一章
まだ冬の冷たさは残っているものの、昼間は少しずつ気温も上昇している。全力で走ったヘイノは、ステファニーの家に着く頃には額から汗を滲ませていた。
今は家主は出かけているのか、家はしんとした沈黙を保っている。だが、ヘイノは見逃してはならないものを、垣根の曲がり角にしっかり見つけてしまっていた。
「コレット!!」
自分でも出したことがないと思えるほど、必死の声が口から飛び出していた。ヘイノの呼びかけに、曲がり角に消えかけていた少女の影が、びくりと震えて、その場に踏みとどまる。
「コレット、逃げないでください。話は後で聞きますが、今はもっと急がなくてはならないことがあるんです」
ヘイノは彼女を怯えさせないように、出来るだけ声音を柔らかくして、ゆっくりと歩み寄る。彼の態度が功を奏して、おずおずとコレットが垣根の端から姿を見せた。その顔は、いつもの白さを通り越して、最早卒倒するのではと思うほどに蒼白になっていた。
「せん、せ……どうして、ここに……。……あの、私……」
「コレット、大事なことを聞きます。あなたが持っていたブローチは、この辺りで落としたんですか」
「…………は、い」
彼女は唇を戦慄かせていたが、やがて、ゆっくりと首を縦に振った。
「昨日…………夜に、きた時に…………。帰った後、見たら、無かった……です」
「それは、見つかりましたか」
コレットは、今度は首をブンブンと横に振った。彼女が嘘をついているとも思えない。ならば、この周辺の目につくところには、落ちていなかったのだろう。
「あの…………あのお守りが、何かあったんですか……?」
「あれは、いつ燃え上がるか分からない、危険な代物の可能性があります。市で売っていたのが誰かは知りませんが……コレットは質の悪いものを売りつけられたのかもしれません」
一年間は聖都にいたせいで、ヘイノは聖石に対する感覚が少し世間からずれている。今まで意識していなかったが、ことここに至って露見した形となってしまった。
本来、属性持ちの聖石は、そうそう簡単に手に入るものではない。無論、設備としては普及しているのだが、それはすぐに手に入ることと同義ではない。アナにも言われていたのに、コレットが暖かそうにしているのを見て、それで満足してしまって、ことの本質を見逃してしまっていた。
ヘイノの言葉を聞いて、コレットは目を丸くする。やはり、彼女も知らなかったのだろう。
「この辺りに見つからないというのは、誰かが持っていってしまったのでしょうか……」
それはそれで問題になる――と思った時だった。ヘイノの色違いの目は、垣根にひょいと飛び移る猫を捉えた。ステファニーの愛猫、ルーシーだ。先日家に来た時は、ヘイノのネックレスにじゃれついてきていた。
「たしか、ステファニーさんは、ルーシーは光るものが好きって……」
そこまで呟いて、ヘイノはハッとする。
次の瞬間、ヘイノはコレットの手を引いて、門扉のある方へと回っていた。幸か不幸か、門扉の鍵はかけられておらず、容易に侵入ができた。おまけに玄関の扉も、力をかけばあっさりと二人を中へと招いた。
「……ステファニーさんには、後で鍵をかけるように言わないといけませんね」
これでは、地下倉庫の侵入以前の問題だ。だが、今はそれどころではない。
一瞬足を止めてしまったが、ヘイノは内心でステファニーに頭を下げながら、ずんずんと中へと入る。コレットはどこか遠慮がちに、おずおずとヘイノの後に続いた。
「先生、あの…………勝手に入っていいんですか……?」
「良くないです。でも、もし」
ヘイノは、その続きの言葉を口にする必要がなかった。玄関から廊下に続く扉を開いた瞬間に、部屋全体に立ち込める白い煙に、息を止めざるをえなかったからだ。
「コレット、口を手で塞いで。そこの部屋に、ポンプがあったと思いますから、そばに置いてあるボウルに水を入れてください」
幸い、ここ数日この家に邪魔していた時に、家主の身辺の世話もいくらか手伝っていた。おかげで、家の間取りも、どこに何があるかも大体わかる。
コレットに指示を出して、ヘイノは煙が濃くなる方へと進もうとした。
「先生、どこにいくんですか……!?」
「どこかで既に発火しているようです。火の元を探してきますから、コレットは早く水を!」
彼女を居間に追いやってから、ヘイノは必死に間取りを――正確には猫のルーシーが良く過ごしていた場所を思い出す。
(俺たちが行っても、普段はあまり姿を見かけなかった。外に行っていたのではないなら、俺たちが出入りしてる玄関付近よりも奥か、二階……)
大体の予測を打ち立てて、ヘイノは木製の小さな階段を登る。足音を立てて上がった先は、やはり煙が濃い。霧に似たそれを吸わないように、袖口で口元を隠しながら、ヘイノは奥へと向かう。幸い、煙の濃い方ははっきりとしているので、入ったことがほとんどない二階でも、容易に足をすすめることができた。
