序章

 暗く、何もない世界から、意識が浮上する。何かに呼ばれたような錯覚で目を覚まし、すぐにそれが周りから聞こえる鳥の囀りのせいだと気がついた。
 覚醒した彼が最初に思ったのは、ここはどこだ、ということ。飴色に磨かれた木目が眩しい天井。燦々と差し込む日差しはクリーム色のカーテンで光量が落とされ、彼の上に柔らかく降り注いでいる。
 上体を起こすと、ここが小さな部屋で、自分は部屋にある寝台に寝かされていたのだと気がついた。
 
「……?」
 
 視線を落とす。五本の指と手と腕が目に入る。袖口からわかる、縞模様の薄い寝巻は、長く寝ていたのか、どこか草臥れていた。
 周りを見渡す。木製の扉はしっかりと閉じられ、外の様子は伺えない。壁にかけられた鏡が、こちらを見つめ返している。否、見つめ返していると思ったのは、そこに一人の人間が映っていたからだ。
 
「あれが、おれ……?」
 
 掠れた声が喉から出てきたが、なぜか馴染みがない。使い慣れない道具をいきなり渡されたような、強烈な違和感を覚える。なのに、しっくりくる。その矛盾に、彼は人知れず胸に手を当てた。
 鏡に浮かび上がっている人間の顔も、声と同じく見覚えがない。短く整えられた薄い金色の髪に、青と琥珀のオッドアイ。
 顔の半分を覆うように当てられたガーゼも、額に巻かれた包帯も、何もかも見覚えがない。
 思わず顔に手を当てる。そこに、少しでも自分のわかる何かを求めるかのように。しかし、わかったのは、なめらかな肌の感触と、ガーゼ越しに響く疼痛のみだった。
 
「いったい、何が起きてるんだ……?」
 
 訳がわからない。わからないことを口にしても、何か理解が進むわけでもない。自分が誰なのか、ここがどこなのか、今どんな状況にいるのか。何一つとして分からない。
 教えてくれる人は誰かいないのか、と考えが至った矢先、部屋にあった唯一の扉のノブが回る。ぎい、と音を立てて扉が開く。
 その先にいるのは、誰か。誰でもいい。この分からなさを解き明かしてくれるのなら。
 だが、彼は自分の予想を遙かに超える〈異常〉を目にする。
 
「あっ、よかった……! 意識、戻ったんだな!」
 
 そこにいたのは、一人の若者だった。片手に洗面器とタオルを持ち、首まで隠す襟丈の白いシャツに黒いズボンの彼の顔も、半分がガーゼに覆われている。シャツの裾から見える腕にも包帯が見えた。
 だが、寝台にいる彼が驚いたのは、そこではない。
 
「どうして……同じ、顔」
 
 鏡に映った自分と同じ顔をしたものが、同じ髪をしたものが、同じ声を放つものが、目の前にいる。自分の意思と関係なく、歩き、笑い、声を発している。
 反射的な嫌悪が、腹の底からこみ上げていく。分からない、という状況に更に拍車がかかっていく。
 首を傾げている彼は、当然ながら鏡などではない。実像を持ってそこにいる。――なら、自分は何なのだ?
 
「ん、どうかしたのか? もしかして、まだ具合が悪いとか?」
 
 ずかずかと部屋に入ってくる若者。彼が伸ばした手を、寝台にいた彼は反射的に力一杯払った。
 思った以上に力が入らなかったことに、己の疲弊を感じたが、今はそんなことを頓着している場合ではない。
 
「――来るなっ!!」
 
 必死で叫んだ声は、がらがらに干上がっていて、一音放つたびに喉が痛む。だが、痛みすら忘れて、彼は声を張り上げる。
 
「何だお前、どうして、どうして――俺と同じ顔、してるんだ! それに、ここはどこなんだ。俺は――」
 
 ゼエゼエと息を乱して、しかし、それだけは言わねばと彼は吐き出すように言う。
 
「俺は、誰なんだ――?」
 
 若者が息を呑んだ音も、次に聞こえた耳慣れない文字の並びも、それが自分の名前だということも分からず、彼はただただ床を見つめていた。
 そこから、何も読み取れる訳がないとわかっていても。それでも、目の前にいる『自分ではない、自分と同じ誰か』を見たくなかった。
 
