二章

 冬が訪れると、春が来る。それは毎朝日が昇り、夜になると日が沈むのと同じように、不変の理屈だ。
 徐々に日が昇るのが早くなってきたと感じながら、ヘイノは家の庭で大きく伸びをする。普段は司祭服姿の彼も、今は質素な長袖のシャツに作業用のごわごわしたズボンを穿いていた。
「朝から野良仕事なんて、ほんと、アナさんは人使いが荒いよねー」
 伸びをしていたヘイノに近づいて声をかけたのは、同じような作業着姿の双子の弟、ヨニだ。
 ヘイノは一年前の事件から、ヨニも含めた過去の記憶のほとんどを喪失している。一方、ヨニはそのことを知らない。そんな絶妙なバランスの上で、ヘイノは今日も素知らぬ顔で日々の作業をこなしていた。
「野良仕事、と言いますけれど、景観を整えるのは大事なことですよ。司祭の家の庭が雑草伸び放題では、品位が疑われます」
「それはそうかもしれないけれど、さ!」
 ぶつくさ言いつつも、ヨニは早速身を屈めて冬の間は枯れていた雑草たちをショベルで掘り返して脇に寄せていく。ヘイノも彼を見習い、花壇の目算を立てながら、枯れ落ちた葉を脇に寄せた。
 普段からある程度の掃除をしているが、ここまで本格的な作業はヘイノにとっては初めてだ。ヨニは幾らか経験があるのか、ヘイノより幾らか手つきに迷いがない。
 本来なら専門の庭師を一時的に雇ってしまってもいいのだが、これも経験のうちとアナに命じられたのが一昨日のこと。実際、町の人々から尊敬の眼差しを送られることが多い司祭が荒れた家に住むわけにはいかないと、二人して庭先の整備に駆り出されたのである。
「そういえば、庭先にあるあの木、あれって何の木なんですか?」
「あれは……林檎かなぁ。桜かも」
「随分といい加減な……」
「だって、白い花がつくってことしか、俺も知らないんだもの」
 ヘイノも草木に関して造詣が深いわけでもない。ヨニに返す言葉もなく、今度花が咲く頃にステファニーに訊いてみようと心に留めておくことにした。彼女は庭も丁寧に整えているので、草花についても詳しいだろう。
「今年は何を植えようかな。あっちのあたりはチューリップが咲くから、そのままにしておくとして、野薔薇も放っておいても咲くだろうから……今年はパンジーとか貰ってくればいいかな」
 雑草たちをどかして露わになった土の表面を、ヨニのショベルが小さな筋をつける。庭に元々ある植物のうち、季節を跨いでも咲き続けるものはそのままに、ところどころに年を跨いで咲くことはできない植物を用意するのがアナなりの庭造りらしい。細かい采配は、当然ながら双子に丸投げされていたが。
「どうせなら、もう少し背丈が出る植物も植えたらどうでしょう。パンジーなら濃い色が多いですし、淡い色のものも混ぜてみては?」
 落ち葉たちを一箇所にまとめて、小さな築山を作りつつヘイノは問う。
「うーん、それは誰かに相談したほうがいいかも。花の良し悪しは俺は専門外だからさ」
 ヨニの言うように、ヘイノも雑多な知識はいくつかあれど、園芸に関してはお手上げだ。それなら、他者の助けを借りるのがいいだろう。町の人間は郊外に住む者ほど、広い土地を使って庭にいくつかの植物を植えている。余った株が渡されることもある、とはヨニの談だ。
「ああ、でも、ハーブは植えておいた方がいいかな。タイム、セージ、あとは……ハッカを取り分けて育てておこうか」
「料理に使いますからね。それと、虫除けにも」
「ご近所からもらうのにも、限界があるからねー」
 話をしつつ、ヨニは土に概ね筋をつけて、新たに花を植える区域、ハーブを育てる区域、元々何かが植わっている区域をわけていく。去年の種子が残っているものは撒いてしまおうと、ヨニは一度家にとって返して、小さな袋を持って帰ってきた。
「そうだ、ヘイノ。先に言っておかなきゃならないことがあった」
「はい、何でしょうか」
「庭に、青い花は植えないようにしてほしいんだ」
 唐突な指示に、ヘイノは思わず一度瞬きをしてヨニをまじまじと見つめる。
 自分の中にある知識を紐解いてみても、司祭の家に青の花を植えてはならないという規則はなかったはずだ。
 強いて言うなら、聖石の――しかも精霊よけになる白の聖石の色をみだりに使うな、という意味で白を避けたい、と言うのならまだ理解はできたのだが。
