灰色醜美のコントラスト
トレーニングルームを後にした俺は、最難関である野球動作の撮影練習をしようとグラウンドに向かった。スケジュールによればこの後は守備練習が行われるはずだ。散々だった昨日の出来から挽回するため、一層気合が入る。
室内から外へ出ると、まだ勢いの衰えない太陽の直射に目が眩んだ。反射的に瞼を閉じてふらつけば、ドン、と人にぶつかる衝撃が起き、俺は慌てて目を開けた。
なんとそこに居たのは、昨日怖い印象のまま終わった小里先輩だった。
「こッ、小里先輩!すみません!!」
「あァ?お前は昨日の」
「さ、眞城です。昨日はどうも」
すぐさま謝ってみれば、思いの外怒鳴られはしなかった。が、緊張から会話のひとつひとつに力が入る。
「なんでここに居んだよ。国都はこっちじゃねェだろ」
「今日はその、写真の練習のために全体を回らせてもらっていて」
「ふーん」
特に興味もなさそうに相槌を打って、さっさと先へ行こうとする。向かう場所は俺が行く方向と同じだ。小里先輩は、これから守備練習なのだ。
「あの、もしよかったら、この後の守備練習で撮らせてもらっていいでしょうか」
ズカズカと進む後ろ姿を小走りで追いかけながら、俺は恐る恐る願い出る。すると小里先輩はピクリと反応し、歩みは止めずに首だけで俺を振り返った。
「はァ?俺を撮るだァ?」
「はッ、はい。今日のお昼に国都から先輩たちのお話を聞いたんですけど、その時国都が『小里さんの守備はすごく軽快だから写真映えすると思う』って教えてくれたんです」
一言一句しっかりと伝えれば、小里先輩の鋭い目尻がやや下がった気がした。
「今の俺じゃまだ上手くは撮れないと思うんですけど……どうしても撮ってみたいんです。許可をもらえませんか!」
足を止め、思いっきり頭を下げる。無視されるのも覚悟済みだったが、意外にも小里先輩は足を止め、俺をきちんと振り返った。
「……好きにしろ」
「あ、ありがとうございます!」
放任とも取れる返答に、俺はもう一度深く礼をする。小里先輩はそんな俺をフン、と一瞥すると、再びグラウンドに向け足を早めた。その後ろを、俺はまた慌てて追いかける。
「写真の出来なんざどうでもいいが、やるなら真剣にやれよ。俺らの練習をふざけて撮るようなら、そのカメラぶっ壊してやるからな」
「は、はい!肝に銘じます!」
許可はもらえたが、発言がやっぱり過激だ。どうしてもいちいちビクついてしまう。
「小里、あんまり物騒なこと言ってやるなよ」
そんな俺たちのやり取りをいつの間にか後ろから見ていた人達がいた。気配に振り返れば、そこに居たのは久我先輩と千石先輩だった。
「イジメは感心しないぞ」
「イジめてねェよ!」
咎められた小里先輩が千石先輩にキレる。確かこの二人は二遊間というコンビのようなものだと聞いた。が、陽ノ本先輩と飛高先輩のような良好な関係とは程遠い。正直、パッと見あまり相性が良いようには見えない。
「眞城。小里は帝徳野球部一の狂犬だ。イビられたり殴られたりした時はすぐに言え」
「千石テメー!人聞き悪いこと吹き込んでんじゃねェよ!!」
「そッ、そうですよ。大丈夫ですよ千石先輩」
「千石さんと呼べ」
「え!?じゃ、じゃあ……千石さん」
呼び名を正され言われるままに変える。そして、改めて小里先輩の弁護を図る。
「あの、小里先輩は撮って良いって許可をくれましたし、真剣にやれって言ったのも、部のことを大切に思ってるから言ったんだと思います。なので、決してイジメられたわけでは」
「ふむ。だそうだが、そうなのか小里」
「俺はンなことまで言ってねェ!」
「図星だそうだ。良かったな、眞城」
「人の話を聞けよテメーはよ!!」
「あっ、はは……」
「おい、眞城の顔が引き攣ってるぞ。良い加減にしてやれよ」
