美しき世界に愛を込めて
新たな日は上り、一番の夏がやってきた。
準決勝の舞台は言わずと知れた神宮球場だ。決戦に整った戦場では、一般生徒より早出した吹奏楽部やチア、スタンドの部員たちが気合の入った応援をしていた。
客席は、両校を応援する生徒や親族、ファンなどで埋め尽くされている。さすがに準決勝ともなると、三回戦までとは賑わいも雰囲気も桁違いだ。おそらく、相手が去年善戦した小手指だというのもあるのだろう。
俺は圧倒的な人の密度に居心地を失くし、距離を取るため上段に登った。高所から一望したフィールドは青々とした芝と赤茶けた砂に光り、天の青から地の緑と茶へ、不干渉な色調のグラデーションを作り上げている。
ーー球場って、こんなに綺麗なんだな。
容赦のない日差しと高い彩度に眩み、俺は庇代わりに片手をかざす。額に滲んだ汗が、触れた指先を濡らす。
今日は一段と気温が高い。身体中から汗を搾り取られているようだ。俺は日陰に逃げ込むと、バッグに携帯した水を取り出し喉を潤した。油断するとすぐに熱中症になりそうだ。撮影に気を取られすぎないよう気をつけなければ。
呑気に体調を警戒していると、試合開始を告げるサイレンが高らかに鳴り響いた。
両校の選手がグラウンドへと駆け出してくる。審判を前に整列した選手たちが、「お願いしますッ!!」と深く礼をしあう。
試合は始まった。
けれど、野球のことは相変わらず何も分からなかった。
ただ帝徳も相手の小手指も、選手全員が必死で白球を追い、勝利をもぎ取るため命を懸けていることだけはわかった。
俺に戦況を伝えるのは、スコアボードに示された得点と、周囲の歓声やため息だけ。
負けている。逆転した。まだ勝っている。
回が進むたび、広大な夏空の下、充溢した大気が切迫し濃度を高めていく。
息が詰まりそうだった。酸素が足りていないんじゃないかと思うほどの息苦しさに、俺は必死で浅い呼吸を繰り返す。
大丈夫だ。絶対に、大丈夫だ。
勝利を信じ、カメラを覗く。望遠のレンズ越しにはエースとしてマウンドに現れた飛高先輩の勇敢な表情が燃えている。打たれた陽ノ本先輩に代わって出てきた飛高先輩は、陽ノ本先輩の悔しさを受け取り、チーム全てを背負うために地を踏んでいる。
投球練習が数回行われ、試合は再開する。益村先輩と組んだ飛高先輩は、キャッチャーミットを信じ足を上げる。
陽炎めいた土煙が舞った。渾身の白球を投げ込む、流れるような動作が行われる。俺はシャッターを切りながら、コマ送りになる一瞬一瞬を見つめていた。
投げられた球には、魂がこもっていた。素人の俺の目ですらわかるのだから、この場にいる全員にも伝わっているだろう。
白球の唸りが聞こえた気がした。
飛高先輩の全身全霊を打てるはずがない。
そう確信した次の瞬間ーー矢のような打球が、バックスタンドに突き刺さった。
小手指の四番の、ホームランだった。
新たな得点がスコアボードに刻まれる。
優劣がひっくり返る。
心臓がーー悲鳴を上げる。
俺のすぐ近くの帝徳側スタンドから絶叫が上がった。選手の父母や親族だろう一団は思いもよらなかった惨状に打ちのめされ、あちこちで苦悶に呻いていた。中には、すでに涙さえ浮かべている人もいる。
だが、試合はまだ終わっていない。
悔しくてたまらないはずの飛高先輩が、チームに大きく声をかけた。グラウンドで戦う選手も、スタンドで応援する選手たちも、部員は誰一人として勝利を諦めていない。
チャンスはあと一回。打順は、四番の国都からだ。
俺は打席に入る国都の姿を、固唾を飲んで見守った。雄叫びに荒ぶ嵐の中、数多の声援を受けた国都は、彩りを殺す漆黒のバットを構える。
俺は高鳴る鼓動に圧され、ファインダーを覗いた。
そして、見つけてしまった。
国都の表情。それは四番としての役儀に殉ずる顔ではなく、国都英一郎という人間の悟りの境地だった。
まるで全てから解放されたような。
自由を謳歌するような。
まだ終わっていないはずの試合がーー終わっているような。
味方も帝徳側のスタンド全員も、最後の最後まで勝利を信じて国都を応援している。だけど多分、今のあいつにそれは届いていない。
