二章

 生誕祭の時期は、どこか町中が浮かれた空気に包まれる。春が近づいてくる、という季節の変化もあって、あちらこちらで冬に使い潰した道具が片付けられたり、使い古した布団が干されていたり、華やかな生地の衣服に身を包んだ人を見かけるようになる。暗色の外套を羽織らずとも外に出られるようになった、という気温の変化もあるのだろう。
 しかし、人々の浮かれた空気とは裏腹に、生誕祭下準備も欠かせない。ヘイノも立場上、学校が休みの期間を使って、ここぞとばかりに普段使っている教会の大掃除をしていた。
 微かに聞こえるオルガンの音に耳を傾けながら、普段は動かさない椅子たちを礼拝堂の脇に寄せ、露わになった床を箒で掃いていく。
 いつもなら、軽く退かすだけの椅子がない分、普段掃除できていないところが露わになって、途中で投げ出してはならないという気持ちをより強くさせた。
 口からこぼれ出るのは、聞こえてくるオルガンに合わせて歌う始祖への感謝を捧げる讃美歌。歌詞はまだうろ覚えなところがあるが、ヘイノにとっては数少ないソラで歌える歌だ。
 オルガンを演奏してるのは、誰あろう、ヨニである。彼は普段の祈りの日の時でも、オルガンの奏者として演奏を引き受けている。今も、遊んでいるわけではなく、指を動かして演奏の勘を取り戻しているらしい。
(そういえば、ヨニは祈りの日でも、一緒に歌うことはなかったな)
 兄の贔屓目になるが、ヨニの演奏はかなり手慣れたものに感じる。恐らく、小さい頃から少なからず親しんできていたのだろう。
 なら、弾きながら口ずさむことくらい容易なはずだが、今までヘイノはあの草笛を吹いた日以外で、ヨニの歌を聞いたこともない。今も微かに歌を口ずさんでいるのはヘイノだけだ。
(この前の反応からして、『ヘイノ』がヨニの歌を好きじゃないって思っていた……から?)
 本人には、相変わらず聞けずじまいだ。今更、そんな話題を蒸し返したら不自然なので、ヘイノも沈黙を続けている。
 教会に響くのは、箒が地面に積もったチリを集める音と、オルガンの荘厳な音色だけ。そんな穏やかな時間だからこそ、だろうか。
(今、音外したな)
 たまに響くミスが、やけに目立って感じられる。今日は練習なので、わざわざミスを指摘するつもりはないけれども、それにしても、やけにミスタッチが多い。おかげで、ヘイノも自分の口ずさむ歌を止めて、途中から耳を傾けてしまったほどだ。
(春先でやることが増えて、疲れているんだろうか)
 しばらくは自分が片付けや掃除を引き受けて、ヨニに練習と休息の時間を与えたほうがいいだろうか。そんなことを取り止めもなく考えていると、ふつりとオルガンの音が消えた。
「ヨニ、もういいんですか」
「うん、大体復習できたから」
 駆け寄ると、自分とそっくりの顔が、へらりと人懐っこいいつもの笑顔を見せる。見た限り、いつもと違う様子があるようにも見えない。
 双子なのに、片割れの顔から相手の調子を窺うことも、今のヘイノにはできない。だから、彼は口にして問う。
「ヨニ、もしかして疲れていませんか?」
「俺が? まさか。今日も朝から水やりもしたし、朝ごはんもちゃんと作ったよ?」
「でも、何だか集中できていないように聞こえました」
「普段弾いてない曲もあったから、そう聞こえただけだよ。それより、掃除、手伝うよ。装飾の埃も落とさないといけないんだから、今日も忙しくなりそうだし――」
 テキパキと本日の予定を並べるヨニ。彼に気圧されて、ヘイノも強くは言い出せないままでいる。
 そんな折、不意に礼拝堂の入り口の扉が軋む音が響いた。教会の鍵自体は、ヘイノたち司祭がいる日はいつも開け放している。誰か、個人的な相談にでも来たのだろうか、と入り口に目を向けると、
「コレット! それにアメリアたちにケネスまで」
