あなたとおはなし(8つのお題)
ねぇ、さみしくてかなしくてくるしいよ。
でも、貴方が傷つけられたのはもっと嫌だよ。
そんな場合じゃないってわかってるのに。
こんな弱いわたしで、ごめん。
マンハッタンカフェがタキオンに指摘した、「走り方を変えた」という言葉。
それが気になったが、どうカマをかけようがタキオンは何も答えてくれなかった。そもそも、わたしは多分彼女より口下手だ。紅茶に砂糖を増やそうが、実験に付き合おうが、走り方については何も答えてくれない。
ただ、確かなのは――タキオンが予定通り「日本ダービー」に出走してくれる。それだけだ。
スケジュールを整えて、彼女の体調を万全にして、わたしは来たるべき五月の後半に備えるしかない。気にしない、気にしない……そう思えば思うほどに、タキオンが何を考えて、何を変えたのかが気になってしまう。皐月賞の後の「プランA」と「プランB」についても、何かの研究ということしかわからないし。
いつものように、わたしはトレーナー室でパソコンと向き合っていた。東京レース場のコースの特徴を調べ、同じ出走ウマ娘のデータを調べ、対策を考える。
要注意の相手は、「皐月賞」でも一緒だったジャングルポケットとダンツフレームか。ポッケもダンツもタキオンとはそこそこ仲が良さそうだが、レースでは例外なく火花を飛ばし合う関係だ。皐月賞で一冠を勝ち取ったタキオンに雪辱を晴らすべく、どちらも力を付けてくるだろうし、タキオンはきっとマークされる。
「約束はできない」という言葉からすると、「弥生賞」「皐月賞」と比べてタキオンは調子が悪いかもしれない。「やる気はある」とは言っていたけれど、心配だ。特にこの二人への対策を練って、タキオンに伝えなくては。もっとも、研究者である彼女はすでにわたしが研究しているよりはるか先まで調べ上げ、対策を考えて実行しているかもしれないが。
「特にポッケは負けん気が強いし、『ホープフル』『皐月』とタキオンに二度負けてる。絶対、『ダービー』を獲りに掛かってくるだろうな……あの伸びる末脚から、タキオンが逃げ切るには……」
ブブブブ……パソコンの傍らに置いていたスマホがバイブ音を鳴らしたのは、わたしが出走者対策を練るのに集中している時だった。誰だろうか、このバイブ音はショートメールではなく電話だ。もしタキオンなら、彼女が話をするために呼んでくれたのなら……わたしは相手がひとりしかいないと思いこんで、バイブが切れる前に電話を取ったのだ。
「タキオン?」
「はぁ? おまえ、彼氏を誰と勘違いしてんだよ」
――そこからの具体的な言葉は、あまり覚えていない。
わたしの付き合いが悪いことに対する罵詈雑言、ウマ娘レースへの偏見、担当ウマ娘への偏見。もう、わたしのことを許してやれないから別れよう、という宣言。
付き合って数年の彼氏は、付き合い始めた頃の優しさからはかけ離れていて、まるで別人のようになっていた。
「なんで、あなた、わたしがトレーナーになるって決めたとき『応援する』って言ってくれたじゃん!!」
「確かに、最近しばらくデートできなかったことは悪いと思ってるよ。でも、そんな言い方することないでしょ!?」
「タキオンを、頑張ってるウマ娘たちをそんな言葉で穢さないで!!」
気づけば、トレーナー室の向こうに誰がいるかなんて頭から抜け落ちて、わたしは声を荒げてしまっていた。
その引き戸の向こうに――自分の担当ウマ娘がいることなんて、まったく頭になかったのだ。
――本来なら。「皐月賞」が終わった段階で、プランBを実行するはずだった。
なのに、何を私は迷っているんだろう?
なぜ、「日本ダービー」への出走を決めてしまったのだろう?
