序章
「いやー助かりましたよ、司祭様! あのまま馬車の中で暴れられていたら、一体どうなっていたか」
大袈裟に身振り手振りで感謝を示す御者の男に、ヘイノはどうにか愛想笑いを返した。
あの後、激しい雷雨は一時間ほど猛威を振るったが、雷雲を抜けた後は徐々に小雨となっていった。
馬車は穏やかに街道を走り、途中で何度か旅籠にて馬を変えつつ、無事にヘイノの目的地に辿り着いたのだった。
悪天候に見舞われたことで、予定より数時間遅れてしまっていたが、日が落ちる前に到着したのは僥倖だろう。
他の乗客はここより手前の町で降りたり、同じ町で降りたが既に立ち去ってしまった後なので、残っていたのは一番奥の席に座っていたヘイノだけだった。
「あの街道の辺りは、二十年ほど前に一度、精霊が発生したことがありましてね。それで、ちょっと過敏になってたんでしょうが……いやはや、不必要に騒ぎ立てるのも困ったものです」
「そのような事情があるのなら、不安に思うのも仕方ありません。ともかく、誰も怪我することがなくてよかったです」
如才なく返事をしつつ、ヘイノはようやく肩の重荷が降りた心地だった。
雷雨をやり過ごしてからも、乗客たちはちらちらとこちらの様子を窺っていた。その視線のほぼ全てが好奇と尊崇が半々では、気が休まる時間がなかったのだ。
「そういえば、司祭様はこの町に巡礼に来たのですか? ここに、大きな史跡や有名な伝説は無かったと思うんですが」
「家族が、この町にいるはずなんです。それに、これからこの町で司祭としての務めを果たす予定なんですよ」
「おや、そうでしたか。司祭様は、こちらの出身で?」
外にいた御者には、ヘイノが馬車の中で話していたことは聞こえていなかったのだろう。わざわざ説明するつもりもなかったので、ヘイノはゆっくりと首を横に振っただけだった。
「特に目立ったものはない町ですが、ここは大きな事件もない平和な町ですよ。ご家族も、きっと待っているでしょう」
「……ええ、そう思います。では、そろそろ私は失礼しますね」
ヘイノはトランクを手に持ち、片手を軽く胸の前で握るような素振りを見せてから、深々と一礼をした。
「あなたに、女神の祝福があらんことを」
略式の礼をしてから、ヘイノは御者に背を向けて歩き出す。自分が向かう先にいる『家族』のことを思いながら。
***
御者の男が言っていたように、ヘイノが辿り着いた町――ティモスは、穏やかな空気を肌で感じるほど和やかな町だった。
強いて言えば、門のすぐ側にある川が唯一の特徴だろうか。堂々と流れる川の上には石橋がかかり、その下を荷を積んだ船が行き交っている。
町の出入り口から石畳が丁寧に敷き詰められ、中心部に向けた大通りに沿うように住宅や店がずらりと並んでいた。
夕暮れ時の透き通った空の下には、緑の三角屋根の建物が丁寧に並び、整えられた景観を見せている。だが、その景観は大通りを沿った先に行き着いた広場を境にがらりと変わる。
広場からは四方に道がのび、道がのびた先にある建物の色合いが、それぞれ異なっているのだ。
ヘイノが通ってきた道の建物は皆揃って緑の屋根に塗られているが、正面の道から広がる家々はオレンジ色の瓦でできた建物が連なっていた。
ひょっとしたら、建てられた時代が違うのかもしれない。また、小高い丘の上には明らかに一軒だけ様式の異なる家がある。この町の長が住む家だろうか。
ぐるりと周りを見渡すと、今自分が立っている場所が町全体から見れば、中心部にあたることがわかる。上空から鳥のように見下ろせば、ちょうど広場から円形に建物が広がっているように見えただろう。
広場なら、普段であれば即席の屋台や露店が並ぶのかもしれないが、あいにく今日は祈りの日だ。大都会でもないかぎり、この日は多くの店が休暇を取る。そのため、広場は広さとは対照的に、やや閑散としていた。中心に据え付けられた噴水も、どこか寂しく見える。
「さて、俺が行く予定の建物はどこにあるかな……」
外套の下に纏う上着から、ヘイノは皺のよった封筒を取り出した。そこに入っている家族の手紙に、地図も一緒に書かれていたからだ。
しかし、広げた手紙を見て、ヘイノは眉を寄せる。
「あいつの地図、やっぱりあてにならなさそうだな」
現地に行けば分かるかと思ったが、みみずがのたくったような線は、縦にしても横にしても、やはり地図には見えなかった。これでは、どこに行けばいいかわからない。
一瞬途方に暮れてしまったが、道がわからないなら人に聞くしかない。幸い、店は休みでも、広場に人影はある。暫し首をめぐらせてから、ヘイノはベンチで休んでいた年配の女性に近寄った。
「すみません、少しいいですか」
「はい、構いませんよ。何でしょうかね」
目が悪いのか、眼鏡をかけ直した女性に、ヘイノはできるだけ簡潔に目的地について問う。
「この町の教会に行きたいんですが、どうやって行けばいいでしょう」
「ああ、それでしたら、あそこの細い通りをまっすぐ歩いて、丁字路の角に……」
そこまで言ってから、女性はまじまじとヘイノを見つめる。あたかも、奇妙なものでも目にしたかのような無遠慮な視線に、ヘイノは自分が何かまずいこと言ったのではないか、と先ほどのやり取りを振り返る。妙なことを言った覚えはないが――と戸惑っていると、
「あなた、先ほどまで教会にいたじゃないの。私に聞かなくても、教会の場所なんて、分かっているでしょう?」
「……えっ?」
「学校の時間が終わったからって、ふらふらしてはいけませんよ。ちゃんと、お仕事を手伝ってあげないと。アナさん、困ってしまうでしょう?」
「あの、誰かと勘違いしてないでしょうか」
まるで近所のいたずら坊主を嗜めるような女性の物言いに、ヘイノはどう返すべきか、言葉に迷う。ヘイノの戸惑いに気が付いたのか、女性は眼鏡を直してこちらを凝視しなおしてくれたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「年寄りだからって、誤魔化そうとしてはいけませんよ、ヨニ。私は目は悪いけれど、こんなに近くにいるのに顔がわからないほど、耄碌しちゃいないんですからね」
彼女の言葉を聞いて、ヘイノはようやく納得した。考えてみれば、その考えにすぐ思い当たるべきなのだ。なぜなら。
「すみません、それ……俺の弟です」
彼が会いに来た家族――それは、ヘイノの双子の弟にあたるのだなら。
***
ゴツゴツした石畳を踏みしめて歩き続けること、さらに三十分ほど。そうして、ようやくヘイノは目的地に辿り着いた。
道に並ぶ家々や店とは一線を画した建物は、遠くから見てもすぐにそれと分かる。特徴的な大きな三角屋根に、屋根から突き出た尖塔。てっぺん付近は鐘が吊るされており、風に吹かれて僅かに左右に揺れていた。
どの町にも必ず一つはあると言われている、聖導教の施設――即ち、教会だ。
人々は週に一度の祈りの日にここに集まり、日々の生活が無事に営めることに感謝を捧げる。教会の管理者たる司祭は、聖典に記された始祖の教えについて礼拝の参加者に語って聞かせる。
そのほかにも、学校の代わりを務めたり、町の諍いの仲裁を行ったり、葬儀や結婚について取り仕切ったりと、町における教会と司祭の役割は実に多岐にわたる。
教会の前庭には丁寧に花や草木が植えられていて、訪れる者を温かく迎え入れている。無造作ではないが、整えすぎていない自然体の作りは、庭師の腕が優れている証だ。
深呼吸をしてから、ヘイノは教会の大扉に手をかけて、ゆっくりと開く。ギ、と軋んだ音を立てて、木製の扉が開いた。
一歩中へと踏み入り、ヘイノは思わず息を呑んだ。
(すごい……)
教会は求められる用途こそ、どの町でも似たようなものだが、その装飾や建物の様式は、建築家に一任されることも多い。
つまり、今目の前に広がるアーチ型の天井も、正面の大きなステンドグラスも、ずらりと並んだ木製の座席に淡い光が落ちるように計算された側廊のステンドグラスも、全てこの建物独自のものだ。
聖都の教会はその権威を強調するためにも華やかな様式が多く、それはそれで見応えがあった。この建物は、都会の教会にある繊細な彫刻の柱もなければ、天へと昇るような高い天井もない。
しかし、ヘイノはこちらの小さな教会の方が好ましいと、本能的に感じていた。
教会として権威を示すためには、細かな細工や豪奢な装飾も必要なのかもしれない。だが、親しみやすさという点では、今自分が立っている空間の方が格段に優れている。
決して華やかではないが、素朴な温かさと、思わず背筋を伸ばしたくなるような静謐さ。澄み切った春の湖水を思わせる、独特の青い色使い。その中で、数枚のステンドグラスは淡いイエローを基調としており、夕日を優しく受け止めている。
思わず、誘われるように一歩、二歩と踏み出す。後ろで扉が閉じた音にも気が付かず、ヘイノは奥に据えられた祭壇の近くにまで歩み寄っていた。
「誰の作品だろう。この町の人が作ったんだろうか……」
呟きながら、彼は嵌め込まれたステンドグラスをじっと見つめる。そこには、一人の女性が描かれていた。
