番外編
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初めて自分の翼で空を飛んだ時、視界いっぱいに映った空の青さに目を奪われた。
風を受けて宙へと飛び立つ感覚に、グングンと遠ざかっていく景色に、感動した日のことを、私は今も憶えている。
――鎹一族。彼らは八咫烏という三本の足を持った鴉の姿をした神の末裔である。
鴉の姿にのみ変化することのできる彼等は、およそ五~七歳までの間に自然と人から鴉へと変化できるようになるものである。
それまでに変化できなかった場合は、その者は変化する素質がないと判断される。
そして鎹一族の一人であるこの少女、信濃小羽もまた、その時期を迎えようとしていた。
小羽は今年で六歳を迎えたばかりである。
彼女は真っ青な青空を見上げながら、空を自由に飛び回る一羽の真っ黒な鴉を見つめていた。
鴉は悠々と空を飛行しながら、くるりと優雅に空中で一回転してみせた。
そして一通り空を自由に飛び回ると、小羽の目の前にある大きな岩に降り立った。
鴉は「カー」と一声鳴くと、小羽は眉間に思いっきりシワを寄せて、険しい表情を浮かべた。
「いいなぁ~、お兄ちゃんは自由に空を飛べて……
私も早くカッコイイ鴉になって、空を飛べるようになりたいなぁ~~」
小羽がそう不満そうに呟けば、鴉は突然人の姿になると、俯く小羽の頭にぽんっと優しく手を置いて、困ったように微笑んだ。
「焦らなくても、小羽もそのうち立派な鴉に変化できるようになるって!」
「そうかなぁ~~、私、ちゃんと変化できるようになると思う?もしも変化できなかったら……」
「その時はその時。もしも小羽が変化できなかったとしても、俺は気にしないぞ。」
「でも私、もう六歳になるのに全然変化できなくて……このまま鴉になれなかったら、私、鎹鴉になれないのかなぁ?」
「その時は鎹鴉を育てる仕事に就けばいいさ。鎹鴉になることだけが、一族の仕事じゃない。」
「そうだけど……」
清隆は小羽を励まそうと、少しでも彼女の不安を取り払おうと沢山の言葉を掛けてくれるが、小羽は不安げな顔のまま、俯いているだけであった。
一族の中には確かに鴉に変化できない者もいる。
だから小羽が変化できるか否かはその時にならなければ分からないのである。
あと一年。七歳なるまでに鴉の姿になることができなければ、変化できる力を持っていないと判断されてしまう。
だからこそ、小羽は焦っていたのである。
兄の清隆は四歳で鴉に変化できた。それなのに自分は六歳になった今でも変化できずにいる。
これが焦らずにいられるものだろうか。
「肩の力を抜いて、自分が鴉になる想像をするんだ。空を飛んでいる想像でも良い。考えてみろ。」
「う、うーん……」
小羽は清隆に言われた通り、目を閉じて想像してみた。
自分が真っ黒な鴉になって、あの美しい青空を自由に飛び回る姿を……
すると、胸の奥がじんわりと熱くなった気がした。
そのまま想像を膨らませてみる。
自分がどれだけ鴉になりたいか、どんな鴉になりたいか、ずっとずっと膨らませてきた想いをここぞとばかりに大きくしていく。
すると突然、自分の身体に変化が起きた。
身体に感じた違和感を確認しようと、そっと目を開けてみる。
気づくと視界がとても地面に近くなっていた。
明らかに視線の位置がおかしなことになっている。
これはもしかしたら、変化に成功したのだろうか?
小羽はそう思って喜びのあまり声をもらした。
「――チュン?」
……気のせいだろうか?
今自分の口から変な声が出なかったか?
