心層転化のコラージュ
一日はあっという間に過ぎていく。身の入らない長い授業を終えると、俺は足早にクラスを後にし、写真部の部室へ向かった。ここ最近は幽霊部員になりかけていたのだが、今日は秋の文化祭に向けて話し合うから絶対に来いと収集がかかったのだ。
階段を上り、渡り廊下を進み、奥まった部室の扉を開ける。すると先に待ち構えていた友永部長が、太い黒縁のメガネをくいと上げて俺を出迎えた。
「お。ちゃんと来たな、眞城」
「あれだけ鬼のような連絡が来たら、さすがに来ますよ」
携帯電話に送られてきた大量のメッセージを思い返し、げんなりする。ここですっぽかせば、恨みつらみを込めたメッセージがさらに送られて来かねない。俺としては今は文化祭どころではないのだが、仕方がない。苦渋の決断だ。
「まだみんな揃ってないんですか」
「委員会があるとか補習があるとかで、みんな来るの遅くなるみたいだな。とりあえず眞城には先に概要渡しておくよ。ほら」
すっと藁半紙が差し出され、俺はそれを受け取る。目を通せば、今年の文化祭における写真部のテーマがでかでかと書かれていた。
『帝 徳 高 校』。
太く大きなフォントで印刷されたその下には、テーマの意図が書かれている。
『今年のテーマは、我らが学舎である私立帝徳高等学校にスポットを当てます。帝徳高校に関する物なら何でも可。校舎やグラウンドなどの景観を撮るもよし、部活動を撮るもよし、クラスや友人など、自分の身近なものを撮るもよし。生徒、教師、帝徳に関係する全ての人や物から、自分だけの一枚を撮影してください。』
書かれていることを読み切ると、部長が間髪入れずに「どうだ?」と聞いてきた。
「去年は東京の景色ってテーマだったから、今年は逆に身近なものにしてみたんだ。過去に一度もテーマになってないし、範囲が狭い分、逆に発想とか技術を求められるだろ?」
「……まぁ、確かに。簡単そうに見えてこういうのが一番難しい気がします」
「だろ?自分でも良い着眼点だと思うんだよなー」
ウキウキと語る部長を前に、俺は折り重なった課題に頭を重くする。
先生の意識して周りを見ろという言葉と、帝徳高校というテーマの課題写真。ふたつは『俺の身の周り』という点で共通していて、なるべくしてこうなったのかと偶然を疑う。
「写真の提出期限はまだ先だけど、じっくりテーマについて考えてみてくれよ。眞城はウチの写真部の期待の星だからな。良い写真期待してるぞ」
「万年優秀賞止まりの俺に期待されても困りますよ」
「おいおい嫌味かよ。オレを含めて、入賞すらしない奴が世の中ゴロゴロいるってのに」
「……すみません。そんなつもりじゃ」
「冗談だって!そんな気にすんなよ。それよりもみんな揃うまでまだ時間あるし、何だったらモチーフ探しに行ってもいいぞ。早めに決めれるんなら決めておいた方がいいだろ」
「そうですね。じゃあ、ちょっとうろついてきます」
「おー。いってら」
ひらりと手を振る部長に見送られ、俺は写真部を後にする。部室の扉を閉めたところでどこに行こうかと考えるが、特に行き先は決まらない。
とりあえず、校内と近くを歩いてみるか。
俺は考えることをやめ、宛もなく歩き始めた。
ーーー帝徳高校。この学校をテーマに写真を撮るとすれば、今までの俺なら間違いなく、屋上からの景色を選んでいた。屋上と、夕焼けの時間帯の空。そういう風景が好きだからだ。
だけどそれでは、写真部のテーマはともかく先生からの課題は満たせない。
俺は屋上に行きかけた足を止め、反対に階下に降りた。階段や廊下にはまだ帰宅前の生徒が賑わっていて、校内外には部活動に励む声や音が溢れている。
いつもならすでに帰宅している時間だから、今更になって思い知った。放課後という時間は、こんなにも人と活気に満ちているのか、と。
場違いさを感じつつも、俺はまず体育館へ足を運んだ。体育館では、バスケ部とバドミントン部が部活をしている。何人もの生徒がボールやシャトルを追いかけ、「おー」だの「やー」だの声を出し奮闘する光景に、俺は何も引っかかりを覚えなかった。
俺は、早々に体育館を後にする。廊下では体育館が割り振られなかったバレー部が筋トレをしていたが、それも横目にするだけで通り過ぎていく。
今まで蚊帳の外にしていた放課後という時間も、その時間を生きる人達も、やはり俺には魅力的に映らない。
見る目を変えるってなんなんだ。一体どうすればいい?