粗末な衣装を纏った女性は、両手に白い石を持ち、空へと掲げている。聖導会において始祖とされている女性――ユノーを模しているのだろう。彼女の指導者としてのカリスマ性と、深い慈悲の心は、今でも頻繁に絵画や彫刻の題材とされている。
彼女の逸話を訊かれれば、子供でもいくつかあげることができるだろう。それほどまでに、彼女の生き方と教えは、この国の人々に深く深く染み込んでいる。
思わず、時間も場所も忘れて見惚れていると、不意に祭壇の横にある勝手口の扉が音を立てて開いた。
「すみませーん。今日の礼拝の時間は終わっているんですけれど、何か急ぎの用ですか……」
ヘイノはハッとして、扉から現れた人を見つめる。姿を見せた彼も、言葉を途中で切って、じっとヘイノを見つめた。
もし、ここに彼ら以外の誰かがいたら、そこに突然鏡が立てられたのではないかと思っただろう。
何故なら、二人の顔は瓜二つだったのだから。
「……もしかして、ヘイノ?」
先に声を発したのは、祭壇の奥から出てきた方の彼だった。
ヘイノと同質の薄い色の金髪は、ヘイノのものよりも長く、緩く一つに纏められている。外套こそ纏っていないが、彼の羽織る上着は、ヘイノと同じ見習い司祭の制服だ。
ヘイノは、ほんの一瞬間を置いてから、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。
「久しぶり、ヨニ。元気そうですね」
ヘイノの懐に今もしまってある手紙――その差出人である、彼の双子の弟が、今、目の前にいる。
ヘイノに瓜二つの顔を持つ彼の顔に驚きが浮かび、続けてそれが歓喜に変わるまで、そう時間は必要なかった。
「久しぶり、ヘイノ! ほんっと、待ち侘びてたよっ!!」
こちらに向かって遠慮なく飛びついてきた弟をどうにか受け止め、ヘイノはヨニへと笑いかける。
一年ぶりの兄弟の再会を祝福するように、ステンドグラスから差し込む夕日が彼らを照らしていた。
***
「ヘイノって、この前まで聖都にいたんだよね? どうだった、やっぱりこことかと比べると大都会?」
「まあ……あそこは規格外だと思いますよ。何せ、王都に次ぐ人口の町らしいですから。ここと比べれば、圧倒的に人も多かったし店とか工場も沢山ありましたよ。礼拝の日でも店は開いていて、夜になっても光聖石の街灯が灯るから昼みたいに明るいんです」
「へー、信じられないなあ。こっちじゃ、日常用の聖石は、火聖石と水聖石使った設備が家に一つあればいい方だからさ。あ、不便だからって文句言うなよ?」
「言いませんよ。与えられた環境を受け入れ、その場にあるもので改善を目指す。聖典にも書いてあったじゃないですか」
「うわ、優等生の発言だ」
からからと笑う弟――ヨニに苦笑いをこぼしながら、ヘイノは彼の少し後ろについて歩いていた。
これから、ヘイノはこの町の教会で、見習いとして各種の仕事に従事することになっている。
だが、教会は家ではない。これから住まいとなる家はもう少し離れた所にあるらしく、今はそこまでヨニに案内されているところだった。
「教会には、純度の高い聖石が装飾で使われてるよ。確か、天井の辺りだったかな」
「それがないと、精霊避けになりませんからね」
二人が話題にしている『聖石』とは、この大陸のあちこちから発掘されている特別な力を持つ石のことだ。
かつて、始祖ユノーが見つけ出したような純度の高い聖石は、光もないのに白く輝くという特徴の他に、理由は不明だが精霊が石を忌避するため、精霊除けとして町には必ず一つ安置されている。ヘイノが馬車の中で見せた石も、かなり小ぶりではあるが、同じものだ。
だが、純度が低かったり、研究者曰く『特定の属性に偏っている』ため、聖石に似ているが精霊除けとして機能しない石もある。
代わりに、それらの石は独特の事象を発現させる。火で炙らずとも熱を生み出す火聖石、特定の刺激を与えることで水を生み出し濾過も行う水聖石、暖色の光を点す光聖石などが最たるものだ。
更に、技術者によって加工を受ければ、より複雑な運用もできるようにもなる。尤も、家庭に普及しているのは、精々煮炊きや入浴に使える程度の加工しかされていない。薪の燃料も、現役として引き続き利用されている家も少なくない。
久しぶりの兄弟の語らいを楽しんでいるうちに、二人はある家の前に到着した。こじんまりとした二階建ての家は、落ち着いた臙脂色に塗られた屋根が特徴的な木造建築だった。
「昔、まだこの辺りが農地だった頃に建てられた家なんだってさ。だから、あっちの旧市街の家と違って、石じゃなくて木でできてるんだそうだよ」
ヘイノの疑問を汲み取ったのか、ヨニが解説をしてくれた。どうやら、オレンジ色の屋根で作られた家々のある区域は、旧市街と呼ばれているらしい。
緑あふれる前庭から続く小道の先には、張り出しの玄関口がある。勝手知ったる我が家といった様子で、ヨニは無造作に玄関の扉に手をかけ、勢いよく廊下に続く戸を開いた。
「ただいまー。ね、聞いてよ。さっき、教会の片付けしてたら、そこでヘイノに会ったんだ! 家の中の案内したいんだけど、いいよね?」
「ちょっとヨニ、いきなりそれはどうなんですか」
ヨニが呼びかけた相手は、ヘイノにも大体想像がついた。おそらく、この教会の司祭である人だ。見習いである自分たちが、本来師として仰がねばならない人物である。
自分達より目上の相手であり、そんなぞんざいな呼びかけ方は無礼だと、ヘイノはヨニの上着を引っ張った。
「あら、ようやく来たのね。いらっしゃい。待っていたわ」
だが、無礼を咎めていたヘイノも、廊下から顔を出した人物を見て、思わずポカンとしてしまった。
ヨニと一緒に司祭の業務を手伝う、と聞いた時、ヘイノの脳裏には、神学校にいた司祭のような年配の男性が描かれていた。だが、目の前にいるのは、どう見ても妙齢の女性である。
腰ほどまである長い髪は、夜の空のように深い紺色。釣り上がった瞳は、春の川を思わせる澄んだ翡翠色をしていた。丈の長い黒い司祭服と、白い石がはまった耳飾りをつけているので、彼女がこの村の司祭であることは疑う必要もないだろう。
「初めまして。アナスタシア・エリツィナよ。あなたの話は、ヨニからいつも聞かされていたわ。どうぞよろしくね」
優美な微笑を浮かべてから、女性は手を差し出した。ようやく我にかえり、ヘイノは慌てて彼女の手を取る。
「ヘイノです、これからお世話になります」
口早に、自己紹介を口にするも、ぎこちなさは抜けきらない。
「あれ、もしかして照れてる?」
肘で小突いてきたヨニをひと睨みしてから、ヘイノは小さく咳払いをして、一礼した。
「すみません、アナスタシアさん。聖都ではあまり若い女性司祭を見なかったもので、つい」
「気にしなくても大丈夫よ。実際、自分でも目立っていることは自覚しているもの。それより、私のことは気軽にアナって呼んでほしいわ。町の人には、そう呼ばれているから」
どこか余裕のある笑みを見せるアナスタシア改めアナに、ヘイノはぎこちない頷きを返した。彼女に見つめられると、どうにも緊張してしまう。女性だから、という理由だけではない気がした。
「こんなところで立ち話も何だから、まずはヨニに部屋を教えてもらうといいわ。……ところで、ヨニ。あなた、昨日のうちに部屋の準備をするようにと言ったけれど、ちゃんとやったのかしら」
「あっ、やべ」
アナの指摘を受けて、不吉な言葉がヨニから聞こえてきた。どうやら、ヘイノの部屋はまだ準備すらできていない状況らしい。
「布団を出してきて、掃除もしておくように、と言ったと思うのだけれど?」
アナの指摘に、ヨニは「すぐやる!」と言って、足音を立てて玄関近くにある階段を上がっていった。残されたヘイノは、呆然と彼の後ろ姿を見送るしかなかった。
「兄のあなたにわざわざ言うまでもないかもしれないけれど、あの子って万事あの調子なのよ。面白い子ね」
アナがくすくすと笑いながらそんなことを言うので、ヘイノは本人でもないのに、穴があったら入りたい気分になってしまった。
「長旅で疲れたでしょう。客間の準備をしておいたから、寛ぐといいわ。そこで、これからの話をしましょう」
「えっ、そんな、わざわざ客間を使わなくてもいいですよ。これから、この家の住人になるのに、客人扱いを受けるわけにはいきません」
「そう? それなら、居間で話させてもらうわね。言われてみれば、生活設備の話もするなら、こっちの方が効率が良かったわね」
アナは話しつつ、廊下の右手側にある扉を開く。階段の裏手にあるその扉をくぐると、中には居間とキッチンを兼ねた空間が広がっていた。部屋の隅に据えられたキッチンストーブは、春先の冷えた空気を追いやるように、ごうごうと熱を放っている。
「とりあえず、そのあたりに座ってちょうだい。お茶、用意するわね」
「いえ、俺がやります。そんな、司祭様にそのようなことをさせるわけには」
トランクを部屋の隅に置いて、小さなケトルを出してきたアナの元へとヘイノは駆け寄る。
「いいから、今回は私にやらせて。何も知らないあなたがやるよりも、その方がずっと効率がいいわ」
ここまで言われて、無理に食い下がるわけにもいかない。ヘイノは大人しく椅子に座り、アナの一挙一動を見守っていた。次から、茶を淹れるのは自分の役目になるのだから。
