積水抱擁のマルチアングル
待ちに待った放課後がやってきた。やや延びたホームルームの終礼を終え、一日の終わりに賑わうクラスの中、俺はカバンとカメラバッグを手に席を立った。野球部の練習は十六時スタートだが、早めに集まった部員たちは自主的に準備や練習を始めるらしい。グラウンドまで一緒に行こうと誘われた俺は、お言葉に甘えて連れて行ってもらうことにする。
「じゃあ行こうか」
「ああ。よろしく」
通学用カバンだけを持ち、国都は身軽な姿で俺を連れ立つ。野球部用のユニフォームや用具は部室のロッカーにしまってあるらしく、着替えや準備はそこで行うらしい。
俺たちは昇降口で靴を履き替え、グラウンドに足を運んだ。そこでは俺たちよりも早く来ていた部員ーーーおそらく下級生たちが練習の準備をしていて、ボールやらネットやら、必要な用具を足繁く運んでいた。
授業が終わったばかりで、まだ部員の集まりは疎らだ。そんな中、グラウンドで準備をしていた部員が一人、こちらに向かってトテトテとやって来た。
「英一郎くん!お疲れ様ばい!」
第一声の独特な方言と声量、そして親しげな口調に度肝を抜かれる。長身が目立つ部員たちの中で彼の身長は一際低く、勝手に一年生なのだと思ったが、親しく呼ぶ仲ならば同級生か先輩なのだろうか。
俺は二人の会話を邪魔しないようにと、そっと一歩引き下がる。
「お疲れ様。乗富は今日も早いね」
「オイのクラスは早よう終わるけん。当番がなか時は、いっつも一番乗りばい」
九州方面の方言だろうか。クセのあるイントネーションや独特の語尾が珍しい。
側で黙って会話を聞いていると、急に彼ーーー乗富と呼ばれた部員は、ぐりんとこちらへ首を回してきた。固まる俺に、彼は遠慮なく近寄ってくる。
「アンタが眞城くんと?英一郎くんから、写真ば撮る聞いちょるよ。よかねぇ、オイもかっこよう撮って欲しかと〜〜」
初対面の俺に、ニコニコと人好きのする笑顔が向けられる。物怖じしないタイプなのだろう。警戒心を感じさせず、懐にコロッと潜り込むように接して来た相手は初めてだ。とはいえ、勢いに圧倒されてどうしていいのかわからないのだが。
「ああ、名乗っとらんやったね。オイは一年で帝徳のレギュラー捕手やっとる、乗富大善ばい!」
「え、と、二年の眞城、史哉です。って一年!?」
「ワッハッハ!がばいたまがっとーね!」
上下関係が厳しそうな運動部で、国都のことを下の名前で呼ぶ一年がいるとは思わなかった。乗富の大物ぶりに目が丸くなる。
「オイの写真やったらいつでも大歓迎ばい。よろしゅう、眞城くん」
「よ、よろしく」
差し出された右手を握り返すと、ギュッと強く握られ上下に振られる。握られた手のひらの硬さとザラつきは、彼が積み重ねて来た日々の証なのだろう。ふっくらとした体格に隠れた筋肉といい、彼もまた、野球に人生を捧げている一人なのだとわかる。
「さて、オイは準備に戻るばい。英一郎くん、また後でバッティングについて聞いてよか?」
「うん。僕で教えられることならいつでも」
「助かるばい!じゃあまた」
豪快な挨拶を残し、乗富はグラウンドへと戻って行った。嵐が過ぎ去ったような静けさの中、未だ圧倒されっぱなしの俺は、ちらりと国都に視線を送る。
「面白いだろう、彼」
「うん…すごくインパクト強いな。あと、人懐っこいというか」
「そうなんだよ。僕、後輩に気さくに話しかけてもらったの彼が初めてでね。それがすごく嬉しくて」
縦社会が多い運動部において、おおよそ先輩への態度とは思えない乗富の口調や態度も、国都は心底喜んでいるようだ。考えて見れば、クラスには国都を下の名前で呼ぶ者はいないし、いつも一緒にいる友達のような存在も俺は知らない。
もしかしたら国都は、意外と一人だったりするんだろうか。常に人に囲まれているイメージが、俺の中で覆りそうになる。
「それじゃあ僕は着替えてくるよ。今日はウォームアップの後、まずは内野の守備練習で第一グラウンド集合なんだ。奥の方のグラウンドだから、そこで待っててくれるかい」
「わかった。なるべく邪魔にならない場所で撮る準備しておく」
国都は頷きを残し、クラブハウスへと入って行った。俺は指定された奥のグラウンドに近付くと、ホームベースの後方、バックネットの後ろ辺りで足を止める。
ここだと目の前にはネットがあるから撮りづらそうだ。スポーツ専門のカメラマンは、一体どんな風に外野からあの臨場感を写しているのだろう。
悩みながらもカメラバッグを開いていると、数名の部員に囲まれた先輩らしき部員がやって来た。同学年では見ない顔だ。三年生だろうか。
「千石さん!」
「千石さん!お疲れ様です!」
「お疲れ様です千石さん!」
「俺の名前を連呼するな」
盛んな挨拶と共に名前を連呼されているのは、千石という名の先輩らしい。随分と慕われているんだろうか。後輩らしき取巻き、すれ違う部員みんながこぞって彼の名を口にしている。そして、その都度本人が釘を刺している。
異様なやりとりが気になっていると、渦中の千石先輩が囲みを抜け、一人俺の方へとやって来た。邪魔にならないよう身を引こうとしたところで、通りがかった彼が足を止める。
「そのカメラ、お前が国都の言っていた写真部か」
「え、あッ、はい」
感情の薄い三白眼に値踏みされ、身が竦む。起伏のない声色は人となりが読みにくく、俺は怖気づきおどおどしてしまう。
「そう怯えるな。俺は三年の千石だ。まぁ覚えなくてもいい。俺は大した人間でもないしな」
