After all
目の前には、スポットライトに照らされたA3ワイドの写真がある。
白いシンプルな額縁に飾られた写真に添えられているのは、『夏一閃』という作品名と、眞城史哉という俺の名前。
写っているのは、冬に長野の霧ヶ峰で撮った雪原だ。一面の銀世界の中心には、純白のスノーウェアを着て漆黒のバットを振る英一郎が写っている。
作品名のあべこべさといい、朝焼けに煌めく雪景色で素振りという構図といい、以前の俺なら絶対に撮らなかっただろう写真がここにある。
だが、誰が何と言おうと、この作品こそが俺の最高の一枚だ。
高校二年の夏の大会を観た後から、ずっと国都英一郎という人間を表すに相応しい構図を考えていた。
不屈の闘志で勝利を目指し、己の成長を信じ積み重ねる日々が、凍える冬をも切り拓く。そしてそれが、輝かしい夏への一路となる。
英一郎の弛まぬ努力を、覚悟を、朝焼けの雪原というロケーションでそう表現したいと俺は思っていた。
そして、結果は。
視線をずらす。作品に掲げられた評が目に入る。
『最優秀賞』。
与えられたのは、最高の称号だった。
見慣れないその文字列を、俺は今もまだ信じられない思いで眺めている。
「やぁ、サナギくん」
そんな時、いつかと同じ軽い口調で声をかけられた。既視感に振り返ればそこに居たのはやはり先生だ。俺は深々と会釈をする。
「先生。来てくれたんですね」
「うん。サナギくんの写真が見たかったからね」
仕事のついでではなく、俺の写真目当てだと言われ胸が熱くなる。
ーーようやく認められた。本懐を遂げた喜びに、うずうずと自尊心がくすぐられる。
「最優秀賞おめでとう。念願の一番だね」
「はい。ここまで長かったです」
「そうだね。でもそれにしてはあまり嬉しそうじゃないね。サナギくん、嬉しくないの?」
「そんなことないです。ちゃんと嬉しいですよ」
もう一度、自分の写真へと振り返る。
今の自分が『最高』だと信じ撮った写真は、何度見ても理想的であり、美しいと思う。
ーーでも。
「……この写真を撮った時、俺、賞のことを全く考えなかったんです。それまではずっと、何で一番になれないんだって思ってたのに」
他人への羨望も、劣等感も。この写真のためにカメラを覗いていた瞬間は、何もかもを忘れていた。目の前の世界だけに魅了され、ただ夢中でシャッターを切り続けていた。
「俺が撮りたいと思った景色の中に、撮りたいと思う人がいて。そんな写真が出来たから、なんだかそれだけで満足しちゃったんですよね」
「……そっか。変わったねぇ、サナギくん」
「自分でもそう思います。人間、どう転ぶかわからないですね」
「それだけ良い出逢いをしたんだね。いやぁ、若いっていいなぁ。今のキミが輝いて見えるよ」
「先生のおかげですよ。先生があの時、撮りたいと思う人を探してみろって言ってくれなければ、きっと俺は今も、ずっとひとりで風景だけを撮り続けてました」
足先を変え、俺が師と仰ぐ先生に向き合い、敬意を表す。
「あの日の先生の教えに、本当に感謝しています」
深く礼をすれば、先生の表情がふわりと綻んだ。照れ隠しにそわそわと頬を掻く仕草は初めて見た。今になって新たな発見だ。
「アレは教えってほどのモノじゃないよ。それに、サナギくんは別にボクの弟子でもなんでもないし」
「今更それ言いますか?ずっと人のこと弟子って
呼んでおいて」
「だってサナギくんが先生って呼ぶからさぁ」
「そりゃあプロの写真家なんですから先生って呼ぶに決まってるじゃないですか。俺のせいにしないでくださいよ」
先生の屁理屈に説き返していると、ふと手に持っていたスマートフォンが震えた。俺は待ちかねたその知らせに、すぐさま通知を確認する。
『国都 英一郎』
メッセージの主は、心待ちにしていた人物だ。俺は『会場に着いたよ』という短い文章を目にすると、途端にそわそわと入り口付近に目を見張る。
程なくして、英一郎が展示ホールへとやってきた。
遠目からでも目立つ際立った長身と容姿。黒いシャツにジャケットとスラックスという、やや正装めいた服装。群を抜いて際立つ存在感に、ホールの観覧客の目はこぞって彼へと引かれている。
「英一郎!こっちこっち!」
喜び勇んで手招きをすれば、英一郎が俺を見つけて傍へとやって来る。
ダメだ。最後に会ってから間が空いているせいか、久しぶりに会えただけでも嬉しくなってしまう。
「史哉くん、遅くなってごめん」
「気にすんなよ。忙しい中来てくれただけで嬉しいし」
笑顔で迎えれば、英一郎は優しく微笑み返してくれる。よく見慣れた、けれど今では特別な笑みに、俺の胸はキュッと締め付けられる。