出口のない思考の迷路に迷い込んでいると、俺は気づけば、学校の外に逃げ出していた。賑やかな内と違い、外から見た校舎はどこか他人事のようで、安心感を覚える。
成長の兆しもない俺は、そのままぶらりと校庭へ向かった。帝徳高校のグラウンドはだだっ広い。そのほとんどは野球部専用となっていて、野球用に整えられたグラウンドが二面、室内練習場やトレーニングルームが入った大きなクラブハウス、バッティングとピッチングそれぞれ専用の練習スペースもあるらしい。
手前のグラウンドでは、サッカー部が二十人程度で練習をしている。その奥側では野球部が、その何倍もの人数で練習をしている。俺はその外側を、傍観者として歩く。
ぐるりと外周を進み練習風景を眺めていると、周囲はすぐに野球部のエリアへと変わった。グラウンドでは守備練習が、グリーンネットの向こうでは投球練習が行われ、さらに俺の前方の区画ではバッティング練習も行われている。皆、学校指定のジャージではなく揃いの練習着を着ているせいか、他の部と比べて特別感が強い。
近づいたバッティングケージから、キン、キンと絶え間なく金属バットの音が聞こえる。いくつも並ぶ練習スペースの中、ネット越しにはバットを振る選手が何名も見えた。
飛んでくるボールを時に快打し、時に打ち損じる。意気揚々にバットを振る選手もいれば、淡々とやっている選手もいるし、ひどく苦しそうにバットを握っている選手もいる。
大会が近いせいだろうか。全体的に雰囲気は重く、浮ついた空気は一切ない。
俺は、監獄とも思えるケージの内側を眺めていた。野球部としては甲子園出場、そして優勝を目指しているのだろうが、果たして彼ら一人一人はこの厳しい練習の果てに、何を目指しているのだろう。ほとんどの選手がレギュラーになれない現実の中、どうして彼らは野球部であり続けるのだろう。
考えれば考えるほど、感じる。人間とは、本能だけでは生きられない複雑な生き物だ。社会というケージの中で、自分だけではなく他者と混ざり合い、時にぶつかり、競い合わなければいけない。その中で自分の望む言葉、行動、未来は時に擦り潰され、否が応にも形を変える。人は、社会の中で思うままには生きられないのだ。
『人物が入ると、写真がごちゃごちゃとした感じになる気がするんです。それが好きではなくて』
あの時とっさに口にした答えは、俺が今感じているこのことだったのかもしれない。
きっと俺は、人の複雑さが苦手なのだ。内と外、表と裏。社会で生きるために生み出され、使い分けられる多面性が、『不自然』として映るから。
不意に気づきを得て、しかし、やっぱりと思う。こんな風に思う俺に、撮りたいと思える人、撮りたいと思う瞬間は訪れない。己の人間に対する無関心さを知ってしまった今、俺は、高みに続くはずの道を失ってしまったのだ。
諦観に暮れ、萎えて枯れたやる気に俺は身を翻す。
今日はもう帰ろう。これ以上探し歩いても、こんな考えの俺が見つけられるものはない。
そうして背を向け、引き返し始めたその時だった。
ーーーキンッッ!!
一際力強い金属音が鳴り響き、俺の鼓膜と身体が震えた。胸を突き抜け、高く空に伸びていくその音に弾かれ、俺は思わず振り返る。
ーーーキンッッ!!