タキオンには、自分でもわからない疑問が渦巻いていた。「ダービー」には、ポッケもダンツもいる。きっと、自分の「皐月賞」での走りに刺激され、自分を打倒するために更なる高みを目指して、力を付けているはずだ。そのモルモットたちを観客席からではなく、ターフからデータ採取できるのは悪くない。プランBを進めるのは、その後でもいいだろう。データは多ければ多いほどいい。
しかし、「ダービー」の出走を決めたのは、それと「やる気があるから」だけではないような気がした。タキオンの脳裏に、狂った色の瞳がチラつく。なぜ、なぜ「彼女」の姿がチラつくのか。
たまたま、研究室の紅茶を切らして、トレーナー室に新しい茶葉があるのを思い出しただけ。タキオンは、茶葉を取りに行くだけの目的でトレーナー室に来ただけだった。
「ふざけないで!! 私の担当ウマ娘はドーピングのヤク中なんかじゃない!! 何も知らないくせに、これ以上彼女を侮辱しないで!!」
タキオンがトレーナーの怒号を聞いたのは、その時だった。
ウマ娘の鋭敏な聴覚でなくてもわかる。その声は感情的で、引き戸がびりびり震えるほどに大きかった。いつも温厚な彼女からは想像もできない、感情エネルギーの爆発を思わせる声だった。
怒号が、消える。その後に聞こえたのは、蚊よりもささやかなすすり泣きだった。
その場を去るか、彼女のデータを取るか。好奇心旺盛なタキオンは、後者の選択肢を取った。引き戸を開け、トレーナー室に入る。
「おはよう、トレーナー君。随分と荒れた声が聞こえたが……いわゆる痴情のもつれというやつかい?」
きっと、カフェが近くにいたなら、そのデリカシーのなさに耳を絞り眉をひそめていたことだろう。でも、タキオンはデータを取らずにはいられなかった。
「あ、はは……タキオン、聞いてたんだ……ごめん、驚かせちゃったね」
トレーナーは、涙をスーツの袖で拭い、ギクシャクした笑顔をこちらに向けてくる。さっきまで怒号をぶちまけていた端末を見えないように仕舞い込み、いつも通りに紅茶を淹れようと、タキオンの分のカップを用意する。
「わたしは大丈夫……大丈夫だよ。『ダービー』が近い貴方の足を引っ張ったりなんか、しないから」
「『ドーピングのヤク中』か。『変人』『狂人』『自分勝手』……すっかり言われ慣れたものだよ」
「でも、さ……わたしは、嫌だよ……彼のこと、大好きだったのに……」
トレーナーの手が震える。その震えの大きさに、カップはソーサーとぶつかってカチャカチャと耳障りな音を立て……彼女の手から、逃げるように滑り落ちた。
ガチャン。床に落ちたカップは、見るも無残に砕け散る。
「あ……ごめん!! これ、貴方のカップだったのに……わたしったら、どうしてこんなグズなのかしら」
トレーナーは、崩れ落ちそうになる身体を無理やり支えるようにふらふらと歩き、ロッカーへと向かった。箒とちり取りを取り出す。やはり、その手は震えていた。
「なに、カップは来客用のがまだあるだろう? 紅茶は私が淹れよう。君は、私がいいと言うまで、その破片を片付けていたまえ」
タキオンは、ポットに水を入れて簡易コンロに掛けた。
「ごめん……ごめんなさい……」
その涙声には気付かないふりをして、研究室で一人でしていたように、紅茶を淹れる。
「大好きだったんだ。優しい彼だったんだ。まさか、こんなこと言うとは思わなかった」
「でも彼に振られるより、その何倍も何十倍も、貴方を何もない根拠で悪く言われるのが、嫌だった」
「貴方は大事なことを何も言ってくれないけど、困った子だけど、確かに『ドーピングほど白ける行為はない』って言ってたもん。ズルなんて一切ない、真摯な走りだって、近くで見てたもん」
カップの破片を片付け、トレーナーが着席する。担当ウマ娘を眼の前にしても耐えきれなかったのか、彼女は先程の別れ話の内容を震える声で聞かせ始めた。
「大好きだった彼に振られたのは、くやしいしかなしいしさみしいよ。でも、貴方を侮辱されたのが、一番嫌だった。わたしだって、貴方のこと何も知らないわかんないけど……その走りは本物だってことだけは知ってるもん」
大の大人とは思えない、まるで子どものような口調で彼女は言葉をこぼす。
ばかみたいだ。情動的すぎる。彼女は自分が汚い言葉で傷つけられたことよりも、担当ウマ娘が侮辱されたことに憤り、傷つき、悲しんでいる。