(こっちの部屋から……ああ、やっぱり、これだったか)
猫の遊び場になっているのか、藤製の籠だったと思しきものが、真っ赤な炎を上げて燃え上がっている。少し離れたところに寝台や鏡台、衣服をしまう木箱などが置かれており、ここがステファニーの寝室なのだろうとは想像がついた。
(彼女が寝ている時じゃなくてよかった )
光り物好きのルーシーは、コレットが落としたブローチを見つけて、自分のねぐらに運んだのだろう。しかし、それは自ら熱を生み出す火聖石の中でも、粗悪な品だった。本来なら刻まれた紋章が熱の制御を行い、ストーブや暖炉の暖房具に使われる品だが、制御を失ったそれは容易く暴走する――その結果がこれだ。
ヘイノはひとまず階段まで戻り、コレットに水を汲んだら二階へと上がるように声をかけてから、再び火の元へと戻る。次いで、司祭服として普段から纏っているショール状の布を外すと、何重にも折り重なるように畳んでから、少しずつ燃え広がっている火の元へとかけ、何度も強く押し叩いた。
司祭服自体は、多少の難事にも耐えるように丈夫に作られている――とは、以前神学校でも教えられていた。それは、各地で発現し、容赦なく人々を襲う精霊を宥める役割を持つ者のためなのだろうが、見習いの自分達にも同等の品が用意されているだろう――と推量はつけていた。
幸い、ヘイノの予想は当たったようで、布が燃え上がる気配はない。程なくして、コレットが階段を駆け上がる音も聞こえてきた。
「先生、お水汲んできました……!」
「ありがとうございます。そのまま、ここにかけてください、早く!」
彼女に布の上から水をかけさせるように指示すると、彼女はボウルいっぱいに汲んだ水を遠慮なく布の上でひっくり返した。
たっぷりと水を含んだ布で火を包む――それは有効な消火法の一つだ。入念に火元を叩き、ようやく煙が消えたと確信してから、ヘイノは消火活動を止めた。
「……これでよし、と。コレット、部屋の換気をしましょう。煙だらけの家に、ステファニーさん……この家の家主を迎えるわけにはいきませんから」
「は、はい」
「それと、……後で、話を聞かせてもらえますか」
ヘイノの静かな呼びかけに、コレットは足を止める。振り返った彼女の目には、火事の時には一瞬忘れていた動揺が如実に現れていた。
「…………私、は」
青ざめた顔は、痛々しいほどに罪悪感に満ちている。今すぐ、この場から立ち去りたいと、彼女の顔は雄弁に語っていた。しかし、ヘイノの視線が、それを許さなかった。
「お願いします。俺は、コレットが困っているなら手助けをしたい」
「…………どう、して。先生は、私と、会って、まだちょっとしか経ってないのに」
「自分でも、どうしてだろう、とは思いました。確かに、俺はあなたと出会って少ししか一緒に過ごしていない」
ヨニにも問われた。なぜ、そこまで行動しようとするのかと、気にかけるのかと。
「ただ、コレットが困っているように見えました。あなたに、元気でいてほしいと思いました。それだけしかないんですけど、それだけで俺には理由として十分だと思っています」
そして、ヘイノは一つの答えを出した。記憶を失い、何も持っていなかった自分が、初めて『誰か』の軌跡を辿るでもなく、『弟』の同意のためにでもなく。
――自分で、見つけた『答え』だったのだ。
「だから、もし俺の心配が杞憂ではないのなら。コレットのことを、教えてくれませんか」
少女の透き通った瞳に、じわりと温かな雫が滲む。それがぽたりと落ちたころ、ようやく少女は嗚咽混じりで、話し始めた。
***
――お母さんは馬鹿だから、貧乏なんだよ。
物心ついた時から、コレットはその言葉を聞いて育っていた。
父の顔は知らない。母は父の話をすると顔を顰めて全く別の話をするので、コレットにとって父というのは存在しない生き物となっていた。幼いコレットにとっては、街の端の端にある、今にも崩れそうな家と母だけが生活の全てだった。母は毎日、どこかの屋敷の下働きに行ったり、工場に出かけたりしているようだった。
生活は母の申告どおり、貧乏としか言いようがなかった。それでも、雨風を塞ぐ屋根のある家があり、朝晩に冷たいながらも食べられるものがあるだけ、自分が満たされていると思えた。
だが、母はそれで満足できていないようで、事あるごとに貧乏を嘆き、それは己が馬鹿だからと呟いていた。何を指して彼女が自らを愚かと言っているのかは、幼いコレットにはよく分からなかった。ただ、金勘定もろくにできない母が、ある日法外な値段をふっかけられているとも知らずに食べ物を買っていると知った時、彼女が嘆いた理由をコレットは知った気がした。
