本編の話

夜道を走り抜けた膝丸は、目的地である、とある薄暗い町へと辿り着いていた。
任務が行われた場所は、今もはっきりと覚えている。そちらに向かって足を進めているのに、既視感がまるでない。
やはり、記憶が中途半端に取り除けられているようだ。それに、おかしな点はもう一つある。

「空気が妙だな」

まだ日が暮れて、そこまで経っていないはずなのに、この街は静けさに包まれすぎている。柔らかな闇とでもいうべきか。
決して嫌な気配ではない。だが、人が暮らす世界でもないと、肌が伝えている。
更に、数歩歩いて膝丸は気が付く。この場所では、音がまるでしない。
靴音は響いている。微かに膝丸が呼吸している息遣いもある。だがそれだけだ。
虫の鳴く音、電灯のジーという音、家の中で誰かが話す声、カーテンの擦れる音、夕飯の支度をする音、あるいは飼い犬の吠える声すらしない。
風はそよとも吹かず、木々は微動だにしない。時を止めたような静謐な空間は、荘厳さと不気味さの紙一重を行き来している。
いや、神一重というべきか。
何かに誘われるように、膝丸は足を進める。坂道を上り、山に近づけば近づくほど、無音の世界に彼の発する音以外のものを耳が拾い上げる。
それは、童歌だった。

「……なるほど。俺を誘っているわけか」

だからといって、退くつもりもない。更に薄暗い空気を押しのけるように進み、そして彼は辿り着いた。

「──ああ。ようやく、思い出した」

暖かな光に包まれた、小さな石の広場。そこから奥へ奥へと続いていく参道。所々に立つ赤い灯籠には、蛍よりもなお明るく、しかし人工の電灯では到底作れない柔らかな光が満ちている。
夢の中で目にしたのとそっくりな光景。その場所は、あの日の晩、膝丸が目にしたものと全く同じだ。入り口の前で、子供たちがいる点も変わらない。
だが、あの夜との違いとして、子供たちはじーっとこちらを見つめていた。その目は一様に不安や怯えに満ちている。見知らぬ大人の到来に驚いているのか、それとも隠しきれない怒りの空気を察知したのか。
一歩、膝丸が石畳へと足を踏み入れようとしたときだ。

「よ、用がない人は、通っちゃ、だめなんだよ」

幼児独特のしたったらずの言葉が、膝丸へかけられる。見れば、それは先だって夢に見た子供だった。
着物の汚れは落ち新品同然になっているし、顔の血色も見違えるほど良くなっているが、見間違えはしない。

「勝手に大人が入ってきたら、あの子が怒るよ」

膝丸が一昨日の晩に見た兄弟たちも、膝丸へと注意を投げかける。

「用がないものは通さないとのたまおうが、俺の方では用がある。通してもらおう」

もとより、子どもらを邪険に扱うつもりはない。実力行使に出られれば、迎え撃つつもりはあったが、彼らは遠巻きでこちらを見つめているだけだった。
石畳に足を踏み入れる。一歩、さらに一歩と奥に向かえば向かうほど、漂う空気は透き通っていく。淀みなど一切ないかのように、清浄な気配が満ちている。

「確かに、あの童は嘗て神として敬われている立場だったのかもしれぬな」

この場所は悪いところではない。彼女も、生まれながらに穢れや呪いを背負って生じるものとは違うのだろうと、膝丸の直感が教えている。
だが、だからといって、人の世に徒に干渉してよいものなのだろうかとは、膝丸も思う。
膝丸にとって、多くのことは些事である。他人に生き死にに対して、膝丸個人で思うところはさほど無い。
けれども、人の歴史を守るものとして顕現した以上、人の生き死にをいいように弄ぶ姿に対しては、一言口を挟みたくもなる。この感情は、自分がどう思うかというところからは離れた、もはや本能的な嫌悪だ。

「恐らく今も、神隠しを続けているのだろう。己の気紛れで、人の子を拐かし、己の領域に閉じ込めるとは」

彼らはその身も魂も全て、この地に取り込まれて久しいのだろう。長居しすぎて、帰る家も忘れ、ここに留め置かれ続ける。
この場を壊しても、彼らはきっと元に戻りはしないと、膝丸には薄ら予想がついていた。その身も体も、本来ある世からかけ離れて久しくなれば、戻ってはこられまい。
だからこそ、自分も主も長居をするつもりはない。
長く続く白い石畳の参道を歩く途中、膝丸はぴたりと足を止めた。

「──いらっしゃい」

奥へと見える社に続く途中の道で、一人の少女が膝丸の前に立っていた。白いワンピース姿は、夢でみたときとまるで変わらない。
黒真珠のような艶やかな瞳をゆるりと細めて、彼女はにこりと笑いかけた。

「用がないものは通さぬとでも、言いに来たつもりか?」
「いいえ。わたしも〈私〉も、あなたに用があるわ。だって、あなたには資格があるもの」
「夢の続きの戯言を言うつもりか」