久我先輩という名の救いが間に入る。今の俺にとってはまるで天使のようだ。俺は思わずそそと久我先輩の隣に立ち位置を変える。
「あの、久我先輩と千石先輩のことも取らせてもらっていいですか。俺、作品完成させるためにも一枚でも多く撮って練習したくて」
「俺は構わないぞ。千石も問題ないだろ」
「好きにするといい」
「お二人とも、ありがとうございます!」
すかさずお願いすれば、あっさりと許可がもらえて一安心する。
本当は部から撮影許可をもらっているのだから、好きに撮っていいのかもしれない。が、やはり人を撮っているとなると個人個人の許諾の有無はどうしても気になってしまう。撮ろうとするたび許しをもらうのは正直しんどいのだが、俺の性格上、それでもそこを省くことは出来なかった。
「そうやってみんなに許可取って回ってるのか?眞城は律儀だな」
「性分というか……撮られたくない人もいるかもと思うと、勝手に撮るのは失礼な気がして」
そんな俺を久我先輩に評され、自分でも思い知る。だが一番の理由は、おそらく人を撮った経験がほとんどない俺の対人への不安だ。つまるところ、勝手に撮って疎まれたり怒られたりするのが怖いのだ。
臆病な動機だが、それでも功を奏しているのか。結果さっきのトレーニングルームでは初対面の選手にも見知ってもらえるようになったのだから、悪いことではないのだろう。
「安心しろ。野球選手なんてのはどいつもこいつも目立ちたがりだ。喜ぶならまだしも、嫌がるヤツはそういないだろう」
「千石の言う通りだな。大概のヤツはむしろ撮って欲しいんじゃないか」
「そういうものなんですか。でも、それなら俺としても助かります」
最上級生からのお墨付きに安堵すると、久我先輩が俺に向け、白い歯を見せる。
「眞城の最終的な目標は国都なんだよな。良い写真にしてやってくれよ」
「きっと良い値が付くぞ」
「売りませんよ!」
「お前らさっさと歩け!練習始まンぞ!」
小里先輩に締められ、俺たちは駆け出していく。すぐ先に見える整えられたグラウンドでは、先に着いていた国都の姿が見える。バタバタと慌ただしく走る俺たちを、国都は笑顔で待っていた。
グラウンドに着くと、間もなく守備練習が始まった。
昨日の失敗を振り返り、シャッタースピードの調節はしてある。調節量はネットの受け売りではあるが、まずは確かめてみることにする。
内野手のグループが守備位置に着く。方々にノックが打たれ、選手たちは今日も白球に飛びつく。そして、俺はその姿にレンズを向ける。
二日目ともなると、少しではあるが動きの予測がつく。俺はそれを考慮し、フォーカスロックで万全のタイミングを狙う。
ーーー今だ。ボールへと飛びつく瞬間に狙いを定め、連続シャッターを切る。カシャカシャと長くシャッター音がして、投げるまでの動作が収まっていく。
「昨日よりはマシだけど……やっぱイマイチだな」
フレームアウトは免れたが、何とか収まっただけのレベルだ。映える構図には程遠い。
俺は、何度も何度も試行錯誤した。許可をくれた小里先輩、千石先輩、久我先輩らが懸命にボールを追う姿を少しでも良く撮ろうとチャレンジし続けた。
そして、国都にカメラを向ける。かけてもらえた言葉や期待を思い出しながら、必死に練習する姿をレンズ越しに眺める。
なんとなく、バッティングの時とは集中力が違う気がする。バッティングの時の方がもっと鬼気迫る表情だった。もしかして、守備はそんなに好きじゃないのかな。
勝手な想像をしながら撮ってみれば、動作よりも表情ばかり写してしまった。見返すと、バッティングの時とはえらく違う表情で笑ってしまう。
あとで時間があれば見せてやろうかな。そう思いながら、俺はまた巡り出した練習に再びカメラを構えた。