「そう言ってもらえると助かるけど、いつも待たせてばかりだね、僕は」
「いいんだって!英一郎はプロになったばかりなんだから野球に集中しないと。一軍狙ってるんだろ?」
「うん。そうなれるよう日々励んでいるよ。史哉くんが勧めてくれた通り、どうやら僕には今の環境が合っているようだ。この上ない環境と素晴らしい選手に囲まれて、毎日が刺激的だよ」
「そっか。良かった。英一郎が充実してるみたいで」
高校を卒業して早一ヶ月。英一郎は高卒で千葉のプロ野球球団の選手となり、俺はカメラの専門学校に通い始めた。
互いに別々の生活を送る中、時間を見つけてメッセージのやりとりや通話はし合っていたものの、こうして顔を合わせるのは卒業式以来だ。スマホの文字だけではわからない表情の輝きに、英一郎の新しい生活の手応えが伝わる。
益々大人に見える顔つきは、高校生の時のあどけなさを残していた頃とは違う。その変化に、俺は誇らしさと少しの寂しさを抱く。
「僕のことより今日はキミのことだよ。本当におめでとう。そのスーツもよく似合っているね」
「ありがとう。今までは制服だったから、今回初めて着たんだ。そう言ってもらえてちょっと安心した」
「表彰式は無事終わったのかい?」
「うん。父さんと母さんも見に来てくれた。もう帰ったけど、英一郎にも会いたがってたよ」
「しばらくお会い出来ていないからね。時間が合えばまた史哉くんの御実家にお邪魔させてもらうよ」
「無理しなくていいけど、そうしてくれたらウチの親も喜ぶよ。父さんなんか、毎日英一郎のことチェックしてるらしいし」
「それは嬉しいな。励みになるよ」
長々と再会を喜び合っていると、ふと英一郎が視線をずらした。俺の隣で控えていた先生に注目すると、英一郎はキリと背筋を伸ばし転身する。
「こちらの方は、もしかして史哉くんが言ってた?」
注目を受けた先生が、待ってましたとばかりに歩み出る。そして、人受けのする満面の笑みを浮かべては、無駄に良い声で流暢な挨拶を始める。
「初めまして。帝徳高校OBの冠波忠人です。今は写真家の端くれで、サナギくんとはまぁ、お友達みたいなものかな」
「俺、先生と友達になったつもりないんですけど」
「え?ボクは友達だと思ってたけど?」
先生の紹介に否定を挟めば、年季の入った俺たちの軽妙なやり取りに英一郎の笑い声が上がる。
「ふふっ、史哉くんの先生って面白いね。聞いていた通りだ」
「サナギくん、ボクのことどんな風に話してたのさ」
「ありのまま話しただけですよ。変わった人だって」
高校二年の時に先生の話を聞かせて以来、英一郎には色々と先生の話をする機会があった。先生は以前文化祭に来たいと言ってくれたものの、仕事で来れなくなったため、ふたりが顔を合わせるのはこれが初めてとなる。
「すみません、申し遅れました。僕は国都英一郎といいます。史哉くんにはとても仲良くしてもらっています」
「ご丁寧にどうも。キミのことはサナギくんから色々聞いてたんだよ。絶対会ってみたいと思ってたから、こうして会えて嬉しいよ」
先生が手を差し出すと、英一郎が握り返す。
「そう言っていただけるのは光栄ですが、どうしてそこまで僕に?」
「そりゃあ眠りの森の茨姫、サナギくんの心を奪った王子様だもん。どんな人なのかなって気になるじゃない」
「はッ!?ちょッ、何なんですかその例えは!!」
突拍子もない発言に脊椎反射で噛み付く。姫だ王子だなんておかしな例えられ方をしたのがあまりに恥ずかしく、俺は勢い立って声を荒げてしまう。
が、先生はそんなあわつく俺を恐ろしく純粋な瞳で受け止めいなす。
「何ってそのまんまの意味だよ。サナギくんって筋金入りの人嫌いだったろ?良いお友達が出来るといいなってずっと思ってたんだよ。だからコクトくんのことを聞いた時、ボクは嬉しくってさ」
「史哉くんにとっての王子様か。ははっ!それは嬉しいな」
「だからって変な例え方しないでください!!英一郎も!話に乗らなくていいから!!」
「ちなみに史哉くんは僕のことをなんて話していたんですか?」
「聞きたい?サナギくんね、国都は俺のーーー」
「ストップーーー!!!何話そうとしてるんですか!!!デリカシーなさすぎです!!!!」
「あっはっは。サナギくんめっちゃ声デカいじゃん〜」
「史哉くん。公共の場で大声を出すのは良くないと思うよ」
「俺が悪いのかよ……!!」
揃って梯子を外され、楽しそうな二人をじとりと睨む。唇を尖らせた俺に、先生は「冗談だって」と軽く笑い飛ばす。いや、絶対冗談なんかじゃないだろ!