「あ、あの、俺は写真部の二年で、眞城史哉と言います。今日からしばらく、野球部にお邪魔します」
なんとか無難に挨拶をしたが、名乗り方もクセが強くとっつき辛い。さっきの乗富といい、野球部は個性が強いメンバーが多いのだろうか。人馴れしていない俺は、すでにここまででメンタルのすり減りを感じる。
「国都と同じクラスだそうだな。昨日、奴が晩飯時に食堂で宣伝していたぞ。帝徳高校というテーマで写真を撮るのに、眞城史哉くんというクラスメイトが僕を撮らせてくれとお願いしに来たとな」
「はッ!?宣伝!?そんな大事になっていたんですか!?」
「ほぼ全員の前で大々的に宣言していたからな。二年になってすぐ国都の席の一つ後ろに座っていたとか、いらん情報まで寮中に知れ渡っているぞ」
思わず頭を抱える。別に隠してくれとは頼んでいないし、上の許可を取ってくれたとはいえ、部の人間に配慮も必要だろう。だけどそういうのって、普通は部のミーティングで監督やコーチから周知とかじゃないのか。何でプライベートで国都自らが、どうでもいいエピソードまで含めてみんなに公表しているんだ。
「国都はああ見えて突拍子がないところがあるからな。諦めろ」
目立ちたくはなかったが、すでに手遅れだと宣告される。言われて周囲に気を配って見れば、あちこちから集まる視線と、噂の的になっている気配を感じる。
まさかこんなことになるなんて。胸にやきもきしたものが広がるが、今更どうすることも出来ず、ただただ愕然とする。
とはいえ、部外者がうろついていたら目立たなく居られるはずもないんだ。千石先輩の言う通り諦めて、腹を据えなければ。
「そんなことより、国都を撮るなら守備位置は一塁手だ。ホームの真後ろだと目の前はノッカーだから、少し一塁側に寄るといい」
「え?あ、ありがとうございます」
「ちなみに俺の守備位置は二塁だ。フレームに入る可能性があるから気をつけろ」
それだけ言い残すと、返事を待つこともなく千石先輩はスタスタと去って行った。
最後までペースの掴めない人だった。だけど一応俺のために場所取り位置を教えてくれたのだから、印象より怖い人ではないのだろう。
俺は助言を元に少しだけ位置をずれる。すると着替え終わった国都が足早にこちらへやって来た。
「お待たせ。今、千石さんと話していたのかい?」
「うん…国都の立ち位置とか、撮りやすい場所を教えてもらった」
「そうかい。それは良かった。でも、何だか浮かない顔だね。どうかしたのかい?」
あどけなく崩れた表情をジトリと睨めつける。国都には全く心当たりがないのだろう。俺の心中も知らず、当の本人はきょとんとした顔に変じる。
「……あのさ、国都。今、昨日の食堂でのこと聞いたんだけど。なんかみんなの前で、俺のこと話ししたんだって…?」
「ああ、そのことかい。監督には先に伝えたけど、部のみんなにも伝えておいた方がいいだろうと思って、僕から話しておいたんだ。いけなかったかい?」
「いや…そういうわけじゃないんだけど。ただ、国都が自らみんなに言う必要あったのかなって。あと、俺との馴れ初めなんかは必要なかったんじゃないか……?」
やや慎重に、しかし確実に、度を越した勇足を指摘する。だが全く伝わっていないのか、国都は不可解な面持ちで首を軽く傾げる。
「一時的とはいえ部に顔を出すわけだし、眞城くんのことをちゃんと知っておいてもらった方が何かと良いと思って。これがキッカケで、みんなと仲良くなれるかもしれないしね」
一周どころか、二周分くらい余計な気を回している国都にもう言葉は出なかった。ガックリと肩を落とし、俺は心中で白旗を振る。これはもうお手上げだ。
「眞城くん?」
「……いや、もういい。何でもない。国都はこれからウォームアップなんだろ。そろそろ行った方がいいんじゃないか」
「そうだね。じゃあ行ってくるよ」
「ああ。…いってらっしゃい」
苦々しさを込めて送り出すが、国都は意に介さない。それどころかにこやかな笑顔を咲かせていくのだから、マイペースにも程がある。
昨日まで抱いていた国都のイメージが、音を立てて崩れていく。優等生、人気者、聖人君子、完璧超人。様々な正のイメージがあったが、その実、関わってみるとなんというか、ちょっとズレている部分がある気がする。
国都英一郎という男は、思うほど『特別』な男ではないのかもしれない。
ここまでの関わりの中で知り得た人となりを元に、俺は国都への印象を軌道修正し、再構築するのだった。
しっかりと時間を取ったウォームアップが終わり、集合と号令から部の練習が始まった。グループに分かれた主力部員たちは守備練習、打撃練習、投球練習、体力強化など、いくつものメニューをそれぞれローテーションでこなしていく。それ以外の大勢の部員たちも練習はしているようだが、時に練習を手伝う側になったりと、部をサポートする役目も担っているようだ。
そんな中、俺は国都を撮るため、内野守備練習に張り付いていた。次々と打ち込まれる難しそうな球を捕り、指定された位置に返球をする練習だ。何人かで順番とはいえ、機会は目まぐるしいスピードで回ってくる。
コーチがボールを打つ。選手は取れるか取れないかギリギリの球に目一杯飛びつき、時に地に伏す。白い練習着は見る間に土まみれになり、流れる汗と共に汚れていく。何巡も行われるその練習は、見ているだけで過酷だった。
