一章
コレットの告解を聞いたあと、ヨニがヘイノとアナに提示したある考え。それは、彼女の会話の中で見つけた不可解な点の指摘だった。
掃除をさせるために連れてきたのに、空き瓶を持ち出すことを頑なに拒否した。それは少なからず持ち込んだ酒の中で、外に出しづらいものがあったということの証拠ではないか、と。
折りしも、ヘイノは初めて彼の家に行く前に、店に並ぶ前の新しい酒が行方しれずになっている話を聞いていた。それに、大して仕事もしていない様子なのに、酒だけは毎晩しっかり飲んでいる様子であることも気になった。この町において、決して酒は安く得られるものではない。だからこそ、買うよりは安く済むからと自家製の酒を作るものもいるくらいなのだから。
照らし合わせると、彼が外部から不正に持ち込んできたのは、コレットに盗ませたものだけではないことが浮き彫りになる。無論、これはただの推測であり、裏を取るためにヘイノとヨニは方々の酒場に赴き、行方知れずになった酒の瓶とコレットが家の中で見ていた空き瓶のラベルが一致するかを、いくつか確認する必要があった。
裏をとれたら後は部屋に上がり込み、できることなら彼の口から自白を得れば言うこと無し――ではあったのだが、問題はいくら粗暴な人間でも後ろ暗いことをそうそう口にすることがないだろう、という点だった。
そのため、彼を挑発して口を破らせる役をコレットに任せることにしたのだった。
「結果的に上手くいきましたが……コレットが矢面に立つ必要はなかったと思うんですが」
「おじさんは、知らない人には用心深いところがありますので……私がああやってその……偉そうなことを言わなかったら、素知らぬ顔をしていたかもしれません」
コレットとヘイノが話をしているのは、ヘイノの自室だった。あの汚れた家に彼女一人残していくわけにもいかないので、ひとまずヘイノが部屋を貸すことにしたのだ。
とはいえ、流石に同じ部屋で休むのはどうか、とアナが口を挟み、アナの寝台で一緒に眠ることにしたらしい。今はアナが明日の支度をしているとのことなので、時間を潰すついでにヘイノの部屋にやってきていた。
「それよりも……私はやっぱり、先生に驚きました。あんな風に、簡単に捕まえてしまうなんて」
「簡単ではありませんよ。それに、あれは学校にいた時に、少し教えてもらっていたんです。もしかしたら、危ない赴任地もあるかもしれないからと」
本来なら神学校でそんなことは教えないので、あれは指導をしてくれた教諭なりの優しさだったのだろう、とヘイノは振り返る。簡単な護身術のようなもので、実戦に使えるかどうかは怪しいと言われていたが、存外何が役に立つかは分からないものだ。
「……あまり、褒められたことではないですよ。言葉で説いて気持ちを改めて頂けるなら、それに越したことはありません」
ヘイノが司祭としてあるべき姿を説明すると、コレットは気落ちしたように肩を落とした。自分がしたことを思い返して、気に病んでいるのだろう。
彼女の様子を見て、ヘイノは椅子に座ってるコレットの前で膝を折り、見上げるようにして彼女を見つめる。
「自分が犯した過ちを気にしなくてもいい、とは俺の立場では言えません。でも、コレットがあのことをずっと思い悩んで立ち止まっているのは、俺としては悲しいです。ですから、その……忘れはしなくても、せめて、前を向いてはみませんか」
たかだか一年の付け焼き刃で身につけた知識で説くのではなく、彼女の心に染み込むように己の言葉を探りあて、ヘイノは思いを声に載せる。少しずつ顔を上げるコレットに、ヘイノは淡い微笑を向けた。
「過ちは消えなくとも、償う思いを持ち続けること。それが、大事なんだと俺は思いますよ」
「…………そんなことで、いいんですか?」
「はい。怖い人たちに咎められることだけが、償いではないでしょう」
無論、社会的には牢に入らなければならないこともあるのだろう。しかし、今の彼女に必要な措置ではないとヘイノは信じていた。
おずおずと頷く少女の頭を、ヘイノはそっと撫でる。自分より年下とはいえ、一人の人間を諭すのは、思ったよりもずっと難しい。
「ヘイノ先生。もし……もし、私がまた間違ったことをしそうになったら、その時は……ちゃんと、教えてください。……叱って、ください」
「はい。……ああ、それなら、俺からも。もし俺が間違えそうになったら、コレットが叱ってください。そしたらおあいこですね」
「先生が間違えること……あるんですか?」
「ありますよ。……嘘を、ついたこととかも、あるくらいですから」
