キャッチライト

 昼休みが終わると、抜き打ちテストの試練と苦手な球技の体育が待っていた。苦難を乗り越えれば褒美の放課後はやってくる。今日はこの後吉祥寺へ直行だ。先生は仕事を終えた後、指定したお店へとやってくることになっている。
 号令を終えてすぐに席を立てば、国都もすぐに練習試合に向かうのだろう。方向が一緒だったので、自然とふたりで昇降口に向かう。
「今日は真っ直ぐ帰るのかい?」
「いや、今日は先生と会う約束してるから、この後吉祥寺まで行ってくる」
「先生って昨日言ってた人かい?」
「そう。冠波忠人っていって、昨日話した通り帝徳高校のOBなんだ。今はプロの写真家で、個展開いたり、駅とか会社の広告とかにも使われたりするくらい有名な人」
「冠波さんか。学校の広報で名前を見かけたことがあるかもしれないな」
「変わった人だよ。見た目も中身も」
「そうなのかい。いつか僕も会ってみたいな。眞城くんの先生に」
「師弟関係はないはずなんだけどな。でも写真のこと教えて欲しいってお願いしたら会ってくれるって言ってくれたから、今日は本物の弟子になった気分」
「なんだか嬉しそうだね」
「……変わった人だけど、憧れの人ではあるから」
「それ何度も言うね」
「会えばわかるよ。機会があればいつか紹介する」
「うん、是非。その日を楽しみにしているよ」
 会話の区切りと共にお互い靴を履き替え、校舎を出る。それぞれ向かう方向は別だ。俺たちは「また明日」と笑顔を交わし合い手を振った。
 まだ日の高い午後。高く伸びた空には、じゃれ合い飛んでいく二羽の鳥が視界を掠めていった。


 滅多に来ない吉祥寺は都会的ながらも自然が感じられる街だった。駅周辺は新しい施設で栄えているものの、昔ながらの商店街も共生しており、街並みは整っている。少し足を伸ばせば住宅街があり、井の頭公園もあるためロケーションも良好だ。住みたい街として人気の地域だというのも頷ける。
 俺は電車を降りると、待ち合わせまでの時間を潰してから先生に指定された店に向かった。待ち合わせ場所は駅の近くから少し横道に入ったカフェだ。今の時間帯はバーでもあるらしい。
 午後十七時十五分。店名のネオンが光る看板を目印に、俺は店の扉を開いた。
「サナギくん、こっちこっち」
 入店すると、奥の席で先に来ていた先生が俺を手招いた。店員に待ち合わせですと告げて席に行くと、今日も派手な南国男がのらりくらりと出迎える。
「先生、今日は時間を下さってありがとうございますーーって、もうお酒飲んでるんですか」
「仕事がひとつ片付いたから自分へのご褒美にね。でもビール一杯なんて飲んでるうちに入らないって」
「そういうものなんですか」
「そ。そーゆーもの。そんなことより座りなよ。サナギくんの話聞くの楽しみにしてたんだからさ」
 壁側のソファ席を勧められて着席すれば、向かい合った先生の口元はニコニコではなくニヤニヤとしていた。その上っ調子を、俺はじとりと睨め付ける。
「先生、まさか俺の話を酒の肴にするつもりで呼んだんじゃないでしょうね」
「いやだなぁ、ボクはサナギくんの相談に乗りたいって思っただけだよ」
 俺の疑念を受け流し、先生はビールの入ったグラスを煽った。そして機嫌を取るように、好きなもの頼んでいいよとメニューを進めてくる。
「ボクのおごりだから何でも頼んで。ここはご飯も美味しいけど、ケーキとかも美味しいよ」
「……じゃあ遠慮なく。このガトーショコラのセットにします。飲み物はアイスティーで」
「オッケオッケ。せっかくだしボクも同じケーキ食べようかな」
「ビールにケーキって合うんですか」
「甘いものって意外とお酒に合うんだよ。ま、ボクとしてはビールよりワインとの方が合うと思うけどね」
 つらつらと語りながら先生が注文を済ませる。最近はスマホのQRコードを利用しての注文が増えているようで、このお店もその方式だった。
「そんなことより、撮りたい人見つかったんだって?」