時間が経ち、疲労が滲んできた頃だった。ふとトイレに行きたくなり、俺は一度グラウンドを離れ室内練習場に向かうことにした。
練習の最中にも関わらず、往来では下級生上級生問わず多くの選手が行き交っている。そのほとんどは、準備やサポートに従事しているようだ。大会前は主力を中心に鍛えていると聞いたから、今時期はこうした裏方をやる選手は多いのだろう。
俺はそれを横目に通り過ぎながら、人気の薄いクラブハウスへと近付いた。そして入口に入ろうとしたところで、ふと建物の影から聞こえた人の声に足を止めた。
発生源は、入口から横に外れたやや奥の一画だ。気になった俺は何とはなしに顔を覗かせる。
「うッ……くッ……」
「……小松」
そこに居たのは、おそらく三年生だろう選手二人だった。小松と呼ばれた選手は、腕で目を擦りながら泣いている。その様子を、もう一人の選手は側で見守っている。
「もう泣き止め。辛いのは俺だって同じだ」
「わかってる……でも、どうしても……!どうしてもッ、今はアイツを見たくないんだ!!」
「…………国都か」
聞こえてしまった名前が驚愕の弾丸になり、俺を撃ち抜いた。雷が落ちたような衝撃と動悸がして、すぐに立ち去りたいと思ったのに、足は動かなかった。
小松と呼ばれた選手が、一際大きな嗚咽をこぼす。
「守備も打撃も三年間ずっと努力してきたんだッ!!成績だって、良くない時もあったけど負けてない時期もあった!!なのにどうしてッ……どうして俺は選ばれないんだよッ!!」
慟哭に吠える。心胆からの叫びは切なく、苦しかった。
光から生み出される闇。あると知っていたはずの影。
輝くことを夢見た何人もの選手が、一握の選定から溢れ、表舞台から遠ざかる。それは勝負の世界の常であり、きっと彼らも、いつかは蹴落とす側だった時期があったかもしれない。
それでも。
報われないのは、辛い。
「アイツさえいなければ、今もあの背番号は、俺のものだったのにッ……!!」
怨嗟と悲哀が刃になり、俺を深く突き刺した。通りすがりに知ってしまった誰ともしれない部員の胸中が、俺の胸に忍び込み荒らし乱す。
悔しさ、嫉妬、憤り。負に沈んだ感情の発露は、彼が研鑽し尽くした年月の分だけ重く澱んでいる。
彼の痛切な想い。それは、俺が最初に抱いた、多くの野球部員に対する疑問に触れるものだった。
『彼らはこの厳しい練習の果てに、何を目指しているのだろう。ほとんどの選手がレギュラーになれない現実の中、どうして彼らは野球部であり続けるのだろう』
俺が目の当たりにしているのは現実だ。
名門野球部という華やかな舞台の先端に立てなかった者。二人は、悔しさを秘め今日まで耐えてきたのだろう。
いや、二人だけじゃない。多くの部員が、未だ同じ想いを抱いているに違いない。
「……俺だって、三年間頑張ってきたよ。お前とゲロ吐きながら励まし合って、ずっとやってきた。そうだろ」
「うッ……ううッ……!!」
「お前はまだいいよ。控えとはいえ背番号をもらうことが出来たんだ。俺は、一度だってもらうことはなかった」
「た、田中ッ……!!俺ッ……」
「いいって。俺は二年で大怪我した時に、とうに諦めてたから」
実力差、怪我。様々な事情が浮かび上がるが、そのどれもは、決して彼らを簡単に諦めさせるものではない。
「俺たちは確かに努力してきた。でも、お前だってわかってるんだろ?国都がどれだけ努力しているか。今までの俺たちがやってきたことよりも、もっともっと努力してきたんだってことが」
「……ッ!……う、くッ」
田中と呼ばれた選手が、泣いて震える彼の肩を叩く。そこでようやく小松という選手は、涙を振り払い顔を上げた。
泣き腫らした顔は、それでも強く精悍だった。
「精一杯応援しようぜ。俺たちが選んで努力してきたこの帝徳が勝ち進めば、きっと、やってきたことも少しは報われるだろ」