快音がまた響く。音の主は誰かと探してみれば、ふたつ先のバッティングケージの中に大柄で風格のある選手が居た。こちらに背を向け、漆黒のバットを隙なく構えている姿は、唯ならぬ強者の雰囲気に包まれている。
間違いない。この人だ。
直撃した音の強さに、心臓が釣られて吠える。ドクドクと全身に血が巡り、身体が熱くなっていく。
ーーーキンッッ!!
目星をつけたことで、今度は一連の動作が見えた。飛んできた白球目掛け、選手は大きな身体を目一杯使い、強烈で鋭い一閃を繰り出す。捉えた瞬間に快音は鳴り、白球はピンポン球のように軽く、いとも簡単に遥か後方のフェンスを超えていく。
選手は一喜一憂することなく、目に見えるほどの集中力で、また次の一球を待っている。
それは、ただの練習とは思えないほどの迫力だった。さっきまで見ていた選手達とは、バッティングのレベルも、意識の強さも大違いだ。
俺は吸い寄せられるように、その人物のケージに近づいていく。こちらには気づいていない。研ぎ澄まされた集中力が、外界への意識をシャットアウトしているのだろう。
距離を詰めれば、フ、フ、と、どこか人間離れした、浅くキレの良い呼吸音が聞こえる。そして再びボールが来ると、強弓を思わせるしなやかさで身体を捻らせ、荒々しくも美しいスイングで黒い軌跡を描く。
その光景に、自然と、俺の指先が動いた。
ーーー撮りたい。この営みを。この営みを生み出す、この人を。
頭は真っ白だった。繰り返される練習風景に心を奪われ、俺は選手の一挙手一投足に注目し続ける。そして、遅れた頃に、カメラを持っていない悔しさに気づいて歯噛みする。
さっきまでの自己嫌悪が、嘘みたいだ。日陰から突然日向に引っ張り出されたように、俺の目の前の景色は今、大きく輝度が変わっている。
眩しい。ただ、ひたすらに。
「……ふぅ」
短い吐息を終わりの合図に、選手がヘルメットを脱いだ。夕風に、短く艶やかな黒髪が舞う。そうして露わになった横顔で、俺はようやくそれが誰かを知った。
「……国都?」
あまりの印象の違いに、半信半疑で声を上げる。すると俺に気がついた国都が振り返り、驚きに大きな目を瞬かせた。
「眞城くん?こんなところで会うなんて珍しいね」
柔和な口調は、俺がよく知る国都英一郎に違いなかった。今し方の獣じみた印象はどこへやら。まるで一瞬にして、クラスメイトに化けたみたいだ。
「どうしたんだい?なにか野球部に用事でもあるのかい?」
「あ、いや、別に、そうじゃないんだけど」
問いかけられた途端に緊張が走り、俺は口ごもった。今朝までは単なるクラスメイトだと思っていた国都が、俺の中で今、どうしても撮りたい被写体へと変貌してしまった。
角度を変えた途端、知っていたものが、知らないものに見えるみたいに。国都英一郎という男を見る俺の目は、すっかり変わってしまったのだ。
「実は、その」
撮らせてくれと、何とか頼んでみよう。
カラカラと乾く喉から声を振り絞ろうとする。国都は挙動不審な俺を待ってくれているが、しかし遠くから呼ぶ声がして、話は途中で打ち切られた。
「ごめん。もう次の守備練習が始まるから行くよ。眞城くんさえよかったら、好きに練習を見ていってくれて構わないよ」
「ッ…!国都ッ!!」
背を向けられ、遠ざかると思った瞬間、俺の行動力は急に爆発した。随分デカい声で呼び止めてしまったが、こういうのは勢いだ。結果なんか気にしないで、まずはぶつかってみなければ。
「俺、写真部で写真撮らなくちゃいけなくて。帝徳高校ってテーマで、撮りたいもの探してたんだけど、その」
本題を前に、大きく息を吸う。
国都の真っ直ぐな瞳に、俺の瞳を重ね合わせる。
「国都のこと、撮らせてもらえないかな」
言った。言い切った。知らずに入っていた肩の力が抜け、緊張の塊が吐息になってこぼれる。
