ウマ娘 タキモル♀以外
私は、しがない引きこもりの女でした。
原因は何だったっけ。確か、私はドジでグズで失敗ばかりで、小学校の運動会であった大縄跳びで、一人だけ躓いてしまったことだったような。私のせいで、その種目は負けてしまって。クラスの中心の女子のグループから、いじめられるようになったんだ。
それから、失敗するのが怖くなって。不登校になって、いつの間にか引きこもりになって、今年で二十五になった。部屋のカーテンを締め切って、パソコンからテレビ配信をダラダラと眺めて、お腹が空いたら適当に食べて、寝る。そんな一日を毎日繰り返していた。
そんなある日の午後。特に見たい番組もなくて、チャンネルを切り替えていたときのことだ。画面には、緑色の芝と青空が映し出された。
「さぁ、今年も始まりました『日本ダービー』! ウマ娘最大の名誉を手にするのは誰でしょうか。 一番人気はこのウマ娘、アドマイヤベガ……」
ウマ娘レース。ふさふさの耳と尻尾のある少女達の誰もが、勝って名誉をこの手に、と目を輝かせている。
ただ、他に見るものがないし、やることもないから。そんな理由で、私はぼーっとその有名らしいレースを見ていた。
「アドマイヤベガ、この位置につけています。テイエムオペラオー、追走。――最後方、ぽつんとひとり、メイショウドトウ」
誰もがギラギラと走っている中で、一人だけ、付いて行くのも精一杯なウマ娘が目に入った。汗を散らしていて、フォームは私にもわかるくらい乱れていて、見るからにヘロヘロで。ひねくれ者の私は、「なんてダメな子なんだろう」「もう諦めちゃえばいいのに」なんて思ってしまった。
けれど、彼女は。
「アドマイヤベガ、一着でゴールイン! 圧巻の走りでレースを制しました! 二着はテイエムオペラオー! 三着……」
垂れた耳に、丸い栗毛。白いブラウスに、青いスカート。鞄を肩がけした、見るからに気弱そうなウマ娘。彼女は、集団から大きく遅れて、最下位でゴールした。そんな最下位の彼女を、なぜか、私は気にしていた。
彼女は、諦めずに走り切った。こんなにも差があるのに。どうあがいても負けなのに。走り切るなんて、きっとレースでは当たり前なのに。画面には、きらびやかな青い勝負服のウマ娘と、王様のような冠のウマ娘が映し出されている。けれど私は、気付けば、画面の隅で泣いている最下位の彼女から、目が離せなくなっていた。
ダービー最下位の彼女の名は、「メイショウドトウ」というらしい。気弱で、ドジで、発展途上。けれど、粘り強い走りを見せると、URAの公式サイトには記されていた。
正月になっても、私は家族と会話なんてしない。部屋の前に置かれた食事を食べて、ネットで配信されている番組をダラダラ見ているだけの毎日だ。けれど。去年の夏から、変わったことがある。
「あ、このレース、メイショウドトウ出るんだ」
ウマ娘レースに、興味が少しだけ湧いたのだ。気付けば、毎週のようにレース中継を見て、「メイショウドトウ」の話題を検索する私がいた。私はURA公式サイトのレース情報から、番組の中継に切り替える。「ダービー」で最下位だったウマ娘は、プレオープンやオープンの小さなレースで少しずつ白星を増やして行った。
ゲートが開いて三分。そこに、ヘロヘロで集団を追いかけていたウマ娘はもういなかった。彼女は、はにかんだ笑顔で、観客席に手を振っていた。
「――日経新春杯、メイショウドトウの完勝でした!」
あの子、ついにGIIで勝ったんだ。私は、急いでURA公式の用語集を引っ張り出す。
やっぱり。GIIは、GⅠの一つ前のレベル。ドトウは、少しずつ強くなっているんだ。そのことを、まるで自分のことのように嬉しく思っている私がいた。