そうして会話に興じていたところ、英一郎がふと何かを思い出したように声を上げた。
「そうだ、すっかり忘れていたよ。これ、史哉くんへの入賞祝いにと思って持って来たんだ」
言って、英一郎は手に持っていた小さなペーパーバッグを軽く持ち上げる。俺は思いもよらないプレゼントに、思わず目を丸くする。
「えッ、わざわざ俺にプレゼント用意してくれたのか?」
「もちろんだよ。改めて、最優秀賞おめでとう。キミが認められて自分のことのように嬉しいし、とても誇らしいよ」
真っ直ぐな言祝ぎが胸に届く。誰よりも分かち合いたいと思っていた相手からの賛辞は、やはり格別に嬉しい。俺は頬を緩ませながら、写真を見つめる英一郎に瞳を細める。
「撮った時にも見せてもらったけど、何度見ても素晴らしい写真だね。自分では知らない自分を、キミに見つけてもらえた気がするよ」
凛とした横顔は、長野で撮影した冬の日を思い出しているようだった。
俺と英一郎にとっての、特別な日。
俺もまた煌めいた思い出に触れ、ふたり揃って写真を見つめる。
「ありがとう。キミが愛する美しい世界に、僕を招いてくれて」
互いにゆっくりと視線を戻して見つめ合うと、雪解けに訪れる春のような笑顔が俺を包んだ。その暖かさに、俺の鼓動が駆け足になる。
「や、そんな、言い方が大袈裟だよ。というかその……嬉しいけど、めちゃくちゃ恥ずかしいというか」
「僕としては言い足りないくらいだよ。だから、恥ずかしがらずに受け取って欲しい。僕の祝福も、このプレゼントも」
「あ……りが、とう。これ、開けてもいいのか?」
「もちろん。大したものじゃないけど、気に入ってもらえると嬉しいよ」
雪のように白いペーパーバッグを受け取り、丁重に中身を取り出す。手のひらより少し大きな長方形サイズ。手触りは硬い。表面を包む薄青のラッピング紙は冬の朝晴れに似ていて、なんだか長野で見た空を思い出す。
俺は、丁寧にラッピング紙を解いた。中から出てきたのは、白い木製フレームのフォトスタンドだ。縁の右下隅にはささやかな赤いバラの飾りがあり、シンプルながらも華やかさが添えられている。
「これ、フォトスタンド?もしかして手作り?」
既製品かと思いきや、よく見れば飾りの位置や作りがやや不精巧だ。気づいた手作り感に問いかけてみれば、英一郎は少し照れたように笑みを崩す。
「拙い出来で恥ずかしいけどね。でも、僕が作った写真立てに、キミの写真を飾ってもらいたくて。使ってもらえるかい」
「使う!絶対使うよ!」
前のめりに答えながら、俺は心のこもったプレゼントを大切に握りしめる。英一郎は拙い出来だと言ったが、むしろそこが手作りらしく、頑張って作ってくれたんだなと感じられてたまらなく嬉しい。
「プロになってから毎日忙しいだろうに、わざわざ俺のためにありがとう。こんな物用意してくれてたなんて……」
言葉が詰まりかける。だけどこの喜びをどうしても伝えたくて、俺は潤む瞳を隠しもせず、真っ直ぐに英一郎へと向かい合う。
「すごく、嬉しいよ」
想いを届ければ、笑みが溢れて頬が熱に溶ける。喜びが抑えられなくて、締まりもなく緩んでしまう俺は子供のようだ。大人びた英一郎とはまるで正反対な様に、俺は変わらない自分の幼さを感じてしまう。
それは、ずっと受け入れられなかった俺の一部だ。だけど今、そんな俺を目の前にした英一郎は、最上の微笑みを持って受け止めてくれる。
「これくらいなんてことないよ。それに本音を言うと、キミの笑顔が見たくて頑張っただけなんだ。今の笑顔だけで、僕は十分報われたよ」
今の俺でいいと。
今の俺がいいと。
ありのままを認めてくれる英一郎に、押さえきれない愛しさが込み上げてくる。
「英一郎、俺ーー」
「いやぁ〜!熱いねぇ、青春だねぇ。ふたりとも盛り上がっちゃってボクがいること完全に忘れてるでしょ?」
「なッ!?そッ、そんなことないですけど!?」
英一郎と俺の会話の間を縫って、先生がパチパチと拍手をしながら茶々を入れた。感動したと言わんばかりに何度も頷く顔は、揶揄っているわけではなさそうなのが余計に恥ずかしい。