レンズは真実を写す。投げ込まれた白球に全力でバットを振る国都に、勝ちへの執念はない。目の前の野球とあるがままに向き合う姿。それはまるで、無邪気に野球という遊びを楽しんでいるようだった。
俺は、静かにシャッターを切った。
ピ、と電子音がして、シャッターが開ける。
その瞬間、国都は晴々と、三振に打ち取られていた。
「……勝手なヤツ」
落胆に沈む客席の中、俺は小さく笑ってしまった。試合の行方が気にならないわけじゃない。だけど、あまりにも国都が国都らしかったから。
続く選手が打ち取られていく。
ひとり、ふたり。そして。
ゲームセットは告げられた。
審判が整列を指示する。両校の選手達が並び、深々と礼をする。動きを止めたスコアボードが勝敗を示す。
四対六。
この瞬間ーー帝徳高校野球部の敗退が決まった。
俺は現実感が湧かないまま、呆然とスコアボードを眺めていた。白く刻まれた数字の配列に、国都の言葉がぽつぽつと浮かんでいく。
『僕は、先輩たちと一日でも多く野球がしたいんだ。そのためには勝たなきゃいけない。勝って勝って、勝ち進んで、最高の勝利を先輩たちに贈りたいんだ』
『絶対に勝つよ。だから、見ていて欲しい』
あの日の笑顔と、目の前の結果は重ならない。
無情な時間は流れる。俺の周りからは、たくさんの慟哭が空に猛り続けていた。
悲しみ、苦しみ、悔しさ。
スタンドの部員や家族、観客の全員が一帯となり悲哀に暮れるも、健闘した選手たちへの賞賛は止まなかった。
涙を流す。
拍手をする。
声を枯らして叫ぶ。
讃える。
肩を抱き合い、慰め合う。
そうして人々が現実を味わっている間に選手が走り寄り、俺たち観客に向け列を成した。乱れのない並びを形成し、全員がスタンドに向けて顔を上げ、帽子を取り深々と頭を下げる。
「応援、ありがとうございましたッ!!」
帝徳の誇りと規律が、選手の腹の底から発される。彼らの高邁な在り方は、この上なく偉観だった。岩崎監督の誇りに値千金する姿は、敗者とは思えないほどに英雄めいていた。
スタンドから、三年の選手へ感謝と労いが贈られる。
チームの柱として支え続けたエースの飛高先輩へ。
もうひとつの柱として、同じくチームを照らし続けた陽ノ本先輩へ。
投手を共に支えた益村先輩へ。
投手の背を守り、帝徳の戦陣を担った小里先輩、千石さん、久我先輩へ。
いくつもの感謝が、止まない雨のように降り注いでいた。
声援を受けた選手たちはいつの間にか顔を上げ、涙を流しながらも前を向いていた。
そんな中で、ただひとり、ずっと顔を上げられずにいた選手がいた。
それは、国都だった。
飛高先輩が身を寄せ、肩を抱く。そうしてようやく上げた顔にはーーとめどない、涙が流れていた。
「こく、と」
国都の涙に奪われる。
瞳も、感情も、何もかも。
鼓動が、サイレンのように鳴り響いた。
俺は、国都英一郎に、敗北はないのだと思っていた。
重圧、悲愴、哀情。内なる葛藤や重積は笑顔の裏に隠しながら、それでも彼は背負い切って前に進むのだと思っていた。
だけど、やっぱりそれは勝手な幻想で。
目の前で涙する国都は、本当に、ただの等身大の十七歳なんだと。
そう気づいた時に俺はーー理由のわからない大粒の涙を浮かべていた。
残酷な青空の下、国都の拭われない涙がグラウンドの土に落ち、吸い込まれていく。
国都の、野球部全員の、観ている人達全ての想いが、この自然の営みに飲まれていく。
泣いている国都の姿に、俺はようやく敗北を知った。途端に人の心傷が感染し、俺は無数に傷つく胸を掻きむしる。
現実に息の根を止められる。
心臓が痛い。血の巡りが苦しい。
なのに俺は、この光景を、風景を、一生忘れたくないと思った。
分け隔てられた喜びと悲しみ、両極の多種感情がこの場所には渦巻いていて、遥かに伸びた空がそれら全てを内包している。
それは、自然と人の融合だ。俺が愛する世界の、ひとつの景色だ。
俺は写真を撮るためにここに居る。
自然と人をひとつに焼き付けるためここに居る。
悲痛を押し殺し、強い意志でシャッターを押した。
そして未だ地を向く国都とは反対に、俺は天を仰いだ。
真夏の青が視界を沈める。薄く漂う雲は白波だ。俺は空の海に深く溺れ、呼吸を忘れる。
考えたこともなかった。
この空、この土、この風に。
