積水抱擁のマルチアングル

 新しい朝が来た。
 アラームよりも早く目を覚まし、ベッドから飛び起きた俺は、勢いそのままに登校の準備を始めた。着慣れた学ランに袖を通し、しっかりとボタンを締める。ゆっくりと朝ごはんを食べても余裕があったから、少しだけ身だしなみに気を遣って、髪をきちんと梳かしてみたりもする。
 朝から普段はやらない事のオンパレードだ。浮かれているにも程がある。
 自覚しながらも落ち着くことが出来ず、俺はいつもより一時間も早く家を出発した。手にしているのは通学カバンと、昨日から入念に準備しておいたカメラバッグのふたつ。中身は、お年玉を貯めに貯めて買った中古のデジタル一眼レフだ。型落ちしたモデルだが、比較的軽量で使いやすく気に入っている。
 俺は、軽い足取りで学校を目指した。ぎゅうぎゅうに押し詰められる嫌な電車も、今日ばかりは気にならない。
 最寄り駅に着き、学校までの間にある馴染みのパン屋に寄り、昼ご飯用のパンと飲み物を買う。今日の日替わりサンドは一番好きなパストラミチーズだ。気分がさらに上がる。
 ビニール袋を手に増やした俺は、やがて学校に辿り着き、人気のない校門をくぐった。学校の外周では、どこかの運動部がランニングをしている声が聞こえる。どこの部も夏の大会が近いから、気合が入っているんだろう。
 国都もきっと、早くから朝練してるんだろうな。ぼんやりと想像しながら、俺は校舎に足を踏み入れる。
 昇降口も、さすがに一時間以上前ともなるとガラガラだ。いつもごった返している始業十五分前が嘘のようだ。
 広いスペースでゆったりと靴を履き替えていると、正面玄関から一人、こちらに向かって来る人影に気がついた。誰かと思って見てみれば、朝練をしているだろうと思っていた国都だ。ここで会うと思っていなかった俺は、急に身構えてしまう。
「おッ、おはよう、国都」
 珍しく自分から声をかける。慣れないことをしたもんだから、ちょっと声が裏返ってしまった。
「眞城くん?おはよう。今朝は随分早いね」
 いつもと違う早い時間での遭遇に、国都も驚いているようだ。
 写真を撮れるのが楽しみで早く目が覚めたなんて、恥ずかしくて言えるはずもない。どうして早く来たのかと聞かれる前に、俺は先手を打つことにする。
「今日はちょっと、早く目が覚めたんだ。国都こそ早いけど、朝練じゃなかったのか?」
「今日は休養日で朝練は休みなんだ。軽い自主練だけはしてきたんだけど、昨日出た数Bの課題プリントで一問だけ分からないところがあってね。早めに来て、先生に質問しに行こうと思ったんだ」
 俺には発想も起こらない理由が返ってくる。野球だけでも大変だろうに、勉強も手を抜かないだなんて一体どこまで真面目なんだ。
「眞城くんは最後の問題、解けたかい?」
「……国都に解けない問題が俺に解けるわけないって」
「そうなのかい?てっきり眞城くんは、勉強が得意だと思っていたんだけど」
「どこでそんな勘違いしたかは知らないけど、俺の成績はそんないいもんじゃないよ。なんなら理数系は苦手な部類だし」
「そうかい。それは知らなかったな」
 俺の頭の悪さを披露しただけなのに、何が楽しいのか、国都が笑顔で納得する。
 いつもなら一言の挨拶で終わるところが、今朝は珍しく会話が続いてしまった。俺たちはそのまま、何となく一緒に教室に行くことにする。
 脚の長さからして絶対歩幅が違うのに、国都は自然と俺のスピードに合わせてくれる。気遣い慣れしているのは野球部での上下関係故か、それとも生まれ育ちの賜物なのか。何となく、後者な気がする。
 教室までの短い距離に会話は弾む。とはいえ、その主導を握っているのは国都だ。
「眞城くんの持っている荷物はもしかしてカメラかい?」
「眞城くんはいつから写真を撮り始めたんだい?」
「課題が終わっていないなら、一緒に先生に聞きに行くかい?」
 質問に俺が答えると言う形で会話が成り立つ。話し下手な俺を気遣って、先導してくれているのだろうか。
「そうだ。眞城くんに伝えようと思っていたことがあったんだ」