「そう?でもフォトスタンドなんて写真家には最高のプレゼントだね。よかったじゃん、サナギくん。あ、そうだ!ボクからもお祝いに二人のフォトウェディングを撮らせてよ。若い二人の門出を、ぜひボクの写真で飾らせてほしいな」
「はァッ!?何なんですかウェディングって!?話が変なとこに飛躍しすぎです!!先生は黙っててください!!」
「冠波さんに撮っていただけると史哉くんも喜ぶと思います。是非お願いします」
「だから話に乗るなってーーー!!!」
悪乗りするふたりを全力で止める俺に、周囲の観覧客の視線が一気に集まった。唆され大声を上げた俺は、悔しさとそれだけじゃない理由に顔を赤くし、小さく肩をすくめる。
先生が必死に笑いを噛み殺している。
英一郎が俺を微笑ましそうに見ている。
そんなふたりに挟まれた俺は、行き場のない羞恥心にじとりと無言で睨みつける。
「サナギくんはすっかり弾けた性格になったねぇ。これもコクトくんのおかげかな」
「もういいです!先生は何も言わずにこのまま帰ってくださいッ」
「えー、ボクまだコクトくんと話し足りないんだけど。そうだ、良かったらこれからみんなでご飯に行こうか。コクトくんは予定空いてる?」
「はい。この後は史哉くんと過ごそうと思って空けてあります」
「あー、じゃあお邪魔だった?サナギくん」
「俺に振らないでください!」
「僕も先生に色々史哉くんのこと聞きたいと思っていたので、是非」
「……英一郎がそこまで言うなら俺も行きます。もちろん先生のおごりですよね」
「任せといてよ。美味しいお店連れてってあげるからさ。コクトくんは苦手なものとか食べられないものない?」
「はい。何でも食べられます」
「オッケー!じゃあ今日は二人の運命の出逢いと未来を祝して、パーッと贅沢しちゃおうか!」
「そこは俺のお祝いでいいじゃないですか!」
先生が俺と英一郎の間に挟まり、気安く肩に手を回す。交互に俺たちの顔を見やりポンと肩を叩いた先生は、いつまでも俺を揶揄いながら笑っていた。
思えば不思議な光景だった。
高校二年の時、この会場で先生と並んで写真を見ていた時には、最優秀賞を獲ることも、今の自分の変わりようも、俺の傍に英一郎が居ることも、何ひとつ想像だにしていなかった。
「運命、か」
いつか俺が口にした言葉が、英一郎の口から溢れる。
「僕はそう思っているけど、史哉くんにもそう思ってもらえていたら嬉しいな」
先生を間に挟んで、臆面もなく。俺に揺るぎない愛情の視線を注いでは、世界で一番綺麗な笑みを届けてくる。
想いは一緒だった。
どっちが先にそう思ったかはわからないけどーーそんなの、もう今は関係ない。
英一郎の真っ直ぐすぎる告白に顔が熱くなっていく。そして、先生は俺をニヤニヤと見ながら小突いてくる。
俺は上手く応えられず、ただ黙りこくってしまう。本当は伝えたい気持ちがあるのに、先生の前で口にするのはどうしたって恥ずかしい。
だけどーーずっと前から、そう思っていたと。
この想いは必ず、英一郎に伝えようと思う。
ふたりきりになれたその時に。
ひっそりと、ふたりだけの秘密にして。
白いシンプルな額縁に飾られた写真に添えられているのは、『夏一閃』という作品名と、眞城史哉という俺の名前。
写っているのは、冬に長野の霧ヶ峰で撮った雪原だ。一面の銀世界の中心には、純白のスノーウェアを着て漆黒のバットを振る英一郎が写っている。
作品名のあべこべさといい、朝焼けに煌めく雪景色で素振りという構図といい、以前の俺なら絶対に撮らなかっただろう写真がここにある。
だが、誰が何と言おうと、この作品こそが俺の最高の一枚だ。
高校二年の夏の大会を観た後から、ずっと国都英一郎という人間を表すに相応しい構図を考えていた。
不屈の闘志で勝利を目指し、己の成長を信じ積み重ねる日々が、凍える冬をも切り拓く。そしてそれが、輝かしい夏への一路となる。
英一郎の弛まぬ努力を、覚悟を、朝焼けの雪原というロケーションでそう表現したいと俺は思っていた。
そして、結果は。