過去永劫、一体どれだけの人の想いが溶けているのか。
不惑に視線を地に還せば、国都もまた涙に濡れた顔を上げていた。
俺たちは、戻ることのない時を追うことは出来ない。同じ地平を見据え、前に進むことしか出来ない。
たとえ、どれだけ悲しいことがあっても。どれだけ悔しいことがあっても。
万雷の拍手は止まない。際限のない労いの中、選手たちはもう一度礼をするとベンチへと引き返していく。俺はそれを見届けると、席を立ち始めた人達に紛れ、神宮球場を後にした。
行き先は、国都との約束の場所だ。
帝徳高校の土を踏んだ俺は、昇降口を通り、階段を上り、俺たちの教室を目指していく。
太陽が地平に伏していく。去り際の残照が、校舎内を名残の朱に燃やす。どろりと重い色彩は、まるで溶鉱炉に溶けた鉄色だ。俺は燃え盛る廊下に心を焼かれながらも、約束の場所へと渡り切る。
どこかから、部活動に勤しむ生徒の声が聞こえる。それは日常の歯車が回る音だ。彼らは野球部の敗北など知る由もなく、彼ら自身の現実を今日も懸命に生きている。
遠い残響に想いを馳せながら、俺は教室の前で足を止める。誰もいない空っぽな箱の前に立てば、何枚もの写真がスクロールするように思い出が遡る。
春。二年になって国都と初めて話したこと。
冬。ひとりきりの高校生活を覚悟した一年の終わり。
秋。空いた時間を写真で埋め、孤独をやり過ごしたこと。
夏。写真部から遠ざかり、逃避からコンクール用の写真に没頭したこと。
ーーそしてまた春。帝徳高校に希望を抱き、入学した一年の始まり。
幻燈めいた記憶はまるで走馬燈だ。死に及んだ季節を追いかけ、帝徳での日々は巡る。
追憶の幕を下ろした俺は、静かに教室への扉を開いた。そして、初めて二年の教室に足を踏み入れた時の気持ちを思い出しながら、窓際の後ろから二番目の席に座った。ここは初めて俺が座った席だ。あの日、このひとつ前には、国都がいた。
『初めまして。国都英一郎です。今日から同じクラスで席も前後だね』
クラス替えに浮かれる喧騒の中、気配を消しながら窓の外を見ていた俺に、国都は話しかけてきた。
『キミの名前を聞いていいかい?』
引いていた不干渉のラインに踏み込まれ、名前を尋ねられた。その無遠慮さに驚き怯んだが、邪気も衒いもない明朗さが感じられて、俺は自ら名を明かした。
『……眞城、史哉です。よろしく』
『眞城くんか。これから一年よろしく』
たったそれだけの会話だった。それから僅かばかりの交流はあったが、あの時の俺に『国都を撮影したいと思うようになる』なんて言っても、絶対信じはしないだろう。
国都英一郎という男は、『特別』な男だ。
眞城史哉という、一人の人間にとって。
俺は窓の外を眺めながら、ずっと国都のことを考えていた。
来たら何を言えばいいのだろうか。どうすれば励ますことが出来るだろうか。ぐるぐると回る頭の中で、かける言葉をシミュレートしていく。
笑ってお疲れ様から始めよう、みんなカッコよかったと言おう。そして、俺の写真を見てもらおう。
準備は万全だった。だけどふいに号泣する国都を思い出し、本当にここに来るのだろうかと不安が過った。
敗戦が、どれだけ国都の心に影を落としたのかはわからない。あれだけ慕っていた先輩たちとの最後の試合になってしまったんだ。深く気落ちしていたとしても、ちっとも不思議じゃない。
茜が、徐々に薄れていく。だけど俺はひとり、国都をずっと待ち続けた。
国都は、約束を破るようなヤツじゃない。短くも濃密な時に知った国都英一郎という男を、俺は心から信じていた。
そして、時は来た。
一等星が空に輝き出した宵の始まりに、国都は俺の元へと現れた。
「……国都」
「随分待たせちゃったね」
声色は想像していたよりも落ち着いていて、俺は密かに安堵の息を落とした。少しは気持ちに整理をつけられたのだろうか。軽挙に思い込みながら、俺は席を立ち国都の側まで迎えにいく。
長身を見上げ、顔を覗く。目元は赤くなっていたが、いつもの柔らかい瞳が俺を見つめていた。
「ごめん」
「いや、俺が待ってるって言い出したんだし」
「そうじゃなくて」
否定して微笑う。
その儚さに、胸が締め付けられる。
「祝勝会に、出来なかった」
誠実に謝意を伝えられ、俺の頭は突然真っ白になった。