 注文に使ったスマホを机に置き、早速先生が本題を持ち出してきた。食いつかれた俺は、勢いに押されながらも肯定する。
「それは……はい」
「そっか。自信なさそうにしてたけど意外と早く見つかったんだね。で?で?いつ?どんな人を見つけたの?」
「あのコンクールの次の日です。先生に言われたことと、写真部で出た文化祭の課題があって学校を探し歩いてたら、見つけました」
「どんな子?男の子?女の子?」
「同じクラスの野球部で、国都英一郎っていう男子です。それまで挨拶するくらいしか交流はなかったんですけど、野球部の練習してるとこ初めて見て」
「コクトくんね。ふむふむ。で?どうしてサナギくんはその彼を撮りたいって思ったの?」
「見かけたのはバッティング練習してるところだったんですけど、なんていうか、豪快でしなやかで、どこか人間離れしていて……孤高の獣みたいだなって思ったんですよね」
「孤高の獣とは詩的な表現するねぇ、サナギくん」
「恥ずかしいのでツッコまないでください」
 感動を伝えようと表現を絞り出せば、即座に拾われ揶揄われてしまう。俺は咳払いで誤魔化し、先を続ける。
「とにかくそれだけ特別感があったというか、浮世離れしてたというか。それでどうしても撮りたくなって、思い切って撮らせてくれって頼みました」
「うんうん。その咄嗟の行動力。サナギくんらしいねぇ」
「弟子入り志願のことはもう忘れてください」
「えー、あれはなかなか忘れられないよ」
 先生がケラケラと笑っていると、頼んだガトーショコラふたつとアイスティーが机に並んだ。俺は早速アイスティーを口に含み、乾いた喉を潤す。
「しかし眞城くんがそこまで撮りたいって思う子が身近にいるなんてね。どんな子なの?コクトくんって」
「ウチの名門野球部で一年から四番やってるヤツで、帝徳の人気者ですよ。女子からはモテまくってるし、男子からも好かれてるし、見た目も中身もパーフェクトって感じです。俺とは別世界の人間だと思ってたんですけどね」
「けど、違った?」
「違いました。関わってみたら意外と不器用だったり、人の話あんまり聞かなかったり、強引なところがあったり。全然完璧な感じじゃなくて、でもそういうのが逆に親近感が湧いたっていうか」
「ふぅん……サナギくんが親近感ねぇ」
 含みに目を細めながら、先生がガトーショコラを口に放り込む。
「男子三日会わざれば何とやら。若者の変貌は一瞬だなぁ。オジサン眩しくてたまらないよ」
「先生まだ三十代じゃないですか」
「三十代ってサナギくんくらいの歳から見たらオジサンじゃない?」
「先生は見た目はともかく若々しいですよ」
「それって精神年齢が低いとかそういう意味?」
「……自由奔放だって意味です」
「それってギリ貶してない?」
 俺の苦肉の語彙にあはは、と先生が笑う。初対面の時から捉えどころがないが、基本人当たりは良く、ただの一ファンの俺ともなんだかんだ打ち解けてしまった不思議な人だ。失礼に聞こえるような物言いすらも、大体は笑って受け止めてくれる気やすさがある。
 先生との関係は友達ではない。が、それでも親しみはあって、俺にとっては頼りたくなる大人だった。
「いやぁ、楽しいなぁ。サナギくんからこんな恋バナ聞ける日が来るなんて」
「恋バナじゃないです」
「恋バナみたいなものでしょ。被写体として一目惚れしたわけでしょ?」
「そう言われると……そうなんですけど」
「写真家冥利に尽きる出逢いじゃない。なかなかないよ、そういうの」
 ぐっとビールを飲み干すと、先生はすかさずビールのおかわりを注文し始める。俺は返す言葉もなく手付かずだったガトーショコラを口に入れると、途端に広がったショコラの甘さに心を奪われた。
「ね、ひとつ聞いてもいい?」
「なんですか」
「コクトくんってさ、サナギくんにとってどんな存在?」
「え……」
 先生お得意の不意打ちに、言葉と思考が止まる。こうした本質に踏み込まれると、その度に俺は深く苦悩するはめになる。それは興味本位からの質問でもあるのだろうが、おそらく。
