一章

「せんせー達! こっちに変な虫がいるよー!」
「待ちなさい! せんせーたちにそんな変なもの……」
「ほら、アメリアも見てよ。足がいっぱいある」
「きゃあっ!?」
 子供たちの甲高い悲鳴と笑い声を聞いて、慌ててヘイノは彼らがいる方へと駆け出した。
 今日は先日話した外の授業――もといただのピクニックの日だ。
 ティモスの町の郊外にある細い小川の付近を、ヘイノとヨニは子供たちを連れて遊びにきていた。名目上はスケッチの時間と花の観察の時間としているが、幼い子供たちはもっぱら遊ぶことに注視している。
 冬の足並みは少しずつ遠ざかり、日が出ている頃はほっと一息がつくような日差しが差し込むようになった。子供たちも羽織っていた上着を放り出し、身軽な服装でそこかしこを走り回っている。
「ケネス、嫌がってる子に虫を見せるのはやめなさい。それに、この季節は虫も寒くて休んでる頃なんですよ。連れてきたら寒くて震えてしまいます」
「えー、そうなの? 何かのろまだなあって思ってたけど……」
「ええ。冬は気温が下がって虫たちのご飯もないので、動かずに休んで春を待つこともあるんです。元のところに返してあげなさい」
 子供が近くに生えている立木に虫を戻しに行ったのを確認してから今度は突然至近距離で虫を見せられて驚いて泣いているアメリアの涙を、持っていたハンカチで拭う。
「び、びっくりしただけよ。これくらい平気だわ」
「そうですか? アメリアは強い子ですね」
「そうよっ。わたし、ケネスよりも強いレディだもの!」
 彼女が胸を張った矢先、エプロンに覆われていたワンピースから盛大に腹の虫の音が響く。真っ赤になった彼女の頭を柔らかく撫でてから、ヘイノは「おやつにしましょうか」と声をかけた。
 
 ほうぼうに散った子供たちを一箇所に集めるのは、羊飼いが羊を追い立てるのに似ている。ヘイノとヨニはどうにか川辺に子供たちを集め、用意していたおやつ代わりのサンドイッチやビスケットを渡して、どうにか彼らを釘付けにすることに成功した。
「ヘイノ先生、皆さんの様子は私とアメリアたちで見てますから、休憩していてください」
 どうにか一息をついて座り込んでいたヘイノに、そっと声をかけるものがいた。
「あと、こちら……おばあさまが、お二人の分が足りなかったらって、余分にサンドイッチを用意してくれたんです」
「ありがとうございます、コレット」
 彼女が差し出した小さなバスケットを受け取り、ヘイノは柔らかい微笑を見せる。そうすると、コレットはまるで一足早く春が訪れたかのように、頬を薔薇色に染めた。
 あの一連の事件から、既に一週間と少しが経った。事件の決着の後、一番の問題となったのはコレットをいったい誰が世話をするということだった。ヘイノは自分が面倒を見ることになっても構わないと言い張っていたが、こちらについては思いがけない所から助け舟が出された。彼女が盗みに行った先の家こと、ステファニー女史がコレットを引き取ると言ってくれたのである。
 もとより、彼女は年寄りの一人暮らしを不便に思い、手伝いをしてくれる女中を探しているところだった。コレットのように家事手伝いの経験がある子供は、むしろ渡りに船だったのである。聞いた話では、彼女の親戚は皆別の街に住んでいるので、すぐに連絡を取ることもできないそうだ。ゆえに、なおのこと、家の中のことをして自分の身の回りの世話をしてくれる人を必要としていたようだ。
 無論、ステファニーは今までのコレットの雇い主と違って、彼女を実の孫娘のように可愛がっているらしい。コレットも、唯一の不満として「おばあさまはあまりにのんびりしていて、家の鍵を開けっぱなしにして出て行くから気が気でないんです」とのことだった。
 痩せて青白かった体躯も、少しずつ栄養のある食事のおかげで改善しており、今は前よりも血色のいい顔で笑うようになっていた。着ている衣服も、季節に合った温かなものに変わっており、教室の中で寒そうにしている光景は見られなくなった。コレットがヘイノの纏う上衣を見て、少しばかり残念そうにしているのは、ヘイノの知らぬことである。
「何かあったらすぐに呼んでください。俺は、ヨニの方を探してきます」
 まだ全員集まったと知らずに、ヨニは子供を探しに行ったままだ。ヘイノはコレットが預かったバスケットを片手に、ヨニを最後に見かけた方角に向けて歩き始めた。
 