あなたもここに留まってはどうか、などという甘言に籠絡されるつもりは、当然膝丸には毛頭ない。

「それは、好きにすればいい。でも、わたしはあなたが必要だと思っている」

ふん、と膝丸は軽く鼻を鳴らして、少女の誘いを一蹴した。

「主は、先にいるのか」
「あるじ、などという名前の人はいないわ」

少女は目を細めて、こちらを試すように鋭い語調で否定する。先だっての柔らかな気配は失せ、冷たく鋭い棘のような空気を纏っていた。

「彼の名を知らずに、共に暮らしていたのかしら。刀の付喪神様?」
「──そんなわけがないだろう」

小馬鹿にするような少女の態度に、膝丸はすかさず言葉を被せる。ただ、彼としては彼女に教えるつもりもなかった。
以前、鬼丸から聞かされた講釈が、頭の片隅に蘇る。
──名は、自分を示す確かな記号だ。おれたちは、名があるからこそ力を持てるが、人は名を知られることで魂を掴まれるともいわれている。
だからこそ、目の前の彼女においそれと教えるわけにはいかない。
膝丸が口を割らないと察したのか、彼女は踵を返し、

「どうか、〈私〉をお願いね」

それだけ言い残して、柔らかな空気に溶けていくように、姿を消した。

***

更に奥へと向かうと、辺りを纏う空気が重くなったように膝丸には感じられた。今までは、透き通った水の中を泳いでいるかのようだったのに、今はまるで泥の中を歩いているのではと思うほどだ。
漂っている空気が、どこか薄暗い。
奥に見える社も、更にその向こう側に植わっている桜の木も、まさに絶景と評していいほどの美しさを湛えているというのに、目に見えない濁りが覆い隠しているようにすら感じる。

「彼らはあなたを待つかしら? 彼らのために何かしたわけでもないのに?」

ふと、耳に声が忍び込み、膝丸はそちらへと視線をやる。瞬間、彼は思わず息を飲んだ。

(──あれは、何だ?)

目に入ったのは、白い着物を着て真っ直ぐに黒髪を伸ばした童女だ。この社に初めて赴いた際、背後から声をかけてきたものに違いない。恐らく、夢の中にいた彼女と同じものに違いない。
だが、一瞬息を詰まらせてしまったほど、彼女は白ワンピース姿と纏う空気が違う。見た目はそっくりであり、ここまで露骨な差がなければ、分霊のようなものかと思っていただろう。
少女は得体の知れなさこそあったものの、嫌な気配はしなかった。なのに、童女は見ているだけで、背筋に冷たいものを感じさせる何かを纏っている。

「……ぼくは、二人のあるじだ」

少年の声がする。聞き馴染みのある、掠れた声だ。いつも、帰ると「おかえりなさい」と応じてくれる声を、聞き間違えるわけがない。

「ぼくは、二人の側にいなくちゃいけない」

彼は、主として自分の役割を一つ一つ言葉にしていく。

「ぼくは、ちゃんと待っていないといけない」

帰った先、空っぽの家ではなく、誰かが待っているというだけで、それまで過ごしてきた何年にも勝る温かさを己に齎すのだと、膝丸はもう知っている。

「──ああ、そうだ」

肯定と共に、膝丸は小さな二つの影へと近づく。一歩一歩、石畳を踏みしめて、少年の側に主に仕える刀として立ち、膝丸は告げる。

「彼は、俺の主だ。だから、貴様には渡さない」

目に入れるだけでも顔を顰めたくなるような、悍ましい気配を纏わせている童女へ、膝丸は告げる。振り向いた主は、大きな瞳を益々見開いて、瞬きを繰り返しつつこちらを見ていた。

「無事か、主」
「……うん。怪我もしてない」
「そうか。帰るぞ」

膝丸が、主である少年の手をとろうとしたときだった。

「あなたを置いていった家族のもとに、帰るの?」
「……ひげきりも、ひざまるも、ぼくを置いていかない」
「いいえ、そちらの坊やじゃないわ」

童女はゆるりと顔を上げ、膝丸を見つめる。瞬間、彼は今までとは大きく異なる怖気に、数歩退きそうになった。
踏みとどまったのは、己の矜持がこの程度のものに退くのを許さなかったからだ。
黒い瞳は白目を埋め尽くさんばかりに広がり、最早眼窩が空洞になったようにすら見える。
口は頬にまでのぼる勢いで裂け、三日月のように笑みの形を作り上げていた。側にいる主も異変に気付いたのか、身を固くしている。

「あにさまは、あなたを置いて帰ってこないのではないかしら。どんどん、一人で先に行ってしまう。何もできない、役立たずの弟を置いて」
「──貴様が、兄者を語るな!!」

膝丸は反射的に腰に吊した刀に手を伸ばし、その切っ先を禍々しい姿へ変貌した童女へと向ける。だが、怯える様子すら見せず、彼女はきゃらきゃらと笑い声をあげてから続ける。

「兄を楽しませられない、幸せにできない弟に、価値などない。他ならぬ、あなたが思っていたことじゃないかしら?」

違う、と否定したかった。兄者はそんなことを言わないと言い張りたかったのに、声がうまく出てくれない。
周りに漂う重苦しい空気が、自分の体に纏わり付いて離れない。目の前の童女の言うことが正しいのではないかと、嫌な方向へと思考が加速していく。