嬉しいなんて、何年ぶりの感情だろう。不思議だ。あの「ダービー」から、私は彼女を探すようになって、彼女の着順に一喜一憂していた。いつかは、彼女がGⅠで勝てたらいいな、と。そう思うようになっていた。
「ドトウ、また貴方にファンレターだって」
「ええー!? ほ、ほんとですかぁ!? 実はドッキリとか……」
「読んでみなよ。ドッキリなんかじゃないから」
「はいぃ……えっと、
『前略、メイショウドトウ様へ。
私は、些細な失敗から家を出られなくなった引きこもりです。失敗が怖くて、人の視線が怖くて、いつも部屋で一人、パソコンを眺めています。
ドトウちゃんを初めて見たのは、ダービーのときでした。最後方でも、最後まで諦めずに走り切ったドトウちゃんを見たのが、きっかけです。それから、私はウマ娘レースに興味を持つようになりました。
日経新春杯、金鯱賞、宝塚記念、すべて中継で見ました。特に宝塚はすごかったです。一瞬でも、あのオペラオーより前を走っていたのを見て、ドトウちゃんはこんなに強くなったんだなと感動しました。ウイニングライブの歌と踊りも、ドトウちゃんは途中で歌詞を忘れたり、転んだりしても、最後までやり切ったのを見て、素敵だなと思いました。
まだ家から出る勇気は出ないけれど、何度失敗しても諦めないドトウちゃんみたいに、私も諦めたくないと思うようになりました。これからも、頑張ってください。応援しています』……と、トレーナーさぁん……」
「ね? ドトウのおかげで、変わりたい、諦めたくないって思う人もいるんだよ」
「そ、そうなんですねぇ…えへへ……」
――季節は巡り、肌寒い秋の終わりになった。寒いと感じているのは、きっと私が家の外にいるからだ。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けるんだよ」
私は、母にそう言って玄関から出た。
人と目が合わないように帽子を被った。顔を隠したいからマスクをした。帰りの運賃もしっかりICカードに前日チャージした。鍵も財布もハンカチもしっかり鞄に入れた。そして、
「ドトウちゃん、よし!」
ネットの公式通販で買った、ドトウのマスコットぬいぐるみは、いつでも触って安心できる位置に入れている。きちんと確認して、私は東京レース場へ向かい、電車を乗り継いだ。
今日は、『ジャパンカップ』の日だ。外国の強いウマ娘達と、日本のウマ娘達が最速を競い合うレース。そのレースの出走者に、「テイエムオペラオー」と「メイショウドトウ」の名前が並んでいたから。私は、いまあるエネルギーをすべて使う気で遠出をすることにしたのだ。
注目の国際GⅠレースだからか、レース場に入ると人でごった返していた。あまりの人混みに、目が回りそうになる。
きっと誰もが、各国の刺客を覇王が返り討ちにするのを期待しているのだ。売店は、オペラオーのグッズだけすべて品切れだ。私は、まだ買っていなかったドトウのストラップと缶バッジを買って、会計をして、売店の人混みから抜け出す。売店で会計するレジ待ちが長くて、残念ながらパドックを見れなかった。
ネットの予約だけで精一杯で、結構ターフから遠い観客席。オペラグラスを買っておいて良かったなと、心底思った。
遅れて席に着くと、なぜか観客席がどよめいていた。私の周りの観客も、「ドトウが」「オペラオーに」と口にしている。人はまだ怖いけれど。私は勇気を出して、私は隣の人に聞いてみる。
「あ、あの、何が、あったんですか」
「見てなかったのかい? あのドトウが、オペラオーに宣戦布告したんだよ!」
ドトウが、オペラオーに、宣戦布告……!? インタビューで、いつも「オペラオーの隣で支えになりたい」「オペラオーのようになりたい」と言っていた、彼女が……!?