「カァ」という鴉独特の鳴き声ではなく、「チュン」という可愛らしい……何か、小鳥のような……そう、例えば雀のような鳴き声がした。
小羽は恐る恐るといった様子で、自分の姿を見下ろしてみる。
上げてみた手は、ふわふわと温かそうな白い羽毛の羽に覆われていた。
白い。そう、白いのだ。
そして小羽は自分の背中を見ようと振り返ってみる。
鳥の首は人間とは違い、容易く後ろを向くことができた。
そしてそんな小羽の視界に入ってきた色は、茶色と黒が混じったような背中。それも所々小さい。
この時点で、小羽は自分が明らかに、鴉以外の何かに変化していることを理解した。
理解してしまった。
そして、極めつけは、「チュンチュン」と可愛らしく囀ってしまうこの口である。
間違っても、「カァ」などとは鳴けないこの鳥は紛れもなく……
「す、雀?」
どうか、どうか違っていてほしいという小羽の僅かな望みは、実の兄の清隆のその一言によって崩れ落ちた。
「雀」そうはっきりと彼が告げたことで、小羽は嫌でも確信するしかなかったのである。
自分が変化したのは、鴉ではなく雀であるのだと……
*
雀。どこからどう見ても雀である。
小羽は自分の姿を見て、ショックのあまり何も言えなくなった。
無言で俯いた視線の先に映る白い羽毛に、無性に泣きたくなった。
鎹一族は鴉にしか変化できないはずなのに、なぜ自分は雀なんかに変化しているのだろう。
もう訳がわからなくて、小羽は混乱していた。
「チュ、チュン……(なんで私、雀なんかに……)」
「小羽、大丈夫か?どこか体に変化はないか?」
「チュン……(すずめ……)」
「……小羽?」
清隆は鴉にではなく、雀に変化するなどという異例のない事態に、驚くよりも先に大切な妹の身体の心配をした。
鎹一族の者が鴉にではなく、雀に変化するなんて聞いたことがない。
もしかしたら、小羽の身体に何か良くない変化が起きているのではないか?清隆はそれを心配していた。
けれど当人である小羽はそれどころではなかった。
自分がやっとの思いで変化できたのは、ずっと憧れてきた鴉ではなく、なんの力も持たないか弱い小さな雀。
(何で?どうして?私、何か間違えた?)
小羽は自分の変わり果てた姿が信じられず、信じたくなくて、どうしても現実を受け入れることができなかった。
これはきっと何かの間違いだ。そうに決まってる。
そうじゃなければ、どうして自分は雀なんかになっているの?
あまりのショックに、小羽は清隆が自分を心配そうに見つめ、名を呼んだことに気付かないまま、空へと羽ばたいてしまった。
「なっ!――小羽!?」
たった今変化したばかりの小羽は、飛び方もよく分からないまま、気持ちのままに空へと飛び上がってしまった。
鳥の雛が母鳥から飛び方を教わって初めて飛び立ち方を知るように、鎹一族の者も変化してすぐに飛べるわけではない。
鴉の姿に変化できるようになって、何度も飛ぶ練習をして、そうしてやっと飛べるようになるのだ。
だからこそ、感情のままに羽を動かし、慣れない飛行をすることはとても危険な行為であった。
それでも小羽は飛び立ってしまった。
感情のままに、ずっと憧れていた筈の鴉にはなれず、本来なら有り得ないはずの雀の姿になったまま。
それが自分の身体にどんな影響があるのかも何も分からない状態で。
小羽は一人、家族の元を離れてしまったのであった。
清隆は慌てて追おうとしたが、少し目を離した間に小羽の姿を見失ってしまったのである。
「――くそっ!小羽!」
思わず舌打ちして、清隆は慌てて鴉の姿になって彼女を探し始めたのであった。
************
その頃小羽は、ふらふらと危なっかしい様子で空を飛行していた。
小羽たちは家は街から少し離れた山の中にある。
本来であれば鎹一族は人間を避けるために、人の足では決して入り込めないような山奥に隠れ里を作って暮らしている。
けれど小羽と清隆の父は元水柱であり、現役の頃に上弦の鬼との戦いで両足と右手を失った。
だから信濃家の者たちは、生活が困難な彼のために街近くの山で暮らしていたのである。(山の中で暮らしているのは、鳥に変化するのを隠すため)
そして小羽は、ふらふらと不安定な飛び方で無意識に街へとやって来たのであった。
(どうしてどうして!)
