一章
祈りを捧げる場である教会の中は、太陽の恵みである光をすかして、静謐を視覚化したような淡い青の光が降り注いでいる。正面にある祭壇に人の姿はないものの、祈りと願いが満ちる礼拝堂は、穏やかながらも厳粛な空気に――
「せんせー、計算おわったけど、もう今日は終わりにしちゃだめ?」
「だめよ、せんせーはわたしの文字を見るのよ! せんせー、スペルはこれであってるかしら!」
「あー! またおまえこっそり、俺のおやつ食べてる!」
今日も今日とて、礼拝堂は静寂とは到底程遠い子供の喧騒に、教会は包まれていた。
祈りの日こそ、本来の役割通り、祈りの時間に使用される静かな礼拝堂も、そのほかの日は近所の子供たちの学校に早変わりする。以前、アナがヘイノに説明したように、教会は祈りの場であると同時に勉学を学ぶ場としても使われているからだ。
歳の頃は下は五つから上は十まで。貴族や裕福な商家の子供は、専属の家庭教師や若い学生が指導につくこともあるが、それ以外の農家や一般的な職人の子供たちは、大抵は教会の司祭から読み書き計算を習う。近頃は学校も普及しつつあるが、この町はまだ午前午後両方を授業に費やす学校に子供を行かせたがる親は少ない。彼らにとって、学問よりも労働力の方が優先されるからだ。
そのような事情自体はヘイノも知っていることだったが、知っていることと実際に子供を教える側に回るのはまた別のことだった。
「アンディ、そっちの計算は、繰り上がり……ええと、十の桁が入ってないです。え、指の数が足りなかった? それなら、こっちの石板に棒を書いてみましょうか。それなら数えられるでしょう」
チョークでアンディの前にあった小さな石板に棒を十一書いてから、共に数えていく。それが済んだと思ったら、
「ヨニせんせー、わたしのスペルも見て!」
「はいはい。アメリアの書く綴りは綺麗ですね。でもcとeがごちゃ混ぜになってます。注意してもう一度書いてみてください。あと、俺はヘイノです」
「なー、ヨニってば! ケネスが俺のりんご勝手に食った!!」
「ケネス、兄のものであっても、人のものを取ってはいけませんと何度も言っているでしょう。空腹であっても、昼中の鐘までは我慢です。次は保護者の方に言いますよ。あと、ベーネス。俺はヘイノです!」
一時が万事、この調子である。七つ八つの頃の子供など、椅子に座っているのよりは走り回るのが好きな年頃である。それでも、新しい先生が増えたことを喜んでか、ヘイノは何度か呼びつけられていた。
「ヘイノ、俺と変わろうかー?」
横から聞こえたのは、ヘイノの双子の弟のヨニの声だ。彼はもっと幼年の子供たちに、今は本を読んでやっている。
だが、ヘイノが返答をする前に返事をしたのは、ヨニの周りに集まっていた幼子たちだった。
「えー、ヨニいっちゃうのー? やだー」
「あっちのヨニ、おもしろくないもん」
「もっと、ちゃんとやらないとだめだもん」
前半の一時間ほど、ヘイノはヨニと同じく幼い子供たちに本を読んでやっていたのだが、通り一遍の朗読は子供たちの好みに合わなかったらしい。その点、ヨニは抑揚をつけて物語に緩急をつけて読み上げているので、評価に差が出たようだった。
「……不評みたいなので、やめておきます」
「そう? あとなー、お前たち。あっちのはヨニじゃなくて、あれはヘイノだからなー」
「だって、おなじかおしてるもん」
「わかんないよー」
子供たちの無邪気な言葉に、ヘイノは笑顔を引き攣らせた。実際、二人は双子で服装も司祭の制服としてほぼ同じものを着ているので、見分けづらいだろうと予想はしていた。だが! 直接言われると、それはそれで思う節はある。
「もう五日になるのに、覚えてもらえないのはちょっと堪えますね……」
「わたしは分かるわ! 髪の毛が短くて教え方が丁寧な方がヘイノ先生よ!」