 ***
 
 ガクン、と一際大きな揺れが響いて、彼は目を覚ます。
 次いで、顔に鈍い衝撃が走り、半覚醒状態だった頭がようやく覚醒した。どうやら、振動の弾みで窓辺に頭をぶつけてしまったらしい。
 
「幸先の悪い夢だったな……」
 
 懐かしさと共に、心が痛みを覚える夢だった。忘れようと思っても、そうそう忘れられないこともあるらしい。
 ぶつぶつ呟きながら、彼は額に手をやる。軽く赤くなったそこを撫でながら、窓ガラスに歪んで映る自分の姿を見つめる。
 薄い金色の髪は、夢の中のときよりも伸びて、肩につくかつかないかの長さに伸びている。全身を包む黒い外套の中、その金色は陽光を束ねて糸にしたように際立って映る。
 首から爪先まで黒一色の服装の中、彼の髪と、胸元に揺れる白い石のはまったネックレスが唯一の色だった。
 髪の下にのぞくのは、青と琥珀のオッドアイ。今は居眠りのせいでしょぼくれたそれらを軽く擦ってから、彼は覚醒した頭で今までのことを辿れるか、窓ガラスに映る自分と問答する。
 
 ――自分の名前は?
(ヘイノ。ヘイノ・フィルップラ。北の方にある小さな村の生まれ)
 
 ――ここはどこ?
(リバーベル行きの列車の中、そろそろ目的地に到着するはず)
 
 ――自分は、どこから列車に乗った?
(聖都の駅から)
 
 ――自分の今までの経歴は?
(一年前、ある災害に巻き込まれた後、リハビリを兼ねて一年間、以前も通っていた神学校に再度通いなおしていた)
 
 ――なぜ、今はここにいる?
(……リハビリも終わったのなら、家族のいる場所に向かう約束だったから)
 
 一通りの問答を終え、自分の記憶に欠損が無さそうだと確認してから、彼――ヘイノという名の若者は細く息を吐く。
 一年前、ヘイノの故郷はある災害に見舞われ、多くの人命が失われた。ヘイノも酷い怪我を負って、暫く入院を余儀なくされたが、問題はそれだけではなかった。
 目覚めた直後、自分の記憶に激しい混濁が見られたのだ。今でこそ症状は落ち着いているが、また同じことがないようにと、目を覚ました直後は自分が何者かを問答することがある。特に、あんな夢を見た後は。
 ガタン、と列車が揺れて、ヘイノはそばにあったトランクが倒れないように手をやる。まだ真新しいそれは、彼が旅慣れてはいないことの証拠でもあった。
 ヘイノが今いるのは、ある列車のコンパートメントだ。乗客自体がまばらであり、当然ながら同席している者もいない。お陰で、多少羽を伸ばしても文句は言われずにいる。
 飴色に磨かれた木製の車両に、緑の生地で縫われた座面。長時間座るにいささか固いが、一等車両でもないので、こんなものだろう。
 リーンと、ベルが鳴り響く。どうやら、目的地の駅が近づいてきたようだ。ヘイノはトランクを持って、席を立つ準備をする。同時に、少しずつ列車が減速を開始する。
 窓の向こうに見えていた緑の川が、一つ一つの草葉が見える草原に変わった頃、彼は席を立ち乗降口から駅へと降り立った。
 
