二章
「お菓子を作る時はね、楽しい気持ちじゃないといけませんよ。怒りながら作ると、何だかお菓子も怒ったような味になりますからね」
傍に立つ年配の女性――ステファニーの言葉に「はい」と返事をしつつ、ヘイノはボウルの中にある粉やら卵やらを入れてできた生地を混ぜ続ける。
今、ヘイノと、双子の片割れのヨニは、ステファニーの家に訪れていた。普段昼からは教会で開かれている学校で教鞭をとっているものの、今はそれがお休みの時期だ。だからこそ、その時だけしかできないことを教えてもらうときでもある。
例えば、生誕祭の礼拝の後に、訪問者に渡す菓子類の作成方法を教えてもらうことなども、それに該当する。
「昔はね、司祭様の奥様がそれはもう美味しいアイシングクッキーを作っていらっしゃったんですよ。そのおかげで子供たちも率先して教会に行くようになりましてね」
「ああいう特別な日にもらえるお菓子は、それだけで良い思い出になりますから。俺も聖都でもらった時は、嬉しかったです」
今、傍にはヨニはいない。だからこそ、自分が過ごしてきた聖都での一年を主軸として話をしていても、疑念を抱かれることはない。少しばかり肩の力を抜くことができる時間でもあった。
「そうでしょう、そうでしょう。だからこそ、今年も美味しいお菓子を用意してあげたら、子供たちは喜ぶと思うのですよ。去年は準備できていなかったようですから」
「二人だけでしたから、仕方なかったんだと思います。アナさんは、家事はあまり得意ではないようですから」
全く家事を手伝わないというわけではないが、アナが率先して何かを作っている姿は見たことはない。
とはいえ、アナは普段から、各種の商談の調停者と呼びつけられたり、聖石の流通管理のために町の長から立ち会いを求められたりと、何かと忙しくしている。先日も郊外にて赤ん坊の生誕に立ち会って祝福を送ってきた、と話していたので、家事の一つや二つ手が回らなくても仕方ないだろう。
「それなら、なおのこと二人が頑張らないとねえ」
「はい。ヨニも、戻ってきたら手伝わせますので」
肝心のヨニが何しているのかというと、コレットの依頼で、教本を読んでいて分からない所があったので教えてほしいと乞われて彼女の部屋にいる。ステファニーが昔使っていた教本だそうだが、学習要綱が変わってなさそうだったので、ヨニに一任したのだ。
「ステファニーさん、あの時は、コレットを引き取ると言ってくださって、ありがとうございました」
コレットのことを思い出したのを契機に、ヘイノは一対一で彼女に会ったら言おうと思っていたことを口にする。
身寄りのないコレットを乱暴者の親戚から助け出したのはヘイノだったが、立場としては司祭の見習いに過ぎない彼では、一人の子供を養うことなど、口ではなんとでも言えても事実上かなり困難なことは明白だった。
それでも、良い引き取り手がいないなら自分が責任を持つ、とヘイノは決めていたが、そこに思いがけなく救いの手が差し伸べられた。それが、その事件で少なからずコレットに関わることになったステファニーだった。
ちょうど、それまで家にいてくれた女中が一身上の都合で職を辞したこともあり、家の中のことをしてくれる人を探していた、と彼女は話していたが、ただの打算からの申し出ではないのは明らかであった。
「あの子にはたくさん助けられていますからね。私も、家に一人きりよりはずっと楽しんでいるのですよ」
「それは……よかったです。本当に」
迷惑をかけてしまった、と言い切ることもできず、ヘイノは曖昧な言葉を使う。
そんな彼の逡巡を、ステファニーは見抜いたのだろうか。
「ヘイノさん、人が一人でできることなんて、きっと想像以上に小さいことなんですよ」
彼女の言葉の真意を悟り、ヘイノは顔を上げる。年輪のように積み重ねてきた年を肌に刻みんだ女性が、こちらへ微笑みかけていた。
「まして、あなた方は子供なわけですから。子供が大人に頼ることを恥じる必要はありませんよ。そのために、私たちのように年を重ねた者がいるんですからねえ」
年寄りにも花を持たせてください、とステファニーはころころと笑ってみせた。
ヘイノは生地を混ぜる手を止めて、一瞬、躊躇する。それは、今朝、ヨニの姿を見たときに感じた逡巡に繋がっていた。
(俺のことを全部話したら、何か助けてもらえるのだろうか。そうしたら――)
そこまで考え、すぐにその甘えた考えを捨てる。
ことは、ヘイノ個人のことに限らない。自分の記憶の欠落を打ち明けたところで、確かにヘイノは困らない。むしろ気が楽になるといえるだろう。
だが、それならヨニはどうなるのだ。彼の兄はどこに行ってしまうのか。自分は、一体何者になってしまうのか。
それは単に『少し相談する』だけでは済まない混沌の蓋を開けるような底知れなさを感じさせて、ヘイノは口をつぐむしかなかった。
「……困ったことがあったら、また相談させてください。え、と……この後はどうすればいいですか」
「あら、男の子はやっぱり混ぜるのが早いわね。それならね――」