紅茶と簡単な茶請け代わりとして焼き菓子と野苺の砂糖漬けを机に並べてから、アナはヘイノの向かいの椅子に腰を下ろした。
「改めて、ティモスの町へようこそ。ヘイノ」
「はい。こちらこそ、改めてよろしくお願いします」
深々と頭を下げるヘイノに、アナはまたくすりと笑ってみせる。
「……何か、おかしなことをしてしまいましたか」
「いえ。ヨニとは大違いだなと思っただけ。あの子は、随分と奔放な性格をしているから。精霊に襲われて、故郷を一夜にして失った子だなんて思えないくらいに」
さらりと述べられた言葉に、ヘイノは紅茶の入ったカップに伸ばしかけていた手を止める。
考えてみれば、彼女は一年間、自分の弟と行動を共にしていたのだ。それならば、大体の経緯は知っているだろう。
そんなヘイノの予測を裏付けるかのように、アナは「認識を合わせておきましょうか」と続ける。
「一年前、この町の司祭様が長い任を終えて、町を去ることになったの。要するに隠居ね。代わりに、私がこちらに派遣されてきた。通例として、町の司祭は見習いを何名かそばに置くか、適当な召使いを雇うことになっている。そのことは、あなたも知ってるわね」
「はい。それで、アナさんはヨニと俺を選んでくれたんですよね」
「ええ。ちょうど、とある村にいた見習いが手隙になったと聞いてね。まさか、それが村ごと教会が消えてしまったから、とは思わなかったけれど」
返す言葉もなく、ヘイノは無言で続きを促した。
「元々、神学校の見習い過程は卒業した所だったと聞いていたから、これも何かの縁かと思って引き受けることにしたのだけれど…………あなたの方には問題があった」
アナの『問題』という言葉に潜む不穏な気配に、ヘイノは視線を泳がせる。それが何かを知っていても、他人に口に出して指摘されるのはいい気分はしない。
「聖都から、一通りの経歴を送ってもらったわ。あなたは、かつて、神学校にて優秀な成績を収めた見習い司祭だった。だけど、精霊に襲われた際の負傷が原因か、目覚めたあと、学んだ知識のほとんどが欠落していたことが判明した。だから、私は一度神学校に戻して、再び同じ内容を学ぶことで、あなたの記憶が刺激されて、失った経験が蘇るのではないかと進言した」
「……はい。寛大なご配慮、ありがとうございます」
そのために、ヘイノは今一度、数年前に習ったことを再度学び直した。一年という期間は、猶予期間でもあった。もし、思い出せないようなら、新たに進路を考え直す必要も視野に入れなさい、と学校では何度も言われてきた。
「結果として、あなたの成績は事件前の頃の水準まで戻った。これなら問題ないと判断して、私はあなたをここに呼び直した。……もし、見解に相違があるなら、今聞くわ」
「いえ、ありません」
話をしながら、ヘイノは自分がなぜアナの前で妙に緊張してしまうのか、分かった気がした。
たった数十分も話していないのに、彼女の物言いや視線にこちらに対する気遣いや遠慮がないからだ。良くも悪くも、彼女はありのままの姿を見定めようと、こちらを見つめている。その視線に、無意識に緊張を強いられていたのだろう。
「そう。よかったわ。もし、何か間違いがあったら、私はあなたをまた聖都まで送り出さないといけなくなるから」
「それは、やめてもらえますか。ヨニが悲しみますから」
今まで短く当たり障りのない返答だけをしていたヘイノが、今この瞬間だけはきっぱりと返事をする。その様子を見て、アナは少しばかり目を見開いて見せた。
「弟思いなのね。性格は似ていないけれど、そこはあなたたち、そっくりよ」
ヘイノは返事代わりに、カップの中身に口をつけた。僅かな渋みのある紅茶の味が、今は妙に苦く感じられた。
「さて、めでたくあなたを迎えられることが決まったところで。明日からの話をしましょうか。到着してすぐは、勝手がわからないところもあると思うから、細かいところはヨニに聞くといいわ」
前置きを挟んでから、アナはまず仕事の内容を説明し始めた。
祈りの日以外は、朝夕の教会の掃除と、昼から開いている幼年の子供向けの学校の補佐が主な務めとなる。また、町の人から頼み事をされたら、引き受けるのも大きな役割の一つとしてあげられた。
「頼み事、とはどんなものでしょうか」
「本当に色々よ。単に愚痴を聞くだけのこともあるし、落とし物を探したり、迷い猫を見つけてきたり。垣根の修復とか、外の街への買い出しの取りまとめや、郵便を代わりに郵便局まで取りに行ってほしい、なんてものもあったわね。勿論、人の道から外れるような依頼は、断っていいわ」
「何だか、召使いみたいなことをするんですね」
そのような雑事は、普通なら自分の子供や雇っている召使いにさせることである。聖都でも、教師の殆どは、自分が雇っている女中や召使いに細々とした身の回りの世話を任せていた。
「町の司祭の見習いは、皆そんなものよ。町で暮らす人々の手足となって、彼らに積極的に関わり、町の一部になる。それが、今のあなたたちに求められること。そうすれば、自ずと人の心に寄り添うことができるでしょう?」
「……ええ。それは、仰る通りだと思います」
雑事をするのが嫌というより、そのような触れあい方を他人からされた経験が無いため、ヘイノとしては戸惑いは残る。これも、いずれ人々に関わっていけば薄れていくのだろうか。
「祈りの日は、礼拝に来た方々の案内をお願いするわ。私が不在の時は、説法も頼むかもしれないわ」
「え、いいんですか? 学校では、見習いが講壇に立って話すことは無かったんですが」
「いいも何も、人がいないならやるしかないでしょう。別に、何も話せないわけではないのでしょう? 私も、見習いの頃から、説法はいくつかしていたわ。それに、見習いの頃はやらないのに、正式な司祭になったからと言って、すぐできるようになれると思う?」
アナのさっぱりとした物言いに、ヘイノは再びポカンとしてしまった。
彼女は、しきたりや規則については、厳守するよりも適宜改変することをよしとしているらしい。学校にいた保守的な司祭たちが聞いたら、どんな顔をするだろうか。
「あと、家のことだけれど、部屋はヨニが用意してくれているから、詳しくは彼に訊いてちょうだい。見習い司祭用の服は、ヨニと同じ着丈のものをいくつか取り寄せておいたから、それを使ってくれていいわ」
他にも、アナは家の間取りや設備の話を、立板に水の如く話した。おそらく、彼女はこの時間に全てを伝え切るつもりなのだろう。意図を察したヘイノは、必死に彼女から与えられた『家のルール』を頭に叩き込んだ。
部屋の間取りは、今いるキッチン兼居間の他に、客間と、客人向けの食事用の部屋。キッチンの奥には食糧庫と浴室がある。また、一階にヨニの部屋もある。
二階には、アナの寝室とヘイノの寝室、客人向けの寝室があり、屋根裏は倉庫として使われているらしい。他に、書斎が一つあり、アナはそこを仕事部屋と兼ねて使っている。書斎を使用していない時なら好きに本を持っていっていいとのことだった。
「そこのストーブは、火聖石を使って熱を出しているわ。それと、浴室のもそうね。水聖石と火聖石を組み合わせた紋章つきのものよ。だから、お風呂は毎日入って構わないわ。残り湯は洗濯にでも使ってちょうだい」
紋章つきとは、特定の法則を持って起動するように、紋章が刻まれて調整された属性つきの聖石のことである。
単純に熱や水を生み出すのではなく、風呂のように『一定の熱さの湯を用意する』といった複雑な動きをさせるためには、属性持ちの聖石に特定の規則性を持った図形――紋章を刻む必要がある。そのため、一般的に紋章を刻んだ聖石のことを、『紋章つき』や『紋章石』と呼ぶ。
汎用性は下がるし、当然取引時の値段も跳ね上がるが、その分だけ専門的な動きをさせることができる。故に、近年では飛躍的な技術革命の一助となっていた。
都心部では、全てこの紋章石で動くようにした設備で固められた屋敷もあるらしい。近頃発展の著しい交通技術にも、一役買っているとの噂だ。
「ああ、そうそう。聖都の知らせで、純度の高い聖石をあなたに持たせたと聞いたのだけれど。今持っているかしら」
話を一通り終えたアナは、身を乗り出してヘイノに尋ねる。ヘイノもすぐに上着にしまっていた袋を取りだして、中から一つの石を取り出した。馬車の中で、乗客たちを宥めるために見せた石だ。
光源があるわけでもないのに、石そのものは淡く白い光を放ち、机の上で存在を主張していた。大きさは片手に握り込めるほどの小ささだが、この大きさでも小規模な精霊なら嫌がって近寄らない。
「先生から、こちらを預かってきました。ですが、これを何に使うのでしょうか」
町に設置されている聖石が壊れたのだとしても、この大きさではあまり役に立たないのでは。ヘイノがそう思って尋ねると、
「ちょっと研究に使いたいのよ」
アナは意味ありげな微笑を浮かべる。友好ではなく、威圧を感じさせるその笑顔は、これ以上の質問を封じる凄みが混ざっていた。
「聖石って、簡単に市場に出回るものでもないから、あなたが持ってきてくれて助かったわ」
「それなら……まあ、よかったです」