今もついている嘘のことを思い出し、ヘイノの笑顔がわずかに曇る。コレットはそれに気づかなかったようで、ぱちぱちと目を瞬かせていた。
「そういえば、ヨニ先生……あの、怪我は大丈夫でしょうか」
家に帰ってから、ヘイノはヨニに手当を優先させるように言って部屋に押し込んでいた。夕飯の時には顔を見せていたが、彼が負傷した箇所は司祭の制服に隠されてはっきりとはわからなかった。
「手当てはしたはずでしょうし、暫くしたら落ち着くと思います。気になるなら、様子を見てきましょうか」
「いえ、もう寝ていたら起こしてしまいますので……」
そこまで話してから、コレットは何か言いたげにじっとヘイノを見つめる。どうしたのだろうか、と首を傾げて、彼は彼女の言葉を待った。
「あの、ヘイノ先生。先生は……」
そこまで言いかけて、コレットは再び口籠る。その様子は、ちょうど市場で彼女がヘイノに出会ったときの様子に似ていた。
「言いたいことがあるようでしたら、聞きますよ」
「本当に……大したことではないんですけれど。ヘイノ先生は……ヨニ先生のこと――苦手、なんですか?」
尋ねられた瞬間。一瞬、ヘイノは息を止めてしまった。
自分が何を言われたのか理解し切る前に、コレットが続く言葉を口にする。
「……ヘイノ先生、ヨニ先生に間違えられた時、気のせいかもしれませんけれど……ちょっとだけ、辛そうな顔をしていた……と思って、それで……少し気になってました」
「……そう、だったんですね」
平静を装うのは、難しかった。今が夜で、燭台の明かり以外はろくに照明がないことが、ヘイノにとってはありがたかった。
自分がどんな顔をしているのか、今の彼には到底分からなかったのだから。
「単に、見間違えられることが苦手なだけ、ですよ。双子ですから、仕方ないとはわかっているんですけれど」
自分とヨニの境界線が曖昧になればなるほど、一年分の記憶しかない自分がようやく集めた『ヘイノ』という像が薄れてしまう。だから、間違われたくないのだろう――ヘイノは己に対してそう結論づけた。
「それなら……間違えないように、私も気をつけます」
「そうしてもらえると、助かります」
今度は、違和感のない笑みを浮かべ、コレットの決意に応じてみせることができた。
***
室内に光聖石を使わない家は、夜になれば軒並み薄闇に支配される。灯りのない場所は茫漠とした暗闇に包まれ、家のものは蝋燭を燭台に立てて移動するのが常だ。
そして彼もまた、燭台を片手に居間へと足を向けていた。厨房も兼ねた居間には、水を汲みあげるポンプがある。水を飲むにはそこに行くしかなかったからだ。
しかし、
「あら、ヨニ。どうしたのかしら。もしかして、傷が痛むの?」
居間から聞こえてきた彼女の声に、ヨニは足を止めてそちらに燭台を向ける。
淡い暖色の光の中、彼女――アナの姿はまるで絵画の中の聖人のように見えた。
「アナさんこそ、こんな所で何してるの?」
「見ての通り、今回の件の調査依頼よ。皆、誰も気にしていないようだけれど、火聖石の劣化品が市場で取引されているなんて、聖導教の本山では到底許されていないことなの。放置していたら、後で判明した時に私が責任を問われるわ」
「アナさんらしいな、その言い方」
聖導教の尊い教えに従い、などと彼女は言わないだろうと、ヨニには分かっていた。
コレットの件でもそうだが、彼女は聖導教の教えを説く立場でありながら、他者に対して慈悲深いとか、倫理観を遵守した行動をする、といったことがない。良くも悪くも、彼女は平等であり、己の信じたものにのみ殉じている――ヨニには彼女がそう見えていた。
ヘイノなら顔を顰めるかもしれないが、ヨニはアナのからっとした態度が嫌いではなかった。
「それに、あなたがまだ起きているようだったからね」
「あれ、心配してくれていたの?」
「いえ。もし会うことがあったら、ちょっと確認したいことがあったの」
「へえ、何を?」
話しつつ、ヨニは椅子を引いてアナの前に座る。そうするとアナの澄んだ春の川のような青緑色の瞳がよく見えた。
「どうして、わざと正面から殴られるような真似をしたのかってこと」
アナがさらりと言った言葉に、ヨニはいつもと変わらぬ笑顔で応じる。いっそ変わらないことが不自然なほどに。
「本当に驚いて、動けなかっただけだよ……って回答は求めてない?」
「ええ、あなたは確かにまだ若くて未熟だけれど、あんなチンピラ一人を前にすくんで動けなくなるなんてことは、絶対にあり得ない。何かに驚いた弾みにつまずいて転んで、その結果負傷したのなら、まだ納得してあげられたわ」
ヨニは肩をすくめてみせる。それは、アナには降参のポーズだと伝わっていた。
