一章
か細く聞こえる嗚咽が、静かな客間にこだまする。場所は、先だって火事が起きたステファニーの家、その客間だ。
消火活動と煙の追い出し作業を終えた頃、ちょうどステファニーが外出から帰ってきた。ヘイノは家に何が起きていたかを簡潔に彼女に話し、コレットを彼女に預けてヨニとアナを呼びにひとっ走り教会まで戻り、彼らを連れてステファニーの家に戻ったのだった。
顔を青くして黙りこくってしまっていたコレットを宥めすかし、彼女の口から何があったかを話させる役割は、意外にもステファニーがすすんで請け負ってくれた。若者より年配者であり、形としてはコレットによる盗みの被害者である人物だからこそ、穏やかに諭すような言葉が動揺と罪悪感で動けなくなっていたコレットの心をほぐしてくれたのだろう。
「……なるほど。とりあえず、状況は分かったわ。まず、一つずつ整理していきましょうか」
コレットの告解を聞き終えたアナは、組んでいた腕を解き、ソファに座っているコレットの前に立つ。コレットの隣にはステファニーが腰掛けており、そこだけ見ると、まるで孫娘と祖母のように見えた。だが、その実態は、加害者と被害者という役回りなのだが。
「ステファニーさん。あなたがお探しの犯人はここにいるわけですけれど、どうしましょうか。あなたが望むのなら、私から自警団の方に話を通すこともできるわ」
アナの言葉を聞いて、俯いたまま動かなくなっていたコレットの肩がびくりと震える。しかし、アナはまるで意に介していないようだった。
「この町において、盗みと犯罪と詐欺は歴とした犯罪として処理される。私も、前任の司祭も、更に前任の司祭も、隣人を傷つけ、騙し、財産を奪うなかれと説いてきたのだもの。……残念ながら、あなたがそれを聞く機会は無かったようだけれど」
「アナさん、それはあんまりじゃ」
ヘイノは声を上げたが、アナにひと睨みされて言葉を喉の奥に押しやらねばならなかった。
それに、彼女は私的な感情に駆られて怒っているわけでも、義憤に駆られてそんなことを言い出しているわけでもないと、分かってしまったからでもある。
アナの言う通り、多くの都市において、殺人と詐欺と強盗は裁かれるべき犯罪とされている。だから、裁かなくてはならない。アナは型式に則って尋ねているだけなのだ。ゆえに、彼女の瞳には言葉の内容ほど、激しい感情はなかった。――子供を正しく導く大人、という義務感すらも、そこにあったかは怪しい。
「……アナさん、私はこの子を自警に突き出すつもりはありませんよ」
ステファニーの発言に、えっ、とコレットは声を上げる。おずおずと顔を上げた少女をそっと覗き込みながら、この中で最も年長の女性は、ゆっくりと唇を動かす。
「もちろん、勝手に物を盗むことは、良いことではありません。少なからず、私も落ち着かない夜を過ごすことになりました。どんな理由があったとしても、隣人の心を乱すのは良いことではありませんよ」
被害者であるはずの女性の言い含めるような物言いに、コレットは小さく「ごめんなさい」と呟く。
「だから、今度は困ったことがあったなら、遠慮なく扉を叩いて、助けを求めてごらんなさい。幸いにも、あなたの周りには尊敬できる人が沢山いるようですから。私があなたに望むことは、それだけですよ」
「…………ごめん、なさい。本当に……ごめん、なさい」
「大丈夫。悪いことをして嫌な気持ちになったのなら、それで十分あなたにとって罰になっていたでしょうから」
老女の穏やかな囁きに、コレットは鼻をすすりながら、小さく頷く。もはや枯れ尽くしたと思えるほど流れた涙は、再びポタポタとこぼれ落ちて、薄手のワンピースに染みを残していく。
「あらあら、せっかくの美人さんが台無しよ。一度、顔を洗ってきましょうか。お腹が空いているなら、少し遅いけれどおやつにしようかしら。私も、実はお腹が空いてねえ」
のんびりとした調子で話をしつつ、ステファニーはコレットの手をとって、ゆっくりと客間の出入り口へと促す。だが、彼女から微かに向けられた視線の意味がわからないほど、残された三人も察しは悪くなかった。
「…………あ、の。先生たち」
扉をくぐる手前で足を止め、コレットは振り返る。白い肌は今は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、真っ赤になっていた。だが、そんなことがどうでもいいと思えてしまうほど、彼女の目は悲哀に満ちていた。
「……私、また教室に来ても、いいですか」
「――ええ、是非来てください。まだ、教えられていないことが沢山ありますから」
誰よりも先に、ヘイノは彼女の言葉に応じる。応じなければならないと、彼も自負していたからだ。
彼女が憧れた、善き司祭の一人として。
何より、己自身がそう望んでいたのだから。
二人の姿が奥に消え去ってから、「さて」とヨニが軽く手を叩く。
「盗んだこと自体はステファニーさんがお咎めなしと言ってくれたけれど、放っておけないことがあるよね」