おしゃまな少女――アメリアが、ひらひらと手を振って主張する。彼女は、先ほどスペルミスを指摘された子供だ。
「あ、それって暗に俺の教え方が適当って言ってる?」
ヨニの質問に、生徒のアメリアはにこにこと笑っていた。どうやら図星だったようだ。
「はいはい、とりあえず俺たちの見分け方は後でいいから! 今日の課題、全部終わったんですか?」
ヘイノは軽く手を叩いて、乱れた空気を無理やり整え、子供たちをぐるりと見渡す。どうやら挙手している者はいないようだ。
流石にこれ以上遊んでいたら怒られると分かったのか、それぞれ一瞬だけでも己の手元に渡された課題の方に取り組み始めている。
暫くは息をつけるか、と思った時。ヘイノは席の一番端に座っている子供が手を挙げていることに気がついた。
「せ、先生。私、終わりました……」
淡い桜色の髪をした少女は、白い顔をヘイノに向ける。今この場にいるどの子供よりも落ち着いているのも当然、彼女の歳は生徒の中では最年長の十歳頃であると聞いている。
「コレット、もう終わったんですね。ちょっと見せてください」
彼女――コレットの前にあった石板には、渡した計算問題の解答が綴られている。答えに誤りがないことを確認してから、彼女に返そうとして、ヘイノはやけに彼女が寒そうに身を寄せていることに気がついた。
「すみません、もう少し部屋を暖めた方がいいですか」
身をかがめて、ヘイノは小声でコレットへと話しかける。
礼拝堂の気温は大掛かりな火聖石の機構で制御していると聞いていたが、暑い寒いの調整は管理者のアナに一任している。ヘイノや他の子供には今の温度でちょうどいいが、彼女には寒かったのではないか、と思ったのだった。
だが、コレットは首をすばやく横に振った。
「大丈夫です、これくらいなら……暖かい方ですので」
自分の服を内側へと引っ張るような仕草をしているが、コレットの服はお世辞にも厚手とは言い難い。薄い生地でできたワンピースは、秋口ならまだしも、春の気配も遠い今の時期では冷えるばかりだろう。
普段から歳上で大人しくしているため、彼女の様子に気がつかなかったことを、ヘイノは内心で反省していた。
「……じゃあ、授業が終わるまで、こちらを貸しておきます。それなら、寒くないと思いますから」
言いつつ、ヘイノは腰のブローチの留め金を外して、肩からかけていたストール状の上衣を外してコレットの肩にかける。
聖導教の司祭の服は、重ね着すること前提であるというのに生地がしっかりしている。一枚脱いだ程度では寒いと思うこともなかった。
「あの、私……」
「また何かあったら言ってください。あ、そういえば、余った時間の方は……何かしたいことありますか」
「あの、それなら、聖典の暗誦をしたいので、ここに書いてもらえますか。私、ユノー様が、女神様から啓示を受ける所が好きなんです」
「かまいませんよ」
自分が暗記している内容を石板に写しつつ、ヘイノは白い顔の少女を見やる。ヘイノの上衣を纏って俯くコレットの頬は、薔薇色に染められ、だからこそ青白さが際立っているように見えてしまった。
***
昼中の鐘――太陽が中天に差し掛かって暫くしてから鳴る鐘は、大人たちにとっては一日の終わりが数時間後には訪れることを告げる鐘であり、子供たちにとってはおやつの時間を告げる鐘である。それは、教会の学校に来ている子供たちとて変わらない。
鐘が鳴るやいなや、年長の子供たちは石板をさっさと鞄にしまい、それぞれ親から貰った果物やら、木の実やら、ちょっとしたおやつを取り出す。
「礼拝堂で食事する、というのも最初は驚きましたね」
「夏場とかは外で食べさせてるけど、冬は寒いからさ。外でお喋りして風邪ひかせるわけにもいかないじゃん。あと、敬語」
教師役から解放されたヘイノがヨニに声をかけ、ヨニがそれに応じる。最後の指摘に、ヘイノは小さく「ごめん」と返した。
