キャッチライト
放課後。国都への決意表明を終えた俺は次の報告をするため、終業のチャイムと共にクラブハウスへとやってきた。
『監督室』と書かれた部屋は、野球部員ではない俺にとって職員室よりも敷居が高い。こうして野球部に関わることがなければ、おそらく一度も訪れないまま卒業していただろう。
だが躊躇している場合じゃない。俺は覚悟を決め、静かに扉をノックする。
「写真部の眞城と申します。岩崎監督にお話しがあって来ました」
用件を伝えれば、すぐに中から返事が聞こえた。
「開いているよ」
年嵩を感じさせる、渋く落ち着いた声だった。俺は緊張に走る胸を一度だけ叩くと、失礼しますと声を掛け扉を開いた。
「よく来たね。こちらへどうぞ」
開いた扉から俺を出迎えたのは、正面の窓から差し込むいっぱいの陽光と、白髪の紳士然とした男性だ。名将と名高い老将ーー岩崎監督は、好々爺とした微笑みを浮かべ俺を手招きする。
監督とこうして直接話すのは初めてだ。しかし、勝手に抱いていた厳しい印象は微塵もない。むしろ温和で知的で話しやすそうだ。
俺は深く礼をし、室内に足を踏み入れた。過去の実績からして、トロフィーや優勝旗などが所狭しと飾られているのかと思いきや、内側は質実としたシンプルな部屋だった。清廉潔白に整えられた空間は、過去の実績に取り縋る気配がない。それは、部屋の主である岩崎監督の信条なのだろうか。
「写真部二年の、眞城史哉といいます。この度はご挨拶が遅れてすみません」
「堅苦しい挨拶はいらないよ、眞城くん。まぁまずは座って」
「はい。失礼します」
部屋の隅に置かれたソファへと促され、俺は断りを入れ着席する。監督はそれを見計らってから向かい側に腰を下ろし、悠然と構える。
「君のことは国都から聞いているよ。文化祭のために野球部での国都を撮ると聞いていたが、その後良い写真は撮れたかな」
「……そのことなんですが、岩崎監督に改めてお願いがあって来ました」
大きく息を吸い、そして、しっかりと監督を見据える。
「俺ーー、いや、僕に。帝徳高校野球部の写真を、文化祭のテーマとして撮らせてもらえないでしょうか」
前のめりに崩れた一人称を直し、切実に要望を告げれば、監督はゆったりとした間をもって受け入れる。
「国都ではなく、野球部全体ということかな?」
「はい」
「理由を聞いても?」
直実に聞き返され、またひとつ大きな呼吸をする。俺は国都へと伝えた時を思い出しながら、自分の想いを述べていく。
「……僕は初め、文化祭用の帝徳高校というテーマに、たまたま見つけた国都を撮りたいと思ってお願いしました」
緩やかに語り出せば、監督が腰を据えた。スタートラインを切った俺は、重々に言葉を選びながらゴールを目指す。
「今もそうですが、恥ずかしながら野球部のことには無知でした。それどころか僕はずっと、自分が今居る帝徳高校というものにすら興味を持てていませんでした」
自戒を晒せば、さながら告解をしている気分になる。そう思わせるのはきっと、岩崎監督の厳粛な雰囲気故だろう。
「写真を撮る許可を頂いてから、国都を通して多くの野球部の方々と知り合いました。毎日大変な練習をしていることも、皆が必死で部を担い高みを目指していることも知りました。……レギュラーとして選ばれた人も、選ばれなかった人も、その全てを支える人も。名門と呼ばれる帝徳高校野球部には、数え切れないほどの人の想いがあることを知りました」
神父然とした監督を前に、洗礼でも受けるかの如く。俺は敬重に傅き、祈りを込めた手を胸に充てる。
「僕は、その全てを撮りたいと思いました。この場所で日々積み重ねられていく、目に見えないたくさんの努力や想いを、僕の写真に写したいと思ったんです。そして、僕はそれを、文化祭という場でみんなに伝えたいんです」
意志は、表に出せば出すほど強固になる。言の葉という鎧に芯は補強され、胸の内で勝手に膨らんでいくようだった。
監督は、俺の主張に言葉を失くしている。口を開きかけては閉じ、もう一度深い思考へと潜っていく。