「僕の写真を?眞城くんが撮るのかい?」
俺の唐突な申し出に、国都は疑問符を浮かべた。芳しいとは言えない反応に一転、俺の勢いはすぼんでいく。
「そう、なんだけど……やっぱ迷惑だよな!大会近いみたいだし、練習の邪魔になるもんな!」
取り繕いながらも、断られたらどうしようという不安に襲われる。ここで断られてしまったら、またイチからのスタートだ。また撮りたい人が見つかる保証はないし、何より、絶対に撮りたいというこの気持ちが収まらない。
長い一秒の先。じっと見つめていた国都の瞳が、たおやかに細められた。その瞬間、止まっていた時間は動き出す。
「いいよ。僕に出来ることなら、協力するよ」
快諾が返る。俺の心臓が、嬉しさに飛び跳ねる。
「詳しい話は明日でいいかな。お昼休みなら時間が取れるから、その時にでも聞かせてくれるかい」
「うん、それで大丈夫。ありがとう。練習、邪魔してごめんな」
「これくらい平気だよ。じゃあまた明日」
最後までにこやかな表情で、国都が俺に別れを告げた。ケージを出てグラウンドへと向かう背を見送っていると、その途中で一度だけ振り返った国都が、立ち尽くしたままの俺に小さく手を振った。
俺は反射的に、その仕草と同じ小ささで手を振りかえす。
「また、明日!」
自発的に飛び出した別れの言葉に、自分で驚く。声量の加減がわからず、届いていないのではと思った矢先に、国都はもう一度、今度は大きく手を振った。
届いていた。そう思ったら、何だか急に恥ずかしくなってきた。
俺は居ても立っても居られなくて、全速力で校舎に引き返した。そろそろ写真部のメンバーが集まる頃だ。文化祭の話し合いをして、そして、それから。
高揚感のせいで思考がまとまらない。鼓動のせいで息が苦しい。走る足ももつれそうだ。
あまりの浮かれぶりに表情すら上手く保てず、俺は緩む唇を何とか引き締める。
ーーー明日だ。全ては明日から始まるんだ。
俺はこの広がった世界を、新しく見えた景色を、必ず写してみせる。
明日に架ける期待は、燃える夕日に溶け、太陽の余熱を俺の胸に満たしていった。
階段を上り、渡り廊下を進み、奥まった部室の扉を開ける。すると先に待ち構えていた友永部長が、太い黒縁のメガネをくいと上げて俺を出迎えた。
「お。ちゃんと来たな、眞城」
「あれだけ鬼のような連絡が来たら、さすがに来ますよ」
携帯電話に送られてきた大量のメッセージを思い返し、げんなりする。ここですっぽかせば、恨みつらみを込めたメッセージがさらに送られて来かねない。俺としては今は文化祭どころではないのだが、仕方がない。苦渋の決断だ。
「まだみんな揃ってないんですか」
「委員会があるとか補習があるとかで、みんな来るの遅くなるみたいだな。とりあえず眞城には先に概要渡しておくよ。ほら」
すっと藁半紙が差し出され、俺はそれを受け取る。目を通せば、今年の文化祭における写真部のテーマがでかでかと書かれていた。
『帝 徳 高 校』。
太く大きなフォントで印刷されたその下には、テーマの意図が書かれている。
『今年のテーマは、我らが学舎である私立帝徳高等学校にスポットを当てます。帝徳高校に関する物なら何でも可。校舎やグラウンドなどの景観を撮るもよし、部活動を撮るもよし、クラスや友人など、自分の身近なものを撮るもよし。生徒、教師、帝徳に関係する全ての人や物から、自分だけの一枚を撮影してください。』
書かれていることを読み切ると、部長が間髪入れずに「どうだ?」と聞いてきた。
「去年は東京の景色ってテーマだったから、今年は逆に身近なものにしてみたんだ。過去に一度もテーマになってないし、範囲が狭い分、逆に発想とか技術を求められるだろ?」
「……まぁ、確かに。簡単そうに見えてこういうのが一番難しい気がします」
「だろ?自分でも良い着眼点だと思うんだよなー」