私は、思わず鞄の取手を握りしめる。あのドトウが「オペラオーに勝つ」と宣言するなんて、きっと彼女の中で大きな変化があったんだ。
やがて、開幕のファンファーレが響き渡った。ゲートが開き、ウマ娘達が一斉に飛び出す。
「最終コーナー、先陣を切ったのはテイエムオペラオー! 追い上げて来る娘は、まだ二バ身後ろ!」
そのとき、私は見た。先行集団、六番手につけていたドトウが、ぐんぐんと前へ抜け出てくる様子を。
「メイショウドトウ追いすがる!」
そして、ついにはオペラオーの姿を捉えた。
「最後は二人の鍔迫り合いだ!」
声を出さずに見ていた私の内側から、大きなものがせり上がって来る。
「ドトウ、がんばれぇっ!!」
隣の人達なんか、今は気にしてちゃいられない。私は、出し慣れていない大声が裏返ってしまうのも気にせず、どうか彼女に届くように、と喉を震わせた。
「テイエムオペラオーとメイショウドトウ、もつれるようにゴールイン!!」
そのゴールに、誰もが息を呑んだ。どちらが先にゴールしたのか、人の目だけではわからない。そんな大接戦で。写真判定でしばらく待たされることになった。応援に震えていた観客席が、緊張でしんと静まる。
「……確定しました! 一着はテイエムオペラオー! ハナ差で勝利を掴み取りました! 二着はメイショウドトウ」
実況の声を合図に、観客席からは湧くような歓声が上がる。観客の「オペラオー」コールが、芝を、空を揺らした。
「やっぱりオペラオーはすげぇや!!」
「オペラオー、最高!!」
「覇王! 世界の覇王!!」
まるで世界のすべてが世界の覇王の誕生を祝福するような歓声の中で。私は、一人の声を捉えた。
「ドトウもすげぇ!! オペラオーにハナ差だってよ!!」
私の握り拳に、滴が落ちる。私、泣いてるのか。ドトウが数センチ差でオペラオーに負けたのが悔しくて、久しぶりに涙を流したのか。
「ドトウーーー!! すごかったよーーー!!」
私は、涙を拭わずに叫んだ。二着の彼女に届くように。赤ちゃんが産声を上げるように。狼が遠吠えをするように。オペラオーを祝福する声に負けないように、力いっぱい声を張り上げた。
「ドトウ!! ドトウ大好き!!」
ウイニングライブが終わる頃には、私の声はすっかり枯れ果てていて。電車を乗り継いで家に着いた頃には、私は疲れ果てて玄関のマットの上に倒れ込んでしまった。
鞄から、ドトウのぬいぐるみが転がり出る。私は、ドトウのぬいぐるみを抱きしめて、まだ枯れていなかった涙を流した。
「ドトウ……貴方は、すごいよ」
「わ、私、大丈夫かなぁ、お客さんの手、握りつぶしちゃうかも……」
「はーはっはっはっ! 覇王たるもの、臣民の声を聴き、手を差し出すのもまた必要! ドトウ、君は臣民に手を添えるだけでいいとも!」
「は、はいぃ! 添えます! 添えるだけ……」
トレセン学園のファン感謝祭で開いた、「テイエムオペラオーとメイショウドトウの合同握手会」は大盛況だった。年末の「有マ記念」で、さらにファンが増えたのか、どちらの列も長蛇を成している。
――「有マ記念」で、メイショウドトウはついにテイエムオペラオーに雪辱を果たした。最終コーナーから一気にスパートを掛け、短い直線でギリギリを競り合い……四分の三バ身差で、ドトウはオペラオーに勝利したのだ。
レース雑誌の多くに、「救いはありまぁす!!」とウイナーズサークルで泣きながら演説するドトウの写真が載せられ、新聞には「ドトウ 有マV 積年の想い覇王を穿つ」という見出しが大きく躍り出た。
手を握ってくるファンに、オペラオーは満面の笑顔で、ドトウは少しはにかんだ笑顔で手を軽く包んで応える。そうして、数え切れない数の手を包んだドトウの前に、深めのキャップを被った女性がやってきた。女性は、どもりがちな声で、ドトウに手を伸ばす。