長い間があった。監督はふと席を立つと、窓辺へと歩みを進め、俺に背を向けながらどこか遠くを見つめた。
「……眞城くん。君は、SNSはやっているかね?」
突然の話題転換に虚をつかれたが、俺はすぐに監督へと答える。
「いえ。僕はそういうのは一切やっていません」
「珍しいね。君たちくらいの歳ならみんなやっているだろうに」
「そうですね。でも、僕は何だか苦手で」
「……そうか」
監督が、太陽を背に振り向いた。逆光に心意を翳らせながらも、真っ向を目指す俺へと真摯に向き合う。
「君は野球部のことに無知だと言っていたが、去年の夏のことも知らないのかな」
「甲子園に出て……一回戦で大敗したとは聞いています」
「その通りだ。そして世間からはバッシングを受けた。SNSを中心にね」
監督が沈痛に両眼を閉じる。甲子園大敗から一年が経とうとしている今でも、謗りの傷は深いのだろう。眉間は蠢めき、蘇る怒りを堪えているようだった。
「根拠もない噂や憶測で帝徳や選手たちは好き勝手に誹謗中傷された。そのいくつかにはーーどこで手に入れたのか、選手たちの写真も並べられていた」
写真という単語に、胸が刺された。小さな頃から焦がれ、愛してきた俺の聖域が、帝徳を傷つけるための道具として使われた。その事実が深く喰い込み、過ぎた出来事が自分事に変わっていく。
「プレーをする姿や、インタビューを受ける姿。彼らを写した写真は罵詈雑言と並べられた時、途端に彼らの努力は踏み躙られ、嘲りの材料となった。どこの誰とも知らない多くの人間が、年若い子供たちを容赦なく攻撃する様は……腑が煮えくり返る思いだった」
監督の悲痛な思いに、俺は眉を歪ませる。
人が苦手な俺は当然、インターネット上の付き合いも忌避していた。SNSに手を出すなんてもっての外だ。やることはおろか、見ることすら避けていた。
だから知らなかった。国都が、部員のみんなが、帝徳が。無責任な烏合の言の刃に、酷く傷つけられていたなんて。
「眞城くん。私はね、帝徳高校野球部を、選手たち全員を誇りに思っている」
引き締まった老齢の頬に、力強い慈しみはいくつも刻まれている。監督に着任してから今日まで、どれだけの熱情を注いできたのかは一目瞭然だ。
「名門という厳しい環境で報われない者は大勢居る。その大勢の上に立ち、部を先頭で担う者がいる。ここでは、誰もが何かを背負い戦い続けているんだ」
情熱は、今や深い愛情だ。岩崎監督は選手たちを守る盾として、矢面に立つ将として、覚悟を万全と切り立てている。
比類なき英志は、まさに名将の名に相応しい。監督の確然とした威厳に、俺は心身を正される思いだった。
「私は、君のような若者がそれを感じ取り、写真という形で皆に伝えようとしてくれることが本当に嬉しい」
岩崎監督が、年端も行かない俺や部員たちを尊重し認める。教鞭者の厚い信頼は、まだ登熟しきっていない青い俺たちを肯定し、実りを育てていく。
俺は、側へと歩み寄る監督を敬意の眼差しで迎えた。監督は、しきりに姿勢を伸ばす俺に優しく微笑む。
「この件については、むしろ私からお願いしたい。どうか帝徳高校野球部を君の手で撮り、広く伝えて欲しい」
見えない手が伸ばされる。
「彼らが重ねたものの尊さを、少しでも多くの人に知らしめて欲しい」
ーー想いを、再び託される。
国都、先輩たち、岩崎監督。それぞれの期待や願いは増えて重なり、俺の背へとのし掛かっていく。
大役は重圧だ。苛まれた俺は、思わず弱音を口にする。
「……俺、今まで自分の好きなものだけを撮っていて、何かを伝えるために写真を撮ったことがありませんでした。だから……本当は、自信があまりないんです」
自信があるかと問われれば、俺はいつだって答えに詰まる。未だ届かないコンクールの頂点と、人に写真を見せた経験の少なさ。引け目は尾を引き、勇む足に絡んで邪魔をする。
それでも、と。
俺は、決心に顔を上げる。
「でも、約束します。俺は、俺の写真で必ず伝えてみせます。野球部のことも、監督の想いも、全部。精一杯尽くします」
覚悟があるかと問われれば、今の俺は頷くことが出来る。確固として生まれた写真への意志に、今なら殉ずることすら出来ると思う。
