一章
教会の掃除を終えて、寒風に身を縮こませながら家に戻った兄弟を出迎えたのは、暖かな我が家の空気――ではなかった。
「うわ、寒っ! アナさん、部屋温めてくれなかったのかな」
「まさか。彼女が戻ってきてるなら、暖かくしてないと彼女も冷えるじゃないか」
寒さに大げさに身を震わせるヨニを置いて、ヘイノは廊下を通って居間へと入る。家全般の温度管理は、居間に置かれている火聖石のストーブで行われている。何かあったのかと思いきや、果たして、アナもそこで腕を組んで立ち尽くしていた。
「アナさん、今戻りました。あの、どうかしたんですか」
「ああ、ちょうどよかったわ。火聖石の調子が悪いみたいのよね。これ、交換しないと動かないかしら」
「交換するものは、家にあるんですか?」
「ないわ。聖石がらみは、属性持ちでも流通がある程度絞られているから、商業組合に問合せないと」
アナの返事に、ヘイノはこともなげに頷いていたが、実際は少なからず驚かされていた。彼が一年を過ごした神学校は、背後に聖導教の本部がついていたからか、聖石の調子が悪いなどということがあれば即取り替えられていた。これも住むところが変われば、考え方が変わる、ということの一例だろう。
「えー、じゃあ今日は寒いまま!?」
「薪があるから、そちらでストーブに火を入れましょう。ヨニ、お隣から余分な薪の在庫がないか聞いてきてちょうだい。ヘイノ、火おこしは私の方でしておくから、着替えて食事の準備をお願い」
不満げだったヨニも、やることを示されれば嫌だと言うこともなく、肩をすくめて玄関のほうに逆戻りした。ヘイノはその後を追い、
「ヨニ、外はもう冷えてるだろうから、これを」
玄関口近くのコート掛けにかけていた自分の外套を、ヨニの方へと放る。教会に行くときは太陽の日差しがあれば司祭服で事足りたが、日が沈めば気温はグッと冷え込む。万が一寒風にさらされて風邪でもひいたら、と思ってのことだった。
外套を受け取ったヨニは、一瞬キョトンとした顔をしてヘイノを見つめる。
「……どうかしましたか?」
「ああ、いや。何でもない。ありがと。あと、敬語また出てる」
「……ごめん。癖になってて」
「ま、いいけどさ。じゃ、行ってくる」
ヨニは軽く手を振り、扉を開けて外へと出ていく。何か気にかかることでもあったのか――記憶がないことがバレてないか、と内心どきりとしていると、
「あら、ヨニはもう行ってしまった?」
居間から、アナが顔を見せる。微かに部屋から熱気を感じるので、無事に火を起こせたのだろう。
「はい。すぐ戻ると思います。何か頼み事でも?」
「いえ、あなたに頼んだ方がよかったかしら、と思ったものだから。でも、行ってしまったなら仕方ないわ」
「? どうして、俺に頼もうとしたんですか」
誰が行っても似たようなものだろう、とヘイノが首を傾げていると、アナは不思議そうに首を傾げた。
「あの子、小さい時はよく寒い日に体調を崩して寝込んでたって話していたから。今はもう大丈夫と言っていたけれどね」
「…………そ、うでしたね。あの調子なので、そんな感じは全然しませんが」
危うく、「そうだったんですか」と言いそうになってしまった。
子供の頃の記憶など、当然ながらヘイノにはない。たとえ、ヨニの看病をした思い出があったとしても、それは記憶を無くす前のヘイノの思い出で、今ここにいる己ではないのだ。
「まあいいわ。ヘイノ、食事の準備の方はよろしくね。私は、組合への手紙を書いてくるわ。なるべく早く直してもらわないと」
「無理矢理動かせるもの……でもないですしね」
「紋章入りの聖石は、きちんと作ってあるものほど、無理に動かせないようになってるものよ。粗悪品はまた別のようだけれど」
「粗悪品なのに動くんですか?」
粗悪品というものを見たことはないが、むしろ動かなくなりそうな言い回しなのに、とヘイノは尋ねる。
「動くわ。というより、こちらが予想できないタイミングで、予測してない強さで動くから、暴走状態になると言うべきかしら。だから、精度の低い品が出回らないように流通の管理がされているのだろうけれど……」
ほう、とアナは物憂げにため息をつく。
「聖導教の本山が流通に一枚噛んでるからか、地方だと後回しにされることがあるのよね」