「なぁ、トレーナー君。『ダービー』まであと一週間だろう? 私のモルモットである君は、私以外の対外要素に流されている場合か?」
「君が考えるべきことは、『私が当日どれだけ走れるか』それだけで、『君と私を侮辱したくだらない男』について考えている時間なんて、ないと思うが」
タキオンはそう言って、皿に並べたクッキーをトレーナーに差し出す。トレーナーが、泣き腫らした目で笑いながら、そのクッキーをひとつ手に取った。
「そうだよね……貴方は時間のロスを何よりも嫌うヒトだもの。ウジウジしてないで、さっさと切り替えなくちゃね」
トレーナーがクッキーを一口かじった。すると、その目尻がほんのりと緩む。
「おいしい。これ、オレンジピール入りだ。紅茶もカモミールの香りがするし」
「どちらも、ナーバスになった精神を落ち着かせ、元気にする効果があるとされているものだ。香りによる対精神効果は、軽視できないものだからね。砂糖はもっといるかい?」
「いらない。そんなにたくさん入れたら、虫歯になっちゃうじゃん。タキオンもちゃんと歯磨きするんだよ。虫歯でトレーニングに集中できません~なんて、許さないからね」
クッキーを半分食べきり、紅茶を一口啜ったトレーナーは、元気よく立ち上がる。その目は、もう泣いてなどいなかった。
いつもの元気な健康優良児のモルモットが、戻ってきたようだ。そうだ、彼女はこれでいい。
「よーし! バカ野郎も消えたし、あとは貴方の走りに集中するだけ!! 『ダービー』絶対勝つぞーーー!!」
「やる気があって結構だよ」
「そこは『おー!』でしょ!?」
そう。プランをどちらに決めるかは、「ダービー」を走り終えてからでも遅くはない。
「ダービー」なら「皐月賞」以上のデータが取れるのだし、何より、走り切ったのなら、彼女の顔は今よりも――
――彼女の、顔は? なぜ、私は彼女の表情ばかりを気にしているんだ?
彼女はただの、利害関係が一致しただけのモルモットだ。それ以上もそれ以下もない。ましてや、男がどうなどというプライベートなど、一切関係ないのだ。
なのに、なぜ私は「彼女は」などと思った?
狂った色の瞳が、脳裏にチラつく。鬱陶しい。彼女はただのモルモットのはずだろう?
「ねぇ、タキオン。『ダービー』の後、新しい貴方のカップを買いに行きましょう! 今度は、割れにくいものにしようね」
無邪気な彼女の笑顔に、心が乱される。
なぜ、どうして。
私は――なぜ、何を迷っている?
でも、貴方が傷つけられたのはもっと嫌だよ。
そんな場合じゃないってわかってるのに。
こんな弱いわたしで、ごめん。
マンハッタンカフェがタキオンに指摘した、「走り方を変えた」という言葉。
それが気になったが、どうカマをかけようがタキオンは何も答えてくれなかった。そもそも、わたしは多分彼女より口下手だ。紅茶に砂糖を増やそうが、実験に付き合おうが、走り方については何も答えてくれない。
ただ、確かなのは――タキオンが予定通り「日本ダービー」に出走してくれる。それだけだ。
スケジュールを整えて、彼女の体調を万全にして、わたしは来たるべき五月の後半に備えるしかない。気にしない、気にしない……そう思えば思うほどに、タキオンが何を考えて、何を変えたのかが気になってしまう。皐月賞の後の「プランA」と「プランB」についても、何かの研究ということしかわからないし。
いつものように、わたしはトレーナー室でパソコンと向き合っていた。東京レース場のコースの特徴を調べ、同じ出走ウマ娘のデータを調べ、対策を考える。
要注意の相手は、「皐月賞」でも一緒だったジャングルポケットとダンツフレームか。ポッケもダンツもタキオンとはそこそこ仲が良さそうだが、レースでは例外なく火花を飛ばし合う関係だ。皐月賞で一冠を勝ち取ったタキオンに雪辱を晴らすべく、どちらも力を付けてくるだろうし、タキオンはきっとマークされる。
「約束はできない」という言葉からすると、「弥生賞」「皐月賞」と比べてタキオンは調子が悪いかもしれない。「やる気はある」とは言っていたけれど、心配だ。特にこの二人への対策を練って、タキオンに伝えなくては。もっとも、研究者である彼女はすでにわたしが研究しているよりはるか先まで調べ上げ、対策を考えて実行しているかもしれないが。