まるで自分の子供に教えるように、彼女は丁寧にヘイノに菓子作りを教えてくれる。自分の母親もこんな感じの人だったのだろうか――そんなことを思いながら、ヘイノはステファニーの手つきを見守っていた。
***
火聖石を使ったストーブからほのかに甘い香りが立ち上り、ヘイノが片付けを終えた頃、ガチャリと音を立てて居間の扉が開いた。誰あろう、コレットの指南をするために席を外していたヨニと、生徒であるコレットである。
今日のコレットは春が近いこともあり、淡い紫色のワンピースに白いエプロンをつけていた。彼女の年若い娘らしい溌剌した表情と合わせて、まるで本人が花のようにすら見える。
「あー、もう作るの終わっちゃったかあ」
「だから、次のページの問題は今度にしないと、お菓子ができてしまうって話したんですおばあさまは、お菓子を作るのは凄く早いんですよ」
少し得意げに微笑むコレットには、いつぞやのどこか怯えたような空気は残っていない。彼女なりに、温かな環境で伸び伸びと羽を伸ばしているのだろうと察し、ヘイノは改めて、内心で胸を撫で下ろしていた。
「じゃあ、本番もヘイノに頼もうかな」
「後で教えるから、ヨニも手伝ってくださいね。さすがに来てくださった方の分を一人で用意するのは、骨が折れますから」
早速逃げ道を探し出そうとしていたヨニを、ヘイノはしっかりと言葉で捕まえる。何だかんだと言いつつ、根は真面目らしい弟が仕事を放棄するとは思えなかったが、念には念を、というわけだ。
「ヘイノ先生、学校はもう暫く開けなさそうですか……?」
おずおずと尋ねるコレットに、ヘイノは申し訳なさそうに眉を下げ、小さく頷いた。
「しばらくは礼拝堂の掃除に集中する必要があるんです。皆さんも、それぞれ家業に忙しいようですし」
「でも、アメリアたちは先日会った時、学校がなくて退屈だ、と話していました。私も……その、授業がないと、何だか物足りなくて」
だからわざわざ古い教本を頼りに復習していたのか、とヘイノも納得する。子供たちは机に座って勉強するのが嫌いなものだと思い込んでいたところもあったが、どうやらそうでもなかったらしい。
だが、そのことに嬉しさもあるが、現在休校状態になっている申し訳なさも生まれていた。
「もし、俺たちの都合で授業に出られないのが困るようでしたら、後々、町の学校に行くことも考えてはどうでしょうか。たしか、ティモスにもありますよね」
「うん、あるよ。町長さんが領主様に交渉して、数年前にようやく設立できたんだって。小さいけど、ちゃんとした教員免許を持った先生が通って教えてくれている所だね」
ヘイノに話を振られて、ヨニはすぐに答える。
教会の学校は、あくまで司祭たちが自主的に実施しているものだ。その始まりはまだ学校というものができていなかった頃、人々を導いた末に女神の元に旅立ったユノーの功績に倣い、人々を指導することこそが己の役目であると自負した司祭たちが、読み書きを教えたことが始まりだと言われている。あるいは、当時の人々の長に知識の集積者でもあった彼らに頼んだからとも噂されているが、ともあれ、司祭たちの教導はあくまで善意からの知識の共有であり、金銭が発生しない代わりに教材もあってなきが如しだ。
聖導教の本山から教会の維持費とともに、指導費もいくらかは渡されているが、それとて『いくらか』の範疇からは逸脱していない。ゆえに、極論、ヘイノたちには毎日教室を開く義務はないのだった。
だが、町の学校となると話は違う。教員となると職業として給金をもらって指導をしている分、教師の都合で休みになることもない。
「もちろん、お金の問題もあるかと思いますが、教育という面ではあちらの方がきちんとしたものが受けられるのでは、と思うんです」
「えっ……あ、あの、私は確かに勉強は好き、ですけど、まだそんなに難しいことはわからないですし」
ヘイノなりには良案だと思えたが、なぜかコレットは慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。
「他の同い年の子たちと並ぶと、きっと遅れてしまいます……。それなら、ヘイノ先生にちゃんと教えてもらいたい、です。それに、私、大きくなったら……先生たちみたいに司祭様になりたいんです」
意を結したように宣言するコレットに、ヘイノは目を丸くして、そばにいたヨニも数度瞬きを繰り返した。
「アナさんみたいに、女性司祭になって、困ってる人をヘイノ先生みたいに助けられたら……って思うんですけれど、難しい、でしょうか」
「それは……もちろん、良い目標だと思います。ただ、そのためには、たくさん勉強しないといけないですし、その分、勉学のためにも大きな学校に行くことも考えた方がいいですよ」
話をしながら、ヘイノは必死に自分の経歴を頭の中で探し出していた。神学校で簡単な履歴書には目を通してある。その記録が正しければ、ヘイノは十歳の頃に村のそばにあった町の司祭向けの幼年学校に通い、それから聖都の神学校を卒業――となっていた。
