一章

(俺は、どうしたいんだろう――)
 アナのよく通る声から紡がれる物語を聞きながら、ヘイノは祭壇の端で思案に暮れる。
 今日は七日に一度の祈りの日であり、午前中はアナが説法をして、皆と共に平穏への祈りを捧げる。他にも、町内会のような意味合いもあるようで、町長や組合からの伝達も併せて行われると聞いていた。
 そのため、ヘイノとヨニは朝から教会の掃除と、訪れる人々への案内やら挨拶やらに忙殺されていた。ようやく一息をつけたのは、アナの説法が始まったあとだ。
 淀みなく語られている聖典の一節。かつて、不毛な大地に流された人々を救った救世主の話を聞きながら、ヘイノは昨晩ヨニと話したことを考えていた。
(記憶を失う前の俺なら、問答無用でコレットを助けたんだろうか。それとも、ヨニの言うように、彼女が何か言うまで待っていたんだろうか)
 記憶喪失前のヘイノのことは、ヘイノ自身、神学校の一部の教員から断片的に聞いた程度のことしか知らない。学校に在籍していても、ヘイノ個人はとりわけ教員の覚えがめでたいこともなかったようで、品行方正でとくに問題を起こさなかったことと、成績優秀であったという、通りいっぺんの記録しか残っていなかったからだ。
 幸か不幸か、同級生は皆卒業してそれぞれの地に赴任した後であり、留年のような形で出戻ってきたヘイノが、己自身の手がかりを知ることは非常に難しかった。それでも、ヘイノなりに『かつての自分』の痕跡を辿る手法を身につけたつもりではいたのだが――。
(俺は、ただ『ヘイノ』の真似がしたいから、コレットのことを何とかしたいと思ってる?)
 自分へと、問いかける。
 彼女の手は、細くて白かった。外気で冷えた手は、きっと体ごと冷え切っているのだろうと分かってしまった。だというのに、ヘイノが上衣を貸しても、彼女は借りたままではいられないと、遠慮がちに返していた。
 物言いたげにこちらを見ていた姿。火聖石のお守りを抱いて、安堵したように笑った姿。その一つ一つを思い浮かべると、迷っていた心にぽっと小さな灯りが灯った気がした。それはひどく簡素で小さく、曖昧ではあったが――だからこそ、きっと見失ってはならない灯りなのだろうと思った。
「今日は、皆さんに私たちの新しあ仲間を紹介しようと思います。ヘイノ、こちらに」
 いつのまにか説法は終わっていたようだ。アナに呼ばれて、ヘイノは顔を上げる。
「――はい」
 しん、と静まり返った礼拝堂の空気に臆することなく張り上げた声は、凛と染み渡っていった。
 
 ***
 
 祈りの時間が終わり、集会としての伝達の時間も終われば、町の人々は三々五々己の家へと帰っていく。だが、それでヘイノたちの仕事が終わるわけではない。
 祈りの時間が終わった後の昼までの短い時間に、二人にはもう一仕事あった。いつものような読み書き計算とは異なる、聖典に内容を絞った子供向けの授業だ。小さな子供を対象にした会でもあるため、時には保護者の大人も同席してこちらの授業を聞く場合がある。そのため、いつもの学校とは違う緊張を強いられ、終わる頃はヘイノは全身の筋肉が強張ったかのような気分になっていた。
 しかし、これで終わりではない。簡単な昼食を挟んだら、今度は礼拝堂の掃除だ。今は気温が低いので庭の草むしりなどは必要ないが、夏場になれば間違いなく庭の手入れもこの作業に加わるだろう。全ての雑務を終える頃には、昼中の鐘が鳴っていた。
「お疲れー、やっぱり二人でやると早くて助かるよ」
 疲れているはずなのに、笑顔を崩さずにヨニはヘイノへと声をかける。彼と初めて会った時、ヨニが夕方まで教会にいたのは、一人でこの雑務を片付けるのに時間がかかったからなのだろう――と、ヘイノはその身を以て理解した。
「それで、一週間過ごしてみた感想はどう?」
「よく、ヨニはこれを一人でやってたなあと……」
「あはは、まあ慣れたら何とかなったよ。子供たちも最近増えるまでは、もう少し少なかったし……。町の人も、俺が一人で大変だってことは分かってくれていたから」
 からっとした言葉には、昨日話した時の緊迫した空気は微塵もない。ヘイノも話題に出して良いのかわからず、無難な言葉しか口にすることができなかった。
