本編の話

早朝のけたたましい着信で起こされた主は、髭切に命じられるままに再び寝直し、再び目を覚ました頃には既に八時を回っていた。
居間に向かっても、今日は朝食がない。昨日の夕飯の残りを口にして、主は誰もいない居間のソファに腰を下ろす。
特にすることもないときは、主は大体寝ているか、ぼーっとしていた。何かしたいこともすぐに出てこないし、何もしないで過ごすことには慣れていた。
考える事柄はあまりに多く、整理できる内容は何一つとてない。けれども、今日ばかりは自分と同じ部屋に住む兄弟のため、何かできることはないかと、主はうんうんと悩んでいた。

「ひざまるは、ひげきりのことを楽しくさせたいって頑張っていて、でも上手くいかなくて……。ひげきりは、たくさんひざまるのことを、考えていて……だから、ひげきりが言っていたことを伝えたら、喜ぶ……のかな」

どうにか結論を出すも、これが答えとして相応しいかは口にしてみなければ分からない。もし膝丸をより落ち込ませてしまったり、怒らせてしまったりしたら、どうしよう。
主があれこれと悲観的な想像をしつつ、ふと何気なく首を横に向けたときだった。

「──っ!?」

ソファの手すりの向こう側、黒い髪をまっすぐに伸ばした白い着物の少女が、じっとこちらを見つめている。薄暗い廊下にいたときよりも、なお近く、彼女はこちらを見つめている。
瞬間、ぞわりと背中に冷たいものが一気に駆け上った。恐怖を感じているのに、目が離せない。呼吸すらも忘れて、彼の空色の瞳は、少女の真っ黒の瞳を見つめている。

「あなたは──いらない子?」

不意に問われ、主は唇を噛んだ。
彼女の発した声は、夕暮れどきに会った少女のように、優しさを帯びた声音ではない。これに答えたら、彼女は結果がどうあれ、もっとこちらへと迫ってくるだろう。
想像しただけで、全身が総毛立つほどの寒気に襲われる。
動くこともできず、答えることもできず、数秒が過ぎる。彼女と瞳を合わせることに耐えかねかけた頃、

がちゃりと、鍵の開く音がした。

「主、帰ったぞ。兄者はいるか?」

膝丸の声に反応して、主は思わず彼女から視線を逸らす。だが、すぐに自分が今目にしているものの異常性に気が付き、向き直ろうとするも、

(──あれ?)

今まで感じた圧迫されるような緊張感が失せている。そーっと視線を戻しても、そこには誰もいない。

「……お化け?」

夜でもないのに、お化けが出るものだろうかと思うも、先だって廊下で目にしたのも丁度朝のことだった。
喉元過ぎればなんとやら。先ほどまで強く感じた恐怖も、姿が見えなくなればすぅっと薄まっていく。
相手は、別に何もしてきていない。ただ、見てきただけだ。直接痛い思いをしたわけでもないのだから、主にとってその時点で恐ろしいものだという考えが薄れてしまう。

「主、兄者はどこに?」

何も知らず居間にやってきた膝丸は、出かける前と同じように、疲労が濃く残った顔をしていた。
そんな彼に、自分が今からしようとしている返事がどれほど残酷か、主にも薄々予想してはいたが、彼に与えられた選択肢は一つしかない。

「……ひげきりは、朝に、出かけた」

膝丸の顔に落ちた影を拭う方法は、主には分からない。


***


何かを作る気力もなく、膝丸は買ってきたいくつかの弁当を仕舞い、いくつかは昼食として並べた。
疲労はまるで暗雲のように体にしがみついているらしく、昼まで泥に沈み込むように寝たのに、胸中に重く垂れ込めた雲は消えてくれそうにない。

「兄者は、いつ戻るか聞いているか」

無言で、主は首を横に振る。返す言葉もなく、膝丸は昼ご飯用に買ってきた弁当を、無理矢理口の中に押し込むように食べていた。
最初は、兄の変化に無頓着だった己を不甲斐なく思い、同時に彼を喜ばせるために何かできたらと考え、結果的に嬉しそうに食事する髭切を目にして、料理という手立てを考えた。
なのに、それが上手くいかないからだろうか。ともすれば、悪い方へ悪い方へと思考が傾いていく。
まるで、傾斜のついた坂を転がるように、兄が自分を置いていくような想像が何度も脳裏によぎる。そんなわけがないと分かっているのに、頭から離れてくれない。
そのせいで、昨晩の任務もどこか上の空で、戻ってきてから鬼丸に注意されたぐらいだ。