たとえ同僚であっても、手心が加えられることはないらしい。ヘイノも、苦い笑みを浮かべてアナを慰めることしかできなかった。
***
自室に戻ったヘイノは、燭台にマッチで火を灯し、ようやく一息つく。
この部屋の外に出れば、ヘイノは『ヨニの双子の兄であるヘイノ』としての立ち回りをしなくてはならない。それ以外にも『成績優秀な見習い司祭』の肩書きもついてくる。一年間で身につけた知識では、後者はともかく、前者までうまく演じられる自信がなかった。今でも、ふとした弾みで敬語が出てしまう。ヘイノにとっては、ヨニもアナも子供たちも、等しく『最近出会ったばかりの人』なのだから。だが、ヨニにとっては違和感のあることなのだろう。気づかれないためには、もっと注意せねばと、ヘイノはため息をついた。
それに、それ以外の問題もある。
「そんなに、似てるかな……」
鏡台の前に立ち、自分の顔をまじまじと見つめる。
黄金色と深い青のオッドアイに、薄い金色の髪。色だけ見るなら、確かにヨニとは瓜二つなのだろう。だからと言って『もう一人の方のヨニ』扱いされると、違和感を覚える。
ただ単純に呼び間違えられたくない、という気持ちとも違う。胸の奥がぎゅっと絞られるようなこの痛みは、記憶喪失を自覚した矢先にヨニの顔を見た時の感覚に似ていた。
(そんな風に呼ばれると、俺が誰だか分からなくなりそうになる――なんて、言えるわけがないんだけど)
鏡から視線を外し、ヘイノは司祭服の一部である、上に羽織っていたストール状の布を外す。次いで、機械的に慣れた手つきで腰の布を解き、上着を脱いだ。
(俺の名前は……ヘイノ、でいいんだろうか)
たまに、不安になる。確かに自分の呼び名はヘイノであるのだが、それは失われた記憶の中にいる『ヨニの兄』の名前でもあるからだ。自分が名乗っているのは、まるで彼の居場所を奪っているようで、申し訳なくなる時がある。
だからと言って、この名前を放棄したら、自分が誰だかわからなくなってしまう。だから、今は『ヘイノ』を名乗り続けている。
暗い気持ちに沈みかけた時、ぐぅ、と腹の音が鳴り響いてヘイノは意識を現実へと引き戻した。
「ぼーっとしてる場合じゃないか。ヨニは冷えて帰ってくるだろうし、何か温かいものでも作っておかないと」
ヘイノは私服のセーターを羽織り、燭台の火を片手に足早に階段を降りたのだった。
***
どこか寒さの残る週末の夜を過ごした翌日。広場に市が並び立つその日は、冬の空気が残る日々にしては珍しく、暖かな日差しが燦々と降り注いでいた。
街の人々は、七日を一つの区切りとして、祈りの日を休日に当て、それ以外の日を仕事の日としている。祈りの日の前日にあたる日は、休みの前日ということもあって、どこか浮かれた空気と、休み前に一仕事済ませてしまおうという熱気が町に広がるらしい。ヨニに連れられて、広場の近くに訪れたヘイノは、その人の数に目を丸くしてしまった。
「すごいな……。いったい、どこにこれだけの人がいたんだろう」
「驚いた? ああ、でも、この日の市は町の外から買い付けに来る人も多いから、外の人も沢山いるよ。ティモスは商業都市というよりは、生産をメインにしてるから、今日は外の人に売り込みをする日でもあるんだよね」
ヨニの説明に、ヘイノはなるほどと頷く。考えてみれば、町に入る時に川が見えた。運河があるなら、昔から輸送品の運搬にも苦労しないのだろう。
「それなら、俺たちが浮くこともないかな」
「ん、そうだね。目立つってことはないんじゃない?」
ヨニはひらひらと手を振り、ヘイノの懸念を払拭する。先日の馬車の一件もあって、なるべくなら目立ちたくないと思っていたので、ヨニが太鼓判を押してくれたのでホッと一安心できた。
「子供たちとの約束の時間はそろそろだけど、まだだろうか」
ヘイノは周囲を見渡し、教会では見慣れた子供たちの姿を探す。
結局、あの後に市の散策に付き合いたいと言ったのは、おしゃまな少女のアメリアと、昨日はおやつの取り合いで喧嘩をしていたケネスとベーネスの兄弟だった。他の子供たちは、行きたいけれど親が許可をださないだろう、とのことだ。
この日は職人の親を持っていた場合、猫の手を借りたいほど忙しい日にもなる。遊びに行かずに仕事を手伝うことも、子供たちの大事な務めの一つでもあるので、無理強いはできなかった。