「寂しいのでしょう? だから、あなたにも資格はあるわ。七つまでは神のうち。あなただってそうなのだから」
「……七つ、までは──だろう。主はそうかもしれぬが、俺は」
「この世に顕現してたった五つの幼き魂が、ただ背伸びをしているだけでしょう。何も違わないわ」
「貴様、俺を五つの童と同じと言うつもりか」

どうにか息を整え、己の体を強く意識して、膝丸は返事をしていく。そうでもなければ、ともすればあらぬ方向へと意識が流されてしまいそうだった。

「……ひざまる」
「大丈夫だ、主」

それでも、忍び寄る不可解な変調を全て隠せるわけではない。気が付けば、突きつけた刃が微かに震えている。額から滲み出た汗が、一筋頬を流れ落ちていった。

「苦しいのでしょう。痛い思いもしてきたのでしょう。沢山、沢山、大変な思いをしているのに、人はあなたをどれほど労ったというのかしら」
「見返りを求めて行動などしていない。俺は刀だ。人が命じるままに振るわれてきた。結果、歴史を守る大任の一助ができるのなら、それでよい」
「あなたは、己の役割を知っているのね。そう、それはいいことね。とてもとても、いいことで、いいことで、ああやっぱり羨ましくて、羨ましくて羨ましくて──」

膝丸は微かに眉を寄せる。彼女は俯き、壊れたラジオのように「羨ましくて」という言葉を繰り返している。

(いっそ斬り伏せるか? 一応神の末席なのやもしれぬが、このものは人に害を成す悪しき神のよう。それならば)

そこまで考えた刹那、不意に童女の声がぴたりと止んだ。重苦しい空気はそのままに、ゆるりと彼女は顔を上げる。
そこには、最早目鼻すらない。ただ、真っ黒の永遠に続く闇だけが広がっている。
あまりに人の姿から逸脱した姿に、主も膝丸も一瞬総毛立つ。

「羨ましくて羨ましくて羨ましくて──────妬ましい」

体の中心を貫くような寒気に、膝丸は息を飲む。

「主、退くぞ!!」

これ以上問答は無用と、膝丸は主の手を掴み、踵を返して駆け出しかけた。だが、

「──っ!!」

瞬きの合間に、すぐ足元に童女の姿が現れる。うぞうぞとした闇は、最早眼窩に留まらずに顔中を半ば覆い尽くしている。
振り切らねばと思っているのに、目が離せない。目をそらせない。それどころか、まるで己の目にも闇が広がっていくように、どんどん視界が黒に染まっていく。

「あなた、一度壊れかけているわよね。それなら、私がもっと壊してもいいわよね?」

じわじわと、膝丸の体が──否、理性が、何か悍しいものに蝕まれていく。
蓋をして己の片隅に埋めておいた記憶を、彼女が掘り起こした。だから、今、腹の底から、喉の奥まで、気持ち悪い何かが一息でせり上がってくる。
何かを考えることすらできない。頭の中に誰かの手を突っ込まれ、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような気持ち悪さに、まともな思考などできるわけがない。
嫌だ、と体が拒否している。思い出したくないと、理性が目を塞ごうとしている。なのに、自分の視界も思考も、あっという間に歪められ、狂っていく。

「羨ましいわ妬ましいわ狂おしいわ。あなたみたいに私も、私もあなたのように────」

黒塗りの顔をした童女が何か言っているようだが、意味が理解できない。唯一自分の手を握っている子どもの手だけが、微かな錨となって己をつなぎ止めてくれている。
さもなければ、とうの昔に思考は黒い渦の果てへと流されていただろう。
夜の闇よりもなお深い黒に染まりきった世界の中、ぼんやりと浮かぶ白が見える。それが、見慣れた兄の背中だと分かり、膝丸は意識の中で手を伸ばした。
髭切は、楽しそうに笑っている。やがて、彼は膝丸を置いてその背を徐々に小さくしていく。
追いかけようと思っても、できない。体中がねばついた泥の中にいるように、動かない。

「弟なんて、いなくてもよかったのに」

不意に、そんな兄の声が耳元でした。
不安定に揺れ動く思考が、たった一言で一気に傾きかける。
深い海に沈んでいくように、意識が落ちる。内心に沸き立つのは、身の危険とはまた異なる恐怖。感情に突き立てられた刃が、ひねられ、捻りこまれ、精神に深い傷跡を残していく。

「──怖いのなら、悲しいのなら、わたしの元で隠れてなさい」

声がする。それも、いいのではないかと、落ちかけた意識が囁きかけた刹那、

「ちがう」

か細い、子どもの声がした。

「ひげきりは、ひざまるが楽しそうにしていたら、楽しいって言っていた。ひざまるが、すごく大事で、ひざまるのためなら自分が怪我してもいいって思ってしまうぐらい大事なんだって、ぼくに話していた」

彼の声が、一気に思考を正常な方向へと戻していく。自分の手を握る主の手が、微かに力を込めてくれて、ここにいると主張していた。
黒い世界が遠のいていく。地に足がついた感触が戻ってくる。歪んでいた思考も視界も、数度の瞬きを経て、正しい光景を見せてくれた。