視線をずらす。作品に掲げられた評が目に入る。
『最優秀賞』。
与えられたのは、最高の称号だった。
見慣れないその文字列を、俺は今もまだ信じられない思いで眺めている。
「やぁ、サナギくん」
そんな時、いつかと同じ軽い口調で声をかけられた。既視感に振り返ればそこに居たのはやはり先生だ。俺は深々と会釈をする。
「先生。来てくれたんですね」
「うん。サナギくんの写真が見たかったからね」
仕事のついでではなく、俺の写真目当てだと言われ胸が熱くなる。
ーーようやく認められた。本懐を遂げた喜びに、うずうずと自尊心がくすぐられる。
「最優秀賞おめでとう。念願の一番だね」
「はい。ここまで長かったです」
「そうだね。でもそれにしてはあまり嬉しそうじゃないね。サナギくん、嬉しくないの?」
「そんなことないです。ちゃんと嬉しいですよ」
もう一度、自分の写真へと振り返る。
今の自分が『最高』だと信じ撮った写真は、何度見ても理想的であり、美しいと思う。
ーーでも。
「……この写真を撮った時、俺、賞のことを全く考えなかったんです。それまではずっと、何で一番になれないんだって思ってたのに」
他人への羨望も、劣等感も。この写真のためにカメラを覗いていた瞬間は、何もかもを忘れていた。目の前の世界だけに魅了され、ただ夢中でシャッターを切り続けていた。
「俺が撮りたいと思った景色の中に、撮りたいと思う人がいて。そんな写真が出来たから、なんだかそれだけで満足しちゃったんですよね」
「……そっか。変わったねぇ、サナギくん」
「自分でもそう思います。人間、どう転ぶかわからないですね」
「それだけ良い出逢いをしたんだね。いやぁ、若いっていいなぁ。今のキミが輝いて見えるよ」
「先生のおかげですよ。先生があの時、撮りたいと思う人を探してみろって言ってくれなければ、きっと俺は今も、ずっとひとりで風景だけを撮り続けてました」
足先を変え、俺が師と仰ぐ先生に向き合い、敬意を表す。
「あの日の先生の教えに、本当に感謝しています」
深く礼をすれば、先生の表情がふわりと綻んだ。照れ隠しにそわそわと頬を掻く仕草は初めて見た。今になって新たな発見だ。
「アレは教えってほどのモノじゃないよ。それに、サナギくんは別にボクの弟子でもなんでもないし」
「今更それ言いますか?ずっと人のこと弟子って
呼んでおいて」
「だってサナギくんが先生って呼ぶからさぁ」
「そりゃあプロの写真家なんですから先生って呼ぶに決まってるじゃないですか。俺のせいにしないでくださいよ」
先生の屁理屈に説き返していると、ふと手に持っていたスマートフォンが震えた。俺は待ちかねたその知らせに、すぐさま通知を確認する。
『国都 英一郎』
メッセージの主は、心待ちにしていた人物だ。俺は『会場に着いたよ』という短い文章を目にすると、途端にそわそわと入り口付近に目を見張る。
程なくして、英一郎が展示ホールへとやってきた。
遠目からでも目立つ際立った長身と容姿。黒いシャツにジャケットとスラックスという、やや正装めいた服装。群を抜いて際立つ存在感に、ホールの観覧客の目はこぞって彼へと引かれている。
「英一郎!こっちこっち!」
喜び勇んで手招きをすれば、英一郎が俺を見つけて傍へとやって来る。
ダメだ。最後に会ってから間が空いているせいか、久しぶりに会えただけでも嬉しくなってしまう。
「史哉くん、遅くなってごめん」
「気にすんなよ。忙しい中来てくれただけで嬉しいし」
笑顔で迎えれば、英一郎は優しく微笑み返してくれる。よく見慣れた、けれど今では特別な笑みに、俺の胸はキュッと締め付けられる。
「そう言ってもらえると助かるけど、いつも待たせてばかりだね、僕は」
「いいんだって!英一郎はプロになったばかりなんだから野球に集中しないと。一軍狙ってるんだろ?」
「うん。そうなれるよう日々励んでいるよ。史哉くんが勧めてくれた通り、どうやら僕には今の環境が合っているようだ。この上ない環境と素晴らしい選手に囲まれて、毎日が刺激的だよ」
「そっか。良かった。英一郎が充実してるみたいで」
