灰色醜美のコントラスト
黄昏が迫っていた。
クラブハウスへ訪れた頃はまだ空は青かったのに、一頻り考え事をして出てみれば、日はすでに傾きかけていた。
斜陽差すグラウンドは、どれだけ人の励む声が聴こえようと物悲しい。それは、名門の裏に潜んだ挫折の在処を知ってしまったからだろう。
心新たに見る世界は、違う色に染まっている。陽の光に煌めいていたいくつもの顔々は、気がつけば茜色に移り、暮れたものへと変わっていた。
いや、本当は何も変わっていないのかもしれない。ただ俺の心のレンズが、違ったものだと思わせているだけかもしれない。
目の前を通り過ぎる上級生らしき部員が、グラウンド整備用の器具を手に移動している。どうやら俺がさっきまで撮影していたグラウンドは、いつの間にか守備練習が終わっていたようだ。名も知らぬ部員たちは、これからそのグラウンドを整えるのだろう。
ひどく大人びた横顔だった。落ち着き払った様子は、すでに諦観の境地にあるのだろうか。その平常さが見えない傷跡に思えて、なんだか悲しかった。
俺は、素通りしていく彼らを見送った。彼らの後ろには、同じようにこれから整備をするのだろう部員が何名も続いている。
無意識にカメラを構え、ファインダーを覗く。列は長く、皆一様に同じ表情をしている。
道行くいくつもの後ろ姿に、背番号は存在しない。その白い背中を、俺はシャッターを押して切り取る。
メモリを見返して見れば、トレーニングルームやグラウンドで撮った活力に満ちた動の写真とは一転した、静の光景があった。暮れなずむ地平に向かって歩く、背番号のない背中。自然と人が写ったその一枚に、俺は先生の作品の特徴を思い出していた。
自然と人の一体感。この写真には、それが感じられる。
遠い憧憬に手が届いた気がして、俺は得難い感覚に顔を上げた。すると薄暮の道奥から、こちらに向かってやってくる人物が目に入った。
国都英一郎。この部の先陣に立つ一人。一年の頃から多くの部員の上に立ってきた男。俺のクラスメイトでーー多分、唯一の友達。
堂々とした歩みは、落日の只中にあっても怯みはない。伸びた背筋に凛々しさは際立ち、残光に縁取られた輪郭は後光を放っているようにも見えた。
「……国都」
その姿は、どうしようもなく強靭だ。他者を押し退け、切り拓いた先に邁進する我の強さに満ち満ちている。
高慢で、暴慢で、自分勝手な生き物。
だけどきっと、国都は自分の影に埋もれているものを知っている。自分がどれだけ勝ち上がっているかを知っている。
国都は強い。
その格別な真価は、ただ尊く、気高いまでに美々しかった。
遠ざかる部員とすれ違いながら、国都がこちらへやって来る。今では見慣れた笑顔が、俺を見つけた瞬間に咲く。
「眞城くん、こんなところにいたんだね。途中で姿が見えなくなったからどうしたのかなって思ってたよ」
屈託のない国都の背景に涙する部員の顔が浮かび、切なさの余韻に苛まれる。そんな俺の様子に、国都の顔が曇りだす。
「何か、あったのかい?」
「……ううん。ちょっと体力がなくなって、少し長めに休憩してただけだよ」
「本当かい?」
「本当だよ」
下手な嘘は見透かされている。それでも俺は、虚構の笑みを作り張る。
国都の曇りは晴れない。それどころか、より深く訝しんでいるようだった。
「……あのさ。国都は、なんで帝徳に来たんだ?」
疑心に注目される最中、俺は、ほとんど無意識に口を開いていた。問われた国都は、不意の質問に唖然とする。
「ごめん。いきなり変な質問して」
「いや、構わないよ」
反射的に謝る俺を許容し、国都は、逞しくも勇ましい顔つきで語り出す。
「僕は、歴史も実績もある帝徳が一番素晴らしい環境だと思ったから選んだんだ。とはいえ、昔は帝徳に選ばれるほどの実力はなかったんだけどね」
過去を振り返りながら、ひとつ。何か大きな記憶を掘り出し、国都は懐古に心中を置く。