「はい。……彼女を追い詰めて、挙句犯罪まで促したゲイリー氏の元に戻せば、また何をさせるか分かりません。できれば、コレットはこちらで保護したいのですが」
「ヘイノがそう言うのは尤もね。でも、彼もまたコレットに盗みをさせたことを自覚させている。このまま行方をくらましたら、自分が促したと外部に漏れると思って、意地でも探してくる可能性は無きにしも非ずね」
「それに、これはあくまでコレットの一意見で、全部出鱈目だってあっちに言われたら、多分コレットの意見の方が無視させるよね」
アナの理論に、ヨニも同意を示した。
「なぜ、そうなるんですか。コレットの話には筋が通っているように思いますが」
ヘイノの咎めるような語調を気にせずに、ヨニは口角に笑みを滲ませながら言う。
「子供の言うことだからさ。子供の意見なんて、大人にとって都合のいいことしか聞いてくれないよ。まあ、ヘイノの話じゃ、ゲイリーさんとやらも、あまり評判の良い人じゃないみたいだけど」
そんなあやふやな意見でコレットの人生を左右させたくないと、ヘイノは渋面を作って考え込む。
何か、正当な理由をもって、彼をコレットから引き剥がせないものか。できるなら、二度と彼女の人生に関わらせない形で――。そう思って悩んでいると、
「あのさ、あの子の話を聞いていて一つ気になったことがあるんだけど、いい?」
ヨニの挙手に、ヘイノとアナの視線が彼へと集まる。
滔々と語るヨニの意見を聞き、ヘイノはゆっくりと目を丸くした。
「……もしそれが本当なら、ゲイリーさんのことは何とかなるかもしれませんね」
「でも、その後はどうする? コレットの世話をする人は、どのみち必要だよ」
ヨニの質問には、今度は迷わずにヘイノは答えた。
「もし誰も良い引き取り手がいないようなら、俺が引き取ります。アナさんにもヨニにも迷惑はかけないようにします。……すみませんが、許してもらえますか」
「あなたの領分でやる範囲なら、私は止めないわよ」
アナは簡素な返事をして、ヨニは「いいんじゃない」と言っただけだった。
二人とも、もろ手をあげて賛同してくれていないのは伝わってきていた。だが、無理を通そうとしてる自覚はヘイノにもある。だからこそ、彼ができたのは、静かに頭を下げることだけだった。
「ま、そこまで大げさにお願いすることじゃないよ。結局、なるようになるだろうからさ。それより、俺はアナさんと準備してくるから、ヘイノはコレットに話をしておいてくれる?」
ヘイノは硬い表情のまま、無言で頷く。そんな彼にするりと近寄り、ヨニはヘイノの肩を軽く小突いた。
「そんなガチガチに固まってたら、コレットも怖がっちゃうよ。憧れの司祭様?」
「……よしてください。それを言うならヨニもでしょう」
「いやいや、俺はそういうのは向いてないからさ」
そして、更にぐい、と顔を近づけて、彼は言う。
「君が始めたことなんだから、最後までしっかり蹴りをつけようよ」
「――ええ。分かってます」
気つけがわりか、今度は軽く胸を叩いてから、ヨニはくるりと背を向けたのだった。
***
ウィルム・ゲイリーという男にとって、世界というのは自分の都合に合わせて動いてくれるものでなければならなかった。どうしてそのような考えに至ったのか、などと本人に問うのは無駄だ。何故なら、それは彼にとって最早当然のことであり、毎朝太陽が昇るのと同じことだったのだから。
理由を探せば、其処彼処にあったかもしれない。幼い時分から職人の親に長男として大事に大事に――それはもう、甘やかされて、育てられてきたからか。はたまた、大きく育った体が、他人に言うことを聞かせる暴力的な振る舞いに役立つと知ってしまったからか。大人になっても、ろくに手に職をつけることもなく、遊び歩く姿を咎める相手がいなかったからか。
どちらにせよ、彼は自分が周りから煙たがられていることを自覚していたし、それを気にかけてもいなかった。ただ彼が不愉快に思うのは、自分の理論を無視して理屈を突きつけ、自分を上回る暴力を有する相手だった。
だから、彼は世紀の大悪人にまでは至れなかった。彼にとって官憲とは、自分が唯一叶わない相手だったからだ。
しかし、お役人でもないのに、理屈を突きつけてくる相手もいる。
「こんばんは、ゲイリーさん。あなたの娘さんのことで、少しお話があるのですが」
例えばそれは、先日追い返した生白い顔の、子供の司祭だ。
彼は、ゲイリーが先日、汚くなった家を掃除させるために雇った召使いを連れて、彼の家の玄関を叩き、開口一番そんなことを言った。
「お綺麗な司祭様が何の用だよ、俺には話なんざねぇぞ」
内心、ヒヤリとはしていた。
ゲイリーの小さな悪事は、つけ込まれると厄介な結果を招くものがいくつかあったからだ。その中の一つに、この召使いの子供は関わっている。彼は、粗暴ではあったが、全くの無知でもなかった。
「実は、あなたの娘さんが、とある家に火をつけましてね」
「――――は?」