ヘイノは無難な返答をして、彼女の手に握られた白い石を視線で追う。
聖石そのものは、聖導教においても神聖なものとされる。ゆえに、その色である白も、尊いものとして扱われ、聖導教の司祭は白い石のはまった装飾品を身につけることを義務付けられている。
とはいえ、純度の高い白の聖石は貴重であるため、彼らが身につけているのはあくまで一般的な白い蛋白石(オパール)だ。ヘイノの首から下げられたネックレスも、アナの耳から揺れるイヤリングも、本質的に求められている役割は一緒である。
閑話休題。ようやく話に一区切りついた頃、
「おーい、部屋の準備できたよー」
二階から、ヨニの元気な声が響き、ヘイノは思わず立ち上がる。
「すみません、行ってきてもいいでしょうか」
「ええ。ヨニが待ち侘びているでしょうから」
緩やかに手を振って見送るアナに軽く会釈を返してから、ヘイノはトランクを掴んで二階への階段を駆け上がった。
***
ヘイノがヨニと再会してからの時間は、まさしく矢のように過ぎ去っていった。
ようやく整えられた自室に着いたと思ったら、今度はトランクの中身のものを然るべき場所に仕舞う作業が始まった。それが終わったら各部屋の案内をされ、案内が終われば夕食の手伝いがヘイノを待ち構えていた。
勿論、こちらも単なる手伝いで済むことはなく、キッチンの設備の使い方、食糧庫の中身の説明などを頭に入れながらの作業となった。
料理自体は寮で暮らしていた学生時代の経験が活きたが、慣れない作業は精神をすり減らしていく。正直、神学校の課題よりもずっと重労働だった。
「つ、かれた……」
入浴を済ませて部屋に戻る頃は、ヘイノは本日二度目の大きなため息をつくことになった。寝巻きに着替え、寝台に身を投げ出し、ヘイノは己の部屋として割り当てられた一室をじっと見つめる。
蝋燭の灯りに照らされて浮かび上がる、部屋の輪郭。広くもなく狭くもない部屋には、箪笥が一つ。中には、私服も司祭として纏う黒い装束も纏めて仕舞われている。
壁に沿って置かれた鏡台には、洗顔用のボウルと水差しが一つ。文机は今まで他の見習いも使っていたのか、年季を感じさせる艶を纏っていた。
出窓には、今は外したネックレスが置かれている。外は今はもう真っ暗だが、所々に家々の灯りが見えた。その数だけ、人の営みがあるのだろう。
来たばかりなこともあって、他人の部屋に泊まっているような違和感の方が今は強い。一年もしたら、自分の部屋と認識できるようになるのだろうか。
「明日からも、やることが沢山あるんだよなあ……」
それを考えれば、疲労を回復するためにも、さっさと眠ってしまったほうがいいとは分かっている。しかし、昂った心の方が、ちっとも寝付いてくれない。新しい生活を前にして、無意識に興奮しているのだろう。
せめて、目だけは閉じていようと目を瞑っていると、
「ヘイノ、今いい?」
こんこんとノックの後に、ヨニの声が聞こえた。ヘイノと同質の声なのに、性格の違いもあって、彼の声はヘイノのものより柔らかく聞こえる。
「どうぞ。何か伝えそびれたことでもあったんですか?」
「いや、単に話をしたかっただけ」
ヨニは手に燭台を持って、部屋に入ってきた。彼も寝巻き姿だったので、おそらくすぐに寝るつもりではあったのだろう。襟の高い寝巻きは首元をしっかりと隠していて、肌寒い夜には丁度よさそうだった。
燭台を文机に置き、ヨニは寝台に腰を下ろす。丁度、ヘイノの隣の位置だ。
「え、と……何ですか? 何か顔についていますか」
こちらを見てにこにこと笑うヨニに、ヘイノはぎこちない笑顔を浮かべた。
「なんていうか、やっとまた会えたなって思ったんだ。ほんと、それだけなんだけどさ」
「久しぶり、ですからね。尤も、こちらは朝から晩まで勉強漬けで、一年もあっという間でしたが」
「俺も、やることを覚えるので精一杯だったよ。アナさんは、前に父さんたちの手伝いしていた時みたいに、俺が息子だから許してくれるなんてことはないからさ」
それはそうだろう、とヘイノは声に出さずに思う。アナは身内だろうがそうでなかろうがお構いなしの性格であることは、出会ったときのやりとりから十分に理解していた。
「そういえば、夕飯の時に話してたけどさ。来るとき、嵐に巻き込まれたんだよね。しかも、馬車の中で説法したなんてさ。よくやるなぁ、そんなこと!」
「仕方ないじゃないですか。そうでもしないと、皆さんが恐慌状態に陥っていたかもしれませんから。狭い空間で、しかも高速で動いている状態で、ヒステリーを起こされる方が被害が大きくなります」
「そうかもしれないけれど、咄嗟にそういうことってできないと思うんだよねー。さすが優等生」
「ヨニ、もしかして嫌味で言ってますか?」
「ううん、本当に心の底からすごいなーって思ってる」
ヘイノは、じーっと自分に瓜二つの顔を見つめる。
ヘイノより長い金髪に、ヘイノとは逆の位置にはまった青と琥珀のオッドアイ。ゆるく弧を描く眉に、見るものに笑顔を誘うような弧を描く口元。表情を引き締めればヘイノと瓜二つなのは間違いないが、ヨニはヘイノとは対照的に人なつこい笑顔を浮かべていた。
「誰かが困ってたり、怖がってたりしたら、なんとかしたいって思うけどさ。俺は、ただ一緒になって怖がったり慌てたりするだけで、ヘイノみたいに落ち着いて解決するとかできないから」
「それも、必要なことだと思いますよ。手を差し伸べることと心を差し伸べることは同じこと、と始祖の言葉にもありました」
「ああ、確かにそんな言葉もあったっけ。それで……ヘイノとしては、どう思ってる?」
不意に、今まで気楽な調子で語っていたヨニの声がぴしりと引き締まる。
どんな返事をしても、きっと笑って受け入れてくれるだろうと予想できていたが、それでも正面から向き合う必要があると感じさせる声音だった。
「……俺は、誰かの気持ちに完全に寄り添うことができるほど、器用ではありませんから。純粋に、尊敬しますよ」
「ふふん、何だかヘイノに褒められると、くすぐったいな」
くすくすと笑うヨニに、ヘイノは肩の力を抜く。先程の緊迫した空気は、ただの気のせいだったのだろうか。
その後は、明日の仕事について語り合っていたが、十分もしないうちにヨニが小さくあくびを噛み殺した。ヘイノも、疲労が重なり、すでに瞼を開けていることすら辛い。
「それじゃ、そろそろ俺は寝るよ。ヘイノも夜ふかししないように」
「それはこちらの台詞ですよ。興奮しすぎて、明日寝不足の顔を見せないでくださいね」
「はーい、気をつけるってば」
寝台を降り、自分が持ってきた燭台に手をかけ、ヨニは部屋を後にする――と思った矢先、彼は扉の前でぴたりと足を止めた。
「……ヨニ?」
「あの、さ。会った時から言おうと思ってたんだけど」
ヘイノの方を見ずに、ヨニは口を開く。彼の声は、普段通りを装おうとしているが、不自然に陽気に聞こえた。
いったい、何を言い出すのかと、続く言葉を待っていると、
「ヘイノ、俺と話す時、敬語使うのはやめてくれない?」
「――――」
しん、と沈黙が下りる。全ての音が死に絶えたかのように、張り詰めた緊張が二人の間に生まれる。
だが、沈黙は長く続かない。ヘイノが答えようとしたほんの数秒の間隙を縫うように、ヨニは言葉を畳み掛けた。
「学校じゃ、そうしないといけなかったから、癖になってるんだろうけど。ちょっと気になってたからさ。兄弟に敬語使われると、何かぞわぞわするっていうか」
「――ああ、ごめん。つい、癖で」
「だよね。俺も昔はそうしてた時期あったけど、もう今は無理だなー」
くるりと振り返り、ヨニはヘイノに笑いかける。蝋燭の灯りで浮かび上がった彼は、先ほどまでと違わぬ笑顔を浮かべていた。
「じゃ、おやすみ。良い夢を」
軽く手を振ってから、ヨニは部屋を後にする。
彼が階段を降りる音が家に響き、階下の彼の自室の扉が閉まる音を確かめてから、
「――――――っ!」
ヘイノは、今まで息を止めていたかのように、長く長く息を吐き出した。吐き出してもなお、胸の内に張り詰めた緊張が呼吸を乱していく。
先ほどまでの温かな夜の気配は、そこにはない。あるのは、恐ろしく冷えた闇の気配だけだ。部屋の隅に凝るそれらは、ヨニが来る前はただの光がもたらす陰影の一つに過ぎなかったのに、今はまるでこちらを虎視眈々と狙う化け物にすら見える。
否、そう見えるのは、自分の心境の変化のせいだとヘイノにはわかっていた。
どうにか息を整え、ヘイノは寝台から降り、鏡台を見つめる。そこに映り込んでいるのは、青い顔をした自分の顔だ――自分の顔のはずだ。ヨニと同じでも、紛れもなくここに映るのは自分の顔のはずなのだ。
「……気づかれて、ないよな」
小声で、鏡の向こうに映る自分に問いかける。返事は、当然ながら、ない。
「大丈夫……大丈夫だ。大丈夫だから、ここに戻ってきたんだ」
独り言を重ね、ヘイノは鏡に手を伸ばす。冷えた鏡面に手をつけ、自問自答を繰り返す。
――自分の名前は?
ヘイノ。ヨニの双子の兄。
――どうして、ここにいる?
一年前の事件で失った知識を取り戻して、ヨニと同じ場所で見習いの仕事をするため。
――今、なすべきことは?