母は、コレットが八つを迎える頃にあっけなく天へと旅立った。今までそっぽを向いていたご近所の人間は、ここぞとばかりにコレットのもとにやってきて母の死去を嘆いた。そして、そのついでに、自分が世話をしただの面倒を見ていただの言って、家財の一切を持って行ってしまった。辛うじて母が残した小さなガラス玉のはまった指輪が、コレットの唯一の財産となった。
本来なら、そのまま孤児院に行くところだったのだが、近隣に住む一人の女性が、たくさんいる子供の世話に苦労していて、手伝いをしている女の子を探していた、と言ってコレットを引き取った。そこでようやく、コレットは『いくらか財産のある普通の家庭』の空気を知った。
しかし、下働きとして引き取ってもらった以上、コレットには仕事が待っていた。朝晩を問わず、赤子や幼子の世話に奔走する毎日が続いた。日々の楽しみは、子どもたちへの読み聞かせに混ざって、文字を覚えることだった。自分で絵本を読めるようになった時、どこかで母が喜んでくれたような気がした。母は、文字も読めなかったのだから。
雇い主である女性は、ごくまれにコレットを教会に連れて行った。それは子どもたちの子守りをさせる意味もあったのだろうが、コレットは教会の荘厳な空気と、そこで話される物語が好きだった。司祭の人は、まるで絵に描いたような清廉な人物で、およそコレットが理想と思えるような慈悲深い人に思えた。
自分より少し年上の少女が、この国の礎を作ったという物語も、コレットの心の慰めとなった。いつか、自分も苦難を乗り越えて、何か大きなことを成し遂げられるのでは、と希望を抱えながら生きるのは、少なからず救いになった。
そうして十歳になった頃、雇い主の家族は町から引っ越すことになったが、コレットを連れて行けないと言い出した。それ自体は何も不思議なことではない。元々、小さな子供のコレットを、召使いとして雇ってくれていた方が珍しいのだから。
今度こそ孤児院送りかと思った時、今度は雇い主の親戚がちょうど家の中のことをしてくれる人を探しているのだと言われ、その人物の元に住み込みで働くことになった――つまり、これまでと変わらないとコレットは思っていた。
コレットを引き取った人物は、一人暮らしの男性だった。数日共に過ごすだけで、お世辞にも彼が素行の良い人物ではなさそうだと、コレットは理解した。だが、路頭に放り出されずに済むのならそれでいい、と彼女は己の役割に暫し従事していた。
子供ばかりで常にどこかしら汚れていた前の雇い主の家よりも、なぜか彼の家の方が酷く汚れていた。きっと何年も掃除をしていなかったのだろう。おかげで、コレットは新しい家に来てから、まるまる十日は掃除に明け暮れる必要があった。
新しい同居人は母と同じく貧しいようだったが、いつもどこからともなくお酒を持ち込み、毎晩のように家で飲んでいた。彼の積み上げた酒瓶を外に捨てに行こうとすると怒られるので、家にはあちこちに空き瓶が転がっていた。
生活は以前より、確実に悪くなっていた。朝晩の食事も十分ではなかったので、コレットはいつも空腹を抱えていた。同居人の晩酌の時に、彼が機嫌がいいタイミングを見計らっておこぼれに与らないと、金も稼いでないのに一丁前に食事を横取りする気なのか、と難癖をつけられるからだ。
そんなある日、男が荷運びの仕事に出ている間、ようやく家も片付け終えたので、コレットはしばしの外出を楽しんでいた。そこで、教会から出ていく、たくさんの子どもたちを見かけた。彼らは、コレットが憧れている司祭の青年を先生と呼び、楽しそうに笑い合っていた。
その時、生まれて初めて――羨ましい、と思った。
上等な服も、美味しそうなご飯も、たとえ目の前に出されても我慢できたけれども。あの光景に何の苦もなく紛れていられる子供たちを、心底羨ましいと思ったのだ。
普段から『大人』の言うことだけをしていたコレットが、自分から彼らに歩み寄ってしまうほどに。
幸い司祭の青年は、見知らぬ子供であっても寛大に自分達の輪の中へと招いてくれた。さらに幸運なことに、この場所は学びの場でもあった。母が日頃口にしていた無念とも怨念とも言える言葉を思い出し、コレットは必死に与えられる知識を吸収しようとした。
司祭の青年――ヨニという名前の彼は、幼い子供たちの面倒を見るのが忙しくて、おとなしくい性格のコレットには、あまり声をかけてはくれなかった。
かつて見た司祭の男性よりも彼はずっと陽気で気さくで、理想としていた清廉な空気とは程遠かったが、それでもコレットにとっては憧憬の象徴ではあった。
そうして二週間ほどが過ぎた頃。ヨニは、自分の兄弟だと言って、一人のそっくりの顔をした青年――ヘイノを皆に紹介した。ヨニとは対照的に、コレットより数歳しか違わないとは思えないほど落ち着き払った態度と、品行方正な振る舞いは、まさにコレットが憧れていた司祭の姿そのものだった。