這い出る弱気は、燃える想いへと焚べ捨ててしまおう。隆盛を胸にした俺は席を立ち、監督へと大きく一礼する。
「部員の方々には僕からお願いをします。撮られたくないという方がいれば尊重しますし、撮った写真は事前に野球部に提出して確認していただきます。それで問題ないでしょうか」
「ありがとう。それで構わないよ。これから練習前の集合がある。そこで君から皆に伝えたまえ」
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます」
「準備が整ったらすぐに行くから、先にグラウンドで待っててもらえるかな」
「はい。今日はお時間をいただき、ありがとうございました」
「とんでもない。こちらこそよろしく頼むよ」
もう一度頭を下げ、俺は部屋を後にしようと踵を返す。
「眞城くん」
呼び止められ振り返れば、柔らかく暖かな陽の中に、岩崎監督の信頼の一笑が昇った。
「君ならきっと、素晴らしい写真が撮れるだろう。胸を張って頑張りなさい」
託した見えない手が、激励に背を押した。重荷でもあるはずの期待は、俺に不思議な力を与え、心底を突き動かす。
「……はい!」
俺は、無意識に声を張り上げた。年頃を迎えても低くならなかった声質は、俺の幼さの証であり、ずっと嫌っていたものだ。
だけど、今だけは。弱く細い自分の声に力強さが宿った今なら。
自分のことを、少しだけ好きになれるかもしれないとーーそう思えた。
夏を待ち望む青空の下、今日も帝徳高校野球部の練習は始まる。岩崎監督に機会をもらった俺は今、意を決し、一糸乱れず並ぶ大勢の部員の前へと歩み出した。
集まる注目に、動かす手足がぎくしゃくする。一対一で話すのとは違う空気感に、対人や集団への苦手意識が克服しきれない俺は、痛いほどに鳴る心音に喘ぐ。
みんなと向かい合う。無数の目が俺を見ている。伝えたいことが、喉に塞がる。
引き攣る頬が、唇が、上手く動かない。ここに来て挫ける意気地に、逃げ出したいと足が震える。だけどそんな時、正面のやや後方に国都がいることに気がついた。
縋るように見つめれば、すぐに目と目が合う。すると、優しい微笑みとともに、国都の唇がゆっくりと動いた。
『だいじょうぶだよ』
片言も、違うことなく。無言の励ましは確かに俺へと届き、喉を塞いでいた怯えをスッと取り払ってくれる。
途端に心と身体が軽くなり、俺は瞼を閉じる。先生と話したこと。国都と監督に伝えたこと。想いをもう一度燃やすと、俺は覚悟に大きく息を吸う。
「写真部二年の眞城史哉です!先日から文化祭展示の撮影のため、野球部にお世話になっています!」
大勢の部員全員に伝えるため声を張る。不慣れな行為に声は上擦るが、構うことなく突き進む。
「この度写真部の文化祭テーマ、『帝徳高校』に、野球部の皆さんを撮らせていただきたくお願いに来ました!監督からは許可をいただきましたが、もし写真に写るのが嫌な方がいらっしゃれば配慮しますのでお声がけください!」
姿勢を正し、思いっきり頭を下げる。そして腰を折った姿勢のまま、全身全霊を込めてお願いをする。
「みなさんの努力や野球に懸ける想いを、僕に写させてください!!どうか、お願いしますッ!!」
場はシンと静まり返っていた。目の前の反応を直視するのが怖くて、なかなか顔が上げられない。冷えて引いていく血の気に、またも恐怖は忍び寄る。
だが次の瞬間、誰かひとりの拍手が聞こえた。その拍手は呼び水となり、瞬く間に伝播していく。
俺はようやく顔を上げた。見れば野球部全員が俺を温かく見守り、歓迎の音を両手で奏でてくれていた。
列の先頭では、陽ノ本先輩と飛高先輩が笑っている。その横では、千石さんと小里先輩がいつもより少しだけ和らいだ表情で俺を見ている。益村先輩、久我先輩が優しく俺を応援してくれている。身長の高い部員に囲まれた乗富が、ひょこひょこと顔を覗かせて俺を激励してくれている。
そして、国都は。
ずっと笑ってーー俺を、見てくれている。
