キャッチライト
三日目の朝は穏やかだった。
部屋のカーテンを開ければ真っ白な光が押し寄せて、清廉な眩しさに俺は目を細めた。
昨日は色々あったが、帰り道では気持ちが落ち着いていたし、一晩ぐっすりと眠った今では頭もスッキリしている。
新しい日は明るい。窓を開ければ、先駆ける夏の匂いが鼻をくすぐった。
深い緑の匂い。夏に良い思い出はないけれど、このむせ返るような青々しさや、鳥や虫の元気な声は大好きだ。
俺はゆったりと準備をして、通学カバンとカメラバッグを手に家を出た。今日の放課後は、野球部は他校に練習試合に行くらしい。だから撮影には行かないのだが、それでもカメラを持って出たのには理由がある。
『突然すみません。先生にどうしても教えていただきたいことがあります。お時間をもらえないでしょうか』
昨日の夜、俺は先生にこんなメールを送った。連絡先は知っていたものの、実際にメールを送るのは初めてだった。その珍しさがあってか、返信は思っていたよりも早く届いた。
『どしたの?』
面倒そうな短い文面が先生らしかった。
俺は、恥を忍んで先生を頼ることにした。撮影技術のこと、作品を創り出す心構え。ずっと独学だったものにどうしても新しい風を取り入れたくなって、俺は今の気持ちをつまびらかに打ち込んだ。
『撮りたい人を見つけたんです。だけど今の俺では力が足りなくて上手く撮れません。でも、どうしても最高の作品にしたいんです。だから先生に助言をいただきたいです』
お願いしますと文末に文字と祈りを込めて送信したが、今までの先生との付き合いを考えるに、応じてくれる可能性は低い。
でも、俺は何度でもお願いするつもりだった。俺の理想に一番近いのは先生の作品だ。だからなんとしてでも、先生から学びを得たかった。
固い意気込みはしかし、無用に終わった。先生が、まさかの快諾をしたのだ。
『明日の夕方なら時間あるよ。吉祥寺まで出て来れる?』
信じられない思いで眺めた文面は、目の錯覚ではなかった。丁度野球部がいない日を指定してくれたのは好都合だ。俺は一も二もなく『行けます!』と食いついた。
それが今日の約束だ。弟子でもない俺は、初めて先生に教えを受けることになる。純粋な興味と楽しみに、ワクワクと心が弾む。
これから始まる一日は、昨日よりも良い日になる。そう信じて俺は、今日も帝徳高校の校門をくぐった。
始業二十分前の教室はクラスの半数が揃っていた。ざわざわとした賑わいの中、俺はこそりと自席に着く。すると俺を見つけた国都が、わざわざ俺の席までやってきた。
「眞城くん、おはよう」
「国都。おはよう」
「疲れは取れたみたいだね。昨日はゆっくり眠れたかい」
「バッチリ十時間も寝たよ。寝過ぎて眠いくらい」
「そうかい。すっかり元気になったみたいで安心したよ」
「昨日はその、心配……かけてたんだよな。なんか、ごめん」
「いいんだよ。こうしていつもの眞城くんに戻ったんだから」
心から安堵したと言わんばかりに、慈しみの笑みが渡される。俺はなんだか気恥ずかしくなって、小さくうん、とだけ頷き返す。
「今日は部でお昼を食べることになっているから一緒に食べられないけど、明日は楽しみにしているよ」
キュッと音がしそうなほど口角を上げ、突然、国都が長身を折り屈める。
「約束、忘れてないよね」
急な接近に、思わずびくりと身を竦める。俺の顔の横、耳の近くで囁いた国都は、見たこともない悪戯な顔をしていた。その至近距離に、俺の心臓が飛び跳ねる。
「ねッ、念を押さなくてもちゃんと覚えてるよ」
「それならよかった」
一言一句を躍らせ、俺の反応を楽しむ国都がくすりと笑い声を漏らす。