 いつも生徒としてやってきている数名の子どもたちが、わっと部屋に入ってきた。その先頭は、普段からリーダーシップを取りたがるアメリアで、後ろに控えていたのは少し困った顔のコレットだった。
「どうしたんですか。今日は勉強はお休みの日ですよ」
「せんせー、僕たち、お手伝いに来たんだ。せんせーたちが忙しくしてるだろうから、お掃除のお手伝いに行きなさいって、パパとママが言うからさ」
「そうなの。そうしたら、コレットも丁度同じことを考えていたからついてきたというわけよ!」
 自分がここにいる理由を示すケネスと、胸を張るアメリア。その後ろにいるのはケネスの弟やアメリアの妹たちだ。
「大勢で行ったら却って邪魔になるかもしれない、と話したんですけれど……」
 コレットの必死の弁論に、ヘイノも思わず苦笑いを返す。彼ら自身が手伝いたいという気持ちもあるが、彼らの保護者の「子供たちでできる仕事は終わったが、子供たちに適当な所で遊んでこいと言うのも不安」という考えも透けて感じ取れたからである。
 本来、学校が機能している理由の半分が、子供たちが遊び呆けすぎずに、何か実のある知識を身につけてほしい、という保護者の考えがあるからなのだから。
 どうしたものか、とヘイノが思案していると、
「よーし、それなら皆は外の壁の掃除をしてくれるかな?」
 パンパンと手を打って、ヨニが皆の前に進み出た。音に惹かれて、子供たちの視線が彼に注がれる。
「あ、コレットは部屋の中の掃除をお願い。他の子は、汚れた壁の掃除を頼むよ。ヘイノ、監督よろしくね」
「わかりました。アメリア、ケネス、ベーネス、あとアメリアの妹さんたちも。俺たちは外を綺麗にしましょう」
 その配分は年少の子ども達に部屋の中を掃除されるのは不安だが、外なら多少何かあっても大丈夫だろうという判断からだ。これから、脚立を出してステンドグラスの拭き掃除もする予定だったが、流石に小さな子ども達にやらせるわけにはいかない。
「コレット、ヨニを頼みますね」
「あ、普通そこは逆じゃないかな?」
「今日のヨニ、なんだかぼーっとしているじゃないですか」
「そんなことないよ。いつもどおりだって。じゃあ、皆よろしくね」
 ヨニに見送られて、ヘイノは子ども達を連れて外に出る。後ろ髪を引く思いをして振り返るも、ヨニは本人の言うようにいつも通りにこにこ笑いながら、手を振っていた。
「……気のせいでしょうか」
 それか、本当の『兄』なら分かったのだろうか。ヘイノの自問自答に、当然ながら答えなどなかった。
 
 ***
 
 教会の周囲は、いつもは簡単な草むしりをしているので、見た目ほど荒れ果ててはいない。しかし、日々吹き付ける風が送り込んだ微細な砂はゆっくりと外壁を覆っていくものであるし、窓ガラスだって常に磨けているわけではない。聖都の大きな教会は専門の清掃用の小間使いを雇っているが、こんな小さな町の小さな教会でそんなことが望めるわけもなかった。
「では、ケネスとベーネスはバケツに水汲みをお願いします。アメリアたちは濡れ雑巾で壁に付いている泥や汚れを落としてください。落ちないものがあったら俺に相談してください。窓ガラスには触らないように。いいですね」
 ヘイノの指揮に呼応して、子ども達はてんでばらばらに返事をする。どの子ども達も、元気だけは十二分にありそうだ。
 アメリアとケネスたち兄弟がそれぞれ散っていく中、ヘイノのそばをいまだに離れない少女が二人いた。アメリアが連れてきた妹たちである。一人はアメリアと同い年くらいだが、もう一人はアメリアよりも一回り幼い。どちらも、学校ではまだ見かけていない子供たちだ。
「アメリアについて行かなくて良いんですか?」
「あ、あの、わたし……よく見えなくて」
「見えない?」
 アメリアに年が近い少女が、おずおずと切り出す。
「目を開くと、何だかモヤモヤしたものばかりが見えて……だから、お掃除手伝うのなんてできないってアメリアには言ったんだけど」