「……ひざまる」

目の前の主も、困ったような顔でこちらを見ている。彼にまで気遣われていると分かっているのに、今の膝丸にはどうにもできなかった。

「ひげきり、昨日帰ってきた時に、言っていたんだけど……」

続く主の言葉に、膝丸はぴたりと箸を止めた。

「ひげきりは、ひざまるが嬉しいと嬉しくなるし、悲しいと、悲くなるって言ってたよ。側にいてほしいんだって」
「…………」

兄が口にしていたという、自分への言葉はとても嬉しい。だからこそ、こんな情けない顔の〈膝丸〉を〈髭切〉の隣に置いてはならないと、思ってしまう。

「あまり、情けない顔をしていてはよくないな。兄者に会ったとき、心配をかけたくはない」

主は口を微かに開いたまま、じっと膝丸を見つめ──しかし、何も言わずに口を噤んでいた。


髭切の言葉を伝えたら、何か変わるのではないかと期待した。膝丸の悩みは料理のことだけではなさそうだと、主もとうの昔に分かっている。
自分が一番理解していると思っている相手に対して、知らない側面を目にしたとき。
或いは、自分が相手に対して何もできていないのではと考えてしまったとき。
体の中心からどんどんと黒いものが泉のように湧き上がり、不安という名の海で溺れそうになる。それが不安だけで済まず、事実という形で襲いかかってくることがあると、主は知っている。
だからといって、膝丸の大事な部分にどんどん足を踏み入れるような勇気は、彼にはない。

(二人には、楽しそうにしてほしいのに)

箸やコップを洗うためキッチンに向かった膝丸の背を見守りながら、少年は思う。

(笑っていてほしい。二人ともが幸せになってほしい……けど、どうすればいいんだろう)

そこまで考えて、ふと昨日思い出した記憶が彼の中で蘇る。迷子の末に辿り着いた河川敷で、唯一名前が分かる植物を目にして、記憶の淵から引き出してきたあの言葉。
──四つ繋がっているクローバーは、幸せを運んでくれる。
それが、本当に幸せを運ぶものなら、少しでもすれ違ってばかりの二人の気持ちが上手い形に噛み合ってくれるのならばと思わずにいられない。

「……あれ?」

そこまで思い至り、主は気が付く。
低く、掠れた声で歌が聞こえる。耳馴染みのない、どこか悲しげな童歌だ。
膝丸が歌っているのだろうかと、主はキッチンへと足を踏み入れる。果たして、コップを洗いながら膝丸は微かに唇を動かして、旋律を漏らしていた。

「ひざまる、その歌……?」

呼びかけると、膝丸ははっとしたように軽く肩を跳ねさせ、主に向き直った。

「歌? 今、俺は歌っていたのか?」
「……うん」

しかし、膝丸は首を傾げるばかりだった。それから、主が見ている間、彼は鼻歌一つ漏らさずに、皿洗いを済ませると、

「少し休む。何かあったら、起こしてくれ」

珍しく昼寝をとることを宣言してから、膝丸は寝室に閉じこもってしまった。再び静まりかえった部屋は、まるで生きている者が誰一人いないような嫌な沈黙に包まれている。
主も食後独特の温かな感覚と眠気に誘われて、ソファでうつらうつらしていたときだった。

──う、うぅ

微かな、呻き声が寝室から漏れている。それが、膝丸の声であると、主はすぐに気が付いた。
どうやら、夢の中でも、彼は己の悩みから解放されていないらしい。
主は目を覚まし、考える。膝丸の魘される声以外は、何も聞こえない部屋で、考え続ける。
鍵の場所は分かる。行きたい方向も大体掴めている。それが、何かの解決になるかは──未知数だ。寧ろ何にもならないのではと思う。
いつもなら、勝手に出かけることなど絶対しなかった。そんなことをしたら、彼女がどれほど怒るか、分かっていたからだ。
けれども、今はそんな自分を守るためだけの考えは捨てられる。褒めてもらおうなどという、打算的な考えすらもない。