「昔の僕には実力がなかった。そして、僕はそれを知らなかった。だけどある日、清峰くんと要くんというバッテリーとの勝負に負けて知ったんだ。自分よりも遥かに上の存在が居ること。自分が井の中の蛙で、どれだけ未熟なのかを」
瞳に暗い炎が灯った。苦々しいはずの思い出に、複雑な執着が燃え盛る。
「僕は、清峰くんと要くんに追いつき追い越すため、努力して努力して努力して、ついにはこの帝徳の特S推薦をもらえるまでに至ったんだ」
挫かれたはずの国都は、敗北から糧を得、己の強さへと変え再起した。
不屈の精神と、並々ならぬ奮励。国都英一郎を国都英一郎たらしめるのは、そうした根源的な強さなのだろう。
「そっか……国都は、ちゃんと自分で立ち直ったんだな」
ひ弱な俺には、国都の強さは一片たりとも持ち得ない。比べれば、小さな軋轢に傷つき、長く人との距離を遠ざけてきた自分が臆病で情けなく思えてしまう。
「眞城くん、僕も聞いていいかな。キミはどうして帝徳を選んだんだい?僕が知る限り、特に写真で有名な学校ではないと思うんだけど、何か理由があるのかい」
「俺は……好きな写真家の先生が、帝徳出身だったからだよ。当時まだなかった写真部を設立した人で、それで興味があったんだ」
まぁ今では幽霊部員なんだけど、と軽く自嘲してみても、国都は乗ってこない。それどころか、深く納得した表情で頷いている。
「中学生の時、先生の個展をたまたま見つけて入った頃から憧れててさ。あまりに感動してその場で弟子にしてくださいって言ったんだけど、思いっきり断られたりもして」
「眞城くんって、僕の時といい意外と思い切りがいいよね」
「……まぁ、テンション上がると、変な行動力が出るという自覚はある」
苦く笑えば、国都も小さく笑った。
過去を振り返れば、途端にがらんどうの思い出は襲い来る。俺は惨めな気持ちに目を伏せ、そっと項垂れる。
「でも俺は、写真部に入って何も得られなかった。嫌なことから逃げてばかりで……結局、ひとりで写真を撮り続けて」
写真部の企画で人物を撮りに行った去年の夏。人で溢れかえる渋谷の街で、友永部長は高らかに撮影のスタートを宣言した。カメラを手に、部員たちは散り散りになっていく。俺はそれを見送るだけで、そこから一歩も動けなかった。
目の前には、夥しい数の人がいた。平日の午後、秩序のない群れは皆何かに追われているように忙しなかった。
隣には、電話の向こうに怒鳴り散らしている中年男性がいる。すぐ近くでは、口さがのない愚痴に哄笑する女学生達がいる。
俺は、目の前の景色が怖かった。見も知らぬ他人が、突然悪意のナイフで斬りつけてくる恐怖に怯えていた。
それは、俺の心の傷が見せる幻覚だ。だがわかっていても、身体は言うことを聞かなかった。
俺はカメラを握ったまま、写真を撮る気にもなれず、勝手に帰ることも出来ず、ずっとその場に立ち尽くしていた。日が暮れて皆が戻ってくるまでの間、必死に喧騒から気を逸らし、感覚を鈍らせようと足掻いていた。
一人きりの無駄な戦いは、ただひたすら苦しく、辛かった。
あの時の俺は、傍目から見ても様子がおかしかったのだと思う。戻ってきた部員たちは、身動きのない俺を揃って冷淡な目で凝視していた。その中で唯一、友永部長だけが俺を心配していた。
解散の合図に呪縛を解き放たれ、俺は一目散に部の輪から走り去った。心を取り戻したくて、そのまま都心を離れる電車に乗り込み、隣の県の寂れた森林公園で写真を撮りまくった。
平穏だった。宵闇が閉ざした箱庭に、木々のさざめきだけが耳朶を優しく打っていた。
誰もいない場所で自分を取り戻した俺は、握ったカメラに葛藤を落とした。
何故俺は、今も写真を撮り続けているのだろう。写真なんてやめてしまえば、好きなことなんて手離してしまえば、傷つけられることを恐れずに済むのに。
何度も己に問いかけてきた疑問は、いつだって無意味だった。
俺は、どうしたって写真がやめられなかった。初めて写真を撮ったあの日から俺の心はときめきに囚われていて、根付いた享楽の根は、どれだけもがき苦しんでも俺を離さなかった。