生徒として彼に教えられる偶然に歓喜し、毎日教会に行くのが益々楽しみになった。帰ったら飲んだくれで乱暴者の雇い主兼保護者の面倒を見なくてはならないと分かっていても、翌日になればまた先生たちに出会えると思うと、日々の労働も空腹も我慢できた。
ヘイノ司祭に、勉強のこと以外で気遣ってもらったときは、あまりに驚いて夢ではないかと思った。彼から貸してもらった司祭用の上衣は暖かかったが、何やら自分には場違いなようにも思えて、そのまま借りるなどとは到底できなかった。
二人が他の子供たちと市に遊びに行くと聞いていたあの日、コレットは同居人の男がいなくなった後にこっそりと家を出た。彼は大抵朝出かけたときは、早くても昼過ぎまでは帰らない。昼までに帰れば大丈夫だろう、今なら抜け出しても文句は言われない、と思ったのだ。
もしヘイノたちに会えるなら会いたかったし、そうでなかったとしても、再び自分が寒がる姿を見て気を遣わせるのは申し訳なかったので、何か防寒具を買えたらと思ったのだ。
幸い、子守の仕事を辞めさせられるとき、世話になったからと幾らかの賃金は貰っていた。普段はあの同居人に見つからないようにこっそり隠し持っていたが、この時ばかりはそれを持ち出して、触れるだけで温もりをくれる火聖石のお守りを買った。聖石が教会の教えに出てくる女性と深い繋がりがあるものだとは知っていたので、それに触れることで少しでも憧れの彼らに近くなれたら――そう思ったのだ。
おまけに、合流できるか分からないと思っていたヘイノたちにも出会えて、彼らと共に市の賑やかな空気を楽しめた。まるで、夢のようなひと時だった。
だから、昼になって慌てて帰った後、すでに帰っていた男がコレットを待ち構えていたときは、あんなにいい思いをしたのだから、この結末が待っていたのは当然だと、妙に達観してしまったことを覚えている。
男はコレットが買ったブローチは、男の金を勝手に盗んで得たものだと詰り、勝手な振る舞いをしないようにと、コレットが持っていた母の形見の指輪を取り上げた。おまけに、盗人に与える食べ物はないと言い放った。
どれだけ謝って懇願しても指輪は返してもらえなかったし、昨晩男は仕事場で怒られたとかで機嫌が悪く、コレットにおこぼれを与えてくれなかった。だから、お腹が空いて仕方がなかった。
夕方から、男がふらりと出かけて行ったので、コレットは見つかったら叱られることを覚悟でこっそりと外に出て、何か食べるものがないかと彷徨っていた。その時に、目に入ったのが、とある家の庭先の机だった。ちょうどお茶会でも開こうかと準備していたのか、置き去りにしていたお菓子を、気がつけば垣根の穴をくぐり抜けて、くすねていた。
砂糖漬けはその場で平らげ、クッキーはワンピースのスカートを受け皿がわりにして、家までこっそり運んで少しずつ食べた。ほとんど初めて食べたお菓子は、頬が落ちるのではないかと思うほどに美味しかった。
だが、食べ終わってから、自分が何をしたかを自覚してコレットは愕然とした。
(私、盗みをしてしまったんだ)
今までどれだけ貧しくても、他人のものを横取りするような真似はしなかったのに。盗みは悪事であり、到底許されることではない。何より、そんなことをした自分は、あの清浄な空気を纏った先生たちに笑いかけてもらう資格はないのだ。そのことの方が、ずっとコレットにとっては悲しかった。
その日からの数日は、まるで悪夢の中を彷徨っているようだった。空腹で一度盗みを働いたという事実が、心の倫理観の箍を壊してしまったのだろう。祈りの日に皆が家を空けることを知っていたので、コレットはこっそりと先日の家に忍び込み、更に食べ物を持って帰った。
おまけに、持ち帰った食べ物を見つけられ、今度はあの男のために酒を持って帰ってこいと言われた。持って帰らなかったら、母の形見を壊すとまで言われれば、もはや一度盗むのも二度盗むのも同じだと思い、足が勝手に動いていた。
先生が自分を心配してわざわざ家に来たと聞いたときは、嬉しさと恥ずかしさで心の中が嵐の後のようにぐちゃぐちゃになっていた。おまけに、せっかく買ったブローチもまた盗みに行ったときに――幸か不幸か垣根が塞がれていたので入れなかったのだが――落としてきてしまった。
同居人の男は先生に家に来られたくなかったようで、文句を言われないように教会に顔を出せと、散々コレットに悪態をつきながら、追い出すように外へと送り出した。
だが、ヘイノ司祭やヨニ司祭に合わせる顔がなかった。おまけに、あのブローチが見つかってしまったら、そして家主が盗難に気が付いたら。きっと、彼らはすぐに犯人に気がつくだろう。ならば、どうにか、落としたものを見つけ出して隠さなくてはならない。