彼らが団欒していても無法地帯にならないのは、上司でもあるアナが今は顔を見せているからだ。どうやら子供たちにとって、アナは『いつもは優しいけど怒らせるととても怖い先生』扱いらしい。
教会での子供たちの指導は、おおむね午後に行われている。子供たちとしては、教会という非日常の場所で過ごせる午後の授業は、それなりに人気が高いらしい。出席自体もある程度自由参加であり、一週間ほど家の都合で休むこともよくあることだ、とヘイノはアナから教えられていた。
「ヘイノせんせ、よかったらわたしのりんご、一ついかが?」
礼拝堂の隅で片付けをしていた二人に、ちょこちょこと駆け寄ってきた少女が一人。先ほど、ヘイノとヨニの見分けがつくと豪語したアメリアだ。八歳という歳の割には、彼女は少々おませなところがある。
今も、籠から出したりんごを仰々しくヘイノに差し出したつもりなのだろうが、
「ごめん、アメリア。俺はヨニの方。おーい、ヘイノ。小さなレディから贈り物だって」
「大きな声出さなくても、聞こえてるって。ありがとうございます、アメリア」
ヘイノは屈んで、アメリアの小さな手からりんごをもらう。だが、肝心の彼女は唇を尖らせ、その愛らしい顔でヨニへと渋い顔を作ってみせた。どうやら、間違えたくなかったらしい。
「そんなに見分けがつかないものですか?」
「だって、せんせーたち、背も顔もそっくりだし」
「わたしは分かると思うのだけれど……でも鏡があるのかって思ったって、シャーロットも言ってたわ」
「ぼく、ヨニせんせーが二人になったっておもった!」
小さな子供から、それなりに大きな子供まで、口々に彼らなりの感想を述べる。そのどれもが要約すると『見分けがつかない』だったので、二人は思わず顔を見合わせてしまった。
「あらあら。見分けがつかないのは、ちょっと困るわね」
面白そうにくすくすと笑っているのは、自分だけは関係ないという風情のアナだ。流石に大人の彼女は、そうそう呼び間違えることはない。
「何か目印になるものでもつけておいたら?」
「と、言われましても……」
ヘイノはヨニのほうをチラッと見てから、自分の服に視線を落とす。司祭の制服は型が決まっている以上、そうそう勝手に着崩していいものでもない。どうすればいいのか、とヨニに視線で訴えると、彼は「あっ」と声を上げた。
「明日は学校も休みだし、広場の市に行って何か見分けがつきそうな目印になるものでも買ってくる? それなら、来週から困らなくていいよね」
「市……?」
「せんせ、ここに来たところだから知らないのね! 広場でね、沢山いろいろなものが売るのよ! わたしのお母様も織物をいつも出してるわ」
声を張り上げたのは、ヘイノの足元にまとわりついていたアメリアだった。
「どうせなら、皆で行ってきたらどう? きっと保護者の皆さんも明日は忙しいでしょうし、良いって言ってくれるんじゃないかしら」
アナの提案は、子供たちにとって歓声で迎えられたのだった。
思いがけなく明日の予定が追加されたが、何はともあれ、今日の授業は無事に終わりを迎えた。子供たちを見送ったヘイノは、教会の玄関口で大きく伸びをする。
「お疲れさま。悪いけれど、掃除の方もよろしく頼むわね」
「はい。終わったらすぐ帰りますので」
先に家に戻るアナを見送り、次の作業に取り掛かるかと思った時だった。
「あの……」
冷たい夕方の風にかき消されそうなほどの小さな声が耳に入り、ヘイノは声の主へと振り返る。そこには、先ほどヘイノから上着を借りていた少女――コレットが立っていた。
「すみません、これ、返すの忘れていて」
彼女は体に巻き付けるようにしていたストール状の上衣を脱ぐと、畳んでヘイノに差し出す。危うく着たまま帰るところだったと気がついて、戻ってきたのだろう。
「ありがとうございます。……でも、そのまま帰ったら寒くはありませんか」