 ちゃんと考えてみろと、教えられているのだと思う。
「俺にとって、国都は……」
 国都は、何なんだろう。
 ハッキリと確かめ合ったわけじゃないが、友達
になれてはいるのかなと思う。少なくとも俺はそう思っているし、ここ二日間を見るに、俺にある程度好意的でいてくれてると思う。
 とはいえ、友達という形容は正解ではない気がした。
 どんな存在か。それはきっと形式的な答えを求めているわけじゃないのだろう。だから俺は、深く深く考え込んだ。
 そして、辿り着いたのは。
「……多分、俺の運命だったんじゃないかって思います」
 無形の情感に名を与えれば、鼓動が正鵠に鳴った。大仰で恥ずかしいまでの例えはそれでも相応しく感じられて、俺は、自分の気持ちに背筋を伸ばしていられた。
「運命ときたか」
「いや、だって、突然こんな風に人に対する見方とか考え方が変わるなんて思ってなくて。インパクトがデカ過ぎて、軽い言葉じゃどうにも足りない気がして」
「いやいや、運命、いいじゃない。サナギくんの歳でそう思える人に巡り逢えるのって凄いことだと思うよ」
 突かれれば、やはり照れくささが勝った。先生はあわつく俺を鷹揚に受け止めると、にやついた顔に拍車をかける。認められてしまえばそこまでだ。引っ込みのつかなくなった俺は、口を閉ざす代わりにアイスティーのストローを吸い上げる。
「なんだか帝徳に通ってた時代思い出しちゃうなぁ。あの頃はボクも運命感じてたっけな」
「それって先生が写真部作った頃の話ですか?」
「写真部はねー……ま、いいか。サナギくんの話し聞かせてもらったから、お返しに思い出話をひとつしてあげよう」
 のんびりと頬杖をつくと、半月状のレンズ奥の遠い目が俺の制服越しに過去を視る。
「ボクが写真部を作ったのは写真が好きだったからじゃなくてさ、好きな子を撮りたかったからなんだよね」
「え?先生が高校で写真始めたのってそれが理由なんですか?」
「そ。好きな子が出来て、その子のこと色々知りたい、近づきたいってなって。そうしたらついに、写真に写して肌身離さず持っていたくなったんだよね。でも内気な冠波少年は話しかけることすら難しかった。で、最終的に思いついたのは、写真部の部活動として撮らせてくれって頼むなら堂々と話しかけられるし、撮らせてももらえるんじゃないかって策だったワケ」
「それって……」
「思いっきり下心からの動機」
 そんな理由でウチの高校に写真部が生まれたのか。勝手に先生は写真が好きという熱意から部を設立したと思っていたので、知った由来に大きな衝撃を受ける。
「でもさ、凄くない?恋心ひとつで俺はやったことない写真始めて、カメラまで買って、人かき集めて部まで立ち上げたんだよ?あの頃の行動力は尋常じゃなかったねぇ。今はあそこまでの熱意ないもんなぁ」
 昔を懐かしむ先生が淡い恋に想いを馳せる。先生は独身なはずだし、たしか恋人もいないと聞いた。その恋はきっと、今はもう過去にしかないのだろう。
「そんなわけでボクもその好きな子に運命感じてたんだよね。残念ながら片思いのまま終わったけど、でもボクにとっては良い思い出だよ。写真がそれから好きになって、今は曲がりなりにもプロになってるワケだし」
「それは……確かに運命的ですね」
「だろ?だからサナギくんは両想いになれるよう願っているよ。ボクの分まで幸せになってね」
「いや、両想いってなんですか!俺のは恋バナじゃないんですって!」
「あっはっは!さすがサナギくん、ツッコミに抜かりはないねー」
 大口を開けて機嫌良く笑う先生はとても楽しそうだった。良い思い出だというのは本当なのだろう。やってきた二杯目のビールを美味しそうに飲む姿に、それがひしひしと感じられた。
「さて、昔話は置いといて。今度はサナギくんの聞きたいことを聞こうか。ボクで答えられることなら教えてあげるよ」
「本当に教えてくれるんですか、写真のこと」
 今まで写真の話を持ち掛けてもろくに答えてくれなかったのに。意外が先に立ち、俺は思わず確認してしまう。