高校を卒業して早一ヶ月。英一郎は高卒で千葉のプロ野球球団の選手となり、俺はカメラの専門学校に通い始めた。
互いに別々の生活を送る中、時間を見つけてメッセージのやりとりや通話はし合っていたものの、こうして顔を合わせるのは卒業式以来だ。スマホの文字だけではわからない表情の輝きに、英一郎の新しい生活の手応えが伝わる。
益々大人に見える顔つきは、高校生の時のあどけなさを残していた頃とは違う。その変化に、俺は誇らしさと少しの寂しさを抱く。
「僕のことより今日はキミのことだよ。本当におめでとう。そのスーツもよく似合っているね」
「ありがとう。今までは制服だったから、今回初めて着たんだ。そう言ってもらえてちょっと安心した」
「表彰式は無事終わったのかい?」
「うん。父さんと母さんも見に来てくれた。もう帰ったけど、英一郎にも会いたがってたよ」
「しばらくお会い出来ていないからね。時間が合えばまた史哉くんの御実家にお邪魔させてもらうよ」
「無理しなくていいけど、そうしてくれたらウチの親も喜ぶよ。父さんなんか、毎日英一郎のことチェックしてるらしいし」
「それは嬉しいな。励みになるよ」
長々と再会を喜び合っていると、ふと英一郎が視線をずらした。俺の隣で控えていた先生に注目すると、英一郎はキリと背筋を伸ばし転身する。
「こちらの方は、もしかして史哉くんが言ってた?」
注目を受けた先生が、待ってましたとばかりに歩み出る。そして、人受けのする満面の笑みを浮かべては、無駄に良い声で流暢な挨拶を始める。
「初めまして。帝徳高校OBの冠波忠人です。今は写真家の端くれで、サナギくんとはまぁ、お友達みたいなものかな」
「俺、先生と友達になったつもりないんですけど」
「え?ボクは友達だと思ってたけど?」
先生の紹介に否定を挟めば、年季の入った俺たちの軽妙なやり取りに英一郎の笑い声が上がる。
「ふふっ、史哉くんの先生って面白いね。聞いていた通りだ」
「サナギくん、ボクのことどんな風に話してたのさ」
「ありのまま話しただけですよ。変わった人だって」
高校二年の時に先生の話を聞かせて以来、英一郎には色々と先生の話をする機会があった。先生は以前文化祭に来たいと言ってくれたものの、仕事で来れなくなったため、ふたりが顔を合わせるのはこれが初めてとなる。
「すみません、申し遅れました。僕は国都英一郎といいます。史哉くんにはとても仲良くしてもらっています」
「ご丁寧にどうも。キミのことはサナギくんから色々聞いてたんだよ。絶対会ってみたいと思ってたから、こうして会えて嬉しいよ」
先生が手を差し出すと、英一郎が握り返す。
「そう言っていただけるのは光栄ですが、どうしてそこまで僕に?」
「そりゃあ眠りの森の茨姫、サナギくんの心を奪った王子様だもん。どんな人なのかなって気になるじゃない」
「はッ!?ちょッ、何なんですかその例えは!!」
突拍子もない発言に脊椎反射で噛み付く。姫だ王子だなんておかしな例えられ方をしたのがあまりに恥ずかしく、俺は勢い立って声を荒げてしまう。
が、先生はそんなあわつく俺を恐ろしく純粋な瞳で受け止めいなす。
「何ってそのまんまの意味だよ。サナギくんって筋金入りの人嫌いだったろ?良いお友達が出来るといいなってずっと思ってたんだよ。だからコクトくんのことを聞いた時、ボクは嬉しくってさ」
「史哉くんにとっての王子様か。ははっ!それは嬉しいな」
「だからって変な例え方しないでください!!英一郎も!話に乗らなくていいから!!」
「ちなみに史哉くんは僕のことをなんて話していたんですか?」
「聞きたい?サナギくんね、国都は俺のーーー」
「ストップーーー!!!何話そうとしてるんですか!!!デリカシーなさすぎです!!!!」
「あっはっは。サナギくんめっちゃ声デカいじゃん〜」
「史哉くん。公共の場で大声を出すのは良くないと思うよ」
「俺が悪いのかよ……!!」
揃って梯子を外され、楽しそうな二人をじとりと睨む。唇を尖らせた俺に、先生は「冗談だって」と軽く笑い飛ばす。いや、絶対冗談なんかじゃないだろ!
