい」と喜んで飲んでいたな、と。
「やっぱり、一口いただいてもいいですか」
「え?」
「元々嫌いだったわけではないので。久しぶりに口にしてみたくなりました」
「うん!いいよ、もちろん!」
 はい、と改めて目の前に差し出され、躊躇に遅れながらも俺はシェイクを手に取った。じっと見守られる中、意を決してストローを口に咥え、思い切って吸い込む。
「どう、かな」
 しばし無言で咀嚼をする。
 口の中に広がるバニラの味と匂いは、いつか味わった挫折の味そのものだ。甘いはずのそれは、逆に苦々しさの象徴で、やはりどこか胸に支える。
 だけど。
「……思っていたよりも、大丈夫ですね」
 今の俺は、それを飲み干すことが出来た。
コクリと喉を鳴らせば、バニラ味のわだかまりはすんなりと体内に落ちて収まっていく。
「大丈夫?気持ち悪くなったりしてない?」
「ええ。なんだか、拍子抜けしました」
手にしたプラスチックのカップをまじまじと見つめる。忌避する理由を失い、やけに軽く感じるカップを土屋さんへと差し出し返せば、細い両手の指先がこちらへと伸びた。
「よかった」
 安堵に包まれ、彼が微笑む。
 その暖かい両手に抱擁されたシェイクは氷解し、じわりと溶けてゆく。

 ゆっくり、ゆっくりと、確実に。

「……飲んだらまた、話の続きをしましょうか」

 気がつけば俺は、美味しそうにシェイクを飲む土屋さんを見つめていた。
込み上げてくる、感じた事のない温かさと柔らかさ。
 知らない心地に翻弄され、制御を失った意識はひとりでに言葉を紡ぎ、走り出す。

「土屋さんには、たくさんの事を知ってもらいたいですから」

 ーー野球のことも、そうでないことも。
もっと、貴方に。

 辿り着いた本心。
 それをアイスティーと一緒に飲み込むと、俺はまた、束の間の嘘に微笑んだ。

 偽ることが、嘘をつくことが、自分を苦しめるのは分かっている。

 だけど。

 今はまだーーこの穏やかな時間を、味わっていたかった。
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