「ベスお姉ちゃんは、いつも、なんだかモヤモヤしているものが見えるって言うの」
 そばにいたアメリアの妹が、舌足らずな口調でヘイノに説明する。
(生まれつき目の具合が良くないのだろうか。だからってそのあたりで遊んでなさい、というのも危ないな……)
 歩いてくるくらいなのだから、ぼんやりと景色は掴めているのだろう。それなら、彼女ができることを探す方が良いか、とヘイノは考える。
「では、俺が窓ガラスを拭いている時、そちらの妹さんと……」
「わたし、シャーロットよ」
「シャーロットと一緒に、梯子を支えておいてもらえますか。これはとても大事な仕事です。お願いできますか」
 小さな彼女を威圧しないように、膝をついてヘイノはわざと厳粛な声にして、仕事の依頼をする。効果はあったようで、ベスはこくこくと何度も頷いてみせた。
 目が悪いということは、いつもは大した仕事を任せてもらっていないのだろう。普段学校にもきていないことから察するに、この歳で色々と諦めてしまっているのかもしれない。
(ですが、ずっとそのままというのも、何だか悲しいですから)
 根本的な解決はできなくとも、心の中にある小さな痛みを掬い取るような人でありたい。それが『ヘイノ』らしいかは分からない。しかし、少なくとも自分が目指す『かくあれかし』と望む在り方はこうなのだと、ヘイノは強く信じていた
 
 ***
 
 教会の裏手の庭にある小さな物置から出してきた梯子に登り、ヘイノは窓ガラスやステンドグラスの掃除を始める。少し離れたところではアメリアとケネスたちが、壁掃除にせっせと励んでいた。
 梯子をシャーロットとベスが抑えてくれるので、思ったよりもしっかりと安定している。梯子と言ってもそんなに高いものでもないので、本来なら支える人は不要なのではとも思うが、何もしないよりは何かしたという記憶はやはり大事だろうとヘイノは考えていた。
 梯子の下から、ベスとシャーロットは色んなことを話してくれた。やはり、その内容は彼女の姉であるアメリアのことが多かった。
「ヨニ先生は、ケネスたちみたいに子供に見えるときもあるのに、オルガンを弾いてる時はちゃんと司祭様の顔になるから不思議って言ってました」
「アメリアの表現は的確ですね。でも、俺もそう思いますよ」
 子供と同じ目線のように話しかけるヨニは、子ども達に好かれやすい。それでいて侮られていないのは、彼の振る舞いにある種の一線を残しているからだろう。
 それは悪い意味ではなく、大人と子供としての分別の線であり、不用意に彼が子供側に足を踏み込まないからこそ、子ども達も線の意味をうっすらと理解する、と言ったものだ。
「わたしも、もう少し大きくなったら、アメリアみたいにこの教会に通うの。ベスも一緒に行けたらいいのだけど」
 シャーロットの言葉に、ヘイノは窓ガラスを拭く手を一時止めて、ちらりとベスを見やる。アメリアに良く似たその面差し――おそらく双子なのだろう――が、曇るのが見てとれた。
「ベスは、全く何も見えないわけではないのですよね。今もこうして支えてくれていますから」
「は、はい。でも、なんだか、色んなものがぼんやりするんです。近くのものは、頑張れば見てるんですが……でも、パパとママも、ぼんやり見えるのはおかしい、私の目が変なんだって……」
「原因自体はわかりませんが、近くのものが見えるなら、勉強自体に支障はないと思いますよ。読めない細かい文章などは、読み上げることもできますから。もしよかったら、一度考えてみてもらえますか」
 ヘイノの申し出に、今度は分かりやすくベスの顔がパッと輝いた。
 何かをする前から、大人の理屈を行使して諦める――そのこと自体は、すでにヘイノにも経験があることだ。先日のコレットのことがまさにそうだった。