「……いってきます」

鍵を開いて、外に出る。玄関を施錠して、ポストから鍵を投げ入れておいた。テーブルには書き置きも残している。だから、きっと膝丸は起きて気が付いてくれるだろう。
主は小さな足で、マンションのエレベーターのボタンを押した。
誰にも言わずに飛び出した外の世界は、いつも以上に広くて、灰色の不安に塗りつぶされた世界だった。

***

目を覚ましたとき、すぐに膝丸はこの世界が夢だと気が付いた。朽ち果てかけた古めかしい様式で建てられた木造建築物の外廊下、そこに膝丸はぽつんと立ち尽くしていた。
廊下というよりは外周を通る通路のような形状であるため、低い柵越しには鬱蒼と茂る緑が見える。
随分と寂れた場所だと思った。空を見上げれば、鈍色の雲が天蓋を覆っている。今にも雨が降り出しそうだ。

「暗いことばかり考えているせいだろうか。夢まで、随分と沈んだ光景が続くものだ」

夢の中では動ける場合もあれば、動けない場合もある。幸い、今回は体を動かすことができる夢らしい。
膝丸は数歩廊下を歩き、角を曲がる。建物といっても、膝丸の暮らす居間と同程度の大きさしかない。程なく正面入り口と思われる部分に辿り着き、膝丸はそこで自分以外の夢の住人に気が付いた。

「……子供?」

建物の入り口付近で蹲り、泣き伏しているのは主と同い年か、もっと小さいと思える男の子だ。纏う着物はぼろ同然であり、彼の四肢は枯れ枝のように細い。
そのくせ、腹は不自然に突き出ており、不健康な状態であるのは一目瞭然だ。
自分の夢であるはずなのに、見知らぬ子供の出現に膝丸は暫し面食らう。このまま無視するか、声をかけようか。暫く悩んでから、膝丸は後者を選んだ。

「おい」

主に接するように、とまではいかなかったものの、幾分か柔らかい声音で呼びかけても、子供は泣いたまま動かない。その泣き声すらも、徐々にか細く、小さなものへと変わっていっている。

「おい、聞こえないのか」

子供の正面に立って声を掛けても、反応はない。否、子供の視線はこちらに注がれてすらいなかった。

(俺の姿が見えていない……? いや、そもそもこれは俺の夢なのか?)

自分の夢なら、過去の情景や逸話に纏わる記憶が現れることが多い。
だからこそ、膝丸が眠りを得てから目にした夢の殆どは、戦場で刀を振るうものばかりだった。なのに、唐突に全く知らない建物や子供が目の前に現れるものだろうか。
不審に思い、膝丸が子供から距離を少し置いたとき、

「あなたも、置いてかれたの?」

どこからともなく、声がした。鈴を転がすような涼しげで、優しい声。見れば、いつの間にか子供の前には十ぐらいの童女が立っていた。
膝丸がずっと子供を見ていたにも関わらず、その童はまるで瞬きの間に現れたように、不意に、唐突に姿を見せていた。
櫛をすっと通したような、真っ黒な黒髪を腰ほどまでに伸ばし、雪のように白い着物を纏っている。
辺りは薄暗い木々ばかりで、足元も当然舗装されていない。どこかの森の中かと思う場所であるのに、素足の少女は泣き伏す子供とは対照的に身綺麗であった。
童女の問いに、しかし子供はか細い声でしゃくりあげるばかりである。

「かかさまは? ととさまは?」

続けての問いに、今度は子供もゆっくりと首を横に振る。その否定が何を示すのか、童女にははっきりと伝わったようだ。

「そう、かわいそうに。ここに置き去りにされてしまったのに」

その言葉は、錐のように子供の柔らかな心に突き刺さっただろう。だが、傍観者として眺めている膝丸の胸にも、確実に小さな痛みを齎した。
近しい者に置いてかれた。そんなことは、彼はしないと思う一方で、嫌な想像が拭いきれない。夢のなから誰も見ていまいと、膝丸の顔がくしゃりと歪む。

