二章

 ほのかに暖かい日差しと、依然として冬の名残を残す風を同時に浴びながら、ヘイノは教会に向かっていた。授業があろうがなかろうが教会は常に開けているものであるからと、昨日の掃除の続きをしなければならないからだ。
(静かだな……)
 教会に向かう道中は、いつも傍らに同じ顔をした双子の弟がいた。ヨニは口から先に生まれてきたのではないかと思うほど、よく喋ってくれていたので、冬の寒々しい沈黙の気配に道中を支配されずに済んでいたのだ。
 鳥の囀りや木々のざわめきのおかげで、無言の沈黙もいくらかは耐えられるが、これがもし冬場だったらと思うと、その沈黙に自分が耐えられたのかと首を傾げたくなる。
「そもそも、俺はそんなにお喋り好きなわけではなかったと思うんだけどな」
 思わず、独り言が溢れる。
 聖都にいた頃は、誰とも積極的に関わろうとせずに、ひたすら欠落していた知識を埋めることに集中していた。誰かと仲良くしないと寂しい、という気持ちを考える余裕もなかった。
 それは裏を返せば一人でも平気、と言えるのだろうが、
「ヨニと一緒にいて、少し変わったんだろうか……」
 それが『ヘイノ』らしい変わり方なのか、までは分からない。問うわけにもいかず、成り行きに任せて今はここにいる。
 ポツポツと取り留めもないことを考えているうちに、ヘイノは教会にたどり着いていた。扉の鍵を開けて、こもっていた空気を解放する。昨日は慌てて片付けをしたので、並べてある椅子には乱れがいくつか見られた。
 まずは室内の掃除の続きを、と思った矢先、
「ヘイノせんせー」
 聞き覚えのある声が背後から聞こえて、ヘイノはその場で振り返った。
「ケネスにアメリアたち……今日もお手伝いに来てくれたんですか?」
 昨日はあの騒動の後、彼らの面倒はコレットにほぼ一任してしまっていた。幸い、しっかり者の彼女のおかげで、子供たちはそれぞれ家に帰ってくれたようだったが、昨日に引き続きの登場にはヘイノも少し驚かされていた。
「お手伝いもだけど、僕、ヨニせんせーが気になって」
「先生は、今日はお休みなのかしら」
 小さな子供たちの後ろには、すっかり彼らのお姉さんのような位置に収まっているコレットがいた。どうやら、今日も途中で合流して連れ立って来たようだ。
「ヨニは今日は大事をとってお休みです。明日には元気になると思いますよ」
 ひとまず、皆を安心させようとヘイノは膝を折り、彼らに視線を合わせて話しかける。実際、朝にはほとんど熱も引いていたのだが、また無茶をして体調を崩しては元も子もないと厳命したのはヘイノだった。
 実際、出かける前は少しだるそうにしていたので、完全に持ち直したわけではないのだろう。
「あのね、せんせーにおみ、お見舞いに行きたいって思って」
「それで、皆で色々宝物を持ってきたの。わたし、お見舞いのカードも作ったのよ」
 子供たちらしい無邪気ながらも真摯な態度に、思わずヘイノの口元が緩む。お見舞いの品、と言ってアメリアが差し出したハンカチの包みには雑貨屋で買えるキャラメルがいくつか転がっていた。ケネスから渡されたのは、丁寧に削られてやすりがけされた木製のお守りだ。たしか、彼の家は木の加工を生業にしているので、自分で作ったのだろう。鳥を模したお守りは、作りも荒かったが、彼なりに試行錯誤した作品だというのがすぐにわかった。
「きっとヨニも喜びますよ。……ただ、皆さんが揃って行くと、余計に疲れてしまうかもしれません」
 どうやら、ヨニは人がいると見栄を張るタイプらしい。短い期間しかまだ共にいないが、それでも、ヘイノが人前でわかりやすく落ち込んだり苛立ったりしている姿をヘイノは見たことがなかった。
「なので、誰か一人を代表で、というのはどうでしょうか」
「わかったわ、ヘイノ先生。それと、わたし、ちゃんと昨日のお手伝いの続きもしにきたのよ」
 アメリアは後ろに控えている妹たちに、「ね?」と促してみせる。彼女の妹たちも、こぞって頷いてくれた。
「僕だってそうだよ! 本当は、僕もベーネスと一緒にお家のお手伝いしなきゃなんだけど、ヨニせんせーのこと聞いたら、パパたちがヘイノせんせーの手伝いに行きなさいって!」
「助かります。コレットも、お願いしていいでしょうか」
 後ろで控えていた少女に呼びかけると、彼女は弾かれたようにぴょこんと肩を跳ねさせた。
「は、はい、勿論です!」
「では、昨日に続いて外の掃除を……そうですね、アメリアとケネスとコレットでお願いします。コレット、二人のことを頼みます」
 外の掃除なら、大きな問題が起きることはあるまい。それなら少し年上の彼女がリーダーになっても問題ないだろう。