もしヨニがその話をした場合、どこまで話を合わせられるかと、内心緊張しながらヘイノは言葉を選ぶ。
「……考えておきます。でも、今は、お二人に教えてほしいって、思ってます」
「ありがとう、コレット」
今度声をかけたのは、ヨニだった。だが、その声音はいつもの陽気さがわずかに潜められ、少しばかり固い。
(司祭になるための学校には少なからず金銭が必要だから、その点を気にしているのだらうか)
仮にもただの居候である少女に、ステファニーがそこまで用立ててくれるかは疑問だ。だからこそ、軽率にそんな夢を語るものではないと思っているのかもしれない。
「ああ、そうそう。ヘイノさん、生誕祭はコレットと一緒に歩いて回るんだそうですね。この子のこと、よろしくお願いしますね」
「ええ。責任持って預からせていただきます」
保護者であるステファニーに一礼すると、なぜか視界の端でコレットが薄い桜色の唇をへの字に曲げていた。幼子のような扱いが不服なのかもしれないが、ヘイノの目から見てもコレットはまだ子供だ。今はその扱いを我慢してもらうしかない。
「実は、とっておきのものを用意していましてね。最近、ストーンさんの仕立て屋で――」
「おばあさま! それは内緒にしておいてくださいっ」
何やらいたずらっ子のように声を潜めていたステファニーに、コレットが割って入る。子供らしい隠し事だろうかと、ヘイノは目を細めて、
「内緒なら、教えてくれる日を楽しみにしていますね」
膝を曲げ、コレットに目線を合わせて笑いかけてみせた。コレットは壊れたカラクリ仕掛の人形よろしく、ぶんぶんと首を縦に振る。
そうこうしている間に、ほんのりと漂っていた甘い香りがより強くなっていく。お菓子の完成が近づいてきた証拠だ。
「さて、そろそろおやつの時間にしましょうか。味見も大事な勉強ですよ」
「じゃあ、俺が味の審査をしようか」
ヨニが意気揚々と勝手知ったる我が家と言わんばかりに、ケトルや茶葉を取り出し、ステファニーはヘイノを呼び寄せて、ストーブから取り出す時の手順を教える。コレットは机にクロスを敷き、丁寧に皺を伸ばしていく。
ケトルにポンプの水を移している時、ヨニはふと手を止めて顔を上げた。
おっかなびっくり、ミトンで包んだ手で天板を運ぶヘイノ。その様子を後ろから見守るステファニー。コレットは美味しそうな匂いに、ついつい二人の後ろをついて回っている。
「…………」
まるで、一枚の家族写真のような情景から目を逸らして、ヨニは水でいっぱいになったケトルの蓋を閉めた。
***
赤々と燃え上がる炎は、いつも心を暖めてくれるものだと思っていた。
暖炉の周りには、いつも家族が集まって昔話を教えてくれたり、聖典の内容を噛み砕いて説明したり、時には歌を歌ったり。そんな日々の中心に、炎は赤々と存在していた。
長く寒い冬に閉ざされる村では、炎は文字通り生命線だ。火聖石は聖堂や町の広場のような主要施設にはあれど、各家庭に置くほどの余裕はなく、長い冬が訪れる前に薪を集めるのは幼い頃からの大事な仕事の一つだった。
だから、だろうか。最初、それを目にした時、そんなことを言ったのは。
「……きれい」
そんな、場違いなことを呟いてしまったのは。
あの日も、とても寒い日だった。久しぶりの里帰りにはしゃいで疲れて、くたくたになって寝床に潜り込もうとして、自分はハッとした。
「あれ、どこいったんまろ」
自分の左手の人差し指にはめていた、オパールのはまった指輪。ようやく司祭として認められた証として、学校で与えられたもの。
無くしたのなら、きっとこっぴどく叱られる。それでも、叱られる以上のことは起きないだろうが、自分にとってはあれでなくてはならない理由があった。
「ヘイノと揃いにしてほしいなんて、もう聞いてくれないだろうし」
あれは、自分の片割れと揃いの品なのだ。無くしたら、きっと同じものをもう一度、などと聞いてはくれないだろう。何より、同じ日に同じ場所で授与された思い出こそが、自分にとっては大事なことだった。
(多分、教会で落としたんだ。一度外したからその時に)
思い立ったら行動してしまうのが、自分のサガらしい。こっそりと部屋から抜け出て、着慣れた厚手のセーターとごわごわした分厚い生地のズボンに着替え直し、コートを手に取ってそっと外に出る。
夜闇に浮かんだ月は、人の骨のように青白かった。雪かきされた道を掻き分けるようにして進んだ先には、月に照らされた黒々とした教会のシルエットが見える。木造建築のそれは、夜に見ると聖都の教会よりはよそよそしく見える。
しかし、自分にとっては父と母の仕事場であり、慣れ親しんだ場所だ。裏口の場所も、少し壊れた柵の位置も、開けるのに癖があるが鍵が必要ない木戸の開け方も把握している。
裏口から教会の敷地内に忍び込み、建物の裏手につながる木戸をそっと開けて、中に侵入する。司祭や関係者たちだけが入れる場所を手探りで探り、小さな明かり取りの窓を開けて、月明かりが差し込んだ部屋の中、蝋燭に火をつけてカンテラに入れる。