「ど、ドトウ、ちゃん……わ、こうして近くで見たの初めてだ……」
女性は、緊張から震える手で、ドトウの手を握った。
「あ、手汗で気持ち悪かったらごめんなさいっ」
「わ、私こそ、消毒液でかぶれちゃってたらごめんなさいぃっ」
ドトウの柔らかな手が、女性の細く白い手を包み込んだ。そのとき、ドトウは気付く。「有マ」のウイナーズサークルで演説したとき、「救いはあります」と叫んだとき。応援席の最前列で「ドトウ、大好き!!」と叫んだ、黒いキャップの女性がいたことを。
「あ、このキャップ、私覚えてますっ。貴方、私がまちがってなかったら、『有マ』の最前列で私を応援してくれた人、ですよね」
「え、えええええ!?」
女性は、驚きから飛び上がりそうになり、なんとか呼吸を整えた。そして、興奮気味に女性は語り出す。
「そ、そうです! 『宝塚』の後にファンレター送った、引きこもりのxxxxです! わ、私、『ジャパンカップ」のときから少しずつ外出るようになって……」
「よかったぁ。お外、出られるようになったんですね」
喋るのが苦手なのか、女性はどもりながら、詰まりながら、呼吸を整えながらゆっくり話した。ドトウは、彼女を急かすことなく、落ち着いて言葉を聴いている。
「『救いはあります』ってドトウちゃんは言ってたけど、わ、私の救いは、『ダービー』で見たときからずっと、ドトウちゃんでした。貴方の走りが見たくて、レースを見に行くために、外に出られた。今は、ウマ娘に関係する仕事したいなって、家で勉強してて……」
「あ、ありがとうございますぅ…嬉しいなぁ」
口下手だが、その言葉の一つ一つには、女性からドトウへの情熱と感謝が込められていた。
女性が、ふと後ろを見て、慌てたように手を引っ込めようとした。まだ、握手会の列が終わっていないのに気付いたようだ。
「ご、ごめんなさいっ! 話し過ぎました! ドトウちゃん、これからも応援してます!」
ドトウは、包み込んだ手を離す。そして、女性をじっと見つめた。
「最後に、もしよろしければ、キャップの下のお顔、見せてもらえませんか?」
女性は、ゆっくりとキャップのつばを持ち上げる。その顔を見て、ドトウは優しく微笑んだ。
「大丈夫です〜。諦めない限り、きっと、大丈夫です。だって――貴方はこんなに、強い目をしてますから」
「あ、ありがとうございますっ!」
女性は、その言葉を聴くと、嬉しそうに目を潤ませて、ドトウの前から去って行った。
「オペラオーさん」
「なんだい、ドトウ」
ドトウは、隣のオペラオーに声を掛ける。そこに、オペラオーへの言葉に依存する以前のドトウはいなかった。
「こんなドジでグズな私でも、誰かの救いに、なれたんですね」
オペラオーは、いつものように胸を張ってドトウに答えた。
「もちろんだとも! なぜなら、ボクは太陽で君は月! どちらも暗闇にいる民衆を照らす光なのだから!」
オペラオーの言葉を聴いて、ドトウは噛みしめるように、「私は月……」と呟く。
「お月様がいないと、夜は真っ暗……私は、誰かを照らすお月様に、なれたんだぁ……」
「さぁ、ドトウ! 太陽と月の交響曲を、続けよう! これからもボク達で世界を照らし続けようじゃないか!」
「はい!」
「次は君の番だ! ボクの手を取りたまえ!」
「つ、次の方ぁ!」
「わぁ〜! 本物のドトウちゃんだー!! ドトウちゃん、大好き!」
ドトウは、次の順番でやってきた、小さな女の子の手を優しく包んだ。
「えへへ…ありがとうございます」
けれど、ドトウは思う。月は、空と太陽なしでは輝けなかったと。月は、他の星があるからこそ輝けると。
空はトレーナー。太陽はオペラオー。そして、自分を支えてくれる数多の星達。その星の一つは、きっと黒いキャップの女性だ。
「私、もっと輝くお月様になりたいなぁ」