「ああ、そうだ」

微かに冷や汗が滲んでいる。鼓動も、いつもの何倍も早い。けれども、己はここに在ると断言できる。

「兄者が、そのようなことを俺に言うわけがない」

一瞬、心を揺らがされてしまった。日々積み重ねていた、己の至らなさに端を発する不安から、ありもしない幻覚に惑わされかけた。
だが、考えるまでもなく、答えは元々あまりに単純だ。

「兄者は、決して俺を置いて行かない」

それは信頼であり、

「兄者の隣には、俺がいなければならない」

確かな信念の裏打ちでもあった。

「今決めた。貴様は、ここで俺が斬る。貴様も神を名乗るのなら、そのような悍ましい姿で在り続けたいとは思わないだろう」

主を背に隠し、膝丸は黒々とした虚無を顔に広げる童女へと、勢いよく刀を振り下ろす。
大上段からの一撃。まず外すまいと思った瞬間、

「だめ!!」

どこからともなく、鈴を転がしたような少女の声が響く。だが、膝丸の太刀は最早止まらない。
迷いのない一刀は、既に童女の胴体をばっさりと斜めに切り下ろしていた。
感触は確かだ。童女も、まるでボロ人形のようにくたりとその場に倒れる。だが、

「何だ、これは──!?」

その切り裂いた裂け目から、どっと黒いものが沸き立っていく。それは液体というには軽く、しかし気体というには重すぎる。
質量を伴った雲のようなものが溢れかえり、膝丸は咄嗟に主の手を掴み、勢いよく飛び退いた。

「ひざまるっ」
「退くぞ、主!!」

今は何か言う余裕もない。膝丸は灯籠が妖しく照らし出す道を一気に駆け抜け始めた。


***


「髭切さん、少しいいでしょうか」

庁舎の廊下を歩いていた髭切は、呼び止められてピタリと足を止める。振り返ると、そこには気の弱そうな男性の職員が立っていた。

「うん、何だい?」
「その……今日は弟さんはどちらに?」
「ええと、鬼丸から聞いた所によると、昼前には帰ったらしいよ。夜中、廃棄された本丸の調査のお手伝いをしていたそうだから、今日はお休みなんじゃないかなあ」

返事はシンプルだったが、髭切は「自分もさっさと帰りたいのに」という空気を辺り一帯にまき散らしていた。
腰の低い職員は、その覇気に気圧されるように数歩後ずさり、

「さ、さきほど、電話にて調べ物を頼まれていまして……」
「調べ物?」
「はい。先日ご一緒した任務で行った先の町で、子供の失踪者に関することについて……だったのですが。一つ、新しく分かったことがあるので、後で髭切さんの方から伝えてもらえますか……?」
「いいよ。それで?」

二つ返事で引き受けたものの、髭切は平素の笑顔の裏で、微かに眉を顰めていた。
自分の知らないところで、何故弟がそんなことを調べているのか、理由がさっぱり掴めなかったからだ。

「夜に子供が失踪するという話には、もう少し詳しい内容がありまして……実は、昔からその地域に住まう、とある禍つ神が子を攫うからだと言われているそうです」
「おやおや、それは穏やかではないねえ。その悪い神様はまだいるのかい?」
「それが、山間部にあった古い社に祀られていたそうなのですが、さる大雨の際に流されてからは、それきり……と。元々、近隣住民も碌に参拝しない社だったので、建て直しの要望もなかったようなのです」
「それは気の毒なことだね」

あまり気の毒とは思っていない声で、髭切は言う。

「何の調査かは存じませんが、何かの手がかりになるかと思いましたので、どうぞ伝言の方、よろしくお願いいたします」
「うん。ところで、僕も伝言をお願いしていいかな」

髭切は邪気のない笑みをにこりと浮かべて、職員に告げる。

「今日はもう帰るって、鬼丸に言っておいて」

言づてを頼まれた彼が、引き攣った声をあげたのは言うまでもない。

***

「いったい、これはどういうことだ」

道の途中で足を止め、膝丸は辺りを見渡す。その片手には未だ抜かれたばかりの太刀が握られており、もう片方の手には主の手が握り込まれていた。
彼の周りには、分かれ道があった。だが、膝丸が記憶している限り、この場所は社に続く一本の参道があっただけだ。左右への分かれ道など、あるわけがない。
何より、おかしな点はもう一つある。

「……入り口がない?」

すぐに見えてくるはずだった入り口に、全く辿り着く気配がない。相当な距離を主と共に走ってきたというのに、まるで道に終わりがなく、挙げ句こんな分かれ道が現れる始末だ。
さて、どうしたものかと、膝丸が左右の道それぞれに目をやったときだった。

「行きはよいよい 帰りはこわい」

背後から、歌声。
背筋に氷でも飲み込んだかのような、冷たい感覚が走る。慌てて振り返り、視線の先にあるものを目にして、膝丸は思わず奥歯を噛み締める。
先ほど確かに斬り伏せたはずの童女が、そこにはいた。
ただ、彼女は元の姿に戻ったわけではない。中途半端に切り裂かれた体を無理矢理動かしたような有様であり、だらんと垂れ下がる腕は力なくぶらぶらと揺れている。
そんな姿で、こちらへ一歩ずつ、のたりのたりと近づいていく。

「こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ……」

岩陰から滲み出るような、陰鬱な声が辺りに響く。一歩、こちらに近づくたびに、彼女の首が振り子のようにぐらり、ぐらりと揺れている。

「消さないと。連れて行かないと。消さないと。連れて行かないと。消さないと。連れて行かないと」

壊れきった機械のように、不自然に歪んだ声がぐわんと響く。
がくり、がくりと揺れた首が、ごきりという不自然な音をたてて、あり得ない角度に──直角に折れ曲がったまま、止まる。
次いで、譫言のように呟いていた言葉がぴたりと止み、嫌な沈黙が辺りに澱のように降り積もる。

「……消さないと。だってここは──子が消える社」
──置いてかれた子供は、消えないと。

どっ、と傷跡から、あの悍ましい黒の気配が沸き起こる。それは瘴気のように、辺りを蝕んでいく。

「主、走るぞ!!」

あれに触れてはならないと、膝丸の本能が警告していた。右か左かなどと、迷っている場合ではない。適当に選んだ左の道へと走るが、

「ひざま、る、まって……っ」

刀剣男士である彼の全速力と、七つ八つの子供の走る速さが同じであるわけがない。十分に距離もとれないうちに、主の足はもつれて転んでしまった。
後ろからは、童女の姿こそないものの、あのどろりとした黒い気配が、質量を伴った闇が近づいてくる。

「──瘴気、断つべしっ!!」

転んだ主に触れさせまいと、膝丸は抜き身の太刀を勢いよく振り払う。すると、銀の剣閃に押されたように、僅かながらも淀んだ空気が消えていった。

「主、少し乱暴かもしれぬが、許せ」

刀を手早く鞘におさめ、膝丸は転がる主を片手で抱え上げた。
少年を肩に担ぎ上げた状態で、彼は己が選んだ道をできる限りの速さで疾駆する。幸い、向かう先はまだ黒ずんだ空気に浸食されていないようで、安全地帯と言えそうだった。
十分に距離を置けたと判断できる頃合いで、膝丸は足を止める。辺りは相も変わらず灯籠がずらりと並ぶ参道だったが、どこかの山にでも入り込んだように、辺りには木々が多く見られた。
灯籠の一本に背を預け、主は何度も息を吸って吐いてを繰り返している。緊張のためか、顔は真っ青になっていた。

「主、大事ないか」

少年は乱れた呼吸の中、微かに首を縦に振る。暫し休む必要がありそうだと、膝丸も灯籠へ背を預けて辺りへの警戒を弛まずに行っていた。
桜色に輝く光をおさめた灯籠が作り出す景色は、もし今が緊急事態でなければ、じっくりと見たいと思っていただろう。だが、こんな状況ではそうも言っていられない。

(あれは、一体何だ? ただ道を誤った神を斬っただけで、あのように変化するものか?)

よりじっくりと童女の様子を思い出そうとするも、あの黒々とした顔を思い出す度に腹の底がむかむかして、頭の片隅が焼けるように痛んだ。
それどころか、そのむかむかは体全体に広がっていこうともしている。そろりと刀を抜いて見やると、童女や瘴気を斬った部分に黒い錆のようなものがこびりついていた。

(……仕方ない。ある程度、こうなるとは予想がついていた)

刀を鞘にしまい直し、膝丸は座り込んでいる主の様子を見る。彼の顔色はまだ悪い。
痩せた体躯や普段から部屋の中でじっとしている様子から察するに、あまり運動は得意としていないのだろう。

「立てるか?」

少年は何度か深呼吸して立とうとするも、まだ膝ががくがくと震えている。全力で駆け出すには、些か心許ない。

「……ひざまる」
「すまないが、あまり休んではいられない。また、あれが来るかもしれないのだ」
「うん。だから」

主は自分の細く頼りない足を見やり、それから膝丸を見つめる。呼吸一つ乱れていない彼を前にして、主は告げる。

「……置いて、いっても、いいよ」

刀剣男士としての膝丸は、主に比べれば体力の基礎が根本的に違いすぎる。どう考えても、自分が足手まといだとは、いくら幼いといえど主も理解していた。

「……ひげきりは、弟が無茶しないように、ぼくにいてほしいって言ってた」

だが、このままでは、自分のために膝丸が無茶をして怪我をするような目に遭う。それこそ、本末転倒だ。
切り捨てるつもりもある、と髭切は言っていた。それなら、別にいいだろうと思う。
あの童女は明らかに様子がおかしく、彼が斬ってしまった以上、この場所に留まり続けたら何が起きるか、まるで想像もつかない。
だからこそ、迅速な行動を求められているのだろうし、そのための足を己が奪っていると、主は正しく状況を把握しているつもりだった。

「ぼくがいて、ひざまるが早く動けないなら、置いていって、いいよ」

置いて行かれるのは慣れている。
それは悲しくて怖くて寂しい選択ではあったけれど、それでも彼が兄のそばで笑えるなら、それでいいのではないか、と考えてしまう。
自分を置いて誰かが幸せになる様子は、前も目にしていた。母親は、自分を置いていったことで、きっと今頃幸せを掴んでいるのだろう。あれほどまでに、邪魔者扱いしていたのだから。
役立たずは置いてかれても仕方ないのだ。この僅か一ヶ月とはいえ、こちらを見て声をかけてくれたのは嬉しかった。せめてそのことだけでも伝えられたらと思い、顔を上げると、