俺はカメラを構えながらも、そんな国都の姿をろくに撮ることが出来ずにいた。
理由のひとつは、ネット越しによるフレーミングの難しさ。もうひとつは、風景写真という静的撮影がほとんどだった俺の、動的撮影技術の無さだった。留まることなくキビキビと動く人物は、俺の野球知識の不足も相まって、まともに収めることすら困難だ。
自分の見積もりの甘さに気付かされ、悔しさに歯噛みする。それでも頑張って何枚か撮ってみたが、ピントも合っていなければ、そもそもフレームに収まってすらいないのもある。話にもならない、酷すぎる出来だった。
そうこうしているうちに、内野守備練習が終わった。次は何が始まるのかと思えば、今度はそこに投手であろう一団が加わった。終わったと思った練習は彼らを加えて陣形を変え、再び始まった。どうやら投手を加えた守備練習に変わったようだ。
先程と同じように、ノックを受け捕球、返球を繰り返す。だが今度の中心は投手だ。ボールを捕ってすぐ、都度返球場所を指示され、その通りに動く。飛び交う声を元に、連携を図っているのだろう。
俺は本来の目的である国都だけを撮るつもりだったが、致命的な経験と技術不足を思い知り、急遽テストに切り替えた。この練習の主役は投手だ。俺は誰とも知れない選手に中望遠レンズを向ける。好きに練習を撮っていいともらった許可が、今は非常にありがたい。
ネットに張り付き、ファインダーを覗く。まずはきちんと画を枠に収めるのが重要だ。俺は次の選手を、ファインダー越しに見えるブライトフレームに収めようとする。が、順番が回ってきたその選手は飛び抜けて大きな身長で、ただ収めることすら難しかった。
「次、陽ノ本!」
「はい!」
陽ノ本と呼ばれた選手が前に出る。百九十センチはあるだろうか。俺よりも背の高い選手が山ほどいる中、彼だけはそこからさらに頭ひとつ分くらい高い。体の線は細めだが、身長といい長い手足といい、日本人離れした印象を受ける。
彼の練習動作を撮ろうと、タイミングを見計らう。走り出し、流れるような補球、そして送球。一連の動作はあっという間だ。俺は連続シャッターモードで手当たり次第撮りまくり、そしてすぐにメモリを確認する。結果から、最適解を探るのだ。
しかし、連続写真はやはり不出来なものだった。なんとかフレームに収めることは成功したが、ブレが激しい。シャッタースピードの調節が足りないのだろう。
確かめてからカスタマイズし、俺はもう一度カメラを構え直す。すると、捉えた陽ノ本選手が丁度こちらを見ており、カメラ越しに視線がぶつかった。
彼は笑顔で、俺に軽く手を振る。その笑みは、白いブライトフレームにも劣らない輝かしさだった。
弾みでシャッターを切った俺は、一度カメラから目を離すと彼に会釈した。気づいてくれたようだが、彼は後方に下がっていく。次の投手に順番が来るからだ。
投手を交えた練習もまた、しばらくして終わりが訪れた。ここまでですでに一時間半が経過している。守備練習を終えた面々は、水分補給などの小休止を挟みつつも、すぐに次の練習の準備をしているようだ。
ややして、第一グラウンドからぞろぞろと人が動いた。合わせて移動をするために片付けていると、そこに国都がやってきた。すでにしんどそうな表情の選手が多い中、国都はまだ余裕があるのか、汗をたらしながらも涼しげな顔をしている。
「次は打撃練習だから、昨日のバッティングケージの方に移動するよ」
「そっか。教えてくれてありがとう。俺もそっちに行くよ」
「うん。すまないけど、僕は先に行くよ」
「ああ。またあとで」
国都を見送った俺は、残っていた片付けを手早く終えた。肩にバッグをかけ、首にカメラをぶら下げて立ち上がる。すると移動しようとした俺に、ふと大きな影が差した。見上げれば、そこに居たのはさっきの練習で陽ノ本と呼ばれていた選手だ。近くで見るとめちゃくちゃデカい。
「こんにちは。写真部の眞城くんだっけ。さっきの練習で俺を撮ってた?」
「ッ!?すみません!断りもなく!」
開口一番撮影のことを指摘をされ、俺はすかさず謝罪をした。慌てて頭を下げようとすると、彼もまた慌てて止めに入る。
「あ、怒ってるわけじゃないよ!部の練習撮影するって聞いてたし。ただ、どんな風に撮れたのかなって気になっただけ」
太陽のように明るく笑いながら、俺の誤解を解いてくれる。怒っていなかったのは何よりだが、彼もまた俺の写真が気になったと言う。写真を撮るって、こんなに人に気にかけられることだったのか。
「撮るには撮ったんですけど……実力不足で、上手く撮れていなくて」
「そうかぁ。動いてる物をカメラで撮るのって難しいもんね。俺もスマホで写真撮るけど、素振りとかピッチングを撮ろうと思ってもなかなかキレイに撮れないし」
見せられる出来ではないことを告げれば、理解を示し深入りせずにいてくれた。その人当たりの良さに、俺は良い人だなと直感する。
「そうだ、自己紹介してなかったね。俺は三年の投手で陽ノ本当っていうんだ。よろしく、眞城くん」
「写真部で二年の眞城史哉です。よろしくお願いします」
自己紹介も三回目ともなると、さすがに名乗り慣れてきた。今まではしどろもどろだったのに、しっかりと挨拶出来るようになっている自分にびっくりする。まぁ、陽ノ本先輩が乗富や千石先輩に比べるとキャラが濃くないというのもあるのだが。
「昨日国都から聞いたんだけど、クラスメイトなんだってね。国都とは仲良いの?」