しかし、予想外の糾弾に、思わずゲイリーは間抜けな声を漏らす。だが、司祭は冗談を言っているような素振りは全くなかった。
「幸い、火災自体はすぐに収まりましたが、家財の幾つかが破損してしまいました。家主の方から、我々に交渉をしてほしいと言われて、私が名代としてここに来た次第です。彼女は、弁償をしてもらえるなら自警団にあなた方を突きつけるような真似はしないと言っていますが、如何しますか?」
「なっ――な、そん、なことは……俺は」
どうにか理性を総動員して、ゲイリーは自分が失言するのを堪えた。
――そんなことはやれと言っていない、などと口にしたら、自ら墓穴を掘るだけだ。
「何かの間違い……そうだ、そうに決まってる! 大体、何でガキが燃やしたものを俺が弁償しなきゃならねえんだ!!」
「それが、保護している者の責任ですので。もしそれが関係ないと言うのなら、彼女はこちらで預かって自警団の方に引き渡しますが」
司祭の子供は、涼しい顔でそんなことを言う。だが、ゲイリーとしてはそれも許容し難かった。
この子供は、存外に彼の暴力的な脅しを無視して勝手な行動をしている。自警団から尋問を受けたら、自分が吹き込んだことや、ここで見たことをベラベラと話すかもしれない。自分が帰る場所がここであり、その同居人の機嫌はとらねばならない、という子供独特の盲目的な考え方があるからこそ、彼はコレットを支配できていたのだから。
「もちろん、すぐにというわけではありません。保護者として、彼女も話すこともあるでしょうから。翌日、またこちらに来ますのでその時にでも」
妙に剣呑な空気を漂わせつつも、司祭の方から譲歩の言葉を出してくれた。一日というのはあまりに猶予としてはちっぽけだったが、それでも時間があれば頭を回す余裕が生まれる。
コレットを残して去っていった司祭が、曲がり角を曲がって見えなくなった瞬間、ゲイリーは彼女の腕を引っ掴んで部屋の中へと引き摺り込んだ。勢い余って床に倒れ込んだ彼女の胸元を、先日市で買ったとかいうブローチが、妙に白々しい光を淡く放っていた。
「テメェ、何勝手なことしてやがんだ!! 俺は、酒を取ってこいっつったんだよ! 誰が火ぃつけろって言ったんだ!!」
「…………」
普段ならこうして怒鳴るだけで、体を抱えて「ごめんなさい」を繰り返す少女が、今日は黙りこくってじっとこちらを見つめている。何かを探るようにあちこちに視線をやってから、彼女はよろよろと立ち上がった。
「お、おじさんは、自分で、お酒持ってきてるじゃ、ないですか」
「……はぁ? 何でテメェがそれを知ってんだ」
「ま、町の人が話してたの。おじさんが仕事した後、いつもお酒の数が足りない……って」
ゲイリーの顔は怒りの赤と、痛いところを突かれた緊張で青が混じり、見事なまだら模様になっていった。握りしめた拳はわなわなと震え、どうにかギリギリの理性で堪えていても、それは沸騰寸前のやかんをじっと見つめているようなものだった。
「……それを、誰かに話したのか? あぁ?!」
「は、話してないわ。でも、話されると、おじさん……困るんでしょ。だから――」
コレットはごくりと唾を飲み、憤怒と焦燥で歪んだゲイリーの顔をじっと見つめて言った。
「話してないけれど、……話されたくなかったら、私が燃やしちゃったものの弁償をして。それで、私に食べ物を持ってきて」
「――テメェ、ガキの分際で俺をゆするつもりか!!」
他人から命じられることが何よりも嫌いな男の癇癪が、ぎりぎりの自制など全く効果なく、あっけない程にあっさりと爆発した。
ようやく狼の尾を踏んだとわかってか、コレットが慌てて逃げ出すが、当然家の奥に逃げ道などあるわけがない。
「大体、あれは――俺の報酬で持ってきてるだけなんだよ!! あいつらは俺に金を払わなさすぎるんだ!! だから、俺は、正当な支払いとして、ちょっと貰って帰ってやってるだけだ!! それを、テメェみたいなガキなんざがゆすろうなんざ――百年早ぇ!!」
ついに物置まで逃げ込んだコレットを追い詰める。ゲイリーの頭の中には、この子供をどうやって痛めつけ、己に服従させるしか頭になかった。
だから、振りかぶった拳が何者かに押し止められて動けなくなったことに、すぐに気が付かなかった。
「――――?」
「そこまでにしてもらえますか」
その声は、先程追い返した司祭の声だった。なぜ家にいるはずのないこの司祭がここにいるのか、を理解するより早く、言葉が続いた。
「ご自分で、認めてくれましたね。仕事の後に、酒を盗んだことを」
彼の静かな指摘がゲイリーの頭に染み渡った頃、彼の脳裏にはもう一つの単語が浮かび上がっていた。
――はめられた。
コレットが揺さぶりをかけるような言葉を口にされて、己は当然激昂する。そして、自ら盗みを認めるような言葉を意図的に吐かせたのだろう、と。
「な、何のことだ……? 俺は別に、そんなことは」
だが、聞いていたのは、どこかに潜んでいた司祭とコレットだけだ。それなら、シラを切って無かったことにできるかもしれない。慌ててそんな算段を立ててみるも、