「さて、鍵閉めて俺たちも帰ろう。夕飯の用意しないと」
「わかった。俺も手伝うよ」
 ヨニに追従し、ヘイノは戸締りを確認してから教会を後にする。家に戻る道すがらも、ヨニは変わらない振る舞いを続けていた。
 彼の態度が変わっていないことを喜んで良いのか、それとも悪いのか。ヘイノには答えを出すことができず、いつものように取り留めもない言葉を交わすことしかできなかった。
 帰ってからも、変わり映えのない一日が過ぎていくのだろう――ヘイノはそう思っていたが、玄関までたどり着いた二人は、思わず顔を見合わせてしまった。
「誰か、人が来てる……?」
「今日、訪問者の予定はなかったと思うんだけどな。誰だろう」
 普段は客人を通す場所として用意されている客間から、何やら話し声が聞こえてくる。声音からして、おそらく二人。一人は間違いなくアナだろう。
 ヘイノとヨニは顔を見合わせ、暫く迷ってから、意を決してヨニがこんこんと客間の扉をノックした。すぐに入室を許可する声が返ってくる。
「失礼します。教会の施錠が終わったのでそのご報告を」
 部屋に入ったヨニは、流石にこの時ばかりは丁寧な言葉でアナに話しかける。彼の後ろから入ってきたヘイノは、アナの向かいに座っている人物を見て、ぱちくりと瞬きをした。
(あの人……俺がこの町に来てすぐに声をかけた人だ)
 白髪が目立つ、ほっそりとした年配の女性だ。ヘイノのことをヨニと見間違えて、年寄りを誤魔化すなと言われたことは、流石に一週間前のことなので覚えている。
「ありがとう、二人とも。ああ、ちょうどよかった。あなた達にも聞いてもらおうと思ったのよ。いいでしょう。ステファニーさん」
「ええ、かまいませんよ。どちらかと言うと、私はヨニの力を借りようかと思っていたところですので」
「俺?」
 ヨニが自分を指差すと、アナはゆっくりと首を横に振った。
「正確には、男手が必要だと思ったのよ。一応、安全のためにね。実は、昨日……いえ、今日もなのだけど、彼女の家に泥棒が忍び込んだみたいなのよ」
 アナの言葉に、今度こそ二人は顔に緊張を走らせた。
 
 アナに促され、ヘイノとヨニもアナが座っていたソファに腰を下ろす。彼らの後ろでは、暖炉用に据えられた火聖石が柔らかな熱を放って、部屋に温もりを与えていた。
「もう一度、お話をお願いできるかしら」
 アナに促されて、老女――ステファニーは「ええ、構いませんよ」と答える。
「そう、ちょうど昨日のことでしてね。最近は陽が出てくると少し暖かくなりますから、ちょっと庭に出てお茶をしようとしたのですよ。中にこもってばかりも、体に良くないからねえ。少し前までは女中もいたのですけど、まあ、あの子も郷里の家族からお見合いを持ちかけられたからって、出て行ってしまってねえ……。ええと、それで何だったかしら。そうそう、お茶をしていた、ということだったわね」
 途中脱線しつつ彼女が話したところによると、彼女が道ゆく人を眺めながらほっと一息しようとした時だった。来客を告げるベルの音が聞こえて、どなたが来たのかと彼女は席を立った。ひょっとしたら、何か約束を忘れていたのだろうかと首を傾げつつ。
 結局、来訪者はただの訪問販売だった。特に買うものはないと、応対を済ませて庭先の団欒の場に戻った時、
「なかったんですよ。机にあったクッキーも、瓶の中から皿に出した木苺の砂糖漬けも全部。まあ、でも、庭先に出しておいたものですからね。鳥がやってきて食べてしまったのだろう、と思っていたのですけれど……」
「どうやら、鳥の仕業ではなかったようなの。先ほど、礼拝を終えてステファニーさんがお家に戻ったところ、地下倉庫の扉が開いていたとそうよ。鳥は、倉庫の扉を開けたりなんてできないわ」
 アナの補足で、双子達もこの老女の家で何が起きているのかを理解する。ただ庭に出していたお菓子が食べられただけなら、猫や鳥の仕業と言うこともできるが、倉庫荒らしはれっきとした人間の仕業だろう。
「倉庫には、お金とか換金できるものはあったんですか?」 
 ヘイノが真っ先に気になったことについて、問いかける。泥棒といえば、金銭目当てであると考えるのが定石だ。