「……何だか、随分とこじんまりした駅だな。地方ってこんな感じなのか?」
 
 思わずしみじみとそう言ってしまったのは、乗ってきた駅が多くの人がごった返す大都会の駅だったからだ。
 トランク片手に、入り口の駅員に切符を渡して、彼は外へと出る。春の訪れはまだ少し先で、吹く風はやや冷たい。体に巻き付けるように外套を羽織り直してから、ヘイノは周囲の様子を確認する。
 列車が通れば、人の行き交いが生じるのは自明の理。折りしも、彼と同じく入口から外へと溢れ出た十数人の人々が、あちこちに散らばっていくところだった。
 その中でも、人の流れが出来ている方向へと向かうと、馬車が数台並んでいた。荷物の運搬とあわせて、人の運搬も生業としている駅馬車の停留所だ。
 
「よかった。すぐに見つかって」
 
 まずは一つの関門を越えたことに安堵しつつ、彼はさらに手近な馬車へと駆け寄る。
 目的地としている町へ、ここから徒歩で行くのは無謀と言っていい。駅の近くに待機している駅馬車を使うといい、と手紙には書いてあったのだが、初めての土地で首尾よく見つけられるかは気がかりだった。
 まだ誰も声をかけていない御者を見つけて、ヘイノは小走りで彼に近づく。
 
「すみません、少しいいですか。この馬車、ティモスの街まで行きますか」
「ああ、途中で荷物を下ろすために寄る予定だよ」
 
 馬車のそばにいた男性は、手元にある新聞から目を離さずに、ぞんざいに答える。
 
「それでは、乗せてもらえますか」
「構わんよ。他にも人を乗せるが、それでいいならな」
「大丈夫です。運賃、これで足りますか」
 
 ヘイノは外套の下に着ている上着に手を突っ込み、いくらか待たされていた路銀の中から、数枚の銅貨と銀貨を取り出して、御者の男へと渡す。
 さすがに、新聞を見ながら金勘定をやるわけにはいかなかったのだろう。男はようやく顔を上げ、貨幣を受け取りつつヘイノを見遣る。頭から爪先まで、無遠慮にヘイノの全身を眺めていた男は、不意にある一点で視線を止めた。
 
「もしや、あんた……いえ、あなたは……」
 
 息を飲んだ御者の男に対して、ヘイノは怪訝そうに首を傾げる。
 
「すみません。お金、足りなかったですか。もし必要なら、もう少しなら出せますが……」
「と、とんでもない!」
 
 すると、男は先ほどまでの仏頂面はどこへやら、うってかわって他所行きの態度で応じる。
 
「むしろ、そんな――無礼をお詫びします。司祭様からお金などもらえません。うちは、爺さんのそれまた曾祖父さんの代から、それはもう長いこと聖導教の信徒でして」
 
 泡を食った御者の反応とは対照的に、ヘイノは面食らった様子を見せる。続いて、自分の胸元に揺れる白い石のはまったネックレスに視線を落としてから、ようやく納得がいったように頷いた。
 しかし、すぐに引き下がることもなく、
 
(さて、どうすればこのお金を受け取ってもらえるだろうか)
 
 と、頭を悩ませ始めたのだった。
 
 ***
 
 ――聖導教。正式名称は〈クラレンス聖導教団〉。この国の国教であり、実に九割以上の人々が信仰している。その始まりは、古くはこの地に人々が住み着き始めた頃の時代まで遡るとされている。
 町には必ずと言っていいほど教会があり、教会で人々に教えを説く司祭は、相応の礼と親しみを以て接される。
 黒の装束に白い石をはめた装飾品は司祭の証であり、だからこそ御者はあのような態度をとったのだろうとは、ヘイノにもすぐ分かった。
 とはいえ、だからといって、ただ乗りをするわけにもいかない。結局、頭を何度も下げる御者を宥めすかして、何とか貨幣を受け取ってもらうまでに、ヘイノは五分ほどの時間を要した。
 
(もっと人が多い街だったら、わざわざ頭を下げられることもないのに)
 