「大丈夫。安心して」

勇気づけるように、少年に童女は手を差し伸べる。その手は、雪のように柔らかで白い。

「私のところにおいで。一緒にお歌を歌って遊びましょう」

童女は、子供の手をとって歩き出す。向かう先は、子供が蹲っていた入り口の奥、部屋の中へと続くと思しき扉だ。
枯れ枝のように細い足でどうにか立ち上がり、彼は歩き出しかけ、しかし足を止める。不思議そうに子供を見つめる童女に、

「……にいちゃんに、あいたい」

殆ど風に掻き消えそうな、細い声が聞こえる。その言葉を耳にした瞬間、膝丸は彼をどこかで見たような覚えがあると気が付いた。
子供をまじまじと見た覚えなど、殆どない。だからすぐ分かると思ったのに、どういうわけか、思い出そうとすればするほど、記憶は水に濡れた紙のように脆く崩れていく。

「あにさまが、もしここに来たのなら、そのときは私が誘うわ。約束しましょう」
「……うん」

彼女に手を引かれ、子供の姿が入り口の奥へと消える。何とはなしに、その背を見守っていた膝丸は、思わず息を飲んだ。

「……消えた?」

数度目の瞬きの後、まるで一瞬生まれた空隙をすり抜けるように、二人の姿は消えていた。まるで、最初から誰もいなかったかのように、荒涼とした風が吹くばかりである。
思わず数歩足を踏み出し、膝丸は建物の朽ち果てかけた扉へと手をかけた。誰もいない、朽ち果てた木々の残骸と、幾ばくか落ちた屋根の破片が、曇り空の下にぼんやりと浮かび上がっている。
一歩足を踏み出しかけ、

「ねえ」

不意に、声がした。
自分の背後、誰もいないはずの場所からだ。

「そっちに行くの?」

悩むより先、膝丸は勢いよく振り向いた。彼のすぐ後ろに、あの真っ直ぐの黒髪をした子供が立っている。だが、今の彼女は白い着物ではなく、白いワンピースを風に靡かせていた。

「行きはよいよい 帰りはこわい──それでも、行きたい?」
「……どういう意味だ」

先ほどとは異なり、少女は明らかにこちらを見つめている。黒真珠のように艶やかな瞳で、じっと膝丸の瞳を見据えている。

「その先は、わたしの家。わたしたちの遊び場。皆で歌を歌って、いつまでもいつまでも、楽しく暮らす場所」

少女は踊るような足取りで、膝丸の横を通り過ぎ、彼の向かおうとした先──建物の中へと足を踏み入れる。つられて目で追い、膝丸は目を見開いた。
今まで朽ち果てた部屋があると思っていたのに、そこには整然と整えられた石畳が見えた。続けて目に入るのは、蛍のような優しい光を閉じ込めた灯籠たち。更に奥には──建物の敷居や境界を完全に無視して広がる奥には、朱塗りの鳥居と社が見える。

「あなたも、来る?」
「何を言っている」
「あなたには、その資格があるの。あなたは〈私〉が目に留めた人だから」

少女は口元に手を当て、薄い桜色の唇に弧を引く。

「悲しいのでしょう。苦しいのでしょう。一人で居続けるのは、辛いのでしょう。置いてかれると、思っているのでしょう」
「違う」

膝丸は、反射的に否定の言葉を口にしていた。奥歯を割れんばかりに噛み締め、目の前の少女を睨み付ける。
最早、これは己の夢などではないことははっきりしている。何かが、自分に介入している。しかもそれだけでは済まずに、あろうことか、兄への信を揺らがせようとしている。
だが、その否定こそが、自分の中にある不安を肯定していることに、膝丸は気が付いていなかった。

「あなたが、頑なにそう信じ続けるなら、信じればいいわ。〈私〉はもう一人も見つけ出したのだから」
「……もう一人?」
「ええ。置いてかれて、泣いている一人の子供。家族の真似事をしていても、家族にはなりえないのに、一人前の大人になろうとして、あなたを気遣って──」