「ヨニの、家族でいること」
決意を固めるように、ヘイノは呟く。そして、心の中で言葉を続ける。
――俺に、『彼』の記憶はないけれど。
一年前、精霊がもたらした災厄。それにより、一つの村が地図から消えた。父を亡くし、母を亡くし、隣人を亡くした――らしい。
その実感は、ヘイノにはない。何故なら、事件の記憶ごと、目を覚ましたヘイノから、これまで積み重ねてきた十五年の記憶が抜け落ちていたのだから。
最初は、困惑のあまり、己の記憶の欠落について素直に医師に話してしまった。
だが、事情を知ったヘイノは、己の病状を撤回し、あくまで一時的な記憶の混乱だったと言い張った。
わざわざ嘘を述べた理由。それは、自分が記憶喪失になってしまったら、あの自分と同じ顔をした彼が、本当に孤独になってしまうと分かってしまったからだ。
目を覚ました時、よるべのないまま彷徨っていた小舟がようやく陸地を見つけたかのように、これ以上ないほど安心した顔を見せていた、自分の弟。
目覚めた直後で、記憶の混乱もあって、同じ顔をした人間がそばにいる事実に恐怖して拒絶してしまったとき。彼の顔に浮かんだ絶望は、あまりに悲しかった。見ず知らずのはずなのに、見捨てることなどできない、と思うほどに。
失ってしまった知識を急いで身につけて、こうして戻ってきたのも、唯一の家族はここにいると示して、彼を安心させたかったから。
それが、唯一の罪滅ぼしなのだ。
彼の兄を、『自分』は奪ってしまったのだから。
鏡に映る自分を見る。動揺が過ぎれば、普段通りの自分が鏡の向こうで取り澄ました顔で見つめ返していた。
「……そろそろ寝ないと」
燭台の蝋燭を消して、ヘイノは布団の中に潜り込む。
目が覚めたら、全て何もかも思い出しているかもしれない。そう思ったことは何度もある。だが、何度目覚めても、ヘイノの中に一年前にベッドから目覚めたときより前の記憶は返ってこなかった。
そして、今日もまた。
自分を見守る全ての人に嘘をついて、双子星の片割れは眠りにつく。
大袈裟に身振り手振りで感謝を示す御者の男に、ヘイノはどうにか愛想笑いを返した。
あの後、激しい雷雨は一時間ほど猛威を振るったが、雷雲を抜けた後は徐々に小雨となっていった。
馬車は穏やかに街道を走り、途中で何度か旅籠にて馬を変えつつ、無事にヘイノの目的地に辿り着いたのだった。
悪天候に見舞われたことで、予定より数時間遅れてしまっていたが、日が落ちる前に到着したのは僥倖だろう。
他の乗客はここより手前の町で降りたり、同じ町で降りたが既に立ち去ってしまった後なので、残っていたのは一番奥の席に座っていたヘイノだけだった。
「あの街道の辺りは、二十年ほど前に一度、精霊が発生したことがありましてね。それで、ちょっと過敏になってたんでしょうが……いやはや、不必要に騒ぎ立てるのも困ったものです」
「そのような事情があるのなら、不安に思うのも仕方ありません。ともかく、誰も怪我することがなくてよかったです」
如才なく返事をしつつ、ヘイノはようやく肩の重荷が降りた心地だった。
雷雨をやり過ごしてからも、乗客たちはちらちらとこちらの様子を窺っていた。その視線のほぼ全てが好奇と尊崇が半々では、気が休まる時間がなかったのだ。
「そういえば、司祭様はこの町に巡礼に来たのですか? ここに、大きな史跡や有名な伝説は無かったと思うんですが」
「家族が、この町にいるはずなんです。それに、これからこの町で司祭としての務めを果たす予定なんですよ」
「おや、そうでしたか。司祭様は、こちらの出身で?」
外にいた御者には、ヘイノが馬車の中で話していたことは聞こえていなかったのだろう。わざわざ説明するつもりもなかったので、ヘイノはゆっくりと首を横に振っただけだった。
「特に目立ったものはない町ですが、ここは大きな事件もない平和な町ですよ。ご家族も、きっと待っているでしょう」
「……ええ、そう思います。では、そろそろ私は失礼しますね」
ヘイノはトランクを手に持ち、片手を軽く胸の前で握るような素振りを見せてから、深々と一礼をした。
「あなたに、女神の祝福があらんことを」
略式の礼をしてから、ヘイノは御者に背を向けて歩き出す。自分が向かう先にいる『家族』のことを思いながら。
***
御者の男が言っていたように、ヘイノが辿り着いた町――ティモスは、穏やかな空気を肌で感じるほど和やかな町だった。
強いて言えば、門のすぐ側にある川が唯一の特徴だろうか。堂々と流れる川の上には石橋がかかり、その下を荷を積んだ船が行き交っている。
町の出入り口から石畳が丁寧に敷き詰められ、中心部に向けた大通りに沿うように住宅や店がずらりと並んでいた。
夕暮れ時の透き通った空の下には、緑の三角屋根の建物が丁寧に並び、整えられた景観を見せている。だが、その景観は大通りを沿った先に行き着いた広場を境にがらりと変わる。
広場からは四方に道がのび、道がのびた先にある建物の色合いが、それぞれ異なっているのだ。
ヘイノが通ってきた道の建物は皆揃って緑の屋根に塗られているが、正面の道から広がる家々はオレンジ色の瓦でできた建物が連なっていた。
ひょっとしたら、建てられた時代が違うのかもしれない。また、小高い丘の上には明らかに一軒だけ様式の異なる家がある。この町の長が住む家だろうか。
ぐるりと周りを見渡すと、今自分が立っている場所が町全体から見れば、中心部にあたることがわかる。上空から鳥のように見下ろせば、ちょうど広場から円形に建物が広がっているように見えただろう。
広場なら、普段であれば即席の屋台や露店が並ぶのかもしれないが、あいにく今日は祈りの日だ。大都会でもないかぎり、この日は多くの店が休暇を取る。そのため、広場は広さとは対照的に、やや閑散としていた。中心に据え付けられた噴水も、どこか寂しく見える。
「さて、俺が行く予定の建物はどこにあるかな……」
外套の下に纏う上着から、ヘイノは皺のよった封筒を取り出した。そこに入っている家族の手紙に、地図も一緒に書かれていたからだ。
しかし、広げた手紙を見て、ヘイノは眉を寄せる。
「あいつの地図、やっぱりあてにならなさそうだな」
現地に行けば分かるかと思ったが、みみずがのたくったような線は、縦にしても横にしても、やはり地図には見えなかった。これでは、どこに行けばいいかわからない。
一瞬途方に暮れてしまったが、道がわからないなら人に聞くしかない。幸い、店は休みでも、広場に人影はある。暫し首をめぐらせてから、ヘイノはベンチで休んでいた年配の女性に近寄った。
「すみません、少しいいですか」
「はい、構いませんよ。何でしょうかね」
目が悪いのか、眼鏡をかけ直した女性に、ヘイノはできるだけ簡潔に目的地について問う。
「この町の教会に行きたいんですが、どうやって行けばいいでしょう」
「ああ、それでしたら、あそこの細い通りをまっすぐ歩いて、丁字路の角に……」
そこまで言ってから、女性はまじまじとヘイノを見つめる。あたかも、奇妙なものでも目にしたかのような無遠慮な視線に、ヘイノは自分が何かまずいこと言ったのではないか、と先ほどのやり取りを振り返る。妙なことを言った覚えはないが――と戸惑っていると、
「あなた、先ほどまで教会にいたじゃないの。私に聞かなくても、教会の場所なんて、分かっているでしょう?」
「……えっ?」
「学校の時間が終わったからって、ふらふらしてはいけませんよ。ちゃんと、お仕事を手伝ってあげないと。アナさん、困ってしまうでしょう?」
「あの、誰かと勘違いしてないでしょうか」
まるで近所のいたずら坊主を嗜めるような女性の物言いに、ヘイノはどう返すべきか、言葉に迷う。ヘイノの戸惑いに気が付いたのか、女性は眼鏡を直してこちらを凝視しなおしてくれたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「年寄りだからって、誤魔化そうとしてはいけませんよ、ヨニ。私は目は悪いけれど、こんなに近くにいるのに顔がわからないほど、耄碌しちゃいないんですからね」
彼女の言葉を聞いて、ヘイノはようやく納得した。考えてみれば、その考えにすぐ思い当たるべきなのだ。なぜなら。
「すみません、それ……俺の弟です」
彼が会いに来た家族――それは、ヘイノの双子の弟にあたるのだなら。
***
ゴツゴツした石畳を踏みしめて歩き続けること、さらに三十分ほど。そうして、ようやくヘイノは目的地に辿り着いた。
道に並ぶ家々や店とは一線を画した建物は、遠くから見てもすぐにそれと分かる。特徴的な大きな三角屋根に、屋根から突き出た尖塔。てっぺん付近は鐘が吊るされており、風に吹かれて僅かに左右に揺れていた。
どの町にも必ず一つはあると言われている、聖導教の施設――即ち、教会だ。
人々は週に一度の祈りの日にここに集まり、日々の生活が無事に営めることに感謝を捧げる。教会の管理者たる司祭は、聖典に記された始祖の教えについて礼拝の参加者に語って聞かせる。
そのほかにも、学校の代わりを務めたり、町の諍いの仲裁を行ったり、葬儀や結婚について取り仕切ったりと、町における教会と司祭の役割は実に多岐にわたる。
教会の前庭には丁寧に花や草木が植えられていて、訪れる者を温かく迎え入れている。無造作ではないが、整えすぎていない自然体の作りは、庭師の腕が優れている証だ。
深呼吸をしてから、ヘイノは教会の大扉に手をかけて、ゆっくりと開く。ギ、と軋んだ音を立てて、木製の扉が開いた。
一歩中へと踏み入り、ヘイノは思わず息を呑んだ。
(すごい……)
教会は求められる用途こそ、どの町でも似たようなものだが、その装飾や建物の様式は、建築家に一任されることも多い。
つまり、今目の前に広がるアーチ型の天井も、正面の大きなステンドグラスも、ずらりと並んだ木製の座席に淡い光が落ちるように計算された側廊のステンドグラスも、全てこの建物独自のものだ。
聖都の教会はその権威を強調するためにも華やかな様式が多く、それはそれで見応えがあった。この建物は、都会の教会にある繊細な彫刻の柱もなければ、天へと昇るような高い天井もない。