「いや、実はその……特別仲が良いってわけでは……」
濁しながらも事実を伝えると、ワンテンポ置いて陽ノ本先輩がふっ、と小さく吹き出した。
「あはっ!そうなんだ。みんなの前で急にクラスメイトの話しをしだしたからさ、てっきり仲の良い友達の話なんだと思ってたよ。国都、クラスで楽しくやってるみたいでよかったなーって思ったのになぁ」
「それは、その。俺から何て言っていいか…」
「ああ、ごめんごめん。困らせちゃったかな。俺が勝手に思ってただけだから、気にしなくていいよ」
居た堪れなくなったところを、陽ノ本先輩が笑い飛ばしてくれる。しかし今日は同じことをクラスメイトからも聞かれたが、本当のこととはいえその度に「仲良くない」と否定している俺もどうなんだ。
というかそもそも、友達ってどうしたら成立するのだろう。友達のいない俺からしたら、その根本が一番の難問だ。
でも、ふと思う。
昼休みに一緒にご飯を食べたこと。
お弁当交換をして、他愛もない話で笑い合ったこと。
国都と過ごしたあの時間は、今思えば、まるで友達みたいだったと。
そう思う自分がいることもーーーそうならいいのにと願う自分がいることも、なんとなく分かっていて。
「……ねぇ、国都ってさ、クラスでも真面目でしょ?」
複雑な心模様に沈む俺に、道標のような囁きが降った。その問いかけに俺は大きく頷き、「はい」と肯定する。
「国都はああいう性格だからさ、野球部でも責任を背負いがちなんだよね。本人はそんなことないって言うんだけど、側からみると、やっぱりそうでもなくて」
夏めいた晴天の太陽が、ジリジリと俺たちを焼く。彼が背負った陽光のせいで、陽ノ本先輩の正面と俺には今、翳りが生まれている。
「一年から四番に座っているのもそうだし、甲子園には行ったけど、陽盟にボロボロに負けたのもあって。そういうの、国都は全部抱えてると思うんだ。去年の夏が終わってからずっと、野球をしている時の張り詰め方が普通じゃないから」
光と、影。
露光を下げたような暗度の中、憂いという名の彼の胸懐は揺れている。
「でも、昨日の国都が嬉しそうにキミの話をするのを見て思ったんだ。もしかしたら、眞城くんみたいに野球に関係のない人が傍にいた方が、国都は気が抜けるのかもしれないって。バランスが取れるっていうか」
透き通った茶色いビー玉みたいな瞳が、希望に煌めき輝く。光を託されたのは、未だ狭間に揺れている俺だ。
「だからさ、キミさえ良ければ、これから国都と仲良くなってって欲しいんだ。余計なお節介なのはわかってるんだけどね」
一層の笑顔が、影を照らし結ぶ。
俺は渡されるとは思っていなかったものの大きさに震え、不安に浸りながらも、目の前の光を見上げた。
昨日までの俺だったら、即否定していたはずの願い。
だけど今は、少しだけ。
その願いに、手を伸ばしたくなった。
「……俺で、いいんですかね」
だというのに、相変わらず俺に意気地はなかった。俺という小さな人間では、どう考えても力不足は否めない。ましてや、陽ノ本先輩から国都の現状を聞かされた今、その大役に選ばれるのは分不相応でしかない気がした。
だけど、陽ノ本先輩はそんな俺の弱気を、とびきりの笑顔で吹き飛ばす。
「キミと国都は、いい友達になれると思うよ」
そして、断言する。その言葉の強さに驚いて、思わずそのまま飲み込みそうになる。
「そう、ですかね」
「うん。絶対だよ」
絶対。とてつもなく重いはずの言葉が最も簡単に、けれど適切にもたらされる。無条件で信じたくなるのは、陽ノ本先輩の人徳だろう。生まれ持った陽の強さを感じる。
力強い後押しを受けた俺は、わだかまりを鵜呑みにすることにした。今は深く考えず、国都の写真を撮ることを考えよう。これから撮り終えるまでの間、関わり合いは続いていく。そこで重ねた時間に、もしかしたら、何かが生まれるかもしれない。
そう楽観に切り替えた時、また一人、更なる来訪者がやってきた。
「当ー、そろそろ投球練習始まるけど行かないのか?」
俺と陽ノ本先輩に駆け寄ってきたのは、これまた大柄な選手だった。陽ノ本先輩ほどではないが、国都と同じくらいには見える。おそらく、身長は百八十センチをゆうに超えているだろう。
しかし揃って並ばれると、大きな山に囲まれている気分になるな。
「あ!もしかして、当も写真撮ってもらうのか!?」
ジッと俺を見たかと思うと、彼は閃いたように声を上げた。その発想まではわかるんだが。
「まぁ当はカッコいいし、俺みたいなゴミクズを撮りたいヤツなんていないから当たり前なんだけどな…」
今し方までのテンションはどこへやら。地に穴を掘って潜っていくほどの落差でネガり始めた彼に、俺は唖然とする。顔も、いきなり崩れているし。
またアクが強そうな人が来た。それが俺の正直な第一印象だった。
「翔太、違うって。ただ俺が眞城くんに国都の話を聞きたかっただけ」
「え……そうなの」
「そうだよ。それに翔太は帝徳のエースなんだから、撮るならみんな翔太の写真撮るって」
「そ、そうかな……いや、別に撮って欲しいとかじゃないんだけど、でも撮ってもらえるなら嬉しいっていうか」
「あはは、変な顔」
じゃじゃ馬を乗りこなすかのように、陽ノ本先輩が鮮やかに場を仕切る。二人はかなり親しいんだろうか。気を置かないやりとりは自然で慣れていて、長い月日の積み重ねを感じる。
あれ?というかエース?今エースって言ったよな。エースって一番上手い投手のことだよな。この人が?