多くの人々に支えられたから。月が昇るのを待っていてくれた人々がいたから。月は輝けた。
だから、受け取ったたくさんの優しさを、少しずつ返して行こう。照らし続けよう。
太陽のように、世界を明るくはできなくても。優しい月のように、暗闇を照らすことはできると信じて。
原因は何だったっけ。確か、私はドジでグズで失敗ばかりで、小学校の運動会であった大縄跳びで、一人だけ躓いてしまったことだったような。私のせいで、その種目は負けてしまって。クラスの中心の女子のグループから、いじめられるようになったんだ。
それから、失敗するのが怖くなって。不登校になって、いつの間にか引きこもりになって、今年で二十五になった。部屋のカーテンを締め切って、パソコンからテレビ配信をダラダラと眺めて、お腹が空いたら適当に食べて、寝る。そんな一日を毎日繰り返していた。
そんなある日の午後。特に見たい番組もなくて、チャンネルを切り替えていたときのことだ。画面には、緑色の芝と青空が映し出された。
「さぁ、今年も始まりました『日本ダービー』! ウマ娘最大の名誉を手にするのは誰でしょうか。 一番人気はこのウマ娘、アドマイヤベガ……」
ウマ娘レース。ふさふさの耳と尻尾のある少女達の誰もが、勝って名誉をこの手に、と目を輝かせている。
ただ、他に見るものがないし、やることもないから。そんな理由で、私はぼーっとその有名らしいレースを見ていた。
「アドマイヤベガ、この位置につけています。テイエムオペラオー、追走。――最後方、ぽつんとひとり、メイショウドトウ」
誰もがギラギラと走っている中で、一人だけ、付いて行くのも精一杯なウマ娘が目に入った。汗を散らしていて、フォームは私にもわかるくらい乱れていて、見るからにヘロヘロで。ひねくれ者の私は、「なんてダメな子なんだろう」「もう諦めちゃえばいいのに」なんて思ってしまった。
けれど、彼女は。
「アドマイヤベガ、一着でゴールイン! 圧巻の走りでレースを制しました! 二着はテイエムオペラオー! 三着……」
垂れた耳に、丸い栗毛。白いブラウスに、青いスカート。鞄を肩がけした、見るからに気弱そうなウマ娘。彼女は、集団から大きく遅れて、最下位でゴールした。そんな最下位の彼女を、なぜか、私は気にしていた。
彼女は、諦めずに走り切った。こんなにも差があるのに。どうあがいても負けなのに。走り切るなんて、きっとレースでは当たり前なのに。画面には、きらびやかな青い勝負服のウマ娘と、王様のような冠のウマ娘が映し出されている。けれど私は、気付けば、画面の隅で泣いている最下位の彼女から、目が離せなくなっていた。
ダービー最下位の彼女の名は、「メイショウドトウ」というらしい。気弱で、ドジで、発展途上。けれど、粘り強い走りを見せると、URAの公式サイトには記されていた。
正月になっても、私は家族と会話なんてしない。部屋の前に置かれた食事を食べて、ネットで配信されている番組をダラダラ見ているだけの毎日だ。けれど。去年の夏から、変わったことがある。
「あ、このレース、メイショウドトウ出るんだ」
ウマ娘レースに、興味が少しだけ湧いたのだ。気付けば、毎週のようにレース中継を見て、「メイショウドトウ」の話題を検索する私がいた。私はURA公式サイトのレース情報から、番組の中継に切り替える。「ダービー」で最下位だったウマ娘は、プレオープンやオープンの小さなレースで少しずつ白星を増やして行った。
ゲートが開いて三分。そこに、ヘロヘロで集団を追いかけていたウマ娘はもういなかった。彼女は、はにかんだ笑顔で、観客席に手を振っていた。
「――日経新春杯、メイショウドトウの完勝でした!」
あの子、ついにGIIで勝ったんだ。私は、急いでURA公式の用語集を引っ張り出す。
やっぱり。GIIは、GⅠの一つ前のレベル。ドトウは、少しずつ強くなっているんだ。そのことを、まるで自分のことのように嬉しく思っている私がいた。