パタパタと小さな羽を精一杯羽ばたかせて、小羽はがむしゃらに飛んでいた。
ヨロヨロとした飛び方で木の枝に体を何度も擦りつけてしまい、所々に怪我をしてしまいながらも、それでも小羽はなんとか街へと辿り着いた。
ふらふらとへたり込むような感じで地面へと降り立つと、くたくたに疲れきった体を休めるようにぐったりと座り込んだ。
「……チュン(つ、疲れたぁ~……)」
地に足をつけたことで、不安定にずっと空を飛んできたことによる疲労と、ずっと慣れない宙を浮く感覚から解放されて、小羽は心から安堵した。
思わずふうっと、無意識にため息を吐き出した。
そしてこの時、彼女はとても気を抜いていた。
小羽は今、か弱き小さな雀になっている。
本来であれば絶対に周囲への警戒を怠ってはいけなかった。
そして案の定、その気の緩みが小羽に危険をもたらそうとしていた。
小羽を見つめる一つの影。
それはゆっくりと気配を消して、一歩、一歩と小さな小羽に近づいていく。
ジュルリと涎を垂らしそうになるのをぐっと堪えるように、その影は唾を飲み込むと、気配と音を殺して確実に近づいていく。
「にゃぁ~~お!!」
「チュン?(えっ?)」
ふと背後から突然声がして振り返ると、そこには今まさに自分に牙を剥かんとばかりに飛びかかろうとしている野良猫がいた。
気がついた時には既に遅く、猫は小羽に襲いかかる。
「ニャー!!フシャーー!!」
「チュチュチュン!!(ちょっ!猫ォォォォォォォォ!?)」
小羽は慌てて空へと飛び上がろうとしたが、猫の方が少しばかり速かった。
パタパタと羽ばたく小羽の体に爪を立て、小羽も食べられたくない一心で必死に抵抗しようと羽を動かす。
辺りに小羽の羽根が飛び散り、そんな猫と雀の様子を街の人々はどうでも良さげに一瞥しては去っていく。
「チュチュチュン!!チュゥン!!(食べないで!!やめて!!)」
「ニャー!!ウニャア!!」
「チュン!!チュンチュン!!(いた!!いたい!!)」
パタパタと羽を動かして抵抗するも、小羽よりもずっとずっと猫の方が体が大きい。
そんな相手に襲いかかられてしまっては、小羽のささやかな抵抗なんて無意味に等しかった。
小羽の白くて柔らかな羽毛に猫の爪が引っかかり、小さな傷ができていく。
怖くて怖くて、痛くて、心細くて、小羽はもう混乱して泣き叫んでいた。
誰でもいいから助けて欲しい。そう、心から願った。
そんな時だった。「やめろっ!」そんな怒声と共に小羽の体がすっぽりと何かに包まれ、不意に持ち上げられた。
それは人の手だった。小さな子供の手。
小羽の体を猫から守るように両手でしっかりと包み込むと、必死に胸のところで掻き抱くように隠してくれた。
子供の手ですっぽりと覆われたことで、小羽は猫から遠ざけられて、ホッと安堵の息をつく。
そして指の隙間から上を見上げてみると、その子供は自分と歳の近そうな男の子であった。
(誰?私を助けてくれたの?)