捨ててしまいたいと弱気になる度、結局、思い知る。
俺は写真が好きだ。好きで好きで仕方がないんだ。たとえ世界中が敵に回ろうと、否定されようと、写真だけは絶対にやめることは出来ないのだ、と。
「中学までは写真部がなかったから、部活動に憧れててさ。だから帝徳で写真部に入れば、俺は変われると思ってたんだ。でもそんなのは甘い考えで、写真っていう繋がりがあっても、人と上手く付き合うことは出来なくて」
点数で勝敗が決まる野球と違い、写真には絶対的な勝ち負けが存在しない。だからこそ他者の作品を、価値を尊重し合えると思っていたのに、蓋を開けばそこにも争いは存在した。
己の価値観を物差しに、他を見下す。格付けの鍔迫り合いは大きく表面化せずとも常に起きていて、その矛先はよくよく俺へ向いた。賞を取ったことがあるという実績が妬みの元になったのかもしれない。気の弱い俺は的として丁度良かったのかもしれない。
俺は日に日に孤立し、絶望した。夢だったはずの環境に、俺は打ちのめされた。
部のみんなと写真について語り合いたかった。好きな気持ちを共有したかった。
だが思い描いていたものは、ただの空想図でしかなかった。
俺は、部から遠ざかった。
そして気づけばまたーーひとりを選んでいた。
「情けない話だよな、ホント」
澱み積もった苦惨に、紛い物の笑顔で蓋をする。国都となら自然に笑えていたはずなのに、気づけば俺はまた、笑い方を忘れていた。
「眞城くん……」
国都の瞳に映る俺は、どんな風なんだろう。曝け出した軟弱さに失望しただろうか。あまりの不甲斐なさに見捨てられただろうか。
そんな想像ばかりする自分が嫌だった。そして、本当にそう思われてしまうのが何より怖かった。
だって俺は、国都と、並んでいたかったから。
「ごめん。今日はこれで帰るよ。自分が撮りたいもの、ちゃんと考え直したいから」
潤み出した目を隠し、俺は荷物を抱えた。背を向けてそのまま去ろうとすれば、背後から一歩踏み出した国都の足音が聞こえた。
「眞城くん!」
「……………………」
「明日は練習試合だから無理だけど、明後日にはまた来るよね」
「………………」
「明後日、お昼をまた一緒に食べよう。僕はもっと、キミといろんな話がしたいんだ」
「…………俺でいいのかよ」
「キミがいいんだよ」
その一言で、涙が溢れた。背を向けていたことに安心した。こんなことで泣いているなんて、国都に見られたくはなかったから。
「……明後日」
震える吐息に言葉を揺らし、俺は必死に答える。
「また明後日。ちゃんと、ここに来るから」
「うん。お昼も約束だよ」
「……わかった。約束な」
じゃあまた。
どちらともなく声を掛け合い、俺は帰路に踏み出した。溢れた涙はとうに落ち、涙の跡が向かい風に乾かされる。
頬が、ひんやりと冷たい。それを指先で擦り払いながら、俺は決意に顔を上げた。傷心に負けている暇はない。俺は課題を全うするんだ。
撮りたいと思うものを最高の形で写したい。
国都やみんなの期待に応えたい。
俺はもっとーー強くなりたい。
感情も、感傷も。大嫌いな自分の弱さも。
俺の中のもの全てを懸けて、この作品を創り上げるんだ。
生まれたての意志が、落日に抗う。奮い立つ想いに空を見上げれば、望洋な世界に自分が溶け込んだ気がした。
ーー『キミがいいんだよ』。
前に進む力をくれたのは、国都の言葉だ。
その響きひとつで、勇気を手渡された気がした。
閉ざしていた俺の源泉が、喜びに湧き上がっていくようだった。
寄る辺もなかった感情の水面は波打ち、優しい波紋に踊り跳ねた。
それは、初めて知る、自我の奔流だ。
寄せては返す波間に、触れたことのない幸福が漂う。
情動の水位は溢れ、俺の心の容量を超えたその想いは、一雫だけの涙になって頬に流れた。
喜びの涙は冷えた頬を温めながら、苦しみの涙の跡を追う。
落ちたその雫は、俺の心に深く深く、沁み込んでいった。