「断る」
「えっ」
「断る、と言っただろう。突然、何を言い出すのだ。幻覚でも見せられているのか?」
「でも」
「でも、ではない。兄者が何を考えているのかは知らぬが、俺は君を置いていくつもりはない。主一人守れぬ不甲斐ない刀の汚名を背負って、俺に在り続けろとでも言うつもりか」

膝丸の言葉は、主そのものを大事にしているというよりは、己のプライドを大事にしているように聞こえるものだった。
だが、たとえそうであったとしても、膝丸は置いていかない選択を即座にした。それだけで、少年にとっては十分だった。

「……うん」
「走れないなら、抱えていく。君の体躯なら、片手でも担いでいけるだろう。多少頭が揺れるが、それは勘弁してくれ」
「大丈夫」

こくりと頷く主は、差し出された膝丸の手をとる。

「俺は源氏の重宝、膝丸だ。そして、今は君を主とする刀だ。それを、忘れるな」
「──うん」

手袋越しに、彼の手の温もりが伝わり、挫けかけていた心に小さな火が灯った。

***

庁舎を飛び出した髭切は、マンションには戻らずに職員が教えてくれた町へと向かっていた。最寄り駅を降りた瞬間、髭切はすぐさま顔を顰める。

「……何、この嫌な感じ」

敵意や殺意とは違う。ただ、肌をざらりとしたものが通り過ぎていくような、黒い空気があちこちに漏れている。流れてくる元を視線で辿り、髭切は眉を顰めた。

「あれは、かなりまずいことになっていないかな?」

山を無理矢理切り開いて作ったかのような住宅街。更にその向こう側に見える山は、今は夜闇に包まれてほぼ黒に近い輪郭として夜空に浮かび上がっている。
そのある一点に、ひどく淀んでいる部分がある。髭切は、すぐさまそちらに向かって駆け出した。
膝丸が気が付いたように、髭切も静かすぎる街並みの異常さは察知していた。だが、それ以上に、漂う空気が重い。どんよりと濁っていると言い換えてもいい。
目として見た光景は、何の変哲もない夜の町だ。だが、彼の知覚が「ここはおかしい」と己に伝えている。
住宅街の坂道を一気に上まで駆け上がったものの、肝心の不穏な空気の源には何もなかった。何の変哲もない、立ち入り禁止の札が無造作に立てられているだけである。

「この奥に何かあるのかな?」

髭切は札を無視して、舗装されていない獣道へと足を踏み入れる。途端、嫌な空気が益々濃くなったように思う。暗く沈んだ山道は、当然街灯もない。
刀剣男士として、夜目は人間より利く方ではある。それでも、夜戦に特化した刀剣男士たちに比べれば、視界はぐっと悪くなる。
携帯端末の灯りをつけて、ぐるりと周囲を照らしながら、髭切は奥へと向かう。いくらか坂道を上った先で、髭切は足を止めた。

「……これが、あの人が言っていた大雨の跡だろうね」

大規模な土石流と比べると大したことではないのだろうが、小高い丘に繋がると思われた坂道の先が、綺麗に抉り取られている。もう何年も前の話のように聞こえていたが、存外爪痕は大きく残されたままだった。
油断すると、そこから滑り落ちてしまっただろう。転落したら即死──というほどの高さではないが、まず間違いなく人間なら怪我はする。

「よいしょっと」

だが、髭切はまるで階段でも降りるかのような気軽さで、ひょいと崖を滑り降りた。
灯りでほうぼうを照らしてみると、所々にほぼ欠片と化した古い木片がある。他に何か手がかりがないかと、ぐるりと携帯端末で周囲を照らし上げ、

「おや、あれは何だろう」

髭切は、ほぼ土砂に埋もれ、経年で朽ち果てかけている木っ端の中から、ひときわ纏まっている木片のもとへと辿り着く。
全体的に建物の残対と思しき破片は均等に散らばっているのに、それだけは一箇所に固まっていた。その一つを拾い上げ、髭切は目を眇めて見つめる。

「これ、もしかして何か書いてあったのかな? あるいは、刻まれていた……?」

もっとも、大雨のせいか、それとも長い月日を経たせいか、殆ど流れ落ちてしまっていて仔細はほぼ分からない。ただ、大きな文字で仰々しく何かが記されていたことは分かる。

「でも、この欠片たちだけは、辺り一帯を包んでいる嫌な感じがしない。どうしてだろう」

寧ろ、温かいとすら言っていい。触れているだけでも、指先からじんわりと伝わってくるほど、誰かに対する良い願いが込められていると髭切は直感で理解する。

「このどんよりとした空気に、弟と……多分、主も関わっているんだろうね。子供って言っていたぐらいだから」

念のため、考えすぎかもしれないと、ここに来る前に膝丸には電話をかけていた。だが、彼は応答しなかった。
最後に彼からこちらへの着信があったのは、夕方だ。入れ違いになってしまったことが、今更ながら悔やまれる。