そうして会話に興じていたところ、英一郎がふと何かを思い出したように声を上げた。
「そうだ、すっかり忘れていたよ。これ、史哉くんへの入賞祝いにと思って持って来たんだ」
言って、英一郎は手に持っていた小さなペーパーバッグを軽く持ち上げる。俺は思いもよらないプレゼントに、思わず目を丸くする。
「えッ、わざわざ俺にプレゼント用意してくれたのか?」
「もちろんだよ。改めて、最優秀賞おめでとう。キミが認められて自分のことのように嬉しいし、とても誇らしいよ」
真っ直ぐな言祝ぎが胸に届く。誰よりも分かち合いたいと思っていた相手からの賛辞は、やはり格別に嬉しい。俺は頬を緩ませながら、写真を見つめる英一郎に瞳を細める。
「撮った時にも見せてもらったけど、何度見ても素晴らしい写真だね。自分では知らない自分を、キミに見つけてもらえた気がするよ」
凛とした横顔は、長野で撮影した冬の日を思い出しているようだった。
俺と英一郎にとっての、特別な日。
俺もまた煌めいた思い出に触れ、ふたり揃って写真を見つめる。
「ありがとう。キミが愛する美しい世界に、僕を招いてくれて」
互いにゆっくりと視線を戻して見つめ合うと、雪解けに訪れる春のような笑顔が俺を包んだ。その暖かさに、俺の鼓動が駆け足になる。
「や、そんな、言い方が大袈裟だよ。というかその……嬉しいけど、めちゃくちゃ恥ずかしいというか」
「僕としては言い足りないくらいだよ。だから、恥ずかしがらずに受け取って欲しい。僕の祝福も、このプレゼントも」
「あ……りが、とう。これ、開けてもいいのか?」
「もちろん。大したものじゃないけど、気に入ってもらえると嬉しいよ」
雪のように白いペーパーバッグを受け取り、丁重に中身を取り出す。手のひらより少し大きな長方形サイズ。手触りは硬い。表面を包む薄青のラッピング紙は冬の朝晴れに似ていて、なんだか長野で見た空を思い出す。
俺は、丁寧にラッピング紙を解いた。中から出てきたのは、白い木製フレームのフォトスタンドだ。縁の右下隅にはささやかな赤いバラの飾りがあり、シンプルながらも華やかさが添えられている。
「これ、フォトスタンド?もしかして手作り?」
既製品かと思いきや、よく見れば飾りの位置や作りがやや不精巧だ。気づいた手作り感に問いかけてみれば、英一郎は少し照れたように笑みを崩す。
「拙い出来で恥ずかしいけどね。でも、僕が作った写真立てに、キミの写真を飾ってもらいたくて。使ってもらえるかい」
「使う!絶対使うよ!」
前のめりに答えながら、俺は心のこもったプレゼントを大切に握りしめる。英一郎は拙い出来だと言ったが、むしろそこが手作りらしく、頑張って作ってくれたんだなと感じられてたまらなく嬉しい。
「プロになってから毎日忙しいだろうに、わざわざ俺のためにありがとう。こんな物用意してくれてたなんて……」
言葉が詰まりかける。だけどこの喜びをどうしても伝えたくて、俺は潤む瞳を隠しもせず、真っ直ぐに英一郎へと向かい合う。
「すごく、嬉しいよ」
想いを届ければ、笑みが溢れて頬が熱に溶ける。喜びが抑えられなくて、締まりもなく緩んでしまう俺は子供のようだ。大人びた英一郎とはまるで正反対な様に、俺は変わらない自分の幼さを感じてしまう。
それは、ずっと受け入れられなかった俺の一部だ。だけど今、そんな俺を目の前にした英一郎は、最上の微笑みを持って受け止めてくれる。
「これくらいなんてことないよ。それに本音を言うと、キミの笑顔が見たくて頑張っただけなんだ。今の笑顔だけで、僕は十分報われたよ」
今の俺でいいと。
今の俺がいいと。
ありのままを認めてくれる英一郎に、押さえきれない愛しさが込み上げてくる。