 だが、そこで立ち止まって欲しくない、とヘイノは思う。どれだけ綺麗事だったとしても、足掻き続けなければ得られないこともあるだろう。
「は、はい。考えてみます」
「ええ。さて、そろそろ次の窓に移りましょうか」
 梯子から降りて、隣の窓の下に運ぼうとしたヘイノは、さくさくさくと下生えを踏む足音に顔を上げる。
「あ、コレットよ」
 アメリアの声の通り、裏手で作業をしていた一行のところにコレットが駆け足でやってきたのだ。近頃は楚々とした振る舞いを見せることが多かった彼女の、らしくない姿に、何かあったのだろうかとヘイノは眉を寄せる。
「コレット、どうかしたんですか」
「へ、ヘイノ先生、大変、大変、なんです」
 穏やかな気候であるにもかかわらず顔を青くしたコレットは、息を整える余裕もなく、悲鳴のような声で言った。
「ヨニ先生が、倒れて……何だか、具合が悪そうなんです……!」
 コレットの話を最後まで聞き終えるより先に、ヘイノは自分の中にごうごうと風が吹き渡るような感覚を感じていた。
 一瞬冷静さを欠いて、駆け出してしまいたくなる衝動を、どうにか押さえつける。目の前に子供たちがいなかったら、自分はどうなってしまっていただろうか。
「コレット、この辺りの掃除道具の片付けをお願いします。アメリア、ケネス、コレットの言うことをよく聞くように」
 子ども達に指示を出してから、ヘイノはようやく駆け出す。頭の片隅ではなぜか、今朝聞いた拙いオルガンの音が響いていた。
 
 ***
 
 家に帰った時、漂う空気で異変を感じるということがある。別に異臭が漂っているわけでも、殊更に目につく破損などがなくても、空気がいつもとずれている――そんなふうに感じるのだ。
 アナスタシアことアナは、自分がそれらの空気に敏感であり、同時に鈍感に振る舞える人物だと自負していた。人によっては戸惑いや不安を強く感じて、家に入るだけでも緊張を覚えるらしいが、彼女にとっては空気が重かろうが、澱んでいようが、家は家だ。緊張して心身に負担をかけるなど、まさに非効率の極みである。
 だからこそ、何か違うと感じつつも、脱いだ外出用の外套を片手にアナはいつもと変わりなく居間へと姿を見せた。
「おかえりなさい、アナさん」
「ただいま、ヘイノ。ヨニは上に?」
 双子のよく口が回る方の彼が、今は姿が見えない。それだけで、何となく空気が違う理由がわかってしまったが、認識の齟齬を防ぐためにもアナは念のために口頭で確認する。
「はい。実は……どうやら、朝から体調が良くなかったみたいなんです。教会の掃除をしている時に、ふらついて倒れそうになったので、今は上で休ませています」
「なるほど。それであなたが病人食を作っているということね」
 アナは肩をすくめ、調理用ストーブの上に乗せられた鍋を覗き込む。普段から作っている煮込み料理ではなく、今見えるのは柔らかくした米や刻んだ玉ねぎなどを牛乳などで煮込んだ料理だ。
「最近は寒暖差が激しかったので、もしかしたら風邪かもしれません」
「そうかもしれないけれど、多分違うわ」
 話しながら、アナは外套をコート掛けに掛ける。振り返って不思議そうな顔をしているヘイノのに、アナは小首をかしげた。
 弟のことなら、兄である彼の方が詳しいだろうに、どうしてこんなにも『初耳である』かのような顔をするのだろうか、と。
「あの子、ここにきた時も時々熱を出していたから。環境が変わると、すぐには馴染めなくて不調になるみたいなのよ」
「つまり、俺のせい……ですか?」
「あなたのせいと考えるのは一面的ね。裏を返せばあなたのいる生活に馴染めないヨニが悪い、とも言えるわ」
 物事の見方は、いつも個人の采配によって変わる。ヘイノが来たことで今までの予定が変わったとして、それに適応できない方が悪いとも言えるし、変化を強制した方が悪いとも考えられる。アナからすれば、どちらも事実としては正しく、だからこそ、正しいも正しくないもない、とも思えた。