「構いませんが、何か理由があるんですか」
「アナさんが……何だか嫌そうな顔をするから」
「嫌そうな顔?」
 随分とぼんやりとした物言いだと、ヘイノは首を傾げる。
「前に、青い花を植えたんだよ。たしか、ネモフィラだったかな。それで、たくさん咲いたから家に飾ろうとしたら、何だかこう……少し怖い顔をして、『その青は部屋に飾らないでくれるかしら』って言われたから。多分、青い色に良い思い出がないのかなって」
「そうだったんですね。……普段はそうは見えませんが」
 日用品の中に、青を全く使わない品ばかりがあるわけではない。部屋の中には、青色と呼べる色に一部染まった家具や食器だっていくつかあるのだから。
「それに、教会のステンドグラスは青が主体になっていませんでしたか」
「さあ。教会のステンドグラスだから気にしていないってだけなのかも」
 ステンドグラスというのは、それだけである種の工芸品ではあるのだが、教会にあるものはとりわけ芸術としての色味が強い。ヘイノも、毎日訪れるたびに変わる微細な青の変化に、幾度か息を呑んだものだ。
 何かの理由で青が嫌いになったアナにも、あのステンドグラスの美しさだけは認めているのかもしれない。
「それなら、青い花を咲かせないものだけを……この辺りに撒けばいいですか」
「うん、その周辺なら空いてるから大丈夫。これから朝夕の水やりもしないとだね。あれ、疲れるんだよなあ」
 ぶつぶつ言うヨニの気持ちも、ヘイノには少しわかる気がした。幸い、庭にも井戸はあるが、錆びついたポンプを動かすのはなかなかに力が必要だ。誰だって、朝早くから起きて力仕事はしたくない。
「花が咲いたら春が来たという感じがするのですから、愚痴らないでください」
「まあ、花は嫌いじゃないけどね。だけど、生誕祭の準備もあるのに庭仕事もしなきゃいけないって、見習いのやること多すぎだよ」
 ヨニの言う生誕祭とは、聖導教の始祖である女性ユノーが生まれた日を祝して行われる祭事のことである。
 聖都ではどちらかというと説法が主となる道徳的な祈りの場としていたが、多くの町では春の到来を祝う祭りと兼ねて行われるので、浮かれ騒ぎの側面が強いとは小耳に挟んでいた。
「そうは言っても、多少掃除が多くなっただけじゃないですか。説法の準備も、いつもより少し多いだけでいい、と聞きましたよ」
「それはそうだけどさ。終わった後のお菓子の準備もしないとだから、休んでる暇なくて疲れるよ」
「その分、日頃の学校はお休みなんだから、こちらに集中しましょう」
 ヘイノの言う通り、生誕祭の時期は司祭見習いとしても忙しいことと、春に向けての準備のために子供たちの手を借りて作業をする家もあるため、日頃の学校は一時的にお休みになっている。
 具体的な日取りは決めなくても、大体このくらいの時期は休むもの、と皆示し合わせたように行動するのは、このような小さな町ならではの習慣と言えよう。
「まあ、当日は説法が終わったら俺たちも自由にしていいって言われてるものね。ヘイノはもちろん出かけるよね?」
「はい。コレットに誘われてますので、広場の方に行って出店の様子を見て回ろうかと。今回も、お店が出ると他の子供たちから聞いてきたようです」
「なら、俺もついていこっかな」
「ええ。彼女も喜ぶと思いますよ」
 以前、市に行った時もそうだったが、ヘイノが来るまでは、ヨニはあまりこの手の賑やかな場には行ってなかったらしい。正確には、行ったとしても一人で出かける機会が多かったようだ。
 同年代の少年は町にもいるだろうが、司祭という立場もあって簡単に交友関係を広げられなかったからだろう。だからこそ、弟と外出して、その気晴らしに付き合うくらいならお安い御用だとヘイノも思っていた。
(幸い、ヨニは違和感は持ってないようですし……)
 最初こそ、久しぶりの再会のせいか言葉遣いを気にしていた時もあったが、今は指摘されることもない。お互いの位置に慣れれば、意外と何とかなるものだとヘイノもホッとしていた。
「さて、そのためにもさっさと庭の方を終わらせないとね」
 なんだかんだ言いながら、花壇のそばに腰を下ろして、綺麗に撒けるように最後の調整をしていたり、そもそも花の種をちゃんと残していたりするところから察するに、このような園芸作業自体をヨニは嫌いではないのだろうと、ヘイノは推測していた。