――そんな風に悪事を隠そうとするのもまた己の罪悪感に拍車をかけるだけだと分かっていても、彼女にはその道しかなかったのだった。
今は家主は出かけているのか、家はしんとした沈黙を保っている。だが、ヘイノは見逃してはならないものを、垣根の曲がり角にしっかり見つけてしまっていた。
「コレット!!」
自分でも出したことがないと思えるほど、必死の声が口から飛び出していた。ヘイノの呼びかけに、曲がり角に消えかけていた少女の影が、びくりと震えて、その場に踏みとどまる。
「コレット、逃げないでください。話は後で聞きますが、今はもっと急がなくてはならないことがあるんです」
ヘイノは彼女を怯えさせないように、出来るだけ声音を柔らかくして、ゆっくりと歩み寄る。彼の態度が功を奏して、おずおずとコレットが垣根の端から姿を見せた。その顔は、いつもの白さを通り越して、最早卒倒するのではと思うほどに蒼白になっていた。
「せん、せ……どうして、ここに……。……あの、私……」
「コレット、大事なことを聞きます。あなたが持っていたブローチは、この辺りで落としたんですか」
「…………は、い」
彼女は唇を戦慄かせていたが、やがて、ゆっくりと首を縦に振った。
「昨日…………夜に、きた時に…………。帰った後、見たら、無かった……です」
「それは、見つかりましたか」
コレットは、今度は首をブンブンと横に振った。彼女が嘘をついているとも思えない。ならば、この周辺の目につくところには、落ちていなかったのだろう。
「あの…………あのお守りが、何かあったんですか……?」
「あれは、いつ燃え上がるか分からない、危険な代物の可能性があります。市で売っていたのが誰かは知りませんが……コレットは質の悪いものを売りつけられたのかもしれません」
一年間は聖都にいたせいで、ヘイノは聖石に対する感覚が少し世間からずれている。今まで意識していなかったが、ことここに至って露見した形となってしまった。
本来、属性持ちの聖石は、そうそう簡単に手に入るものではない。無論、設備としては普及しているのだが、それはすぐに手に入ることと同義ではない。アナにも言われていたのに、コレットが暖かそうにしているのを見て、それで満足してしまって、ことの本質を見逃してしまっていた。
ヘイノの言葉を聞いて、コレットは目を丸くする。やはり、彼女も知らなかったのだろう。
「この辺りに見つからないというのは、誰かが持っていってしまったのでしょうか……」
それはそれで問題になる――と思った時だった。ヘイノの色違いの目は、垣根にひょいと飛び移る猫を捉えた。ステファニーの愛猫、ルーシーだ。先日家に来た時は、ヘイノのネックレスにじゃれついてきていた。
「たしか、ステファニーさんは、ルーシーは光るものが好きって……」
そこまで呟いて、ヘイノはハッとする。
次の瞬間、ヘイノはコレットの手を引いて、門扉のある方へと回っていた。幸か不幸か、門扉の鍵はかけられておらず、容易に侵入ができた。おまけに玄関の扉も、力をかけばあっさりと二人を中へと招いた。
「……ステファニーさんには、後で鍵をかけるように言わないといけませんね」
これでは、地下倉庫の侵入以前の問題だ。だが、今はそれどころではない。
一瞬足を止めてしまったが、ヘイノは内心でステファニーに頭を下げながら、ずんずんと中へと入る。コレットはどこか遠慮がちに、おずおずとヘイノの後に続いた。
「先生、あの…………勝手に入っていいんですか……?」
「良くないです。でも、もし」
ヘイノは、その続きの言葉を口にする必要がなかった。玄関から廊下に続く扉を開いた瞬間に、部屋全体に立ち込める白い煙に、息を止めざるをえなかったからだ。
「コレット、口を手で塞いで。そこの部屋に、ポンプがあったと思いますから、そばに置いてあるボウルに水を入れてください」
幸い、ここ数日この家に邪魔していた時に、家主の身辺の世話もいくらか手伝っていた。おかげで、家の間取りも、どこに何があるかも大体わかる。
コレットに指示を出して、ヘイノは煙が濃くなる方へと進もうとした。
「先生、どこにいくんですか……!?」
「どこかで既に発火しているようです。火の元を探してきますから、コレットは早く水を!」
彼女を居間に追いやってから、ヘイノは必死に間取りを――正確には猫のルーシーが良く過ごしていた場所を思い出す。
(俺たちが行っても、普段はあまり姿を見かけなかった。外に行っていたのではないなら、俺たちが出入りしてる玄関付近よりも奥か、二階……)
大体の予測を打ち立てて、ヘイノは木製の小さな階段を登る。足音を立てて上がった先は、やはり煙が濃い。霧に似たそれを吸わないように、袖口で口元を隠しながら、ヘイノは奥へと向かう。幸い、煙の濃い方ははっきりとしているので、入ったことがほとんどない二階でも、容易に足をすすめることができた。