 それなら、むしろ、年下のアメリアの妹たちの面倒を自分のそばで見た方がいい、とヘイノは考えていた。
「シャーロットとベスは、俺と一緒にいきましょうか。ヨニが驚くくらい、綺麗にしてしまいましょう」
 ヘイノの呼びかけは子供たちのやる気を大いに盛り立てたらしい。わあっとあがった歓声は、自分たちの成果を見て驚くヨニの姿を想像したものに違いなかった。
 
 ***
 
 知らない家に訪問する時、いつも背筋が何だかビリビリするし、つま先にきゅっと力が入る。そういうものだと分かっていても、コレットはこのキュッとした感覚が苦手だった。
 子守の女中として働いていた頃から、何度か知らない家を訪ねることはあったが、そのたびに足が棒になってしまったかのごとくガチガチになってしまう。
 たとえ、それが尊敬する先生たちの家だと知っていても、何度か近くを訪れたことがあったとしても、だ。
「コレット、そんなに固くならなくても大丈夫ですよ」
「は、はい」
 少し先を行く、心の中では師とあおぐ彼ことヘイノに嗜められて、コレットは上ずった声で返事をする。
 子供たちと教会の掃除の手伝いを終えた後、幼くも慈悲深い彼らによる土産の品はコレットに一任された。子供たちの代表として選ばれるのはありがたいことではあったが、それはそれとして、緊張を拭い去ることはできない。
 相手が、普段から親しくさせてもらっている先生と分かっていても、その部屋に赴いてお見舞いの言葉をかけるのは、なんだか仰々しく、立派に果たさなければひどく恥ずかしい
 思いをするのでは、と感じることだった。
 
 彼らの家にたどり着くまでの道のりは何だか永遠のように思えたのに、気がついたら既に扉の前に辿り着いていた。一礼をしてから、コレットはヘイノに促されるままに真っ直ぐ続く廊下の奥へと向かう。
「ヨニの部屋はここです。先に俺の方から話を通しておきますね」
「お願い、します」
 ヘイノが部屋の中へと消えてから、コレットは何度かの深呼吸を繰り返す。授業で会う時は何でことのない会話を容易くこなせるのに、なぜ今日に限ってこんなにも緊張してしまうのだろうか。
 程なくして、ヘイノが再び顔を見せた。
「コレット、どうぞ。お見舞いに来たと聞いたら、とても嬉しそうにしていましたよ。ただ、はしゃぎすぎないように気を付けておいてください」
「あの、ヘイノ先生は……?」
「俺は、家のことをしてきます。お見舞いが終わったら、あちらにいると思うので声をかけてください」
 ヘイノが指さしたのは、キッチンと食卓を兼ねた居間のような部屋だった。
 コレットが良いとも悪いとも言わないうちに、ヘイノは一礼をしてからそちらに行ってしまった。あの様子から察するに、この時間帯はいつもこうして忙しくしているのだろう。
 邪魔をしてはならない、と一呼吸置いてから、コレットは閉ざされた扉をノックする。
「どうぞー」
 緊張を解きほぐす優しい声は、いつも耳にしているヨニの声だ。がちがちに固まっていた体が、ゆっくりとお湯をかけて溶かされていくような心地になる。
 コレットは更に一呼吸挟んでから、ゆっくり扉を開いた。
「おはよう……じゃないね。もう、こんばんは、かな。コレット、お見舞いに来てくれたんだって?」
 上体を起こしているが、ベッドの中にいる彼の服は見慣れた司祭服でも、先日家に来た時の私服でもなく寝巻き姿であり、その姿がより一層『いつもと違う』ことを強調させた。
「は、はい。あの、他の子たちも、ヨニ先生のことを心配していて……これ、お見舞いの品です」
 コレットは、エプロンのポケットの中に詰め込んでいたハンカチの包みをヨニに手渡す。中には、アメリアのお手製カードやちょっとしたお菓子やお守りなどが入っていたはずだ。コレットも、昨晩大急ぎで焼いたクッキーを数枚用意したものだ。
「ありがとう。何だか悪いな。ちょっと倒れただけなのに」
「で、でも、大丈夫かなって思いました。その、びっくりして、私も、多分みんなも」
「ああ、ごめんね? いきなり倒れて驚かせちゃったよね」
 他ならぬ、昨日ヨニが倒れた時側にいたのはコレットだった。実際はちょっとめまいを起こしてふらついただけだ、とヨニは思っていたが、幼い子供にとっては年上の保護者が倒れ込む姿は相応に衝撃的だっただろう。
「驚きはしましたけれど、それよりもすごく……心配、しました」
 同じような言葉の繰り返しになってしまうが、これがコレットが唯一すぐに彼にかけられる言葉だった。
 驚きなどよりも前に、心配した、ただそれだけだ。
「ありがと。コレットは優しいね。でも、もう安心してくれて良いから。昼ごろから元気になってたんだけど、動き回ってたらあいつが五月蝿いかなって、じっとしていただけなんだから」