こんな時、何て言えばいいのか分からなかった。
俺は今も、今までも、国都に何もあげられてはいなくて、ただもらってばかりだった。
応援してる。
頑張って。
そんなありふれた励ましさえ、一度たりとも口にしたことはなかった。
俺は、なんて愚かなんだろう。人と向き合ってこなかった自分を棚に上げ、国都に群がる女子たちを薄っぺらだなどと見下していた俺は、彼女たちのようにたった一言の応援さえも口に出来なかったんだ。
今日まで、毎日のように一緒に居たのに。俺は何ひとつ国都の力になっていなかった。
そして今も。俺はただ立ち尽くすだけで、何も出来ずにいる。
「……った、のに」
胸が、喉が、後悔に焼ける。
「勝ちたいって、言ってたのに」
用意していた言葉など、役には立たなかった。心から励ましたくて、辛さを少しでも分かち合いたくて、だけど、何をどうすればいいのかわからなくて。
頭の回転はとうに止まり、今俺の口から滑り出ているのはただの俺の感情だ。場にそぐわない想いは、しかし抑えることが出来ない。
「あんなに、こくとが、がんばったのに」
誰のものかわからない涙が、悔しさが、堰を切って零れる。
俺は馬鹿だ。泣いていいのは俺じゃないのに、一番泣きたいはずの本人の前でしゃくり上げてるなんて、本当にどうしようもない馬鹿だ。
だけど涙は止まらない。止まるどころか、涙腺が壊れてしまったのかと思うほどに溢れ出る。
「……眞城くん」
国都の声が、驚きに振れる。無様に泣く姿を見せているのが申し訳なくて、俺は慌てて取り繕おうとする。
「ごめ、こんなつもりじゃなくて。ほんとに、ごめん」
震える声で言い訳をする。
ぐちゃぐちゃに乱れた感情に振り回されながら、俺は顔を隠して必死に涙を拭った。だが、擦っても擦っても頬は乾かない。両手は涙にずぶ濡れていくばかりだ。
「謝らないでいいよ」
そんな時、俺の頭上から優しい声が降った。ふと気配を感じ、涙でグシャグシャの顔を上げれば、俺のすぐ傍には国都が居た。
交わった視線に、熱のこもった情愛が走る。近づいた分だけ見上げる角度を上げれば、俺の肩に国都の手が触れ、軽く引き寄せられた。
縮まる距離。あまりの近さに、俺は何も隠せなくなる。
「僕のために、泣いてくれてるんだろう」
「ちがッ……こんなの、こくとのためになんて、なんにもなってない……ッ!」
必死で否定する俺を国都は慈しみ、どこまでも優しく見つめる。知らない温かさに心が震える。その温かさの意味を、俺は知らない。
ーー俺の言葉ひとつ、涙ひとつ。そんなものは、国都の支えになんてならないのに。
自己嫌悪と羞恥に顔を伏せてしまおうと思った。だけど、それは叶わなかった。
国都の額がーー俺の額に、合わさったせいで。
「ありがとう」
感謝の言葉と共に熱が触れ、俺と国都は互いの距離を失くした。
額と額が、身体と身体が触れる。触れた箇所全てから互いの体温が行き交い、どちらともわからない心臓の強振を感じる。
「ありがとう眞城くん。……本当に、ありがとう」
目の前の国都の顔の近さに、俺の心臓が大きく跳ねた。唇が触れてしまうんじゃないかと思うほどの近距離に、国都の存在感の強さを嫌でも意識してしまう。
「キミが泣いてくれて、傍に居てくれて、僕は嬉しいよ」
吐息が唇に触れる。国都の誠直な声が、俺の身体に響いてく。
国都が俺に感謝をしている。何もあげられなかったはずの俺に。
「国、都」
いつの間にか止まっていた涙を滲ませながら、俺は数センチ先の国都の瞳を見つめ返す。一等星よりも遥か強い輝きは、満天の星を凝縮した漆黒の夜空だ。
その神秘的なまでの美しさに、心のレンズは捉われる。
「……もう少しだけ」
小さく呟いた国都が、俺の背に手を回した。汗ばんだ感触を厭うこともなく、灼熱の手は俺のシャツを握り締め、静かに力を込める。
「もう少しだけ、このままでいてもいいかな」
熱願に、俺は力なく頷く。
国都が静かに瞼を閉じた。それは、敬虔な祈りのようだ。計り知れない国都の心境は今、何を想っているのだろう。
時は緩び、悠々と流れる。
俺たちは身を重ねたまま、ただ静かに時を見送った。
ひとつに重なった影が、闇に沈んで形を失くすまで。
国都の心が平穏に凪ぐ、その時まで。