 ティモスの町は中心部の商店や職人の暮らす地域から外れると、緑がぐっと増える。細い川を辿った先には池があり、丘を登れば農園として開墾された畑と小さな家々が見えた。
「いったい、どこまで行ったのかな。あまり遠くに行ってないといいんだけど」
 ヘイノよりも行動力のあるヨニが、こちらの想像以上にずっと遠くに行ってしまった、ということは大いにあり得そうだ。慎重に周りを見渡しながら、あの見慣れた金髪と黒衣の姿を探し出そうとしていた時だった。
「……何か聞こえる。……歌?」
 川のせせらぎや鳥の鳴き声、木々が風に揺れて響く葉擦れの音に混ざって、小さな歌声が聞こえた。声は低くもなく、かといって高くもない。ただ、あまりに細い声なので、吹いた風によって吹き散らされてしまいそうに聞こえた。
「ヨニ?」
 声を辿るように歩いた先、やや小高くなった丘の岩の上に腰掛けて、誰かがいる。誰あろう、それはヨニの姿だった。
「――ヨニ!」
 今度こそ大きな声で呼びかけると、歌がふつりと止んで、彼が振り返る。気づいてもらうために仕方なかったとはいえ、あの歌声が聞こえなくなったのは、ヘイノにとっては少し残念だった。
「ヨニ、こんなところにいたんですね」
「あ……うん、ごめん」
 仕事をサボっていたことを咎められたと思ったのか、ヨニは開口一番に謝罪の言葉を口にする。しかも、いつもの軽快さがなく、妙にしおらしい。
「子供たちはコレットとアメリアに任せてきました。ケネスたちもあれでしっかりしてるから大丈夫だと思いますが……ヨニ、どうかしましたか?」
「えっ…………ああ、いや、怒らないんだなって」
「怒ってはいませんよ。勝手にいなくなったので探す手間は増えましたけれど、これくらいなら…………」
 そこまで言って、ヨニの表情から察するに、どうやら自分は何かずれた回答をしてしまったらしいとヘイノは気がつく。ひょっとしたら、ヨニの中にある兄と違う振る舞いをしてしまったのかと、ヘイノはぎくりとした。
 普段の日常生活で、ヨニは昔のヘイノと今のヘイノを比較するようなことはほとんど言わない。せいぜい、出会ったその日に言葉遣いについて指摘したくらいだが、それも結局有耶無耶になってしまっている。今は敬語で話しても、特に気にしていないようだった。
(だけど、俺は何を怒ればいいんだ? 勝手にいなくなったことも、仕事を途中で抜けたことも違うようだし……)
 そこまで考えて、ヨニが先程までしていたことを思い出す。
(歌っていたこと……? あの歌声に? でも、何で昔の俺はそんなことに怒っていたんだ?)
 殊更に、音を外しているようにも聞こえなかった。聞き馴染みのない音律で歌詞もあるかないか分からないようなか細い歌声だったが、むしろずっと聞いていたくなると思うほどに透き通っているとヘイノは感じていた。
 だが、おそらく、かつてのヘイノはヨニの歌が好きではなかったのだろう。だからといって、歌うな、と怒ることもヘイノには出来なかった。
「ん、気にしてないならいいんだ。それより、ヘイノ。髪に葉っぱついてる」
 立ち上がりつつ、ヨニはヘイノの髪に手を伸ばす。どうやら、ヨニを探して歩き回っているうちについてしまったらしい。
 ヨニはそれを軽く畳むと、口元に当てて勢いよく息を吹き込んだ。ぷーともぶーとも言えない、不思議な音が二人の間に響く。
「今の、どうやったんですか?」
「草笛のこと? そんなに難しいことじゃないよ。ここをこうやって畳んで巻いて、息を吹くだけ」
「……言うほど、簡単そうに見えないのですが」
 話をしつつ、ヘイノは自分の服についていた葉っぱを同じように畳んで、息を吹き込んでみせる。だが、ヨニの草笛のような音は響かない。
「……難しいですね。子供たちに教えたら、面白がるかと思ったんですが」
「アメリアとケネスたちには去年教えたから、ヘイノより上手いと思うよ」
「む……それは、俺が吹けないと思ったら、また色々言われそうな気がしてきました」
「戻るまでに練習すればいいよ。それやり、そっちのバスケットは?」
「ステファニーさんが、俺たちにサンドイッチを作ってくれたそうです」
 ヘイノがバスケットを持ち上げて示してみせると、ヨニは目を輝かせた。ステファニーはコレットが思わず夢中になってお菓子を食べてしまったほど、料理上手なのだ。
「助かるなあ! 皆の分は準備できたのに、ヘイノが俺たちの分を勘定に入れ忘れたせいでさあ」
「それは、出かける前に謝ったじゃないですかっ」
 笑いながら、子供たちのいる方向へと駆け出すヨニ。彼の後を追いながら、ヘイノは先ほど作った草笛を口に当て、ふーっと息を吹き込む。すると、どうだろう。今度はぴーぷーと音が響くではないか。
「ヨニ、できましたよ!」
「おっ、やるじゃん。これでアメリアたちに馬鹿にされずに済むね」
「ええ。何とか面目を保てそうです」
 話しながら、ヘイノはもう一度草笛を吹く。
 春の訪れを告げる風が、彼の拙い音を、空高く運んでいく。後を追うように、今度はヨニの草笛の音が重なる。
 そうして、双子笛の合奏は、子供たちの元に戻るまで続いたのだった。
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