「……そう、だな」
「去年は甲子園で散々な負け方したけどさ、甲子園に行けたことに間違いはないんだ。今年は優勝してもらおうぜ」
「うん……そうだな。したいな、優勝」
ようやく二人に笑顔が浮かぶ。俺はそれを見届けると、金縛りから解けた足をそっと動かし場を離れた。
クラブハウスの中は、先程の熱気が嘘のように冷え切っていた。通りがかったトレーニングルームは閑散としていて、賑わいはない。
リノリウムに空しく響く足音を聴きながら、俺は思う。
やっぱり俺は、人の複雑さが苦手だ。内と外、表と裏。社会で生きるため、否応なしに生まれる多面性が苦手だ。
だがそれはきっと、『不自然』だからじゃない。裏に潜むしかなかった人の想いに、目を背けていたかったんだ。
怒り、悲しみ、妬み、嫉み。報われず削ぎ落とされた夢や希望から生まれる感情はどれも重く苦しくて、その人が背負う影を直視したくなかったんだ。
だけどもう、俺は知ってしまった。世界は美しいばかりじゃない。人が抱えるものには、暗く醜く歪んだものもたくさんある。それを避けて逃げ、綺麗な景色ばかりを撮り続けてきた俺は、表面的な美しさばかりを追い求めていただけだと知ってしまった。
今までの俺の写真に映っていたのは、硝子細工のような、子供じみた夢想だ。人との関わりを避けるため自然風景に傾倒し、仮初の美を至上としていた俺は、世界の本質を何一つ理解はしていなかった。
世界には、様々な想いが織りなされている。自然も、人も。時にぶつかり合い、傷つけ合い、常に形を変え、不可視の模様を紡ぎ続けている。
それは時に歪曲し、醜悪で。
だけど懸命で、健気で。
そんな人の世界がーーー全てをひっくるめた世界が、俺はようやく、美しいものだと思えた。
俺の胸に、一妙の火が灯った。燃えたぎる火が、俺の視界を照らし映し変える。
握りしめたカメラに、俺の掌の熱が移っていく。
ーー徐々に温度の境を失くしていく感覚は、まるで。
カメラが俺に、呼応してくれているようだった。
室内から外へ出ると、まだ勢いの衰えない太陽の直射に目が眩んだ。反射的に瞼を閉じてふらつけば、ドン、と人にぶつかる衝撃が起き、俺は慌てて目を開けた。
なんとそこに居たのは、昨日怖い印象のまま終わった小里先輩だった。
「こッ、小里先輩!すみません!!」
「あァ?お前は昨日の」
「さ、眞城です。昨日はどうも」
すぐさま謝ってみれば、思いの外怒鳴られはしなかった。が、緊張から会話のひとつひとつに力が入る。
「なんでここに居んだよ。国都はこっちじゃねェだろ」
「今日はその、写真の練習のために全体を回らせてもらっていて」
「ふーん」
特に興味もなさそうに相槌を打って、さっさと先へ行こうとする。向かう場所は俺が行く方向と同じだ。小里先輩は、これから守備練習なのだ。
「あの、もしよかったら、この後の守備練習で撮らせてもらっていいでしょうか」
ズカズカと進む後ろ姿を小走りで追いかけながら、俺は恐る恐る願い出る。すると小里先輩はピクリと反応し、歩みは止めずに首だけで俺を振り返った。
「はァ?俺を撮るだァ?」
「はッ、はい。今日のお昼に国都から先輩たちのお話を聞いたんですけど、その時国都が『小里さんの守備はすごく軽快だから写真映えすると思う』って教えてくれたんです」
一言一句しっかりと伝えれば、小里先輩の鋭い目尻がやや下がった気がした。
「今の俺じゃまだ上手くは撮れないと思うんですけど……どうしても撮ってみたいんです。許可をもらえませんか!」
足を止め、思いっきり頭を下げる。無視されるのも覚悟済みだったが、意外にも小里先輩は足を止め、俺をきちんと振り返った。
「……好きにしろ」
「あ、ありがとうございます!」