ずっと、ふたりで。
準決勝の舞台は言わずと知れた神宮球場だ。決戦に整った戦場では、一般生徒より早出した吹奏楽部やチア、スタンドの部員たちが気合の入った応援をしていた。
客席は、両校を応援する生徒や親族、ファンなどで埋め尽くされている。さすがに準決勝ともなると、三回戦までとは賑わいも雰囲気も桁違いだ。おそらく、相手が去年善戦した小手指だというのもあるのだろう。
俺は圧倒的な人の密度に居心地を失くし、距離を取るため上段に登った。高所から一望したフィールドは青々とした芝と赤茶けた砂に光り、天の青から地の緑と茶へ、不干渉な色調のグラデーションを作り上げている。
ーー球場って、こんなに綺麗なんだな。
容赦のない日差しと高い彩度に眩み、俺は庇代わりに片手をかざす。額に滲んだ汗が、触れた指先を濡らす。
今日は一段と気温が高い。身体中から汗を搾り取られているようだ。俺は日陰に逃げ込むと、バッグに携帯した水を取り出し喉を潤した。油断するとすぐに熱中症になりそうだ。撮影に気を取られすぎないよう気をつけなければ。
呑気に体調を警戒していると、試合開始を告げるサイレンが高らかに鳴り響いた。
両校の選手がグラウンドへと駆け出してくる。審判を前に整列した選手たちが、「お願いしますッ!!」と深く礼をしあう。
試合は始まった。
けれど、野球のことは相変わらず何も分からなかった。
ただ帝徳も相手の小手指も、選手全員が必死で白球を追い、勝利をもぎ取るため命を懸けていることだけはわかった。
俺に戦況を伝えるのは、スコアボードに示された得点と、周囲の歓声やため息だけ。
負けている。逆転した。まだ勝っている。
回が進むたび、広大な夏空の下、充溢した大気が切迫し濃度を高めていく。
息が詰まりそうだった。酸素が足りていないんじゃないかと思うほどの息苦しさに、俺は必死で浅い呼吸を繰り返す。
大丈夫だ。絶対に、大丈夫だ。
勝利を信じ、カメラを覗く。望遠のレンズ越しにはエースとしてマウンドに現れた飛高先輩の勇敢な表情が燃えている。打たれた陽ノ本先輩に代わって出てきた飛高先輩は、陽ノ本先輩の悔しさを受け取り、チーム全てを背負うために地を踏んでいる。
投球練習が数回行われ、試合は再開する。益村先輩と組んだ飛高先輩は、キャッチャーミットを信じ足を上げる。
陽炎めいた土煙が舞った。渾身の白球を投げ込む、流れるような動作が行われる。俺はシャッターを切りながら、コマ送りになる一瞬一瞬を見つめていた。
投げられた球には、魂がこもっていた。素人の俺の目ですらわかるのだから、この場にいる全員にも伝わっているだろう。
白球の唸りが聞こえた気がした。
飛高先輩の全身全霊を打てるはずがない。
そう確信した次の瞬間ーー矢のような打球が、バックスタンドに突き刺さった。
小手指の四番の、ホームランだった。
新たな得点がスコアボードに刻まれる。
優劣がひっくり返る。
心臓がーー悲鳴を上げる。
俺のすぐ近くの帝徳側スタンドから絶叫が上がった。選手の父母や親族だろう一団は思いもよらなかった惨状に打ちのめされ、あちこちで苦悶に呻いていた。中には、すでに涙さえ浮かべている人もいる。
だが、試合はまだ終わっていない。
悔しくてたまらないはずの飛高先輩が、チームに大きく声をかけた。グラウンドで戦う選手も、スタンドで応援する選手たちも、部員は誰一人として勝利を諦めていない。
チャンスはあと一回。打順は、四番の国都からだ。
俺は打席に入る国都の姿を、固唾を飲んで見守った。雄叫びに荒ぶ嵐の中、数多の声援を受けた国都は、彩りを殺す漆黒のバットを構える。
俺は高鳴る鼓動に圧され、ファインダーを覗いた。
そして、見つけてしまった。
国都の表情。それは四番としての役儀に殉ずる顔ではなく、国都英一郎という人間の悟りの境地だった。
まるで全てから解放されたような。
自由を謳歌するような。
まだ終わっていないはずの試合がーー終わっているような。
味方も帝徳側のスタンド全員も、最後の最後まで勝利を信じて国都を応援している。だけど多分、今のあいつにそれは届いていない。
レンズは真実を写す。投げ込まれた白球に全力でバットを振る国都に、勝ちへの執念はない。目の前の野球とあるがままに向き合う姿。それはまるで、無邪気に野球という遊びを楽しんでいるようだった。