誰のことを言っているのかを理解し、膝丸の蛇に似た瞳が大きく見開かれる。そこに宿る感情は、先ほどまでよりも尚濃い、明瞭な怒り。

「貴様、主に何をした」
「わたしは何も。もとより、七つまでは神のうち。彼は、元々わたしたちの側のもの」

少女は謡うように言葉を紡ぎ、唇の端をゆるりと吊り上げる。

「それなら、〈私〉がどうしようと、あなたには関係ないでしょう」
「関係ある。彼は、俺たちの主だ」
「あにさまが、そう仰っているだけなのに? あなたにとっては、赤の他人でしょう?」
「……それでも、俺は彼を主にすると決めた」

少女は膝丸を見つめたまま、目を離さない。
これが夢の中でなかったのなら、今すぐにでも斬って捨てていただろう。
だが、相手が深く浸食してきているからか。先ほどから、指一本たりとて、満足に動かせなくなっている。明らかに害意の表れを受けながら、膝丸は内心で歯がみしていた。
夢に入り込むまでに影響を与えていたといえのに、なぜ自分も髭切も気がつかなかったのだろう、と。
せめてもの抵抗として、少女を睨み付けて、膝丸は彼女が何者かを探るための問いを投げかける。

「貴様、童を誑かし、拐かすもののけの類か」

少女は、今まで浮かべていた笑顔をすぅっと消し、ゆるりと首を横に振る。

「もののけなんて、ひどい言い方はやめてほしいわ」

白いワンピースを翻し、彼女は言う。

「わたしは、子供が大好きな──ただのかみさまよ」


***

西へ西へと足を急がせる太陽に向けて、まだまだ遊べると言い張るかのように、河原は子供たちでいっぱいだった。昨日と同じように親子連れの者も多く、なるべく彼らを視界に入れないようにして、主は土手の草むらの前へ腰を下ろす。
ここ数日の間で、気落ちしてしまっている膝丸に。弟と上手く時間がとれず、彼の悩みが聞き出せずにいる髭切に。
少しでも、幸せが訪れますように。
そんな気持ちを込めて、彼はびっしりと広がる三つ葉の植物の群れから、幸せを運ぶと言われている四つ葉を見つけ出そうと目を凝らす。

(おまじないかもしれないけれど、どうにもならないかもしれないけれど)

それでも、七夕のときに吊した短冊が叶ったこともあった。サンタさんへの手紙に書いたものが、届いたこともあった。
自分の願い事を叶えるために、努力した人がいることを知っている。子供の夢は大人の手によって叶えられるのだと、叶えてくれた大人本人から聞かされた。
けれども、僅かな時間とはいえ、願いを叶えようと彼女が考えてくれたのだとしたら、それが最早奇跡に等しい。
だから、きっと、色々なことを良いように動かしてくれるために、何かすることは無駄ではないと、信じたかった。

(目が、痛くなってきた。手も、汚れちゃった)

髭切と膝丸の仕事が忙しくて、顔を合わす日が減っているのは目で見て知っている。それ自体は、主がいくら頑張ろうと、きっと彼ら自身が何をしようと、変えられないだろう。
だからといって、諦めたくはない。
明日は、二人の仕事がお休みになれるように。二人が話をして、不安も悩みも全部なくなって、初めて会ったときみたいに笑えるように。
ついでに、膝丸の料理が彼の満足できるぐらい上手くなれば、尚良い。
そんな夢を抱えて、主は三つ葉の群れを探り、

「あっ」

彼が声をあげた瞬間、夕暮れを告げるチャイムが鳴り響く。
子供達の別れの声が渦のように響く中、少年は自分が見つけたその葉をしっかりと掴む。

「あった……」

彼の細い指に握られているのは、四つの丸い葉ををより合わせてできた一つの植物──四つ葉のクローバーだ。
無事に見つかったことに安堵し、それを手折り、主は立ち上がり、

「こんばんは」

正面から、声を浴びた。

「!」

目と鼻の先にいるのは、真っ白の顔に二つの黒い穴。否、それは白いほっそりとした顔と、真っ黒の瞳だ。
夕日を背にしているためか、目のあるところが洞のようにぽっかりと空いて、底が見えない穴のように見える。
白い着物に、真っ黒の長い髪を背に流した童女が、少年をじいっと見据えていた。