「うーん……ちょっと時間かかりそうだし、俺、組合の人にアナさんの手紙出す用事の方、先に済ませてくるよ。ヘイノはここで待ってて」
ヨニは、片手で上着の上から懐のあたりを軽く抑える。昨日の火聖石の故障の件について、修理の依頼と代替品の購入を求めるため、アナが商業組合宛に手紙を用意してくれたのだ。今日は外出ついでに、それを出してくるように言われていた。
「わかった。迷子にならないように気をつけて」
「迷子って、一体、いつの話を言ってんの? もう俺も子供じゃないんだから、平気だって!」
小走りで人混みの中を掻き分けて消えていくヨニを、ヘイノは片手をあげて見送る。
彼が戻ってくるまでの間に子供たちが来てくるといいが――と考えていると、
「先生……?」
か細い声が背後から聞こえて、ヘイノはぐるっと振り返った。足元にいたのは桜色の髪に平たい帽子を被った少女――昨日震えながらも授業に参加していたコレットだ。
「こんにちは。コレットも遊びに来たんですか?」
身を屈めながら、ヘイノは問いかける。昨日の同行者の中に、コレットは入っていなかったはずだ。個人的に遊びに来たのだろうかと思っていると、コレットは小さく首を横に振ったあと、なぜか縦に再度振り直した。
「あの、先生たちがくるって話してたから……それで、会えるかもって……。でも、あまり長くは、出られないから」
「それなら途中まで一緒に行きますか? 今、他の子たちを待っているところなんです」
「は、はいっ」
どこかおどおどとした様子がその時はっきりと消えて、彼女に喜色が宿る。よく見れば、今日も薄手のワンピース姿だが、彼女の血色はいい。
「今日は、寒くないんですか?」
「あの、実は、さっきそこでお守り買ったんです。火聖石のお守りで、これなら暖かいよって」
コレットが指さしたのは、胸元を飾る真っ赤な石のブローチだ。石の奥には、何やら複雑な紋章が刻まれている。火聖石は、熱を発する特徴の属性つき聖石だ。アナが壊れたと言ったストーブにも使われている。おそらく、これは携帯しつつ暖を取るために小型に割ったものが使われているのだろう。
「良かった。もしまた寒いと思うことがあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます、ヘイノ先生」
彼女の言葉に、ヘイノはつい「あなたはヨニと俺の見分けがつくんですね」と言ってしまった。昨日だけでなく、授業に出るたびに散々間違われてきたので、生徒に名前を呼ばれるだけのことが、妙に新鮮に思えたのだ。
「え、ええと……私はまだ、ヨニ先生ともあまり……話せてないですから」
「そういえば、コレットはこの町に来て二週間ほどだとヨニが話してましたっけ」
「はい。……その、引っ越してきたのがそれくらいの時期です。でも、私が見分けがついたのは、それだかじゃなくて」
妙に慌てながら、コレットは小さな唇を何度か開けたり閉めたりをした後、
「ヘイノ先生は、読んだらすぐ来てくれますし……ちゃんと分からないところは分かるように教えてくれますから……それで、覚えてるんです」
「それだけ聞いてると、ヨニはちゃんと教えられてなかったように聞こえるんですが」
自分がいなかった頃の話を考えても仕方ないのだが、あの様子だと一筋縄ではいかなかったのだろうとは容易に想像がついた。子供たちは少なく見積もっても十人前後はいるし、その誰もが大人しく座ってじっとしていることなどは、ほぼあり得ないだろう。
「あ、でも、仕方なかったんだと思います。小さい子たちの相手もしないといけないですし、アナスタシア先生がずっといてくれるわけでもなかったので……」
「確かに、あの人数を一人はちょっと難しいと思いますね。でも、それなら、誰か代わりの見習いを雇い入れることは――」
そこまで言って、ヨニは自分を待つために席を空けておいてくれたのだろう、と気がつく。来るかも分からないのに、ひょっとしたらもう同じ道を歩けないかもしれないのに、きっと唯一生きている家族が戻ってくれると信じていたのだろう、と。
「ヘイノ先生が来るって話をする時、ヨニ先生は凄く嬉しそうにしてたんですよ。他の子は、いつもの五倍元気だったって話していました」