もしかして揶揄われているのだろうか。人との距離の近さに免疫のない俺は簡単に狼狽えてしまい、なんとはない悔しさにムッと唇を結ぶ。
「今日も一日頑張ろうね」
俺の動揺なんかさておき、国都は勝手に完結して去っていく。晴天の朝に相応し過ぎるほどの爽やかさだ。みんなあの雰囲気に『国都は完璧』だと騙されているんだな。
悔しさ紛れに内心憎まれ口を叩きながら、前方の席に戻った国都の後ろ姿を見つめる。
同世代よりも大きな身体に、広い背中。その頼もしさに、こぞってヒーロー扱いするのはわからなくもない。実際、少し前まで俺もそう思っていた。
だけど今なら知ってる。突拍子もなく突っ走るところ、割り箸割るのをよく失敗すること、押しが強いこと。他にも、他愛のない会話から浮かび上がったギャップやいとけなさをたくさん知っている。
国都に対して完璧のイメージはもうない。そう思えることが、俺はとても嬉しかった。
午前の授業が終わり、昼休みが訪れた。今日は久しぶりにひとりの昼休みだ。野球部の部室へ向かった国都と道を分かち、俺はサンドイッチを手に写真部の部室へと向かう。
ひとりきりの昼休みは自由気ままだった。サンドイッチを齧りながら持ってきた写真集を眺めていても、誰に何を言われるわけでもない。人の目を気にせず、だらしなく過ごすのは気が楽だった。
国都と過ごした二日は、こんなじゃなかった。国都の行儀良さは俺には無く、堅苦しさを覚えながらも真似る形で合わせていた。姿勢や食べ方の綺麗さも、国都の姿を見ていたら自然と見習おうという気持ちになった。
人に合わせる行為は苦手だし好きではないが、国都の場合は不思議と苦にならなかった。それどころかだらしない自分が改められていくようで、合わせるということは、時に学びにもなるのだと気がついた。
しかし、ふたりでの楽しい時間を味わってしまった弊害はある。今まで何とも感じていなかったひとりきりの時間が、長く感じるようになってしまったのだ。
たった二日国都と過ごしただけで、こんなにひとりの時間の使い方を持て余してしまうものなのか。俺は写真集を開きながらも気がそぞろになり、国都との時間を思い返しては進まない時計ばかりを気にしていた。
そんな退屈の中、部室の扉を開け、またも友永部長がやってきた。
「あれ、眞城今日は一人なのか」
国都が一緒だと思ったのだろう。俺を視界に入れた部長がキョロキョロと室内を見回す。
「俺一人ですよ。国都なら今日は野球部で食べてます」
「そっか」
「今日はどうしたんですか」
「忘れ物取りに来た」
「またですか。部長、忘れ物多くないですか」
呆れ混じりにチクリと刺すが、部長は何故か黙ったままだった。いつものお喋り好きな口は動かない。その様子に違和感を覚えていると、部長はそわそわと耳の後ろを掻きながら、気まずそうに沈黙を破った。
「眞城。悪かったな」
「もしかして昨日のこと気にしてるんですか?それなら俺はもう気にしてないですよ」
「いや、それもあるけどさ。……去年のこと、ちゃんと眞城に謝っておきたくて」
いつになく真面目な顔をして、友永部長は俺に謝罪する。俺は思いもよらない話を持ち出され、バツの悪そうな部長をじっと見つめる。
「俺、先輩なのに、眞城のこと助けてやれなかった」
分厚いレンズ越しの瞳が伏せる。いつものマシンガンのような語り口は鳴りをひそめ、慎重に言葉を探る部長が、俺の隣の席にそっと腰を下ろす。
「部員、二年は途中から俺一人だけだったろ。三年が引退したら一気に人が居なくなるのに、そこでもし一年がいなくなったら、部の存続すら危ういと思ってさ。部長になることが決まってから、俺の代で終わらせたくないって、ずっと思ってたんだ」
