心層転化のコラージュ
目の前には、スポットライトに照らされたA3ワイドの風景写真がある。
白いシンプルな額縁に飾られた写真に添えられているのは、『藍の木霊』という作品名と、眞城史哉 という俺の名前。
写っているのは、去年の初夏に北海道で撮った摩周湖だ。モチーフとしてはありきたりだが構図は凝ったし、奇跡的なまでに恵まれた天候のおかげで、摩周ブルーと呼ばれる湖面の色も、湖に浮かぶカムイシュ島も、空を渡る野鳥も、最高に美しい一瞬として切り撮れたと満足している。
だが。
視線をずらす。作品に掲げられた評が目に入る。
『優秀賞』。
与えられたのは、一番ではなく、二番の称号。
俺は見慣れたその文字列から目を逸らすと、人知れず落胆に肩を落とした。
「やぁ、サナギくん」
そんな時、軽い口調で声をかけられた。愚鈍に背後を振り返ると、ドレッドヘアーでアロハシャツを身につけた南国男がひらりと手を上げていた。派手な格好の男は、見知った顔だ。俺は遅れて会釈をする。
「先生。いらしてたんですか」
「次の写真集の打ち合わせで出てきたんだけど、せっかくだしこっちにも寄ってみようかなと思ってさ。なんせ可愛い弟子の晴れ舞台だからね」
俺が先生と呼び、俺を弟子と呼ぶのは、プロの写真家である冠波かんばさんだ。とは言っても、ちゃんとした師弟関係ではない。先生の写真に惚れ、弟子入りを志願したものの、弟子は取らない主義だとけんもほろろに断られたからだ。
なのに、彼は俺を弟子と呼ぶ。矛盾していると思う。
「優秀賞おめでとう。……って顔じゃないね。これで三年連続だっけ」
「そうですね。定位置すぎて、もう嬉しいとは思えません」
もう一度、自分の写真を振り返る。
今の自分が『最高』だと信じ撮った写真は、何度見ても理想的であり、美しいと思う。が、それは自己評価であり他者評価ではない。そしてコンクールとは、絶対的な他者評価だ。良し悪しを判断し順位を決めるのは、俺ではない。
「俺の写真、何がダメなんでしょうか」
至極普遍的な疑問が口をつく。流石に三年も同じ評価を下されると、自分の目や感性がもう信じられないし、何が良いのかさえ分からなくなっていた。
最も認められた賞になるための、足りない『1』は何なのか。それを情けなくも求めたが、先生は答えてはくれないだろう。だから、こんな疑問はただの愚痴でしかない。
そうして期待を捨てていた俺に、珍しく先生が肩を並べた。隣に立ち、一緒に俺の写真を見ながら、先生は薄く不精な顎髭をジリと触る。
「サナギくんの写真は綺麗だよ。自然物が好きなんだってのも、尊んでいるのも伝わってくる」
初めて俺の写真に感想をもらい、驚いた俺は思わず隣の先生を凝視した。捨てていた期待が頭をもたげる。が、先生は写真から目を逸らすことなく、言葉の続きを翻す。
「でもね、それだけ」
平坦でひやりとした評は、断頭の刃だった。
プロの写真家から見ても、俺の作品は欠けたものなのか。切り落とされた俺は、重く澱んだものが奥底に溜まっていくのを感じた。
沈み込む俺を、先生がチラリと横目で見る。すでに締め括られたと思った感想は、しかし続きがやってくる。
「自然物ってのは、その存在そのものが奇跡的で神秘的ではある。けど、そこに心はない。あるのは営みだけ」
言葉が、スッと心に閃く。俺を弟子と呼ぶ、先生ではないはずの人が今ようやく、初めて俺を見てくれている気がする。本当の視線は、写真に向いたままだけど。
「写真には、撮り手の心に引力がなくちゃいけない。ただ好きってくらいの想いを込めただけじゃあ強く響かない。評価するのは人間だ。その人間の心を揺さぶるには、もっと強いチカラが必要だ」
「……言いたいことは何となくわかりますが、そのチカラってものが抽象的すぎてよくわかりません」
与えられた教授に縋りつく。先生は深く悩んだ様子でまた顎髭を触り、うーんと短い唸りを零す。
「サナギくんはさ、人物撮らないよね。それってどうして?」
「どうしてって……うーん……何となくの答えですけど、いいですか」
「うん」