「……そんなにも、待ち望まれていたようには見えなかったんですが。ヨニは、いつも元気いっぱいに見えますし」
「ヨニ先生、普段から何だか先生っていうより、皆の友達って感じですから、確かに分かりづらくはあるんですけれど……」
普段の彼の態度を思い出してか、コレットの薄い唇に笑みが浮かぶ。釣られて、ヘイノの顔にも笑顔が浮かんだ。
「あ、でも、ちゃんと教えてくれることもありますから。あの……いい加減にやっていたわけではないので……ヨニ先生のこと、怒らないでくださいね」
「わかってますよ。ヨニは、いい加減にすることと、皆を笑顔にするための振る舞いを履き違えるような振る舞いはしないだろうから」
それは、一週間に満たないとはいえ、共に暮らした日々から感じとった『弟』の人柄だ。彼はお調子者のように見えるが、いい加減なわけではない。気を抜くタイミングを分かっているだけなのだろう。
「私、兄弟がいないから、先生たちを見てると、何だか……いいなって思います」
「そうですか?」
言いつつ、果たして自分は『弟』がいたことを喜んでいたのだろうか、とヘイノは思う。唯一の家族ではあれど、その自覚すら薄い相手を、共にいれて良かったと思えているのだろうか――。
「いいことばかりでも、ありませんよ。似ていると、間違えられることもありますし」
笑い話の一つとしてヘイノがコレットに先日から続いている取り違いについて話しかける。だが、予想に反してコレットはつられて笑うことなく、思わせぶりに白い額にシワを作り、眉を寄せた。
「……あの、もし勘違いだったら……すみません。……ヘイノ先生、ヨニ先生と間違えられた時、……もしかして」
そこまで彼女が言った時、「おーい」と声が聞こえた。弾かれたように二人が顔を上げた先では、待ち合わせを約束していた子供たちを連れたヨニが大きく手を振ってこちらに近づいてきていた。
「来たみたいですね。行きましょうか」
姿勢を戻し、ヘイノはコレットの手をとって立ち上がる。小さく柔らかな手に触れた瞬間、コレットは頬を薔薇色に染めて「は、はいっ」と首を何度も縦に振った。
「うわ、寒っ! アナさん、部屋温めてくれなかったのかな」
「まさか。彼女が戻ってきてるなら、暖かくしてないと彼女も冷えるじゃないか」
寒さに大げさに身を震わせるヨニを置いて、ヘイノは廊下を通って居間へと入る。家全般の温度管理は、居間に置かれている火聖石のストーブで行われている。何かあったのかと思いきや、果たして、アナもそこで腕を組んで立ち尽くしていた。
「アナさん、今戻りました。あの、どうかしたんですか」
「ああ、ちょうどよかったわ。火聖石の調子が悪いみたいのよね。これ、交換しないと動かないかしら」
「交換するものは、家にあるんですか?」
「ないわ。聖石がらみは、属性持ちでも流通がある程度絞られているから、商業組合に問合せないと」
アナの返事に、ヘイノはこともなげに頷いていたが、実際は少なからず驚かされていた。彼が一年を過ごした神学校は、背後に聖導教の本部がついていたからか、聖石の調子が悪いなどということがあれば即取り替えられていた。これも住むところが変われば、考え方が変わる、ということの一例だろう。
「えー、じゃあ今日は寒いまま!?」
「薪があるから、そちらでストーブに火を入れましょう。ヨニ、お隣から余分な薪の在庫がないか聞いてきてちょうだい。ヘイノ、火おこしは私の方でしておくから、着替えて食事の準備をお願い」
不満げだったヨニも、やることを示されれば嫌だと言うこともなく、肩をすくめて玄関のほうに逆戻りした。ヘイノはその後を追い、
「ヨニ、外はもう冷えてるだろうから、これを」
玄関口近くのコート掛けにかけていた自分の外套を、ヨニの方へと放る。教会に行くときは太陽の日差しがあれば司祭服で事足りたが、日が沈めば気温はグッと冷え込む。万が一寒風にさらされて風邪でもひいたら、と思ってのことだった。
外套を受け取ったヨニは、一瞬キョトンとした顔をしてヘイノを見つめる。
「……どうかしましたか?」
「ああ、いや。何でもない。ありがと。あと、敬語また出てる」
「……ごめん。癖になってて」
