灰色醜美のコントラスト

 長い長い一日が終わった。

「つッ……かれた」
 帰宅して自室に入り、明かりをつけた俺は即座に荷物を手放した。制服姿のまま倒れ込み、だるい全身と疲労感の全てをベッドに預ければ、ふわふわとした布団は優しく俺を包んでくれる。そのあまりの心地よさに、瞼が溶けてしまいそうになる。
「ねむ……」
 眠気に襲われるまま、うとうとと微睡む。すぐさま意識は飛びそうになるが、その時ふと、なけなしの理性が働いた。
 ダメだ、制服のまま寝るわけにはいかない。あちこち走り回って汗だくなんだから風呂に入らなきゃいけないし、お腹だってめちゃくちゃ空いてる。まずは何か食べないと。
 何とか思い直した俺は、残り少ない力を振り絞り上半身を起こした。ベッドサイドに腰掛け、枕元の目覚まし時計を見てみれば時間はもう八時半過ぎだ。最後まで野球部の練習を追っていたせいで、こんな時間になってしまった。
「あんなキツい練習毎日のようにやってるなんて……野球部って怖……」
 仰ぐようにして独りごち、俺は明日からの自分の体力に不安を抱く。
 まさか今日一日でこんなに疲れるとは思わなかった。とはいえこの疲れの大部分は、長時間の撮影よりも単なる人疲れな気もする。人付き合いが苦手なくせに今日は人と、それも初対面の相手と会話する機会が多過ぎた。
 乗富、千石先輩、陽ノ本先輩に飛高先輩。その他にも、トレーニングルームを案内してもらった時に国都と同じくレギュラーだという益村先輩、小里先輩、久我先輩と軽く挨拶をした。その中でも小里先輩と久我先輩は第一印象が怖く、より緊張したのが効いている気がする。(まぁ、久我先輩は見た目の印象と違って優しかったのだが)
 国都との昼休みから始まり、まさに激動の一日だった。明日はどうなるんだろうーーーそう思った時。
「あ、そういえば」
 あることを思い出し、俺は慌ててズボンのポケットに手を入れた。指に触れたクシャクシャのノートの切れ端を取り出すと、シワを伸ばすようにして丁寧に開く。
 そこに書かれているのは、国都の連絡先だ。
 やや走り書きされた文字を眺めながら、俺はこれを受け取った時のことを思い返した。


 それは、一日の練習が終わった直後のことだった。グラウンドの野外ライトが夜をかき消す中、最後の集合を終えた野球部は、締めの号令と共に三々五々解散を始めた。一言挨拶して帰ろうと待っていた俺は離れた場所でタイミングを伺っていたが、そこに国都がすぐさまやって来た。
「部活お疲れ様」
「眞城くんこそお疲れ様。まさか最後まで撮影してるとは思わなかったよ」
「帰るタイミングを図れなかったってのもあるんだけど……それ以上に、自分の腕の未熟さを思い知ってさ。作品の方向性決めるよりも前に一枚でも多く撮って練習しないと、形にすらならないなと思って」
「そうかい。簡単にはいかないんだね」
「うん。だから、また明日来てもいいかな」
「大丈夫だよ。ただ明後日の放課後は他校で練習試合だから、その日は無理かな」
「そっか。毎日ここで練習してるわけじゃないんだな」
 そりゃそうだと腑に落ちる。技術不足を補うため明日以降もしばらく撮り続けたかったが、野球部には野球部の予定があるんだ。俺の都合通りにとはいかない。
「良かったら部のスケジュールを用意するよ。地方大会が始まるまでの予定はもう決まっているから」
 出来れば今後の予定を把握しておきたいなと考えたところで、タイミングよく国都が気を利かせてくれた。渡りに船とはこのことだ。
「そうしてもらえると助かるよ」
「明日までに用意するから、待っててくれるかい」
「急がなくても大丈夫だよ。でもありがとう。よろしく」
 そこまで話が済めば、あとはもう帰るのみだ。俺は通学カバンとカメラバッグを掴もうとするが、曲げた体は疲労で重く、動きは鈍かった。
「眞城くん」
「ん?」
 やや苦労して荷物を手にした時、国都が俺に声をかけてきた。まだ何かあるのかと思って見返したが、グラウンドライトを背にした国都の表情は影色で読みづらい。
 どうした、と口を開きかけた俺より前に、国都は先駆ける。
「良かったら、キミの連絡先を教えてもらえないかい」
 単刀直入に言われ、理解が追いつかなかった俺は目を瞬かせる。
「俺の、連絡先?」
「うん。今後スケジュールが変わらないとも言えないし、いつでも連絡できるようにしておきたいんだ」
 なるほど、スケジュール変わるは確かにあるか。いや、でもそれならクラス一緒なんだからそこで伝えてくれればいいのでは?ああ、でも休みの間に変わる可能性もあるか。
 無駄に二転三転しながらも、結局俺は求めに応じることにした。連絡のために必要なのだし、どうしても教えたくないというわけでもない。それに、国都なら友永部長みたいに鬼メッセージを送って来ることもないだろう。
「ちょっと待って」
 結論を出した俺は、手にしたばかりの通学カバンから適当な科目のノートを取り出した。白紙のページの一部を切り取り、ペンケースから取り出したシャープペンで電話番号とEメールアドレスを記す。その紙を適当に折ると、俺は国都の前に差し出した。
「これ、俺の電話番号とメアド。何かあればここに連絡して」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
 小さく折られたノートを国都の大きな両手が受け取る。大事そうに包まれれば、不思議と悪い気はしなかった。
「眞城くん、僕にもそのノートのページ一枚と、ペンを貸してくれるかい」
「?いいけど。はい」
 要求通りに手渡せば、国都もまたノートに字を記していく。雨の雫がモチーフのお気に入りキャラクター、「あめおくん」がデザインされたシャープペンを使う国都の姿は、何だか不似合いで面白い。
 ややしてペンが止まる。小さく畳まれた紙が、ずいと俺の目の前に差し出される。
「これ、僕の連絡先。眞城くんも何かあったらいつでも連絡して。部活中は携帯に触れないけど、寮にいる時なら返せると思うから」
 言って、国都は俺の手を掴み手のひらに乗せてきた。
 ーーこの連絡先って、国都を追っかけている女子なら喉から手が出るほど欲しいものなんだろうな。
 どこか他人事のように捉えていると、ふと背後から国都を呼ぶ声が聞こえた。
「国都ォー!岩崎監督とマネージャーが探してるぞ!」
「内藤先輩、ありがとうございます!すぐ行きます!」
 国都は呼び出しに応じると、急ぎ俺にシャープペンを返却する。
「ごめん、もう行くよ。気をつけて帰ってね」
「あ……うん。じゃあな」
「また明日」
 宵闇にも明るい笑顔を残し、国都は去っていく。俺はそれを見送ると、自分の手に収まった国都の連絡先と、さっきまで使われていたシャープペンに目を落とす。
 今この手にあるのは、俺と国都の繋がりだ。目に見える形を手に入れた俺はむずむずとするような、何とも言えない気持ちに渦巻かれる。
 どうして俺はこんなに戸惑ってばかりなんだろう。ありがとうの一言も言えず、別れ際に笑顔ひとつ返せないなんて。
 手のひらでは、出番の終わったあめおくんがニッコリと笑っている。気落ちする俺を励ますのは、その笑顔ただひとつだけだった