「眞城っていったっけ」
「は、はい!」
「俺、三年の飛高翔太。眞城は国都の写真撮りに来てるんだよな」
「そ、そうです」
疑いを見透かされたかとビクつき、反射的に声がデカくなったが、そこは気にしていないみたいだ。良かったと安心しつつも、ふと俺相手にもネガが向くんだろうかと疑念が過ぎる。
思わず身構えるが、しかし、俺の予想は大きく外れた。
「国都のこと、最高にカッコよく撮ってやって。アイツ、めちゃくちゃ頑張ってるからさ」
意志の強さを秘めた真っ直ぐな目が、俺を見つめて。先輩として、チームの仲間として国都を心から思う願いが渡される。
陽ノ本先輩も、飛高先輩も、国都を本当に認めている。先輩という立場から見る後輩の国都に、きっと常に心を配っている。
二人はどうしてそんな大切な想いを、一時的に関わるだけの俺に託すのだろう。
不思議に思いながらも、俺はしっかりと顔を上げ、そして、応える。
「……はい!頑張ります!」
二人に向け、今の俺が出来る精一杯を返す。すると並んだ二人が顔を一瞬だけ見合わせて、どこか和らぐように笑った。
俺は、首から下げたカメラを無意識に握っていた。撮りたいと思っただけの己の動機が、選んだ国都を介して、大小問わない繋がりを結んでいく。
それは、今までの俺なら重荷として捨てていたものだ。今だって本当は、過大な期待に怯えている。
だけど俺は、やり遂げたいとおもった。
俺は、貧弱な心のままで背負う。初めて向けられた期待を、たくさんの人が抱いているだろう国都への想いを。
きっと、この思いを背負いきれた時、俺の写真は大きく変わる。
そんな成長の兆しに立ち向かうため、らしくもなく、薄い胸を張って背筋を伸ばす。
今はただ、自分のためにと言い聞かせながら。
「じゃあ行こうか」
「ああ。よろしく」
通学用カバンだけを持ち、国都は身軽な姿で俺を連れ立つ。野球部用のユニフォームや用具は部室のロッカーにしまってあるらしく、着替えや準備はそこで行うらしい。
俺たちは昇降口で靴を履き替え、グラウンドに足を運んだ。そこでは俺たちよりも早く来ていた部員ーーーおそらく下級生たちが練習の準備をしていて、ボールやらネットやら、必要な用具を足繁く運んでいた。
授業が終わったばかりで、まだ部員の集まりは疎らだ。そんな中、グラウンドで準備をしていた部員が一人、こちらに向かってトテトテとやって来た。
「英一郎くん!お疲れ様ばい!」
第一声の独特な方言と声量、そして親しげな口調に度肝を抜かれる。長身が目立つ部員たちの中で彼の身長は一際低く、勝手に一年生なのだと思ったが、親しく呼ぶ仲ならば同級生か先輩なのだろうか。
俺は二人の会話を邪魔しないようにと、そっと一歩引き下がる。
「お疲れ様。乗富は今日も早いね」
「オイのクラスは早よう終わるけん。当番がなか時は、いっつも一番乗りばい」
九州方面の方言だろうか。クセのあるイントネーションや独特の語尾が珍しい。
側で黙って会話を聞いていると、急に彼ーーー乗富と呼ばれた部員は、ぐりんとこちらへ首を回してきた。固まる俺に、彼は遠慮なく近寄ってくる。
「アンタが眞城くんと?英一郎くんから、写真ば撮る聞いちょるよ。よかねぇ、オイもかっこよう撮って欲しかと〜〜」
初対面の俺に、ニコニコと人好きのする笑顔が向けられる。物怖じしないタイプなのだろう。警戒心を感じさせず、懐にコロッと潜り込むように接して来た相手は初めてだ。とはいえ、勢いに圧倒されてどうしていいのかわからないのだが。
「ああ、名乗っとらんやったね。オイは一年で帝徳のレギュラー捕手やっとる、乗富大善ばい!」
「え、と、二年の眞城、史哉です。って一年!?」
「ワッハッハ!がばいたまがっとーね!」
上下関係が厳しそうな運動部で、国都のことを下の名前で呼ぶ一年がいるとは思わなかった。乗富の大物ぶりに目が丸くなる。
「オイの写真やったらいつでも大歓迎ばい。よろしゅう、眞城くん」
「よ、よろしく」
差し出された右手を握り返すと、ギュッと強く握られ上下に振られる。握られた手のひらの硬さとザラつきは、彼が積み重ねて来た日々の証なのだろう。ふっくらとした体格に隠れた筋肉といい、彼もまた、野球に人生を捧げている一人なのだとわかる。
「さて、オイは準備に戻るばい。英一郎くん、また後でバッティングについて聞いてよか?」
「うん。僕で教えられることならいつでも」
「助かるばい!じゃあまた」
豪快な挨拶を残し、乗富はグラウンドへと戻って行った。嵐が過ぎ去ったような静けさの中、未だ圧倒されっぱなしの俺は、ちらりと国都に視線を送る。
「面白いだろう、彼」
「うん…すごくインパクト強いな。あと、人懐っこいというか」
「そうなんだよ。僕、後輩に気さくに話しかけてもらったの彼が初めてでね。それがすごく嬉しくて」
縦社会が多い運動部において、おおよそ先輩への態度とは思えない乗富の口調や態度も、国都は心底喜んでいるようだ。考えて見れば、クラスには国都を下の名前で呼ぶ者はいないし、いつも一緒にいる友達のような存在も俺は知らない。
もしかしたら国都は、意外と一人だったりするんだろうか。常に人に囲まれているイメージが、俺の中で覆りそうになる。
「それじゃあ僕は着替えてくるよ。今日はウォームアップの後、まずは内野の守備練習で第一グラウンド集合なんだ。奥の方のグラウンドだから、そこで待っててくれるかい」
「わかった。なるべく邪魔にならない場所で撮る準備しておく」
国都は頷きを残し、クラブハウスへと入って行った。俺は指定された奥のグラウンドに近付くと、ホームベースの後方、バックネットの後ろ辺りで足を止める。
ここだと目の前にはネットがあるから撮りづらそうだ。スポーツ専門のカメラマンは、一体どんな風に外野からあの臨場感を写しているのだろう。
悩みながらもカメラバッグを開いていると、数名の部員に囲まれた先輩らしき部員がやって来た。同学年では見ない顔だ。三年生だろうか。
「千石さん!」
「千石さん!お疲れ様です!」
「お疲れ様です千石さん!」
「俺の名前を連呼するな」
盛んな挨拶と共に名前を連呼されているのは、千石という名の先輩らしい。随分と慕われているんだろうか。後輩らしき取巻き、すれ違う部員みんながこぞって彼の名を口にしている。そして、その都度本人が釘を刺している。