音の無い部室を眺める。まだ三年がいた頃の、賑やかだった頃に思いを馳せる。
まだ希望を抱いていた入部したての頃。その時写真部は最盛期を迎えていて、二年も部長だけではなく、他に四名ほど部員がいた。
「二年の奴らみんな、俺が誘って入ってもらったんだけどさ、結局みんな辞めちゃったろ。一年がある程度入ってくれたから良かったものの、このままだと来年どうなるかって気が気じゃなくて」
友永部長が、初めて部長という重責を語る。考えてみれば当たり前のことなのに、俺は自分のことばかり気にしていて、深く考えたこともなかった。
「唯一の先輩で部長だってのに、強く言えなかった。眞城が嫌な思いしてるってわかってたのに、ちゃんと叱れなかった」
本当にごめん、と。静かに頭を下げた部長に、胸が詰まる。
「……部長がそこまで俺のこと気にしてくれてたなんて、知りませんでした」
「だよなぁ。そりゃそうだ」
「でも、時々俺を助けようとしてくれてたのは、なんとなくわかってました」
入部から二ヶ月。先輩たちの目を盗み、俺へのつまらないイビリが行われ出した頃だった。
ある時、俺の持っていたカメラが馬鹿にされた。三名ほどの金持ちグループが最新の一眼レフを見せつけながら、俺のカメラを安物のボロカメラだとこき下ろした。そして、それが俺に似合いだと揶揄した。
何年もお年玉を貯めて買ったカメラは、俺にとって大切な相棒だった。最新カメラなど羨ましくない。中古が似合ってると言われても悔しくはない。だけど、俺がずっと大事にしてきたものをボロカメラと貶されたのだけは許せなかった。
それでも俺は何も言えなかった。見下す視線に囲まれ、蔑みに怖気づいた俺は言葉が出なかった。
そんな時だった。まだ部長になる前の、友永先輩が割り込んできてくれたのは。
『いやぁ、見てくれよこれ。オレのカメラついに壊れてきてさ。この前落っことしたせいでもうボロボロ』
戯けて見せつけてきた友永先輩のカメラは、あちこち傷も目立ち確かにボロかった。それは俺が持っているものよりもさらに古い型で、メーカーだってマイナーなものだった。
『でもまだ撮れるからさ。最後まで使ってやんなきゃカメラが可哀想だよな!』
豪放に笑う先輩に、後輩である連中は何も言えなくなった。すごすごと相手が引き下がっていく姿に安堵していると、友永先輩はポンと俺の肩を叩き、何も言わずに去っていった。
それは優しい記憶だ。思い返せば、いくつかそんな風に救われた場面は確かにあった。
だけど俺は結局、最後まで耐えきることが出来なかった。
「俺が来なくなったのは部長のせいじゃないです。俺が嫌なことから逃げただけで、部長は何も悪くない。だから、謝らないでください」
「……眞城」
「友永部長が頑張ってたことは知ってます。昔は今程お喋りな人じゃなかったのに、部長になってからはみんなに話しかけまくって部を盛り上げようとしてましたよね」
「ははッ。よく見てるなぁ」
「……俺の方こそ、期待に応えられなくてごめんなさい。部のためにも大会での実績が欲しいって前の小島部長が言ってたのに、結局俺、何も参加しなくて」
「眞城こそ謝るなよ。部の実績なんて眞城一人が気にする話じゃないだろ。それに逃げたっていうけどさ、無理して嫌なとこに居続けなくたっていいんだよ。そりゃ楽しんで部活出来るのが一番理想だけどさ。合う合わないなんて、それこそどこにでもあるだろ」
にっかりと友永部長が笑う。その姿は見違えるほどに先輩らしく、部長らしかった。
取り戻した空気の中、部長が席を立つ。机の端に追いやられた英語のプリントを手にしたところを見ると、忘れ物は本当だったらしい。
「ま、とりあえずオレの言いたいことは終わり。じゃあそろそろ教室戻るな」