 ヘイノの記憶にはないが、自分達はかつて北方の雪と山に囲まれた場所で暮らしていたらしい。ならばこそ、緑萌え出る温かな気候の町での生活は、ヨニにとっては新鮮で面白いと感じることなのかもしれない。
 だからこそ、ふと思う。
「緑豊かになることは俺たちにとっても自然にとっても恵みのはずなのに、どうして精霊は人間を襲うんでしょうね」
 精霊、という存在は、少なくともこの国においては厄災の代名詞となっている。国の来歴が、精霊を率いた魔法を操るものたちに迫害されたものが集ってできた、ということもあるが、それ以前の問題として、精霊が勝手気ままに行動すれば、その被害が甚大なものになると言われているからだ。
 実際精霊自体を目で目にした人は少ない――目にした人の殆どは命を落とすからだ。
「意図的に人間を襲っているようには見えないこともありますし、何かの法則や理由があるのかもしれないと、以前先生たちも話していましたが――」
「そんなの、どうでもいいよ」
 自分に語りかけるように話していたヘイノの言葉を、ヨニの冷えた声がばっさりと断ち切った。
 思わず、片付けをしていた手を止めて、ヘイノはヨニを見やる。ちょうど、種を植えるために、ヘイノに背を向けていたため、ヨニの表情は見えない。
「あいつらがどんな理屈があってあんなことをしているとか、そんなの、どうでもいい」
 だが、ヘイノは、一瞬、見えなくてよかったと思ってしまった。
 見えたとして、自分は彼にどんな顔をするべきなのか、全くわからなかったのだから。
(俺の記憶には残ってないけれど、ヨニの中には確かに残ってるんだ……)
 故郷が文字通り消滅したと聞いても、ヘイノには未だに実感がなかった。
 十数年共に過ごしていた家族も隣人も、おそらくは見慣れた家並みや景色すらも、ヘイノの中には存在しない。あるのは、報告書として与えられた故郷の様子と、亡くなった人の名簿だけ。名前を見てもそこに実感はなく、ひょっとしたら都合よく何かを思い出すのではないか、と抱いていた期待はあっさりと裏切られた。
 だからだろうか。ヘイノは自分の故郷を滅ぼした精霊に対して、村を滅ぼしたという事実に対する恐れこそはあるものの、それ以上の感情は持ちようがなかった。
「俺は、精霊のことなんて知りたくないし、理解もできない。あいつらは化け物だ。人間と同じような姿をしていても、人間の心なんかない」
(…………ヨニは、見たんだろうか)
 報告書では、二人がいた村は建物の一つも残さず全て消えていた――正確には燃え尽きていた、とあった。冬であったなら、間違いなく厚い雪に覆われていたはずなのに、地面すら露出していたという。
 ――まるで、超高温の炎でも村に投下したかのような。
 ヘイノの過去の記憶がどこで途切れたのかは、当然ながら記憶にない。だが、目覚めた時にひどい怪我をしていたのも事実であったし、ヨニも同様の負傷をしていたので、何かの理由があって精霊が二人だけ見逃したか、単に見落として立ち去ったのだろう、と想像していた。
 自分は気を失っていたからこそ、ヨニもそうなのだろうと思っていたが――しかし、本当にそうなのだろうか。
「これでよし、と。じゃあ、ヘイノ、後の水やりよろしくー」
「えっ!? あ、あぁ……はい、わかりました」
 急に陽気な声で呼びかけられ、ヘイノは虚をつかれて、思わず狼狽して変な声を出してしまった。
 先ほどまで、確かにはっきりと黒く燃え盛る瞋恚の炎の気配を感じていたのに、今は何事もなかったかのように、ヨニはヘイノがまとめていた庭具を手に取って倉庫へと歩き出していた。
(俺は、ヨニと同じ気持ちを持つべきなのだろうか――……)
『ヘイノ』ならどうしたのだろうか、と問いかける。当然ながら、彼は答えてくれない。失われた記憶は欠片も手にすることができず、与えられた一年の生活で得た今のヘイノなりの感情では、ヨニの心に寄り添えない。
 結局、ヘイノは数度かぶりを振り、今しがた耳にした言葉を、感じ取った感情の端を、そっと心の片隅に仕舞うことにしたのだった。
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