異様なやりとりが気になっていると、渦中の千石先輩が囲みを抜け、一人俺の方へとやって来た。邪魔にならないよう身を引こうとしたところで、通りがかった彼が足を止める。
「そのカメラ、お前が国都の言っていた写真部か」
「え、あッ、はい」
感情の薄い三白眼に値踏みされ、身が竦む。起伏のない声色は人となりが読みにくく、俺は怖気づきおどおどしてしまう。
「そう怯えるな。俺は三年の千石だ。まぁ覚えなくてもいい。俺は大した人間でもないしな」
「あ、あの、俺は写真部の二年で、眞城史哉と言います。今日からしばらく、野球部にお邪魔します」
なんとか無難に挨拶をしたが、名乗り方もクセが強くとっつき辛い。さっきの乗富といい、野球部は個性が強いメンバーが多いのだろうか。人馴れしていない俺は、すでにここまででメンタルのすり減りを感じる。
「国都と同じクラスだそうだな。昨日、奴が晩飯時に食堂で宣伝していたぞ。帝徳高校というテーマで写真を撮るのに、眞城史哉くんというクラスメイトが僕を撮らせてくれとお願いしに来たとな」
「はッ!?宣伝!?そんな大事になっていたんですか!?」
「ほぼ全員の前で大々的に宣言していたからな。二年になってすぐ国都の席の一つ後ろに座っていたとか、いらん情報まで寮中に知れ渡っているぞ」
思わず頭を抱える。別に隠してくれとは頼んでいないし、上の許可を取ってくれたとはいえ、部の人間に配慮も必要だろう。だけどそういうのって、普通は部のミーティングで監督やコーチから周知とかじゃないのか。何でプライベートで国都自らが、どうでもいいエピソードまで含めてみんなに公表しているんだ。
「国都はああ見えて突拍子がないところがあるからな。諦めろ」
目立ちたくはなかったが、すでに手遅れだと宣告される。言われて周囲に気を配って見れば、あちこちから集まる視線と、噂の的になっている気配を感じる。
まさかこんなことになるなんて。胸にやきもきしたものが広がるが、今更どうすることも出来ず、ただただ愕然とする。
とはいえ、部外者がうろついていたら目立たなく居られるはずもないんだ。千石先輩の言う通り諦めて、腹を据えなければ。
「そんなことより、国都を撮るなら守備位置は一塁手だ。ホームの真後ろだと目の前はノッカーだから、少し一塁側に寄るといい」
「え?あ、ありがとうございます」
「ちなみに俺の守備位置は二塁だ。フレームに入る可能性があるから気をつけろ」
それだけ言い残すと、返事を待つこともなく千石先輩はスタスタと去って行った。
最後までペースの掴めない人だった。だけど一応俺のために場所取り位置を教えてくれたのだから、印象より怖い人ではないのだろう。
俺は助言を元に少しだけ位置をずれる。すると着替え終わった国都が足早にこちらへやって来た。
「お待たせ。今、千石さんと話していたのかい?」
「うん…国都の立ち位置とか、撮りやすい場所を教えてもらった」
「そうかい。それは良かった。でも、何だか浮かない顔だね。どうかしたのかい?」
あどけなく崩れた表情をジトリと睨めつける。国都には全く心当たりがないのだろう。俺の心中も知らず、当の本人はきょとんとした顔に変じる。
「……あのさ、国都。今、昨日の食堂でのこと聞いたんだけど。なんかみんなの前で、俺のこと話ししたんだって…?」
「ああ、そのことかい。監督には先に伝えたけど、部のみんなにも伝えておいた方がいいだろうと思って、僕から話しておいたんだ。いけなかったかい?」
「いや…そういうわけじゃないんだけど。ただ、国都が自らみんなに言う必要あったのかなって。あと、俺との馴れ初めなんかは必要なかったんじゃないか……?」
やや慎重に、しかし確実に、度を越した勇足を指摘する。だが全く伝わっていないのか、国都は不可解な面持ちで首を軽く傾げる。
「一時的とはいえ部に顔を出すわけだし、眞城くんのことをちゃんと知っておいてもらった方が何かと良いと思って。これがキッカケで、みんなと仲良くなれるかもしれないしね」
一周どころか、二周分くらい余計な気を回している国都にもう言葉は出なかった。ガックリと肩を落とし、俺は心中で白旗を振る。これはもうお手上げだ。
「眞城くん?」
「……いや、もういい。何でもない。国都はこれからウォームアップなんだろ。そろそろ行った方がいいんじゃないか」
「そうだね。じゃあ行ってくるよ」
「ああ。…いってらっしゃい」
苦々しさを込めて送り出すが、国都は意に介さない。それどころかにこやかな笑顔を咲かせていくのだから、マイペースにも程がある。
昨日まで抱いていた国都のイメージが、音を立てて崩れていく。優等生、人気者、聖人君子、完璧超人。様々な正のイメージがあったが、その実、関わってみるとなんというか、ちょっとズレている部分がある気がする。
国都英一郎という男は、思うほど『特別』な男ではないのかもしれない。
ここまでの関わりの中で知り得た人となりを元に、俺は国都への印象を軌道修正し、再構築するのだった。
しっかりと時間を取ったウォームアップが終わり、集合と号令から部の練習が始まった。グループに分かれた主力部員たちは守備練習、打撃練習、投球練習、体力強化など、いくつものメニューをそれぞれローテーションでこなしていく。それ以外の大勢の部員たちも練習はしているようだが、時に練習を手伝う側になったりと、部をサポートする役目も担っているようだ。
そんな中、俺は国都を撮るため、内野守備練習に張り付いていた。次々と打ち込まれる難しそうな球を捕り、指定された位置に返球をする練習だ。何人かで順番とはいえ、機会は目まぐるしいスピードで回ってくる。
コーチがボールを打つ。選手は取れるか取れないかギリギリの球に目一杯飛びつき、時に地に伏す。白い練習着は見る間に土まみれになり、流れる汗と共に汚れていく。何巡も行われるその練習は、見ているだけで過酷だった。
俺はカメラを構えながらも、そんな国都の姿をろくに撮ることが出来ずにいた。
理由のひとつは、ネット越しによるフレーミングの難しさ。もうひとつは、風景写真という静的撮影がほとんどだった俺の、動的撮影技術の無さだった。留まることなくキビキビと動く人物は、俺の野球知識の不足も相まって、まともに収めることすら困難だ。