「コレットがつけていたそのブローチから、ちゃんと聞こえていましたよ。自警団の方の元まで、あなたの声が」
何を言われているのか分からないと言う様子のゲイリーに、司祭の彼――ヘイノは淡々と告げる。
「そちらの石は、以前彼女が買った火聖石のものではない。それは、風聖石です。主な特徴は、その名前の通り風を起こし、一度に大量に空気を動かすことですが――他にもある特徴を保有しています」
よくよく見遣れば、司祭の言う通り、コレットの首元を飾っている石は、先日目にした赤ではなく淡い白に近い緑をしていた。
「それは、発した音を遠方の対になる石まで届かせること。あなたの言葉は、片割れを持つ方々のもとにまで、よく届いたことでしょう。盗みの自白は、当然ながら真偽を問われます。酒場の旦那様がたは、何故自分が注文した酒の数が合わないのか、その理由に大変興味があるようでしたよ」
話をしながら、司祭――ヘイノは振りかぶったゲイリーの腕を押さえつけんと、手に力を込める。できればこのまま観念して、大人しく捕縛されてほしい――そう思っていたが、上手くことは進まないものだ。
「……くそっ、どいつもこいつも俺をコケにしやがって!!」
男は乱暴にヘイノを振り解く。
普段はどうあれ、荷運びで鍛えられたのだろう筋肉は、ヘイノを突き飛ばし、そのまま質量のある弾丸のように部屋の向こうへと飛び出し、玄関へと向かう。
「逃がすわけには……っ!!」
このまま彼を逃がせば、彼の影に怯えながらコレットは過ごすことになる。それは、到底承服しかねる。
すぐさま立ち上がり、ヘイノは彼の後を追う。ちょうど玄関へとその巨躯が向かった時、ヘイノは玄関口に立つ自分と同じ顔をした片割れの姿を見つけた。
「ヨニ!!」
「そこをどけえええぇぇぇっ!!」
「――えっ」
暴力に慣れた男の拳は、ヘイノの様子を見にきていたヨニの体を、あっけないくらいあっさりと打ち据えた。
突然の行動に受身も取れなかったのか、彼の姿が玄関の向こう側へと消える。
――その瞬間、ヘイノは自分の頭が急速に冷えていくのがわかった。なのに、体の奥が熱い。冴え渡った思考は、体を前へ前へと突き動かしている。
気がつけば、ヘイノは玄関を飛び出し、逃亡を図ろうとしていた男に追いつくや否や、その巨躯に半ば飛びつくようにして地面へと押さえつけていた。抵抗する片腕を即座に肩ごと捻り上げ、もう片方の腕は足で踏みつけて押さえる。反射的にとった行動は、明らかに幾らかの経験から染みついた結果のものだった。
「司祭様、あとは我々が」
近寄ってきた自警団の制服を纏った男に声をかけられて、ようやくヘイノはハッとする。
「あ……はい、すみませんがお願いします」
「取り押さえていただき、ありがとうございます。ですが、周囲にも人を用意していましたので、そこまで無理をなさらなくても大丈夫ですよ。司祭様が怪我をしたら、それこそ一大事です」
自警団の青年にゲイリーを引き渡してから、ヘイノはヨニへと駆け寄る。彼はちょうど、地面から身を起こして、走ってきたコレットに介抱されていたところだった。
「ヨニ、大丈夫ですか!? 怪我は!?」
「あー、うん、へーきへーき。ちょっとガツンときただけ」
「血が出てるじゃないですかっ」
倒れた弾みで唇を歯で切ったのか、口の端から垂れた血が滲んでいる。軽く咳き込んでいるのは、体を打ったからだろう。
「いやあ、まさか本当に殴られると思わなくてさ。大丈夫、ちょっと転んだみたいなものだよ」
いつものように軽快な笑みを見せるヨニに、ヘイノはほっと一息つく。どうやら擦り傷が少しできただけのようだ。
彼が殴られたのを目にした瞬間、一瞬冷静な思考や打算が軒並みヘイノの中から消えてしまった。代わりにあったのは、まるで燃え盛る炎のような感情だけ。この一年間、一度も感じなかった感情に突き動かされるまま、ヘイノは彼を取り押さえていた。
「いや、でも驚いたよ。ヘイノがあんなに怒るなんて」
「…………俺は、怒っていたんでしょうか」
ヨニに言われて、ヘイノはハッとする。
あの激情は、確かに『怒り』と呼ばれるものだった。だが、それが自分にとって正しく『怒り』と称していいものなのかは、ヘイノにはわからなかった。
「ヘイノ先生、凄かったです……。あんな風におじさんを捕まえるなんて、びっくりしました……」
コレットの驚き混じりの賞賛とは裏腹に、ヘイノはきまりが悪そうな顔で視線を逸らす。
本来、司祭が荒事などするべきではないのに、気が付いたら手が出てしまっていた。結果としては良かったかもしれないが、殊更に褒められると何とも気まずい。
「とりあえず、あとは自警団の人に任せて、俺たちは帰ろうよ。座ってても邪魔になるだけだからさ」
「そうですね。アナさんももう帰ってる頃でしょうし――」
そこまで話して、ヘイノは所在なさげに座っているコレットへと手を差し出す。
「コレットも、来てくれますか?」