「はい」
「野球部での撮影頑張れよ。眞城の初めての人物写真、見るのスゲー楽しみにしてるから」
「……頑張ります。部に入った頃の俺よりは、きっと良いものが撮れると思うので」
「お、珍しく自信あるじゃん。いつもそれくらい堂々としてればいいのに。自分を過小評価し過ぎなんだよ、眞城は」
「そんなこと言われても、俺は」
ーーずっと、優秀賞の壁が越えられないから。ふと苦く過ぎる他者評価に、芽生えかけていた自負が揺らぐ。部長はそんな気弱を見越して、泰然と公言する。
「オレは眞城の写真良いなって思ってるよ。励ましの数にならないかもしれないけど、覚えておいてくれよ」
確かな賞賛を残し、部室を後にしようと歩いていく。
閉ざしていた扉を開く。そして、最後に俺を振り返る。
「ありがとな。写真部、辞めないでくれて」
優しい、先輩の笑顔で。
俺に想いを残していく。
「これからもさ、来たくなかったら来なくていいから、名前だけでも置いといてくれよ。そんで、一年に一回くらい部に参加してくれたらもっと嬉しい。それだけ考えといて」
それ以外は気にするなと言外にほのめかし、部長は去っていった。残された俺は、俺にとっての写真部について、もう一度考える。
部長が言う通り、俺は部を辞めなかった。それどころかこうして、人が居ない時間を見計らってでも部室に居座っていた。それは何故か。
ーーきっと、未練だ。諦めきれないものが今も俺の中にあるから、こうして部に縋りついているんだ。
気づいてしまえば、ひどくカッコ悪い結論だった。だけどこの往生際の悪さを是としてくれるなら、俺はここに居続けたいと思った。
国都みたいに、素晴らしい環境だなんて胸は張れないけど。
それでもこの場所には、今も俺の希望の欠片が確かに残っているのだと。
そう思えることが、今は嬉しく思えた。
部屋のカーテンを開ければ真っ白な光が押し寄せて、清廉な眩しさに俺は目を細めた。
昨日は色々あったが、帰り道では気持ちが落ち着いていたし、一晩ぐっすりと眠った今では頭もスッキリしている。
新しい日は明るい。窓を開ければ、先駆ける夏の匂いが鼻をくすぐった。
深い緑の匂い。夏に良い思い出はないけれど、このむせ返るような青々しさや、鳥や虫の元気な声は大好きだ。
俺はゆったりと準備をして、通学カバンとカメラバッグを手に家を出た。今日の放課後は、野球部は他校に練習試合に行くらしい。だから撮影には行かないのだが、それでもカメラを持って出たのには理由がある。
『突然すみません。先生にどうしても教えていただきたいことがあります。お時間をもらえないでしょうか』
昨日の夜、俺は先生にこんなメールを送った。連絡先は知っていたものの、実際にメールを送るのは初めてだった。その珍しさがあってか、返信は思っていたよりも早く届いた。
『どしたの?』
面倒そうな短い文面が先生らしかった。
俺は、恥を忍んで先生を頼ることにした。撮影技術のこと、作品を創り出す心構え。ずっと独学だったものにどうしても新しい風を取り入れたくなって、俺は今の気持ちをつまびらかに打ち込んだ。
『撮りたい人を見つけたんです。だけど今の俺では力が足りなくて上手く撮れません。でも、どうしても最高の作品にしたいんです。だから先生に助言をいただきたいです』
お願いしますと文末に文字と祈りを込めて送信したが、今までの先生との付き合いを考えるに、応じてくれる可能性は低い。
でも、俺は何度でもお願いするつもりだった。俺の理想に一番近いのは先生の作品だ。だからなんとしてでも、先生から学びを得たかった。
固い意気込みはしかし、無用に終わった。先生が、まさかの快諾をしたのだ。