自分の見積もりの甘さに気付かされ、悔しさに歯噛みする。それでも頑張って何枚か撮ってみたが、ピントも合っていなければ、そもそもフレームに収まってすらいないのもある。話にもならない、酷すぎる出来だった。
そうこうしているうちに、内野守備練習が終わった。次は何が始まるのかと思えば、今度はそこに投手であろう一団が加わった。終わったと思った練習は彼らを加えて陣形を変え、再び始まった。どうやら投手を加えた守備練習に変わったようだ。
先程と同じように、ノックを受け捕球、返球を繰り返す。だが今度の中心は投手だ。ボールを捕ってすぐ、都度返球場所を指示され、その通りに動く。飛び交う声を元に、連携を図っているのだろう。
俺は本来の目的である国都だけを撮るつもりだったが、致命的な経験と技術不足を思い知り、急遽テストに切り替えた。この練習の主役は投手だ。俺は誰とも知れない選手に中望遠レンズを向ける。好きに練習を撮っていいともらった許可が、今は非常にありがたい。
ネットに張り付き、ファインダーを覗く。まずはきちんと画を枠に収めるのが重要だ。俺は次の選手を、ファインダー越しに見えるブライトフレームに収めようとする。が、順番が回ってきたその選手は飛び抜けて大きな身長で、ただ収めることすら難しかった。
「次、陽ノ本!」
「はい!」
陽ノ本と呼ばれた選手が前に出る。百九十センチはあるだろうか。俺よりも背の高い選手が山ほどいる中、彼だけはそこからさらに頭ひとつ分くらい高い。体の線は細めだが、身長といい長い手足といい、日本人離れした印象を受ける。
彼の練習動作を撮ろうと、タイミングを見計らう。走り出し、流れるような補球、そして送球。一連の動作はあっという間だ。俺は連続シャッターモードで手当たり次第撮りまくり、そしてすぐにメモリを確認する。結果から、最適解を探るのだ。
しかし、連続写真はやはり不出来なものだった。なんとかフレームに収めることは成功したが、ブレが激しい。シャッタースピードの調節が足りないのだろう。
確かめてからカスタマイズし、俺はもう一度カメラを構え直す。すると、捉えた陽ノ本選手が丁度こちらを見ており、カメラ越しに視線がぶつかった。
彼は笑顔で、俺に軽く手を振る。その笑みは、白いブライトフレームにも劣らない輝かしさだった。
弾みでシャッターを切った俺は、一度カメラから目を離すと彼に会釈した。気づいてくれたようだが、彼は後方に下がっていく。次の投手に順番が来るからだ。
投手を交えた練習もまた、しばらくして終わりが訪れた。ここまでですでに一時間半が経過している。守備練習を終えた面々は、水分補給などの小休止を挟みつつも、すぐに次の練習の準備をしているようだ。
ややして、第一グラウンドからぞろぞろと人が動いた。合わせて移動をするために片付けていると、そこに国都がやってきた。すでにしんどそうな表情の選手が多い中、国都はまだ余裕があるのか、汗をたらしながらも涼しげな顔をしている。
「次は打撃練習だから、昨日のバッティングケージの方に移動するよ」
「そっか。教えてくれてありがとう。俺もそっちに行くよ」
「うん。すまないけど、僕は先に行くよ」
「ああ。またあとで」
国都を見送った俺は、残っていた片付けを手早く終えた。肩にバッグをかけ、首にカメラをぶら下げて立ち上がる。すると移動しようとした俺に、ふと大きな影が差した。見上げれば、そこに居たのはさっきの練習で陽ノ本と呼ばれていた選手だ。近くで見るとめちゃくちゃデカい。
「こんにちは。写真部の眞城くんだっけ。さっきの練習で俺を撮ってた?」
「ッ!?すみません!断りもなく!」
開口一番撮影のことを指摘をされ、俺はすかさず謝罪をした。慌てて頭を下げようとすると、彼もまた慌てて止めに入る。
「あ、怒ってるわけじゃないよ!部の練習撮影するって聞いてたし。ただ、どんな風に撮れたのかなって気になっただけ」
太陽のように明るく笑いながら、俺の誤解を解いてくれる。怒っていなかったのは何よりだが、彼もまた俺の写真が気になったと言う。写真を撮るって、こんなに人に気にかけられることだったのか。
「撮るには撮ったんですけど……実力不足で、上手く撮れていなくて」
「そうかぁ。動いてる物をカメラで撮るのって難しいもんね。俺もスマホで写真撮るけど、素振りとかピッチングを撮ろうと思ってもなかなかキレイに撮れないし」
見せられる出来ではないことを告げれば、理解を示し深入りせずにいてくれた。その人当たりの良さに、俺は良い人だなと直感する。
「そうだ、自己紹介してなかったね。俺は三年の投手で陽ノ本当っていうんだ。よろしく、眞城くん」
「写真部で二年の眞城史哉です。よろしくお願いします」
自己紹介も三回目ともなると、さすがに名乗り慣れてきた。今まではしどろもどろだったのに、しっかりと挨拶出来るようになっている自分にびっくりする。まぁ、陽ノ本先輩が乗富や千石先輩に比べるとキャラが濃くないというのもあるのだが。
「昨日国都から聞いたんだけど、クラスメイトなんだってね。国都とは仲良いの?」
「いや、実はその……特別仲が良いってわけでは……」
濁しながらも事実を伝えると、ワンテンポ置いて陽ノ本先輩がふっ、と小さく吹き出した。
「あはっ!そうなんだ。みんなの前で急にクラスメイトの話しをしだしたからさ、てっきり仲の良い友達の話なんだと思ってたよ。国都、クラスで楽しくやってるみたいでよかったなーって思ったのになぁ」
「それは、その。俺から何て言っていいか…」
「ああ、ごめんごめん。困らせちゃったかな。俺が勝手に思ってただけだから、気にしなくていいよ」
居た堪れなくなったところを、陽ノ本先輩が笑い飛ばしてくれる。しかし今日は同じことをクラスメイトからも聞かれたが、本当のこととはいえその度に「仲良くない」と否定している俺もどうなんだ。
というかそもそも、友達ってどうしたら成立するのだろう。友達のいない俺からしたら、その根本が一番の難問だ。
でも、ふと思う。
昼休みに一緒にご飯を食べたこと。
お弁当交換をして、他愛もない話で笑い合ったこと。