俺は、静かにシャッターを切った。
ピ、と電子音がして、シャッターが開ける。
その瞬間、国都は晴々と、三振に打ち取られていた。
「……勝手なヤツ」
落胆に沈む客席の中、俺は小さく笑ってしまった。試合の行方が気にならないわけじゃない。だけど、あまりにも国都が国都らしかったから。
続く選手が打ち取られていく。
ひとり、ふたり。そして。
ゲームセットは告げられた。
審判が整列を指示する。両校の選手達が並び、深々と礼をする。動きを止めたスコアボードが勝敗を示す。
四対六。
この瞬間ーー帝徳高校野球部の敗退が決まった。
俺は現実感が湧かないまま、呆然とスコアボードを眺めていた。白く刻まれた数字の配列に、国都の言葉がぽつぽつと浮かんでいく。
『僕は、先輩たちと一日でも多く野球がしたいんだ。そのためには勝たなきゃいけない。勝って勝って、勝ち進んで、最高の勝利を先輩たちに贈りたいんだ』
『絶対に勝つよ。だから、見ていて欲しい』
あの日の笑顔と、目の前の結果は重ならない。
無情な時間は流れる。俺の周りからは、たくさんの慟哭が空に猛り続けていた。
悲しみ、苦しみ、悔しさ。
スタンドの部員や家族、観客の全員が一帯となり悲哀に暮れるも、健闘した選手たちへの賞賛は止まなかった。
涙を流す。
拍手をする。
声を枯らして叫ぶ。
讃える。
肩を抱き合い、慰め合う。
そうして人々が現実を味わっている間に選手が走り寄り、俺たち観客に向け列を成した。乱れのない並びを形成し、全員がスタンドに向けて顔を上げ、帽子を取り深々と頭を下げる。
「応援、ありがとうございましたッ!!」
帝徳の誇りと規律が、選手の腹の底から発される。彼らの高邁な在り方は、この上なく偉観だった。岩崎監督の誇りに値千金する姿は、敗者とは思えないほどに英雄めいていた。
スタンドから、三年の選手へ感謝と労いが贈られる。
チームの柱として支え続けたエースの飛高先輩へ。
もうひとつの柱として、同じくチームを照らし続けた陽ノ本先輩へ。
投手を共に支えた益村先輩へ。
投手の背を守り、帝徳の戦陣を担った小里先輩、千石さん、久我先輩へ。
いくつもの感謝が、止まない雨のように降り注いでいた。
声援を受けた選手たちはいつの間にか顔を上げ、涙を流しながらも前を向いていた。
そんな中で、ただひとり、ずっと顔を上げられずにいた選手がいた。
それは、国都だった。
飛高先輩が身を寄せ、肩を抱く。そうしてようやく上げた顔にはーーとめどない、涙が流れていた。
「こく、と」
国都の涙に奪われる。
瞳も、感情も、何もかも。
鼓動が、サイレンのように鳴り響いた。
俺は、国都英一郎に、敗北はないのだと思っていた。
重圧、悲愴、哀情。内なる葛藤や重積は笑顔の裏に隠しながら、それでも彼は背負い切って前に進むのだと思っていた。
だけど、やっぱりそれは勝手な幻想で。
目の前で涙する国都は、本当に、ただの等身大の十七歳なんだと。
そう気づいた時に俺はーー理由のわからない大粒の涙を浮かべていた。
残酷な青空の下、国都の拭われない涙がグラウンドの土に落ち、吸い込まれていく。
国都の、野球部全員の、観ている人達全ての想いが、この自然の営みに飲まれていく。
泣いている国都の姿に、俺はようやく敗北を知った。途端に人の心傷が感染し、俺は無数に傷つく胸を掻きむしる。
現実に息の根を止められる。
心臓が痛い。血の巡りが苦しい。
なのに俺は、この光景を、風景を、一生忘れたくないと思った。
分け隔てられた喜びと悲しみ、両極の多種感情がこの場所には渦巻いていて、遥かに伸びた空がそれら全てを内包している。
それは、自然と人の融合だ。俺が愛する世界の、ひとつの景色だ。
俺は写真を撮るためにここに居る。
自然と人をひとつに焼き付けるためここに居る。
悲痛を押し殺し、強い意志でシャッターを押した。
そして未だ地を向く国都とは反対に、俺は天を仰いだ。
真夏の青が視界を沈める。薄く漂う雲は白波だ。俺は空の海に深く溺れ、呼吸を忘れる。
考えたこともなかった。
この空、この土、この風に。
過去永劫、一体どれだけの人の想いが溶けているのか。