 長い回想から意識を戻した俺は、もう一度ベッドに全身を預けた。仰向けで伸ばした手には、国都の連絡先が記されたノートが部屋の照明に透けている。クシャクシャにしてしまったのは俺のせいだが、よく見たら折り目が少し雑に曲がってる。これは俺じゃなく、国都のせいだ。
「……お弁当だけじゃなく、まさか連絡先まで交換するなんてな」
 口にすれば深い感慨が湧く。
 今日は国都と朝からいろいろな話をした。知らなかった国都を知った。その新鮮な全ては、別世界の住人である国都英一郎という存在を、突然俺の隣に顕現させた。
 なんてことはない。考えてみれば当たり前の話だったんだ。国都が俺と同じ、普通の高校生だなんて。

『キミと国都は、いい友達になれると思うよ』

 陽ノ本先輩の言葉が浮かぶ。懐疑的だった言葉も、近しさを感じた今なら、少しだけそう思える気もする。
「とはいえ……友達ってなんなんだろ」
 疑問が呼び水になり、脳裏に小学生の頃の記憶がちらついた。それは思い出したくない出来事で、今では触れないようにしている記憶だ。俺はそれを振り払い、改めて考える。
 仲良くなるって、どうしたら良いんだろう。
 そう考えてみた時、急にポケットのスマートフォンがブルブルと震えた。その振動に気づいて取り出すと、そこにはメールアドレスへのメッセージ着信が通知されていた。そのアドレスは、今まさに眺めていたノートに書かれたものと同じものだ。
「連絡来るの早ッ!」
 思わず口に出しながらメールを開く。すると内容は部のスケジュールについてかと思いきや、改めての挨拶と今日を振り返る内容が書かれていた。つまりは、世間話というやつだ。
 几帳面なやつだなと思いつつ、俺は丁寧に綴られた文面に目を通していく。

『今日は本当にお疲れ様。お昼休みにお弁当を交換していろいろな話をしたこと、とても楽しかったよ。僕がお世話になっている先輩方や後輩にも紹介出来て本当に良かった。撮影がなかなか上手くいかないということだったけど、あれだけ素晴らしい写真を撮れる眞城くんなら、必ず良い写真が撮れるよ』

 思いもよらない励ましが、突然俺の胸に触れる。考えてみたら、両親以外の誰かに応援されるというのは初めてだ。何とも言えない心地を逸らすように、俺はさらに文面を進めていく。
 すると、メッセージの終わりはすぐに訪れた。最後には、こう書かれている。

『よかったら、明日のお昼も一緒に食べないかい?』

 その誘いを、俺は三度読み直した。じわじわと胸に広がる何かを感じながら、今日一日だけだと思い込んでいた時間を振り返る。
 他愛のない、けれども充実した時間。高校に入って初めて、俺が楽しかったと感じた時間。それがまた明日やって来るのかと思うと、密かに踊る思いに気がついた。
 眺め続けた文面に決意を固め、俺は返信のボタンを押す。短く返す挨拶の中に、最後の誘いへの
返答を潜ませる。
『明日のお昼、大丈夫だよ』
 素っ気ない返答しか綴れない自分を苦々しく思いながらも、何となく、国都は気にもしないような気がした。送信ボタンを押せば、その予想はおそらく的中したのだろう。
 『ありがとう。明日も楽しみにしているよ』
 すぐに帰ってきた返事は何の飾り気もないのに、不思議と国都の言葉通りの意味がしっかりと詰まっている気がした。
 俺は短い返信を読み終えると、スマホと連絡先をベッドへ手放す。そして寝返りを打ちながら、明日のお昼はパンを多めに買っていこうかなんて、柄にもないワクワクを持て余していた。

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