(こっちの部屋から……ああ、やっぱり、これだったか)
猫の遊び場になっているのか、藤製の籠だったと思しきものが、真っ赤な炎を上げて燃え上がっている。少し離れたところに寝台や鏡台、衣服をしまう木箱などが置かれており、ここがステファニーの寝室なのだろうとは想像がついた。
(彼女が寝ている時じゃなくてよかった )
光り物好きのルーシーは、コレットが落としたブローチを見つけて、自分のねぐらに運んだのだろう。しかし、それは自ら熱を生み出す火聖石の中でも、粗悪な品だった。本来なら刻まれた紋章が熱の制御を行い、ストーブや暖炉の暖房具に使われる品だが、制御を失ったそれは容易く暴走する――その結果がこれだ。
ヘイノはひとまず階段まで戻り、コレットに水を汲んだら二階へと上がるように声をかけてから、再び火の元へと戻る。次いで、司祭服として普段から纏っているショール状の布を外すと、何重にも折り重なるように畳んでから、少しずつ燃え広がっている火の元へとかけ、何度も強く押し叩いた。
司祭服自体は、多少の難事にも耐えるように丈夫に作られている――とは、以前神学校でも教えられていた。それは、各地で発現し、容赦なく人々を襲う精霊を宥める役割を持つ者のためなのだろうが、見習いの自分達にも同等の品が用意されているだろう――と推量はつけていた。
幸い、ヘイノの予想は当たったようで、布が燃え上がる気配はない。程なくして、コレットが階段を駆け上がる音も聞こえてきた。
「先生、お水汲んできました……!」
「ありがとうございます。そのまま、ここにかけてください、早く!」
彼女に布の上から水をかけさせるように指示すると、彼女はボウルいっぱいに汲んだ水を遠慮なく布の上でひっくり返した。
たっぷりと水を含んだ布で火を包む――それは有効な消火法の一つだ。入念に火元を叩き、ようやく煙が消えたと確信してから、ヘイノは消火活動を止めた。
「……これでよし、と。コレット、部屋の換気をしましょう。煙だらけの家に、ステファニーさん……この家の家主を迎えるわけにはいきませんから」
「は、はい」
「それと、……後で、話を聞かせてもらえますか」
ヘイノの静かな呼びかけに、コレットは足を止める。振り返った彼女の目には、火事の時には一瞬忘れていた動揺が如実に現れていた。
「…………私、は」
青ざめた顔は、痛々しいほどに罪悪感に満ちている。今すぐ、この場から立ち去りたいと、彼女の顔は雄弁に語っていた。しかし、ヘイノの視線が、それを許さなかった。
「お願いします。俺は、コレットが困っているなら手助けをしたい」
「…………どう、して。先生は、私と、会って、まだちょっとしか経ってないのに」
「自分でも、どうしてだろう、とは思いました。確かに、俺はあなたと出会って少ししか一緒に過ごしていない」
ヨニにも問われた。なぜ、そこまで行動しようとするのかと、気にかけるのかと。
「ただ、コレットが困っているように見えました。あなたに、元気でいてほしいと思いました。それだけしかないんですけど、それだけで俺には理由として十分だと思っています」
そして、ヘイノは一つの答えを出した。記憶を失い、何も持っていなかった自分が、初めて『誰か』の軌跡を辿るでもなく、『弟』の同意のためにでもなく。
――自分で、見つけた『答え』だったのだ。
「だから、もし俺の心配が杞憂ではないのなら。コレットのことを、教えてくれませんか」
少女の透き通った瞳に、じわりと温かな雫が滲む。それがぽたりと落ちたころ、ようやく少女は嗚咽混じりで、話し始めた。
***
――お母さんは馬鹿だから、貧乏なんだよ。
物心ついた時から、コレットはその言葉を聞いて育っていた。
父の顔は知らない。母は父の話をすると顔を顰めて全く別の話をするので、コレットにとって父というのは存在しない生き物となっていた。幼いコレットにとっては、街の端の端にある、今にも崩れそうな家と母だけが生活の全てだった。母は毎日、どこかの屋敷の下働きに行ったり、工場に出かけたりしているようだった。
生活は母の申告どおり、貧乏としか言いようがなかった。それでも、雨風を塞ぐ屋根のある家があり、朝晩に冷たいながらも食べられるものがあるだけ、自分が満たされていると思えた。
だが、母はそれで満足できていないようで、事あるごとに貧乏を嘆き、それは己が馬鹿だからと呟いていた。何を指して彼女が自らを愚かと言っているのかは、幼いコレットにはよく分からなかった。ただ、金勘定もろくにできない母が、ある日法外な値段をふっかけられているとも知らずに食べ物を買っていると知った時、彼女が嘆いた理由をコレットは知った気がした。