「あなたに、訊かなきゃいけないことがあるの」

思わず身を引こうとして、少年は動けないことに気が付く。彼の手は、いつの間にか少女の白い手の中におさまっており、その足はまるで根でも生えたように動かせない。
昨夕も、少女には会っている。彼女と童女は瓜二つなのに、何故か童女は目にしているだけで不安な気持ちにさせられる。心臓がばくばくと激しく鼓動を打ち、冷や汗が流れ落ちていく。

「ねえ。あなたは置いてかれた子?」

突然の質問は、やはり昨日の彼女によく似ている。だが、彼女がただ疑問として問いかけたのなら、この質問は何か違う。
頷いたら、何かが始まってしまう。そう思っているのに、頭の片隅に眠る記憶の蓋がずるりと開く。
ばたんと音をたてて閉じた扉。こちこちと時を刻む時計。朝が過ぎ、昼が過ぎ、夜が過ぎ──再び朝が過ぎる。
彼女は、戻ってこなかった。
自分は、置いてかれた。

「……ち、がう。今は、ひげきりと、ひざまるが」

必死で、帰るべき場所を思い出そうとするのに、頭が割れるように痛い。遠ざけた冷たい思い出が、この一ヶ月で得た日々を塗り替えていこうとする。

「その二人は、あなたのお父さん? お母さん?」

そうだ、とは到底言えなかった。彼らにそんな風に呼びかけるのは適切ではないと、少年は理解している。
自分に求められている役割は、髭切があんなにもはっきりと示してしまっていたから。

「大丈夫。あなたは、あるべき場所に帰るだけ。だから、安心してちょうだい」

童女は、青ざめた顔の少年に顔を寄せ、耳元でそっと囁く。

「一緒に遊びましょう。私の愛しい子ども」

悪い大人のことは忘れましょう。冷たい思い出には、蓋をしましょう。童歌を口ずさみ、皆と遊び回りましょう。疲れたのなら、一緒に眠りましょう。
声が一つ頭に届くたびに、しなきゃいけないと思っていた気持ちが解けて、形をなくしていく。
何かを見たいと思っていた。誰かの声を聞きたいと思っていた。なのに、それが誰だったのか分からない。
ただ、止めどない安心感だけが、胸中に湧き上がってくる。温かな布団に包まれ、眠りにつくように、全てを委ねてしまえば、もう不安を感じることもなくなるのだと、頭ではなく心が理解していく。

「さあ、行きましょう。何も怖くないわ。もう、何も、あなたを脅かさない。怖がらせない。傷つけない」
「──うん」

童女が、彼の手を軽く引く。だが、少年はまだ何か心残りがあるように、虚ろな空色の目でどこかを眺めていた。

「……ひざまる、が」
「大丈夫よ。心配する必要はないわ」

童女は少年の前に回り込み、とっておきの秘密を教えるように声を潜め、目を細めて、告げる。

「私の所に、彼も直に招かれるでしょうから」

***

はっと息を飲む自らの音に覚醒を促され、膝丸は目を開いた。いつものゆったりとした覚醒ではなく、あたかも冷水でもかけられたかの如き目覚めだ。

「あの夢は……?」

ただの悪い夢だと思いたかったが、顕現して数年の直感が「あれはただの夢ではない」と告げている。

「主、いるなら返事をしてくれ、主!!」

部屋全体に響くような大声で、主に呼びかける。いつもなら、すぐに顔を見せるのに、今日に限って彼は現れない。
急き立てられるように、膝丸は寝室の扉を開く。刀が置かれている和室の襖を開き、物置に使っている部屋の扉も開ける。
キッチンを覗き込み、再び居間に戻ってきた彼はようやく机に置かれていたメモに気が付く。

〈ゆうがたに、かえります。かわら、いってきます〉

拙い字はひどく歪んでいて、何度か凝視してようやく彼は文字の意味を理解する。玄関を覗いた膝丸は、そこに唯一ある小さな靴がないと気が付く。
瞬間、今まで感じたことのない強い焦りが全身を苛んでいると、膝丸は気が付く。何かせねばと気持ちが逸るばかりで、しかし普段は落ち着いている思考がまとまらない。
今まで、彼はここまで焦燥に駆られたことがなかった。彼にとって大事だと思う相手は髭切だけであり、兄なら大抵のことを自分よりも上手にこなしてみせるだろうという信頼があった。
だが、主は違う。
彼と共に暮らし、まだ一ヶ月程度しか経っていないが、彼が膝丸よりも遙かに弱い存在だと知っている。
もし、あの少女が膝丸のよく知る〈人ではない何か〉なら、そんなものに対抗できる術を主が持っているとは到底思えない。