「帝徳野球部三年、主将の陽ノ本当です。部を代表して、眞城くんの写真部の活動に感謝します」
歩み出た陽ノ本先輩が帽子を脱ぎ、一礼する。
「帝徳野球部を、よろしくお願いします!!」
「「「「よろしくお願いしますッッ!!」」」」
陽ノ本先輩に続き、全部員が脱帽して一礼する。
規律は誇り高く、誰も彼もに浸透していた。名門という名が、岩崎監督を始めとする指導者の標が、彼らひとりひとりの高潔さが。きっと、この正しさを受け継ぎ支えている。
俺は再び頭を下げ、「こちらこそよろしくお願いします!」と礼を返した。そこで岩崎監督の仕切りが入り、役目を終えた俺は後方へと下がった。
ミーティングが始まり、俺はそっとカメラを手に取る。今日初めての一枚は集合風景だ。大勢の部員が熱心に耳を寄せている姿を、俺はしっかりと収める。
ミーティングが終わるまでの間、俺は立ち位置を変え、何枚も何枚もカメラに収めた。俺の作品を作るには枚数が必要だ。どんな些細な光景でも、アングルやパターンを変えて撮れるだけ撮っておきたい。
ミーティングが終わり、本格的に練習が始まる。俺は散会していく部員の後を追い、あちこちで写真を撮りまくった。
陽ノ本先輩や飛高先輩、益村先輩や乗富がいるブルペンの投球練習を。千石さんや小里先輩、久我先輩や国都がいるグラウンドでの守備練習を。
そしてーー部を支える部員の、陰ながらの献身を。
何枚も、何枚も、何枚も。全てを写し取るように、俺はシャッターを切っていく。
カメラのメモリに、膨大な記録は増えていく。一枚一枚を振り返ることなく、俺はひたすらにその記録を増やしていく。今日だけじゃなく、明日も、明後日も。撮れる日は通い詰め、もっともっと写真を撮るんだ。それが俺の作品のために、どうしても必要なものだから。
ファインダーを覗く先に見える景色は、帝徳高校にある日常のひとつだ。俺はそのありふれた宝物を、カメラという宝箱に収めていく。
彼らひとりひとりが目指す先はどこなのか、それはやっぱりわからない。
だけど俺は願う。
ーー日々を懸命に生きる彼らに、いつか必ず祝福が訪れますようにと。
『監督室』と書かれた部屋は、野球部員ではない俺にとって職員室よりも敷居が高い。こうして野球部に関わることがなければ、おそらく一度も訪れないまま卒業していただろう。
だが躊躇している場合じゃない。俺は覚悟を決め、静かに扉をノックする。
「写真部の眞城と申します。岩崎監督にお話しがあって来ました」
用件を伝えれば、すぐに中から返事が聞こえた。
「開いているよ」
年嵩を感じさせる、渋く落ち着いた声だった。俺は緊張に走る胸を一度だけ叩くと、失礼しますと声を掛け扉を開いた。
「よく来たね。こちらへどうぞ」
開いた扉から俺を出迎えたのは、正面の窓から差し込むいっぱいの陽光と、白髪の紳士然とした男性だ。名将と名高い老将ーー岩崎監督は、好々爺とした微笑みを浮かべ俺を手招きする。
監督とこうして直接話すのは初めてだ。しかし、勝手に抱いていた厳しい印象は微塵もない。むしろ温和で知的で話しやすそうだ。
俺は深く礼をし、室内に足を踏み入れた。過去の実績からして、トロフィーや優勝旗などが所狭しと飾られているのかと思いきや、内側は質実としたシンプルな部屋だった。清廉潔白に整えられた空間は、過去の実績に取り縋る気配がない。それは、部屋の主である岩崎監督の信条なのだろうか。
「写真部二年の、眞城史哉といいます。この度はご挨拶が遅れてすみません」
「堅苦しい挨拶はいらないよ、眞城くん。まぁまずは座って」
「はい。失礼します」
部屋の隅に置かれたソファへと促され、俺は断りを入れ着席する。監督はそれを見計らってから向かい側に腰を下ろし、悠然と構える。
「君のことは国都から聞いているよ。文化祭のために野球部での国都を撮ると聞いていたが、その後良い写真は撮れたかな」
「……そのことなんですが、岩崎監督に改めてお願いがあって来ました」
大きく息を吸い、そして、しっかりと監督を見据える。
「俺ーー、いや、僕に。帝徳高校野球部の写真を、文化祭のテーマとして撮らせてもらえないでしょうか」
