美しき世界に愛を込めて

 野球部の夏が終わっても、季節は留まっていた。
 真夏と変わらない残暑の中、日々は足早に過ぎ、あっという間に九月はやってきた。文化祭を間近にした校内は、どこもかしこも慌ただしい雰囲気だ。写真部に通い詰める俺も、作品の完成を目の前にし、いよいよという時期に身を引き締めていた。
 パソコンを開き、俺は写真のデータを最終確認する。写っているのは、この夏の帝徳高校野球部だ。

 あれから、国都は次期主将に選ばれた。

 地方大会後、名実ともに野球部の代表となった国都は、次の秋に向け、帝徳野球部を牽引すべく益々野球に力を入れていった。
 陽ノ本先輩たちが引退した直後はどこか寂しそうな顔も見せていたけど、今ではもう立ち直り、先輩たちがしたように同輩や後輩へ気を配っているようだ。
 岩崎監督からの信頼も厚く、部員の誰もが国都を認めている。それは国都が歩んできた道程が、信望に足るだけのものを積み重ねてきた結果だ。
 国都本人にとっても、自身を支えてきた努力は常に柱となっているのだろう。自信に満ちた表情は以前よりも凛々しく、大人に見えた。

 多忙に時は過ぎた。国都は野球に、俺は文化祭作品に打ち込む日々の中、それでも俺たち二人は一緒の時間を共有することが多くなった。
 昼休みは大体一緒だ。あとは移動教室や体育の時間、果ては短い休み時間など、二人で居る時間は徐々に増えていった。
 今や周囲からは、完全に国都の友達扱いをされている。だが、それは事実だと今なら言える。

 他愛無い話で笑い合い、時に励まし合う。

 俺にとって国都は、初めて出来た、大切な友達だった。

「文化祭、いよいよだね」
 恒例となった昼休みの集いで、国都が満を持して文化祭の話題を出した。俺は口の中のエビタルタルサンドを飲み込みながら、唇の端についたタルタルソースを指で拭う。
「もう明日だもんな。あれからあっという間だったな」
「作品は完成したんだよね。もう掲示まで終わったのかい?」
「昼休みが終わったらやるよ。友永部長が手伝ってくれるって言ってくれたから、夕方までには全部終わらせる。国都は?野球部は野球部で何かやるって言ってたよな」
「明日は野球部の説明会と一般見学可能な紅白戦をやるよ。部の準備は終わっているから、あとは当日を迎えるだけ」
「そっか。今日はさすがに部活は休みなのか?」
「うん。今日はみんなクラスの方に参加するんじゃないかな。僕も今日はこの後クラスに参加して、その後は早めに寮に戻ろうと思ってる」
「それがいいよ。国都はあれからずっと忙しかったんだから、たまには休んだ方がいい」
 聞けば野球部のスケジュールはなかなかに過密だった。文化祭でも部の宣伝活動があり、さらに来月には秋大会もあるらしい。主将としての雑務も増えた国都は、ここ最近は少し顔色に疲れが見えていた。
「そうだね。でももうすぐ秋の大会だから、本当はもっと練習したいんだけどね」
「張り切るのはいいけどひとりで無理はするなよ。国都に何かあったら、それこそ野球部の一大事だろ」
「僕のこと、心配してくれてるのかい?」
「してるよ。国都は野球のこととなると突っ走るから」
「優しいんだね、史哉くんは」
 国都が笑う。そして、柔らかく俺の名前を呼ぶ。

『史哉くんの写真は本当に素晴らしいね』

 あの準決勝の日、約束通り写真を見せた俺に国都はそう言った。あまりに自然な流れだったが、突然の呼び名の変化が気に掛かり、俺は思わず聞き返した。

『……あれ、今、名前で呼んだ?』
『うん。……これからは、史哉くんって呼んでもいいかな』

 名前を呼ばれたことに一瞬戸惑いはあったものの、嫌な気はしなかった。それどころかむしろ嬉しい気もして、俺は照れを隠しながらも「いいよ」と小さく了承した。
 それから国都は、俺を『史哉くん』と呼ぶようになった。許可を得た国都は本当に嬉しそうで、呼び名ひとつがまた俺たちの距離を縮めた気がした。
 本当は一瞬だけ、俺も『英一郎』と呼ぼうとした。けど、それは恥ずかしさに負けて今も実現はしていない。