 そんなことを考えながら、揺れる馬車の中でぼんやりとヘイノは思索に耽る。
 彼のいた聖都では司祭が沢山いたので、いちいち丁重に扱われることもなかった。これも、土地ごとの違いというものだろうか。
 馬車には他にも数名の乗客が、同席している。先ほどのようなやりとりをせずに済むように、ヘイノは出来るだけ窓際に寄り、話好きの婦人や娘たちの注目の的にならないように注意していた。
 おかげで、馬車が動き始めて既に三時間近く経った今も、人々の意識の外に追いやられたままでいられた。
 
「ですからね、私は言ってやったんですよ。都会なんかに連れて行ったところで、あの子はきっと頭を空っぽにして、悪い友達と遊び呆けてばかりだよってね」
「あら、そんなことはないですわ、奥様。都会には素敵な品々と、豊かな心を持った人々とが沢山いますのよ。演劇は知識が身につきますし、舞踏会は社交の勉強になりますわ」
 
 中でも、主に話しているのは一人の年配の女性と、澄んだ声の少女だった。他の客たちは、時折相槌を打ったり、知り合い同士で小声で語り合うのみにとどめている。
 
「あなたはまだ若いから、そう言うのかもしれませんけれどね。人間はね、やはり住み慣れたところから離れると、心が浮ついちまうものなんですよ」
「でも、それでは、どこにも行けませんこと? 教養を増やし、見聞を広めることは、決して悪いことではありませんわ。今は列車を使えば、ここから王都まで三日も経たずに着きますのよ」
「列車! あんないかめしい鉄の車で運ばれるなんて、私はごめんだね。やっぱり、人間は人間が制御できる速さで移動するべきですよ」
 
 随分保守的な御仁もいたものだな、と話を右から左へと聞き流しながら、ヘイノは思う。
 列車が各地に敷設されたのはここ十五年ほどのことだが、未だに馴染めない者もいるらしい。
 
「まあ、恐れることはありませんわ。私も最初は面食らいましたけれど、ある日――」
 
 娘がある日何を体験したのか、ヘイノは聞くことができなかった。
 馬車の中からでもはっきり分かるほどの低い雷鳴と目を妬くような光が、突如目と耳に飛び込んできたからだ。
 雲の向こうで轟く雷鳴などとは全く違う、近くに落雷したのではないかと思うほどの轟音は、乗客達の体の芯にまでしっかりと響いていた。
 窓際に座っていた別の客が、何事が起きたのかと窓にかかっていた緞帳を開け、驚きで息を呑む。
 
「おい、こりゃまた、どういうことだ。空が真っ暗じゃないか。あれは、近くに雷が落ちたんじゃないか?」
「ちょっとすみません」
 
 ヘイノも客の腕の下から窓へと顔を出して、空を見上げる。
 乗る時は穏やかな晴天だったにもかかわらず、今の空は曇天などと言うのも生ぬるいほどに、黒々とした雲に覆われていた。
 
「通り雨かな……」
 
 ヘイノがつぶやいた矢先、再びバリバリと空を割るような雷鳴が響く。続けて、一粒一粒が銅貨ほどもあるのではないかと思うような大粒の雨が、ぼたりぼたりと大きな染みを車体に落とし始めた。
 その間にも、雷は休むことなく空に轟き、雷光が人々の不安を煽る。雷でできた蛇のような影は、薄暗い馬車の中にいる皆を威圧していた。
 
「こんな時間に雷雨?」
「にわか雨か? 王都の予報では、今日はこっちの地域は快晴だと聞いたが」
「王都の天気予報なんて、あてになりませんよ」
 
 緞帳を下ろしたが、雨の音はまるで大量のノックのように馬車の車体を打っている。
 どうやら風も増したようで、緞帳がばたばたとあおられ、車体に打ち付けられた音が雷と混ざって響いている。灯りもない車内は、途端に夜のように暗くなってしまった。
 