「生誕祭の準備に、春に向けての仕事の増加。別に原因はあなたに限った話じゃない。自分だけが誰かに対して影響を与えられる、と考えるのは自惚れであるし、自分の不調の原因を一つのもののせいとして絞るのも、あまりに短絡的すぎるわ。もう少し、視野は広く持ちなさい」
 アナが淡々と持論を語ると、ヘイノは鍋の中身をかき混ぜる手を止めて、しばし考え込んでから、
「……もしかして、慰めてくれていますか」
「そう捉えるのなら、お好きなように」
 たとえ兄弟とはいえ一年間積み上げてきた生活に異分子が紛れ込めば、互いにどのような線引きをするべきかと気をつかうこともあるだろう。ヨニはそういう心労が目に見えない形で溜まって、不意に体調不良として発露しやすい性質の持ち主らしい、とアナは解釈していた。
 兄として知っているからこそ、自分の存在が弟に悪影響を与えると案じているのだろうか。仲の良い兄弟などいなかったアナとしては、よく分からない感情だ。
「いつもなら、一日寝ていればけろりとしているはずよ。明日の夜には、暇を持て余して不貞腐れているのではないかしら」
「だといいんですけれど……。あ、掃除は俺の方で進めておきますので、ご心配なく」
「そう、お願いするわ。人手がいるようなら言ってちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
 不測の事態が起きても、そつなく自分のやるべきことを見誤らずに進むことができる。まだまだ子供と思ってはいるが、少なくとも、この点に関しては任せて良さそうだ、とアナは一つ結論を出したのだった。
 
 ***
 
 北の大地において、春と夏はいつも短い。だからこそ、短い春を謳歌せんと言わんばかりに、緑は一斉に萌え、花は我先に咲き乱れ、鳥や獣はこぞって己の伴侶と共に子育てに励む。
 人間だって、慌ただしいのは変わらない。わずかな温もりを奪い合うかの如く、穏やかな気候を狙って育ち始めた作物に、早く実れと祈りを捧げ、若々しい植物を食べさせようと数少ない家畜たちを棒を振って誘導する。
 雪解け道を冬の間に織り上げた織物を積んで荷車が行き交い、厚い雪に閉ざされた村にはようやく行商人が訪れ、商いの声が飛び交う。
 しかし、そうして忙しいのも大人たちの話。子供たちは、ようやく温かくなった気候に感謝こそすれど、続く冬に備えるなどと考えずに、まるで子犬のように外へと飛び出して戯れる。彼らが飽きるまで、そんな日々が続くのだ。
 その村の教会にいる子供たちも、そんな無邪気な日々を当然のように過ごしていた。
「ヘイノー、よーく聞いておくんだよ」
 その日、双子の弟の方は兄を伴って、村の近くにある丘に来ていた。まだ七つになったばかりの手は、日々の家事を手伝っていてもなお、ふくふくとした柔らかさを保っている。その五指には、今は丘の立木からちぎってきた葉っぱが握られていた。
 葉っぱを二つに折り、小さな切れ込みが入れられている。ヨニは小さな花びらの如き唇をそこに当てて、ふーっと勢いよく吹き込んだ。
 途端、プー、とも、ピー、とも言い難い、しかし確かに音色と思える音が二人の間に響き渡る。
「ほらね、簡単にできるよ。ヘイノだって、きっとすぐさ」
「だけど、全然駄目だったんだ。この前も、その前も、今日だってきっと駄目に決まってる」
「諦めるのはよくないよ、ヘイノは俺より計算も早いし、文字だって綺麗に書けるのに」
「でも、ヨニみたいに綺麗な歌は歌えない。いっつも、何だか調子っぱずれになって、母さんも父さんも変な顔で笑うじゃないか」
「そんなことないって」
 言いながら、弟は『どうしたものか』と苦笑いを口元に浮かべる。実際、兄の歌はまだまだ拙く、音を取ろうとすると歌詞を忘れ、歌詞に必死に齧り付くと音や節がおかしなことになってしまう。それを笑ってはいけないと思っていたが、ついつい忍び笑いを漏らして大喧嘩したのは、一年前だっただろうか。