「優しいってほどでも……それに、俺以外もみんな心配してるだろ。国都はみんなに慕われてるしさ」
「確かにみんな僕を気に掛けてくれてはいるけど、史哉くんがしてくれる心配は僕にとって特別なんだよ」
「特別って、そんな大袈裟な」
 相変わらずオーバーな発言だ。元々こういうロマンチストめいた部分はあったが、あの日以来加速している気がしてならない。
 素直に思ったことを口にしているだけで、深い意味はないとわかっている。それでも俺は、『特別』という言葉に込められた親しさに心をくすぐられてしまう。
 じわじわと気忙しくなったところで、昼休みの終わりは訪れた。今日は授業は二時限目で終わり、そこからは文化祭の準備に時間が当てられている。
 俺たちは、それぞれ異なる方向へと分かれた。国都は教室へ、俺は文化部展示会場へ。赴けば、会場はすでに俺以外の部員たちの作品が並べ終わっていた。
 『帝徳高校』というテーマを元に撮った部員の写真は様々だ。校舎を撮ったもの、クラスを撮ったもの、用務員を撮ったもの。中にはドローンで上空から撮影をしたものまであった。
 広義に解釈された写真は、どれも撮った人間の視点やセンスが現れている。ありふれたものに見える写真でも確かに個性はあって、それを見つけると自然とワクワクしてしまう。
「お、眞城。来てたのか」
 展示を眺めていると、俺に気がついた友永部長が声を掛けてきた。この文化祭で、彼の部長としての仕事は最後になる。そのせいか、今年の友永部長はとびきり張り切っていた。
「写真部の奴らの作品見ること、あれからなかっただろ。どうだ、感想は」
「……面白いです。それぞれの視点や解釈が全然違っていて」
「だろ?やっぱオレが決めたテーマは正解だったな。帝徳のいろんな顔が表現されてて、オレも見てるだけで楽しいよ」
 一番大変なはずの部長は、部の誰よりも楽しそうだ。たったひとりの三年生として今日まで部を背負ってきたんだ。きっと、感動もひとしおなのだろう。
「さて、それじゃあウチの目玉の準備を始めるか。眞城の作品、印刷所からちゃんと届いてるぞ」
 筒状の段ボールから丸まった光沢紙を取り出し、部長がばさりと広げる。
 そこには、A0サイズの巨大な写真があった。写っているのは、準決勝で敗退した時に撮った球場の風景だ。
 写真はモザイクアートになっている。メインとなる球場の写真は一枚一枚の小さな写真によって構成されていて、遠目からはモザイク状に見える球場の風景が、目を凝らすと大量の野球部の写真で作られているという趣向だ。
 モザイクアートを作るのは初めてだった。慣れない作業な上、できるだけ大きなサイズをと望んだ俺は自分の首を絞め、制作にかなりの時間と労力を費やした。
 だがこうして出来上がったものを目の前にすると、そんな苦労は一気に吹っ飛んだ。思ってた以上の出来栄えに、俺は思わず見入ってしまう。
「良かった……モザイク部分の写真がちゃんと判別できるし、メイン写真も思ってたより綺麗に再現されてる」
「凄いな、これ。よくこのサイズひとりで作ったな」
「あの日見た球場の広大さを表現したかったので、大きさに妥協したくなかったんですよね。でも結果、俺の作品だけ場所取っちゃってすみません」
「気にすんなって。デカい作品はそれだけで迫力があるし、写真部にとっても良い宣伝になるよ」
「……それなら良いんですけど」
「他の部員のことなら気にしなくていいぞ。眞城にあたってたヤツらもこの作品に度肝抜かれてたからな。なんだかんだアイツらも写真が好きだから、眞城の努力を認めざるを得なかったんだろ」
 友永部長が、ずっと心に引っ掛かっていた不安を取り除く。幽霊部員だった俺が急に出しゃばることでまた目をつけられるのではと危惧していたが、部長がここまでフォローしてくれるなんて。思ってもいなかった助けに、俺は敬意と感謝を払う。
「……部長。色々、ありがとうございます」
「いいっていいって。そんなことよりほら、早く貼ろうぜ。眞城の手でちゃんと掲示しろって」
 促され、俺は自分の作品に手を伸ばす。
 展示会場正面の白い壁に空いた大きなスペースは、俺の作品を飾るためにある。そこに、俺は友永部長と二人で作品を貼り付けていく。