黒髪で気が弱そうなその男の子は、小羽を必死に守りながら、猫に引っ掻かれていた。
「フシャーー!!」
「いて!!いたただ!!何だよ!!やめろよ!!雀だって必死に生きてるんだぞ!!いじめるなよ!!可哀想だろ!!」
「シャーーっ!!」
「いてぇ!!」
男の子は泣きながら猫に説教していた。
そして猫は男の子の顔を思いっきり引っ掻き、頬にくっきりと三本の引っ掻き傷を残して何処かへと去って行った。
「いって~~!!あの猫!!なんて凶暴なんだ!!」
「チュン!!」
男の子は引っ掻かれた頬を片手で抑えながら、痛そうにボロボロと涙を流していた。
自分のせいで男の子に怪我をさせてしまい、心配そうに小さく鳴き声をあげた。
けれど、自分は今はただの雀だ。きっと彼に言葉は伝わらないだろう。
そう思ったのだが、男の子は小さく囀った小羽を見下ろすと、にっこりと笑ってくれた。
「心配してくれるのか?大丈夫だよ。痛いのは慣れてるし。……ああ、でもやっぱりちょっと……いや、かなり痛いなぁ。」
そう呟く男の子は小羽の体をじっと見つめる。
所々に猫に引っ掻かれたせいで、白い羽毛にはうっすらと血が滲んでいた。
男の子はそんな小羽を見て、まるで自分が怪我をしたかのように、泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。
「ごめんなぁ。俺がもっと早く助けてやれたら、こんな怪我しなくて済んだかもしれないのに……」
「チュンチュン!!(そんなことないよ、助けてくれてすごく嬉しかったよ!!)」
「……ちゃんと飛べるか?手当とかしてあげた方がいいのかな。……でも、家の人が許してくれるかな。」
男の子は何やら困っているようだった。
彼の事情は分からないが、ここで私が飛べないと助けてくれた彼に余計に迷惑ををかけてしまいそうだ。
「チュン!チュチュン!(大丈夫!私飛べるよ!)」
小羽は男の子に笑顔になって欲しくて、元気いっぱいに鳴いてみせた。
バタバタと勢いよく羽ばたいて、飛び立つ準備をする。
本当は体が所々痛いし、疲れているからまだ飛びたくはなかったのだが、それでも今は飛ぶべきだと強く思った。
自分を助けてくれた男の子を笑顔にしたい。安心させてあげたい。そんな想いでいっぱいだった。
「……飛べる?」
「チュン!」
男の子は心配そうに言葉をかける。
そんな彼に応えるように、小羽は元気よく一声鳴くと、次の瞬間、空へと飛び立った。
バタバタと可愛らしい羽音を立てて、今度はしっかりとした様子で空へと舞い上がる。
――小さな雀が飛び立っていく様子を、男の子はじっと見上げていた。
その姿があっという間に見えなくなると、彼はやっと安心したように微笑んだのだった。
「――良かった。ちゃんと飛んでくれた。あの雀、まるで最後は俺にありがとうって言ったみたいだったなぁ」
そう、嬉しそうに笑う男の子……我妻善逸と、雀の少女、信濃小羽が再び出会い、再会を果たすのは数年後のことである。
風を受けて宙へと飛び立つ感覚に、グングンと遠ざかっていく景色に、感動した日のことを、私は今も憶えている。
――鎹一族。彼らは八咫烏という三本の足を持った鴉の姿をした神の末裔である。
鴉の姿にのみ変化することのできる彼等は、およそ五~七歳までの間に自然と人から鴉へと変化できるようになるものである。
それまでに変化できなかった場合は、その者は変化する素質がないと判断される。
そして鎹一族の一人であるこの少女、信濃小羽もまた、その時期を迎えようとしていた。
小羽は今年で六歳を迎えたばかりである。
彼女は真っ青な青空を見上げながら、空を自由に飛び回る一羽の真っ黒な鴉を見つめていた。
鴉は悠々と空を飛行しながら、くるりと優雅に空中で一回転してみせた。
そして一通り空を自由に飛び回ると、小羽の目の前にある大きな岩に降り立った。
鴉は「カー」と一声鳴くと、小羽は眉間に思いっきりシワを寄せて、険しい表情を浮かべた。
「いいなぁ~、お兄ちゃんは自由に空を飛べて……
私も早くカッコイイ鴉になって、空を飛べるようになりたいなぁ~~」
小羽がそう不満そうに呟けば、鴉は突然人の姿になると、俯く小羽の頭にぽんっと優しく手を置いて、困ったように微笑んだ。
「焦らなくても、小羽もそのうち立派な鴉に変化できるようになるって!」
「そうかなぁ~~、私、ちゃんと変化できるようになると思う?もしも変化できなかったら……」