放任とも取れる返答に、俺はもう一度深く礼をする。小里先輩はそんな俺をフン、と一瞥すると、再びグラウンドに向け足を早めた。その後ろを、俺はまた慌てて追いかける。
「写真の出来なんざどうでもいいが、やるなら真剣にやれよ。俺らの練習をふざけて撮るようなら、そのカメラぶっ壊してやるからな」
「は、はい!肝に銘じます!」
許可はもらえたが、発言がやっぱり過激だ。どうしてもいちいちビクついてしまう。
「小里、あんまり物騒なこと言ってやるなよ」
そんな俺たちのやり取りをいつの間にか後ろから見ていた人達がいた。気配に振り返れば、そこに居たのは久我先輩と千石先輩だった。
「イジメは感心しないぞ」
「イジめてねェよ!」
咎められた小里先輩が千石先輩にキレる。確かこの二人は二遊間というコンビのようなものだと聞いた。が、陽ノ本先輩と飛高先輩のような良好な関係とは程遠い。正直、パッと見あまり相性が良いようには見えない。
「眞城。小里は帝徳野球部一の狂犬だ。イビられたり殴られたりした時はすぐに言え」
「千石テメー!人聞き悪いこと吹き込んでんじゃねェよ!!」
「そッ、そうですよ。大丈夫ですよ千石先輩」
「千石さんと呼べ」
「え!?じゃ、じゃあ……千石さん」
呼び名を正され言われるままに変える。そして、改めて小里先輩の弁護を図る。
「あの、小里先輩は撮って良いって許可をくれましたし、真剣にやれって言ったのも、部のことを大切に思ってるから言ったんだと思います。なので、決してイジメられたわけでは」
「ふむ。だそうだが、そうなのか小里」
「俺はンなことまで言ってねェ!」
「図星だそうだ。良かったな、眞城」
「人の話を聞けよテメーはよ!!」
「あっ、はは……」
「おい、眞城の顔が引き攣ってるぞ。良い加減にしてやれよ」
久我先輩という名の救いが間に入る。今の俺にとってはまるで天使のようだ。俺は思わずそそと久我先輩の隣に立ち位置を変える。
「あの、久我先輩と千石先輩のことも取らせてもらっていいですか。俺、作品完成させるためにも一枚でも多く撮って練習したくて」
「俺は構わないぞ。千石も問題ないだろ」
「好きにするといい」
「お二人とも、ありがとうございます!」
すかさずお願いすれば、あっさりと許可がもらえて一安心する。
本当は部から撮影許可をもらっているのだから、好きに撮っていいのかもしれない。が、やはり人を撮っているとなると個人個人の許諾の有無はどうしても気になってしまう。撮ろうとするたび許しをもらうのは正直しんどいのだが、俺の性格上、それでもそこを省くことは出来なかった。
「そうやってみんなに許可取って回ってるのか?眞城は律儀だな」
「性分というか……撮られたくない人もいるかもと思うと、勝手に撮るのは失礼な気がして」
そんな俺を久我先輩に評され、自分でも思い知る。だが一番の理由は、おそらく人を撮った経験がほとんどない俺の対人への不安だ。つまるところ、勝手に撮って疎まれたり怒られたりするのが怖いのだ。
臆病な動機だが、それでも功を奏しているのか。結果さっきのトレーニングルームでは初対面の選手にも見知ってもらえるようになったのだから、悪いことではないのだろう。
「安心しろ。野球選手なんてのはどいつもこいつも目立ちたがりだ。喜ぶならまだしも、嫌がるヤツはそういないだろう」
「千石の言う通りだな。大概のヤツはむしろ撮って欲しいんじゃないか」
「そういうものなんですか。でも、それなら俺としても助かります」
最上級生からのお墨付きに安堵すると、久我先輩が俺に向け、白い歯を見せる。
「眞城の最終的な目標は国都なんだよな。良い写真にしてやってくれよ」
「きっと良い値が付くぞ」
「売りませんよ!」
「お前らさっさと歩け!練習始まンぞ!」