クラブハウスへ訪れた頃はまだ空は青かったのに、一頻り考え事をして出てみれば、日はすでに傾きかけていた。
斜陽差すグラウンドは、どれだけ人の励む声が聴こえようと物悲しい。それは、名門の裏に潜んだ挫折の在処を知ってしまったからだろう。
心新たに見る世界は、違う色に染まっている。陽の光に煌めいていたいくつもの顔々は、気がつけば茜色に移り、暮れたものへと変わっていた。
いや、本当は何も変わっていないのかもしれない。ただ俺の心のレンズが、違ったものだと思わせているだけかもしれない。
目の前を通り過ぎる上級生らしき部員が、グラウンド整備用の器具を手に移動している。どうやら俺がさっきまで撮影していたグラウンドは、いつの間にか守備練習が終わっていたようだ。名も知らぬ部員たちは、これからそのグラウンドを整えるのだろう。
ひどく大人びた横顔だった。落ち着き払った様子は、すでに諦観の境地にあるのだろうか。その平常さが見えない傷跡に思えて、なんだか悲しかった。
俺は、素通りしていく彼らを見送った。彼らの後ろには、同じようにこれから整備をするのだろう部員が何名も続いている。
無意識にカメラを構え、ファインダーを覗く。列は長く、皆一様に同じ表情をしている。
道行くいくつもの後ろ姿に、背番号は存在しない。その白い背中を、俺はシャッターを押して切り取る。
メモリを見返して見れば、トレーニングルームやグラウンドで撮った活力に満ちた動の写真とは一転した、静の光景があった。暮れなずむ地平に向かって歩く、背番号のない背中。自然と人が写ったその一枚に、俺は先生の作品の特徴を思い出していた。
自然と人の一体感。この写真には、それが感じられる。
遠い憧憬に手が届いた気がして、俺は得難い感覚に顔を上げた。すると薄暮の道奥から、こちらに向かってやってくる人物が目に入った。
国都英一郎。この部の先陣に立つ一人。一年の頃から多くの部員の上に立ってきた男。俺のクラスメイトでーー多分、唯一の友達。
堂々とした歩みは、落日の只中にあっても怯みはない。伸びた背筋に凛々しさは際立ち、残光に縁取られた輪郭は後光を放っているようにも見えた。
「……国都」
その姿は、どうしようもなく強靭だ。他者を押し退け、切り拓いた先に邁進する我の強さに満ち満ちている。
高慢で、暴慢で、自分勝手な生き物。
だけどきっと、国都は自分の影に埋もれているものを知っている。自分がどれだけ勝ち上がっているかを知っている。
国都は強い。
その格別な真価は、ただ尊く、気高いまでに美々しかった。
遠ざかる部員とすれ違いながら、国都がこちらへやって来る。今では見慣れた笑顔が、俺を見つけた瞬間に咲く。
「眞城くん、こんなところにいたんだね。途中で姿が見えなくなったからどうしたのかなって思ってたよ」
屈託のない国都の背景に涙する部員の顔が浮かび、切なさの余韻に苛まれる。そんな俺の様子に、国都の顔が曇りだす。
「何か、あったのかい?」
「……ううん。ちょっと体力がなくなって、少し長めに休憩してただけだよ」
「本当かい?」
「本当だよ」
下手な嘘は見透かされている。それでも俺は、虚構の笑みを作り張る。
国都の曇りは晴れない。それどころか、より深く訝しんでいるようだった。
「……あのさ。国都は、なんで帝徳に来たんだ?」
疑心に注目される最中、俺は、ほとんど無意識に口を開いていた。問われた国都は、不意の質問に唖然とする。
「ごめん。いきなり変な質問して」
「いや、構わないよ」
反射的に謝る俺を許容し、国都は、逞しくも勇ましい顔つきで語り出す。
「僕は、歴史も実績もある帝徳が一番素晴らしい環境だと思ったから選んだんだ。とはいえ、昔は帝徳に選ばれるほどの実力はなかったんだけどね」
過去を振り返りながら、ひとつ。何か大きな記憶を掘り出し、国都は懐古に心中を置く。