「その時はその時。もしも小羽が変化できなかったとしても、俺は気にしないぞ。」
「でも私、もう六歳になるのに全然変化できなくて……このまま鴉になれなかったら、私、鎹鴉になれないのかなぁ?」
「その時は鎹鴉を育てる仕事に就けばいいさ。鎹鴉になることだけが、一族の仕事じゃない。」
「そうだけど……」
清隆は小羽を励まそうと、少しでも彼女の不安を取り払おうと沢山の言葉を掛けてくれるが、小羽は不安げな顔のまま、俯いているだけであった。
一族の中には確かに鴉に変化できない者もいる。
だから小羽が変化できるか否かはその時にならなければ分からないのである。
あと一年。七歳なるまでに鴉の姿になることができなければ、変化できる力を持っていないと判断されてしまう。
だからこそ、小羽は焦っていたのである。
兄の清隆は四歳で鴉に変化できた。それなのに自分は六歳になった今でも変化できずにいる。
これが焦らずにいられるものだろうか。
「肩の力を抜いて、自分が鴉になる想像をするんだ。空を飛んでいる想像でも良い。考えてみろ。」
「う、うーん……」
小羽は清隆に言われた通り、目を閉じて想像してみた。
自分が真っ黒な鴉になって、あの美しい青空を自由に飛び回る姿を……
すると、胸の奥がじんわりと熱くなった気がした。
そのまま想像を膨らませてみる。
自分がどれだけ鴉になりたいか、どんな鴉になりたいか、ずっとずっと膨らませてきた想いをここぞとばかりに大きくしていく。
すると突然、自分の身体に変化が起きた。
身体に感じた違和感を確認しようと、そっと目を開けてみる。
気づくと視界がとても地面に近くなっていた。
明らかに視線の位置がおかしなことになっている。
これはもしかしたら、変化に成功したのだろうか?
小羽はそう思って喜びのあまり声をもらした。
「――チュン?」
……気のせいだろうか?
今自分の口から変な声が出なかったか?
「カァ」という鴉独特の鳴き声ではなく、「チュン」という可愛らしい……何か、小鳥のような……そう、例えば雀のような鳴き声がした。
小羽は恐る恐るといった様子で、自分の姿を見下ろしてみる。
上げてみた手は、ふわふわと温かそうな白い羽毛の羽に覆われていた。
白い。そう、白いのだ。
そして小羽は自分の背中を見ようと振り返ってみる。
鳥の首は人間とは違い、容易く後ろを向くことができた。
そしてそんな小羽の視界に入ってきた色は、茶色と黒が混じったような背中。それも所々小さい。
この時点で、小羽は自分が明らかに、鴉以外の何かに変化していることを理解した。
理解してしまった。
そして、極めつけは、「チュンチュン」と可愛らしく囀ってしまうこの口である。
間違っても、「カァ」などとは鳴けないこの鳥は紛れもなく……
「す、雀?」
どうか、どうか違っていてほしいという小羽の僅かな望みは、実の兄の清隆のその一言によって崩れ落ちた。
「雀」そうはっきりと彼が告げたことで、小羽は嫌でも確信するしかなかったのである。
自分が変化したのは、鴉ではなく雀であるのだと……
*
雀。どこからどう見ても雀である。
小羽は自分の姿を見て、ショックのあまり何も言えなくなった。
無言で俯いた視線の先に映る白い羽毛に、無性に泣きたくなった。
鎹一族は鴉にしか変化できないはずなのに、なぜ自分は雀なんかに変化しているのだろう。
もう訳がわからなくて、小羽は混乱していた。
「チュ、チュン……(なんで私、雀なんかに……)」
「小羽、大丈夫か?どこか体に変化はないか?」
「チュン……(すずめ……)」
「……小羽?」
清隆は鴉にではなく、雀に変化するなどという異例のない事態に、驚くよりも先に大切な妹の身体の心配をした。
鎹一族の者が鴉にではなく、雀に変化するなんて聞いたことがない。
もしかしたら、小羽の身体に何か良くない変化が起きているのではないか?清隆はそれを心配していた。
けれど当人である小羽はそれどころではなかった。
自分がやっとの思いで変化できたのは、ずっと憧れてきた鴉ではなく、なんの力も持たないか弱い小さな雀。
(何で?どうして?私、何か間違えた?)
小羽は自分の変わり果てた姿が信じられず、信じたくなくて、どうしても現実を受け入れることができなかった。
これはきっと何かの間違いだ。そうに決まってる。
そうじゃなければ、どうして自分は雀なんかになっているの?