「英一郎、俺ーー」
「いやぁ〜!熱いねぇ、青春だねぇ。ふたりとも盛り上がっちゃってボクがいること完全に忘れてるでしょ?」
「なッ!?そッ、そんなことないですけど!?」
英一郎と俺の会話の間を縫って、先生がパチパチと拍手をしながら茶々を入れた。感動したと言わんばかりに何度も頷く顔は、揶揄っているわけではなさそうなのが余計に恥ずかしい。
「そう?でもフォトスタンドなんて写真家には最高のプレゼントだね。よかったじゃん、サナギくん。あ、そうだ!ボクからもお祝いに二人のフォトウェディングを撮らせてよ。若い二人の門出を、ぜひボクの写真で飾らせてほしいな」
「はァッ!?何なんですかウェディングって!?話が変なとこに飛躍しすぎです!!先生は黙っててください!!」
「冠波さんに撮っていただけると史哉くんも喜ぶと思います。是非お願いします」
「だから話に乗るなってーーー!!!」
悪乗りするふたりを全力で止める俺に、周囲の観覧客の視線が一気に集まった。唆され大声を上げた俺は、悔しさとそれだけじゃない理由に顔を赤くし、小さく肩をすくめる。
先生が必死に笑いを噛み殺している。
英一郎が俺を微笑ましそうに見ている。
そんなふたりに挟まれた俺は、行き場のない羞恥心にじとりと無言で睨みつける。
「サナギくんはすっかり弾けた性格になったねぇ。これもコクトくんのおかげかな」
「もういいです!先生は何も言わずにこのまま帰ってくださいッ」
「えー、ボクまだコクトくんと話し足りないんだけど。そうだ、良かったらこれからみんなでご飯に行こうか。コクトくんは予定空いてる?」
「はい。この後は史哉くんと過ごそうと思って空けてあります」
「あー、じゃあお邪魔だった?サナギくん」
「俺に振らないでください!」
「僕も先生に色々史哉くんのこと聞きたいと思っていたので、是非」
「……英一郎がそこまで言うなら俺も行きます。もちろん先生のおごりですよね」
「任せといてよ。美味しいお店連れてってあげるからさ。コクトくんは苦手なものとか食べられないものない?」
「はい。何でも食べられます」
「オッケー!じゃあ今日は二人の運命の出逢いと未来を祝して、パーッと贅沢しちゃおうか!」
「そこは俺のお祝いでいいじゃないですか!」
先生が俺と英一郎の間に挟まり、気安く肩に手を回す。交互に俺たちの顔を見やりポンと肩を叩いた先生は、いつまでも俺を揶揄いながら笑っていた。
思えば不思議な光景だった。
高校二年の時、この会場で先生と並んで写真を見ていた時には、最優秀賞を獲ることも、今の自分の変わりようも、俺の傍に英一郎が居ることも、何ひとつ想像だにしていなかった。
「運命、か」
いつか俺が口にした言葉が、英一郎の口から溢れる。
「僕はそう思っているけど、史哉くんにもそう思ってもらえていたら嬉しいな」
先生を間に挟んで、臆面もなく。俺に揺るぎない愛情の視線を注いでは、世界で一番綺麗な笑みを届けてくる。
想いは一緒だった。
どっちが先にそう思ったかはわからないけどーーそんなの、もう今は関係ない。
英一郎の真っ直ぐすぎる告白に顔が熱くなっていく。そして、先生は俺をニヤニヤと見ながら小突いてくる。
俺は上手く応えられず、ただ黙りこくってしまう。本当は伝えたい気持ちがあるのに、先生の前で口にするのはどうしたって恥ずかしい。
だけどーーずっと前から、そう思っていたと。
この想いは必ず、英一郎に伝えようと思う。
ふたりきりになれたその時に。
ひっそりと、ふたりだけの秘密にして。
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