嬉しいなんて、何年ぶりの感情だろう。不思議だ。あの「ダービー」から、私は彼女を探すようになって、彼女の着順に一喜一憂していた。いつかは、彼女がGⅠで勝てたらいいな、と。そう思うようになっていた。
「ドトウ、また貴方にファンレターだって」
「ええー!? ほ、ほんとですかぁ!? 実はドッキリとか……」
「読んでみなよ。ドッキリなんかじゃないから」
「はいぃ……えっと、
『前略、メイショウドトウ様へ。
私は、些細な失敗から家を出られなくなった引きこもりです。失敗が怖くて、人の視線が怖くて、いつも部屋で一人、パソコンを眺めています。
ドトウちゃんを初めて見たのは、ダービーのときでした。最後方でも、最後まで諦めずに走り切ったドトウちゃんを見たのが、きっかけです。それから、私はウマ娘レースに興味を持つようになりました。
日経新春杯、金鯱賞、宝塚記念、すべて中継で見ました。特に宝塚はすごかったです。一瞬でも、あのオペラオーより前を走っていたのを見て、ドトウちゃんはこんなに強くなったんだなと感動しました。ウイニングライブの歌と踊りも、ドトウちゃんは途中で歌詞を忘れたり、転んだりしても、最後までやり切ったのを見て、素敵だなと思いました。
まだ家から出る勇気は出ないけれど、何度失敗しても諦めないドトウちゃんみたいに、私も諦めたくないと思うようになりました。これからも、頑張ってください。応援しています』……と、トレーナーさぁん……」
「ね? ドトウのおかげで、変わりたい、諦めたくないって思う人もいるんだよ」
「そ、そうなんですねぇ…えへへ……」
――季節は巡り、肌寒い秋の終わりになった。寒いと感じているのは、きっと私が家の外にいるからだ。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けるんだよ」
私は、母にそう言って玄関から出た。
人と目が合わないように帽子を被った。顔を隠したいからマスクをした。帰りの運賃もしっかりICカードに前日チャージした。鍵も財布もハンカチもしっかり鞄に入れた。そして、
「ドトウちゃん、よし!」
ネットの公式通販で買った、ドトウのマスコットぬいぐるみは、いつでも触って安心できる位置に入れている。きちんと確認して、私は東京レース場へ向かい、電車を乗り継いだ。
今日は、『ジャパンカップ』の日だ。外国の強いウマ娘達と、日本のウマ娘達が最速を競い合うレース。そのレースの出走者に、「テイエムオペラオー」と「メイショウドトウ」の名前が並んでいたから。私は、いまあるエネルギーをすべて使う気で遠出をすることにしたのだ。
注目の国際GⅠレースだからか、レース場に入ると人でごった返していた。あまりの人混みに、目が回りそうになる。
きっと誰もが、各国の刺客を覇王が返り討ちにするのを期待しているのだ。売店は、オペラオーのグッズだけすべて品切れだ。私は、まだ買っていなかったドトウのストラップと缶バッジを買って、会計をして、売店の人混みから抜け出す。売店で会計するレジ待ちが長くて、残念ながらパドックを見れなかった。
ネットの予約だけで精一杯で、結構ターフから遠い観客席。オペラグラスを買っておいて良かったなと、心底思った。
遅れて席に着くと、なぜか観客席がどよめいていた。私の周りの観客も、「ドトウが」「オペラオーに」と口にしている。人はまだ怖いけれど。私は勇気を出して、私は隣の人に聞いてみる。
「あ、あの、何が、あったんですか」
「見てなかったのかい? あのドトウが、オペラオーに宣戦布告したんだよ!」
ドトウが、オペラオーに、宣戦布告……!? インタビューで、いつも「オペラオーの隣で支えになりたい」「オペラオーのようになりたい」と言っていた、彼女が……!?