『明日の夕方なら時間あるよ。吉祥寺まで出て来れる?』
信じられない思いで眺めた文面は、目の錯覚ではなかった。丁度野球部がいない日を指定してくれたのは好都合だ。俺は一も二もなく『行けます!』と食いついた。
それが今日の約束だ。弟子でもない俺は、初めて先生に教えを受けることになる。純粋な興味と楽しみに、ワクワクと心が弾む。
これから始まる一日は、昨日よりも良い日になる。そう信じて俺は、今日も帝徳高校の校門をくぐった。
始業二十分前の教室はクラスの半数が揃っていた。ざわざわとした賑わいの中、俺はこそりと自席に着く。すると俺を見つけた国都が、わざわざ俺の席までやってきた。
「眞城くん、おはよう」
「国都。おはよう」
「疲れは取れたみたいだね。昨日はゆっくり眠れたかい」
「バッチリ十時間も寝たよ。寝過ぎて眠いくらい」
「そうかい。すっかり元気になったみたいで安心したよ」
「昨日はその、心配……かけてたんだよな。なんか、ごめん」
「いいんだよ。こうしていつもの眞城くんに戻ったんだから」
心から安堵したと言わんばかりに、慈しみの笑みが渡される。俺はなんだか気恥ずかしくなって、小さくうん、とだけ頷き返す。
「今日は部でお昼を食べることになっているから一緒に食べられないけど、明日は楽しみにしているよ」
キュッと音がしそうなほど口角を上げ、突然、国都が長身を折り屈める。
「約束、忘れてないよね」
急な接近に、思わずびくりと身を竦める。俺の顔の横、耳の近くで囁いた国都は、見たこともない悪戯な顔をしていた。その至近距離に、俺の心臓が飛び跳ねる。
「ねッ、念を押さなくてもちゃんと覚えてるよ」
「それならよかった」
一言一句を躍らせ、俺の反応を楽しむ国都がくすりと笑い声を漏らす。
もしかして揶揄われているのだろうか。人との距離の近さに免疫のない俺は簡単に狼狽えてしまい、なんとはない悔しさにムッと唇を結ぶ。
「今日も一日頑張ろうね」
俺の動揺なんかさておき、国都は勝手に完結して去っていく。晴天の朝に相応し過ぎるほどの爽やかさだ。みんなあの雰囲気に『国都は完璧』だと騙されているんだな。
悔しさ紛れに内心憎まれ口を叩きながら、前方の席に戻った国都の後ろ姿を見つめる。
同世代よりも大きな身体に、広い背中。その頼もしさに、こぞってヒーロー扱いするのはわからなくもない。実際、少し前まで俺もそう思っていた。
だけど今なら知ってる。突拍子もなく突っ走るところ、割り箸割るのをよく失敗すること、押しが強いこと。他にも、他愛のない会話から浮かび上がったギャップやいとけなさをたくさん知っている。
国都に対して完璧のイメージはもうない。そう思えることが、俺はとても嬉しかった。
午前の授業が終わり、昼休みが訪れた。今日は久しぶりにひとりの昼休みだ。野球部の部室へ向かった国都と道を分かち、俺はサンドイッチを手に写真部の部室へと向かう。
ひとりきりの昼休みは自由気ままだった。サンドイッチを齧りながら持ってきた写真集を眺めていても、誰に何を言われるわけでもない。人の目を気にせず、だらしなく過ごすのは気が楽だった。
国都と過ごした二日は、こんなじゃなかった。国都の行儀良さは俺には無く、堅苦しさを覚えながらも真似る形で合わせていた。姿勢や食べ方の綺麗さも、国都の姿を見ていたら自然と見習おうという気持ちになった。
人に合わせる行為は苦手だし好きではないが、国都の場合は不思議と苦にならなかった。それどころかだらしない自分が改められていくようで、合わせるということは、時に学びにもなるのだと気がついた。
しかし、ふたりでの楽しい時間を味わってしまった弊害はある。今まで何とも感じていなかったひとりきりの時間が、長く感じるようになってしまったのだ。