明かりがなければ、礼拝堂は真っ暗で何も見えない。そんな中で指輪を探すのは、深い池の中で一粒の真珠を探すようなものだろう。だからといって、灯りがあるから劇的に何か変わるものでもない。深い池の中に針ほどの光が差し込んだ程度の変化だ。
(明日を待てばよかったかな……でも、何かの弾みで踏まれたりして壊れたら嫌だものな)
暗闇に一瞬足がすくむものの、カンテラを顔の前に持ち上げてどうにか周囲に灯りを齎し、目を皿のようにして礼拝堂の床を確認する。
ステンドグラスが月の明かりに照らされて、床板の上でちらちらと輝きを放っていた。その中で光るものがないかと、慎重に歩みを進める。
十分経ったのか。あるいは三十分近く地面に這いつくばるようにして探していただろうか。冷え込んだ礼拝堂のせいで身体がこわばりかけた頃、
「あった……!」
ようやく、椅子の下に転がっている小さな指輪を見つけた。今日の説法を聞いている椅子の下より少し離れたところに、指輪は転がっていた。外して付け直したつもりが、何かの拍子で落ちて、ここまで転がっていたのだろう。
カンテラの灯りで確認した限り、特に傷や汚れもない。無事に戻ってきた指輪にほっと安堵したときだった。
ふと、視界にあるはずのない灯りが点ったような気がした。それが、最初の違和感だった。
「誰か、きたのかな……」
見つかったら、当然ながら怒られるのは目に見えている。せめて両親ではないことを祈りながら、固唾を飲んで足音を待つものの、足音どころか人の気配すらしない。
そもそも、差し込んでいる灯りが入り口ではなく、裏口からでもなく、窓の向こうからのものだと気がついた自分は、恐る恐る窓へと近づいた。
そして、思わず息を呑んだ。
――その光景が、あまりに非現実的で、美しかったから。
まるで、自分は幼い頃に読んだ幻想的な童話の世界に迷い込んだのかとすら思った。
「きれい…………」
雪と氷で閉ざされた故郷では、冬ともなれば世界はほとんど白一色に染まる。だが、今目の前にあるのは、鮮やかな朱とも赤とも言えぬもの。
――炎。
しかも、焚き火や暖炉のように小さなものではなく、まるで天に届かんばかりの、炎の波。
炎が燃えるには薪や燃えるものが必要なはずなのに、その炎の波は、枯れ木がはるか凍土の下にあるはずの雪の上でもお構いなしに、海のように広がっていた。
炎は、当然ながら、明かりを齎す。これだけの巨大な篝火のようなものがあれば、礼拝堂が明るくなるのも自明の理だ。
暫し、溢れかえる炎の波に陶然と見とれていた自分は、その完成された炎の波の調和を乱すものを見つけた。
ふらりふらりと歩く、小さな松明のように似た炎の形をした不思議な生命――最初はそう見えた。だが、徐々に陶酔から覚めた自分は、それを見て気がついてしまった。
「もしかして、あれって……」
たしか、教会の近くには一軒の家があったはずだ。まだ若い夫妻と、数年前に生まれた女の子がいて、随分と見ない間に大きくなったものだと今日話したばかりで。
――あの子は、ちょうどあの炎と同じくらいの背丈ではなかったか?
そう思った矢先、小さな炎の前に、ふわりと誰かが舞い降りた。その姿を見て、今度こそ自分は呼吸が止まったかと思った。
炎に浮かび上がった、鮮やかな朱の長い髪。熱から生まれる風でなびくそれらの下にうっすらと見える面差しは、どこか愉快そうな笑みを浮かべていて。人に似た造作をしているからこそ、よりはっきりわかる。およそ人ではなし得ない、何かがずれた感情が、それの顔に浮かんでいるのだ、と。
その人影は、ゆらりと手を伸ばした。誘われるように、少女だったものが、そちらへと歩み寄る。
一つ、二つ、歩いた末に、炎に包まれた腕がそれの指に伸びる。それは少女の残骸のような炎を片手で易々と掴み上げ、
「…………喰ってる」
おそらく首だっただろう場所にそれが口を寄せると、待っていたように炎に包まれた体が崩れ落ち、それの口へと流れ込み、消えていく。
時間にして、ほんの数秒の出来事。あたかも、屋台でちょっとした軽食を買って頬張ったかのような、自然な仕草。
だからこそ、異常である、とわかる。
赤々と燃え上がる炎の波の中、炎自身から生み出したようなそれの姿は、あまりにこの異常な光景に溶け込みすぎていた。
炎から編み出されたような朱の長い髪。炎そのものを石として嵌め込んだかのような赤い目。釣り上がった眼窩に宿る感情の色は、遠目からでも、人の倫理観など残っていないだろうとわかる。
ゆえに、見慣れた村を炎の波で呑んだのは、それのせいだと理解せざるを得なかった。
人では到底なし得ない、超自然的な権能を易々と振るう、人に似ている姿をとっていたとしても、決して人ではない存在。
その存在を、はるか数百年前から人々はこう呼んでいる。
――精霊、と。
(どうしよう、どうしようどうしようどうしよう)
頭の中で警鐘が鳴り響いている。逃げなくてはならない、というのは頭では理解していた。
だが、どこに行けばいい?