あまりのショックに、小羽は清隆が自分を心配そうに見つめ、名を呼んだことに気付かないまま、空へと羽ばたいてしまった。
「なっ!――小羽!?」
たった今変化したばかりの小羽は、飛び方もよく分からないまま、気持ちのままに空へと飛び上がってしまった。
鳥の雛が母鳥から飛び方を教わって初めて飛び立ち方を知るように、鎹一族の者も変化してすぐに飛べるわけではない。
鴉の姿に変化できるようになって、何度も飛ぶ練習をして、そうしてやっと飛べるようになるのだ。
だからこそ、感情のままに羽を動かし、慣れない飛行をすることはとても危険な行為であった。
それでも小羽は飛び立ってしまった。
感情のままに、ずっと憧れていた筈の鴉にはなれず、本来なら有り得ないはずの雀の姿になったまま。
それが自分の身体にどんな影響があるのかも何も分からない状態で。
小羽は一人、家族の元を離れてしまったのであった。
清隆は慌てて追おうとしたが、少し目を離した間に小羽の姿を見失ってしまったのである。
「――くそっ!小羽!」
思わず舌打ちして、清隆は慌てて鴉の姿になって彼女を探し始めたのであった。
************
その頃小羽は、ふらふらと危なっかしい様子で空を飛行していた。
小羽たちは家は街から少し離れた山の中にある。
本来であれば鎹一族は人間を避けるために、人の足では決して入り込めないような山奥に隠れ里を作って暮らしている。
けれど小羽と清隆の父は元水柱であり、現役の頃に上弦の鬼との戦いで両足と右手を失った。
だから信濃家の者たちは、生活が困難な彼のために街近くの山で暮らしていたのである。(山の中で暮らしているのは、鳥に変化するのを隠すため)
そして小羽は、ふらふらと不安定な飛び方で無意識に街へとやって来たのであった。
(どうしてどうして!)
パタパタと小さな羽を精一杯羽ばたかせて、小羽はがむしゃらに飛んでいた。
ヨロヨロとした飛び方で木の枝に体を何度も擦りつけてしまい、所々に怪我をしてしまいながらも、それでも小羽はなんとか街へと辿り着いた。
ふらふらとへたり込むような感じで地面へと降り立つと、くたくたに疲れきった体を休めるようにぐったりと座り込んだ。
「……チュン(つ、疲れたぁ~……)」
地に足をつけたことで、不安定にずっと空を飛んできたことによる疲労と、ずっと慣れない宙を浮く感覚から解放されて、小羽は心から安堵した。
思わずふうっと、無意識にため息を吐き出した。
そしてこの時、彼女はとても気を抜いていた。
小羽は今、か弱き小さな雀になっている。
本来であれば絶対に周囲への警戒を怠ってはいけなかった。
そして案の定、その気の緩みが小羽に危険をもたらそうとしていた。
小羽を見つめる一つの影。
それはゆっくりと気配を消して、一歩、一歩と小さな小羽に近づいていく。
ジュルリと涎を垂らしそうになるのをぐっと堪えるように、その影は唾を飲み込むと、気配と音を殺して確実に近づいていく。
「にゃぁ~~お!!」
「チュン?(えっ?)」
ふと背後から突然声がして振り返ると、そこには今まさに自分に牙を剥かんとばかりに飛びかかろうとしている野良猫がいた。
気がついた時には既に遅く、猫は小羽に襲いかかる。
「ニャー!!フシャーー!!」
「チュチュチュン!!(ちょっ!猫ォォォォォォォォ!?)」
小羽は慌てて空へと飛び上がろうとしたが、猫の方が少しばかり速かった。
パタパタと羽ばたく小羽の体に爪を立て、小羽も食べられたくない一心で必死に抵抗しようと羽を動かす。
辺りに小羽の羽根が飛び散り、そんな猫と雀の様子を街の人々はどうでも良さげに一瞥しては去っていく。
「チュチュチュン!!チュゥン!!(食べないで!!やめて!!)」
「ニャー!!ウニャア!!」
「チュン!!チュンチュン!!(いた!!いたい!!)」
パタパタと羽を動かして抵抗するも、小羽よりもずっとずっと猫の方が体が大きい。
そんな相手に襲いかかられてしまっては、小羽のささやかな抵抗なんて無意味に等しかった。
小羽の白くて柔らかな羽毛に猫の爪が引っかかり、小さな傷ができていく。
怖くて怖くて、痛くて、心細くて、小羽はもう混乱して泣き叫んでいた。
誰でもいいから助けて欲しい。そう、心から願った。
そんな時だった。「やめろっ!」そんな怒声と共に小羽の体がすっぽりと何かに包まれ、不意に持ち上げられた。
それは人の手だった。小さな子供の手。
小羽の体を猫から守るように両手でしっかりと包み込むと、必死に胸のところで掻き抱くように隠してくれた。
子供の手ですっぽりと覆われたことで、小羽は猫から遠ざけられて、ホッと安堵の息をつく。
そして指の隙間から上を見上げてみると、その子供は自分と歳の近そうな男の子であった。
(誰?私を助けてくれたの?)