たった二日国都と過ごしただけで、こんなにひとりの時間の使い方を持て余してしまうものなのか。俺は写真集を開きながらも気がそぞろになり、国都との時間を思い返しては進まない時計ばかりを気にしていた。
そんな退屈の中、部室の扉を開け、またも友永部長がやってきた。
「あれ、眞城今日は一人なのか」
国都が一緒だと思ったのだろう。俺を視界に入れた部長がキョロキョロと室内を見回す。
「俺一人ですよ。国都なら今日は野球部で食べてます」
「そっか」
「今日はどうしたんですか」
「忘れ物取りに来た」
「またですか。部長、忘れ物多くないですか」
呆れ混じりにチクリと刺すが、部長は何故か黙ったままだった。いつものお喋り好きな口は動かない。その様子に違和感を覚えていると、部長はそわそわと耳の後ろを掻きながら、気まずそうに沈黙を破った。
「眞城。悪かったな」
「もしかして昨日のこと気にしてるんですか?それなら俺はもう気にしてないですよ」
「いや、それもあるけどさ。……去年のこと、ちゃんと眞城に謝っておきたくて」
いつになく真面目な顔をして、友永部長は俺に謝罪する。俺は思いもよらない話を持ち出され、バツの悪そうな部長をじっと見つめる。
「俺、先輩なのに、眞城のこと助けてやれなかった」
分厚いレンズ越しの瞳が伏せる。いつものマシンガンのような語り口は鳴りをひそめ、慎重に言葉を探る部長が、俺の隣の席にそっと腰を下ろす。
「部員、二年は途中から俺一人だけだったろ。三年が引退したら一気に人が居なくなるのに、そこでもし一年がいなくなったら、部の存続すら危ういと思ってさ。部長になることが決まってから、俺の代で終わらせたくないって、ずっと思ってたんだ」
音の無い部室を眺める。まだ三年がいた頃の、賑やかだった頃に思いを馳せる。
まだ希望を抱いていた入部したての頃。その時写真部は最盛期を迎えていて、二年も部長だけではなく、他に四名ほど部員がいた。
「二年の奴らみんな、俺が誘って入ってもらったんだけどさ、結局みんな辞めちゃったろ。一年がある程度入ってくれたから良かったものの、このままだと来年どうなるかって気が気じゃなくて」
友永部長が、初めて部長という重責を語る。考えてみれば当たり前のことなのに、俺は自分のことばかり気にしていて、深く考えたこともなかった。
「唯一の先輩で部長だってのに、強く言えなかった。眞城が嫌な思いしてるってわかってたのに、ちゃんと叱れなかった」
本当にごめん、と。静かに頭を下げた部長に、胸が詰まる。
「……部長がそこまで俺のこと気にしてくれてたなんて、知りませんでした」
「だよなぁ。そりゃそうだ」
「でも、時々俺を助けようとしてくれてたのは、なんとなくわかってました」
入部から二ヶ月。先輩たちの目を盗み、俺へのつまらないイビリが行われ出した頃だった。
ある時、俺の持っていたカメラが馬鹿にされた。三名ほどの金持ちグループが最新の一眼レフを見せつけながら、俺のカメラを安物のボロカメラだとこき下ろした。そして、それが俺に似合いだと揶揄した。
何年もお年玉を貯めて買ったカメラは、俺にとって大切な相棒だった。最新カメラなど羨ましくない。中古が似合ってると言われても悔しくはない。だけど、俺がずっと大事にしてきたものをボロカメラと貶されたのだけは許せなかった。
それでも俺は何も言えなかった。見下す視線に囲まれ、蔑みに怖気づいた俺は言葉が出なかった。
そんな時だった。まだ部長になる前の、友永先輩が割り込んできてくれたのは。
『いやぁ、見てくれよこれ。オレのカメラついに壊れてきてさ。この前落っことしたせいでもうボロボロ』