しかし、ヘイノはこちらの小さな教会の方が好ましいと、本能的に感じていた。
教会として権威を示すためには、細かな細工や豪奢な装飾も必要なのかもしれない。だが、親しみやすさという点では、今自分が立っている空間の方が格段に優れている。
決して華やかではないが、素朴な温かさと、思わず背筋を伸ばしたくなるような静謐さ。澄み切った春の湖水を思わせる、独特の青い色使い。その中で、数枚のステンドグラスは淡いイエローを基調としており、夕日を優しく受け止めている。
思わず、誘われるように一歩、二歩と踏み出す。後ろで扉が閉じた音にも気が付かず、ヘイノは奥に据えられた祭壇の近くにまで歩み寄っていた。
「誰の作品だろう。この町の人が作ったんだろうか……」
呟きながら、彼は嵌め込まれたステンドグラスをじっと見つめる。そこには、一人の女性が描かれていた。
粗末な衣装を纏った女性は、両手に白い石を持ち、空へと掲げている。聖導会において始祖とされている女性――ユノーを模しているのだろう。彼女の指導者としてのカリスマ性と、深い慈悲の心は、今でも頻繁に絵画や彫刻の題材とされている。
彼女の逸話を訊かれれば、子供でもいくつかあげることができるだろう。それほどまでに、彼女の生き方と教えは、この国の人々に深く深く染み込んでいる。
思わず、時間も場所も忘れて見惚れていると、不意に祭壇の横にある勝手口の扉が音を立てて開いた。
「すみませーん。今日の礼拝の時間は終わっているんですけれど、何か急ぎの用ですか……」
ヘイノはハッとして、扉から現れた人を見つめる。姿を見せた彼も、言葉を途中で切って、じっとヘイノを見つめた。
もし、ここに彼ら以外の誰かがいたら、そこに突然鏡が立てられたのではないかと思っただろう。
何故なら、二人の顔は瓜二つだったのだから。
「……もしかして、ヘイノ?」
先に声を発したのは、祭壇の奥から出てきた方の彼だった。
ヘイノと同質の薄い色の金髪は、ヘイノのものよりも長く、緩く一つに纏められている。外套こそ纏っていないが、彼の羽織る上着は、ヘイノと同じ見習い司祭の制服だ。
ヘイノは、ほんの一瞬間を置いてから、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。
「久しぶり、ヨニ。元気そうですね」
ヘイノの懐に今もしまってある手紙――その差出人である、彼の双子の弟が、今、目の前にいる。
ヘイノに瓜二つの顔を持つ彼の顔に驚きが浮かび、続けてそれが歓喜に変わるまで、そう時間は必要なかった。
「久しぶり、ヘイノ! ほんっと、待ち侘びてたよっ!!」
こちらに向かって遠慮なく飛びついてきた弟をどうにか受け止め、ヘイノはヨニへと笑いかける。
一年ぶりの兄弟の再会を祝福するように、ステンドグラスから差し込む夕日が彼らを照らしていた。
***
「ヘイノって、この前まで聖都にいたんだよね? どうだった、やっぱりこことかと比べると大都会?」
「まあ……あそこは規格外だと思いますよ。何せ、王都に次ぐ人口の町らしいですから。ここと比べれば、圧倒的に人も多かったし店とか工場も沢山ありましたよ。礼拝の日でも店は開いていて、夜になっても光聖石の街灯が灯るから昼みたいに明るいんです」
「へー、信じられないなあ。こっちじゃ、日常用の聖石は、火聖石と水聖石使った設備が家に一つあればいい方だからさ。あ、不便だからって文句言うなよ?」
「言いませんよ。与えられた環境を受け入れ、その場にあるもので改善を目指す。聖典にも書いてあったじゃないですか」
「うわ、優等生の発言だ」
からからと笑う弟――ヨニに苦笑いをこぼしながら、ヘイノは彼の少し後ろについて歩いていた。
これから、ヘイノはこの町の教会で、見習いとして各種の仕事に従事することになっている。
だが、教会は家ではない。これから住まいとなる家はもう少し離れた所にあるらしく、今はそこまでヨニに案内されているところだった。
「教会には、純度の高い聖石が装飾で使われてるよ。確か、天井の辺りだったかな」
「それがないと、精霊避けになりませんからね」
二人が話題にしている『聖石』とは、この大陸のあちこちから発掘されている特別な力を持つ石のことだ。
かつて、始祖ユノーが見つけ出したような純度の高い聖石は、光もないのに白く輝くという特徴の他に、理由は不明だが精霊が石を忌避するため、精霊除けとして町には必ず一つ安置されている。ヘイノが馬車の中で見せた石も、かなり小ぶりではあるが、同じものだ。
だが、純度が低かったり、研究者曰く『特定の属性に偏っている』ため、聖石に似ているが精霊除けとして機能しない石もある。
代わりに、それらの石は独特の事象を発現させる。火で炙らずとも熱を生み出す火聖石、特定の刺激を与えることで水を生み出し濾過も行う水聖石、暖色の光を点す光聖石などが最たるものだ。
更に、技術者によって加工を受ければ、より複雑な運用もできるようにもなる。尤も、家庭に普及しているのは、精々煮炊きや入浴に使える程度の加工しかされていない。薪の燃料も、現役として引き続き利用されている家も少なくない。
久しぶりの兄弟の語らいを楽しんでいるうちに、二人はある家の前に到着した。こじんまりとした二階建ての家は、落ち着いた臙脂色に塗られた屋根が特徴的な木造建築だった。
「昔、まだこの辺りが農地だった頃に建てられた家なんだってさ。だから、あっちの旧市街の家と違って、石じゃなくて木でできてるんだそうだよ」
ヘイノの疑問を汲み取ったのか、ヨニが解説をしてくれた。どうやら、オレンジ色の屋根で作られた家々のある区域は、旧市街と呼ばれているらしい。
緑あふれる前庭から続く小道の先には、張り出しの玄関口がある。勝手知ったる我が家といった様子で、ヨニは無造作に玄関の扉に手をかけ、勢いよく廊下に続く戸を開いた。
「ただいまー。ね、聞いてよ。さっき、教会の片付けしてたら、そこでヘイノに会ったんだ! 家の中の案内したいんだけど、いいよね?」
「ちょっとヨニ、いきなりそれはどうなんですか」
ヨニが呼びかけた相手は、ヘイノにも大体想像がついた。おそらく、この教会の司祭である人だ。見習いである自分たちが、本来師として仰がねばならない人物である。
自分達より目上の相手であり、そんなぞんざいな呼びかけ方は無礼だと、ヘイノはヨニの上着を引っ張った。
「あら、ようやく来たのね。いらっしゃい。待っていたわ」
だが、無礼を咎めていたヘイノも、廊下から顔を出した人物を見て、思わずポカンとしてしまった。
ヨニと一緒に司祭の業務を手伝う、と聞いた時、ヘイノの脳裏には、神学校にいた司祭のような年配の男性が描かれていた。だが、目の前にいるのは、どう見ても妙齢の女性である。
腰ほどまである長い髪は、夜の空のように深い紺色。釣り上がった瞳は、春の川を思わせる澄んだ翡翠色をしていた。丈の長い黒い司祭服と、白い石がはまった耳飾りをつけているので、彼女がこの村の司祭であることは疑う必要もないだろう。
「初めまして。アナスタシア・エリツィナよ。あなたの話は、ヨニからいつも聞かされていたわ。どうぞよろしくね」
優美な微笑を浮かべてから、女性は手を差し出した。ようやく我にかえり、ヘイノは慌てて彼女の手を取る。
「ヘイノです、これからお世話になります」
口早に、自己紹介を口にするも、ぎこちなさは抜けきらない。
「あれ、もしかして照れてる?」
肘で小突いてきたヨニをひと睨みしてから、ヘイノは小さく咳払いをして、一礼した。
「すみません、アナスタシアさん。聖都ではあまり若い女性司祭を見なかったもので、つい」
「気にしなくても大丈夫よ。実際、自分でも目立っていることは自覚しているもの。それより、私のことは気軽にアナって呼んでほしいわ。町の人には、そう呼ばれているから」
どこか余裕のある笑みを見せるアナスタシア改めアナに、ヘイノはぎこちない頷きを返した。彼女に見つめられると、どうにも緊張してしまう。女性だから、という理由だけではない気がした。
「こんなところで立ち話も何だから、まずはヨニに部屋を教えてもらうといいわ。……ところで、ヨニ。あなた、昨日のうちに部屋の準備をするようにと言ったけれど、ちゃんとやったのかしら」
「あっ、やべ」
アナの指摘を受けて、不吉な言葉がヨニから聞こえてきた。どうやら、ヘイノの部屋はまだ準備すらできていない状況らしい。
「布団を出してきて、掃除もしておくように、と言ったと思うのだけれど?」
アナの指摘に、ヨニは「すぐやる!」と言って、足音を立てて玄関近くにある階段を上がっていった。残されたヘイノは、呆然と彼の後ろ姿を見送るしかなかった。
「兄のあなたにわざわざ言うまでもないかもしれないけれど、あの子って万事あの調子なのよ。面白い子ね」
アナがくすくすと笑いながらそんなことを言うので、ヘイノは本人でもないのに、穴があったら入りたい気分になってしまった。
「長旅で疲れたでしょう。客間の準備をしておいたから、寛ぐといいわ。そこで、これからの話をしましょう」
「えっ、そんな、わざわざ客間を使わなくてもいいですよ。これから、この家の住人になるのに、客人扱いを受けるわけにはいきません」
「そう? それなら、居間で話させてもらうわね。言われてみれば、生活設備の話もするなら、こっちの方が効率が良かったわね」
アナは話しつつ、廊下の右手側にある扉を開く。階段の裏手にあるその扉をくぐると、中には居間とキッチンを兼ねた空間が広がっていた。部屋の隅に据えられたキッチンストーブは、春先の冷えた空気を追いやるように、ごうごうと熱を放っている。
「とりあえず、そのあたりに座ってちょうだい。お茶、用意するわね」
「いえ、俺がやります。そんな、司祭様にそのようなことをさせるわけには」
トランクを部屋の隅に置いて、小さなケトルを出してきたアナの元へとヘイノは駆け寄る。
「いいから、今回は私にやらせて。何も知らないあなたがやるよりも、その方がずっと効率がいいわ」
ここまで言われて、無理に食い下がるわけにもいかない。ヘイノは大人しく椅子に座り、アナの一挙一動を見守っていた。次から、茶を淹れるのは自分の役目になるのだから。