「昔の僕には実力がなかった。そして、僕はそれを知らなかった。だけどある日、清峰くんと要くんというバッテリーとの勝負に負けて知ったんだ。自分よりも遥かに上の存在が居ること。自分が井の中の蛙で、どれだけ未熟なのかを」
瞳に暗い炎が灯った。苦々しいはずの思い出に、複雑な執着が燃え盛る。
「僕は、清峰くんと要くんに追いつき追い越すため、努力して努力して努力して、ついにはこの帝徳の特S推薦をもらえるまでに至ったんだ」
挫かれたはずの国都は、敗北から糧を得、己の強さへと変え再起した。
不屈の精神と、並々ならぬ奮励。国都英一郎を国都英一郎たらしめるのは、そうした根源的な強さなのだろう。
「そっか……国都は、ちゃんと自分で立ち直ったんだな」
ひ弱な俺には、国都の強さは一片たりとも持ち得ない。比べれば、小さな軋轢に傷つき、長く人との距離を遠ざけてきた自分が臆病で情けなく思えてしまう。
「眞城くん、僕も聞いていいかな。キミはどうして帝徳を選んだんだい?僕が知る限り、特に写真で有名な学校ではないと思うんだけど、何か理由があるのかい」
「俺は……好きな写真家の先生が、帝徳出身だったからだよ。当時まだなかった写真部を設立した人で、それで興味があったんだ」
まぁ今では幽霊部員なんだけど、と軽く自嘲してみても、国都は乗ってこない。それどころか、深く納得した表情で頷いている。
「中学生の時、先生の個展をたまたま見つけて入った頃から憧れててさ。あまりに感動してその場で弟子にしてくださいって言ったんだけど、思いっきり断られたりもして」
「眞城くんって、僕の時といい意外と思い切りがいいよね」
「……まぁ、テンション上がると、変な行動力が出るという自覚はある」
苦く笑えば、国都も小さく笑った。
過去を振り返れば、途端にがらんどうの思い出は襲い来る。俺は惨めな気持ちに目を伏せ、そっと項垂れる。
「でも俺は、写真部に入って何も得られなかった。嫌なことから逃げてばかりで……結局、ひとりで写真を撮り続けて」
写真部の企画で人物を撮りに行った去年の夏。人で溢れかえる渋谷の街で、友永部長は高らかに撮影のスタートを宣言した。カメラを手に、部員たちは散り散りになっていく。俺はそれを見送るだけで、そこから一歩も動けなかった。
目の前には、夥しい数の人がいた。平日の午後、秩序のない群れは皆何かに追われているように忙しなかった。
隣には、電話の向こうに怒鳴り散らしている中年男性がいる。すぐ近くでは、口さがのない愚痴に哄笑する女学生達がいる。
俺は、目の前の景色が怖かった。見も知らぬ他人が、突然悪意のナイフで斬りつけてくる恐怖に怯えていた。
それは、俺の心の傷が見せる幻覚だ。だがわかっていても、身体は言うことを聞かなかった。
俺はカメラを握ったまま、写真を撮る気にもなれず、勝手に帰ることも出来ず、ずっとその場に立ち尽くしていた。日が暮れて皆が戻ってくるまでの間、必死に喧騒から気を逸らし、感覚を鈍らせようと足掻いていた。
一人きりの無駄な戦いは、ただひたすら苦しく、辛かった。
あの時の俺は、傍目から見ても様子がおかしかったのだと思う。戻ってきた部員たちは、身動きのない俺を揃って冷淡な目で凝視していた。その中で唯一、友永部長だけが俺を心配していた。
解散の合図に呪縛を解き放たれ、俺は一目散に部の輪から走り去った。心を取り戻したくて、そのまま都心を離れる電車に乗り込み、隣の県の寂れた森林公園で写真を撮りまくった。
平穏だった。宵闇が閉ざした箱庭に、木々のさざめきだけが耳朶を優しく打っていた。
誰もいない場所で自分を取り戻した俺は、握ったカメラに葛藤を落とした。
何故俺は、今も写真を撮り続けているのだろう。写真なんてやめてしまえば、好きなことなんて手離してしまえば、傷つけられることを恐れずに済むのに。
何度も己に問いかけてきた疑問は、いつだって無意味だった。
俺は、どうしたって写真がやめられなかった。初めて写真を撮ったあの日から俺の心はときめきに囚われていて、根付いた享楽の根は、どれだけもがき苦しんでも俺を離さなかった。