歯の根が合わず、寒さとは別の意味でガタガタと体が震えている。二本の足で立てているだけ、奇跡のようだ。
だが、そんな自分の様子など知らぬふりをして、それはゆらりと歩き出す。向かう先にある建物が何か、などというのは、この村で十年と少しを過ごしてきた自分にはすぐわかった。
「父さん、母さん……ヘイノ――っ!!」
あの炎の波に飲まれたら、一番大事なものすらあっけなく消されてしまう。
自分が行ったところで何ができるわけではないと分かっていても、あの日の自分は駆け出さずにはいられなかった。
そして――――。
傍に立つ年配の女性――ステファニーの言葉に「はい」と返事をしつつ、ヘイノはボウルの中にある粉やら卵やらを入れてできた生地を混ぜ続ける。
今、ヘイノと、双子の片割れのヨニは、ステファニーの家に訪れていた。普段昼からは教会で開かれている学校で教鞭をとっているものの、今はそれがお休みの時期だ。だからこそ、その時だけしかできないことを教えてもらうときでもある。
例えば、生誕祭の礼拝の後に、訪問者に渡す菓子類の作成方法を教えてもらうことなども、それに該当する。
「昔はね、司祭様の奥様がそれはもう美味しいアイシングクッキーを作っていらっしゃったんですよ。そのおかげで子供たちも率先して教会に行くようになりましてね」
「ああいう特別な日にもらえるお菓子は、それだけで良い思い出になりますから。俺も聖都でもらった時は、嬉しかったです」
今、傍にはヨニはいない。だからこそ、自分が過ごしてきた聖都での一年を主軸として話をしていても、疑念を抱かれることはない。少しばかり肩の力を抜くことができる時間でもあった。
「そうでしょう、そうでしょう。だからこそ、今年も美味しいお菓子を用意してあげたら、子供たちは喜ぶと思うのですよ。去年は準備できていなかったようですから」
「二人だけでしたから、仕方なかったんだと思います。アナさんは、家事はあまり得意ではないようですから」
全く家事を手伝わないというわけではないが、アナが率先して何かを作っている姿は見たことはない。
とはいえ、アナは普段から、各種の商談の調停者と呼びつけられたり、聖石の流通管理のために町の長から立ち会いを求められたりと、何かと忙しくしている。先日も郊外にて赤ん坊の生誕に立ち会って祝福を送ってきた、と話していたので、家事の一つや二つ手が回らなくても仕方ないだろう。
「それなら、なおのこと二人が頑張らないとねえ」
「はい。ヨニも、戻ってきたら手伝わせますので」
肝心のヨニが何しているのかというと、コレットの依頼で、教本を読んでいて分からない所があったので教えてほしいと乞われて彼女の部屋にいる。ステファニーが昔使っていた教本だそうだが、学習要綱が変わってなさそうだったので、ヨニに一任したのだ。
「ステファニーさん、あの時は、コレットを引き取ると言ってくださって、ありがとうございました」
コレットのことを思い出したのを契機に、ヘイノは一対一で彼女に会ったら言おうと思っていたことを口にする。
身寄りのないコレットを乱暴者の親戚から助け出したのはヘイノだったが、立場としては司祭の見習いに過ぎない彼では、一人の子供を養うことなど、口ではなんとでも言えても事実上かなり困難なことは明白だった。
それでも、良い引き取り手がいないなら自分が責任を持つ、とヘイノは決めていたが、そこに思いがけなく救いの手が差し伸べられた。それが、その事件で少なからずコレットに関わることになったステファニーだった。
ちょうど、それまで家にいてくれた女中が一身上の都合で職を辞したこともあり、家の中のことをしてくれる人を探していた、と彼女は話していたが、ただの打算からの申し出ではないのは明らかであった。
「あの子にはたくさん助けられていますからね。私も、家に一人きりよりはずっと楽しんでいるのですよ」
「それは……よかったです。本当に」
迷惑をかけてしまった、と言い切ることもできず、ヘイノは曖昧な言葉を使う。
そんな彼の逡巡を、ステファニーは見抜いたのだろうか。
「ヘイノさん、人が一人でできることなんて、きっと想像以上に小さいことなんですよ」
彼女の言葉の真意を悟り、ヘイノは顔を上げる。年輪のように積み重ねてきた年を肌に刻みんだ女性が、こちらへ微笑みかけていた。
「まして、あなた方は子供なわけですから。子供が大人に頼ることを恥じる必要はありませんよ。そのために、私たちのように年を重ねた者がいるんですからねえ」
年寄りにも花を持たせてください、とステファニーはころころと笑ってみせた。
ヘイノは生地を混ぜる手を止めて、一瞬、躊躇する。それは、今朝、ヨニの姿を見たときに感じた逡巡に繋がっていた。
(俺のことを全部話したら、何か助けてもらえるのだろうか。そうしたら――)
そこまで考え、すぐにその甘えた考えを捨てる。
ことは、ヘイノ個人のことに限らない。自分の記憶の欠落を打ち明けたところで、確かにヘイノは困らない。むしろ気が楽になるといえるだろう。
だが、それならヨニはどうなるのだ。彼の兄はどこに行ってしまうのか。自分は、一体何者になってしまうのか。
それは単に『少し相談する』だけでは済まない混沌の蓋を開けるような底知れなさを感じさせて、ヘイノは口をつぐむしかなかった。