紅茶と簡単な茶請け代わりとして焼き菓子と野苺の砂糖漬けを机に並べてから、アナはヘイノの向かいの椅子に腰を下ろした。
「改めて、ティモスの町へようこそ。ヘイノ」
「はい。こちらこそ、改めてよろしくお願いします」
深々と頭を下げるヘイノに、アナはまたくすりと笑ってみせる。
「……何か、おかしなことをしてしまいましたか」
「いえ。ヨニとは大違いだなと思っただけ。あの子は、随分と奔放な性格をしているから。精霊に襲われて、故郷を一夜にして失った子だなんて思えないくらいに」
さらりと述べられた言葉に、ヘイノは紅茶の入ったカップに伸ばしかけていた手を止める。
考えてみれば、彼女は一年間、自分の弟と行動を共にしていたのだ。それならば、大体の経緯は知っているだろう。
そんなヘイノの予測を裏付けるかのように、アナは「認識を合わせておきましょうか」と続ける。
「一年前、この町の司祭様が長い任を終えて、町を去ることになったの。要するに隠居ね。代わりに、私がこちらに派遣されてきた。通例として、町の司祭は見習いを何名かそばに置くか、適当な召使いを雇うことになっている。そのことは、あなたも知ってるわね」
「はい。それで、アナさんはヨニと俺を選んでくれたんですよね」
「ええ。ちょうど、とある村にいた見習いが手隙になったと聞いてね。まさか、それが村ごと教会が消えてしまったから、とは思わなかったけれど」
返す言葉もなく、ヘイノは無言で続きを促した。
「元々、神学校の見習い過程は卒業した所だったと聞いていたから、これも何かの縁かと思って引き受けることにしたのだけれど…………あなたの方には問題があった」
アナの『問題』という言葉に潜む不穏な気配に、ヘイノは視線を泳がせる。それが何かを知っていても、他人に口に出して指摘されるのはいい気分はしない。
「聖都から、一通りの経歴を送ってもらったわ。あなたは、かつて、神学校にて優秀な成績を収めた見習い司祭だった。だけど、精霊に襲われた際の負傷が原因か、目覚めたあと、学んだ知識のほとんどが欠落していたことが判明した。だから、私は一度神学校に戻して、再び同じ内容を学ぶことで、あなたの記憶が刺激されて、失った経験が蘇るのではないかと進言した」
「……はい。寛大なご配慮、ありがとうございます」
そのために、ヘイノは今一度、数年前に習ったことを再度学び直した。一年という期間は、猶予期間でもあった。もし、思い出せないようなら、新たに進路を考え直す必要も視野に入れなさい、と学校では何度も言われてきた。
「結果として、あなたの成績は事件前の頃の水準まで戻った。これなら問題ないと判断して、私はあなたをここに呼び直した。……もし、見解に相違があるなら、今聞くわ」
「いえ、ありません」
話をしながら、ヘイノは自分がなぜアナの前で妙に緊張してしまうのか、分かった気がした。
たった数十分も話していないのに、彼女の物言いや視線にこちらに対する気遣いや遠慮がないからだ。良くも悪くも、彼女はありのままの姿を見定めようと、こちらを見つめている。その視線に、無意識に緊張を強いられていたのだろう。
「そう。よかったわ。もし、何か間違いがあったら、私はあなたをまた聖都まで送り出さないといけなくなるから」
「それは、やめてもらえますか。ヨニが悲しみますから」
今まで短く当たり障りのない返答だけをしていたヘイノが、今この瞬間だけはきっぱりと返事をする。その様子を見て、アナは少しばかり目を見開いて見せた。
「弟思いなのね。性格は似ていないけれど、そこはあなたたち、そっくりよ」
ヘイノは返事代わりに、カップの中身に口をつけた。僅かな渋みのある紅茶の味が、今は妙に苦く感じられた。
「さて、めでたくあなたを迎えられることが決まったところで。明日からの話をしましょうか。到着してすぐは、勝手がわからないところもあると思うから、細かいところはヨニに聞くといいわ」
前置きを挟んでから、アナはまず仕事の内容を説明し始めた。
祈りの日以外は、朝夕の教会の掃除と、昼から開いている幼年の子供向けの学校の補佐が主な務めとなる。また、町の人から頼み事をされたら、引き受けるのも大きな役割の一つとしてあげられた。
「頼み事、とはどんなものでしょうか」
「本当に色々よ。単に愚痴を聞くだけのこともあるし、落とし物を探したり、迷い猫を見つけてきたり。垣根の修復とか、外の街への買い出しの取りまとめや、郵便を代わりに郵便局まで取りに行ってほしい、なんてものもあったわね。勿論、人の道から外れるような依頼は、断っていいわ」
「何だか、召使いみたいなことをするんですね」
そのような雑事は、普通なら自分の子供や雇っている召使いにさせることである。聖都でも、教師の殆どは、自分が雇っている女中や召使いに細々とした身の回りの世話を任せていた。
「町の司祭の見習いは、皆そんなものよ。町で暮らす人々の手足となって、彼らに積極的に関わり、町の一部になる。それが、今のあなたたちに求められること。そうすれば、自ずと人の心に寄り添うことができるでしょう?」
「……ええ。それは、仰る通りだと思います」
雑事をするのが嫌というより、そのような触れあい方を他人からされた経験が無いため、ヘイノとしては戸惑いは残る。これも、いずれ人々に関わっていけば薄れていくのだろうか。
「祈りの日は、礼拝に来た方々の案内をお願いするわ。私が不在の時は、説法も頼むかもしれないわ」
「え、いいんですか? 学校では、見習いが講壇に立って話すことは無かったんですが」
「いいも何も、人がいないならやるしかないでしょう。別に、何も話せないわけではないのでしょう? 私も、見習いの頃から、説法はいくつかしていたわ。それに、見習いの頃はやらないのに、正式な司祭になったからと言って、すぐできるようになれると思う?」
アナのさっぱりとした物言いに、ヘイノは再びポカンとしてしまった。
彼女は、しきたりや規則については、厳守するよりも適宜改変することをよしとしているらしい。学校にいた保守的な司祭たちが聞いたら、どんな顔をするだろうか。
「あと、家のことだけれど、部屋はヨニが用意してくれているから、詳しくは彼に訊いてちょうだい。見習い司祭用の服は、ヨニと同じ着丈のものをいくつか取り寄せておいたから、それを使ってくれていいわ」
他にも、アナは家の間取りや設備の話を、立板に水の如く話した。おそらく、彼女はこの時間に全てを伝え切るつもりなのだろう。意図を察したヘイノは、必死に彼女から与えられた『家のルール』を頭に叩き込んだ。
部屋の間取りは、今いるキッチン兼居間の他に、客間と、客人向けの食事用の部屋。キッチンの奥には食糧庫と浴室がある。また、一階にヨニの部屋もある。
二階には、アナの寝室とヘイノの寝室、客人向けの寝室があり、屋根裏は倉庫として使われているらしい。他に、書斎が一つあり、アナはそこを仕事部屋と兼ねて使っている。書斎を使用していない時なら好きに本を持っていっていいとのことだった。
「そこのストーブは、火聖石を使って熱を出しているわ。それと、浴室のもそうね。水聖石と火聖石を組み合わせた紋章つきのものよ。だから、お風呂は毎日入って構わないわ。残り湯は洗濯にでも使ってちょうだい」
紋章つきとは、特定の法則を持って起動するように、紋章が刻まれて調整された属性つきの聖石のことである。
単純に熱や水を生み出すのではなく、風呂のように『一定の熱さの湯を用意する』といった複雑な動きをさせるためには、属性持ちの聖石に特定の規則性を持った図形――紋章を刻む必要がある。そのため、一般的に紋章を刻んだ聖石のことを、『紋章つき』や『紋章石』と呼ぶ。
汎用性は下がるし、当然取引時の値段も跳ね上がるが、その分だけ専門的な動きをさせることができる。故に、近年では飛躍的な技術革命の一助となっていた。
都心部では、全てこの紋章石で動くようにした設備で固められた屋敷もあるらしい。近頃発展の著しい交通技術にも、一役買っているとの噂だ。
「ああ、そうそう。聖都の知らせで、純度の高い聖石をあなたに持たせたと聞いたのだけれど。今持っているかしら」
話を一通り終えたアナは、身を乗り出してヘイノに尋ねる。ヘイノもすぐに上着にしまっていた袋を取りだして、中から一つの石を取り出した。馬車の中で、乗客たちを宥めるために見せた石だ。
光源があるわけでもないのに、石そのものは淡く白い光を放ち、机の上で存在を主張していた。大きさは片手に握り込めるほどの小ささだが、この大きさでも小規模な精霊なら嫌がって近寄らない。
「先生から、こちらを預かってきました。ですが、これを何に使うのでしょうか」
町に設置されている聖石が壊れたのだとしても、この大きさではあまり役に立たないのでは。ヘイノがそう思って尋ねると、
「ちょっと研究に使いたいのよ」
アナは意味ありげな微笑を浮かべる。友好ではなく、威圧を感じさせるその笑顔は、これ以上の質問を封じる凄みが混ざっていた。
「聖石って、簡単に市場に出回るものでもないから、あなたが持ってきてくれて助かったわ」
「それなら……まあ、よかったです」
ヘイノは無難な返答をして、彼女の手に握られた白い石を視線で追う。
聖石そのものは、聖導教においても神聖なものとされる。ゆえに、その色である白も、尊いものとして扱われ、聖導教の司祭は白い石のはまった装飾品を身につけることを義務付けられている。
とはいえ、純度の高い白の聖石は貴重であるため、彼らが身につけているのはあくまで一般的な白い蛋白石(オパール)だ。ヘイノの首から下げられたネックレスも、アナの耳から揺れるイヤリングも、本質的に求められている役割は一緒である。
閑話休題。ようやく話に一区切りついた頃、
「おーい、部屋の準備できたよー」
二階から、ヨニの元気な声が響き、ヘイノは思わず立ち上がる。
「すみません、行ってきてもいいでしょうか」
「ええ。ヨニが待ち侘びているでしょうから」
緩やかに手を振って見送るアナに軽く会釈を返してから、ヘイノはトランクを掴んで二階への階段を駆け上がった。
***
ヘイノがヨニと再会してからの時間は、まさしく矢のように過ぎ去っていった。