「人物が入ると、写真がごちゃごちゃとした感じになる気がするんです。それが好きではなくて」
「ふーむ。じゃあさ、サナギくんって仲の良い友達とかいる?恋人とか、好きな子とかでもいいんだけど」
「どちらもまぁ、いないですね。というか、なんか急に質問が変わりましたね」
「ボクの中では地続きな話題なんだけど。もっと砕いて言おうか。キミは、人間に興味はある?」
甘いものって好き?とでも問うような軽々しさで突きつけられたのは、根源に踏み入る一問だった。俺はその問いに正体不明の衝撃を受けながら、必死で脳と心の領域をひっくり返す。
「……どうなんでしょう。ゼロではないと思いますけど、すごくあるかと言われると、自分でも疑問です」
「なるほどね。そんじゃ、ボクの写真もごちゃごちゃしてると思う?ボクは人物、結構撮ってるけど」
反対に感想を求められ、会話に一度ブレーキがかかる。
俺は熟考した。弟子入りを志願したくらいなのだから、先生の写真は当然好きだ。だがその好ましさはフィーリングのみで深く洞察したことはなく、感想らしい感想を伝えたこともなかった。
ここにはない、先生の写真を鮮明に思い浮かべる。好きなものは記憶の引き出しの取り出しやすいところにあるから、時間はかからなかった。短く目を閉じ、脳裏に浮かんだ写真を眺める。改めて意識すると、自分の中で迷子になりかけていた審美眼や価値観が、ひょっこりと帰ってきた気がした。
「……先生の写真は、不思議と思わないですね。意図的に顔を隠した構図だったり、身体の一部だけをクローズアップしていたりと、人全体に強くフォーカスしていないからでしょうか。人間味が強くないというか」
黙したまま、先生が続きを促す。静寂に導かれ、俺は先へ進む。
「先生の作品は、自然と人の一体感と、強い芯のようなものを感じます」
なんとか一文にして総評すると、どっと額に汗が滲んだ。普段使わないエネルギーを力一杯振り絞った気分だった。
「そっか。それはどーも」
先生は拙いそれを、気軽ながらも嬉しそうに受け取った。見るからに軽薄で陽気そうな出立ちだが、先生は存外淡白な人だ。だから、目尻を下げ口元を綻ばせる姿は、天然記念物ほどに珍しい。
「サナギくんはさ、一度人を撮ってみるといいよ」
そんな先生の口から、一つの提案が生まれた。俺はゆっくりと飲み込んで瞬き、思案する。立ち止まる俺の背を押しながら、先生は俺を見守る。
「キミが撮りたいと思う人、撮りたいと思う瞬間を探すといい」
それは、どこか天啓に似ていた。俺はとてつもない教えを手渡された気がして、何もないはずの両手を見つめる。
「そんなの……見つかるでしょうか」
「さぁね。でも意識して周りを見てみたら?視野を広げると、人を見る目も変わる。そうしたらきっと、サナギくんにも違う世界が見えてくるよ」
違う世界。違う世界とは、どんな世界なのか。雲を掴むような話に頭を悩ませ、俺はグッとこめかみを押さえる。
先生が、横でくつくつと笑った。悩む姿を笑われているのかと思えば、先生は俺ではなく、どうやら自分に向けて笑っているようだった。
「あーあ。らしくもなく語っちゃったな。でも、たまには師弟ごっこしてみるのも面白いもんだね」
「先生には気まぐれの遊びでも、俺にとっては有益な時間でした。ありがとうございます」
「そう?なら楽しみにしてるよ。次に撮る、サナギくんの写真をさ。新しい何かが見れるの、期待してるから」
「それはかなりプレッシャーなんですけど」
「あはは、頑張れ若者。プレッシャーなんて跳ね除けろー」
他人事を笑い飛ばしながら、先生は俺の背中をポン、と手のひらで軽く叩いた。それは支えにはならない、ほんの一瞬の触れ合いだ。けれども、触れた確かな温かさがほんの少しだけ、新たな道を歩くチカラをくれた気がする。
「俺、探してみます」
大きく息を吸い込む。自分の中に新しい空気を取り入れる。
俺は明日からの日常の中に、今までとは違う景色を探す。
撮りたいと思える、誰かを探す。
それが、もっと高みへ登るために必要ならば。
「きっと、見つけてみせます」
先生は、満足そうに頷いた。