不惑に視線を地に還せば、国都もまた涙に濡れた顔を上げていた。
俺たちは、戻ることのない時を追うことは出来ない。同じ地平を見据え、前に進むことしか出来ない。
たとえ、どれだけ悲しいことがあっても。どれだけ悔しいことがあっても。
万雷の拍手は止まない。際限のない労いの中、選手たちはもう一度礼をするとベンチへと引き返していく。俺はそれを見届けると、席を立ち始めた人達に紛れ、神宮球場を後にした。
行き先は、国都との約束の場所だ。
帝徳高校の土を踏んだ俺は、昇降口を通り、階段を上り、俺たちの教室を目指していく。
太陽が地平に伏していく。去り際の残照が、校舎内を名残の朱に燃やす。どろりと重い色彩は、まるで溶鉱炉に溶けた鉄色だ。俺は燃え盛る廊下に心を焼かれながらも、約束の場所へと渡り切る。
どこかから、部活動に勤しむ生徒の声が聞こえる。それは日常の歯車が回る音だ。彼らは野球部の敗北など知る由もなく、彼ら自身の現実を今日も懸命に生きている。
遠い残響に想いを馳せながら、俺は教室の前で足を止める。誰もいない空っぽな箱の前に立てば、何枚もの写真がスクロールするように思い出が遡る。
春。二年になって国都と初めて話したこと。
冬。ひとりきりの高校生活を覚悟した一年の終わり。
秋。空いた時間を写真で埋め、孤独をやり過ごしたこと。
夏。写真部から遠ざかり、逃避からコンクール用の写真に没頭したこと。
ーーそしてまた春。帝徳高校に希望を抱き、入学した一年の始まり。
幻燈めいた記憶はまるで走馬燈だ。死に及んだ季節を追いかけ、帝徳での日々は巡る。
追憶の幕を下ろした俺は、静かに教室への扉を開いた。そして、初めて二年の教室に足を踏み入れた時の気持ちを思い出しながら、窓際の後ろから二番目の席に座った。ここは初めて俺が座った席だ。あの日、このひとつ前には、国都がいた。
『初めまして。国都英一郎です。今日から同じクラスで席も前後だね』
クラス替えに浮かれる喧騒の中、気配を消しながら窓の外を見ていた俺に、国都は話しかけてきた。
『キミの名前を聞いていいかい?』
引いていた不干渉のラインに踏み込まれ、名前を尋ねられた。その無遠慮さに驚き怯んだが、邪気も衒いもない明朗さが感じられて、俺は自ら名を明かした。
『……眞城、史哉です。よろしく』
『眞城くんか。これから一年よろしく』
たったそれだけの会話だった。それから僅かばかりの交流はあったが、あの時の俺に『国都を撮影したいと思うようになる』なんて言っても、絶対信じはしないだろう。
国都英一郎という男は、『特別』な男だ。
眞城史哉という、一人の人間にとって。
俺は窓の外を眺めながら、ずっと国都のことを考えていた。
来たら何を言えばいいのだろうか。どうすれば励ますことが出来るだろうか。ぐるぐると回る頭の中で、かける言葉をシミュレートしていく。
笑ってお疲れ様から始めよう、みんなカッコよかったと言おう。そして、俺の写真を見てもらおう。
準備は万全だった。だけどふいに号泣する国都を思い出し、本当にここに来るのだろうかと不安が過った。
敗戦が、どれだけ国都の心に影を落としたのかはわからない。あれだけ慕っていた先輩たちとの最後の試合になってしまったんだ。深く気落ちしていたとしても、ちっとも不思議じゃない。
茜が、徐々に薄れていく。だけど俺はひとり、国都をずっと待ち続けた。
国都は、約束を破るようなヤツじゃない。短くも濃密な時に知った国都英一郎という男を、俺は心から信じていた。
そして、時は来た。
一等星が空に輝き出した宵の始まりに、国都は俺の元へと現れた。
「……国都」
「随分待たせちゃったね」
声色は想像していたよりも落ち着いていて、俺は密かに安堵の息を落とした。少しは気持ちに整理をつけられたのだろうか。軽挙に思い込みながら、俺は席を立ち国都の側まで迎えにいく。
長身を見上げ、顔を覗く。目元は赤くなっていたが、いつもの柔らかい瞳が俺を見つめていた。
「ごめん」
「いや、俺が待ってるって言い出したんだし」
「そうじゃなくて」
否定して微笑う。
その儚さに、胸が締め付けられる。
「祝勝会に、出来なかった」
誠実に謝意を伝えられ、俺の頭は突然真っ白になった。