母は、コレットが八つを迎える頃にあっけなく天へと旅立った。今までそっぽを向いていたご近所の人間は、ここぞとばかりにコレットのもとにやってきて母の死去を嘆いた。そして、そのついでに、自分が世話をしただの面倒を見ていただの言って、家財の一切を持って行ってしまった。辛うじて母が残した小さなガラス玉のはまった指輪が、コレットの唯一の財産となった。
本来なら、そのまま孤児院に行くところだったのだが、近隣に住む一人の女性が、たくさんいる子供の世話に苦労していて、手伝いをしている女の子を探していた、と言ってコレットを引き取った。そこでようやく、コレットは『いくらか財産のある普通の家庭』の空気を知った。
しかし、下働きとして引き取ってもらった以上、コレットには仕事が待っていた。朝晩を問わず、赤子や幼子の世話に奔走する毎日が続いた。日々の楽しみは、子どもたちへの読み聞かせに混ざって、文字を覚えることだった。自分で絵本を読めるようになった時、どこかで母が喜んでくれたような気がした。母は、文字も読めなかったのだから。
雇い主である女性は、ごくまれにコレットを教会に連れて行った。それは子どもたちの子守りをさせる意味もあったのだろうが、コレットは教会の荘厳な空気と、そこで話される物語が好きだった。司祭の人は、まるで絵に描いたような清廉な人物で、およそコレットが理想と思えるような慈悲深い人に思えた。
自分より少し年上の少女が、この国の礎を作ったという物語も、コレットの心の慰めとなった。いつか、自分も苦難を乗り越えて、何か大きなことを成し遂げられるのでは、と希望を抱えながら生きるのは、少なからず救いになった。
そうして十歳になった頃、雇い主の家族は町から引っ越すことになったが、コレットを連れて行けないと言い出した。それ自体は何も不思議なことではない。元々、小さな子供のコレットを、召使いとして雇ってくれていた方が珍しいのだから。
今度こそ孤児院送りかと思った時、今度は雇い主の親戚がちょうど家の中のことをしてくれる人を探しているのだと言われ、その人物の元に住み込みで働くことになった――つまり、これまでと変わらないとコレットは思っていた。
コレットを引き取った人物は、一人暮らしの男性だった。数日共に過ごすだけで、お世辞にも彼が素行の良い人物ではなさそうだと、コレットは理解した。だが、路頭に放り出されずに済むのならそれでいい、と彼女は己の役割に暫し従事していた。
子供ばかりで常にどこかしら汚れていた前の雇い主の家よりも、なぜか彼の家の方が酷く汚れていた。きっと何年も掃除をしていなかったのだろう。おかげで、コレットは新しい家に来てから、まるまる十日は掃除に明け暮れる必要があった。
新しい同居人は母と同じく貧しいようだったが、いつもどこからともなくお酒を持ち込み、毎晩のように家で飲んでいた。彼の積み上げた酒瓶を外に捨てに行こうとすると怒られるので、家にはあちこちに空き瓶が転がっていた。
生活は以前より、確実に悪くなっていた。朝晩の食事も十分ではなかったので、コレットはいつも空腹を抱えていた。同居人の晩酌の時に、彼が機嫌がいいタイミングを見計らっておこぼれに与らないと、金も稼いでないのに一丁前に食事を横取りする気なのか、と難癖をつけられるからだ。
そんなある日、男が荷運びの仕事に出ている間、ようやく家も片付け終えたので、コレットはしばしの外出を楽しんでいた。そこで、教会から出ていく、たくさんの子どもたちを見かけた。彼らは、コレットが憧れている司祭の青年を先生と呼び、楽しそうに笑い合っていた。
その時、生まれて初めて――羨ましい、と思った。
上等な服も、美味しそうなご飯も、たとえ目の前に出されても我慢できたけれども。あの光景に何の苦もなく紛れていられる子供たちを、心底羨ましいと思ったのだ。
普段から『大人』の言うことだけをしていたコレットが、自分から彼らに歩み寄ってしまうほどに。
幸い司祭の青年は、見知らぬ子供であっても寛大に自分達の輪の中へと招いてくれた。さらに幸運なことに、この場所は学びの場でもあった。母が日頃口にしていた無念とも怨念とも言える言葉を思い出し、コレットは必死に与えられる知識を吸収しようとした。
司祭の青年――ヨニという名前の彼は、幼い子供たちの面倒を見るのが忙しくて、おとなしくい性格のコレットには、あまり声をかけてはくれなかった。
かつて見た司祭の男性よりも彼はずっと陽気で気さくで、理想としていた清廉な空気とは程遠かったが、それでもコレットにとっては憧憬の象徴ではあった。
そうして二週間ほどが過ぎた頃。ヨニは、自分の兄弟だと言って、一人のそっくりの顔をした青年――ヘイノを皆に紹介した。ヨニとは対照的に、コレットより数歳しか違わないとは思えないほど落ち着き払った態度と、品行方正な振る舞いは、まさにコレットが憧れていた司祭の姿そのものだった。