黒髪で気が弱そうなその男の子は、小羽を必死に守りながら、猫に引っ掻かれていた。
「フシャーー!!」
「いて!!いたただ!!何だよ!!やめろよ!!雀だって必死に生きてるんだぞ!!いじめるなよ!!可哀想だろ!!」
「シャーーっ!!」
「いてぇ!!」
男の子は泣きながら猫に説教していた。
そして猫は男の子の顔を思いっきり引っ掻き、頬にくっきりと三本の引っ掻き傷を残して何処かへと去って行った。
「いって~~!!あの猫!!なんて凶暴なんだ!!」
「チュン!!」
男の子は引っ掻かれた頬を片手で抑えながら、痛そうにボロボロと涙を流していた。
自分のせいで男の子に怪我をさせてしまい、心配そうに小さく鳴き声をあげた。
けれど、自分は今はただの雀だ。きっと彼に言葉は伝わらないだろう。
そう思ったのだが、男の子は小さく囀った小羽を見下ろすと、にっこりと笑ってくれた。
「心配してくれるのか?大丈夫だよ。痛いのは慣れてるし。……ああ、でもやっぱりちょっと……いや、かなり痛いなぁ。」
そう呟く男の子は小羽の体をじっと見つめる。
所々に猫に引っ掻かれたせいで、白い羽毛にはうっすらと血が滲んでいた。
男の子はそんな小羽を見て、まるで自分が怪我をしたかのように、泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。
「ごめんなぁ。俺がもっと早く助けてやれたら、こんな怪我しなくて済んだかもしれないのに……」
「チュンチュン!!(そんなことないよ、助けてくれてすごく嬉しかったよ!!)」
「……ちゃんと飛べるか?手当とかしてあげた方がいいのかな。……でも、家の人が許してくれるかな。」
男の子は何やら困っているようだった。
彼の事情は分からないが、ここで私が飛べないと助けてくれた彼に余計に迷惑ををかけてしまいそうだ。
「チュン!チュチュン!(大丈夫!私飛べるよ!)」
小羽は男の子に笑顔になって欲しくて、元気いっぱいに鳴いてみせた。
バタバタと勢いよく羽ばたいて、飛び立つ準備をする。
本当は体が所々痛いし、疲れているからまだ飛びたくはなかったのだが、それでも今は飛ぶべきだと強く思った。
自分を助けてくれた男の子を笑顔にしたい。安心させてあげたい。そんな想いでいっぱいだった。
「……飛べる?」
「チュン!」
男の子は心配そうに言葉をかける。
そんな彼に応えるように、小羽は元気よく一声鳴くと、次の瞬間、空へと飛び立った。
バタバタと可愛らしい羽音を立てて、今度はしっかりとした様子で空へと舞い上がる。
――小さな雀が飛び立っていく様子を、男の子はじっと見上げていた。
その姿があっという間に見えなくなると、彼はやっと安心したように微笑んだのだった。
「――良かった。ちゃんと飛んでくれた。あの雀、まるで最後は俺にありがとうって言ったみたいだったなぁ」
そう、嬉しそうに笑う男の子……我妻善逸と、雀の少女、信濃小羽が再び出会い、再会を果たすのは数年後のことである。