白いシンプルな額縁に飾られた写真に添えられているのは、『藍の木霊』という作品名と、
写っているのは、去年の初夏に北海道で撮った摩周湖だ。モチーフとしてはありきたりだが構図は凝ったし、奇跡的なまでに恵まれた天候のおかげで、摩周ブルーと呼ばれる湖面の色も、湖に浮かぶカムイシュ島も、空を渡る野鳥も、最高に美しい一瞬として切り撮れたと満足している。
だが。
視線をずらす。作品に掲げられた評が目に入る。
『優秀賞』。
与えられたのは、一番ではなく、二番の称号。
俺は見慣れたその文字列から目を逸らすと、人知れず落胆に肩を落とした。
「やぁ、サナギくん」
そんな時、軽い口調で声をかけられた。愚鈍に背後を振り返ると、ドレッドヘアーでアロハシャツを身につけた南国男がひらりと手を上げていた。派手な格好の男は、見知った顔だ。俺は遅れて会釈をする。
「先生。いらしてたんですか」
「次の写真集の打ち合わせで出てきたんだけど、せっかくだしこっちにも寄ってみようかなと思ってさ。なんせ可愛い弟子の晴れ舞台だからね」
俺が先生と呼び、俺を弟子と呼ぶのは、プロの写真家である冠波かんばさんだ。とは言っても、ちゃんとした師弟関係ではない。先生の写真に惚れ、弟子入りを志願したものの、弟子は取らない主義だとけんもほろろに断られたからだ。
なのに、彼は俺を弟子と呼ぶ。矛盾していると思う。
「優秀賞おめでとう。……って顔じゃないね。これで三年連続だっけ」
「そうですね。定位置すぎて、もう嬉しいとは思えません」
もう一度、自分の写真を振り返る。
今の自分が『最高』だと信じ撮った写真は、何度見ても理想的であり、美しいと思う。が、それは自己評価であり他者評価ではない。そしてコンクールとは、絶対的な他者評価だ。良し悪しを判断し順位を決めるのは、俺ではない。
「俺の写真、何がダメなんでしょうか」
至極普遍的な疑問が口をつく。流石に三年も同じ評価を下されると、自分の目や感性がもう信じられないし、何が良いのかさえ分からなくなっていた。
最も認められた賞になるための、足りない『1』は何なのか。それを情けなくも求めたが、先生は答えてはくれないだろう。だから、こんな疑問はただの愚痴でしかない。
そうして期待を捨てていた俺に、珍しく先生が肩を並べた。隣に立ち、一緒に俺の写真を見ながら、先生は薄く不精な顎髭をジリと触る。
「サナギくんの写真は綺麗だよ。自然物が好きなんだってのも、尊んでいるのも伝わってくる」
初めて俺の写真に感想をもらい、驚いた俺は思わず隣の先生を凝視した。捨てていた期待が頭をもたげる。が、先生は写真から目を逸らすことなく、言葉の続きを翻す。
「でもね、それだけ」
平坦でひやりとした評は、断頭の刃だった。
プロの写真家から見ても、俺の作品は欠けたものなのか。切り落とされた俺は、重く澱んだものが奥底に溜まっていくのを感じた。
沈み込む俺を、先生がチラリと横目で見る。すでに締め括られたと思った感想は、しかし続きがやってくる。
「自然物ってのは、その存在そのものが奇跡的で神秘的ではある。けど、そこに心はない。あるのは営みだけ」
言葉が、スッと心に閃く。俺を弟子と呼ぶ、先生ではないはずの人が今ようやく、初めて俺を見てくれている気がする。本当の視線は、写真に向いたままだけど。
「写真には、撮り手の心に引力がなくちゃいけない。ただ好きってくらいの想いを込めただけじゃあ強く響かない。評価するのは人間だ。その人間の心を揺さぶるには、もっと強いチカラが必要だ」
「……言いたいことは何となくわかりますが、そのチカラってものが抽象的すぎてよくわかりません」
与えられた教授に縋りつく。先生は深く悩んだ様子でまた顎髭を触り、うーんと短い唸りを零す。
「サナギくんはさ、人物撮らないよね。それってどうして?」
「どうしてって……うーん……何となくの答えですけど、いいですか」
「うん」
「人物が入ると、写真がごちゃごちゃとした感じになる気がするんです。それが好きではなくて」