「ま、いいけどさ。じゃ、行ってくる」
ヨニは軽く手を振り、扉を開けて外へと出ていく。何か気にかかることでもあったのか――記憶がないことがバレてないか、と内心どきりとしていると、
「あら、ヨニはもう行ってしまった?」
居間から、アナが顔を見せる。微かに部屋から熱気を感じるので、無事に火を起こせたのだろう。
「はい。すぐ戻ると思います。何か頼み事でも?」
「いえ、あなたに頼んだ方がよかったかしら、と思ったものだから。でも、行ってしまったなら仕方ないわ」
「? どうして、俺に頼もうとしたんですか」
誰が行っても似たようなものだろう、とヘイノが首を傾げていると、アナは不思議そうに首を傾げた。
「あの子、小さい時はよく寒い日に体調を崩して寝込んでたって話していたから。今はもう大丈夫と言っていたけれどね」
「…………そ、うでしたね。あの調子なので、そんな感じは全然しませんが」
危うく、「そうだったんですか」と言いそうになってしまった。
子供の頃の記憶など、当然ながらヘイノにはない。たとえ、ヨニの看病をした思い出があったとしても、それは記憶を無くす前のヘイノの思い出で、今ここにいる己ではないのだ。
「まあいいわ。ヘイノ、食事の準備の方はよろしくね。私は、組合への手紙を書いてくるわ。なるべく早く直してもらわないと」
「無理矢理動かせるもの……でもないですしね」
「紋章入りの聖石は、きちんと作ってあるものほど、無理に動かせないようになってるものよ。粗悪品はまた別のようだけれど」
「粗悪品なのに動くんですか?」
粗悪品というものを見たことはないが、むしろ動かなくなりそうな言い回しなのに、とヘイノは尋ねる。
「動くわ。というより、こちらが予想できないタイミングで、予測してない強さで動くから、暴走状態になると言うべきかしら。だから、精度の低い品が出回らないように流通の管理がされているのだろうけれど……」
ほう、とアナは物憂げにため息をつく。
「聖導教の本山が流通に一枚噛んでるからか、地方だと後回しにされることがあるのよね」
たとえ同僚であっても、手心が加えられることはないらしい。ヘイノも、苦い笑みを浮かべてアナを慰めることしかできなかった。
***
自室に戻ったヘイノは、燭台にマッチで火を灯し、ようやく一息つく。
この部屋の外に出れば、ヘイノは『ヨニの双子の兄であるヘイノ』としての立ち回りをしなくてはならない。それ以外にも『成績優秀な見習い司祭』の肩書きもついてくる。一年間で身につけた知識では、後者はともかく、前者までうまく演じられる自信がなかった。今でも、ふとした弾みで敬語が出てしまう。ヘイノにとっては、ヨニもアナも子供たちも、等しく『最近出会ったばかりの人』なのだから。だが、ヨニにとっては違和感のあることなのだろう。気づかれないためには、もっと注意せねばと、ヘイノはため息をついた。
それに、それ以外の問題もある。
「そんなに、似てるかな……」
鏡台の前に立ち、自分の顔をまじまじと見つめる。
黄金色と深い青のオッドアイに、薄い金色の髪。色だけ見るなら、確かにヨニとは瓜二つなのだろう。だからと言って『もう一人の方のヨニ』扱いされると、違和感を覚える。
ただ単純に呼び間違えられたくない、という気持ちとも違う。胸の奥がぎゅっと絞られるようなこの痛みは、記憶喪失を自覚した矢先にヨニの顔を見た時の感覚に似ていた。
(そんな風に呼ばれると、俺が誰だか分からなくなりそうになる――なんて、言えるわけがないんだけど)
鏡から視線を外し、ヘイノは司祭服の一部である、上に羽織っていたストール状の布を外す。次いで、機械的に慣れた手つきで腰の布を解き、上着を脱いだ。
(俺の名前は……ヘイノ、でいいんだろうか)
たまに、不安になる。確かに自分の呼び名はヘイノであるのだが、それは失われた記憶の中にいる『ヨニの兄』の名前でもあるからだ。自分が名乗っているのは、まるで彼の居場所を奪っているようで、申し訳なくなる時がある。
だからと言って、この名前を放棄したら、自分が誰だかわからなくなってしまう。だから、今は『ヘイノ』を名乗り続けている。
暗い気持ちに沈みかけた時、ぐぅ、と腹の音が鳴り響いてヘイノは意識を現実へと引き戻した。