小里先輩に締められ、俺たちは駆け出していく。すぐ先に見える整えられたグラウンドでは、先に着いていた国都の姿が見える。バタバタと慌ただしく走る俺たちを、国都は笑顔で待っていた。
グラウンドに着くと、間もなく守備練習が始まった。
昨日の失敗を振り返り、シャッタースピードの調節はしてある。調節量はネットの受け売りではあるが、まずは確かめてみることにする。
内野手のグループが守備位置に着く。方々にノックが打たれ、選手たちは今日も白球に飛びつく。そして、俺はその姿にレンズを向ける。
二日目ともなると、少しではあるが動きの予測がつく。俺はそれを考慮し、フォーカスロックで万全のタイミングを狙う。
ーーー今だ。ボールへと飛びつく瞬間に狙いを定め、連続シャッターを切る。カシャカシャと長くシャッター音がして、投げるまでの動作が収まっていく。
「昨日よりはマシだけど……やっぱイマイチだな」
フレームアウトは免れたが、何とか収まっただけのレベルだ。映える構図には程遠い。
俺は、何度も何度も試行錯誤した。許可をくれた小里先輩、千石先輩、久我先輩らが懸命にボールを追う姿を少しでも良く撮ろうとチャレンジし続けた。
そして、国都にカメラを向ける。かけてもらえた言葉や期待を思い出しながら、必死に練習する姿をレンズ越しに眺める。
なんとなく、バッティングの時とは集中力が違う気がする。バッティングの時の方がもっと鬼気迫る表情だった。もしかして、守備はそんなに好きじゃないのかな。
勝手な想像をしながら撮ってみれば、動作よりも表情ばかり写してしまった。見返すと、バッティングの時とはえらく違う表情で笑ってしまう。
あとで時間があれば見せてやろうかな。そう思いながら、俺はまた巡り出した練習に再びカメラを構えた。
時間が経ち、疲労が滲んできた頃だった。ふとトイレに行きたくなり、俺は一度グラウンドを離れ室内練習場に向かうことにした。
練習の最中にも関わらず、往来では下級生上級生問わず多くの選手が行き交っている。そのほとんどは、準備やサポートに従事しているようだ。大会前は主力を中心に鍛えていると聞いたから、今時期はこうした裏方をやる選手は多いのだろう。
俺はそれを横目に通り過ぎながら、人気の薄いクラブハウスへと近付いた。そして入口に入ろうとしたところで、ふと建物の影から聞こえた人の声に足を止めた。
発生源は、入口から横に外れたやや奥の一画だ。気になった俺は何とはなしに顔を覗かせる。
「うッ……くッ……」
「……小松」
そこに居たのは、おそらく三年生だろう選手二人だった。小松と呼ばれた選手は、腕で目を擦りながら泣いている。その様子を、もう一人の選手は側で見守っている。
「もう泣き止め。辛いのは俺だって同じだ」
「わかってる……でも、どうしても……!どうしてもッ、今はアイツを見たくないんだ!!」
「…………国都か」
聞こえてしまった名前が驚愕の弾丸になり、俺を撃ち抜いた。雷が落ちたような衝撃と動悸がして、すぐに立ち去りたいと思ったのに、足は動かなかった。
小松と呼ばれた選手が、一際大きな嗚咽をこぼす。
「守備も打撃も三年間ずっと努力してきたんだッ!!成績だって、良くない時もあったけど負けてない時期もあった!!なのにどうしてッ……どうして俺は選ばれないんだよッ!!」
慟哭に吠える。心胆からの叫びは切なく、苦しかった。
光から生み出される闇。あると知っていたはずの影。
輝くことを夢見た何人もの選手が、一握の選定から溢れ、表舞台から遠ざかる。それは勝負の世界の常であり、きっと彼らも、いつかは蹴落とす側だった時期があったかもしれない。
それでも。
報われないのは、辛い。
「アイツさえいなければ、今もあの背番号は、俺のものだったのにッ……!!」
怨嗟と悲哀が刃になり、俺を深く突き刺した。通りすがりに知ってしまった誰ともしれない部員の胸中が、俺の胸に忍び込み荒らし乱す。