「ちなみに、アナさんの予想ではどうなの?」
「そうね……私なら、ダメ押しとして殴られたというのなら、かろうじて理屈が通っていたと思えたかしら」
アナは手元に置いていたカップに口をつけ、会話に一区切りを入れる。少し濡れた唇は、しかし色香よりも鋭い舌鋒を隠しているとヨニは知っていた。
「仮に、ゲイリー氏が罪を認めず、窃盗の証拠も隠されていたか破棄されていた場合、私たちは彼を糾弾する証拠を失う。自警団は、あくまで犯行の証拠が揃っている時に犯人を町長の前に引き出すのが役目。無理に押し入ることも、難癖をつける権限もない。彼らには他者の家に上がり込んで捜査をする権利がない。善良な一般人がお節介から行動するのとは違って、ある種の権力を持たされているもし押し入るような真似をしたら、別の問題が生じてしまうわ」
それは、この町に限らず、多くの中規模な町の自治組織としての実態だった。
人を拘束し裁く権利はあまりに大きく、公的には領主のような一部の貴族や、王都や聖導教が所持する騎士団だけが有する権利である。自警団に許されているのは、せいぜい確たる証拠が並んでいる犯罪者を捕まえ、勾留する権利だけだ。
調査の権利を明確に持たないのは、かつて調査の名目で他者の家を荒らした横暴な自警団がいたからである、と伝え聞いている。だから、人々は犯罪に晒され、個人宅に証拠が隠された場合、あくまで個人的な協力者を探し、町人同士の折衝で押し入るしかない――今回のように。
無論、領主の財の一部である商品を私的な欲で対価もなく損なった罪はあるので、ゲイリーが簡単に解放されることはないだろう。
「つまり、私たちにとって彼を窃盗の罪で引き立てるのは、あくまで賭けの側面があった。彼から決定的な証言を取れるかも、綱渡りの勝算であったことは確かね。彼が何も言わずにコレットに手を上げていた可能性も、あったわけなのだから」
たまたま不用心なゲイリーが鍵を開けたままにしていてくれたので、難なく入ることができたが、あの様子ならヘイノは間違いなく扉を蹴破ってでも入っていただろう。曖昧なタイミングで入っていれば、不法な侵入を訴えられたのはこちらだったかもしれない。
「でも、証拠を捨てられたとしても、司祭を殴ったという揺るぎようのない事実があったら、どうなるかしら。ただの町人同士の喧嘩じゃないわ。清廉潔白で、人々を導くための善人の象徴である立場のものを殴れば、それはただの窃盗より非難の目が集中する。幸い、あなたは町の人に好意的な形で顔が売れているものね」
「顔が売れている、なんて人聞きが悪いなあ」
「でも、事実でしょう? だから、念には念を押すためにわざと殴られたのなら、納得がいくと思ったの。これが私の見解。――それで、あなたの考えは? なぜ、わざわざ自分の身を損なうような、非効率なことをしたのかしら」
アナは話を終え、机の上に手を組み、じっとヨニを見つめている。
理知的といえばその通りだが、その実、彼女は真実不思議そうにこちらを見てもいた。その目が、雄弁に語っている。彼女には、理解できなかったのだ、と。避けられる痛みを、受け入れた理由が。
「うーん、アナさんはすごく色々考えてるんだなあ。でも、俺はそこまで難しいことを、あの一瞬で考えるなんて無理だったよ」
わざとだらしなく机に肘をつき、ヨニは数時間前の光景を思い浮かべる。アナの言うように、彼の顔に恐怖の色は薄い。
「俺が怪我したら、町の人が俺への被害に注目して、コレットに盗みをやらせてたってことが多少有耶無耶になるかなとは思っていたけれど。でも、それは後から付け足したようなものかな」
実際、相手が迫ってくるほんの数秒で、そこまで計算高く考えられるほど、ヨニは自分の頭が優秀だとは思っていなかった。
ただ、焼き付いた感情は覚えている。男の体の向こうに見えた、こちらを呼びかけるヘイノの顔を見た時に、思ったことは。
「でもさ、こう思ってはいた」
ふう、と息を吐いて、目を伏せ、彼は投げ出すように言葉を放る。
「――俺が殴られたら、ヘイノはどんな顔するのかなって」
一瞬、部屋の中の空気が完全に無に支配された――そう思うほどに、静寂が周囲を包んでいた。
数十秒の沈黙を挟んで、アナがようやく静まり返った空気を破る。
「それで、あなたは満足したのかしら」
「どうだろう。……満足、はちょっと違うかな。納得した、かも」
アナに聞かせるというよりは、自分に言い聞かせるようにヨニは呟く。だらりと机に上半身を投げ出し、頭だけ起こし、彼はぽつぽつと続けた。