しばしの逡巡。だが、今度は――彼女もゆっくりと頷いてみせたのだった。
消火活動と煙の追い出し作業を終えた頃、ちょうどステファニーが外出から帰ってきた。ヘイノは家に何が起きていたかを簡潔に彼女に話し、コレットを彼女に預けてヨニとアナを呼びにひとっ走り教会まで戻り、彼らを連れてステファニーの家に戻ったのだった。
顔を青くして黙りこくってしまっていたコレットを宥めすかし、彼女の口から何があったかを話させる役割は、意外にもステファニーがすすんで請け負ってくれた。若者より年配者であり、形としてはコレットによる盗みの被害者である人物だからこそ、穏やかに諭すような言葉が動揺と罪悪感で動けなくなっていたコレットの心をほぐしてくれたのだろう。
「……なるほど。とりあえず、状況は分かったわ。まず、一つずつ整理していきましょうか」
コレットの告解を聞き終えたアナは、組んでいた腕を解き、ソファに座っているコレットの前に立つ。コレットの隣にはステファニーが腰掛けており、そこだけ見ると、まるで孫娘と祖母のように見えた。だが、その実態は、加害者と被害者という役回りなのだが。
「ステファニーさん。あなたがお探しの犯人はここにいるわけですけれど、どうしましょうか。あなたが望むのなら、私から自警団の方に話を通すこともできるわ」
アナの言葉を聞いて、俯いたまま動かなくなっていたコレットの肩がびくりと震える。しかし、アナはまるで意に介していないようだった。
「この町において、盗みと犯罪と詐欺は歴とした犯罪として処理される。私も、前任の司祭も、更に前任の司祭も、隣人を傷つけ、騙し、財産を奪うなかれと説いてきたのだもの。……残念ながら、あなたがそれを聞く機会は無かったようだけれど」
「アナさん、それはあんまりじゃ」
ヘイノは声を上げたが、アナにひと睨みされて言葉を喉の奥に押しやらねばならなかった。
それに、彼女は私的な感情に駆られて怒っているわけでも、義憤に駆られてそんなことを言い出しているわけでもないと、分かってしまったからでもある。
アナの言う通り、多くの都市において、殺人と詐欺と強盗は裁かれるべき犯罪とされている。だから、裁かなくてはならない。アナは型式に則って尋ねているだけなのだ。ゆえに、彼女の瞳には言葉の内容ほど、激しい感情はなかった。――子供を正しく導く大人、という義務感すらも、そこにあったかは怪しい。
「……アナさん、私はこの子を自警に突き出すつもりはありませんよ」
ステファニーの発言に、えっ、とコレットは声を上げる。おずおずと顔を上げた少女をそっと覗き込みながら、この中で最も年長の女性は、ゆっくりと唇を動かす。
「もちろん、勝手に物を盗むことは、良いことではありません。少なからず、私も落ち着かない夜を過ごすことになりました。どんな理由があったとしても、隣人の心を乱すのは良いことではありませんよ」
被害者であるはずの女性の言い含めるような物言いに、コレットは小さく「ごめんなさい」と呟く。
「だから、今度は困ったことがあったなら、遠慮なく扉を叩いて、助けを求めてごらんなさい。幸いにも、あなたの周りには尊敬できる人が沢山いるようですから。私があなたに望むことは、それだけですよ」
「…………ごめん、なさい。本当に……ごめん、なさい」
「大丈夫。悪いことをして嫌な気持ちになったのなら、それで十分あなたにとって罰になっていたでしょうから」
老女の穏やかな囁きに、コレットは鼻をすすりながら、小さく頷く。もはや枯れ尽くしたと思えるほど流れた涙は、再びポタポタとこぼれ落ちて、薄手のワンピースに染みを残していく。
「あらあら、せっかくの美人さんが台無しよ。一度、顔を洗ってきましょうか。お腹が空いているなら、少し遅いけれどおやつにしようかしら。私も、実はお腹が空いてねえ」
のんびりとした調子で話をしつつ、ステファニーはコレットの手をとって、ゆっくりと客間の出入り口へと促す。だが、彼女から微かに向けられた視線の意味がわからないほど、残された三人も察しは悪くなかった。
「…………あ、の。先生たち」
扉をくぐる手前で足を止め、コレットは振り返る。白い肌は今は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、真っ赤になっていた。だが、そんなことがどうでもいいと思えてしまうほど、彼女の目は悲哀に満ちていた。
「……私、また教室に来ても、いいですか」
「――ええ、是非来てください。まだ、教えられていないことが沢山ありますから」
誰よりも先に、ヘイノは彼女の言葉に応じる。応じなければならないと、彼も自負していたからだ。
彼女が憧れた、善き司祭の一人として。
何より、己自身がそう望んでいたのだから。
二人の姿が奥に消え去ってから、「さて」とヨニが軽く手を叩く。
「盗んだこと自体はステファニーさんがお咎めなしと言ってくれたけれど、放っておけないことがあるよね」