生徒として彼に教えられる偶然に歓喜し、毎日教会に行くのが益々楽しみになった。帰ったら飲んだくれで乱暴者の雇い主兼保護者の面倒を見なくてはならないと分かっていても、翌日になればまた先生たちに出会えると思うと、日々の労働も空腹も我慢できた。
ヘイノ司祭に、勉強のこと以外で気遣ってもらったときは、あまりに驚いて夢ではないかと思った。彼から貸してもらった司祭用の上衣は暖かかったが、何やら自分には場違いなようにも思えて、そのまま借りるなどとは到底できなかった。
二人が他の子供たちと市に遊びに行くと聞いていたあの日、コレットは同居人の男がいなくなった後にこっそりと家を出た。彼は大抵朝出かけたときは、早くても昼過ぎまでは帰らない。昼までに帰れば大丈夫だろう、今なら抜け出しても文句は言われない、と思ったのだ。
もしヘイノたちに会えるなら会いたかったし、そうでなかったとしても、再び自分が寒がる姿を見て気を遣わせるのは申し訳なかったので、何か防寒具を買えたらと思ったのだ。
幸い、子守の仕事を辞めさせられるとき、世話になったからと幾らかの賃金は貰っていた。普段はあの同居人に見つからないようにこっそり隠し持っていたが、この時ばかりはそれを持ち出して、触れるだけで温もりをくれる火聖石のお守りを買った。聖石が教会の教えに出てくる女性と深い繋がりがあるものだとは知っていたので、それに触れることで少しでも憧れの彼らに近くなれたら――そう思ったのだ。
おまけに、合流できるか分からないと思っていたヘイノたちにも出会えて、彼らと共に市の賑やかな空気を楽しめた。まるで、夢のようなひと時だった。
だから、昼になって慌てて帰った後、すでに帰っていた男がコレットを待ち構えていたときは、あんなにいい思いをしたのだから、この結末が待っていたのは当然だと、妙に達観してしまったことを覚えている。
男はコレットが買ったブローチは、男の金を勝手に盗んで得たものだと詰り、勝手な振る舞いをしないようにと、コレットが持っていた母の形見の指輪を取り上げた。おまけに、盗人に与える食べ物はないと言い放った。
どれだけ謝って懇願しても指輪は返してもらえなかったし、昨晩男は仕事場で怒られたとかで機嫌が悪く、コレットにおこぼれを与えてくれなかった。だから、お腹が空いて仕方がなかった。
夕方から、男がふらりと出かけて行ったので、コレットは見つかったら叱られることを覚悟でこっそりと外に出て、何か食べるものがないかと彷徨っていた。その時に、目に入ったのが、とある家の庭先の机だった。ちょうどお茶会でも開こうかと準備していたのか、置き去りにしていたお菓子を、気がつけば垣根の穴をくぐり抜けて、くすねていた。
砂糖漬けはその場で平らげ、クッキーはワンピースのスカートを受け皿がわりにして、家までこっそり運んで少しずつ食べた。ほとんど初めて食べたお菓子は、頬が落ちるのではないかと思うほどに美味しかった。
だが、食べ終わってから、自分が何をしたかを自覚してコレットは愕然とした。
(私、盗みをしてしまったんだ)
今までどれだけ貧しくても、他人のものを横取りするような真似はしなかったのに。盗みは悪事であり、到底許されることではない。何より、そんなことをした自分は、あの清浄な空気を纏った先生たちに笑いかけてもらう資格はないのだ。そのことの方が、ずっとコレットにとっては悲しかった。
その日からの数日は、まるで悪夢の中を彷徨っているようだった。空腹で一度盗みを働いたという事実が、心の倫理観の箍を壊してしまったのだろう。祈りの日に皆が家を空けることを知っていたので、コレットはこっそりと先日の家に忍び込み、更に食べ物を持って帰った。
おまけに、持ち帰った食べ物を見つけられ、今度はあの男のために酒を持って帰ってこいと言われた。持って帰らなかったら、母の形見を壊すとまで言われれば、もはや一度盗むのも二度盗むのも同じだと思い、足が勝手に動いていた。
先生が自分を心配してわざわざ家に来たと聞いたときは、嬉しさと恥ずかしさで心の中が嵐の後のようにぐちゃぐちゃになっていた。おまけに、せっかく買ったブローチもまた盗みに行ったときに――幸か不幸か垣根が塞がれていたので入れなかったのだが――落としてきてしまった。
同居人の男は先生に家に来られたくなかったようで、文句を言われないように教会に顔を出せと、散々コレットに悪態をつきながら、追い出すように外へと送り出した。
だが、ヘイノ司祭やヨニ司祭に合わせる顔がなかった。おまけに、あのブローチが見つかってしまったら、そして家主が盗難に気が付いたら。きっと、彼らはすぐに犯人に気がつくだろう。ならば、どうにか、落としたものを見つけ出して隠さなくてはならない。
――そんな風に悪事を隠そうとするのもまた己の罪悪感に拍車をかけるだけだと分かっていても、彼女にはその道しかなかったのだった。