「……困ったことがあったら、また相談させてください。え、と……この後はどうすればいいですか」
「あら、男の子はやっぱり混ぜるのが早いわね。それならね――」
まるで自分の子供に教えるように、彼女は丁寧にヘイノに菓子作りを教えてくれる。自分の母親もこんな感じの人だったのだろうか――そんなことを思いながら、ヘイノはステファニーの手つきを見守っていた。
***
火聖石を使ったストーブからほのかに甘い香りが立ち上り、ヘイノが片付けを終えた頃、ガチャリと音を立てて居間の扉が開いた。誰あろう、コレットの指南をするために席を外していたヨニと、生徒であるコレットである。
今日のコレットは春が近いこともあり、淡い紫色のワンピースに白いエプロンをつけていた。彼女の年若い娘らしい溌剌した表情と合わせて、まるで本人が花のようにすら見える。
「あー、もう作るの終わっちゃったかあ」
「だから、次のページの問題は今度にしないと、お菓子ができてしまうって話したんですおばあさまは、お菓子を作るのは凄く早いんですよ」
少し得意げに微笑むコレットには、いつぞやのどこか怯えたような空気は残っていない。彼女なりに、温かな環境で伸び伸びと羽を伸ばしているのだろうと察し、ヘイノは改めて、内心で胸を撫で下ろしていた。
「じゃあ、本番もヘイノに頼もうかな」
「後で教えるから、ヨニも手伝ってくださいね。さすがに来てくださった方の分を一人で用意するのは、骨が折れますから」
早速逃げ道を探し出そうとしていたヨニを、ヘイノはしっかりと言葉で捕まえる。何だかんだと言いつつ、根は真面目らしい弟が仕事を放棄するとは思えなかったが、念には念を、というわけだ。
「ヘイノ先生、学校はもう暫く開けなさそうですか……?」
おずおずと尋ねるコレットに、ヘイノは申し訳なさそうに眉を下げ、小さく頷いた。
「しばらくは礼拝堂の掃除に集中する必要があるんです。皆さんも、それぞれ家業に忙しいようですし」
「でも、アメリアたちは先日会った時、学校がなくて退屈だ、と話していました。私も……その、授業がないと、何だか物足りなくて」
だからわざわざ古い教本を頼りに復習していたのか、とヘイノも納得する。子供たちは机に座って勉強するのが嫌いなものだと思い込んでいたところもあったが、どうやらそうでもなかったらしい。
だが、そのことに嬉しさもあるが、現在休校状態になっている申し訳なさも生まれていた。
「もし、俺たちの都合で授業に出られないのが困るようでしたら、後々、町の学校に行くことも考えてはどうでしょうか。たしか、ティモスにもありますよね」
「うん、あるよ。町長さんが領主様に交渉して、数年前にようやく設立できたんだって。小さいけど、ちゃんとした教員免許を持った先生が通って教えてくれている所だね」
ヘイノに話を振られて、ヨニはすぐに答える。
教会の学校は、あくまで司祭たちが自主的に実施しているものだ。その始まりはまだ学校というものができていなかった頃、人々を導いた末に女神の元に旅立ったユノーの功績に倣い、人々を指導することこそが己の役目であると自負した司祭たちが、読み書きを教えたことが始まりだと言われている。あるいは、当時の人々の長に知識の集積者でもあった彼らに頼んだからとも噂されているが、ともあれ、司祭たちの教導はあくまで善意からの知識の共有であり、金銭が発生しない代わりに教材もあってなきが如しだ。
聖導教の本山から教会の維持費とともに、指導費もいくらかは渡されているが、それとて『いくらか』の範疇からは逸脱していない。ゆえに、極論、ヘイノたちには毎日教室を開く義務はないのだった。
だが、町の学校となると話は違う。教員となると職業として給金をもらって指導をしている分、教師の都合で休みになることもない。
「もちろん、お金の問題もあるかと思いますが、教育という面ではあちらの方がきちんとしたものが受けられるのでは、と思うんです」
「えっ……あ、あの、私は確かに勉強は好き、ですけど、まだそんなに難しいことはわからないですし」
ヘイノなりには良案だと思えたが、なぜかコレットは慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。
「他の同い年の子たちと並ぶと、きっと遅れてしまいます……。それなら、ヘイノ先生にちゃんと教えてもらいたい、です。それに、私、大きくなったら……先生たちみたいに司祭様になりたいんです」
意を結したように宣言するコレットに、ヘイノは目を丸くして、そばにいたヨニも数度瞬きを繰り返した。
「アナさんみたいに、女性司祭になって、困ってる人をヘイノ先生みたいに助けられたら……って思うんですけれど、難しい、でしょうか」
「それは……もちろん、良い目標だと思います。ただ、そのためには、たくさん勉強しないといけないですし、その分、勉学のためにも大きな学校に行くことも考えた方がいいですよ」
話をしながら、ヘイノは必死に自分の経歴を頭の中で探し出していた。神学校で簡単な履歴書には目を通してある。その記録が正しければ、ヘイノは十歳の頃に村のそばにあった町の司祭向けの幼年学校に通い、それから聖都の神学校を卒業――となっていた。