 だが、ステファニーはゆっくりと首を横に振った。
「倉庫には、女中がいた頃に作ってもらった保存食を置いていたのよ。この時期なら肉の塩漬けとか、果物の砂糖漬けとか、ピクルスとか、チーズとか……あと、お客様用の果実酒も。私が作ったフルーツケーキとかもあったかしら」
「まさか、それが全部……?」
「いえ、全部ではなかったのだけれど。一部がもぎ取られたり、量が明らかに減ったりしていたわ。明らかに、私が前に入った時よりは少なかったのよ」
 今度はヨニが質問し、ステファニーが答える。
 内容は食糧に限られているようだが、食べ物とて立派な財産だ。特に歳をとったものの保存食というのは、何か不測の事態が起きた時に食い繋ぐための大事な糧にもなる。この近辺は食料品店もいくつかあるが、町の中心部から離れるほど、自分で自分の貯蔵品を作るのが当たり前となっていた。
「今は食料品だけで済んでいるかもしれないけれど、他人が勝手に家に上がり込んでいる状況はあまり喜ばしいものではないわ。だから念のため、こうして私に相談しにきたというわけね」
 アナが話に一つの結論を出してから、次いで隣に座っていた双子の方を見やる。
「だから、あなた達には彼女の家に行って、泥棒が侵入した痕跡を見つけて、できれば経路を探り出して塞いでもらいたい、というわけ。場合によっては力仕事になるから、男手が欲しかったのよ」
 経緯が分かり、今度は双子が揃って顔を見合わせる。どちらが行った方が、この女性の助けになるのか。視線だけで探り合っていると、
「ステファニーさん、どうせだからこの二人を両方連れて行って、調べさせてもらえるかしら。ヘイノだけではまだこの町に不慣れであるし、ヨニでは……見落としがあるかもしれないから」
「ちょっとアナさん、何か俺に対する評価が低くない?」
 ヨニは不満げだったが、アナは笑顔で無視した。ステファニーもアナの茶目っ気に乗ったのか、愉快げに目をきらりと輝かせると、
「それなら、お願いしようかしらね。アナさん、ありがとうございます」
「いえいえ、これも務めの一つですもの。ヨニ、ヘイノのことをよろしく頼むわね。ヘイノ、あなたの片割れが見逃しそうなところも確認しておくのよ」
 どうやら二人でようやく一人前、という扱いは撤回されないようだ。どちらにせよ、泥棒騒ぎは何とかしなければならないことである。
 ヘイノとヨニも揃って、了承の返事をしたのだった。
 
 ***
 
 ステファニーの家は、ヘイノたちの家よりも、より町の中心部から離れた場所にあった。この町は中心部ほど商工業が発達した職人の居住区と作業場となっており、離れれば離れるほど農地が増える。ステファニーの住処は、どちらかというと農地寄りの立地であった。
「昔は、夫と二人暮らしだったんですけれどね。今は一人ですから、どうしても場所を持て余してしまって」
 話をしながら、ステファニーは門扉を開け、部屋へと二人を招く。
 最近まで女中がいたからか、ひどく荒れた様子こそないものの、ところどころに埃が残っている。どうやら、女中はあまり丁寧な性分ではなかったようだ。
「ええと、せっかく来たのだからお茶を用意したほうがいいかしら」
「いえ、おかまいなく」
 ヨニが何かいう前に、ヘイノが断りの言葉を口にする。正式な招待をされたわけでもないのだから、ここでのんびりとお茶を飲んでいる場合ではない。
「それより、最初にお菓子が消えた庭先っていうのは?」
「ああ、ここのことですよ。ほら」
 ステファニーが案内したのは、大きく開かれた窓から続く庭だった。窓が第二の扉の役割を果たし、傾きかけた太陽が庭に置かれたガーデンチェアと机を照らしている。
「庭も冬だから今はいいのだけれど、春先になったらもっと草が伸び放題になるんですよ。なるべく手入れはしているのだけれど、あの子はあまり庭いじりが得意じゃなくってねえ。私のまいた種の芽も毟ってしまいましたっけ」
 ステファニーの女中は、最低限の世話こそしていたものの、細かい気配りには疎い気質だったようだ。冬であることも踏まえても、庭はどこか荒れた空気を纏っていた。