ヘイノの言うように、コレットは薄手のワンピース以外に何も着ていない。他の子供たちが草臥れていても暖かそうな外套や襟巻きを巻いて帰っていったのに、彼女はおよそ防寒具らしいものを身につけていなかった。
「良ければ、そのまま持っていっても――」
「いえ、本当に大丈夫ですから……! ありがとうございます、先生」
彼女は慌てて一礼をすると、ヘイノが何か言うより早く、そそくさと道を駆け出してしまった。どんどん小さくなっていく背を追いかけることもできず、ヘイノはただ黙って見ていることしかできなかった。
「何してんの、こんな外に突っ立って」
ひょいと後ろから顔を見せた片割れことヨニに、ヘイノは先ほどあったことをかいつまんで話す。
「授業の時から、コレットさんがずいぶん寒そうにしていたので、何かできたらと思ったんだけど……」
「だからって、俺たちの服を貸すわけにはいかないでしょ」
「それはそうかもしれませんが。でも、いくらなんでも薄着すぎると思うんだ。彼女は、いつもあんな格好をしてるのか?」
ヨニはヘイノより一年長くこの町にいる。なら、何か知っているのでは、と問いかけたものの、ヨニの反応は芳しくない。
「彼女がきたのは、二週間くらい前のことでさ。保護者の人は一緒じゃなかったけど、ここで勉強したいって言うから、じゃあどうぞって感じで、その日から皆に混ざるようになったんだよね。だから、どこの家の子とか、俺もよく知らないんだ」
そんないい加減な、とヘイノは言いかけたが、これがこの町の空気なのだろう。ひょっとしたらヘイノが記憶を無くす前に暮らしていた村も同じ雰囲気だったのかもしれないが、あいにくヘイノの記憶にあるのは、厳格に訪れるものを管理している神学校での生活だけだ。
「何かあったら、本人の方から言ってくるんじゃないかな。それより、ヘイノ。掃除、手伝ってよ。明日出かけるなら、明日に延ばすことはできないんだからさ」
ヨニにせっつかれて、ヘイノは教会の中へと戻る。後ろ髪を引かれる思いでコレットが去っていった方角を見ていたが、そこに彼女の姿は当然ながらもうなかった。
「せんせー、計算おわったけど、もう今日は終わりにしちゃだめ?」
「だめよ、せんせーはわたしの文字を見るのよ! せんせー、スペルはこれであってるかしら!」
「あー! またおまえこっそり、俺のおやつ食べてる!」
今日も今日とて、礼拝堂は静寂とは到底程遠い子供の喧騒に、教会は包まれていた。
祈りの日こそ、本来の役割通り、祈りの時間に使用される静かな礼拝堂も、そのほかの日は近所の子供たちの学校に早変わりする。以前、アナがヘイノに説明したように、教会は祈りの場であると同時に勉学を学ぶ場としても使われているからだ。
歳の頃は下は五つから上は十まで。貴族や裕福な商家の子供は、専属の家庭教師や若い学生が指導につくこともあるが、それ以外の農家や一般的な職人の子供たちは、大抵は教会の司祭から読み書き計算を習う。近頃は学校も普及しつつあるが、この町はまだ午前午後両方を授業に費やす学校に子供を行かせたがる親は少ない。彼らにとって、学問よりも労働力の方が優先されるからだ。
そのような事情自体はヘイノも知っていることだったが、知っていることと実際に子供を教える側に回るのはまた別のことだった。
「アンディ、そっちの計算は、繰り上がり……ええと、十の桁が入ってないです。え、指の数が足りなかった? それなら、こっちの石板に棒を書いてみましょうか。それなら数えられるでしょう」
チョークでアンディの前にあった小さな石板に棒を十一書いてから、共に数えていく。それが済んだと思ったら、
「ヨニせんせー、わたしのスペルも見て!」
「はいはい。アメリアの書く綴りは綺麗ですね。でもcとeがごちゃ混ぜになってます。注意してもう一度書いてみてください。あと、俺はヘイノです」
「なー、ヨニってば! ケネスが俺のりんご勝手に食った!!」