「はい。……彼女を追い詰めて、挙句犯罪まで促したゲイリー氏の元に戻せば、また何をさせるか分かりません。できれば、コレットはこちらで保護したいのですが」
「ヘイノがそう言うのは尤もね。でも、彼もまたコレットに盗みをさせたことを自覚させている。このまま行方をくらましたら、自分が促したと外部に漏れると思って、意地でも探してくる可能性は無きにしも非ずね」
「それに、これはあくまでコレットの一意見で、全部出鱈目だってあっちに言われたら、多分コレットの意見の方が無視させるよね」
アナの理論に、ヨニも同意を示した。
「なぜ、そうなるんですか。コレットの話には筋が通っているように思いますが」
ヘイノの咎めるような語調を気にせずに、ヨニは口角に笑みを滲ませながら言う。
「子供の言うことだからさ。子供の意見なんて、大人にとって都合のいいことしか聞いてくれないよ。まあ、ヘイノの話じゃ、ゲイリーさんとやらも、あまり評判の良い人じゃないみたいだけど」
そんなあやふやな意見でコレットの人生を左右させたくないと、ヘイノは渋面を作って考え込む。
何か、正当な理由をもって、彼をコレットから引き剥がせないものか。できるなら、二度と彼女の人生に関わらせない形で――。そう思って悩んでいると、
「あのさ、あの子の話を聞いていて一つ気になったことがあるんだけど、いい?」
ヨニの挙手に、ヘイノとアナの視線が彼へと集まる。
滔々と語るヨニの意見を聞き、ヘイノはゆっくりと目を丸くした。
「……もしそれが本当なら、ゲイリーさんのことは何とかなるかもしれませんね」
「でも、その後はどうする? コレットの世話をする人は、どのみち必要だよ」
ヨニの質問には、今度は迷わずにヘイノは答えた。
「もし誰も良い引き取り手がいないようなら、俺が引き取ります。アナさんにもヨニにも迷惑はかけないようにします。……すみませんが、許してもらえますか」
「あなたの領分でやる範囲なら、私は止めないわよ」
アナは簡素な返事をして、ヨニは「いいんじゃない」と言っただけだった。
二人とも、もろ手をあげて賛同してくれていないのは伝わってきていた。だが、無理を通そうとしてる自覚はヘイノにもある。だからこそ、彼ができたのは、静かに頭を下げることだけだった。
「ま、そこまで大げさにお願いすることじゃないよ。結局、なるようになるだろうからさ。それより、俺はアナさんと準備してくるから、ヘイノはコレットに話をしておいてくれる?」
ヘイノは硬い表情のまま、無言で頷く。そんな彼にするりと近寄り、ヨニはヘイノの肩を軽く小突いた。
「そんなガチガチに固まってたら、コレットも怖がっちゃうよ。憧れの司祭様?」
「……よしてください。それを言うならヨニもでしょう」
「いやいや、俺はそういうのは向いてないからさ」
そして、更にぐい、と顔を近づけて、彼は言う。
「君が始めたことなんだから、最後までしっかり蹴りをつけようよ」
「――ええ。分かってます」
気つけがわりか、今度は軽く胸を叩いてから、ヨニはくるりと背を向けたのだった。
***
ウィルム・ゲイリーという男にとって、世界というのは自分の都合に合わせて動いてくれるものでなければならなかった。どうしてそのような考えに至ったのか、などと本人に問うのは無駄だ。何故なら、それは彼にとって最早当然のことであり、毎朝太陽が昇るのと同じことだったのだから。
理由を探せば、其処彼処にあったかもしれない。幼い時分から職人の親に長男として大事に大事に――それはもう、甘やかされて、育てられてきたからか。はたまた、大きく育った体が、他人に言うことを聞かせる暴力的な振る舞いに役立つと知ってしまったからか。大人になっても、ろくに手に職をつけることもなく、遊び歩く姿を咎める相手がいなかったからか。
どちらにせよ、彼は自分が周りから煙たがられていることを自覚していたし、それを気にかけてもいなかった。ただ彼が不愉快に思うのは、自分の理論を無視して理屈を突きつけ、自分を上回る暴力を有する相手だった。
だから、彼は世紀の大悪人にまでは至れなかった。彼にとって官憲とは、自分が唯一叶わない相手だったからだ。
しかし、お役人でもないのに、理屈を突きつけてくる相手もいる。
「こんばんは、ゲイリーさん。あなたの娘さんのことで、少しお話があるのですが」
例えばそれは、先日追い返した生白い顔の、子供の司祭だ。
彼は、ゲイリーが先日、汚くなった家を掃除させるために雇った召使いを連れて、彼の家の玄関を叩き、開口一番そんなことを言った。
「お綺麗な司祭様が何の用だよ、俺には話なんざねぇぞ」
内心、ヒヤリとはしていた。
ゲイリーの小さな悪事は、つけ込まれると厄介な結果を招くものがいくつかあったからだ。その中の一つに、この召使いの子供は関わっている。彼は、粗暴ではあったが、全くの無知でもなかった。
「実は、あなたの娘さんが、とある家に火をつけましてね」
「――――は?」
しかし、予想外の糾弾に、思わずゲイリーは間抜けな声を漏らす。だが、司祭は冗談を言っているような素振りは全くなかった。