私は、思わず鞄の取手を握りしめる。あのドトウが「オペラオーに勝つ」と宣言するなんて、きっと彼女の中で大きな変化があったんだ。
やがて、開幕のファンファーレが響き渡った。ゲートが開き、ウマ娘達が一斉に飛び出す。
「最終コーナー、先陣を切ったのはテイエムオペラオー! 追い上げて来る娘は、まだ二バ身後ろ!」
そのとき、私は見た。先行集団、六番手につけていたドトウが、ぐんぐんと前へ抜け出てくる様子を。
「メイショウドトウ追いすがる!」
そして、ついにはオペラオーの姿を捉えた。
「最後は二人の鍔迫り合いだ!」
声を出さずに見ていた私の内側から、大きなものがせり上がって来る。
「ドトウ、がんばれぇっ!!」
隣の人達なんか、今は気にしてちゃいられない。私は、出し慣れていない大声が裏返ってしまうのも気にせず、どうか彼女に届くように、と喉を震わせた。
「テイエムオペラオーとメイショウドトウ、もつれるようにゴールイン!!」
そのゴールに、誰もが息を呑んだ。どちらが先にゴールしたのか、人の目だけではわからない。そんな大接戦で。写真判定でしばらく待たされることになった。応援に震えていた観客席が、緊張でしんと静まる。
「……確定しました! 一着はテイエムオペラオー! ハナ差で勝利を掴み取りました! 二着はメイショウドトウ」
実況の声を合図に、観客席からは湧くような歓声が上がる。観客の「オペラオー」コールが、芝を、空を揺らした。
「やっぱりオペラオーはすげぇや!!」
「オペラオー、最高!!」
「覇王! 世界の覇王!!」
まるで世界のすべてが世界の覇王の誕生を祝福するような歓声の中で。私は、一人の声を捉えた。
「ドトウもすげぇ!! オペラオーにハナ差だってよ!!」
私の握り拳に、滴が落ちる。私、泣いてるのか。ドトウが数センチ差でオペラオーに負けたのが悔しくて、久しぶりに涙を流したのか。
「ドトウーーー!! すごかったよーーー!!」
私は、涙を拭わずに叫んだ。二着の彼女に届くように。赤ちゃんが産声を上げるように。狼が遠吠えをするように。オペラオーを祝福する声に負けないように、力いっぱい声を張り上げた。
「ドトウ!! ドトウ大好き!!」
ウイニングライブが終わる頃には、私の声はすっかり枯れ果てていて。電車を乗り継いで家に着いた頃には、私は疲れ果てて玄関のマットの上に倒れ込んでしまった。
鞄から、ドトウのぬいぐるみが転がり出る。私は、ドトウのぬいぐるみを抱きしめて、まだ枯れていなかった涙を流した。
「ドトウ……貴方は、すごいよ」
「わ、私、大丈夫かなぁ、お客さんの手、握りつぶしちゃうかも……」
「はーはっはっはっ! 覇王たるもの、臣民の声を聴き、手を差し出すのもまた必要! ドトウ、君は臣民に手を添えるだけでいいとも!」
「は、はいぃ! 添えます! 添えるだけ……」
トレセン学園のファン感謝祭で開いた、「テイエムオペラオーとメイショウドトウの合同握手会」は大盛況だった。年末の「有マ記念」で、さらにファンが増えたのか、どちらの列も長蛇を成している。
――「有マ記念」で、メイショウドトウはついにテイエムオペラオーに雪辱を果たした。最終コーナーから一気にスパートを掛け、短い直線でギリギリを競り合い……四分の三バ身差で、ドトウはオペラオーに勝利したのだ。
レース雑誌の多くに、「救いはありまぁす!!」とウイナーズサークルで泣きながら演説するドトウの写真が載せられ、新聞には「ドトウ 有マV 積年の想い覇王を穿つ」という見出しが大きく躍り出た。
手を握ってくるファンに、オペラオーは満面の笑顔で、ドトウは少しはにかんだ笑顔で手を軽く包んで応える。そうして、数え切れない数の手を包んだドトウの前に、深めのキャップを被った女性がやってきた。女性は、どもりがちな声で、ドトウに手を伸ばす。
「ど、ドトウ、ちゃん……わ、こうして近くで見たの初めてだ……」
女性は、緊張から震える手で、ドトウの手を握った。