「ケネス、兄のものであっても、人のものを取ってはいけませんと何度も言っているでしょう。空腹であっても、昼中の鐘までは我慢です。次は保護者の方に言いますよ。あと、ベーネス。俺はヘイノです!」
一時が万事、この調子である。七つ八つの頃の子供など、椅子に座っているのよりは走り回るのが好きな年頃である。それでも、新しい先生が増えたことを喜んでか、ヘイノは何度か呼びつけられていた。
「ヘイノ、俺と変わろうかー?」
横から聞こえたのは、ヘイノの双子の弟のヨニの声だ。彼はもっと幼年の子供たちに、今は本を読んでやっている。
だが、ヘイノが返答をする前に返事をしたのは、ヨニの周りに集まっていた幼子たちだった。
「えー、ヨニいっちゃうのー? やだー」
「あっちのヨニ、おもしろくないもん」
「もっと、ちゃんとやらないとだめだもん」
前半の一時間ほど、ヘイノはヨニと同じく幼い子供たちに本を読んでやっていたのだが、通り一遍の朗読は子供たちの好みに合わなかったらしい。その点、ヨニは抑揚をつけて物語に緩急をつけて読み上げているので、評価に差が出たようだった。
「……不評みたいなので、やめておきます」
「そう? あとなー、お前たち。あっちのはヨニじゃなくて、あれはヘイノだからなー」
「だって、おなじかおしてるもん」
「わかんないよー」
子供たちの無邪気な言葉に、ヘイノは笑顔を引き攣らせた。実際、二人は双子で服装も司祭の制服としてほぼ同じものを着ているので、見分けづらいだろうと予想はしていた。だが! 直接言われると、それはそれで思う節はある。
「もう五日になるのに、覚えてもらえないのはちょっと堪えますね……」
「わたしは分かるわ! 髪の毛が短くて教え方が丁寧な方がヘイノ先生よ!」
おしゃまな少女――アメリアが、ひらひらと手を振って主張する。彼女は、先ほどスペルミスを指摘された子供だ。
「あ、それって暗に俺の教え方が適当って言ってる?」
ヨニの質問に、生徒のアメリアはにこにこと笑っていた。どうやら図星だったようだ。
「はいはい、とりあえず俺たちの見分け方は後でいいから! 今日の課題、全部終わったんですか?」
ヘイノは軽く手を叩いて、乱れた空気を無理やり整え、子供たちをぐるりと見渡す。どうやら挙手している者はいないようだ。
流石にこれ以上遊んでいたら怒られると分かったのか、それぞれ一瞬だけでも己の手元に渡された課題の方に取り組み始めている。
暫くは息をつけるか、と思った時。ヘイノは席の一番端に座っている子供が手を挙げていることに気がついた。
「せ、先生。私、終わりました……」
淡い桜色の髪をした少女は、白い顔をヘイノに向ける。今この場にいるどの子供よりも落ち着いているのも当然、彼女の歳は生徒の中では最年長の十歳頃であると聞いている。
「コレット、もう終わったんですね。ちょっと見せてください」
彼女――コレットの前にあった石板には、渡した計算問題の解答が綴られている。答えに誤りがないことを確認してから、彼女に返そうとして、ヘイノはやけに彼女が寒そうに身を寄せていることに気がついた。
「すみません、もう少し部屋を暖めた方がいいですか」
身をかがめて、ヘイノは小声でコレットへと話しかける。
礼拝堂の気温は大掛かりな火聖石の機構で制御していると聞いていたが、暑い寒いの調整は管理者のアナに一任している。ヘイノや他の子供には今の温度でちょうどいいが、彼女には寒かったのではないか、と思ったのだった。
だが、コレットは首をすばやく横に振った。
「大丈夫です、これくらいなら……暖かい方ですので」
自分の服を内側へと引っ張るような仕草をしているが、コレットの服はお世辞にも厚手とは言い難い。薄い生地でできたワンピースは、秋口ならまだしも、春の気配も遠い今の時期では冷えるばかりだろう。
普段から歳上で大人しくしているため、彼女の様子に気がつかなかったことを、ヘイノは内心で反省していた。