 ヨニはひらひらと手を振って、コレットに笑いかける。その仕草から、本当にもう快復しているのだろうとわかった。
「それなら、本当に良かったです。もうじきお祭りなのに、ベッドの中は悲しいですから」
「そうそう。思い切り遊ばないと、ね? コレットも楽しみにしてるみたいだったから、水を差したら悪いなって思ってたんだ」
「いえ、そんなことは……。でも、先生が元気になったなら、もっともっと楽しくなると思うんです。ヘイノ先生も、私も」
 きっと町の人だって、とコレットは心の中で続ける。まだこの町の中を積極的に歩き回るようになって日は浅いが、コレットはヨニが町の人々において『司祭』としてというより、『親しみやすい近所の若者』として親密な関係を築き上げていることは察していた。
「二人が楽しくなるなら、俺がいる甲斐もあったもんだなあ」
 おどけたように笑ってみせたヨニは、ふ、と顔に浮かべていた笑みを中途半端な形で凍り付かせた。
「あのさ、コレット」
 そして、彼は、ひょいと荷物を渡すような軽い物言いで言う。
「ごめんね。気づいていたのに、助けてあげられなくって」
 それはあまりに唐突で、最初、コレットは何のことを言われたのかすらわからなかった。
「ヘイノが動いてくれなかったら、君はまだ、寒い場所にいたかもしれない。先に君の先生になったのは俺なのに。ヘイノみたいに助けられなくて、ごめん」
 そこまで言われて、彼が言いたいことを理解したコレットは、すぐさまぶんぶんと首を横に振った。
「そんなの、別に、ヨニ先生のせいじゃないです。ヨニ先生は、私のことを何も聞かずにあの教室に受け入れてくれました。それに、きっと、私はヨニ先生に手を差し伸べてもらっても、きっと、振り払ってしまってました」
 自分が犯した失態があれほどくっきりと顕にならない限り、コレットは耐えることを選んでしまっていただろう。それは自分を支配していた男の暴力が怖かったからもあったが、同時に、自分自身が変化を諦めていたからだ。諦め、拒絶していたからだ。
「ヨニ先生は、ヨニ先生です。お二人は、兄弟で、すごく似ているけれど、でも違う先生なので……その、ヨニ先生がヘイノ先生みたいにもっとできたはずだ、なんて、私、思いません」
 ヨニと間違えられた時、ヘイノは少しだけ眉を寄せていた。
 ほんの僅かではあれど、彼らは彼らとして別の人であり、二人で一つでもなければ、同じものが二つあるわけでもない。コレットは、言葉にはっきり示すことこそできなかったが、そのことに気が付きつつあった。
「……コレット」
「は、はい」
「――ありがと。コレットは、すごく立派な司祭になれると思うよ」
 不意に自分の夢を肯定されて、コレットはその白い肌に薔薇の花のような朱をのぼらせた。
 ヨニはコレットの発した言葉を噛み締めるように、何度か頷いてから、
「そろそろ外が暗くなってきたから、もう帰らなきゃだめだよ。ヘイノに送ってもらったら? 頼もうか?」
「わ、私一人でも大丈夫ですっ」
 慌てた様子で手をワタワタと振るコレット。だが、実際に外は既に藍色に染まりつつあり、コレットは慌ただしく一礼してから部屋を後にした。
 静まり返った部屋の中で、ヨニは一度大きく伸びをする。先ほどまでいた少女の言葉を噛み締めて、ヨニは思わず掌で顔を覆った。
「カッコ悪いなあ――……」
 だが、嬉しくもあった。それは事実だ。
 あの夢のせいだろうか。自分ができなかったことを、いっそ、責めてもらった方が、少しは楽になったかもしれない――なんて自分の考えを見抜いたかのように、彼女は許しを与えた。あんな境遇にいた子供ですら、あのように慈悲深い言葉をかけられると言うのに。自分の至らなさを、別の形で自覚することになってしまった。
「明日からは、通常通りにならないと、だなあ」
 夢に悩まされるのも、弱音を吐くのも、今日に限ったことにしなければならない。ヨニは気持ちを切り替える。
 首元の詰まった白の寝巻きを脱いで、司祭の制服に身を包み、人々の安寧を祈り、人々の笑顔を誘う若者として。それも間違いなく、ヨニとしての姿だ。
 扉の向こうでは、ヘイノがコレットを見送る声が聞こえる。程なくして、ヨニの部屋に足音が近づいてきた。
 さて、開口一番は何と言ってやろうか。扉を開けて顔を見せた、己と瓜二つの顔に向けて、ヨニは言う。
「明日からも、よろしく。ヘイノ」
 突然の改まった挨拶に怪訝そうな顔を向ける片割れに、それでも少年は無邪気な笑みを見せた。
 ――いつも通りの、変わらない笑顔を。
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