 感心しきっていた矢先、ふと思い出したように国都が話題を変えた。丁度階段を上りきったところで、教室まではあと少しだ。
「昨日、撮影のことを僕から岩崎監督に話しておいたんだ。野球部を好きに撮っていいと許可をもらったから、今日から眞城くんの撮りたいように撮ってくれて構わないよ」
「えッ?わざわざ事前に許可とってくれたのか?」
「同じ学校の部活動の一環だから問題ないとは思ったんだけど、野球部の活動にも関わってくることだからね。眞城くんが望むなら屋外だけじゃなく室内練習場も案内するから、気軽に声をかけてよ」
「…まさかそこまでしてくれてるなんて。なんだか悪いな」
「僕に出来ることなら協力するって言っただろう?他にも要望があれば聞くけど、何かあるかい?」
「いやいや、許可もらえただけで十分だって!」
「そうかい?遠慮はいらないよ」
「遠慮なんかしてないって。それに正直、俺は国都のこと撮りたいって思っただけで野球部のこと全然知らないから、要望も何も…」
 話の途中で教室に着き、それぞれの席に向かうため俺たちの距離は離れた。会話はそこで自然と途切れ、中途半端に終わる。
「おはよう、国都」
「国都くんおはよう」
「おはよう。今日は早いね」
 俺たちよりも早く来ていた生徒が三名、こぞって国都に挨拶をする。国都はキッチリと挨拶を返すと、カバンから教科書などを取り出し自席の机に入れ、おそらく俺の方へ来ようとした。
 が、それよりも早く、学級委員の女子生徒が国都の席へ訪れる。
「国都くん。あの、朝からいきなりなんだけど、数Bのプリントでわからないところがあって。教えてもらってもいいかな…?」
 女子生徒がプリントを両手で握りしめ、どこか緊張した様子でお願いをする。
 遠くから見てもわかった。彼女もまた、国都を好きな一人なんだろう。
「僕も最後の一問だけは解けていないから、それ以外なら。それか、先生のところに一緒に聞きに行こうか。丁度僕も教えてもらいに行こうと思っていたんだ」
 彼女の気持ちを知ってか知らずか。至って真摯に対応する国都に、マンツーマンで教わりたかっただろう彼女は複雑そうだ。
 当の国都は、むしろ聞きに行くのが一番だと言わんばかりに席を立つ。彼女はもう着いていくしかなかった。
「眞城くん」
「は、へッ?」
 突然声をかけられ、ガッツリ観察を決め込んでいた俺は素っ頓狂な声を上げる。
「話が途中になってしまってごめん。続きはお昼休みでいいかな」
「あ、ああ。大した話じゃなかったし、全然気にしなくていいよ」
 律儀に断りを入れ、国都はプリント片手に女子を引き連れて行く。四方八方に隙がないヤツだ。俺にはとても真似できる芸当じゃない。
「なぁ、眞城って国都と仲良いのか?」
 二人が出て行った直後、前方に座る男子生徒が振り向き、興味本位に声をかけてきた。多分、彼とまともに話すのはこれが初めてだ。
「いや、別に仲良くなんてないけど」
「そうなのか?一緒に教室に来たし、昼の約束してたから友達なのかと思った」
「それはその、事情があって…」
「そっか。なんか珍しい取り合わせだなって思って気になったんだけど、友達ってわけじゃないんだな」
 返答に窮していると、話は特に深まることなくあっさりと片付けられた。きっと軽い好奇心だったんだろう。早々に興味を失ったらしい彼は前を向き、もうスマホをいじり出している。
 ーーー俺が、国都と友達?
 聞かれてすぐに思った。そんなことあるわけがない。人間の出来が違いすぎて、本来なら並び立つのもおこがましいと思っているくらいなのに。
 今回はたまたま俺が写真を撮らせてくれとお願いして、了承をもらっただけだ。仲良くなりたいとかなろうとか、そんな事は微塵も考えていない。
 でも、ただ、ほんの少しだけ。
 昨日からの国都との時間が、不思議と楽しいような気がして。
 俺は、心の形のどこかが、ゆっくりと変わりつつあるのを感じていた。
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