ウキウキと語る部長を前に、俺は折り重なった課題に頭を重くする。
先生の意識して周りを見ろという言葉と、帝徳高校というテーマの課題写真。ふたつは『俺の身の周り』という点で共通していて、なるべくしてこうなったのかと偶然を疑う。
「写真の提出期限はまだ先だけど、じっくりテーマについて考えてみてくれよ。眞城はウチの写真部の期待の星だからな。良い写真期待してるぞ」
「万年優秀賞止まりの俺に期待されても困りますよ」
「おいおい嫌味かよ。オレを含めて、入賞すらしない奴が世の中ゴロゴロいるってのに」
「……すみません。そんなつもりじゃ」
「冗談だって!そんな気にすんなよ。それよりもみんな揃うまでまだ時間あるし、何だったらモチーフ探しに行ってもいいぞ。早めに決めれるんなら決めておいた方がいいだろ」
「そうですね。じゃあ、ちょっとうろついてきます」
「おー。いってら」
ひらりと手を振る部長に見送られ、俺は写真部を後にする。部室の扉を閉めたところでどこに行こうかと考えるが、特に行き先は決まらない。
とりあえず、校内と近くを歩いてみるか。
俺は考えることをやめ、宛もなく歩き始めた。
ーーー帝徳高校。この学校をテーマに写真を撮るとすれば、今までの俺なら間違いなく、屋上からの景色を選んでいた。屋上と、夕焼けの時間帯の空。そういう風景が好きだからだ。
だけどそれでは、写真部のテーマはともかく先生からの課題は満たせない。
俺は屋上に行きかけた足を止め、反対に階下に降りた。階段や廊下にはまだ帰宅前の生徒が賑わっていて、校内外には部活動に励む声や音が溢れている。
いつもならすでに帰宅している時間だから、今更になって思い知った。放課後という時間は、こんなにも人と活気に満ちているのか、と。
場違いさを感じつつも、俺はまず体育館へ足を運んだ。体育館では、バスケ部とバドミントン部が部活をしている。何人もの生徒がボールやシャトルを追いかけ、「おー」だの「やー」だの声を出し奮闘する光景に、俺は何も引っかかりを覚えなかった。
俺は、早々に体育館を後にする。廊下では体育館が割り振られなかったバレー部が筋トレをしていたが、それも横目にするだけで通り過ぎていく。
今まで蚊帳の外にしていた放課後という時間も、その時間を生きる人達も、やはり俺には魅力的に映らない。
見る目を変えるってなんなんだ。一体どうすればいい?
出口のない思考の迷路に迷い込んでいると、俺は気づけば、学校の外に逃げ出していた。賑やかな内と違い、外から見た校舎はどこか他人事のようで、安心感を覚える。
成長の兆しもない俺は、そのままぶらりと校庭へ向かった。帝徳高校のグラウンドはだだっ広い。そのほとんどは野球部専用となっていて、野球用に整えられたグラウンドが二面、室内練習場やトレーニングルームが入った大きなクラブハウス、バッティングとピッチングそれぞれ専用の練習スペースもあるらしい。
手前のグラウンドでは、サッカー部が二十人程度で練習をしている。その奥側では野球部が、その何倍もの人数で練習をしている。俺はその外側を、傍観者として歩く。
ぐるりと外周を進み練習風景を眺めていると、周囲はすぐに野球部のエリアへと変わった。グラウンドでは守備練習が、グリーンネットの向こうでは投球練習が行われ、さらに俺の前方の区画ではバッティング練習も行われている。皆、学校指定のジャージではなく揃いの練習着を着ているせいか、他の部と比べて特別感が強い。
近づいたバッティングケージから、キン、キンと絶え間なく金属バットの音が聞こえる。いくつも並ぶ練習スペースの中、ネット越しにはバットを振る選手が何名も見えた。
飛んでくるボールを時に快打し、時に打ち損じる。意気揚々にバットを振る選手もいれば、淡々とやっている選手もいるし、ひどく苦しそうにバットを握っている選手もいる。