「草笛は歌とは関係ないよ。ほらほら」
 先日自分が見つけた新しい遊びを、兄も試してもらいたい。そんな気持ちで、弟は兄の服を引っ張る。しかし、息が強すぎるからか、聞こえたのは兄が強く息を吹く音だけだった。
「やっぱりできないよ。それより、今日は向こうの丘のヤブイチゲを摘んでくるって母さんに話したじゃないか。ほら、行こう」
 草笛になり損ねた葉っぱを放り出して、兄は弟の手を引いて駆け出す。同じ年頃の子供たちの中で、兄は足が一番早い。少なくとも、弟はそう思っていた。
 雪が溶けて露わになった土の中から、紫や黄色のクロッカスが芽吹き、雪の白の代わりにスノードロップたちがそこかしこで頭をもたげている。春がきた、と声を上げて笑い出したくなるほどに、吹き渡る風は優しい。まだ冬の冷えの残滓は残っていても、吹き付ける雪風に比べたらずっといい。
「春だ、春だよ、ヘイノ!!」
 声を張り上げて、まるで生まれて初めて春を見たように声を上げる。
 先を走っていた兄は、驚いたように足を止め、仕方ないな、という顔で笑っていた。
 だが、弟は――『自分』は知っている。まだ冷えが残る気温だったせいからか、この後、風邪をひいて暫くベッドに釘付けにされていたのだ。その間にも、兄はどんどん外に遊びに行って、時に泥だらけになって帰ってきて、あれこれ自分が見つけた春を話していた。それが羨ましくて、わけもなく小突いた結果、そのまままた喧嘩してしまったこともあった。
 だが、今は。春の草原を駆ける二人は永遠を謳歌するかの如く遊び回っている。
「なあ、ヨニ」
 兄の呼びかけに、顔を上げる。優しい思い出に応じない理由はなく――
「――どうして、母さんと父さんを助けてくれなかったんだ?」
 夢の向こうにあるのは、確かに自分の思いなのだと。
 こんな形で、なによりもはっきりと、突きつけられてしまった。
「お前なら、できたのに」
「……それは」
「できたのに、何でやらなかったんだ? いっつもそうじゃないか。お前は、俺よりもできることがたくさんあるのに、いっつも俺よりも大事にされていたのに」
 これはただの夢で、兄がそんなことを直に言ったことなど一度もない。だからこそ、こんなことを言わせるべきではないとわかっているのに。
 見つめる先の最も自分に近かったものの顔が――正確には目の色が、髪の長さが、背の高さが変わる。
 それは、自分だ。ヘイノではなく、己自身が鏡としてこちらを見ている。
 感情のない目で。じっと睥睨している。
「君は誰も助けてこなかった。見えていたのに。聞こえていたのに」
 鏡の自分の背中には、小さな子供の影が見える。淡い桜色の髪をした痩せた少女は、ありし日のコレットだ。
「あいつはすごいよ。ちゃんと、誰かを助けてる。最初から、できるわけないと思っていた俺とは違って」
「――…………」
「どうして、あの時、俺にも同じことができなかったの? 俺たちは双子なのに、同じなのに」
 ありし日の草原はすでになく、芒洋とした景色は炎の中に消えていく。あの生きた炎が故郷を呑んだ日に、何もかもが手から滑り落ちていった。
「――俺は、悪くない」
 その滑り落ちていったものを掬い上げたくて、必死に手を伸ばしてみても、やはり消えていくことに変わりはなく。自分ならもしかして、という仮定の願いは尽きることなく。
「悪いのは――」
 そうして、責任を擦りつけても意味がないと分かっていても、そうせざるを得なかった。
 そうしなければ、自分もまた、あの炎に心を喰われてしまうような気がしたから。
 
 ***
 
 泥だらけの沼から浮上してきたような倦怠感と共に、ヨニはうっすらと目を開いた。窓から見える外の景色は、すでに淡い藍色に沈んでいる。しかし、まだ日は出ているのだろう。こんな時間に自分が寝ているなんて珍しい――そう思って、ようやく自分が寝込んでいたことを思い出す。