もしヨニがその話をした場合、どこまで話を合わせられるかと、内心緊張しながらヘイノは言葉を選ぶ。
「……考えておきます。でも、今は、お二人に教えてほしいって、思ってます」
「ありがとう、コレット」
今度声をかけたのは、ヨニだった。だが、その声音はいつもの陽気さがわずかに潜められ、少しばかり固い。
(司祭になるための学校には少なからず金銭が必要だから、その点を気にしているのだらうか)
仮にもただの居候である少女に、ステファニーがそこまで用立ててくれるかは疑問だ。だからこそ、軽率にそんな夢を語るものではないと思っているのかもしれない。
「ああ、そうそう。ヘイノさん、生誕祭はコレットと一緒に歩いて回るんだそうですね。この子のこと、よろしくお願いしますね」
「ええ。責任持って預からせていただきます」
保護者であるステファニーに一礼すると、なぜか視界の端でコレットが薄い桜色の唇をへの字に曲げていた。幼子のような扱いが不服なのかもしれないが、ヘイノの目から見てもコレットはまだ子供だ。今はその扱いを我慢してもらうしかない。
「実は、とっておきのものを用意していましてね。最近、ストーンさんの仕立て屋で――」
「おばあさま! それは内緒にしておいてくださいっ」
何やらいたずらっ子のように声を潜めていたステファニーに、コレットが割って入る。子供らしい隠し事だろうかと、ヘイノは目を細めて、
「内緒なら、教えてくれる日を楽しみにしていますね」
膝を曲げ、コレットに目線を合わせて笑いかけてみせた。コレットは壊れたカラクリ仕掛の人形よろしく、ぶんぶんと首を縦に振る。
そうこうしている間に、ほんのりと漂っていた甘い香りがより強くなっていく。お菓子の完成が近づいてきた証拠だ。
「さて、そろそろおやつの時間にしましょうか。味見も大事な勉強ですよ」
「じゃあ、俺が味の審査をしようか」
ヨニが意気揚々と勝手知ったる我が家と言わんばかりに、ケトルや茶葉を取り出し、ステファニーはヘイノを呼び寄せて、ストーブから取り出す時の手順を教える。コレットは机にクロスを敷き、丁寧に皺を伸ばしていく。
ケトルにポンプの水を移している時、ヨニはふと手を止めて顔を上げた。
おっかなびっくり、ミトンで包んだ手で天板を運ぶヘイノ。その様子を後ろから見守るステファニー。コレットは美味しそうな匂いに、ついつい二人の後ろをついて回っている。
「…………」
まるで、一枚の家族写真のような情景から目を逸らして、ヨニは水でいっぱいになったケトルの蓋を閉めた。
***
赤々と燃え上がる炎は、いつも心を暖めてくれるものだと思っていた。
暖炉の周りには、いつも家族が集まって昔話を教えてくれたり、聖典の内容を噛み砕いて説明したり、時には歌を歌ったり。そんな日々の中心に、炎は赤々と存在していた。
長く寒い冬に閉ざされる村では、炎は文字通り生命線だ。火聖石は聖堂や町の広場のような主要施設にはあれど、各家庭に置くほどの余裕はなく、長い冬が訪れる前に薪を集めるのは幼い頃からの大事な仕事の一つだった。
だから、だろうか。最初、それを目にした時、そんなことを言ったのは。
「……きれい」
そんな、場違いなことを呟いてしまったのは。
あの日も、とても寒い日だった。久しぶりの里帰りにはしゃいで疲れて、くたくたになって寝床に潜り込もうとして、自分はハッとした。
「あれ、どこいったんまろ」
自分の左手の人差し指にはめていた、オパールのはまった指輪。ようやく司祭として認められた証として、学校で与えられたもの。
無くしたのなら、きっとこっぴどく叱られる。それでも、叱られる以上のことは起きないだろうが、自分にとってはあれでなくてはならない理由があった。
「ヘイノと揃いにしてほしいなんて、もう聞いてくれないだろうし」
あれは、自分の片割れと揃いの品なのだ。無くしたら、きっと同じものをもう一度、などと聞いてはくれないだろう。何より、同じ日に同じ場所で授与された思い出こそが、自分にとっては大事なことだった。
(多分、教会で落としたんだ。一度外したからその時に)
思い立ったら行動してしまうのが、自分のサガらしい。こっそりと部屋から抜け出て、着慣れた厚手のセーターとごわごわした分厚い生地のズボンに着替え直し、コートを手に取ってそっと外に出る。
夜闇に浮かんだ月は、人の骨のように青白かった。雪かきされた道を掻き分けるようにして進んだ先には、月に照らされた黒々とした教会のシルエットが見える。木造建築のそれは、夜に見ると聖都の教会よりはよそよそしく見える。
しかし、自分にとっては父と母の仕事場であり、慣れ親しんだ場所だ。裏口の場所も、少し壊れた柵の位置も、開けるのに癖があるが鍵が必要ない木戸の開け方も把握している。
裏口から教会の敷地内に忍び込み、建物の裏手につながる木戸をそっと開けて、中に侵入する。司祭や関係者たちだけが入れる場所を手探りで探り、小さな明かり取りの窓を開けて、月明かりが差し込んだ部屋の中、蝋燭に火をつけてカンテラに入れる。
明かりがなければ、礼拝堂は真っ暗で何も見えない。そんな中で指輪を探すのは、深い池の中で一粒の真珠を探すようなものだろう。だからといって、灯りがあるから劇的に何か変わるものでもない。深い池の中に針ほどの光が差し込んだ程度の変化だ。