「ステファニーさん、昨日、お菓子が無くなるまでの間に机から離れていた時間はどれくらいですか?」
「そうね……ついでに少し世間話もしたから十五分ほどかしら」
「お菓子はどれくらいあったんでしょう。一掴みで食べられるくらい?」
「うーん…………私の分だけだったけれど、一掴みは難しいのではないかしら」
 ヘイノは話を聞きつつ、庭に置かれた机を見やる。
 話を聞いてて感じたのは、犯人の食糧に対する執着だ。倉庫に潜り込んでまで食べ物に手を出す様子は、愉快犯とは思えない必死さを感じる。
(飢えた浮浪者とか……? だけど、この家に浮浪者が上がり込んでいたなら、もう少し噂が流れていそうなものだけど)
 庭は、家の裏側に広がっている。そして、家自体は今は葉がないものの、背の低い木々や垣根が家の周囲を囲んでいる。本来なら、ここに蔓薔薇などを這わせていたのだろう。所々、枯れた雑草が残ったままではあるものの、大の大人が忍び込めるような大きな隙間は見当たらない。乗り越えれば不可能ではないが、そんなことをしていたらきっととても目立つだろう。
「俺、もう少し周りを見てくる。ヘイノは倉庫の方、見てきてくれる?」
「分かりました。何かあったら教えてください」
「了解。……あー、えっと」
 何か物言いたげにしているヨニにヘイノは首を傾げる。だが、ヨニはすぐに「何でもない」と言って、垣根の様子を見に行ってしまった。
 
 ***
 
 ステファニーが案内してくれた地下倉庫というのは、庭にあった階段を降りた先にあった空間のことを指していた。ちょうど、家の裏側に沿うようにして、地下への裏口があるような形である。
「一昔前は、女中や使用人たちは地下に住まわせていたことがあったそうでね。この建物もその様式を少し残していたそうなんですけれど、夫が倉庫に改築したのよ」
 話をしながら階段をゆっくり降りたステファニーは、鉄製の扉を難なく開いた。鍵も使っていない様子に、思わずヘイノは錠前を見つめてしまう。
「鍵、閉めてないんですか?」
「この倉庫、鍵が古くて錆び付いてしまってね。私の力じゃ開けられなくなってしまったから、開けっぱなしにしているのよ」
「それは……つまり入ろうと思えば誰でも入れたということですね」
「ええ。でも、食料品なんて、普通は盗まれないと思うでしょう?」
 大らかというべきか、不用心というべきか。結局ヘイノは曖昧な苦笑いで、その場を誤魔化すことにした。
 中に入ると、自動で柔らかな暖色の照明が灯る。この町ではあまり見かけない光聖石の照明だ。空気の乱れなどを感知して点灯する、という命令が紋章として刻まれているのだろう。
 中には、木製の棚や木箱がずらりと並んでいる。棚の中には瓶詰めが、木箱の中には買い置きしている果物などがあるようだった。
「食べられていたのは……この辺りの棚ね。泥棒は、甘いものが好みだったのかしら」
 ステファニーが指さした先は、確かに果物の砂糖漬けや、布巾で包まれたケーキなどが見える。特に野苺の砂糖漬けの瓶は、半分以上が無くなっていた。
(もし浮浪者の仕業なら、何度も出入りしなくていいように、乾物とかを持ち出すものと思ったけれど……)
 そこまで考えが回らなかったのだろうか。あるいは大量に持ち出す手段がなかったのか。
 祈りの日なら町の人の多くは、教会に向かう。人通りが減るからこそ、大胆なまでに倉庫に居座っていたとも考えられる。
 顎先に指を添えて、考えられるだけの選択肢をヘイノは頭に並べてみる。そのとき、
「そういえば、ヘイノさん。アナさんからも紹介されていたけれど、あなたはヨニのお兄さんなんですってね」
「えっ…………ええ、まあ」
 突然別の話題を振られて、ヘイノは一瞬回答に詰まってしまった。
「この一年で、あの子もだいぶん持ち直したとは思うけれど……。あなたの目から見たら、今のあの子はどうかしら」
「それは……どういう意味でしょうか」
 質問の意図が分からず、一旦泥棒の件から頭を切り離してヘイノは彼女へと向き直る。