「そう、納得……したんだと思う。それに、ヘイノは、凄いやつなんだなーって。俺はコレットが寒そうにしていたことは何となく気がついていたよ。あの子が、俺のことを……俺の司祭としての姿に憧れてるなーってことも。でも、それだけだったから」
何かしよう、とは考えなかった。それは忙しかったからでもあり、一人一人に目をかけていられるほどの時間がなかったからでもある。
ヘイノに言ったように、放任主義の親は少なからずいるものだ。その一人一人に温かな寝床を用意してやることも、腹一杯になる食事を用意してやることもできない。
この町は、一部の大きな町のように目立った貧民街こそないものの、それでも経済的に困窮している人間もいれば、ゲイリーのように自ら出た錆で停滞した生活を過ごしている者もいる。治安の悪い地域に行けば、ここよりもっと酷い現状など、いくらでもあるだろう。
人一人助けたところで、そのほかの全てが助けられるほどの力は己にはない。そんな利口な理屈もあって、ヨニは目の前の子供達に対して、自分が課せられた役割のみを果たそうとし続けていた。
「それに、自分で何とかしようとしてる時に、他所から口を出して『やっぱり無理だ』って言われる方が、よほど……酷いよ」
口にしつつ、本音はこちらの方だな、とヨニは思う。
中途半端にちらつかされる希望ほど、たちの悪いものはない。ひょっとしたら、もっと良くなるかもしれない。もしかしたら、何か変わるかもしれない。そうして手繰り寄せた希望の糸が、無造作に切られたとき、何を感じるか。
(……君は、そういうのは知らないんだろうな)
だから、ヘイノは真っ直ぐに彼女に向き合って、愚直なまでに『何とかしたい』と言い続けたのだろう。見知らぬ人間の家にまで押しかけて、ついには本当にコレットを苦境から救い出した。あの様子なら、これから何があっても放り出すような真似だけはするまい。
つまるところ、彼は――善行をする人間と他人に見られたくてやっていたわけではないのだ。正真正銘、己がしたいという行動をしただけだ。それが、たまたま善なる行いだったのである。
「あなたの考えも、私から見たら十分非効率的だと思うわ。自分と関係のない人間のことを、我が事のように考え、そのうえで手を差し伸べないことを選んだのだから」
「でもそれって、結局は見捨てたのと一緒じゃない?」
「見捨てるというのは、相手に対して一切の責任を持たず、視界に置かず、心に留めず、不要となったら完全に排斥して、無かったことにするような真似を言うのよ。私のように」
アナは、ヨニを慰めるように自分を悪く言っているわけではない。真実、彼女はコレットのことを、気にしていなかった。歯牙にもかけていない。何故なら、彼女の立場と務めに関係ないからである。
彼女がヘイノの案に協力したのは、ヘイノが望んだから。もし、途中で意見を翻したのなら、あっさり身を引いただろう。それは、ヨニにも分かっていた。
「だから、あなたはまだ私よりまともに悩んで、苦しんでいるだけ、見捨ててはいなかったと思うわよ。今も、結局は安堵しているのでしょう?」
「そりゃあ、見知った子供が死ぬのを目にするよりかは良かったと思ってるよ」
「なら、それでいいじゃない。終わった後に、自分のできなかったことを並べて悲観するのは非効率よ。もっと効率良く心を使いなさい」
アナにばっさりと言われて、ヨニはずるずると身を起こす。
彼女は非情なことを言うのに、必要だと思える言葉は投げかけてくれる。優しいのか優しくないのか分からないが、少なくともヨニにとってはいい気付け薬になった。
「それで、殴られたところは、治るのにどれくらいかかりそうなの?」
「軽い打身だよ。骨にも響いていなさそうだし、一週間もしたら落ち着くと思う」
「分かったわ。完治したなら教えてちょうだい。それまでは、ヘイノに力仕事は任せることね」
「うーん……まあ、そうなっちゃうかなあ」
ヨニはぶつぶつ言いつつ、居間のポンプに近づき、レバーを引いて水を汲み上げる。やや重たいレバーを押すと、強く殴られた胸が鈍く痛んだ。
流れ落ちた水が溜まった陶製のボウルにカップを入れ、汲み上げたばかりの冷たい水を飲む。冬の冷気を詰め込んだような水は、中途半端に覚醒していた頭をよりはっきりと目覚めさせた。
「あー、でも、アナさん。俺、後悔ばっかりしてたわけじゃないよ」
「あら、そうなの?」
「うん。……ちょっと、元気ももらえたから」
アナの方を見もせずに、カップを置き場所に戻しつつ、ヨニは言う。
「人助けって、意外とできることなんだなって」