戯けて見せつけてきた友永先輩のカメラは、あちこち傷も目立ち確かにボロかった。それは俺が持っているものよりもさらに古い型で、メーカーだってマイナーなものだった。
『でもまだ撮れるからさ。最後まで使ってやんなきゃカメラが可哀想だよな!』
豪放に笑う先輩に、後輩である連中は何も言えなくなった。すごすごと相手が引き下がっていく姿に安堵していると、友永先輩はポンと俺の肩を叩き、何も言わずに去っていった。
それは優しい記憶だ。思い返せば、いくつかそんな風に救われた場面は確かにあった。
だけど俺は結局、最後まで耐えきることが出来なかった。
「俺が来なくなったのは部長のせいじゃないです。俺が嫌なことから逃げただけで、部長は何も悪くない。だから、謝らないでください」
「……眞城」
「友永部長が頑張ってたことは知ってます。昔は今程お喋りな人じゃなかったのに、部長になってからはみんなに話しかけまくって部を盛り上げようとしてましたよね」
「ははッ。よく見てるなぁ」
「……俺の方こそ、期待に応えられなくてごめんなさい。部のためにも大会での実績が欲しいって前の小島部長が言ってたのに、結局俺、何も参加しなくて」
「眞城こそ謝るなよ。部の実績なんて眞城一人が気にする話じゃないだろ。それに逃げたっていうけどさ、無理して嫌なとこに居続けなくたっていいんだよ。そりゃ楽しんで部活出来るのが一番理想だけどさ。合う合わないなんて、それこそどこにでもあるだろ」
にっかりと友永部長が笑う。その姿は見違えるほどに先輩らしく、部長らしかった。
取り戻した空気の中、部長が席を立つ。机の端に追いやられた英語のプリントを手にしたところを見ると、忘れ物は本当だったらしい。
「ま、とりあえずオレの言いたいことは終わり。じゃあそろそろ教室戻るな」
「はい」
「野球部での撮影頑張れよ。眞城の初めての人物写真、見るのスゲー楽しみにしてるから」
「……頑張ります。部に入った頃の俺よりは、きっと良いものが撮れると思うので」
「お、珍しく自信あるじゃん。いつもそれくらい堂々としてればいいのに。自分を過小評価し過ぎなんだよ、眞城は」
「そんなこと言われても、俺は」
ーーずっと、優秀賞の壁が越えられないから。ふと苦く過ぎる他者評価に、芽生えかけていた自負が揺らぐ。部長はそんな気弱を見越して、泰然と公言する。
「オレは眞城の写真良いなって思ってるよ。励ましの数にならないかもしれないけど、覚えておいてくれよ」
確かな賞賛を残し、部室を後にしようと歩いていく。
閉ざしていた扉を開く。そして、最後に俺を振り返る。
「ありがとな。写真部、辞めないでくれて」
優しい、先輩の笑顔で。
俺に想いを残していく。
「これからもさ、来たくなかったら来なくていいから、名前だけでも置いといてくれよ。そんで、一年に一回くらい部に参加してくれたらもっと嬉しい。それだけ考えといて」
それ以外は気にするなと言外にほのめかし、部長は去っていった。残された俺は、俺にとっての写真部について、もう一度考える。
部長が言う通り、俺は部を辞めなかった。それどころかこうして、人が居ない時間を見計らってでも部室に居座っていた。それは何故か。
ーーきっと、未練だ。諦めきれないものが今も俺の中にあるから、こうして部に縋りついているんだ。
気づいてしまえば、ひどくカッコ悪い結論だった。だけどこの往生際の悪さを是としてくれるなら、俺はここに居続けたいと思った。
国都みたいに、素晴らしい環境だなんて胸は張れないけど。
それでもこの場所には、今も俺の希望の欠片が確かに残っているのだと。
そう思えることが、今は嬉しく思えた。