──兄に言われて、主と呼んだだけ。

彼女は、膝丸にそう言った。

「ああ、その通りだ。俺は兄者に言われて、彼を主と呼んでいるだけだ」

いきなり連れてこられた子どもを主と呼べと言われて、また兄の気紛れかと驚かされていた。
だが、今でも覚えている。
あの日、長義と髭切が給湯室で話していた内容は、幾らか膝丸の耳も聞き取っていた。そして、髭切が語る言葉と同じものを、膝丸も感じ取っていた。
初めて彼と会った日、腰を落ち着けて見上げた空は──綺麗だった。
刀を振るうことしか知らなかった己が、初めて得た休息と共に口にした団子は──とても、美味しかった。
それだけではない。
上手くできなかったと思えた料理であっても、主は美味しいと食べてくれた。ぎこちない伝え方ではあったが、髭切と会ったときに聞いた言葉を主は教えてくれた。
刀以外を得た日々の中、常に〈主〉はそこにいた。なのに、今更切り捨てられるわけがない。

「……落ち着け。焦っても仕方がない。まずは、奴の所在を確かめねば」

数度意識的な呼吸を繰り返し、今すぐにも飛び出したい気持ちを抑えて、彼は考える。
彼女は主に接触するつもりだったらしいが、そもそも何故彼女が自分たちに関わりを持ったのだろうかと考える。
何か切っ掛けがあるはずだ。多くの不可思議な存在は、切っ掛けがあるからこそ、こちらと因果を結ぶ。
恨みを持って化けて出てくる幽霊などが最たるものだ。先だって起きたムジナの件も、彼らの頭領の奥方を害したことが切っ掛けだった。

(兄者か、それとも俺か……? 俺の夢に出たということは、俺に関係があるのだろうか)

記憶を辿る。昨晩は、とある廃墟の本丸に関する調査に同行していた。ならば、ここが原因ではないだろう。
一昨日は、とある山間を切り開いてできた町の墓地に赴いた。帰りは歩きで、町を抜けていった。そこまでたどりかけて、膝丸はぽつりと漏らす。

「……記憶が、途切れてる?」

まるで、そこだけ切り取ったかのように、町の中を通り抜けた記憶だけが抜け落ちている。意図的な工作であることは間違いない。
だが、詳細を思い出せずとも、引き金となる部分さえ分かったのなら話は早い。
膝丸は寝台の隅に投げ出していた携帯端末を掴む。薄いレース地でできたカーテンの向こうでは、暮れかけた夕日が世界を黄昏色に染め上げていた。
物わかりの良い主なら、何を言わずとも帰宅の時刻と判断する時間である。だが、彼は戻ってきていない。
上着を引っ掴み、刀をいつものように布袋で隠し、背に負ってから膝丸は外へ出る。玄関に残された鍵が、少年が律儀にも施錠をしてから出かけたことを教えてくれた。
幸い、今日は非番だ。たとえ仕事がなかったとしても、膝丸は無視するつもりでいた。
階段を半ば飛び降りるように下りつつ、膝丸は携帯端末でとある者へと電話をかける。程なくして、相手は出てくれた。

「も、もしもし。膝丸さん……ですか?」

声の主は、一昨日同行していた職員だ。気の弱そうな、どこかおどおどした様子の声はあの時と変わりない。

「ああ。頼みがある。至急、そちらの端末で調べてほしいことがある」
「緊急ですか」
「ああ」

どうやら、気弱であっても彼は話が分かる相手だったようだ。
関わっている職員の中では、刀剣男士の言葉などいちいち聞くまでもないと一蹴する者もいるが、彼はこちらの言葉を真摯に拾おうとしてくれている。

「それで、具体的な内容は?」
「先日行った墓地があっただろう。あの近辺で、子供が消えた話はあるか」
「子供が、行方不明にですか?」
「ああ。できる限り広い期間の方が望ましい」

彼が夢で目にした光景では、子供が纏っていた着物は近代のものとは程遠かった。ならば、相当古い時代から、あの童女はああして子を攫っていたのだろう。
職員が端末を操作している音が、耳に差し込んでいるイヤホン越しにも聞こえる。一方、今彼が走り抜けている道には、まるで人の気配がない。夕暮れ時なら、帰宅しているサラリーマンや主婦の姿があってもおかしくないはずなのに。

(……罠か?)