「……子供をさらう悪い神様。つまり、弟と主は神隠しに遭っているということかな。ねえ、そこの君」

ぐるりと振り返る。その視線の先には、白いワンピースを着て黒く長い髪を翻らせている童女が立っていた。彼女はシンと静まりかえった黒い瞳で、髭切を見つめている。

「僕はここの坂道を上って、この場所に下りたとき、何だか微かに既視感を覚えた。思い出したよ。昨晩見た夢で、僕はここにいた。子供の姿をした君が、やってきた童と遊んでいたのを、僕は見ていた」

髭切は背中に負った布袋に指を掛け、結び目を解く。

「君は、どうやら僕に何かを伝えたかったのかな。じゃないと、わざわざあんな夢を僕に見せる理由がない」

背中に隠し持っていた太刀を手にもち、髭切は鞘からそれを取り出した。

「どうやら君は禍ツ神として今は語られているらしい。あの夢で見た君は、とてもそうには見えなかったけれどね。でも、今はそんなことはどうでもいい」

ほの暗い月明かりの下、髭切の刃が冴え冴えとした光を放つ。切っ先を少女に突きつけ、彼はにこりともせずに、

「弟と主を、どこに隠した」

ぞっとするほど冷たい声で、彼は問う。

「彼らは、〈私〉の住まう場所にいる。ここではない、でもここでもある場所」
「つまり、向こう側──ということかな」

今、髭切が立っている地と違うものが、境界を挟んだ向こう側に存在しているという認識は、髭切もしている。
山の向こうに異界を夢想し、今もここではないどこかが存在していると考えるものは多い。そして、それは概ね間違いではないと、髭切が所属する部署の者たちは考えている。ただ、感知できるかできないかだけの問題だ。

「場所が分かっているなら、話は早い。君が隠したというのなら、今すぐ彼らをここに戻してもらおうかな。さもないと」
「わたしが隠したわけじゃないわ。それに、今のわたしでは、彼らを外には連れ出せないわ。彼ら二人なら、〈私〉を宥めて抜け出すことは十分に可能だったと思っていたのに」

何やら思った以上に事態が複雑そうだと、髭切は怪訝そうに眉を顰める。

「〈私〉は想像以上に、刀の付喪神である、あなたの弟に執着していた。役割を果たして、今もなお正しい姿である刀剣男士という存在に、羨望を抱いていた。そのうえで、彼が〈私〉を壊して──いえ、否定してしまったから」
「弟が、否定した?」

薄雲が、月を隠していく。光が消えた闇の中、少女はそれでも髭切を過たず見据えている。

「正しい存在が害意を持って悪と断じるのは、否定と言えるでしょう?」

髭切は頷く。膝丸は、彼なりの正しいと思う考えを抱いている。それを以て人さらいを人さらいとして処断しようとしたのなら、明瞭な〈否定〉と言っていいだろう。

「羨望したということは、君はその逆──つまり、役割を忘れているんだね?」

少女は、無言で頷く。ただ、自分の役割を忘れているという割には、彼女の応答はしっかりしすぎている。
忘れているということを指摘できるのなら、裏を返せば、それは忘れていないと言っているようなものだ。自分のことを話しているのに、まるで他人の話のように彼女は話を進めている。
だが、一旦はその懸念を脇に追いやり、髭切は言葉の続きを待つ。

「自分が何をするものだったかも忘れ、ただ周りが自分について何と語っているのかだけは、呪いのように降りかかり続けている。あれは、子を拐かす悍ましい存在だ──と」

ふと、髭切はこんな状況であるというのに、己の来歴について思い出していた。
髭切という刀に纏わる逸話は多い。物語や言い伝えに添えば、名前は二転三転しているし、やれ写しを斬った鬼を斬った、不吉な刀だ加護を齎す刀だと、知識として見聞した限りでも自分の話は複雑に絡まり合いすぎている。
それでも、髭切が髭切であれるのは、そこに刻まれた物語が祈りであり願いであり、良き刀として最終的に集約しているからだ。
例えば、もし。
人殺しの道具。災いを運ぶ種。そんな風に語られ続けていたのなら。

「だから、君も歪んじゃったのかな」

人々の願いは、祈りであると同時に呪いにもなる。どちらも紙一重だ。
髭切が髭切として、あるいは膝丸が、他の刀剣男士たちが彼らの存在を揺るがさずに正しくあれるのが、培ってきた願いの集大成なら、逆もまた然り。
歪んだ願いは、神をも歪に変えていく。ムジナが居場所を追いやられて消えていこうとしていたのとは、また系統の違う歪みだ。

「ええ。結果、〈私〉は歪んだ。語られる通り、子を脅かすものへと変貌した。けれども、〈私〉は〈私〉なりの法則を持って動いていた。手当たり次第に厄災を撒き散らすものではないようにと、それが〈私〉なりの矜持だった」
「ああ、でも──それすらも、弟が否定しちゃったのか。うん、それはよくないね」