「おい、これ大丈夫なのか? 俺、前に馬車が大雨で横転して崖に落ちたって話を聞いたんだが……」
「縁起でもないこと、言わないでくださいよ」
 
 一人の婦人が声の震えを押し隠しつつ、呟いたときだった。
 
「なあ、もしかして……これって精霊の仕業じゃないか……?」
 
 誰かがそう言った瞬間、馬車の中のざわめきが嘘のように静まり返る。外の嵐の音だけが、一際際立って小さな馬車を揺さぶっていた。
 だが、それは更なる混乱のために、皆が状況を理解するために黙っただけだった。
 
「冗談じゃない、あれが近くにいるっていうのか!?」
 
 一人の不安が他の誰かの不安に火をつけ、一瞬の静寂が嘘のように、混乱が一気に膨れ上がる。
 
「嘘、精霊なんてそんな簡単に出会うものじゃ……っ」
「おい、御者!! もっと急げないのか!!」
「巻き込まれたら、こんな馬車ひとたまりもないぞ!!」
「ああどうか女神様、私たちをお救いください……」
 
 彼らの慌てようも尤もだ、とヘイノも分かっていた。それほどまでに〈精霊〉とは人が恐れる〈悪〉そのものなのだから。
 ――精霊。それは、一つの自然現象の総称だ。だが、単なる天変地異と異なるのは、それら意思を持ち、気紛れに災害をもたらす存在だからだ。その規模は、単なる嵐とは比べるまでもない。
 この国で住むものは、小さい時から精霊の恐ろしさについて教えられている。
 精霊に、人間のような明確な目的意識はない。彼らは自然に生まれ、己の権能を気紛れに振るう。ある種の現象であり、この国が生まれる前から、我が物顔で大地に災厄を振り撒き、時には大地そのものを変革していた。
 歴史に残る大地震、大火、大洪水。はたまた何十万もの人が死に絶えるほどの日照りに大雨。ひとたび姿を見せれば、命どころか生きる場所すら奪いかねない。それが、精霊と呼ばれるものが齎す災厄の全てだ。
 彼らに出くわすことは稀である。だが、確率はゼロではない。異常気象は、精霊の存在の前触れであり、乗客たちが恐れるのも無理はなかった。
 
「下ろしてくれ、こんな所で死ぬなんてごめんだ!!」
「馬鹿、おりた所で追いつかれるに決まってるだろ!!」
 
 車内は、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。誰かが席を立とうとして、揺れる車内でバランスを崩して倒れる。誰かが乗降口に手をかけて、誰かがそれを押しとどめる。
 女性の悲鳴と、男性の怒号。それらを煽るように、雷鳴が鳴り響く。
 雨は桶をひっくり返したような滝の如き量へと変化し、屋根を打つ強烈な雨音は今にも馬車をばらばらにしてしまいそうだ。
 加えて、空を引き裂くようなめりめりという雷鳴に、緞帳から差し込む強烈な光。雷が一つ轟くたびに混乱は増し、馬車の中は混沌の坩堝と化していた。
 
「おい、もっと馬を急がせろ!! 鞭も打たずに何してるんだ!!」
 
 ついに、御者に近い席に座っていた男が、窓から身を乗り出して、ずぶ濡れの御者が持つ手綱に手をかけようとする。
 走行中の馬車から身を乗り出すなど、自殺行為の何者でもない。しかし、狂乱の中では、そんな理性的な考えなど、つゆほども残っていないようだ。
 案の定、窓から半分ほど体を出していた彼は、強風に煽られ姿勢を崩す。
 
「うわっ!?」
 
 ずる、と窓から落ちかけた瞬間、男の体は地上にぶつかる前に静止した。
 
「落ち着いてください! こんな所で落ちては、精霊に出くわす前に死にますよ!!」
 
 落ちかけた彼を掴まえたのは、ヘイノだった。男の襟首を掴み、馬車の中に引きずり上げる。ずぶ濡れになったことで頭が冷えたのか、男は大人しく小刻みに頷いていた。
 
「ああ、ありがとう……」
 
 そこまで言った彼は、ヘイノをまじまじと見つめて、ゆっくり目を見開く。それはちょうど、馬車に乗るために御者に話しかけた時の彼の反応によく似ていた。
 だからこそ、次の反応もヘイノには想像できてしまった。
 