「あ、手汗で気持ち悪かったらごめんなさいっ」
「わ、私こそ、消毒液でかぶれちゃってたらごめんなさいぃっ」
ドトウの柔らかな手が、女性の細く白い手を包み込んだ。そのとき、ドトウは気付く。「有マ」のウイナーズサークルで演説したとき、「救いはあります」と叫んだとき。応援席の最前列で「ドトウ、大好き!!」と叫んだ、黒いキャップの女性がいたことを。
「あ、このキャップ、私覚えてますっ。貴方、私がまちがってなかったら、『有マ』の最前列で私を応援してくれた人、ですよね」
「え、えええええ!?」
女性は、驚きから飛び上がりそうになり、なんとか呼吸を整えた。そして、興奮気味に女性は語り出す。
「そ、そうです! 『宝塚』の後にファンレター送った、引きこもりのxxxxです! わ、私、『ジャパンカップ」のときから少しずつ外出るようになって……」
「よかったぁ。お外、出られるようになったんですね」
喋るのが苦手なのか、女性はどもりながら、詰まりながら、呼吸を整えながらゆっくり話した。ドトウは、彼女を急かすことなく、落ち着いて言葉を聴いている。
「『救いはあります』ってドトウちゃんは言ってたけど、わ、私の救いは、『ダービー』で見たときからずっと、ドトウちゃんでした。貴方の走りが見たくて、レースを見に行くために、外に出られた。今は、ウマ娘に関係する仕事したいなって、家で勉強してて……」
「あ、ありがとうございますぅ…嬉しいなぁ」
口下手だが、その言葉の一つ一つには、女性からドトウへの情熱と感謝が込められていた。
女性が、ふと後ろを見て、慌てたように手を引っ込めようとした。まだ、握手会の列が終わっていないのに気付いたようだ。
「ご、ごめんなさいっ! 話し過ぎました! ドトウちゃん、これからも応援してます!」
ドトウは、包み込んだ手を離す。そして、女性をじっと見つめた。
「最後に、もしよろしければ、キャップの下のお顔、見せてもらえませんか?」
女性は、ゆっくりとキャップのつばを持ち上げる。その顔を見て、ドトウは優しく微笑んだ。
「大丈夫です〜。諦めない限り、きっと、大丈夫です。だって――貴方はこんなに、強い目をしてますから」
「あ、ありがとうございますっ!」
女性は、その言葉を聴くと、嬉しそうに目を潤ませて、ドトウの前から去って行った。
「オペラオーさん」
「なんだい、ドトウ」
ドトウは、隣のオペラオーに声を掛ける。そこに、オペラオーへの言葉に依存する以前のドトウはいなかった。
「こんなドジでグズな私でも、誰かの救いに、なれたんですね」
オペラオーは、いつものように胸を張ってドトウに答えた。
「もちろんだとも! なぜなら、ボクは太陽で君は月! どちらも暗闇にいる民衆を照らす光なのだから!」
オペラオーの言葉を聴いて、ドトウは噛みしめるように、「私は月……」と呟く。
「お月様がいないと、夜は真っ暗……私は、誰かを照らすお月様に、なれたんだぁ……」
「さぁ、ドトウ! 太陽と月の交響曲を、続けよう! これからもボク達で世界を照らし続けようじゃないか!」
「はい!」
「次は君の番だ! ボクの手を取りたまえ!」
「つ、次の方ぁ!」
「わぁ〜! 本物のドトウちゃんだー!! ドトウちゃん、大好き!」
ドトウは、次の順番でやってきた、小さな女の子の手を優しく包んだ。
「えへへ…ありがとうございます」
けれど、ドトウは思う。月は、空と太陽なしでは輝けなかったと。月は、他の星があるからこそ輝けると。
空はトレーナー。太陽はオペラオー。そして、自分を支えてくれる数多の星達。その星の一つは、きっと黒いキャップの女性だ。
「私、もっと輝くお月様になりたいなぁ」
多くの人々に支えられたから。月が昇るのを待っていてくれた人々がいたから。月は輝けた。
だから、受け取ったたくさんの優しさを、少しずつ返して行こう。照らし続けよう。
太陽のように、世界を明るくはできなくても。優しい月のように、暗闇を照らすことはできると信じて。
3/3ページ