「ふーむ。じゃあさ、サナギくんって仲の良い友達とかいる?恋人とか、好きな子とかでもいいんだけど」
「どちらもまぁ、いないですね。というか、なんか急に質問が変わりましたね」
「ボクの中では地続きな話題なんだけど。もっと砕いて言おうか。キミは、人間に興味はある?」
甘いものって好き?とでも問うような軽々しさで突きつけられたのは、根源に踏み入る一問だった。俺はその問いに正体不明の衝撃を受けながら、必死で脳と心の領域をひっくり返す。
「……どうなんでしょう。ゼロではないと思いますけど、すごくあるかと言われると、自分でも疑問です」
「なるほどね。そんじゃ、ボクの写真もごちゃごちゃしてると思う?ボクは人物、結構撮ってるけど」
反対に感想を求められ、会話に一度ブレーキがかかる。
俺は熟考した。弟子入りを志願したくらいなのだから、先生の写真は当然好きだ。だがその好ましさはフィーリングのみで深く洞察したことはなく、感想らしい感想を伝えたこともなかった。
ここにはない、先生の写真を鮮明に思い浮かべる。好きなものは記憶の引き出しの取り出しやすいところにあるから、時間はかからなかった。短く目を閉じ、脳裏に浮かんだ写真を眺める。改めて意識すると、自分の中で迷子になりかけていた審美眼や価値観が、ひょっこりと帰ってきた気がした。
「……先生の写真は、不思議と思わないですね。意図的に顔を隠した構図だったり、身体の一部だけをクローズアップしていたりと、人全体に強くフォーカスしていないからでしょうか。人間味が強くないというか」
黙したまま、先生が続きを促す。静寂に導かれ、俺は先へ進む。
「先生の作品は、自然と人の一体感と、強い芯のようなものを感じます」
なんとか一文にして総評すると、どっと額に汗が滲んだ。普段使わないエネルギーを力一杯振り絞った気分だった。
「そっか。それはどーも」
先生は拙いそれを、気軽ながらも嬉しそうに受け取った。見るからに軽薄で陽気そうな出立ちだが、先生は存外淡白な人だ。だから、目尻を下げ口元を綻ばせる姿は、天然記念物ほどに珍しい。
「サナギくんはさ、一度人を撮ってみるといいよ」
そんな先生の口から、一つの提案が生まれた。俺はゆっくりと飲み込んで瞬き、思案する。立ち止まる俺の背を押しながら、先生は俺を見守る。
「キミが撮りたいと思う人、撮りたいと思う瞬間を探すといい」
それは、どこか天啓に似ていた。俺はとてつもない教えを手渡された気がして、何もないはずの両手を見つめる。
「そんなの……見つかるでしょうか」
「さぁね。でも意識して周りを見てみたら?視野を広げると、人を見る目も変わる。そうしたらきっと、サナギくんにも違う世界が見えてくるよ」
違う世界。違う世界とは、どんな世界なのか。雲を掴むような話に頭を悩ませ、俺はグッとこめかみを押さえる。
先生が、横でくつくつと笑った。悩む姿を笑われているのかと思えば、先生は俺ではなく、どうやら自分に向けて笑っているようだった。
「あーあ。らしくもなく語っちゃったな。でも、たまには師弟ごっこしてみるのも面白いもんだね」
「先生には気まぐれの遊びでも、俺にとっては有益な時間でした。ありがとうございます」
「そう?なら楽しみにしてるよ。次に撮る、サナギくんの写真をさ。新しい何かが見れるの、期待してるから」
「それはかなりプレッシャーなんですけど」
「あはは、頑張れ若者。プレッシャーなんて跳ね除けろー」
他人事を笑い飛ばしながら、先生は俺の背中をポン、と手のひらで軽く叩いた。それは支えにはならない、ほんの一瞬の触れ合いだ。けれども、触れた確かな温かさがほんの少しだけ、新たな道を歩くチカラをくれた気がする。
「俺、探してみます」
大きく息を吸い込む。自分の中に新しい空気を取り入れる。
俺は明日からの日常の中に、今までとは違う景色を探す。
撮りたいと思える、誰かを探す。
それが、もっと高みへ登るために必要ならば。
「きっと、見つけてみせます」
先生は、満足そうに頷いた。
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