噛み締めるように口にした言葉は、どこか誇らしげでもあった。それは、確かに、片割れの行いを称賛している姿だった。
掃除をさせるために連れてきたのに、空き瓶を持ち出すことを頑なに拒否した。それは少なからず持ち込んだ酒の中で、外に出しづらいものがあったということの証拠ではないか、と。
折りしも、ヘイノは初めて彼の家に行く前に、店に並ぶ前の新しい酒が行方しれずになっている話を聞いていた。それに、大して仕事もしていない様子なのに、酒だけは毎晩しっかり飲んでいる様子であることも気になった。この町において、決して酒は安く得られるものではない。だからこそ、買うよりは安く済むからと自家製の酒を作るものもいるくらいなのだから。
照らし合わせると、彼が外部から不正に持ち込んできたのは、コレットに盗ませたものだけではないことが浮き彫りになる。無論、これはただの推測であり、裏を取るためにヘイノとヨニは方々の酒場に赴き、行方知れずになった酒の瓶とコレットが家の中で見ていた空き瓶のラベルが一致するかを、いくつか確認する必要があった。
裏をとれたら後は部屋に上がり込み、できることなら彼の口から自白を得れば言うこと無し――ではあったのだが、問題はいくら粗暴な人間でも後ろ暗いことをそうそう口にすることがないだろう、という点だった。
そのため、彼を挑発して口を破らせる役をコレットに任せることにしたのだった。
「結果的に上手くいきましたが……コレットが矢面に立つ必要はなかったと思うんですが」
「おじさんは、知らない人には用心深いところがありますので……私がああやってその……偉そうなことを言わなかったら、素知らぬ顔をしていたかもしれません」
コレットとヘイノが話をしているのは、ヘイノの自室だった。あの汚れた家に彼女一人残していくわけにもいかないので、ひとまずヘイノが部屋を貸すことにしたのだ。
とはいえ、流石に同じ部屋で休むのはどうか、とアナが口を挟み、アナの寝台で一緒に眠ることにしたらしい。今はアナが明日の支度をしているとのことなので、時間を潰すついでにヘイノの部屋にやってきていた。
「それよりも……私はやっぱり、先生に驚きました。あんな風に、簡単に捕まえてしまうなんて」
「簡単ではありませんよ。それに、あれは学校にいた時に、少し教えてもらっていたんです。もしかしたら、危ない赴任地もあるかもしれないからと」
本来なら神学校でそんなことは教えないので、あれは指導をしてくれた教諭なりの優しさだったのだろう、とヘイノは振り返る。簡単な護身術のようなもので、実戦に使えるかどうかは怪しいと言われていたが、存外何が役に立つかは分からないものだ。
「……あまり、褒められたことではないですよ。言葉で説いて気持ちを改めて頂けるなら、それに越したことはありません」
ヘイノが司祭としてあるべき姿を説明すると、コレットは気落ちしたように肩を落とした。自分がしたことを思い返して、気に病んでいるのだろう。
彼女の様子を見て、ヘイノは椅子に座ってるコレットの前で膝を折り、見上げるようにして彼女を見つめる。
「自分が犯した過ちを気にしなくてもいい、とは俺の立場では言えません。でも、コレットがあのことをずっと思い悩んで立ち止まっているのは、俺としては悲しいです。ですから、その……忘れはしなくても、せめて、前を向いてはみませんか」
たかだか一年の付け焼き刃で身につけた知識で説くのではなく、彼女の心に染み込むように己の言葉を探りあて、ヘイノは思いを声に載せる。少しずつ顔を上げるコレットに、ヘイノは淡い微笑を向けた。
「過ちは消えなくとも、償う思いを持ち続けること。それが、大事なんだと俺は思いますよ」
「…………そんなことで、いいんですか?」
「はい。怖い人たちに咎められることだけが、償いではないでしょう」
無論、社会的には牢に入らなければならないこともあるのだろう。しかし、今の彼女に必要な措置ではないとヘイノは信じていた。
おずおずと頷く少女の頭を、ヘイノはそっと撫でる。自分より年下とはいえ、一人の人間を諭すのは、思ったよりもずっと難しい。
「ヘイノ先生。もし……もし、私がまた間違ったことをしそうになったら、その時は……ちゃんと、教えてください。……叱って、ください」
「はい。……ああ、それなら、俺からも。もし俺が間違えそうになったら、コレットが叱ってください。そしたらおあいこですね」
「先生が間違えること……あるんですか?」
「ありますよ。……嘘を、ついたこととかも、あるくらいですから」
今もついている嘘のことを思い出し、ヘイノの笑顔がわずかに曇る。コレットはそれに気づかなかったようで、ぱちぱちと目を瞬かせていた。