「あなたは、もしや、聖導教の司祭様ではありませんか……?」
「いえ、俺は……」
「乗るときに、ちらっと見てたんですが……黒の装束に、白く輝く石の装飾品――間違いない! 皆、ここに司祭様がいらっしゃるぞ! もう大丈夫だ!!」
 
 途端に、今度は恐ろしいくらいにざわめきが静まり返り、暗闇の中でも分かるほど、こちらへ一斉に視線が注がれる。
 そこに混ざる期待と不審と、それでもこの僅かな希望に縋りたい、と願う人たちの感情に、一瞬ヘイノは気圧されてしまう。
 なぜ、皆がここまで、自分に頼ろうとしているのか。その理由もわかっているが故に、迂闊なことも言えず、ヘイノは思わず唾を飲んだ。
 
「司祭様、どうぞあの恐ろしい精霊を追い払ってください」
「司祭様なら、できますよね……?」
「おい待てよ、よく見たらまだほんの子供じゃないか。こんなやつ、どうせ大したことなどできないぞ」
「でも、聖導教の司祭様は精霊の討伐も務めの一つですわよね。王都の騎士団も太刀打ちできなかった者を、容易く討ち滅ぼしたとか……」
 
 ヘイノに不審を投げかけた男に向けて弁護した娘が言うことも、最初にヘイノの存在を声高に叫んだ男も、間違ったことは言っていない。
 聖導教は、ただ人々に教えを説くだけの団体ではない。それも重要な務めではあるが、彼らの活動の柱の一つは、国の大地を我が物顔で蹂躙し、乱していた精霊たちを鎮めることでもある。
 故に、乗客がこの苦難を追い払うことをヘイノに期待するのも、至極当然の結論だ。
 だが、問題はある。大きな問題が、一つ。
 
「私は、確かに聖導教の司祭ではあります。ですが――あくまで見習いです。大規模な災害を巻き起こす精霊を、一人で退治するような力はありません」
 
 正直なところ、たとえ長く精霊討伐に関わっていた者であっても、たった一人で精霊に立ち向かうことなどできないと教えられているが、今はそのことについては伏せておく。
 ヘイノが放った一言で、収まりかけていた恐慌が再び生まれ始めかける。だからこそ、彼らから混乱が言葉として飛び出す前に、重ねるように言う。
 
「ですが、そもそもこの雷雨は精霊の仕業ではありません。彼らが己の思うままに力を奮えば、こんな程度までは収まらない」
「どうして、お前にそんなことがわかるんだ!?」
 
 抑えきれなくなった恐怖が弾けたように、一人の男が声をあげる。如何にも労働者然とした日焼けした顔は、今は恐怖一色に染まっている。
 
「体験したことがあるからです」
 
 彼の言葉に圧倒されることなく、確かな確信をもってヘイノは応じる。
 
「私の暮らしていた村は、かつて精霊の被害によって、地図から消えました。あれらが姿を見せたら、今こうして震えている余地すら私たちにはありません。気が付いたときには、全てが終わっている。あれは、そういうものです」
 
 できるだけ淡々と、殊更に恐怖感を煽るのではなく、事実だけを踏まえて説明することで、ざわめきに一石を投じる。
 一年前、ヘイノの故郷を奪った災厄。それは自然災害ではなく、精霊が気侭に暴れた結果、生じたものだ。周辺一帯は木はおろか草すら残らず、今も不毛の大地と化している。住んでいた人間は、遺骸すら残らなかった者が殆どだ。
 それに比べれば、まだ大慌てする『余裕』があるだけで、現状は精霊が齎す災厄と異なると分かる。
 こんな形で目立ちたくはなかった。しかし、ヘイノが纏う装束が、その首から下げているネックレスが、ヘイノに役割を求めている。
 人々を導く、という役割を。
 
