タキモル♀

 ――競走ウマ娘、アグネスタキオン。
 『超光速のプリンセス』の二つ名を持つ少女は、URAファイナルズ中距離の初代チャンピオンで、その名を知らない人はこの国にいないんじゃないかという程の有名人だ。
 ――けれども、彼女のトレーナーである私しか知らない一面は、星の数だけある。
 例えば……二人きりになると、まるで幼い子どものような甘えん坊さんになるところ、とか。
 例えば……頻繁に私の部屋を訪れては一晩寝泊まりするため、専用の歯ブラシと歯磨き粉が常備されていること、とか。



「ン、そろそろ寝る……」
「こら、歯磨きまだしてないでしょ」
「めんどくさい……」
 眠そうに欠伸をして、ソファに寝そべろうとするタキオンに、私は歯ブラシを渡そうとする。が、彼女はいやいやと首を振った。
 これも私しか知らないことだが、健康で清潔にしろと私にはうるさい癖に、本人の私生活はかなりずぼらだ。
「口の中は寝てる間に細菌がいっぱい出来るって蘊蓄言ってたのは誰?」
「知らないなぁ」
「貴方でしょ」
「どーしてもと言うなら、君が磨いておくれよ……私はいま指一本動かしたくないんだ……」
「磨けって、ちっちゃい子じゃないんだから」
「なら寝る……」
 タキオンは、私と二人きりだと本当に無防備だ。それは、たぶん私を誰よりも信頼しているからだろう。その信頼が嬉しくて、結局私はいつも折れてしまう。
「しょうがないなぁ……」
 諦めて、私はソファに座り膝を叩いた。タキオンは大人しくその上に頭を載せる。いわゆる、膝枕だ。
「ほら、お口開けて。あーってして」
 右手に歯ブラシを持って彼女の顎に左手を添えると、小さい口が「あー」と声を出して開けられた。
 彼女が持ち込んでいる、愛用のイチゴ味の歯磨き粉を少し付けて、大きく開かれた口に歯ブラシをそっと差し込んだ。なぜイチゴ味なのかというと、私の使っているミント味の歯磨き粉は辛くて彼女の口に合わないからである。このお子様味覚をからかうと、彼女はご機嫌を損ねてとってもまずい薬を飲ませてくるので、私はもうからかわないようにしている。
「じっとしててね」
「ああ」
  細心の注意を払って、彼女の整列した上の奥歯に歯ブラシを載せる。小刻みに動かし、歯磨き粉を泡立てながら擦りつけた。
 しゃこしゃこ。こしょこしょ。
 綺麗な歯並びだなぁ。
 お砂糖たっぷりの紅茶をいつも飲んでるのに、虫歯も治療跡も見つからない。いつもは、ちゃんと自分で磨けているらしい。
 奥から前へ、裏側も忘れずに。上の歯を擦ったら、次は下の歯。
 しゃこしゃこ。こしょこしょ。
 タキオンは目を閉じてじっとしていて、今にも眠ってしまいそうだ。
「ほへーはーふん」
「どうしたの?」
「ひほひいい」
「気持ちいいの?」
「うう」
 まさか、高校生の女の子の歯磨きをしてあげる日が来るとは。人生、まったく予想ができない。
「はい、次は前歯ね。いーってして」
「いー」
「そう。いい子」
  真っ白い前歯もごしごし。紅茶が大好きなのに、全然ステインで汚れてないなんて理不尽だなぁ。
 膝の上の甘えんぼさんはすっかり安心しきって、私に身を任せている。その様子は、とても『超光速のプリンセス』と呼ばれる伝説の競走ウマ娘には見えない。
「次はベロ出して」
「んべ」
  汚れが溜まりやすい舌もごしごし。赤ちゃん研究者さんは、とても気持ち良さそうだ。
「ほへーはーふぅん……」
「はいはい。甘えんぼのお姫様」
  左手で頭をくしゃりと撫でると、お姫様は目を細めて、口の端を持ち上げにっこりした。
 ああもう、お母さんになった気分だ。こんなにわがままなのに、そこが可愛くて可愛くて仕方がない。
 すごく可愛くて、私は彼女をつい甘やかしてしまうのだ。
「ほら、立って。お口くちゅくちゅぺっするよ」
 ソファを叩いて、彼女を膝から起き上がらせる。さすがに、洗面台まで連れて行かないと口はゆすげない。
 ……それにしても、気付けばすっかり幼児語を使ってしまっている。
 けれどもタキオンは、眠くてぼんやりしているのか、私の赤ちゃん扱いにまったく怒る様子を見せない。
 彼女はのんびりとした足取りで洗面台まで歩き、コップに注いだ水を口に含んで、口をゆすいだ。紅茶色の目はすっかりとろんとしていて、やっぱり眠たそう。私は素早く歯ブラシと歯磨き粉を片付ける。
「トレーナーくーん、ベッドまではこんでくれー」
「ダーメ。自分で歩きなさい」
「けちー」
「歯磨きしてあげたでしょ」
「むー」
 文句を言いつつ、お姫様はのろのろと部屋に戻り、ベッドまで歩いた。シングルサイズのベッドは、私と華奢な彼女の二人で入ると少し狭い。けれど、そこがいいらしい。
「ねないのか?」
「私はまだ仕事残ってるから、それ終わってからね」
「そんなの、明日でいいだろー。今の君の仕事は私のそいねだ。そいねしてくれたまえ」
「わがままちゃんですね」
「私はちょうこうそくのプリンセスだぞー?」
「はいはい、お姫様。いま行きますよ」
 仕事、片付けておきたかったんだけどなぁ……仕方ない、早く寝た分だけ明日早起きすることにしよう。そう決めて、私もベッドに入った。ベッドには、彼女専用の枕も常備してある。
 布団の中で寄り添うと、タキオンは満足げに微笑んで、とろんとした目で私を見つめてきた。まったく、この甘えん坊さんは無自覚なのか確信犯なのか。あどけなくかわいい顔で見られると、私はもう逆らえない。
「おやすみの、ちゅうは?」
 これが無自覚でも確信犯でも、タチが悪いことに変わりはないだろう。私は、彼女の長い前髪を軽く持ち上げて、すべすべのおでこに唇を短く押し当てた。
 ちゅ、という微かな音を立てて、唇を離す。
「おやすみ、タキオン」
「おやすみ、トレーナーくん」
 優しく髪を撫でると、ふわぁぁ、と大きな欠伸をして、重めの瞼がゆっくり降りて行った。研究者としていつでもどこでも眠れるらしく、彼女は本当に寝付きがいい。すぐに、寝息が聞こえてくる。私も、しばらくこのさらさらした髪を撫でたら目を閉じよう。
 おやすみ、私のお姫様。
 明日は、二人で何をしようか――?


――その数日後。
「ふわぁぁ……おはよう、トレーナー君」
「おはよう……その手に持っている歯ブラシは?」
「見ればわかるだろう、歯磨きだ。膝を貸して、私の歯を磨いておくれよ」
「ダメです」
「ええーっ!」
あの夜の歯磨きがよほど気持ちよかったのか、味を占めてしまったお姫様に、甘やかしたことを後悔したトレーナーなのでした。

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