「人を撮れって焚きつけたのはボクだしね。それに満点の発見で応えてくれたサナギくんには特別講習してあげるよ。何が聞きたい?」
「え、じゃあ、野球の早い動きを撮るコツが知りたいです!あと映える構図パターンとか、カメラの最適な設定とか、あとはーー」
「いきなり遠慮なくきたね」
 テンションが上がって早口になったところを制され、思わず前のめりになった身を縮める。先生はくすりと微笑ましげに声を零し、ケーキの残り一口を頬張る。
「スポーツは専門じゃないけど、それなりに経験はあるからそれくらいで良ければ教えてあげられるよ。そんなんでいい?」
「十分です!」
「そう?じゃあまずはカメラの設定についてだけどーー」
 先生の授業が始まり、俺はノートを広げて余さず書き込んでいく。教えは、ひとつひとつ根拠や注釈を交えてくれるおかげでとても分かりやすかった。俺は夢中になってどんどん質問を重ねていく。先生は、そんな俺の欲張りにも勿体ぶることなく教えてくれた。
 俺はカメラバッグからカメラを取り出し、昨日まで撮った成果を見てもらうことにした。フレームアウトや酷いブレの写真を見せるのは正直気後れするが、詳細な改善点をもらうためだ。背に腹は変えられない。
「見ていいの?やった」
 珍しく俺の写真に興味を示して、先生がメモリを開く。そこに写っているのは、初日の酷い出来から昨日の手応えを感じたものまで、二百に近い枚数の記録だ。先生はそれを一枚一枚目通ししていく。
「へぇ……」
 なんのへぇなのか分からないが、とにかく緊張する。俺は先生が見終わるまでの間、残りのケーキとアイスティー平らげながらひたすら反応を待った。やがて先生は昨日の最後の方の写真に辿り着いたのか、そこで一枚の観察に時間をかけだした。
「これ、最後の方いいじゃない。よく撮れてるよ」
「本当ですか?」
「うん。筋トレと個々のアップは良いね。全景は筋肉の張りが伝わるし、表情もみんな真剣なのが伝わる」
「良かった……みんな本当に一生懸命なので、ちゃんと写せてたなら嬉しいです」
「でも守備練習?の方はやっぱまだまだだね。フレームの収め方にムラがあるし焦りが見える。でも、一日目と比べるとかなり上達してるけどね」
「そこがどうしても難しくて……あと、バッティングも人によってスイングスピードが違いすぎて、シャッタースピードの設定がイマイチ決めきれないんですよね」
「うーん……」
「先生?」
 ふと会話が澱むと、先生のメモリを進める手が止まっていた。話の内容から察すると、昨日の守備練習の写真の辺りだろうか。俺はじっとカメラに目を落とす先生の反応を待つ。
「サナギくん。コクトくんってこの子?」
 やがてカメラの液晶を俺に向け、先生は守備練習で撮った一枚を見せてきた。そこに写っているのは間違いなく国都だ。ノックを受け、本塁に返球する姿を撮ったもので、国都を写した中でも一番の出来だ。が、どうしてそれだけでわかったんだろう。
「そうです。よくわかりましたね」
「だってこれ」
 言葉を止めて先生が俺を窺う。続きがやってこないせいで、わかった根拠も言いたい意図も図りかねる。
「……まぁいいか。サナギくんはこのまま頑張るといいよ」
「?よくわからないですけど、頑張ります」
 俺が首を傾げると、先生は薄い髭を撫でつけながら上目で何かを考えている。釈然としないものはあるが、そこは深く気にすまい。
 やがて、先生が最後の一枚に辿り着いた。最後の写真は昨日の日暮に、名も知らぬ部員たちの背中を写したものだ。
 そこで先生の目が、本気の色に変わる。
「……サナギくん。サナギくんはコクトくんを撮りたかったんだよね」
「……そうです」
「でもこの写真見るとさ、なんだか違うものを感じるんだけど」
 容易く見透かされ、昨日から抱き続けていた迷いに触れられる。
 俺は、野球部での二日間を思い返していた。時間にしてたったの二日。なのに、そこにはたくさんの出逢いがあった。知らなかった世界があった。