大会が近いせいだろうか。全体的に雰囲気は重く、浮ついた空気は一切ない。
俺は、監獄とも思えるケージの内側を眺めていた。野球部としては甲子園出場、そして優勝を目指しているのだろうが、果たして彼ら一人一人はこの厳しい練習の果てに、何を目指しているのだろう。ほとんどの選手がレギュラーになれない現実の中、どうして彼らは野球部であり続けるのだろう。
考えれば考えるほど、感じる。人間とは、本能だけでは生きられない複雑な生き物だ。社会というケージの中で、自分だけではなく他者と混ざり合い、時にぶつかり、競い合わなければいけない。その中で自分の望む言葉、行動、未来は時に擦り潰され、否が応にも形を変える。人は、社会の中で思うままには生きられないのだ。
『人物が入ると、写真がごちゃごちゃとした感じになる気がするんです。それが好きではなくて』
あの時とっさに口にした答えは、俺が今感じているこのことだったのかもしれない。
きっと俺は、人の複雑さが苦手なのだ。内と外、表と裏。社会で生きるために生み出され、使い分けられる多面性が、『不自然』として映るから。
不意に気づきを得て、しかし、やっぱりと思う。こんな風に思う俺に、撮りたいと思える人、撮りたいと思う瞬間は訪れない。己の人間に対する無関心さを知ってしまった今、俺は、高みに続くはずの道を失ってしまったのだ。
諦観に暮れ、萎えて枯れたやる気に俺は身を翻す。
今日はもう帰ろう。これ以上探し歩いても、こんな考えの俺が見つけられるものはない。
そうして背を向け、引き返し始めたその時だった。
ーーーキンッッ!!
一際力強い金属音が鳴り響き、俺の鼓膜と身体が震えた。胸を突き抜け、高く空に伸びていくその音に弾かれ、俺は思わず振り返る。
ーーーキンッッ!!
快音がまた響く。音の主は誰かと探してみれば、ふたつ先のバッティングケージの中に大柄で風格のある選手が居た。こちらに背を向け、漆黒のバットを隙なく構えている姿は、唯ならぬ強者の雰囲気に包まれている。
間違いない。この人だ。
直撃した音の強さに、心臓が釣られて吠える。ドクドクと全身に血が巡り、身体が熱くなっていく。
ーーーキンッッ!!
目星をつけたことで、今度は一連の動作が見えた。飛んできた白球目掛け、選手は大きな身体を目一杯使い、強烈で鋭い一閃を繰り出す。捉えた瞬間に快音は鳴り、白球はピンポン球のように軽く、いとも簡単に遥か後方のフェンスを超えていく。
選手は一喜一憂することなく、目に見えるほどの集中力で、また次の一球を待っている。
それは、ただの練習とは思えないほどの迫力だった。さっきまで見ていた選手達とは、バッティングのレベルも、意識の強さも大違いだ。
俺は吸い寄せられるように、その人物のケージに近づいていく。こちらには気づいていない。研ぎ澄まされた集中力が、外界への意識をシャットアウトしているのだろう。
距離を詰めれば、フ、フ、と、どこか人間離れした、浅くキレの良い呼吸音が聞こえる。そして再びボールが来ると、強弓を思わせるしなやかさで身体を捻らせ、荒々しくも美しいスイングで黒い軌跡を描く。
その光景に、自然と、俺の指先が動いた。
ーーー撮りたい。この営みを。この営みを生み出す、この人を。
頭は真っ白だった。繰り返される練習風景に心を奪われ、俺は選手の一挙手一投足に注目し続ける。そして、遅れた頃に、カメラを持っていない悔しさに気づいて歯噛みする。
さっきまでの自己嫌悪が、嘘みたいだ。日陰から突然日向に引っ張り出されたように、俺の目の前の景色は今、大きく輝度が変わっている。
眩しい。ただ、ひたすらに。
「……ふぅ」
短い吐息を終わりの合図に、選手がヘルメットを脱いだ。夕風に、短く艶やかな黒髪が舞う。そうして露わになった横顔で、俺はようやくそれが誰かを知った。
「……国都?」