「目が覚めましたか、ヨニ」
 呼びかけに顔を向けると、ベッド側の椅子にヘイノが腰を下ろしていた。
「寝ているようなら後にしようかと思ったんですが。体の具合はどうですか」
 どこかぼんやりとした頭でヨニはヘイノを見つめてから、
「…………なんだよ、吹けるんじゃないか」
「え?」
「ん、何でもない。もう平気だから、動けるよ。ヘイノは大袈裟なんだからさ」
 さっさとベッドから降りようとするヨニを、ヘイノががっしりと確保してベッドに押し戻した。
 寝巻き越しに伝わる指が、ヨニの平時よりやや高い体温を知らせてしまったのだろう。ヘイノはキッパリと首を横に振る。
「まだ熱があるみたいです。ちゃんと休んでいてください」
「大丈夫だって言ってるのに。明日からはまた掃除とか庭の手入れとかしないといけないんだから。そろそろ花の手配もしないといけないよね。お菓子を作るのは――」
「ヨニ、それは俺の方でしておきますから。明日は休んでください」
 ベッドの近くにある袖机に載せていた牛乳粥の入った皿を、お盆ごとヨニに差し出しながら、ヘイノはきっぱりとした口調で言う。
「いや、でも、一人じゃ大変だよ」
 渡された以上、突き返すわけにもいかず、ヨニは素直にお盆を受け取る。食前の祈りは、こんな状況なので簡略化して済ませ、一緒に渡されたスプーンで白い中身を掬って口に含む。
 柔らかな牛乳の味の中に、微かに香味を感じるのは、何か香辛料でも入れたからだろうか。刻んだ玉ねぎが、熱で落ち込んでいた食欲を誘ってくれた。
「一人でも何とかしますよ」
 ヨニの苦言に、ヘイノは特に顔色も変えずに答える。
「今まではヨニ一人で何とかしていたんでしょう。それなら、俺一人でも何とかします。それに、熱が下がったら手伝ってもらうつもりではありますから」
 それでもヨニがまだ何か言いたげに唇をへの字に曲げているのを見て、ヘイノはどこか躊躇うように目線を彷徨わせてから言った。
「――兄、なんですから。こういう時くらい、頼ってください」
 やけに真面目くさった彼の表情に、思わずまじまじと見つめ返してから、
「――ふっ、ふふ、何その変な顔」
「変とはなんですか、人が真面目に話しているのにっ」
「いや、ごめん、何かそんな改まった顔されると、笑えてきちゃって……ふふっ」
 突然の笑いの発作に襲われて、ヨニはしばらく粥を落とさないように注意しながら、口角に上る笑みを必死に押さえつけることに注力しなければならなかった。
「とにかく。明日は、一日休むこと。いいですね。もし抜け出してきたら、怒りますから」
「はいはい。じゃあ、一日のんびりさせてもらおうかな。退屈だろうけれど」
「なら、その間に次の授業の課題でも考えておいてください。それなら、横になっていてもできるでしょうから」
「結局、働かせてるんじゃないか!」
 そうしていつものようなやり取りを交わしていると、目覚める前に見た夢など、ただの悪い夢だと笑い飛ばせるような気がした。少なくとも今だけは、その薄暗い影を気にしなくてもいいだろうと思える程度には。
 
 粥を全て食べ終え、ヘイノが盆を片付けようと席を立った時だった。
「あのさ、ヘイノ。今度の生誕祭の時は、ヘイノも歌ってくれる?」
「構いませんが、なぜ?」
「なんとなく、聞きたくなったから」
 不思議そうに首を傾げていたヘイノだったが、やがて彼はすんなりと頷いた。
「じゃあ、約束」
「ええ。あ、でも、ちゃんと体調を治してからですよ」
「分かってるって」
 過保護な兄が部屋を立ち去ってから、ヨニは再びベッドに寝転がる。今度こそ何の夢も見ないようにと祈りながら、少年は目を瞑った。
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