「幸い、火災自体はすぐに収まりましたが、家財の幾つかが破損してしまいました。家主の方から、我々に交渉をしてほしいと言われて、私が名代としてここに来た次第です。彼女は、弁償をしてもらえるなら自警団にあなた方を突きつけるような真似はしないと言っていますが、如何しますか?」
「なっ――な、そん、なことは……俺は」
どうにか理性を総動員して、ゲイリーは自分が失言するのを堪えた。
――そんなことはやれと言っていない、などと口にしたら、自ら墓穴を掘るだけだ。
「何かの間違い……そうだ、そうに決まってる! 大体、何でガキが燃やしたものを俺が弁償しなきゃならねえんだ!!」
「それが、保護している者の責任ですので。もしそれが関係ないと言うのなら、彼女はこちらで預かって自警団の方に引き渡しますが」
司祭の子供は、涼しい顔でそんなことを言う。だが、ゲイリーとしてはそれも許容し難かった。
この子供は、存外に彼の暴力的な脅しを無視して勝手な行動をしている。自警団から尋問を受けたら、自分が吹き込んだことや、ここで見たことをベラベラと話すかもしれない。自分が帰る場所がここであり、その同居人の機嫌はとらねばならない、という子供独特の盲目的な考え方があるからこそ、彼はコレットを支配できていたのだから。
「もちろん、すぐにというわけではありません。保護者として、彼女も話すこともあるでしょうから。翌日、またこちらに来ますのでその時にでも」
妙に剣呑な空気を漂わせつつも、司祭の方から譲歩の言葉を出してくれた。一日というのはあまりに猶予としてはちっぽけだったが、それでも時間があれば頭を回す余裕が生まれる。
コレットを残して去っていった司祭が、曲がり角を曲がって見えなくなった瞬間、ゲイリーは彼女の腕を引っ掴んで部屋の中へと引き摺り込んだ。勢い余って床に倒れ込んだ彼女の胸元を、先日市で買ったとかいうブローチが、妙に白々しい光を淡く放っていた。
「テメェ、何勝手なことしてやがんだ!! 俺は、酒を取ってこいっつったんだよ! 誰が火ぃつけろって言ったんだ!!」
「…………」
普段ならこうして怒鳴るだけで、体を抱えて「ごめんなさい」を繰り返す少女が、今日は黙りこくってじっとこちらを見つめている。何かを探るようにあちこちに視線をやってから、彼女はよろよろと立ち上がった。
「お、おじさんは、自分で、お酒持ってきてるじゃ、ないですか」
「……はぁ? 何でテメェがそれを知ってんだ」
「ま、町の人が話してたの。おじさんが仕事した後、いつもお酒の数が足りない……って」
ゲイリーの顔は怒りの赤と、痛いところを突かれた緊張で青が混じり、見事なまだら模様になっていった。握りしめた拳はわなわなと震え、どうにかギリギリの理性で堪えていても、それは沸騰寸前のやかんをじっと見つめているようなものだった。
「……それを、誰かに話したのか? あぁ?!」
「は、話してないわ。でも、話されると、おじさん……困るんでしょ。だから――」
コレットはごくりと唾を飲み、憤怒と焦燥で歪んだゲイリーの顔をじっと見つめて言った。
「話してないけれど、……話されたくなかったら、私が燃やしちゃったものの弁償をして。それで、私に食べ物を持ってきて」
「――テメェ、ガキの分際で俺をゆするつもりか!!」
他人から命じられることが何よりも嫌いな男の癇癪が、ぎりぎりの自制など全く効果なく、あっけない程にあっさりと爆発した。
ようやく狼の尾を踏んだとわかってか、コレットが慌てて逃げ出すが、当然家の奥に逃げ道などあるわけがない。
「大体、あれは――俺の報酬で持ってきてるだけなんだよ!! あいつらは俺に金を払わなさすぎるんだ!! だから、俺は、正当な支払いとして、ちょっと貰って帰ってやってるだけだ!! それを、テメェみたいなガキなんざがゆすろうなんざ――百年早ぇ!!」
ついに物置まで逃げ込んだコレットを追い詰める。ゲイリーの頭の中には、この子供をどうやって痛めつけ、己に服従させるしか頭になかった。
だから、振りかぶった拳が何者かに押し止められて動けなくなったことに、すぐに気が付かなかった。
「――――?」
「そこまでにしてもらえますか」
その声は、先程追い返した司祭の声だった。なぜ家にいるはずのないこの司祭がここにいるのか、を理解するより早く、言葉が続いた。
「ご自分で、認めてくれましたね。仕事の後に、酒を盗んだことを」
彼の静かな指摘がゲイリーの頭に染み渡った頃、彼の脳裏にはもう一つの単語が浮かび上がっていた。
――はめられた。
コレットが揺さぶりをかけるような言葉を口にされて、己は当然激昂する。そして、自ら盗みを認めるような言葉を意図的に吐かせたのだろう、と。
「な、何のことだ……? 俺は別に、そんなことは」
だが、聞いていたのは、どこかに潜んでいた司祭とコレットだけだ。それなら、シラを切って無かったことにできるかもしれない。慌ててそんな算段を立ててみるも、
