美しき世界に愛を込めて

 夢中な日々は瞬く間に過ぎていく。

 七月になり、本格的に夏が訪れた頃、俺は撮影を終え作品作りに着手していた。
 公式戦である地方大会が始まるのは十日後だ。大事な試合の前に邪魔をしたくなかった俺は、早めに撮影を終えると、野球部の代わりに写真部へと通うことにした。
 人の居る写真部の部室に入るのはいつ振りだろう。緊張感を持って扉を開けば、前触れもなく現れた俺に一部の部員の冷ややかさが刺さった。だが、友永部長はそれを見越して他の部員に根回ししていたのだろう。数少ない他の部員が俺を迎えてくれたおかげで、俺は部に居場所を確保することが出来た。
「眞城、おかえり」
 友永部長が俺の帰りを労う。先輩の優しさになんとはない照れくささを覚えながらも、俺は輪の中に混ざり着席する。
「ただいま……って言うのも、なんか変な感じですね」
「いいじゃん、ただいまで。それよりさ、提出してくれたアイデアノートだけど、本当にアレをひとりで作るのか?」
「はい。まだ九月の文化祭まで時間はあるので、十分間に合います」
「でもアレ、作るのめちゃくちゃ大変だろ。もし人手が必要ならオレが手伝うけど」
 友永部長が助けの手を差し伸べてくれる。が、俺はそれにゆるく首を横振りする。
「気持ちは嬉しいんですけど、ひとりでやり遂げたいんです。これは、俺がどうしてもやりたいことなので」
「……そっか、わかった。ただし、提出期限は絶対だぞ」
「はい。俺の展示はスペース取ると思いますが、よろしくお願いします」
「そこら辺はオレがレイアウトしとくから気にすんな。好きなように作ってくれよ」
 期待に肩を叩かれ、張り切った俺はノートパソコンへと向かい作品作りを始める。
 カメラのデータは、六千枚をゆうに超えている。短期間に集中して撮った写真は、事前に想定していた通り人を写したものから景色を写したものまで様々だ。
 俺は膨大な写真を整理していく。そして写ったものを区分けし、選別し、配置を考える。初めての試みなだけにイマイチ要領が掴めないが、参考資料を片手に何とか制作を進める。
 文化祭までは二ヶ月を切ったところだ。出来れば早めに完成させたいので、今から着手しておくに越したことはない。余裕を持っておけば、トラブルがあっても当日までに対処出来るだろう。備えは万全にだ。
 綿密に計画を立て、作業に集中する。人がいる空間で気が散るかと思えば、写真を目の前にすれば何もかも忘れて没頭してしまう。

 世界が遠ざかり、写真しか見えなくなる。遠くなった感覚が、微かな会話だけをうっすらと捉える。

「部長。眞城先輩って幽霊部員だった方ですよね」
「ああ。去年の夏からだから、一年は会ったことないよな」
「この前の文化祭の会議で初めて見かけました。……すごい集中力ですね」
「だろ?アイツはさ、カメラに取り憑かれてるから」
「眞城先輩のポートフォリオ見たので、何となくわかります。でも、ポートフォリオには風景写真しかなかったですよね」
「眞城はずっと人物写真撮らなかったからな」
「野球部の写真をあんなに撮ってて?」
「そう、あんなに撮ってて。価値観変わる出逢いってのは凄いよな」
「……眞城先輩、どんな作品作るんですか?」
「それは出来てのお楽しみ。でも、あれだけ真剣に打ち込んでるんだ。大作になることは間違いなしだな」
「……そうですね」

 部長と名も知らぬ後輩が、俺のことを話している。かろうじてそれだけは認識出来たが、集中力の高まりが過ぎて、ほとんどが無意味な音の羅列にしか聞こえなかった。
 不思議と、人の言葉が気にならなかった。俺は俺のやりたいことをやる。国都やみんなの期待に応えるため、他を気にしている余裕はない。