前のめりに崩れた一人称を直し、切実に要望を告げれば、監督はゆったりとした間をもって受け入れる。
「国都ではなく、野球部全体ということかな?」
「はい」
「理由を聞いても?」
直実に聞き返され、またひとつ大きな呼吸をする。俺は国都へと伝えた時を思い出しながら、自分の想いを述べていく。
「……僕は初め、文化祭用の帝徳高校というテーマに、たまたま見つけた国都を撮りたいと思ってお願いしました」
緩やかに語り出せば、監督が腰を据えた。スタートラインを切った俺は、重々に言葉を選びながらゴールを目指す。
「今もそうですが、恥ずかしながら野球部のことには無知でした。それどころか僕はずっと、自分が今居る帝徳高校というものにすら興味を持てていませんでした」
自戒を晒せば、さながら告解をしている気分になる。そう思わせるのはきっと、岩崎監督の厳粛な雰囲気故だろう。
「写真を撮る許可を頂いてから、国都を通して多くの野球部の方々と知り合いました。毎日大変な練習をしていることも、皆が必死で部を担い高みを目指していることも知りました。……レギュラーとして選ばれた人も、選ばれなかった人も、その全てを支える人も。名門と呼ばれる帝徳高校野球部には、数え切れないほどの人の想いがあることを知りました」
神父然とした監督を前に、洗礼でも受けるかの如く。俺は敬重に傅き、祈りを込めた手を胸に充てる。
「僕は、その全てを撮りたいと思いました。この場所で日々積み重ねられていく、目に見えないたくさんの努力や想いを、僕の写真に写したいと思ったんです。そして、僕はそれを、文化祭という場でみんなに伝えたいんです」
意志は、表に出せば出すほど強固になる。言の葉という鎧に芯は補強され、胸の内で勝手に膨らんでいくようだった。
監督は、俺の主張に言葉を失くしている。口を開きかけては閉じ、もう一度深い思考へと潜っていく。
長い間があった。監督はふと席を立つと、窓辺へと歩みを進め、俺に背を向けながらどこか遠くを見つめた。
「……眞城くん。君は、SNSはやっているかね?」
突然の話題転換に虚をつかれたが、俺はすぐに監督へと答える。
「いえ。僕はそういうのは一切やっていません」
「珍しいね。君たちくらいの歳ならみんなやっているだろうに」
「そうですね。でも、僕は何だか苦手で」
「……そうか」
監督が、太陽を背に振り向いた。逆光に心意を翳らせながらも、真っ向を目指す俺へと真摯に向き合う。
「君は野球部のことに無知だと言っていたが、去年の夏のことも知らないのかな」
「甲子園に出て……一回戦で大敗したとは聞いています」
「その通りだ。そして世間からはバッシングを受けた。SNSを中心にね」
監督が沈痛に両眼を閉じる。甲子園大敗から一年が経とうとしている今でも、謗りの傷は深いのだろう。眉間は蠢めき、蘇る怒りを堪えているようだった。
「根拠もない噂や憶測で帝徳や選手たちは好き勝手に誹謗中傷された。そのいくつかにはーーどこで手に入れたのか、選手たちの写真も並べられていた」
写真という単語に、胸が刺された。小さな頃から焦がれ、愛してきた俺の聖域が、帝徳を傷つけるための道具として使われた。その事実が深く喰い込み、過ぎた出来事が自分事に変わっていく。
「プレーをする姿や、インタビューを受ける姿。彼らを写した写真は罵詈雑言と並べられた時、途端に彼らの努力は踏み躙られ、嘲りの材料となった。どこの誰とも知らない多くの人間が、年若い子供たちを容赦なく攻撃する様は……腑が煮えくり返る思いだった」
監督の悲痛な思いに、俺は眉を歪ませる。
人が苦手な俺は当然、インターネット上の付き合いも忌避していた。SNSに手を出すなんてもっての外だ。やることはおろか、見ることすら避けていた。
だから知らなかった。国都が、部員のみんなが、帝徳が。無責任な烏合の言の刃に、酷く傷つけられていたなんて。
「眞城くん。私はね、帝徳高校野球部を、選手たち全員を誇りに思っている」