「……じゃあ、授業が終わるまで、こちらを貸しておきます。それなら、寒くないと思いますから」
言いつつ、ヘイノは腰のブローチの留め金を外して、肩からかけていたストール状の上衣を外してコレットの肩にかける。
聖導教の司祭の服は、重ね着すること前提であるというのに生地がしっかりしている。一枚脱いだ程度では寒いと思うこともなかった。
「あの、私……」
「また何かあったら言ってください。あ、そういえば、余った時間の方は……何かしたいことありますか」
「あの、それなら、聖典の暗誦をしたいので、ここに書いてもらえますか。私、ユノー様が、女神様から啓示を受ける所が好きなんです」
「かまいませんよ」
自分が暗記している内容を石板に写しつつ、ヘイノは白い顔の少女を見やる。ヘイノの上衣を纏って俯くコレットの頬は、薔薇色に染められ、だからこそ青白さが際立っているように見えてしまった。
***
昼中の鐘――太陽が中天に差し掛かって暫くしてから鳴る鐘は、大人たちにとっては一日の終わりが数時間後には訪れることを告げる鐘であり、子供たちにとってはおやつの時間を告げる鐘である。それは、教会の学校に来ている子供たちとて変わらない。
鐘が鳴るやいなや、年長の子供たちは石板をさっさと鞄にしまい、それぞれ親から貰った果物やら、木の実やら、ちょっとしたおやつを取り出す。
「礼拝堂で食事する、というのも最初は驚きましたね」
「夏場とかは外で食べさせてるけど、冬は寒いからさ。外でお喋りして風邪ひかせるわけにもいかないじゃん。あと、敬語」
教師役から解放されたヘイノがヨニに声をかけ、ヨニがそれに応じる。最後の指摘に、ヘイノは小さく「ごめん」と返した。
彼らが団欒していても無法地帯にならないのは、上司でもあるアナが今は顔を見せているからだ。どうやら子供たちにとって、アナは『いつもは優しいけど怒らせるととても怖い先生』扱いらしい。
教会での子供たちの指導は、おおむね午後に行われている。子供たちとしては、教会という非日常の場所で過ごせる午後の授業は、それなりに人気が高いらしい。出席自体もある程度自由参加であり、一週間ほど家の都合で休むこともよくあることだ、とヘイノはアナから教えられていた。
「ヘイノせんせ、よかったらわたしのりんご、一ついかが?」
礼拝堂の隅で片付けをしていた二人に、ちょこちょこと駆け寄ってきた少女が一人。先ほど、ヘイノとヨニの見分けがつくと豪語したアメリアだ。八歳という歳の割には、彼女は少々おませなところがある。
今も、籠から出したりんごを仰々しくヘイノに差し出したつもりなのだろうが、
「ごめん、アメリア。俺はヨニの方。おーい、ヘイノ。小さなレディから贈り物だって」
「大きな声出さなくても、聞こえてるって。ありがとうございます、アメリア」
ヘイノは屈んで、アメリアの小さな手からりんごをもらう。だが、肝心の彼女は唇を尖らせ、その愛らしい顔でヨニへと渋い顔を作ってみせた。どうやら、間違えたくなかったらしい。
「そんなに見分けがつかないものですか?」
「だって、せんせーたち、背も顔もそっくりだし」
「わたしは分かると思うのだけれど……でも鏡があるのかって思ったって、シャーロットも言ってたわ」
「ぼく、ヨニせんせーが二人になったっておもった!」
小さな子供から、それなりに大きな子供まで、口々に彼らなりの感想を述べる。そのどれもが要約すると『見分けがつかない』だったので、二人は思わず顔を見合わせてしまった。
「あらあら。見分けがつかないのは、ちょっと困るわね」
面白そうにくすくすと笑っているのは、自分だけは関係ないという風情のアナだ。流石に大人の彼女は、そうそう呼び間違えることはない。
「何か目印になるものでもつけておいたら?」
「と、言われましても……」