捨ててしまいたいと弱気になる度、結局、思い知る。
俺は写真が好きだ。好きで好きで仕方がないんだ。たとえ世界中が敵に回ろうと、否定されようと、写真だけは絶対にやめることは出来ないのだ、と。
「中学までは写真部がなかったから、部活動に憧れててさ。だから帝徳で写真部に入れば、俺は変われると思ってたんだ。でもそんなのは甘い考えで、写真っていう繋がりがあっても、人と上手く付き合うことは出来なくて」
点数で勝敗が決まる野球と違い、写真には絶対的な勝ち負けが存在しない。だからこそ他者の作品を、価値を尊重し合えると思っていたのに、蓋を開けばそこにも争いは存在した。
己の価値観を物差しに、他を見下す。格付けの鍔迫り合いは大きく表面化せずとも常に起きていて、その矛先はよくよく俺へ向いた。賞を取ったことがあるという実績が妬みの元になったのかもしれない。気の弱い俺は的として丁度良かったのかもしれない。
俺は日に日に孤立し、絶望した。夢だったはずの環境に、俺は打ちのめされた。
部のみんなと写真について語り合いたかった。好きな気持ちを共有したかった。
だが思い描いていたものは、ただの空想図でしかなかった。
俺は、部から遠ざかった。
そして気づけばまたーーひとりを選んでいた。
「情けない話だよな、ホント」
澱み積もった苦惨に、紛い物の笑顔で蓋をする。国都となら自然に笑えていたはずなのに、気づけば俺はまた、笑い方を忘れていた。
「眞城くん……」
国都の瞳に映る俺は、どんな風なんだろう。曝け出した軟弱さに失望しただろうか。あまりの不甲斐なさに見捨てられただろうか。
そんな想像ばかりする自分が嫌だった。そして、本当にそう思われてしまうのが何より怖かった。
だって俺は、国都と、並んでいたかったから。
「ごめん。今日はこれで帰るよ。自分が撮りたいもの、ちゃんと考え直したいから」
潤み出した目を隠し、俺は荷物を抱えた。背を向けてそのまま去ろうとすれば、背後から一歩踏み出した国都の足音が聞こえた。
「眞城くん!」
「……………………」
「明日は練習試合だから無理だけど、明後日にはまた来るよね」
「………………」
「明後日、お昼をまた一緒に食べよう。僕はもっと、キミといろんな話がしたいんだ」
「…………俺でいいのかよ」
「キミがいいんだよ」
その一言で、涙が溢れた。背を向けていたことに安心した。こんなことで泣いているなんて、国都に見られたくはなかったから。
「……明後日」
震える吐息に言葉を揺らし、俺は必死に答える。
「また明後日。ちゃんと、ここに来るから」
「うん。お昼も約束だよ」
「……わかった。約束な」
じゃあまた。
どちらともなく声を掛け合い、俺は帰路に踏み出した。溢れた涙はとうに落ち、涙の跡が向かい風に乾かされる。
頬が、ひんやりと冷たい。それを指先で擦り払いながら、俺は決意に顔を上げた。傷心に負けている暇はない。俺は課題を全うするんだ。
撮りたいと思うものを最高の形で写したい。
国都やみんなの期待に応えたい。
俺はもっとーー強くなりたい。
感情も、感傷も。大嫌いな自分の弱さも。
俺の中のもの全てを懸けて、この作品を創り上げるんだ。
生まれたての意志が、落日に抗う。奮い立つ想いに空を見上げれば、望洋な世界に自分が溶け込んだ気がした。
ーー『キミがいいんだよ』。
前に進む力をくれたのは、国都の言葉だ。
その響きひとつで、勇気を手渡された気がした。
閉ざしていた俺の源泉が、喜びに湧き上がっていくようだった。
寄る辺もなかった感情の水面は波打ち、優しい波紋に踊り跳ねた。
それは、初めて知る、自我の奔流だ。
寄せては返す波間に、触れたことのない幸福が漂う。
情動の水位は溢れ、俺の心の容量を超えたその想いは、一雫だけの涙になって頬に流れた。
喜びの涙は冷えた頬を温めながら、苦しみの涙の跡を追う。
落ちたその雫は、俺の心に深く深く、沁み込んでいった。