 かつてないエネルギーが、激流のように身の内を巡り続けていた。時間の概念すら忘れた俺は、みんなが帰宅したことにすら気づかないほど深く熱中していたようだ。空腹を訴えるお腹に我を取り戻せば、周りはもう誰もいない。外ももう真っ暗だ。
 机の片隅にはいつの間にか部室の鍵と、「鍵よろしく」とだけ書かれた部長のメモが残っている。部室の掛け時計の針が指すのは二十時。お腹が空くのも当然だ。
 固まった身体を伸ばし、席を立つ。カーテンの引かれていない窓からは宵色の空が見えて、俺は夜の静けさに吸い寄せられた。
 眼下には、野球部のグラウンドが見える。ちょうど野球部も練習を終える頃で、最後の集合をしている様子が目に入った。
 半月ほど通った野球部に行かなくなって早数日。国都とクラスメイトの部員とは教室で会うが、陽ノ本先輩たちやそれ以外の部員とは滅多に顔を合わさなくなってしまった。
 部員たちはみんな、好意的に俺を受け入れてくれた。以前約束した通り陽ノ本先輩に写真を送って、欲しいと言ってくれた部員に俺の写真が渡り感謝されたこともあった。特に乗富は出来に大喜びし、佐賀の両親にも送ったと満面の笑顔で報告してくれたほどだった。
 体力的には大変な毎日だった。けれど、楽しくもやり甲斐があった日々が懐かしくなる。
 ふいに感傷に浸され、俺は帰り支度を整えると部室の鍵を閉め、そのまま野球部のグラウンドへと足を向けた。
 暗い校内からグラウンドへ出れば、一際眩しいナイター照明が太陽代わりに辺りを照らしている。白色に輝く明るいグラウンドでは、練習終わりの疲れを浮かべながらも、部員たちは決して手を抜くことなく整備に力を入れている。
 通い詰めていた間、毎日のように見かけた光景だ。今では不思議と、安心感が芽生える。
 俺はしばらくの間、遠くから野球部の様子を眺めていた。声を掛けるには時間が遅すぎるし、彼らはもう終わる頃だ。見るに留めた俺は、彼らが引き上げるのを見届けてから帰ろうと思っていた。
 グラウンドの外れにひとり佇む俺に、誰も気づきはしない。
 ーーはずだったのに。
「……眞城くん?眞城くんだよね」
 国都は、当たり前のように俺を見つける。光も届かない薄闇に立つ影を、俺だと見分ける。そして、影の暗ささえ灯す笑みで、側へと歩み来る。
「まさかキミがここに居るとは思わなかったよ。どうしたんだい、こんな時間に」
「写真部で作品作りしてたら遅くなったんだ。窓から野球部が見えたから、ちょっと寄ってみようかなと思って」
「そうかーー写真部に、復帰したんだね」
「……うん。とりあえず、文化祭が終わるまでは。友永部長も俺に気遣ってくれてて」
「それは良かった」
 分け与えられたかのように喜びを示す。想像以上に俺を気にかけてくれていたのだろうか。どうしてそこまで、と思うほどに国都は嬉しそうだった。
「キミとここで会うの、久しぶりだね」
「久しぶりって、俺が来なくなって数日しか経ってないだろ」
「そうなんだけど、キミがここに居ることに慣れてしまってたから。だからキミが居ないと……つい探してしまうんだよ」
 ぽつりと。宵闇に混ぜた小さな寂しさが、夜風に攫われる。
「キミが野球部に来なくなってから、なんだかずっと会っていない気がして」
「教室で毎日一緒だろ。それに、昼だって結構一緒に食べてるし」
「うん、それでも。変だよね」
 面映く崩れた頬に、まだ引いていない一筋の汗が滴り落ちる。それを雑に袖で拭う国都の姿は、なんだか男らしいなとぼんやり思う。
「もうすぐ大会が始まるけど、眞城くんは全校応援になったら球場に来てくれるのかい」
「去年は休んでたけど今年は行くよ。写真部は毎年新聞部と組んで校内新聞用の写真を撮るんだけど、今年は俺がやることになったから、多分みんなの写真撮ってる」
「そうか、それは楽しみだな。以前キミが練習試合で撮った写真も素晴らしかったから、公式戦の写真も期待してるよ」
「だいぶ鍛えたからな。みんなが活躍する良い写真、きっと撮ってみせるよ」
 半月の間に培われた自信が自然と口をつき、笑顔に変わる。とはいえ、軽い調子で表に出せるのは国都の前だからだ。他の人相手なら、やっぱり俺は恐縮してしまう。
「眞城くんが写真を撮ってくれるなら、いつも以上に頑張らないとな」
 俺の意欲を受け、国都も負けじと奮起する。
 大きな手を胸に当て、神聖に双眸を瞬かせ、国都は俺に誓う。
「絶対に勝つよ。だから、見ていて欲しい」
 大仰な身振りや台詞は、まるで壮大な告白だ。国都に惚れた女子なら、今の一撃で卒倒していただろう。
 キザにすら思える立ち居振る舞いも、国都にかかれば驚くほど絵になるのが凄いところだ。そんな言動を、単なる友人相手にしているのが的外れではあるが。
「見てるよ。国都のことも、みんなのことも。カメラに撮りながらになるけど」
 気軽に返せば、国都が少しだけ拍子抜けしたように見える。
「みんな、か。そうだよね。眞城くんは野球部みんなと親しくなったしね」
「親しいとまで言っていいのかわかんないけど、みんなの頑張りが報われてほしいなって思ってるよ」
「……ありがとう。眞城くんの気持ちが嬉しいよ」
 ふいに、生ぬるい一陣の風が走り抜ける。その風に運ばれ、国都へ帰寮を求める呼び声が聞こえた。
「呼ばれてるな」
「もうこんな時間か」
 立ち話に興じて結構な時間が経っていたみたいだ。俺も忘れていた空腹を思い出し、俺たちは会話に区切りをつける。
「また明日だな」
「うん、また明日。気をつけて帰ってね」
「国都もな。って、寮はすぐそこだろうけど」
「そうだね。でもありがとう。気をつけて帰るよ」
「じゃあな」
「それじゃあ」
 互いに背を向け、帰路につく。数歩歩いたところでふと視線を感じて振り返ると、国都が足を止めて俺をじっと見送っていた。
 白色のライトに輝く国都に、俺は影から微笑みかける。
「どうかしたか?」
「いや。ただ、キミを見送りたいなと思っただけだよ」
「そっか。じゃあ俺も国都を見送ろうかな」
「お互いそうしたら、僕たちいつまでも帰れないじゃないか」
「それもそうだな」
 間の抜けた会話に笑い声を交わし合い、俺はもう一度背を向ける。
 背中にはまだ国都の気配がある。俺が帰らないと、ここにずっと残っていそうだ。俺は国都のためにも、名残惜しみながら今度こそ帰路につく。

 ーーまた明日。
 国都のくれた約束と、明日の再会を夢見て。
1/5ページ
スキ