あまりの印象の違いに、半信半疑で声を上げる。すると俺に気がついた国都が振り返り、驚きに大きな目を瞬かせた。
「眞城くん?こんなところで会うなんて珍しいね」
柔和な口調は、俺がよく知る国都英一郎に違いなかった。今し方の獣じみた印象はどこへやら。まるで一瞬にして、クラスメイトに化けたみたいだ。
「どうしたんだい?なにか野球部に用事でもあるのかい?」
「あ、いや、別に、そうじゃないんだけど」
問いかけられた途端に緊張が走り、俺は口ごもった。今朝までは単なるクラスメイトだと思っていた国都が、俺の中で今、どうしても撮りたい被写体へと変貌してしまった。
角度を変えた途端、知っていたものが、知らないものに見えるみたいに。国都英一郎という男を見る俺の目は、すっかり変わってしまったのだ。
「実は、その」
撮らせてくれと、何とか頼んでみよう。
カラカラと乾く喉から声を振り絞ろうとする。国都は挙動不審な俺を待ってくれているが、しかし遠くから呼ぶ声がして、話は途中で打ち切られた。
「ごめん。もう次の守備練習が始まるから行くよ。眞城くんさえよかったら、好きに練習を見ていってくれて構わないよ」
「ッ…!国都ッ!!」
背を向けられ、遠ざかると思った瞬間、俺の行動力は急に爆発した。随分デカい声で呼び止めてしまったが、こういうのは勢いだ。結果なんか気にしないで、まずはぶつかってみなければ。
「俺、写真部で写真撮らなくちゃいけなくて。帝徳高校ってテーマで、撮りたいもの探してたんだけど、その」
本題を前に、大きく息を吸う。
国都の真っ直ぐな瞳に、俺の瞳を重ね合わせる。
「国都のこと、撮らせてもらえないかな」
言った。言い切った。知らずに入っていた肩の力が抜け、緊張の塊が吐息になってこぼれる。
「僕の写真を?眞城くんが撮るのかい?」
俺の唐突な申し出に、国都は疑問符を浮かべた。芳しいとは言えない反応に一転、俺の勢いはすぼんでいく。
「そう、なんだけど……やっぱ迷惑だよな!大会近いみたいだし、練習の邪魔になるもんな!」
取り繕いながらも、断られたらどうしようという不安に襲われる。ここで断られてしまったら、またイチからのスタートだ。また撮りたい人が見つかる保証はないし、何より、絶対に撮りたいというこの気持ちが収まらない。
長い一秒の先。じっと見つめていた国都の瞳が、たおやかに細められた。その瞬間、止まっていた時間は動き出す。
「いいよ。僕に出来ることなら、協力するよ」
快諾が返る。俺の心臓が、嬉しさに飛び跳ねる。
「詳しい話は明日でいいかな。お昼休みなら時間が取れるから、その時にでも聞かせてくれるかい」
「うん、それで大丈夫。ありがとう。練習、邪魔してごめんな」
「これくらい平気だよ。じゃあまた明日」
最後までにこやかな表情で、国都が俺に別れを告げた。ケージを出てグラウンドへと向かう背を見送っていると、その途中で一度だけ振り返った国都が、立ち尽くしたままの俺に小さく手を振った。
俺は反射的に、その仕草と同じ小ささで手を振りかえす。
「また、明日!」
自発的に飛び出した別れの言葉に、自分で驚く。声量の加減がわからず、届いていないのではと思った矢先に、国都はもう一度、今度は大きく手を振った。
届いていた。そう思ったら、何だか急に恥ずかしくなってきた。
俺は居ても立っても居られなくて、全速力で校舎に引き返した。そろそろ写真部のメンバーが集まる頃だ。文化祭の話し合いをして、そして、それから。
高揚感のせいで思考がまとまらない。鼓動のせいで息が苦しい。走る足ももつれそうだ。
あまりの浮かれぶりに表情すら上手く保てず、俺は緩む唇を何とか引き締める。
ーーー明日だ。全ては明日から始まるんだ。
俺はこの広がった世界を、新しく見えた景色を、必ず写してみせる。
明日に架ける期待は、燃える夕日に溶け、太陽の余熱を俺の胸に満たしていった。