ヘイノはヨニのほうをチラッと見てから、自分の服に視線を落とす。司祭の制服は型が決まっている以上、そうそう勝手に着崩していいものでもない。どうすればいいのか、とヨニに視線で訴えると、彼は「あっ」と声を上げた。
「明日は学校も休みだし、広場の市に行って何か見分けがつきそうな目印になるものでも買ってくる? それなら、来週から困らなくていいよね」
「市……?」
「せんせ、ここに来たところだから知らないのね! 広場でね、沢山いろいろなものが売るのよ! わたしのお母様も織物をいつも出してるわ」
声を張り上げたのは、ヘイノの足元にまとわりついていたアメリアだった。
「どうせなら、皆で行ってきたらどう? きっと保護者の皆さんも明日は忙しいでしょうし、良いって言ってくれるんじゃないかしら」
アナの提案は、子供たちにとって歓声で迎えられたのだった。
思いがけなく明日の予定が追加されたが、何はともあれ、今日の授業は無事に終わりを迎えた。子供たちを見送ったヘイノは、教会の玄関口で大きく伸びをする。
「お疲れさま。悪いけれど、掃除の方もよろしく頼むわね」
「はい。終わったらすぐ帰りますので」
先に家に戻るアナを見送り、次の作業に取り掛かるかと思った時だった。
「あの……」
冷たい夕方の風にかき消されそうなほどの小さな声が耳に入り、ヘイノは声の主へと振り返る。そこには、先ほどヘイノから上着を借りていた少女――コレットが立っていた。
「すみません、これ、返すの忘れていて」
彼女は体に巻き付けるようにしていたストール状の上衣を脱ぐと、畳んでヘイノに差し出す。危うく着たまま帰るところだったと気がついて、戻ってきたのだろう。
「ありがとうございます。……でも、そのまま帰ったら寒くはありませんか」
ヘイノの言うように、コレットは薄手のワンピース以外に何も着ていない。他の子供たちが草臥れていても暖かそうな外套や襟巻きを巻いて帰っていったのに、彼女はおよそ防寒具らしいものを身につけていなかった。
「良ければ、そのまま持っていっても――」
「いえ、本当に大丈夫ですから……! ありがとうございます、先生」
彼女は慌てて一礼をすると、ヘイノが何か言うより早く、そそくさと道を駆け出してしまった。どんどん小さくなっていく背を追いかけることもできず、ヘイノはただ黙って見ていることしかできなかった。
「何してんの、こんな外に突っ立って」
ひょいと後ろから顔を見せた片割れことヨニに、ヘイノは先ほどあったことをかいつまんで話す。
「授業の時から、コレットさんがずいぶん寒そうにしていたので、何かできたらと思ったんだけど……」
「だからって、俺たちの服を貸すわけにはいかないでしょ」
「それはそうかもしれませんが。でも、いくらなんでも薄着すぎると思うんだ。彼女は、いつもあんな格好をしてるのか?」
ヨニはヘイノより一年長くこの町にいる。なら、何か知っているのでは、と問いかけたものの、ヨニの反応は芳しくない。
「彼女がきたのは、二週間くらい前のことでさ。保護者の人は一緒じゃなかったけど、ここで勉強したいって言うから、じゃあどうぞって感じで、その日から皆に混ざるようになったんだよね。だから、どこの家の子とか、俺もよく知らないんだ」
そんないい加減な、とヘイノは言いかけたが、これがこの町の空気なのだろう。ひょっとしたらヘイノが記憶を無くす前に暮らしていた村も同じ雰囲気だったのかもしれないが、あいにくヘイノの記憶にあるのは、厳格に訪れるものを管理している神学校での生活だけだ。
「何かあったら、本人の方から言ってくるんじゃないかな。それより、ヘイノ。掃除、手伝ってよ。明日出かけるなら、明日に延ばすことはできないんだからさ」
ヨニにせっつかれて、ヘイノは教会の中へと戻る。後ろ髪を引かれる思いでコレットが去っていった方角を見ていたが、そこに彼女の姿は当然ながらもうなかった。