国都と過ごしたあの時間は、今思えば、まるで友達みたいだったと。
そう思う自分がいることもーーーそうならいいのにと願う自分がいることも、なんとなく分かっていて。
「……ねぇ、国都ってさ、クラスでも真面目でしょ?」
複雑な心模様に沈む俺に、道標のような囁きが降った。その問いかけに俺は大きく頷き、「はい」と肯定する。
「国都はああいう性格だからさ、野球部でも責任を背負いがちなんだよね。本人はそんなことないって言うんだけど、側からみると、やっぱりそうでもなくて」
夏めいた晴天の太陽が、ジリジリと俺たちを焼く。彼が背負った陽光のせいで、陽ノ本先輩の正面と俺には今、翳りが生まれている。
「一年から四番に座っているのもそうだし、甲子園には行ったけど、陽盟にボロボロに負けたのもあって。そういうの、国都は全部抱えてると思うんだ。去年の夏が終わってからずっと、野球をしている時の張り詰め方が普通じゃないから」
光と、影。
露光を下げたような暗度の中、憂いという名の彼の胸懐は揺れている。
「でも、昨日の国都が嬉しそうにキミの話をするのを見て思ったんだ。もしかしたら、眞城くんみたいに野球に関係のない人が傍にいた方が、国都は気が抜けるのかもしれないって。バランスが取れるっていうか」
透き通った茶色いビー玉みたいな瞳が、希望に煌めき輝く。光を託されたのは、未だ狭間に揺れている俺だ。
「だからさ、キミさえ良ければ、これから国都と仲良くなってって欲しいんだ。余計なお節介なのはわかってるんだけどね」
一層の笑顔が、影を照らし結ぶ。
俺は渡されるとは思っていなかったものの大きさに震え、不安に浸りながらも、目の前の光を見上げた。
昨日までの俺だったら、即否定していたはずの願い。
だけど今は、少しだけ。
その願いに、手を伸ばしたくなった。
「……俺で、いいんですかね」
だというのに、相変わらず俺に意気地はなかった。俺という小さな人間では、どう考えても力不足は否めない。ましてや、陽ノ本先輩から国都の現状を聞かされた今、その大役に選ばれるのは分不相応でしかない気がした。
だけど、陽ノ本先輩はそんな俺の弱気を、とびきりの笑顔で吹き飛ばす。
「キミと国都は、いい友達になれると思うよ」
そして、断言する。その言葉の強さに驚いて、思わずそのまま飲み込みそうになる。
「そう、ですかね」
「うん。絶対だよ」
絶対。とてつもなく重いはずの言葉が最も簡単に、けれど適切にもたらされる。無条件で信じたくなるのは、陽ノ本先輩の人徳だろう。生まれ持った陽の強さを感じる。
力強い後押しを受けた俺は、わだかまりを鵜呑みにすることにした。今は深く考えず、国都の写真を撮ることを考えよう。これから撮り終えるまでの間、関わり合いは続いていく。そこで重ねた時間に、もしかしたら、何かが生まれるかもしれない。
そう楽観に切り替えた時、また一人、更なる来訪者がやってきた。
「当ー、そろそろ投球練習始まるけど行かないのか?」
俺と陽ノ本先輩に駆け寄ってきたのは、これまた大柄な選手だった。陽ノ本先輩ほどではないが、国都と同じくらいには見える。おそらく、身長は百八十センチをゆうに超えているだろう。
しかし揃って並ばれると、大きな山に囲まれている気分になるな。
「あ!もしかして、当も写真撮ってもらうのか!?」
ジッと俺を見たかと思うと、彼は閃いたように声を上げた。その発想まではわかるんだが。
「まぁ当はカッコいいし、俺みたいなゴミクズを撮りたいヤツなんていないから当たり前なんだけどな…」
今し方までのテンションはどこへやら。地に穴を掘って潜っていくほどの落差でネガり始めた彼に、俺は唖然とする。顔も、いきなり崩れているし。
またアクが強そうな人が来た。それが俺の正直な第一印象だった。
「翔太、違うって。ただ俺が眞城くんに国都の話を聞きたかっただけ」
「え……そうなの」
「そうだよ。それに翔太は帝徳のエースなんだから、撮るならみんな翔太の写真撮るって」
「そ、そうかな……いや、別に撮って欲しいとかじゃないんだけど、でも撮ってもらえるなら嬉しいっていうか」
「あはは、変な顔」
じゃじゃ馬を乗りこなすかのように、陽ノ本先輩が鮮やかに場を仕切る。二人はかなり親しいんだろうか。気を置かないやりとりは自然で慣れていて、長い月日の積み重ねを感じる。
あれ?というかエース?今エースって言ったよな。エースって一番上手い投手のことだよな。この人が?
「眞城っていったっけ」
「は、はい!」
「俺、三年の飛高翔太。眞城は国都の写真撮りに来てるんだよな」
「そ、そうです」
疑いを見透かされたかとビクつき、反射的に声がデカくなったが、そこは気にしていないみたいだ。良かったと安心しつつも、ふと俺相手にもネガが向くんだろうかと疑念が過ぎる。
思わず身構えるが、しかし、俺の予想は大きく外れた。
「国都のこと、最高にカッコよく撮ってやって。アイツ、めちゃくちゃ頑張ってるからさ」
意志の強さを秘めた真っ直ぐな目が、俺を見つめて。先輩として、チームの仲間として国都を心から思う願いが渡される。
陽ノ本先輩も、飛高先輩も、国都を本当に認めている。先輩という立場から見る後輩の国都に、きっと常に心を配っている。
二人はどうしてそんな大切な想いを、一時的に関わるだけの俺に託すのだろう。
不思議に思いながらも、俺はしっかりと顔を上げ、そして、応える。
「……はい!頑張ります!」
二人に向け、今の俺が出来る精一杯を返す。すると並んだ二人が顔を一瞬だけ見合わせて、どこか和らぐように笑った。
俺は、首から下げたカメラを無意識に握っていた。撮りたいと思っただけの己の動機が、選んだ国都を介して、大小問わない繋がりを結んでいく。
それは、今までの俺なら重荷として捨てていたものだ。今だって本当は、過大な期待に怯えている。
だけど俺は、やり遂げたいとおもった。
俺は、貧弱な心のままで背負う。初めて向けられた期待を、たくさんの人が抱いているだろう国都への想いを。
きっと、この思いを背負いきれた時、俺の写真は大きく変わる。
そんな成長の兆しに立ち向かうため、らしくもなく、薄い胸を張って背筋を伸ばす。
今はただ、自分のためにと言い聞かせながら。