「特にポッケは負けん気が強いし、『ホープフル』『皐月』とタキオンに二度負けてる。絶対、『ダービー』を獲りに掛かってくるだろうな……あの伸びる末脚から、タキオンが逃げ切るには……」
ブブブブ……パソコンの傍らに置いていたスマホがバイブ音を鳴らしたのは、わたしが出走者対策を練るのに集中している時だった。誰だろうか、このバイブ音はショートメールではなく電話だ。もしタキオンなら、彼女が話をするために呼んでくれたのなら……わたしは相手がひとりしかいないと思いこんで、バイブが切れる前に電話を取ったのだ。
「タキオン?」
「はぁ? おまえ、彼氏を誰と勘違いしてんだよ」
――そこからの具体的な言葉は、あまり覚えていない。
わたしの付き合いが悪いことに対する罵詈雑言、ウマ娘レースへの偏見、担当ウマ娘への偏見。もう、わたしのことを許してやれないから別れよう、という宣言。
付き合って数年の彼氏は、付き合い始めた頃の優しさからはかけ離れていて、まるで別人のようになっていた。
「なんで、あなた、わたしがトレーナーになるって決めたとき『応援する』って言ってくれたじゃん!!」
「確かに、最近しばらくデートできなかったことは悪いと思ってるよ。でも、そんな言い方することないでしょ!?」
「タキオンを、頑張ってるウマ娘たちをそんな言葉で穢さないで!!」
気づけば、トレーナー室の向こうに誰がいるかなんて頭から抜け落ちて、わたしは声を荒げてしまっていた。
その引き戸の向こうに――自分の担当ウマ娘がいることなんて、まったく頭になかったのだ。
――本来なら。「皐月賞」が終わった段階で、プランBを実行するはずだった。
なのに、何を私は迷っているんだろう?
なぜ、「日本ダービー」への出走を決めてしまったのだろう?
タキオンには、自分でもわからない疑問が渦巻いていた。「ダービー」には、ポッケもダンツもいる。きっと、自分の「皐月賞」での走りに刺激され、自分を打倒するために更なる高みを目指して、力を付けているはずだ。そのモルモットたちを観客席からではなく、ターフからデータ採取できるのは悪くない。プランBを進めるのは、その後でもいいだろう。データは多ければ多いほどいい。
しかし、「ダービー」の出走を決めたのは、それと「やる気があるから」だけではないような気がした。タキオンの脳裏に、狂った色の瞳がチラつく。なぜ、なぜ「彼女」の姿がチラつくのか。
たまたま、研究室の紅茶を切らして、トレーナー室に新しい茶葉があるのを思い出しただけ。タキオンは、茶葉を取りに行くだけの目的でトレーナー室に来ただけだった。
「ふざけないで!! 私の担当ウマ娘はドーピングのヤク中なんかじゃない!! 何も知らないくせに、これ以上彼女を侮辱しないで!!」
タキオンがトレーナーの怒号を聞いたのは、その時だった。
ウマ娘の鋭敏な聴覚でなくてもわかる。その声は感情的で、引き戸がびりびり震えるほどに大きかった。いつも温厚な彼女からは想像もできない、感情エネルギーの爆発を思わせる声だった。
怒号が、消える。その後に聞こえたのは、蚊よりもささやかなすすり泣きだった。
その場を去るか、彼女のデータを取るか。好奇心旺盛なタキオンは、後者の選択肢を取った。引き戸を開け、トレーナー室に入る。
「おはよう、トレーナー君。随分と荒れた声が聞こえたが……いわゆる痴情のもつれというやつかい?」
きっと、カフェが近くにいたなら、そのデリカシーのなさに耳を絞り眉をひそめていたことだろう。でも、タキオンはデータを取らずにはいられなかった。
「あ、はは……タキオン、聞いてたんだ……ごめん、驚かせちゃったね」
トレーナーは、涙をスーツの袖で拭い、ギクシャクした笑顔をこちらに向けてくる。さっきまで怒号をぶちまけていた端末を見えないように仕舞い込み、いつも通りに紅茶を淹れようと、タキオンの分のカップを用意する。
「わたしは大丈夫……大丈夫だよ。『ダービー』が近い貴方の足を引っ張ったりなんか、しないから」
「『ドーピングのヤク中』か。『変人』『狂人』『自分勝手』……すっかり言われ慣れたものだよ」
「でも、さ……わたしは、嫌だよ……彼のこと、大好きだったのに……」
トレーナーの手が震える。その震えの大きさに、カップはソーサーとぶつかってカチャカチャと耳障りな音を立て……彼女の手から、逃げるように滑り落ちた。