 初めて人をーー国都を撮りたいと感じた想いは色褪せていない。けれど今の俺は、本当に写し伝えたいものが別にあるような気がしていた。
 『帝徳高校』。与えられたテーマに相応しいもの。有形になりきれず、曖昧にもやつく感覚を俺は象っていく。
「……俺、最初は国都を撮りたいってただそれだけを考えてたんです。でも練習で野球部を撮っているうちに、少し違う気持ちが生まれてきて」
「それって、どんな気持ち?」
「……野球部には、頑張ってる人が本当にたくさんいて。そこには華々しく活躍をする人もいれば、結果に報われない人もいて。嬉しいこと、苦しいこと、楽しいこと、悲しいこと。たくさんの選手がいろんな気持ちを抱えながら毎日を過ごしてるんだなって思ったら……俺が写すべきものは何なのかって、考えるようになったんです」
 最後の写真のシャッターを切らせたのは、俺の本能だった。
 撮りたいという衝動。切り取りたい一瞬。伝えたい画。
 あるがままの感性は間違いなくあの瞬間に働き、俺の中の何かを決定づけた。
「俺は、野球部のこと、ちゃんと撮りたくなったんです。見える表も、見えない裏も、等しい努力だから。俺はその全てを写したい。それが例え……綺麗なだけのものじゃなくても」
「……サナギくん」
 先生のつぶらな瞳が、驚動に見開かれる。こんな事を言い出すなんて前の俺からは考えられなかっただろうから、それも当然だ。
 自分でも、今の自分が信じられないくらいだし。
「この写真を撮った時、ずっと足りなかったピースが埋まったような気がしたんです。自然と人が共に生きる、新しい世界が見えたんです。俺はその世界が煌めいて見えてーー美しいと思いました」
 表明すれば、俺は本当に辿り着いた気がした。先生が言った違う世界。いつだって俺の隣にあったはずの場所。俺自身が目を背けていたもの。
 心が産声に震える。俺を囚え続けている『写真』という深き根が大地に萌芽し、大輪の花を咲かせていくようだった。
「……成長っていうのは、瞬く間だね」
 慈愛に呟く先生が、卒業証書を授与するかのように、俺にカメラを手渡した。俺は自分の相棒をしっかりと受け取り返す。そして、己の謳う鼓動の音を聴く。
 それからも俺は、ひたすら先生に教えを乞うた。技術だけじゃなく、先生の経験談や写真家としての心構えなど、様々な話をしてもらった。
 先生に聞いて良かった。充実した時間はあっという間で、気づけば夜はすっかり深まっていた。
 時刻は十九時を過ぎていた。俺たちは店を後にし、駅前で別れることにする。
「今日はありがとうございました。明日から本格的に作品作りに臨めそうです」
「役に立ったんなら良かった。サナギくんの写真出来たら見たいし、文化祭ボクも行こうかな」
「来てくれるのは嬉しいですけど、先生仕事大丈夫なんですか」
「ボクは楽しいこと優先だから」
「答えになってないですよ」
 それなりに売れているはずなのに、イマイチ仕事もプライベートも見えない人だ。そこが先生らしくはあるけれど。
「ま、行けたら行くってことにしとこうかな」
「もし来れたら国都を紹介しますよ。国都も先生に会いたいって言ってたし」
「そう?じゃあその時はよろしく。ボクも楽しみにしてる」
「はい。じゃあ今日はありがとうございました。ケーキもご馳走さまでした」
「なんのなんの。また面白い話あったら聞かせてよ。連絡待ってるから」
「面白い話があるかはわからないですけど、また何かあれば連絡します」
 電車の到着が近づき、それじゃあ、と俺は駅の改札を通る。ホームへの階段を登り、家路に向かう電車に乗り込めば、電車は緩やかに吉祥寺を離れていく。

 そうして先生と別れた俺は、当然知る由もなかった。俺を見送った先生が、駅の雑踏に立ち尽くしながら。

「……やっぱ恋バナで間違ってなかった気がするなぁ。ま、本人気づいてなさそうだけど」
 
 なんて、呟いていたなんて。
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