「そういえば、ヨニ先生……あの、怪我は大丈夫でしょうか」
家に帰ってから、ヘイノはヨニに手当を優先させるように言って部屋に押し込んでいた。夕飯の時には顔を見せていたが、彼が負傷した箇所は司祭の制服に隠されてはっきりとはわからなかった。
「手当てはしたはずでしょうし、暫くしたら落ち着くと思います。気になるなら、様子を見てきましょうか」
「いえ、もう寝ていたら起こしてしまいますので……」
そこまで話してから、コレットは何か言いたげにじっとヘイノを見つめる。どうしたのだろうか、と首を傾げて、彼は彼女の言葉を待った。
「あの、ヘイノ先生。先生は……」
そこまで言いかけて、コレットは再び口籠る。その様子は、ちょうど市場で彼女がヘイノに出会ったときの様子に似ていた。
「言いたいことがあるようでしたら、聞きますよ」
「本当に……大したことではないんですけれど。ヘイノ先生は……ヨニ先生のこと――苦手、なんですか?」
尋ねられた瞬間。一瞬、ヘイノは息を止めてしまった。
自分が何を言われたのか理解し切る前に、コレットが続く言葉を口にする。
「……ヘイノ先生、ヨニ先生に間違えられた時、気のせいかもしれませんけれど……ちょっとだけ、辛そうな顔をしていた……と思って、それで……少し気になってました」
「……そう、だったんですね」
平静を装うのは、難しかった。今が夜で、燭台の明かり以外はろくに照明がないことが、ヘイノにとってはありがたかった。
自分がどんな顔をしているのか、今の彼には到底分からなかったのだから。
「単に、見間違えられることが苦手なだけ、ですよ。双子ですから、仕方ないとはわかっているんですけれど」
自分とヨニの境界線が曖昧になればなるほど、一年分の記憶しかない自分がようやく集めた『ヘイノ』という像が薄れてしまう。だから、間違われたくないのだろう――ヘイノは己に対してそう結論づけた。
「それなら……間違えないように、私も気をつけます」
「そうしてもらえると、助かります」
今度は、違和感のない笑みを浮かべ、コレットの決意に応じてみせることができた。
***
室内に光聖石を使わない家は、夜になれば軒並み薄闇に支配される。灯りのない場所は茫漠とした暗闇に包まれ、家のものは蝋燭を燭台に立てて移動するのが常だ。
そして彼もまた、燭台を片手に居間へと足を向けていた。厨房も兼ねた居間には、水を汲みあげるポンプがある。水を飲むにはそこに行くしかなかったからだ。
しかし、
「あら、ヨニ。どうしたのかしら。もしかして、傷が痛むの?」
居間から聞こえてきた彼女の声に、ヨニは足を止めてそちらに燭台を向ける。
淡い暖色の光の中、彼女――アナの姿はまるで絵画の中の聖人のように見えた。
「アナさんこそ、こんな所で何してるの?」
「見ての通り、今回の件の調査依頼よ。皆、誰も気にしていないようだけれど、火聖石の劣化品が市場で取引されているなんて、聖導教の本山では到底許されていないことなの。放置していたら、後で判明した時に私が責任を問われるわ」
「アナさんらしいな、その言い方」
聖導教の尊い教えに従い、などと彼女は言わないだろうと、ヨニには分かっていた。
コレットの件でもそうだが、彼女は聖導教の教えを説く立場でありながら、他者に対して慈悲深いとか、倫理観を遵守した行動をする、といったことがない。良くも悪くも、彼女は平等であり、己の信じたものにのみ殉じている――ヨニには彼女がそう見えていた。
ヘイノなら顔を顰めるかもしれないが、ヨニはアナのからっとした態度が嫌いではなかった。
「それに、あなたがまだ起きているようだったからね」
「あれ、心配してくれていたの?」
「いえ。もし会うことがあったら、ちょっと確認したいことがあったの」
「へえ、何を?」
話しつつ、ヨニは椅子を引いてアナの前に座る。そうするとアナの澄んだ春の川のような青緑色の瞳がよく見えた。
「どうして、わざと正面から殴られるような真似をしたのかってこと」
アナがさらりと言った言葉に、ヨニはいつもと変わらぬ笑顔で応じる。いっそ変わらないことが不自然なほどに。
「本当に驚いて、動けなかっただけだよ……って回答は求めてない?」
「ええ、あなたは確かにまだ若くて未熟だけれど、あんなチンピラ一人を前にすくんで動けなくなるなんてことは、絶対にあり得ない。何かに驚いた弾みにつまずいて転んで、その結果負傷したのなら、まだ納得してあげられたわ」
ヨニは肩をすくめてみせる。それは、アナには降参のポーズだと伝わっていた。
「ちなみに、アナさんの予想ではどうなの?」