「ぼーっとしてる場合じゃないか。ヨニは冷えて帰ってくるだろうし、何か温かいものでも作っておかないと」
ヘイノは私服のセーターを羽織り、燭台の火を片手に足早に階段を降りたのだった。
***
どこか寒さの残る週末の夜を過ごした翌日。広場に市が並び立つその日は、冬の空気が残る日々にしては珍しく、暖かな日差しが燦々と降り注いでいた。
街の人々は、七日を一つの区切りとして、祈りの日を休日に当て、それ以外の日を仕事の日としている。祈りの日の前日にあたる日は、休みの前日ということもあって、どこか浮かれた空気と、休み前に一仕事済ませてしまおうという熱気が町に広がるらしい。ヨニに連れられて、広場の近くに訪れたヘイノは、その人の数に目を丸くしてしまった。
「すごいな……。いったい、どこにこれだけの人がいたんだろう」
「驚いた? ああ、でも、この日の市は町の外から買い付けに来る人も多いから、外の人も沢山いるよ。ティモスは商業都市というよりは、生産をメインにしてるから、今日は外の人に売り込みをする日でもあるんだよね」
ヨニの説明に、ヘイノはなるほどと頷く。考えてみれば、町に入る時に川が見えた。運河があるなら、昔から輸送品の運搬にも苦労しないのだろう。
「それなら、俺たちが浮くこともないかな」
「ん、そうだね。目立つってことはないんじゃない?」
ヨニはひらひらと手を振り、ヘイノの懸念を払拭する。先日の馬車の一件もあって、なるべくなら目立ちたくないと思っていたので、ヨニが太鼓判を押してくれたのでホッと一安心できた。
「子供たちとの約束の時間はそろそろだけど、まだだろうか」
ヘイノは周囲を見渡し、教会では見慣れた子供たちの姿を探す。
結局、あの後に市の散策に付き合いたいと言ったのは、おしゃまな少女のアメリアと、昨日はおやつの取り合いで喧嘩をしていたケネスとベーネスの兄弟だった。他の子供たちは、行きたいけれど親が許可をださないだろう、とのことだ。
この日は職人の親を持っていた場合、猫の手を借りたいほど忙しい日にもなる。遊びに行かずに仕事を手伝うことも、子供たちの大事な務めの一つでもあるので、無理強いはできなかった。
「うーん……ちょっと時間かかりそうだし、俺、組合の人にアナさんの手紙出す用事の方、先に済ませてくるよ。ヘイノはここで待ってて」
ヨニは、片手で上着の上から懐のあたりを軽く抑える。昨日の火聖石の故障の件について、修理の依頼と代替品の購入を求めるため、アナが商業組合宛に手紙を用意してくれたのだ。今日は外出ついでに、それを出してくるように言われていた。
「わかった。迷子にならないように気をつけて」
「迷子って、一体、いつの話を言ってんの? もう俺も子供じゃないんだから、平気だって!」
小走りで人混みの中を掻き分けて消えていくヨニを、ヘイノは片手をあげて見送る。
彼が戻ってくるまでの間に子供たちが来てくるといいが――と考えていると、
「先生……?」
か細い声が背後から聞こえて、ヘイノはぐるっと振り返った。足元にいたのは桜色の髪に平たい帽子を被った少女――昨日震えながらも授業に参加していたコレットだ。
「こんにちは。コレットも遊びに来たんですか?」
身を屈めながら、ヘイノは問いかける。昨日の同行者の中に、コレットは入っていなかったはずだ。個人的に遊びに来たのだろうかと思っていると、コレットは小さく首を横に振ったあと、なぜか縦に再度振り直した。
「あの、先生たちがくるって話してたから……それで、会えるかもって……。でも、あまり長くは、出られないから」
「それなら途中まで一緒に行きますか? 今、他の子たちを待っているところなんです」
「は、はいっ」
どこかおどおどとした様子がその時はっきりと消えて、彼女に喜色が宿る。よく見れば、今日も薄手のワンピース姿だが、彼女の血色はいい。
「今日は、寒くないんですか?」
「あの、実は、さっきそこでお守り買ったんです。火聖石のお守りで、これなら暖かいよって」
コレットが指さしたのは、胸元を飾る真っ赤な石のブローチだ。石の奥には、何やら複雑な紋章が刻まれている。火聖石は、熱を発する特徴の属性つき聖石だ。アナが壊れたと言ったストーブにも使われている。おそらく、これは携帯しつつ暖を取るために小型に割ったものが使われているのだろう。