悔しさ、嫉妬、憤り。負に沈んだ感情の発露は、彼が研鑽し尽くした年月の分だけ重く澱んでいる。
彼の痛切な想い。それは、俺が最初に抱いた、多くの野球部員に対する疑問に触れるものだった。
『彼らはこの厳しい練習の果てに、何を目指しているのだろう。ほとんどの選手がレギュラーになれない現実の中、どうして彼らは野球部であり続けるのだろう』
俺が目の当たりにしているのは現実だ。
名門野球部という華やかな舞台の先端に立てなかった者。二人は、悔しさを秘め今日まで耐えてきたのだろう。
いや、二人だけじゃない。多くの部員が、未だ同じ想いを抱いているに違いない。
「……俺だって、三年間頑張ってきたよ。お前とゲロ吐きながら励まし合って、ずっとやってきた。そうだろ」
「うッ……ううッ……!!」
「お前はまだいいよ。控えとはいえ背番号をもらうことが出来たんだ。俺は、一度だってもらうことはなかった」
「た、田中ッ……!!俺ッ……」
「いいって。俺は二年で大怪我した時に、とうに諦めてたから」
実力差、怪我。様々な事情が浮かび上がるが、そのどれもは、決して彼らを簡単に諦めさせるものではない。
「俺たちは確かに努力してきた。でも、お前だってわかってるんだろ?国都がどれだけ努力しているか。今までの俺たちがやってきたことよりも、もっともっと努力してきたんだってことが」
「……ッ!……う、くッ」
田中と呼ばれた選手が、泣いて震える彼の肩を叩く。そこでようやく小松という選手は、涙を振り払い顔を上げた。
泣き腫らした顔は、それでも強く精悍だった。
「精一杯応援しようぜ。俺たちが選んで努力してきたこの帝徳が勝ち進めば、きっと、やってきたことも少しは報われるだろ」
「……そう、だな」
「去年は甲子園で散々な負け方したけどさ、甲子園に行けたことに間違いはないんだ。今年は優勝してもらおうぜ」
「うん……そうだな。したいな、優勝」
ようやく二人に笑顔が浮かぶ。俺はそれを見届けると、金縛りから解けた足をそっと動かし場を離れた。
クラブハウスの中は、先程の熱気が嘘のように冷え切っていた。通りがかったトレーニングルームは閑散としていて、賑わいはない。
リノリウムに空しく響く足音を聴きながら、俺は思う。
やっぱり俺は、人の複雑さが苦手だ。内と外、表と裏。社会で生きるため、否応なしに生まれる多面性が苦手だ。
だがそれはきっと、『不自然』だからじゃない。裏に潜むしかなかった人の想いに、目を背けていたかったんだ。
怒り、悲しみ、妬み、嫉み。報われず削ぎ落とされた夢や希望から生まれる感情はどれも重く苦しくて、その人が背負う影を直視したくなかったんだ。
だけどもう、俺は知ってしまった。世界は美しいばかりじゃない。人が抱えるものには、暗く醜く歪んだものもたくさんある。それを避けて逃げ、綺麗な景色ばかりを撮り続けてきた俺は、表面的な美しさばかりを追い求めていただけだと知ってしまった。
今までの俺の写真に映っていたのは、硝子細工のような、子供じみた夢想だ。人との関わりを避けるため自然風景に傾倒し、仮初の美を至上としていた俺は、世界の本質を何一つ理解はしていなかった。
世界には、様々な想いが織りなされている。自然も、人も。時にぶつかり合い、傷つけ合い、常に形を変え、不可視の模様を紡ぎ続けている。
それは時に歪曲し、醜悪で。
だけど懸命で、健気で。
そんな人の世界がーーー全てをひっくるめた世界が、俺はようやく、美しいものだと思えた。
俺の胸に、一妙の火が灯った。燃えたぎる火が、俺の視界を照らし映し変える。
握りしめたカメラに、俺の掌の熱が移っていく。
ーー徐々に温度の境を失くしていく感覚は、まるで。
カメラが俺に、呼応してくれているようだった。