「そうね……私なら、ダメ押しとして殴られたというのなら、かろうじて理屈が通っていたと思えたかしら」
アナは手元に置いていたカップに口をつけ、会話に一区切りを入れる。少し濡れた唇は、しかし色香よりも鋭い舌鋒を隠しているとヨニは知っていた。
「仮に、ゲイリー氏が罪を認めず、窃盗の証拠も隠されていたか破棄されていた場合、私たちは彼を糾弾する証拠を失う。自警団は、あくまで犯行の証拠が揃っている時に犯人を町長の前に引き出すのが役目。無理に押し入ることも、難癖をつける権限もない。彼らには他者の家に上がり込んで捜査をする権利がない。善良な一般人がお節介から行動するのとは違って、ある種の権力を持たされているもし押し入るような真似をしたら、別の問題が生じてしまうわ」
それは、この町に限らず、多くの中規模な町の自治組織としての実態だった。
人を拘束し裁く権利はあまりに大きく、公的には領主のような一部の貴族や、王都や聖導教が所持する騎士団だけが有する権利である。自警団に許されているのは、せいぜい確たる証拠が並んでいる犯罪者を捕まえ、勾留する権利だけだ。
調査の権利を明確に持たないのは、かつて調査の名目で他者の家を荒らした横暴な自警団がいたからである、と伝え聞いている。だから、人々は犯罪に晒され、個人宅に証拠が隠された場合、あくまで個人的な協力者を探し、町人同士の折衝で押し入るしかない――今回のように。
無論、領主の財の一部である商品を私的な欲で対価もなく損なった罪はあるので、ゲイリーが簡単に解放されることはないだろう。
「つまり、私たちにとって彼を窃盗の罪で引き立てるのは、あくまで賭けの側面があった。彼から決定的な証言を取れるかも、綱渡りの勝算であったことは確かね。彼が何も言わずにコレットに手を上げていた可能性も、あったわけなのだから」
たまたま不用心なゲイリーが鍵を開けたままにしていてくれたので、難なく入ることができたが、あの様子ならヘイノは間違いなく扉を蹴破ってでも入っていただろう。曖昧なタイミングで入っていれば、不法な侵入を訴えられたのはこちらだったかもしれない。
「でも、証拠を捨てられたとしても、司祭を殴ったという揺るぎようのない事実があったら、どうなるかしら。ただの町人同士の喧嘩じゃないわ。清廉潔白で、人々を導くための善人の象徴である立場のものを殴れば、それはただの窃盗より非難の目が集中する。幸い、あなたは町の人に好意的な形で顔が売れているものね」
「顔が売れている、なんて人聞きが悪いなあ」
「でも、事実でしょう? だから、念には念を押すためにわざと殴られたのなら、納得がいくと思ったの。これが私の見解。――それで、あなたの考えは? なぜ、わざわざ自分の身を損なうような、非効率なことをしたのかしら」
アナは話を終え、机の上に手を組み、じっとヨニを見つめている。
理知的といえばその通りだが、その実、彼女は真実不思議そうにこちらを見てもいた。その目が、雄弁に語っている。彼女には、理解できなかったのだ、と。避けられる痛みを、受け入れた理由が。
「うーん、アナさんはすごく色々考えてるんだなあ。でも、俺はそこまで難しいことを、あの一瞬で考えるなんて無理だったよ」
わざとだらしなく机に肘をつき、ヨニは数時間前の光景を思い浮かべる。アナの言うように、彼の顔に恐怖の色は薄い。
「俺が怪我したら、町の人が俺への被害に注目して、コレットに盗みをやらせてたってことが多少有耶無耶になるかなとは思っていたけれど。でも、それは後から付け足したようなものかな」
実際、相手が迫ってくるほんの数秒で、そこまで計算高く考えられるほど、ヨニは自分の頭が優秀だとは思っていなかった。
ただ、焼き付いた感情は覚えている。男の体の向こうに見えた、こちらを呼びかけるヘイノの顔を見た時に、思ったことは。
「でもさ、こう思ってはいた」
ふう、と息を吐いて、目を伏せ、彼は投げ出すように言葉を放る。
「――俺が殴られたら、ヘイノはどんな顔するのかなって」
一瞬、部屋の中の空気が完全に無に支配された――そう思うほどに、静寂が周囲を包んでいた。
数十秒の沈黙を挟んで、アナがようやく静まり返った空気を破る。
「それで、あなたは満足したのかしら」
「どうだろう。……満足、はちょっと違うかな。納得した、かも」
アナに聞かせるというよりは、自分に言い聞かせるようにヨニは呟く。だらりと机に上半身を投げ出し、頭だけ起こし、彼はぽつぽつと続けた。