「コレットがつけていたそのブローチから、ちゃんと聞こえていましたよ。自警団の方の元まで、あなたの声が」
何を言われているのか分からないと言う様子のゲイリーに、司祭の彼――ヘイノは淡々と告げる。
「そちらの石は、以前彼女が買った火聖石のものではない。それは、風聖石です。主な特徴は、その名前の通り風を起こし、一度に大量に空気を動かすことですが――他にもある特徴を保有しています」
よくよく見遣れば、司祭の言う通り、コレットの首元を飾っている石は、先日目にした赤ではなく淡い白に近い緑をしていた。
「それは、発した音を遠方の対になる石まで届かせること。あなたの言葉は、片割れを持つ方々のもとにまで、よく届いたことでしょう。盗みの自白は、当然ながら真偽を問われます。酒場の旦那様がたは、何故自分が注文した酒の数が合わないのか、その理由に大変興味があるようでしたよ」
話をしながら、司祭――ヘイノは振りかぶったゲイリーの腕を押さえつけんと、手に力を込める。できればこのまま観念して、大人しく捕縛されてほしい――そう思っていたが、上手くことは進まないものだ。
「……くそっ、どいつもこいつも俺をコケにしやがって!!」
男は乱暴にヘイノを振り解く。
普段はどうあれ、荷運びで鍛えられたのだろう筋肉は、ヘイノを突き飛ばし、そのまま質量のある弾丸のように部屋の向こうへと飛び出し、玄関へと向かう。
「逃がすわけには……っ!!」
このまま彼を逃がせば、彼の影に怯えながらコレットは過ごすことになる。それは、到底承服しかねる。
すぐさま立ち上がり、ヘイノは彼の後を追う。ちょうど玄関へとその巨躯が向かった時、ヘイノは玄関口に立つ自分と同じ顔をした片割れの姿を見つけた。
「ヨニ!!」
「そこをどけえええぇぇぇっ!!」
「――えっ」
暴力に慣れた男の拳は、ヘイノの様子を見にきていたヨニの体を、あっけないくらいあっさりと打ち据えた。
突然の行動に受身も取れなかったのか、彼の姿が玄関の向こう側へと消える。
――その瞬間、ヘイノは自分の頭が急速に冷えていくのがわかった。なのに、体の奥が熱い。冴え渡った思考は、体を前へ前へと突き動かしている。
気がつけば、ヘイノは玄関を飛び出し、逃亡を図ろうとしていた男に追いつくや否や、その巨躯に半ば飛びつくようにして地面へと押さえつけていた。抵抗する片腕を即座に肩ごと捻り上げ、もう片方の腕は足で踏みつけて押さえる。反射的にとった行動は、明らかに幾らかの経験から染みついた結果のものだった。
「司祭様、あとは我々が」
近寄ってきた自警団の制服を纏った男に声をかけられて、ようやくヘイノはハッとする。
「あ……はい、すみませんがお願いします」
「取り押さえていただき、ありがとうございます。ですが、周囲にも人を用意していましたので、そこまで無理をなさらなくても大丈夫ですよ。司祭様が怪我をしたら、それこそ一大事です」
自警団の青年にゲイリーを引き渡してから、ヘイノはヨニへと駆け寄る。彼はちょうど、地面から身を起こして、走ってきたコレットに介抱されていたところだった。
「ヨニ、大丈夫ですか!? 怪我は!?」
「あー、うん、へーきへーき。ちょっとガツンときただけ」
「血が出てるじゃないですかっ」
倒れた弾みで唇を歯で切ったのか、口の端から垂れた血が滲んでいる。軽く咳き込んでいるのは、体を打ったからだろう。
「いやあ、まさか本当に殴られると思わなくてさ。大丈夫、ちょっと転んだみたいなものだよ」
いつものように軽快な笑みを見せるヨニに、ヘイノはほっと一息つく。どうやら擦り傷が少しできただけのようだ。
彼が殴られたのを目にした瞬間、一瞬冷静な思考や打算が軒並みヘイノの中から消えてしまった。代わりにあったのは、まるで燃え盛る炎のような感情だけ。この一年間、一度も感じなかった感情に突き動かされるまま、ヘイノは彼を取り押さえていた。
「いや、でも驚いたよ。ヘイノがあんなに怒るなんて」
「…………俺は、怒っていたんでしょうか」
ヨニに言われて、ヘイノはハッとする。
あの激情は、確かに『怒り』と呼ばれるものだった。だが、それが自分にとって正しく『怒り』と称していいものなのかは、ヘイノにはわからなかった。
「ヘイノ先生、凄かったです……。あんな風におじさんを捕まえるなんて、びっくりしました……」
コレットの驚き混じりの賞賛とは裏腹に、ヘイノはきまりが悪そうな顔で視線を逸らす。
本来、司祭が荒事などするべきではないのに、気が付いたら手が出てしまっていた。結果としては良かったかもしれないが、殊更に褒められると何とも気まずい。
「とりあえず、あとは自警団の人に任せて、俺たちは帰ろうよ。座ってても邪魔になるだけだからさ」
「そうですね。アナさんももう帰ってる頃でしょうし――」
そこまで話して、ヘイノは所在なさげに座っているコレットへと手を差し出す。
「コレットも、来てくれますか?」
しばしの逡巡。だが、今度は――彼女もゆっくりと頷いてみせたのだった。