「良かった。もしまた寒いと思うことがあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます、ヘイノ先生」
彼女の言葉に、ヘイノはつい「あなたはヨニと俺の見分けがつくんですね」と言ってしまった。昨日だけでなく、授業に出るたびに散々間違われてきたので、生徒に名前を呼ばれるだけのことが、妙に新鮮に思えたのだ。
「え、ええと……私はまだ、ヨニ先生ともあまり……話せてないですから」
「そういえば、コレットはこの町に来て二週間ほどだとヨニが話してましたっけ」
「はい。……その、引っ越してきたのがそれくらいの時期です。でも、私が見分けがついたのは、それだかじゃなくて」
妙に慌てながら、コレットは小さな唇を何度か開けたり閉めたりをした後、
「ヘイノ先生は、読んだらすぐ来てくれますし……ちゃんと分からないところは分かるように教えてくれますから……それで、覚えてるんです」
「それだけ聞いてると、ヨニはちゃんと教えられてなかったように聞こえるんですが」
自分がいなかった頃の話を考えても仕方ないのだが、あの様子だと一筋縄ではいかなかったのだろうとは容易に想像がついた。子供たちは少なく見積もっても十人前後はいるし、その誰もが大人しく座ってじっとしていることなどは、ほぼあり得ないだろう。
「あ、でも、仕方なかったんだと思います。小さい子たちの相手もしないといけないですし、アナスタシア先生がずっといてくれるわけでもなかったので……」
「確かに、あの人数を一人はちょっと難しいと思いますね。でも、それなら、誰か代わりの見習いを雇い入れることは――」
そこまで言って、ヨニは自分を待つために席を空けておいてくれたのだろう、と気がつく。来るかも分からないのに、ひょっとしたらもう同じ道を歩けないかもしれないのに、きっと唯一生きている家族が戻ってくれると信じていたのだろう、と。
「ヘイノ先生が来るって話をする時、ヨニ先生は凄く嬉しそうにしてたんですよ。他の子は、いつもの五倍元気だったって話していました」
「……そんなにも、待ち望まれていたようには見えなかったんですが。ヨニは、いつも元気いっぱいに見えますし」
「ヨニ先生、普段から何だか先生っていうより、皆の友達って感じですから、確かに分かりづらくはあるんですけれど……」
普段の彼の態度を思い出してか、コレットの薄い唇に笑みが浮かぶ。釣られて、ヘイノの顔にも笑顔が浮かんだ。
「あ、でも、ちゃんと教えてくれることもありますから。あの……いい加減にやっていたわけではないので……ヨニ先生のこと、怒らないでくださいね」
「わかってますよ。ヨニは、いい加減にすることと、皆を笑顔にするための振る舞いを履き違えるような振る舞いはしないだろうから」
それは、一週間に満たないとはいえ、共に暮らした日々から感じとった『弟』の人柄だ。彼はお調子者のように見えるが、いい加減なわけではない。気を抜くタイミングを分かっているだけなのだろう。
「私、兄弟がいないから、先生たちを見てると、何だか……いいなって思います」
「そうですか?」
言いつつ、果たして自分は『弟』がいたことを喜んでいたのだろうか、とヘイノは思う。唯一の家族ではあれど、その自覚すら薄い相手を、共にいれて良かったと思えているのだろうか――。
「いいことばかりでも、ありませんよ。似ていると、間違えられることもありますし」
笑い話の一つとしてヘイノがコレットに先日から続いている取り違いについて話しかける。だが、予想に反してコレットはつられて笑うことなく、思わせぶりに白い額にシワを作り、眉を寄せた。
「……あの、もし勘違いだったら……すみません。……ヘイノ先生、ヨニ先生と間違えられた時、……もしかして」
そこまで彼女が言った時、「おーい」と声が聞こえた。弾かれたように二人が顔を上げた先では、待ち合わせを約束していた子供たちを連れたヨニが大きく手を振ってこちらに近づいてきていた。
「来たみたいですね。行きましょうか」
姿勢を戻し、ヘイノはコレットの手をとって立ち上がる。小さく柔らかな手に触れた瞬間、コレットは頬を薔薇色に染めて「は、はいっ」と首を何度も縦に振った。