ようやく整えられた自室に着いたと思ったら、今度はトランクの中身のものを然るべき場所に仕舞う作業が始まった。それが終わったら各部屋の案内をされ、案内が終われば夕食の手伝いがヘイノを待ち構えていた。
勿論、こちらも単なる手伝いで済むことはなく、キッチンの設備の使い方、食糧庫の中身の説明などを頭に入れながらの作業となった。
料理自体は寮で暮らしていた学生時代の経験が活きたが、慣れない作業は精神をすり減らしていく。正直、神学校の課題よりもずっと重労働だった。
「つ、かれた……」
入浴を済ませて部屋に戻る頃は、ヘイノは本日二度目の大きなため息をつくことになった。寝巻きに着替え、寝台に身を投げ出し、ヘイノは己の部屋として割り当てられた一室をじっと見つめる。
蝋燭の灯りに照らされて浮かび上がる、部屋の輪郭。広くもなく狭くもない部屋には、箪笥が一つ。中には、私服も司祭として纏う黒い装束も纏めて仕舞われている。
壁に沿って置かれた鏡台には、洗顔用のボウルと水差しが一つ。文机は今まで他の見習いも使っていたのか、年季を感じさせる艶を纏っていた。
出窓には、今は外したネックレスが置かれている。外は今はもう真っ暗だが、所々に家々の灯りが見えた。その数だけ、人の営みがあるのだろう。
来たばかりなこともあって、他人の部屋に泊まっているような違和感の方が今は強い。一年もしたら、自分の部屋と認識できるようになるのだろうか。
「明日からも、やることが沢山あるんだよなあ……」
それを考えれば、疲労を回復するためにも、さっさと眠ってしまったほうがいいとは分かっている。しかし、昂った心の方が、ちっとも寝付いてくれない。新しい生活を前にして、無意識に興奮しているのだろう。
せめて、目だけは閉じていようと目を瞑っていると、
「ヘイノ、今いい?」
こんこんとノックの後に、ヨニの声が聞こえた。ヘイノと同質の声なのに、性格の違いもあって、彼の声はヘイノのものより柔らかく聞こえる。
「どうぞ。何か伝えそびれたことでもあったんですか?」
「いや、単に話をしたかっただけ」
ヨニは手に燭台を持って、部屋に入ってきた。彼も寝巻き姿だったので、おそらくすぐに寝るつもりではあったのだろう。襟の高い寝巻きは首元をしっかりと隠していて、肌寒い夜には丁度よさそうだった。
燭台を文机に置き、ヨニは寝台に腰を下ろす。丁度、ヘイノの隣の位置だ。
「え、と……何ですか? 何か顔についていますか」
こちらを見てにこにこと笑うヨニに、ヘイノはぎこちない笑顔を浮かべた。
「なんていうか、やっとまた会えたなって思ったんだ。ほんと、それだけなんだけどさ」
「久しぶり、ですからね。尤も、こちらは朝から晩まで勉強漬けで、一年もあっという間でしたが」
「俺も、やることを覚えるので精一杯だったよ。アナさんは、前に父さんたちの手伝いしていた時みたいに、俺が息子だから許してくれるなんてことはないからさ」
それはそうだろう、とヘイノは声に出さずに思う。アナは身内だろうがそうでなかろうがお構いなしの性格であることは、出会ったときのやりとりから十分に理解していた。
「そういえば、夕飯の時に話してたけどさ。来るとき、嵐に巻き込まれたんだよね。しかも、馬車の中で説法したなんてさ。よくやるなぁ、そんなこと!」
「仕方ないじゃないですか。そうでもしないと、皆さんが恐慌状態に陥っていたかもしれませんから。狭い空間で、しかも高速で動いている状態で、ヒステリーを起こされる方が被害が大きくなります」
「そうかもしれないけれど、咄嗟にそういうことってできないと思うんだよねー。さすが優等生」
「ヨニ、もしかして嫌味で言ってますか?」
「ううん、本当に心の底からすごいなーって思ってる」
ヘイノは、じーっと自分に瓜二つの顔を見つめる。
ヘイノより長い金髪に、ヘイノとは逆の位置にはまった青と琥珀のオッドアイ。ゆるく弧を描く眉に、見るものに笑顔を誘うような弧を描く口元。表情を引き締めればヘイノと瓜二つなのは間違いないが、ヨニはヘイノとは対照的に人なつこい笑顔を浮かべていた。
「誰かが困ってたり、怖がってたりしたら、なんとかしたいって思うけどさ。俺は、ただ一緒になって怖がったり慌てたりするだけで、ヘイノみたいに落ち着いて解決するとかできないから」
「それも、必要なことだと思いますよ。手を差し伸べることと心を差し伸べることは同じこと、と始祖の言葉にもありました」
「ああ、確かにそんな言葉もあったっけ。それで……ヘイノとしては、どう思ってる?」
不意に、今まで気楽な調子で語っていたヨニの声がぴしりと引き締まる。
どんな返事をしても、きっと笑って受け入れてくれるだろうと予想できていたが、それでも正面から向き合う必要があると感じさせる声音だった。
「……俺は、誰かの気持ちに完全に寄り添うことができるほど、器用ではありませんから。純粋に、尊敬しますよ」
「ふふん、何だかヘイノに褒められると、くすぐったいな」
くすくすと笑うヨニに、ヘイノは肩の力を抜く。先程の緊迫した空気は、ただの気のせいだったのだろうか。
その後は、明日の仕事について語り合っていたが、十分もしないうちにヨニが小さくあくびを噛み殺した。ヘイノも、疲労が重なり、すでに瞼を開けていることすら辛い。
「それじゃ、そろそろ俺は寝るよ。ヘイノも夜ふかししないように」
「それはこちらの台詞ですよ。興奮しすぎて、明日寝不足の顔を見せないでくださいね」
「はーい、気をつけるってば」
寝台を降り、自分が持ってきた燭台に手をかけ、ヨニは部屋を後にする――と思った矢先、彼は扉の前でぴたりと足を止めた。
「……ヨニ?」
「あの、さ。会った時から言おうと思ってたんだけど」
ヘイノの方を見ずに、ヨニは口を開く。彼の声は、普段通りを装おうとしているが、不自然に陽気に聞こえた。
いったい、何を言い出すのかと、続く言葉を待っていると、
「ヘイノ、俺と話す時、敬語使うのはやめてくれない?」
「――――」
しん、と沈黙が下りる。全ての音が死に絶えたかのように、張り詰めた緊張が二人の間に生まれる。
だが、沈黙は長く続かない。ヘイノが答えようとしたほんの数秒の間隙を縫うように、ヨニは言葉を畳み掛けた。
「学校じゃ、そうしないといけなかったから、癖になってるんだろうけど。ちょっと気になってたからさ。兄弟に敬語使われると、何かぞわぞわするっていうか」
「――ああ、ごめん。つい、癖で」
「だよね。俺も昔はそうしてた時期あったけど、もう今は無理だなー」
くるりと振り返り、ヨニはヘイノに笑いかける。蝋燭の灯りで浮かび上がった彼は、先ほどまでと違わぬ笑顔を浮かべていた。
「じゃ、おやすみ。良い夢を」
軽く手を振ってから、ヨニは部屋を後にする。
彼が階段を降りる音が家に響き、階下の彼の自室の扉が閉まる音を確かめてから、
「――――――っ!」
ヘイノは、今まで息を止めていたかのように、長く長く息を吐き出した。吐き出してもなお、胸の内に張り詰めた緊張が呼吸を乱していく。
先ほどまでの温かな夜の気配は、そこにはない。あるのは、恐ろしく冷えた闇の気配だけだ。部屋の隅に凝るそれらは、ヨニが来る前はただの光がもたらす陰影の一つに過ぎなかったのに、今はまるでこちらを虎視眈々と狙う化け物にすら見える。
否、そう見えるのは、自分の心境の変化のせいだとヘイノにはわかっていた。
どうにか息を整え、ヘイノは寝台から降り、鏡台を見つめる。そこに映り込んでいるのは、青い顔をした自分の顔だ――自分の顔のはずだ。ヨニと同じでも、紛れもなくここに映るのは自分の顔のはずなのだ。
「……気づかれて、ないよな」
小声で、鏡の向こうに映る自分に問いかける。返事は、当然ながら、ない。
「大丈夫……大丈夫だ。大丈夫だから、ここに戻ってきたんだ」
独り言を重ね、ヘイノは鏡に手を伸ばす。冷えた鏡面に手をつけ、自問自答を繰り返す。
――自分の名前は?
ヘイノ。ヨニの双子の兄。
――どうして、ここにいる?
一年前の事件で失った知識を取り戻して、ヨニと同じ場所で見習いの仕事をするため。
――今、なすべきことは?
「ヨニの、家族でいること」
決意を固めるように、ヘイノは呟く。そして、心の中で言葉を続ける。
――俺に、『彼』の記憶はないけれど。
一年前、精霊がもたらした災厄。それにより、一つの村が地図から消えた。父を亡くし、母を亡くし、隣人を亡くした――らしい。
その実感は、ヘイノにはない。何故なら、事件の記憶ごと、目を覚ましたヘイノから、これまで積み重ねてきた十五年の記憶が抜け落ちていたのだから。
最初は、困惑のあまり、己の記憶の欠落について素直に医師に話してしまった。
だが、事情を知ったヘイノは、己の病状を撤回し、あくまで一時的な記憶の混乱だったと言い張った。
わざわざ嘘を述べた理由。それは、自分が記憶喪失になってしまったら、あの自分と同じ顔をした彼が、本当に孤独になってしまうと分かってしまったからだ。
目を覚ました時、よるべのないまま彷徨っていた小舟がようやく陸地を見つけたかのように、これ以上ないほど安心した顔を見せていた、自分の弟。
目覚めた直後で、記憶の混乱もあって、同じ顔をした人間がそばにいる事実に恐怖して拒絶してしまったとき。彼の顔に浮かんだ絶望は、あまりに悲しかった。見ず知らずのはずなのに、見捨てることなどできない、と思うほどに。
失ってしまった知識を急いで身につけて、こうして戻ってきたのも、唯一の家族はここにいると示して、彼を安心させたかったから。
それが、唯一の罪滅ぼしなのだ。
彼の兄を、『自分』は奪ってしまったのだから。
鏡に映る自分を見る。動揺が過ぎれば、普段通りの自分が鏡の向こうで取り澄ました顔で見つめ返していた。
「……そろそろ寝ないと」
燭台の蝋燭を消して、ヘイノは布団の中に潜り込む。
目が覚めたら、全て何もかも思い出しているかもしれない。そう思ったことは何度もある。だが、何度目覚めても、ヘイノの中に一年前にベッドから目覚めたときより前の記憶は返ってこなかった。
そして、今日もまた。
自分を見守る全ての人に嘘をついて、双子星の片割れは眠りにつく。