髭切は頭の中で彼女の話した内容と、自分が夢で見た光景、そして己の推測を組み立て直す。
元は決して悪いものではなかったが、何かの因果で彼女は祈りではなく呪いを受ける存在に変化してしまった。理由は不明だが、今はそれは置いておく。
結果、本人も悪いものへと変じかけ、乞われる(のろわれる)ままに神隠しを行っていた。だが、それでも元々の在りようがまだ残っていたのか、彼女は無作為に厄災を撒き散らして人々を混乱させるものにはならなかった。
その、最低限のラインを保っていた状態すらも、膝丸が斬るという行為で否定した。
故に、最低限設けていた心理的な防波堤すら壊れて、抑えていた人々の願い(のろい)が吹き出し、現在のような不穏な空気が辺りに漂うような状態になったといったところだろう。

「弟も必死だったのかな。主が誘拐されちゃ、刀としては名折れだものね」

普段の彼なら、もう少し慎重に振る舞っていただろうか。それとも、案外今と同じ結果になっていたかもしれない。刀として斬れば多くは解決するという考え方が生み出した弊害のようなものかもしれない。

「それで、君は完全にもうおかしくなってしまったから、弟たちは出られないと言いたいのかな」
「ええ。〈私〉は連れ去ったものを戻さないものと、語られている。そうである以上、〈私〉は彼らを返そうとはしないでしょう」
「それは困ったねえ。君は、その彼女と同じ存在に見えるけれど、違うのかな」

微かに敵意を見せつつ、髭切は一歩少女へと迫る。迫りつつも、髭切は微かに違和感を覚えていた。
肌にまとわりつく、ざらついた黒い気配は変わっていない。だが、この少女は、黒い気配からは縁遠いと感じるほどに、纏う空気が澄んでいる。
あの夢で見た、春のうららかな日差しの中、飛び回っている少女の気配は彼女によく似ていた。

「君は彼女について、知りすぎている。まるで、本人の生き様をずっと見続けてきたみたいだ」

そういう存在を、髭切はよく知っている。自分だって、同じ顔をした髭切と呼ばれる別の〈髭切〉を目にしているのだから。

「君は、分霊なのかな」
「いえ、どちらかというと、残り滓かしら。〈私〉に向けて捧げられた祈りが形作った残骸が、辛うじてわたしを作り出した」

分霊は本霊に本来並び立つものだが、祈りの残り滓のようなものでは、さしたる力はあるまい。だから、彼女が強引に弟たちを連れ出すということはできないのだろうと、髭切は考える。
さて、どうするか。この不穏な空気を感じる限り、あまり時間は残されていないようだ。今は、ただ空気が淀んでいるだけだが、やがてもっと分かりやすい形で、この場や地域への影響が出るだろう。
決して目には見えにくいが、それは死や正体不明の病という形で突如姿を見せるのだ。多くの人間は、神が齎す不幸を称して〈祟り〉と言う。
髭切としては、それらについては二の次で、戻ってこない膝丸と主に対して何かできないかと思考を回転させた。
閉ざされた社。昨晩目にした夢。嬉しそうに社の住人に何かを渡す親たち。帰っていく彼ら。大雨で流された建物。文字の書かれた古い木片。

「──役割を忘れたのなら、本来するべきだった行為をさせて、思い出させればいいんじゃないかな」

髭切はぼろぼろになった文字の書かれた木札を取り上げ、彼女へと放り投げる。
放られた木札は、彼女の小さな掌にすっぽりと収まった。

「君の管理をしていた者は、やってきた親から何かを貰っていた。恐らくは、その木の欠片──つまり、お札だね。それと共に、君は子供を祝福しているように見えた。それなら、同じことを〈君〉にするよう促せば、己の役割を思い出すんじゃない?」

少女は目を見開く。手に握ったお札を見て、それから彼女は何かを呟き、意を決したように大きく頷いた。

「弟は今はそこまで気を回せないだろうし、こればかりは僕が用意するしかないかな」

髭切は散らばっている木っ端の中に手を当て、暫し間を置いてから、その一欠片を取り出す。

「見栄えが悪くなるかもしれないけれど、きっとこういうものは形の方が大事だろうから」

髭切は上着のポケットからペンを取り出し、木片に付着した土を払ってさらさらと何かを書き綴る。続けて、更にメモを取り出すと、こちらにも何事か綴って木片へと結びつけた。

「君なら、弟たちの所に行けるよね。これを、渡してくれるかな」

少女は髭切からメモが括られた木札を受け取ると、踵を返す。その瞬間、まるで空間へと溶けるように彼女の姿が掻き消えた。どうやら、膝丸たちが隠されている場所に向かったのだろう。
ざわりと、木々が不吉な音を奏でて揺れる。髭切は目を細め、辺りを見渡した。淀んだ空気は、今やこちら側へとにじみ出し始めている。夜闇に紛れて見えないが、いずれ山から溢れ出た瘴気は人々の暮らす町へ、目に見えぬ厄災として漂うだろう。

「さて、弟たちが帰ってくるまで、ここは僕が保たせようか」

髭切には、人々を守りたいという使命感や、去って行った名も無き神への同情などは微塵もない。あるのは、己が待つための場所を用意する必要があるという、ひどく合理的な考えだけだ。
抜いたままの刀を軽く払うと、微かに空気が澄み渡る。刀を滲み始めた黒い気配には触れさせず、しかし今立つ場を守るため、彼は刀で何度も虚空を斬る。
その姿は、歪んだ願いで壊れた貴き存在を慰撫する舞のように見えた。
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