(明日を待てばよかったかな……でも、何かの弾みで踏まれたりして壊れたら嫌だものな)
暗闇に一瞬足がすくむものの、カンテラを顔の前に持ち上げてどうにか周囲に灯りを齎し、目を皿のようにして礼拝堂の床を確認する。
ステンドグラスが月の明かりに照らされて、床板の上でちらちらと輝きを放っていた。その中で光るものがないかと、慎重に歩みを進める。
十分経ったのか。あるいは三十分近く地面に這いつくばるようにして探していただろうか。冷え込んだ礼拝堂のせいで身体がこわばりかけた頃、
「あった……!」
ようやく、椅子の下に転がっている小さな指輪を見つけた。今日の説法を聞いている椅子の下より少し離れたところに、指輪は転がっていた。外して付け直したつもりが、何かの拍子で落ちて、ここまで転がっていたのだろう。
カンテラの灯りで確認した限り、特に傷や汚れもない。無事に戻ってきた指輪にほっと安堵したときだった。
ふと、視界にあるはずのない灯りが点ったような気がした。それが、最初の違和感だった。
「誰か、きたのかな……」
見つかったら、当然ながら怒られるのは目に見えている。せめて両親ではないことを祈りながら、固唾を飲んで足音を待つものの、足音どころか人の気配すらしない。
そもそも、差し込んでいる灯りが入り口ではなく、裏口からでもなく、窓の向こうからのものだと気がついた自分は、恐る恐る窓へと近づいた。
そして、思わず息を呑んだ。
――その光景が、あまりに非現実的で、美しかったから。
まるで、自分は幼い頃に読んだ幻想的な童話の世界に迷い込んだのかとすら思った。
「きれい…………」
雪と氷で閉ざされた故郷では、冬ともなれば世界はほとんど白一色に染まる。だが、今目の前にあるのは、鮮やかな朱とも赤とも言えぬもの。
――炎。
しかも、焚き火や暖炉のように小さなものではなく、まるで天に届かんばかりの、炎の波。
炎が燃えるには薪や燃えるものが必要なはずなのに、その炎の波は、枯れ木がはるか凍土の下にあるはずの雪の上でもお構いなしに、海のように広がっていた。
炎は、当然ながら、明かりを齎す。これだけの巨大な篝火のようなものがあれば、礼拝堂が明るくなるのも自明の理だ。
暫し、溢れかえる炎の波に陶然と見とれていた自分は、その完成された炎の波の調和を乱すものを見つけた。
ふらりふらりと歩く、小さな松明のように似た炎の形をした不思議な生命――最初はそう見えた。だが、徐々に陶酔から覚めた自分は、それを見て気がついてしまった。
「もしかして、あれって……」
たしか、教会の近くには一軒の家があったはずだ。まだ若い夫妻と、数年前に生まれた女の子がいて、随分と見ない間に大きくなったものだと今日話したばかりで。
――あの子は、ちょうどあの炎と同じくらいの背丈ではなかったか?
そう思った矢先、小さな炎の前に、ふわりと誰かが舞い降りた。その姿を見て、今度こそ自分は呼吸が止まったかと思った。
炎に浮かび上がった、鮮やかな朱の長い髪。熱から生まれる風でなびくそれらの下にうっすらと見える面差しは、どこか愉快そうな笑みを浮かべていて。人に似た造作をしているからこそ、よりはっきりわかる。およそ人ではなし得ない、何かがずれた感情が、それの顔に浮かんでいるのだ、と。
その人影は、ゆらりと手を伸ばした。誘われるように、少女だったものが、そちらへと歩み寄る。
一つ、二つ、歩いた末に、炎に包まれた腕がそれの指に伸びる。それは少女の残骸のような炎を片手で易々と掴み上げ、
「…………喰ってる」
おそらく首だっただろう場所にそれが口を寄せると、待っていたように炎に包まれた体が崩れ落ち、それの口へと流れ込み、消えていく。
時間にして、ほんの数秒の出来事。あたかも、屋台でちょっとした軽食を買って頬張ったかのような、自然な仕草。
だからこそ、異常である、とわかる。
赤々と燃え上がる炎の波の中、炎自身から生み出したようなそれの姿は、あまりにこの異常な光景に溶け込みすぎていた。
炎から編み出されたような朱の長い髪。炎そのものを石として嵌め込んだかのような赤い目。釣り上がった眼窩に宿る感情の色は、遠目からでも、人の倫理観など残っていないだろうとわかる。
ゆえに、見慣れた村を炎の波で呑んだのは、それのせいだと理解せざるを得なかった。
人では到底なし得ない、超自然的な権能を易々と振るう、人に似ている姿をとっていたとしても、決して人ではない存在。
その存在を、はるか数百年前から人々はこう呼んでいる。
――精霊、と。
(どうしよう、どうしようどうしようどうしよう)
頭の中で警鐘が鳴り響いている。逃げなくてはならない、というのは頭では理解していた。
だが、どこに行けばいい?
歯の根が合わず、寒さとは別の意味でガタガタと体が震えている。二本の足で立てているだけ、奇跡のようだ。
だが、そんな自分の様子など知らぬふりをして、それはゆらりと歩き出す。向かう先にある建物が何か、などというのは、この村で十年と少しを過ごしてきた自分にはすぐわかった。
「父さん、母さん……ヘイノ――っ!!」
あの炎の波に飲まれたら、一番大事なものすらあっけなく消されてしまう。
自分が行ったところで何ができるわけではないと分かっていても、あの日の自分は駆け出さずにはいられなかった。
そして――――。