「いえ、あなたも同じ立場ではあるのだから、ヨニの肩だけを持つようなことは言うべきじゃないと分かっているんですけれどね。……でも、一晩で親も友達も亡くしたのに、あの子はここに来た時から笑っていたものだから。……不自然なくらいに」
 ヘイノは、静かに息を呑んだ。なるべく目立たないようにしたつもりだったが、静かな地下倉庫にはひゅっという音が響いてしまった。
「最初は、私たちもヨニはただの見習いだと思っていたんですよ。だけどね、ある日、ずっと遠くの話だけど、精霊がまた被害を出したって話を聞いた時にね。あの子の顔つき、一瞬怖いくらいに変わったのよ。笑顔がこう……スッと消えて、刃物みたいに鋭い顔っていうのかしら」
 一瞬、ヘイノは昨日のヨニとのやりとりを思い出した。普段は和やかで陽気な空気がなりを潜め、鋭く尖った先端がのぞいたような、あの変化を。
「何となく……他人事に思えなくて、アナさんに訊いたら、精霊のせいで故郷が無くなったと言うじゃありませんか」
「…………それは」
 その事実は知っている。だが、彼の心は、ヘイノには分からない。知らない。――理解できない。
 何せ、覚えてないのだ。記録として読んだことはあるし、精霊がその権能を無造作に振るった後の爪痕は実際に見学したこともある。だが、どこまだいってもそれは、ヘイノにとっては他人事にしかなり得なかった。
「それでもなお笑っているのは、あの子なりの強さだと思うのですけれど、家族がきたと聞いてホッとしたんですよ。あの子には、まだ頼れるところがあったんだな、と」
「…………そう、だったんですか。俺は、てっきり」
 ヘイノが初めて目を覚ました時に見た、ヨニの縋るような安堵の表情は、この町に来てから一度も見ていない。親しげに接してくれてはいるものの、当時の傷跡をヘイノに見せるようなことは一度もなかった。
 だから、てっきり。
「もう……あれは、彼の中で整理がついたことなのかと。だって、そうでなかったら――あんな風にずっと笑っているなんて」
「笑っていることが、平気なことの証ではないと思いますよ。お兄さんのあなたには、馬に走り方を説くようなものかもしれませんけれど」
 ステファニーはそう言ったものの、ヘイノは寝起きに冷水を浴びせられたかのように、ハッとせざるを得なかった。
 自分とて同じようなものなのだ。如才なく振る舞っているつもりでも、心のどこかで小さな軋みがうまれている。ならば、ヨニだけが違うなんていうことはあり得ないだろう――と。
「……すみません。気をつけるようにします」
「謝るようなことじゃありませんよ。年寄りのお節介なだけですからね。……私も、夫が商談に行った先で精霊の被害を受けましてね。ひどい鉄砲水だったそうで……。無事なところなんて一つもない、と言われてしまいました」
 ステファニーは天井近くに設置された光聖石を見つめて、しみじみとつぶやく。
「腕のいい職人でしたよ。あれも、私の夫が作ったものなんです」
 少し照れくさそうに笑う彼女の姿を見て、ヘイノはなぜ彼女が地下倉庫の扉に鍵をかけないかが分かった気がした。
(――いつでも、自分から会いに行けるように。寄り添いたい人の思い出のよすがに触れられるように)
 ヘイノには近しい人を亡くした記憶はない。だけれど、ヨニにはあるのだろう。
 はらば、彼は一体何をよすがに思い出しているのだろう――ふと、ヘイノはそう思った。
 
 ***
 
 倉庫から戻ると、ちょうどヨニが階段の上から手招きをしているところだった。
「何かあったのか?」
「うん。垣根が壊れて小さな抜け穴みたいなのがあった。下の方だし、雑草が茂ってたから、見落としていたんだと思う」
 どうやら、ズボラな女中は、垣根の穴も見逃していたようだ。ならばそこが進入経路か、とヨニに案内されて二人はそちらに向かう。
 だが、彼が示した抜け穴を前にして、ヘイノは思わず眉を寄せて、ヨニに問う。
「…………これ、人が通れる大きさなのか?」
 枯れた雑草をかき分けた先には、確かに板でできた塀の一部が破損して、抜け穴のような区画ができている。しかし、どう見ても大人が通れる大きさではない。ヘイノが腹這いになっても、確実に体のどこかが引っかかるだろう。
「まあ、子供なら何とか……俺たちはちょっと無理だけど」