 白くぽっかり空いたスペースに、神宮球場が建立された。モザイクにぼやける全景は、あの夏の蜃気楼に揺れているようだ。

 思い出は蘇る。そして。
 俺の作品展示は、無事に終わった。

「近くで見るとホント凄いな。枚数も凄いけど、中身も一枚一枚魅力あるよ。見える大きさとはいえ、小さいのが勿体無いな」
 友永部長が目を凝らし、まじまじと俺の作品を観察する。写真は無数にあるが、どれも想いを込めて撮ったものだし、出来上がったものは厳選した。一枚一枚のクオリティにも手は抜いていないので、それが伝わったのなら上々だ。
「……俺が表したいと思ったこと、見てくれる人に伝わるでしょうか」
「これだけの作品なんだ。眞城の熱量は絶対伝わるって」
 安心しろと俺の背中を叩くと、友永部長は全ての展示を終えたことを報告するため、会場を出ていった。
 残った俺はひとり、自分の作品とじっくり向かい合う。
 国都を撮ると決めてから今日まで、いろんなことがあった。自分を見つめ直す大きな転機となった作品は、今まで撮ったどんなものより遥かな満足感と達成感があった。

 俺はやり遂げたんだ。
 そう思った瞬間。


 ずくりと、嫌な鼓動がした。

 

 ーーーたくさんの人の気配を感じた。

 みんなが俺の写真を見ている。

 それは小学生になって最初の夏休み明け。自由研究として提出した俺の写真が、優秀作品として選ばれ廊下の掲示板へと張り出されたからだった。

 長野で過ごした夏休みの思い出は特別だった。初めてカメラを手に取り、自分の手で写真を撮った時、俺は楽しくて嬉しくてたまらなかった。

 写真に映っているのは、長野で出会った同い年の少年少女たちだ。背の高い向日葵に囲まれた揃いの笑顔が、キラキラのまま時を止めていた。

『ふみくん、またあえるよね』
『ぜったいわすれんなよ!』
『またあそぼうな』
『ゆびきりげんまんね!』

 忘れられない、大切な写真(思い出)だった。
 引っ込み思案だった俺が初めて人の輪の中に溶け込めた、奇跡の出会いの証だった。

 東京に戻っても、俺は切り取った思い出に浸り続けていた。常にポケットに忍ばせ、寝る時は枕元に置き、心はいつでも彼らと遊んでいた。

 写真が選ばれた時、俺は初めて自分の存在が人に認められた気がした。たくさんの子が俺の写真を見てくれていることが誇らしかった。

 俺はずっと、自分の大切な写真に魅入っていた。

 そこにーー見知らぬ小さな少年の足音が迫った。
 
 駆け寄った少年は掲示板の前に集まる子たちを押し退け、掲示板に貼られた俺の写真の前に立った。

 ーーーーそして。

『こんなものッッッ!!』

 悲痛に叫んで。
 俺の写真を、力の限り破り捨てた。

 写真は、俺の目の前で、千々に裂かれ紙屑になった。
 
 時が凍ったようだった。
 何が起きているのかわからないまま、ひらひらと廊下に舞い散っていく『大切だったもの』を見つめていた。

 写真があったはずの場所に、混乱した瞳が縋る。
 少年と目が合った。
 ーー燃えるような憎しみが、謂れなく俺を睨んだ。

 そこからはよく覚えていない。次の記憶は、担任の先生に呼ばれた時のことだ。

『眞城くん。写真を破ったあの子ね、隣のクラスの子なんだけど……家庭の事情が、ちょっと複雑な子なの』

『夏休みもね、お家で色々あったみたいで。だから……楽しそうな写真が見てられなかったんだって』

 俺に説いた担任は、俺の味方ではなかった。少年の事情ばかり前面に出す先生は、優しいと評判の若い女の先生だった。だが偽善めいた博愛は不完全で、同情は有限だった。そしてその同情は、俺と少年を天秤に乗せた時、より可哀想な少年へと重りを置いた。