引き締まった老齢の頬に、力強い慈しみはいくつも刻まれている。監督に着任してから今日まで、どれだけの熱情を注いできたのかは一目瞭然だ。
「名門という厳しい環境で報われない者は大勢居る。その大勢の上に立ち、部を先頭で担う者がいる。ここでは、誰もが何かを背負い戦い続けているんだ」
情熱は、今や深い愛情だ。岩崎監督は選手たちを守る盾として、矢面に立つ将として、覚悟を万全と切り立てている。
比類なき英志は、まさに名将の名に相応しい。監督の確然とした威厳に、俺は心身を正される思いだった。
「私は、君のような若者がそれを感じ取り、写真という形で皆に伝えようとしてくれることが本当に嬉しい」
岩崎監督が、年端も行かない俺や部員たちを尊重し認める。教鞭者の厚い信頼は、まだ登熟しきっていない青い俺たちを肯定し、実りを育てていく。
俺は、側へと歩み寄る監督を敬意の眼差しで迎えた。監督は、しきりに姿勢を伸ばす俺に優しく微笑む。
「この件については、むしろ私からお願いしたい。どうか帝徳高校野球部を君の手で撮り、広く伝えて欲しい」
見えない手が伸ばされる。
「彼らが重ねたものの尊さを、少しでも多くの人に知らしめて欲しい」
ーー想いを、再び託される。
国都、先輩たち、岩崎監督。それぞれの期待や願いは増えて重なり、俺の背へとのし掛かっていく。
大役は重圧だ。苛まれた俺は、思わず弱音を口にする。
「……俺、今まで自分の好きなものだけを撮っていて、何かを伝えるために写真を撮ったことがありませんでした。だから……本当は、自信があまりないんです」
自信があるかと問われれば、俺はいつだって答えに詰まる。未だ届かないコンクールの頂点と、人に写真を見せた経験の少なさ。引け目は尾を引き、勇む足に絡んで邪魔をする。
それでも、と。
俺は、決心に顔を上げる。
「でも、約束します。俺は、俺の写真で必ず伝えてみせます。野球部のことも、監督の想いも、全部。精一杯尽くします」
覚悟があるかと問われれば、今の俺は頷くことが出来る。確固として生まれた写真への意志に、今なら殉ずることすら出来ると思う。
這い出る弱気は、燃える想いへと焚べ捨ててしまおう。隆盛を胸にした俺は席を立ち、監督へと大きく一礼する。
「部員の方々には僕からお願いをします。撮られたくないという方がいれば尊重しますし、撮った写真は事前に野球部に提出して確認していただきます。それで問題ないでしょうか」
「ありがとう。それで構わないよ。これから練習前の集合がある。そこで君から皆に伝えたまえ」
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます」
「準備が整ったらすぐに行くから、先にグラウンドで待っててもらえるかな」
「はい。今日はお時間をいただき、ありがとうございました」
「とんでもない。こちらこそよろしく頼むよ」
もう一度頭を下げ、俺は部屋を後にしようと踵を返す。
「眞城くん」
呼び止められ振り返れば、柔らかく暖かな陽の中に、岩崎監督の信頼の一笑が昇った。
「君ならきっと、素晴らしい写真が撮れるだろう。胸を張って頑張りなさい」
託した見えない手が、激励に背を押した。重荷でもあるはずの期待は、俺に不思議な力を与え、心底を突き動かす。
「……はい!」
俺は、無意識に声を張り上げた。年頃を迎えても低くならなかった声質は、俺の幼さの証であり、ずっと嫌っていたものだ。
だけど、今だけは。弱く細い自分の声に力強さが宿った今なら。
自分のことを、少しだけ好きになれるかもしれないとーーそう思えた。
夏を待ち望む青空の下、今日も帝徳高校野球部の練習は始まる。岩崎監督に機会をもらった俺は今、意を決し、一糸乱れず並ぶ大勢の部員の前へと歩み出した。
集まる注目に、動かす手足がぎくしゃくする。一対一で話すのとは違う空気感に、対人や集団への苦手意識が克服しきれない俺は、痛いほどに鳴る心音に喘ぐ。
みんなと向かい合う。無数の目が俺を見ている。伝えたいことが、喉に塞がる。
引き攣る頬が、唇が、上手く動かない。ここに来て挫ける意気地に、逃げ出したいと足が震える。だけどそんな時、正面のやや後方に国都がいることに気がついた。