「そう、納得……したんだと思う。それに、ヘイノは、凄いやつなんだなーって。俺はコレットが寒そうにしていたことは何となく気がついていたよ。あの子が、俺のことを……俺の司祭としての姿に憧れてるなーってことも。でも、それだけだったから」
何かしよう、とは考えなかった。それは忙しかったからでもあり、一人一人に目をかけていられるほどの時間がなかったからでもある。
ヘイノに言ったように、放任主義の親は少なからずいるものだ。その一人一人に温かな寝床を用意してやることも、腹一杯になる食事を用意してやることもできない。
この町は、一部の大きな町のように目立った貧民街こそないものの、それでも経済的に困窮している人間もいれば、ゲイリーのように自ら出た錆で停滞した生活を過ごしている者もいる。治安の悪い地域に行けば、ここよりもっと酷い現状など、いくらでもあるだろう。
人一人助けたところで、そのほかの全てが助けられるほどの力は己にはない。そんな利口な理屈もあって、ヨニは目の前の子供達に対して、自分が課せられた役割のみを果たそうとし続けていた。
「それに、自分で何とかしようとしてる時に、他所から口を出して『やっぱり無理だ』って言われる方が、よほど……酷いよ」
口にしつつ、本音はこちらの方だな、とヨニは思う。
中途半端にちらつかされる希望ほど、たちの悪いものはない。ひょっとしたら、もっと良くなるかもしれない。もしかしたら、何か変わるかもしれない。そうして手繰り寄せた希望の糸が、無造作に切られたとき、何を感じるか。
(……君は、そういうのは知らないんだろうな)
だから、ヘイノは真っ直ぐに彼女に向き合って、愚直なまでに『何とかしたい』と言い続けたのだろう。見知らぬ人間の家にまで押しかけて、ついには本当にコレットを苦境から救い出した。あの様子なら、これから何があっても放り出すような真似だけはするまい。
つまるところ、彼は――善行をする人間と他人に見られたくてやっていたわけではないのだ。正真正銘、己がしたいという行動をしただけだ。それが、たまたま善なる行いだったのである。
「あなたの考えも、私から見たら十分非効率的だと思うわ。自分と関係のない人間のことを、我が事のように考え、そのうえで手を差し伸べないことを選んだのだから」
「でもそれって、結局は見捨てたのと一緒じゃない?」
「見捨てるというのは、相手に対して一切の責任を持たず、視界に置かず、心に留めず、不要となったら完全に排斥して、無かったことにするような真似を言うのよ。私のように」
アナは、ヨニを慰めるように自分を悪く言っているわけではない。真実、彼女はコレットのことを、気にしていなかった。歯牙にもかけていない。何故なら、彼女の立場と務めに関係ないからである。
彼女がヘイノの案に協力したのは、ヘイノが望んだから。もし、途中で意見を翻したのなら、あっさり身を引いただろう。それは、ヨニにも分かっていた。
「だから、あなたはまだ私よりまともに悩んで、苦しんでいるだけ、見捨ててはいなかったと思うわよ。今も、結局は安堵しているのでしょう?」
「そりゃあ、見知った子供が死ぬのを目にするよりかは良かったと思ってるよ」
「なら、それでいいじゃない。終わった後に、自分のできなかったことを並べて悲観するのは非効率よ。もっと効率良く心を使いなさい」
アナにばっさりと言われて、ヨニはずるずると身を起こす。
彼女は非情なことを言うのに、必要だと思える言葉は投げかけてくれる。優しいのか優しくないのか分からないが、少なくともヨニにとってはいい気付け薬になった。
「それで、殴られたところは、治るのにどれくらいかかりそうなの?」
「軽い打身だよ。骨にも響いていなさそうだし、一週間もしたら落ち着くと思う」
「分かったわ。完治したなら教えてちょうだい。それまでは、ヘイノに力仕事は任せることね」
「うーん……まあ、そうなっちゃうかなあ」
ヨニはぶつぶつ言いつつ、居間のポンプに近づき、レバーを引いて水を汲み上げる。やや重たいレバーを押すと、強く殴られた胸が鈍く痛んだ。
流れ落ちた水が溜まった陶製のボウルにカップを入れ、汲み上げたばかりの冷たい水を飲む。冬の冷気を詰め込んだような水は、中途半端に覚醒していた頭をよりはっきりと目覚めさせた。
「あー、でも、アナさん。俺、後悔ばっかりしてたわけじゃないよ」
「あら、そうなの?」
「うん。……ちょっと、元気ももらえたから」
アナの方を見もせずに、カップを置き場所に戻しつつ、ヨニは言う。
「人助けって、意外とできることなんだなって」
噛み締めるように口にした言葉は、どこか誇らしげでもあった。それは、確かに、片割れの行いを称賛している姿だった。