 ――それが、司祭である、ということだ。
 
(与えられた責務に、背くようなことをするな。その衣は、迷える旅人を導くためにある)
 
 一年間の神学校生活で、嫌というほど先生に言われたことを、ヘイノは心の中で反復する。
 今にも緊張と動揺で震えそうになる声を必死に落ち着かせ、揺れる車内にも拘わらず立ち上がり、人々の視線を一身に集める。
 
「皆さんの恐怖を、私は否定しません。かつて我らの始祖は『恐怖こそ、未知の世界に踏み出す時に最も必要となる感情だ』と仰っていました。しかし、恐怖に逸るあまり、他者を傷つけるのは愚かなことです。それは、精霊が齎す災厄とは異なる悲劇の始まりです」
 
 他人を安心させる言葉運び。微かな息遣いと、自ら細心の注意を払って整えた声音。それでいて、雨音に負けないように声量は上げる。
 どうやら、御者はこの悪天候の中でも、確かな手綱捌きで道を進んでくれているようだ。
 今は彼を信じて、ヘイノは馬車の中にいる人の心に安寧を与えるため、できる限りの全てを尽くす。
 
「……本当に、大丈夫なんですの?」
 
 おずおずと尋ねたのは、馬車の中で婦人と議論を交わしていた娘だ。暗い馬車の中では顔立ちまでははっきりとわからないが、彼女の声には拭いきれない不安がある。しかし同時に、彼女本来が持ち得る理性が感じられた。
 
「ええ、安心してください。我々が最も憂うべきは、この悪天候に心を惑わされ、互いを傷つけ合い、この先の旅路に遺恨を残すことです。違いますか?」
 
 話をしながら、ヘイノは上着の裏側にしまっていた荷物の一つ――丁寧に封がされた布袋の一つを取り出し、あるものを取り出した。
 一見すると、それはただの小さな石に見えた。だが、石は暗闇の中で柔らかく白い光を放ち始める。握れば隠れてしまうような小さな石は、真っ暗な車内の中で唯一の光源として人々を包んでいく。
 
「あれは……」
「もしかして、聖石か……?」
 
 ほうぼうから、安堵と感嘆混じりの吐息が漏れる。ヘイノは石を捧げ持つようにしながら、乗客達に座り直すように促す。
 彼らの心に生まれた荒波が徐々に静まり、自分の話に耳を傾けられる状態になったと確認してから、彼は言葉を続ける。
 
「そういえば、今日はちょうど祈りの日でしたね。なら、これも何かの縁でしょう。見習いの身ではありますが、不肖この私ヘイノが、朝の礼拝の説法をさせていただきます。あいにくの悪天候となりましたが、かつて我らの祖先と始祖がこの地に辿りついたとき、その苦難はこの比ではありませんでした。皆さんも、一度はこの話を耳にしたことがあるでしょう――」
 
 日常的な慣習と現在の状況を結びつけることで、人々の中から混乱がゆっくりと落ち着いていく。それを確かめつつ、ヘイノは暗記していた聖導教の聖典に綴られていた物語を語り始めた。
 
 ***
 
 かつて、海のはるか向こうに一つの国がありました。
 その国では、魔法を使える人間と、そうでない人間が共に暮らしてました。彼らは、お互いに協力し合いながら生活していました。
 しかし、やがて魔法を使う魔法使いたちは、魔法使いでない人間を排斥するようになりました。彼らは己の力に驕り、人々の中で争いの火種はどんどん膨れ上がりました。
 そして、ついに当時の王は、魔法使いでないものはこの国には不要と宣言ました。
 彼らは国の精霊たちと手を組んで、魔法を扱えない人々を集め、罪人として国から追い出したのです。国に残る者は、残さず死罪と宣告されました。彼らにとって、魔法を使えないことは、咎そのものだったのです。
 