こんな時、何て言えばいいのか分からなかった。
俺は今も、今までも、国都に何もあげられてはいなくて、ただもらってばかりだった。
応援してる。
頑張って。
そんなありふれた励ましさえ、一度たりとも口にしたことはなかった。
俺は、なんて愚かなんだろう。人と向き合ってこなかった自分を棚に上げ、国都に群がる女子たちを薄っぺらだなどと見下していた俺は、彼女たちのようにたった一言の応援さえも口に出来なかったんだ。
今日まで、毎日のように一緒に居たのに。俺は何ひとつ国都の力になっていなかった。
そして今も。俺はただ立ち尽くすだけで、何も出来ずにいる。
「……った、のに」
胸が、喉が、後悔に焼ける。
「勝ちたいって、言ってたのに」
用意していた言葉など、役には立たなかった。心から励ましたくて、辛さを少しでも分かち合いたくて、だけど、何をどうすればいいのかわからなくて。
頭の回転はとうに止まり、今俺の口から滑り出ているのはただの俺の感情だ。場にそぐわない想いは、しかし抑えることが出来ない。
「あんなに、こくとが、がんばったのに」
誰のものかわからない涙が、悔しさが、堰を切って零れる。
俺は馬鹿だ。泣いていいのは俺じゃないのに、一番泣きたいはずの本人の前でしゃくり上げてるなんて、本当にどうしようもない馬鹿だ。
だけど涙は止まらない。止まるどころか、涙腺が壊れてしまったのかと思うほどに溢れ出る。
「……眞城くん」
国都の声が、驚きに振れる。無様に泣く姿を見せているのが申し訳なくて、俺は慌てて取り繕おうとする。
「ごめ、こんなつもりじゃなくて。ほんとに、ごめん」
震える声で言い訳をする。
ぐちゃぐちゃに乱れた感情に振り回されながら、俺は顔を隠して必死に涙を拭った。だが、擦っても擦っても頬は乾かない。両手は涙にずぶ濡れていくばかりだ。
「謝らないでいいよ」
そんな時、俺の頭上から優しい声が降った。ふと気配を感じ、涙でグシャグシャの顔を上げれば、俺のすぐ傍には国都が居た。
交わった視線に、熱のこもった情愛が走る。近づいた分だけ見上げる角度を上げれば、俺の肩に国都の手が触れ、軽く引き寄せられた。
縮まる距離。あまりの近さに、俺は何も隠せなくなる。
「僕のために、泣いてくれてるんだろう」
「ちがッ……こんなの、こくとのためになんて、なんにもなってない……ッ!」
必死で否定する俺を国都は慈しみ、どこまでも優しく見つめる。知らない温かさに心が震える。その温かさの意味を、俺は知らない。
ーー俺の言葉ひとつ、涙ひとつ。そんなものは、国都の支えになんてならないのに。
自己嫌悪と羞恥に顔を伏せてしまおうと思った。だけど、それは叶わなかった。
国都の額がーー俺の額に、合わさったせいで。
「ありがとう」
感謝の言葉と共に熱が触れ、俺と国都は互いの距離を失くした。
額と額が、身体と身体が触れる。触れた箇所全てから互いの体温が行き交い、どちらともわからない心臓の強振を感じる。
「ありがとう眞城くん。……本当に、ありがとう」
目の前の国都の顔の近さに、俺の心臓が大きく跳ねた。唇が触れてしまうんじゃないかと思うほどの近距離に、国都の存在感の強さを嫌でも意識してしまう。
「キミが泣いてくれて、傍に居てくれて、僕は嬉しいよ」
吐息が唇に触れる。国都の誠直な声が、俺の身体に響いてく。
国都が俺に感謝をしている。何もあげられなかったはずの俺に。
「国、都」
いつの間にか止まっていた涙を滲ませながら、俺は数センチ先の国都の瞳を見つめ返す。一等星よりも遥か強い輝きは、満天の星を凝縮した漆黒の夜空だ。
その神秘的なまでの美しさに、心のレンズは捉われる。
「……もう少しだけ」
小さく呟いた国都が、俺の背に手を回した。汗ばんだ感触を厭うこともなく、灼熱の手は俺のシャツを握り締め、静かに力を込める。
「もう少しだけ、このままでいてもいいかな」
熱願に、俺は力なく頷く。
国都が静かに瞼を閉じた。それは、敬虔な祈りのようだ。計り知れない国都の心境は今、何を想っているのだろう。
時は緩び、悠々と流れる。
俺たちは身を重ねたまま、ただ静かに時を見送った。
ひとつに重なった影が、闇に沈んで形を失くすまで。
国都の心が平穏に凪ぐ、その時まで。
ずっと、ふたりで。