「つまり、泥棒は子供ってことか……」
「あら、子供が泥棒の犯人だったのね。それで甘いものばかり食べていたのかしら」
 ステファニーは犯人が子供らしいと判ったからか、どこかホッとしたように言う。だが、子供だからと言って、泥棒は泥棒であることに変わりない。
 身を屈めて、試しにヘイノは穴を通ってみようとする。だが、案の定、肩がつっかえてしまった。
 すぐに身を引こうとした矢先、不意にヘイノは横合いから何かに軽く体を叩かれた。何事かと慌てて穴をくぐり抜けようとしたせいで、
「痛っ」
 強かに後頭部を板に打ち、ヘイノは無言で頭を抱えて暫し呻きを堪える。その間にも、横からやってきた何かが、ヘイノの胸元あたりにぶつかってきていた。
「な、何ですか急に……」
「ヘイノ、猫だよ。猫がいる」
「猫……?」
 ようやく痛みがおさまってきて閉じていた目を開くと、ちょうど白黒のぶち模様の猫がヘイノの胸元を凝視していた。その瞳は、まさに獲物を狩る狩人の瞳だ。
「ああ、ルーシー。だめよ。この方はお客さまだからね」
 ステファニーに呼びかけられて、ルーシーという名らしい猫は不満げににゃあと鳴く。続けて、彼女は様子を覗き込んでいたヨニに向かって、まるでバネで動くおもちゃのように、びょんっと飛びついた。
「うわっ」
「こらっ、ルーシー!」
 ステファニーに叱られて、流石のルーシー嬢も鉾の収めどきとわかったらしい。ぶんぶんと尻尾を振りつつ、庭の片隅に座り直して、じぃっとこちらを見つめていた。
「すみませんね。あの子、光り物に目がなくて。お二人の『証』が気になったのでしょう」
 司祭である証として身につけている装飾品には、小さくはあるものの、白オパールが使われている。傾きかけた日に照らされて、殊更にそれが光って見えたのだろう。
「お構いなく。怪我もしてませんから。それより、やはりここを大人を通るのは難しそうです。子供がこの場所から入ってきてるだけなら、何か塞ぐものを置いておけば侵入は防げると思いますが……どうしますか?」
「そうねえ……。だけど、わざわざ入ってきて、ただ食べて出て行っているだけなのよね。物を壊されたわけでもないのだから、もしお腹が空いて入ってきてしまったのなら、大ごとにはしたくないわね」
「……ただの愉快犯かもしれませんよ」
 一応案を話しながらも、ヘイノも愉快犯の可能性は低いのではないかと思っていた。
 庭先のお菓子を少しつまみ食いする程度ならともかく、地下倉庫にまで潜り込み何度も中を荒らすのは、犯人なりに切迫した理由を感じる。子供といえど、砂糖漬けを半分以上食べてしまうなど、常ならでは考えられないことだ。少なくとも、悪戯にしては度が過ぎている。
「それもそうなのだけど……でも、ここで塞いでおしまいにしてしまったら、どうにもすっきりしないのよ。もし相手が子供なら、直接の会って、理由を聞いておきたいわ」
「そこまで仰るならここは開けたままにしておきます。念のため、他も見ておきますね。それと、なるべく早く、簡単なものでいいので、倉庫には鍵をつけた方がいいですよ」
 ヘイノとしては、ステファニーの言い分も分からないでもないので、今は彼女の言葉に従うことにした。もし、並々ならぬ理由で侵入を敢行していたのなら、その理由を聞いてみたい、とはヘイノも思う。
「あと、朝と夕方なら少しくらいなら時間が取れるから、この家に俺たちも顔を出すよ。そしたら、犯人も少しは警戒するだろうし、逆に尻尾を出すかもしれない」
 ヨニの提案に、ヘイノも頷く。子供が相手なら、大人が行き来する様子に警戒して犯行をやめるか、あるいは焦ってボロを出す可能性が高くなる。悪くない考えだ。
「そう? わざわざ来てもらえるなんて、助かるわ。やっぱり、一人で何でもやるのは少し大変ね。早めに、新しく誰か雇わないと」
 ほう、とため息をつく彼女。どうやら、もう心配事の内容は泥棒から逸れたようだ。
 呑気というか、あるいは器が大きいというか。ヘイノはヨニと顔を見合わせて、思わず肩をすくめたのだった。
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