縋るように見つめれば、すぐに目と目が合う。すると、優しい微笑みとともに、国都の唇がゆっくりと動いた。
『だいじょうぶだよ』
片言も、違うことなく。無言の励ましは確かに俺へと届き、喉を塞いでいた怯えをスッと取り払ってくれる。
途端に心と身体が軽くなり、俺は瞼を閉じる。先生と話したこと。国都と監督に伝えたこと。想いをもう一度燃やすと、俺は覚悟に大きく息を吸う。
「写真部二年の眞城史哉です!先日から文化祭展示の撮影のため、野球部にお世話になっています!」
大勢の部員全員に伝えるため声を張る。不慣れな行為に声は上擦るが、構うことなく突き進む。
「この度写真部の文化祭テーマ、『帝徳高校』に、野球部の皆さんを撮らせていただきたくお願いに来ました!監督からは許可をいただきましたが、もし写真に写るのが嫌な方がいらっしゃれば配慮しますのでお声がけください!」
姿勢を正し、思いっきり頭を下げる。そして腰を折った姿勢のまま、全身全霊を込めてお願いをする。
「みなさんの努力や野球に懸ける想いを、僕に写させてください!!どうか、お願いしますッ!!」
場はシンと静まり返っていた。目の前の反応を直視するのが怖くて、なかなか顔が上げられない。冷えて引いていく血の気に、またも恐怖は忍び寄る。
だが次の瞬間、誰かひとりの拍手が聞こえた。その拍手は呼び水となり、瞬く間に伝播していく。
俺はようやく顔を上げた。見れば野球部全員が俺を温かく見守り、歓迎の音を両手で奏でてくれていた。
列の先頭では、陽ノ本先輩と飛高先輩が笑っている。その横では、千石さんと小里先輩がいつもより少しだけ和らいだ表情で俺を見ている。益村先輩、久我先輩が優しく俺を応援してくれている。身長の高い部員に囲まれた乗富が、ひょこひょこと顔を覗かせて俺を激励してくれている。
そして、国都は。
ずっと笑ってーー俺を、見てくれている。
「帝徳野球部三年、主将の陽ノ本当です。部を代表して、眞城くんの写真部の活動に感謝します」
歩み出た陽ノ本先輩が帽子を脱ぎ、一礼する。
「帝徳野球部を、よろしくお願いします!!」
「「「「よろしくお願いしますッッ!!」」」」
陽ノ本先輩に続き、全部員が脱帽して一礼する。
規律は誇り高く、誰も彼もに浸透していた。名門という名が、岩崎監督を始めとする指導者の標が、彼らひとりひとりの高潔さが。きっと、この正しさを受け継ぎ支えている。
俺は再び頭を下げ、「こちらこそよろしくお願いします!」と礼を返した。そこで岩崎監督の仕切りが入り、役目を終えた俺は後方へと下がった。
ミーティングが始まり、俺はそっとカメラを手に取る。今日初めての一枚は集合風景だ。大勢の部員が熱心に耳を寄せている姿を、俺はしっかりと収める。
ミーティングが終わるまでの間、俺は立ち位置を変え、何枚も何枚もカメラに収めた。俺の作品を作るには枚数が必要だ。どんな些細な光景でも、アングルやパターンを変えて撮れるだけ撮っておきたい。
ミーティングが終わり、本格的に練習が始まる。俺は散会していく部員の後を追い、あちこちで写真を撮りまくった。
陽ノ本先輩や飛高先輩、益村先輩や乗富がいるブルペンの投球練習を。千石さんや小里先輩、久我先輩や国都がいるグラウンドでの守備練習を。
そしてーー部を支える部員の、陰ながらの献身を。
何枚も、何枚も、何枚も。全てを写し取るように、俺はシャッターを切っていく。
カメラのメモリに、膨大な記録は増えていく。一枚一枚を振り返ることなく、俺はひたすらにその記録を増やしていく。今日だけじゃなく、明日も、明後日も。撮れる日は通い詰め、もっともっと写真を撮るんだ。それが俺の作品のために、どうしても必要なものだから。
ファインダーを覗く先に見える景色は、帝徳高校にある日常のひとつだ。俺はそのありふれた宝物を、カメラという宝箱に収めていく。
彼らひとりひとりが目指す先はどこなのか、それはやっぱりわからない。
だけど俺は願う。
ーー日々を懸命に生きる彼らに、いつか必ず祝福が訪れますようにと。