 長い船旅の末、魔法を持たない人々は、一つの大地に辿り着きました。しかし、ようやくこの地に辿り着いた彼らに待っていたのは、より過酷な現実でした。
 未開の土地は開墾などされているわけもなく、夜には獣たちが人々を襲いました。そのうえ、この地でも、気のむくままに猛威を振るう精霊たちが跋扈していたのです。
 彼らは、魔法使いのように、精霊を従えるすべを持っていません。精霊の齎す災厄に、為す術なく屈服するしかありませんでした。
 
 人々はかつての生活を取り戻すこともままならず、わずかな糧を求めて互いに争いあいました。力ある者は己の利益を独占し、力のない者を虐げました。
 そんな中、一人の娘が絶望に打ちひしがれる人々の旗印として立ち上がったのです。
 彼女は、同胞たちを励まし、苦境の中でめげることもなく互いの融和を訴え、バラバラになっていた人々の心をまとめ上げようとしました。
 
 彼女の献身はすぐには実を結びませんでした。時に罵られ、時に石を投げられ、傷を負うこともありました。
 しかし、やがて彼女の声に耳を傾ける者も現れ始めました。仲間たちは、更に多くの仲間を集め、彼女を中心として一つの村ができました。
 
 ですが、彼らの中に芽生えたわずかな希望を嘲笑うように、彼らが必死に作り上げた村は一夜にして大洪水で押し流されました。それは、悪しき精霊の仕業でした。
 魔法使いに虐げられた頃の絶望が蘇り、人々は再び悲嘆に暮れました。
 しかし、そんな時でも彼女は絶望しませんでした。悲しむ人々を慰め、再び立ち上がろうと声をあげました。
 とはいえ、人々の心はすでに摩耗してしまっていたのです。彼らの心を動かすには大きな奇跡が必要だと、娘は神に祈りました。
 当時、絶望に浸っていた人々にとって、『神』は既に我らを見離して久しいと言われてきました。ですが、娘は常日頃から、真摯に祈りを捧げ、きっとこれも『神』の試練なのだと説いていました。
 ある日、娘はいつものように、落胆する人々を慰めた後、深く深く祈りを捧げました。
 
「もし、この危難を見てくれているのなら、我らに救いをお与えください。それが叶うのなら、私はこの身をあなたに捧げましょう」
 
 その日、彼女は夢を見ました。彼女の夢には、一人の美しい女性が現れたと伝えられています。
 翌朝起きた娘は、夢の中で女神から託宣を受けたと皆に告げました。娘は人々を連れて、女神に指示された場所へと赴きました。
 そこには、白く輝く不思議な石があったのです。それらは火もないのに太陽のように光り輝き、夜の闇を打ち払いました。
 更に、それだけではありません。光り輝く石は精霊を遠ざけ、人々にようやく安寧の時を与えたのです。
 
 石を中心に、人々は生活の範囲を広げ、村を作り、町を作り、国を作りました。精霊たちは隙を見ては人々の作り上げた文明を台無しにしようとしましたが、勇敢な娘と彼女の仲間は彼らを退け、人々を守りました。
 やがて、いつしか、人々は彼女を神の使いと敬い、崇めるようになりました。
 しかし、娘は神へ祈りを捧げたときの約束を忘れていませんでした。ある日、彼女は自分が最も信頼している同志クラレンスに、このように語りました。
 
「私は、これから女神に導かれ、永い眠りにつきます。私の命が、皆を守る石となり、光となるでしょう」
 
 その言葉を残して、彼女は天へと導かれました。人々は、深い悲しみに襲われました。
 悲しみの波が落ち着いた頃、彼女の教えが風化しないように、彼女の仲間たちは彼女の語った言葉を纏めて、人々の目指すべき生き方として説くようになりました。
 一人の娘――ユノーという名の娘を始祖と崇め、彼女が最も信頼した同志クラレンスが樹立させた教えは、今も聖導教の聖典に記され、人々に語り継がれています。
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