ガチャン。床に落ちたカップは、見るも無残に砕け散る。
「あ……ごめん!! これ、貴方のカップだったのに……わたしったら、どうしてこんなグズなのかしら」
トレーナーは、崩れ落ちそうになる身体を無理やり支えるようにふらふらと歩き、ロッカーへと向かった。箒とちり取りを取り出す。やはり、その手は震えていた。
「なに、カップは来客用のがまだあるだろう? 紅茶は私が淹れよう。君は、私がいいと言うまで、その破片を片付けていたまえ」
タキオンは、ポットに水を入れて簡易コンロに掛けた。
「ごめん……ごめんなさい……」
その涙声には気付かないふりをして、研究室で一人でしていたように、紅茶を淹れる。
「大好きだったんだ。優しい彼だったんだ。まさか、こんなこと言うとは思わなかった」
「でも彼に振られるより、その何倍も何十倍も、貴方を何もない根拠で悪く言われるのが、嫌だった」
「貴方は大事なことを何も言ってくれないけど、困った子だけど、確かに『ドーピングほど白ける行為はない』って言ってたもん。ズルなんて一切ない、真摯な走りだって、近くで見てたもん」
カップの破片を片付け、トレーナーが着席する。担当ウマ娘を眼の前にしても耐えきれなかったのか、彼女は先程の別れ話の内容を震える声で聞かせ始めた。
「大好きだった彼に振られたのは、くやしいしかなしいしさみしいよ。でも、貴方を侮辱されたのが、一番嫌だった。わたしだって、貴方のこと何も知らないわかんないけど……その走りは本物だってことだけは知ってるもん」
大の大人とは思えない、まるで子どものような口調で彼女は言葉をこぼす。
ばかみたいだ。情動的すぎる。彼女は自分が汚い言葉で傷つけられたことよりも、担当ウマ娘が侮辱されたことに憤り、傷つき、悲しんでいる。
「なぁ、トレーナー君。『ダービー』まであと一週間だろう? 私のモルモットである君は、私以外の対外要素に流されている場合か?」
「君が考えるべきことは、『私が当日どれだけ走れるか』それだけで、『君と私を侮辱したくだらない男』について考えている時間なんて、ないと思うが」
タキオンはそう言って、皿に並べたクッキーをトレーナーに差し出す。トレーナーが、泣き腫らした目で笑いながら、そのクッキーをひとつ手に取った。
「そうだよね……貴方は時間のロスを何よりも嫌うヒトだもの。ウジウジしてないで、さっさと切り替えなくちゃね」
トレーナーがクッキーを一口かじった。すると、その目尻がほんのりと緩む。
「おいしい。これ、オレンジピール入りだ。紅茶もカモミールの香りがするし」
「どちらも、ナーバスになった精神を落ち着かせ、元気にする効果があるとされているものだ。香りによる対精神効果は、軽視できないものだからね。砂糖はもっといるかい?」
「いらない。そんなにたくさん入れたら、虫歯になっちゃうじゃん。タキオンもちゃんと歯磨きするんだよ。虫歯でトレーニングに集中できません~なんて、許さないからね」
クッキーを半分食べきり、紅茶を一口啜ったトレーナーは、元気よく立ち上がる。その目は、もう泣いてなどいなかった。
いつもの元気な健康優良児のモルモットが、戻ってきたようだ。そうだ、彼女はこれでいい。
「よーし! バカ野郎も消えたし、あとは貴方の走りに集中するだけ!! 『ダービー』絶対勝つぞーーー!!」
「やる気があって結構だよ」
「そこは『おー!』でしょ!?」
そう。プランをどちらに決めるかは、「ダービー」を走り終えてからでも遅くはない。
「ダービー」なら「皐月賞」以上のデータが取れるのだし、何より、走り切ったのなら、彼女の顔は今よりも――
――彼女の、顔は? なぜ、私は彼女の表情ばかりを気にしているんだ?
彼女はただの、利害関係が一致しただけのモルモットだ。それ以上もそれ以下もない。ましてや、男がどうなどというプライベートなど、一切関係ないのだ。
なのに、なぜ私は「彼女は」などと思った?
狂った色の瞳が、脳裏にチラつく。鬱陶しい。彼女はただのモルモットのはずだろう?
「ねぇ、タキオン。『ダービー』の後、新しい貴方のカップを買いに行きましょう! 今度は、割れにくいものにしようね」
無邪気な彼女の笑顔に、心が乱される。
なぜ、どうして。
私は――なぜ、何を迷っている?