『写真はまた印刷して掲示しましょう?だから、眞城くん』


 ーーあの子のこと、許してあげてね。



 ずくりと、また鼓動が泣いた。
 
 行き場を持てず、自分の中に押し込めておくしかなかったあの日の怒りが、悲しみが、今でも鮮明な痛みとなって氾濫する。

 学校という場所に掲示された俺の写真は、消えない傷を呼び覚ますトリガーになった。
 そして何の因果か、さらに記憶と重なるように、はらりと剥がれて地に落ちた。

 貼り付け方が甘かったのだろうか。頭の片隅で冷静を装いながらも、俺は動揺から床に落ちた自分の写真に手を伸ばせずにいた。

 あれから何年も時が過ぎた。

 小学一年のあの事件をキッカケにまた心を閉ざした俺は、過去から進めず、今日すら進めない高校生の俺になっていた。
 
 だけど。

『キミがいいんだよ』
『約束、忘れてないよね』
『……ありがとう。眞城くんの気持ちが嬉しいよ』
『キミが泣いてくれて、傍に居てくれて、僕は嬉しいよ』

 もう今は、歩き出せる。

 過去を振り払い、俺は前に進んだ。床へとしゃがみこみ、落ちた自分の写真に手を伸ばし、しっかりと両手で握りしめた。

 もう一度、貼り付けよう。

 そう思ったのに、あの日の小さな俺が制服を引っ張り、悲しい思い出に引き留めようとする。

『また、やぶられちゃうよ』

『たいせつなもの、こわされちゃうよ』

 表情を失くした臆病な俺が、もう傷つきたくないと哀願する。

 俺は、剥がれてぽっかりと空いた空間を見上げた。ここに貼り直せば、明日はたくさんの人の目に留まるだろう。
 野球部の人たちが見に来てくれると言った。
 岩崎監督も楽しみにしてると言ってくれた。
 先生も、もしかしたら見に来てくれるかもしれない。
 希望は関わった人の数だけ在った。なのに、不特定多数の恐怖が数で勝った。
 膝を折ったまま、俺は躊躇する。それでも立ち上がりたくて、震える足を支えるためにと、記憶から堂々とした国都の姿を探した。

 いつかの落日の中、背筋を伸ばし、強く凛々しく歩む国都が思い浮かぶ。

「史哉くん、どうかしたのかい」
 
 ーーそうしたら、本当に、本人が現れた。

「……国都」

 以心伝心とはこのことだろうか。あまりの奇跡的なタイミングに、俺は呆然と友の名を呼ぶ。

「クラスが落ち着いたから来てみたんだ。キミの作品を、みんなより早く見たいなと思って」
 いたずらな目論みを明かして、国都は床にしゃがみ込んだ俺の元にやってくる。そして隣に腰を落として、俺の写真を一緒に手に取る。
「もしかして剥がれてしまったのかな。貼り直すの、僕も手伝うよ」

 なんでそんな簡単に言うんだよ。なんでいつも助けてくれるんだよ。

 なんでそんなに、あったかく、笑ってくれるんだよ。



 ーー凍った時間が溶け出す。

 小さな俺が、俺から手を離す。

 ーー『もういいよ』。

 あの夏の日、かくれんぼで遊んだ俺が、鬼に呼びかけた言葉を残して。



 俺は国都と一緒に、写真を貼り直した。
 白い空白にもう一度今夏の風景が広がる。苦い思い出の残る球場に、国都は言葉を失くして見惚れている。
「……どう、かな」
 俺はその横で、流麗な横顔を見つめていた。
 どう思うのだろうかとドキドキする。国都は写真から一度も目を逸らさないまま、たっぷりと時間をかけ、一枚一枚つぶさに注目していく。
 長い静黙は続く。その果てに、唇は恍惚に開かれる。
「…………素晴らしいよ。それ以外、言葉が見つからないくらいに」
 国都の瞳が、小さなピースとなった写真に想いを追う。
 野球部の仲間。監督やコーチ。寮生活を支える職員。応援する生徒や父母。
 朝ぼらけのブルペン。薄暮れのバッターボックス。短夜のグラウンド。そして白日の校舎。
 一木一草、一切合切で構成された景色に、国都は愛を見つける。
 横顔が振り向く。百花に勝る艶やかな微笑みが、俺に万感を届ける。
「史哉くんのこの写真は、僕の愛する世界そのものだよ」
 贈られたのは、至上の言葉だった。
 写真家にとって、眞城史哉にとって。この上ない幸甚が極まり、心に高く羽ばたき渡っていく。

 胸の音が収まらない。
 生命が熱を帯びていく。  
 幸福が血液に運ばれ、全身を巡り巡る。
 
 凍っていた時間が融解する。
 苦かった記憶が、黄金色の蜜のように、優しく甘く流れていく。


 幸せが俺を笑わせていた。
 国都が一緒に笑った。


 涙はもう、出なかった。
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