あの神を名乗る正体不明の童女は、膝丸を誘おうともしていた。ならば、これは自分に対して何か仕掛けているのかもしれないとは考える。
けれども、今更待ってはいられない。髭切にも連絡してみたが、生憎電波の繋がらない所にいるようだった。兄を待っていて主を失っては、本末転倒だ。故に、今回は彼を待つという選択肢は捨てる。

「膝丸さん、あの町の児童に関する失踪記録について、いくらか見つかったものがあります」

思索をしている間にも、彼は調査を続けてくれていたらしい。膝丸はすぐさま応じる。

「詳細を教えてくれ」
「ここ数十年で、何度か……。ただ、その……あまり聞いていて気分の良い話ではないのですが」
「何だ」

奥歯に物が挟まったような物言いに、内心での苛立ちを必死に抑えて膝丸は続きを促す。

「消えた子どもたちは、どの子も見つかっていないのもそうで……ただ、捜索願が肉親から出ていないようなのです」
「それは、どういうことだ?」
「ですから、あまり子どもに対して関心がない保護者だったようで……。見かねて近所の人や友人の保護者が依頼して捜してもらったものの、見つからず、事件性も少なく、そのまま……」
「なるほど。迷宮入りか。こちらの方では調べていないのか?」

膝丸が暗に示したのは、膝丸たちと同じ部署の人間が調べに行っていないのかということだ。不審な行方不明者は、それだけで調査の対象に入ることが多い。

「いえ、そんなに頻発しているわけではないこともあって、我々の方では……形だけの確認しかしていないようです」
「承知した。他には?」
「ええと……後は、その調査時に聞き取った伝承がいくつか。夜中に子どもを一人で歩かせていると、山にいるものに攫われてしまう──と、お年寄りの何名かが口にしていたそうです。だから、子どもも山につれて行かれたのだろう、と」
「それは、もののけやあやかしを示唆するものと判断されなかったのか」
「ええ。この手の話は、山に近い地域ではいくらでも見られます。天狗に狐、狸にムジナ、鬼に神様。子どもが消えた伝承は、古今東西様々な場所で語り継がれる最も一般的な話なので、いちいちとりあげなかったのかと」

それなら仕方ない、と膝丸は諦める。先人たちには幾らか伝えたい文句もあるが、今は愚痴を言っている場合ではなかった。

「他にも何か分かることがあったら教えてくれ。それでは、失礼する」

一方的に通信を絶ちきり、膝丸はふっと軽く息を吐く。
一息の間で、体の中をめぐる人ならざる者の力を練り上げ、彼はその姿を本来の付喪神たる膝丸のものへと変えた。
舞い散る桜の花びらが、力の残滓として軽く舞い上がる。
翻るのは礼装に似た黒い上着。肩章には、背中にある小さな扇飾りにつながる白い紐。袴に似たズボンが足を包み、今まで背負っていた刀が腰に巻いたベルトの金具にぶら下がる。
一陣の黒い風となって、膝丸は黄昏時の路地を瞬く間に駆け抜けていく。

(今聞いた話から判断するに、これは──違うかもしれないな)

もし、夢で見た童女が不遜にも神を騙るあやかしならば、そこに躊躇はいらない。
狐狸の類だろうが、あるいは膝丸が知らないような妖怪だったとしても、極論は斬ってしまえばそれでおしまいだ。
だが、これが真実、神様の仕業だというのなら、それは斬って終わらせるだけでは済まないものかもしれないと、膝丸は予想する。
不意にぞくっと背筋に嫌な寒気が走る。身に覚えがないはずなのに、感じたことがあると思わせる嫌な感覚に、足が思わず止まりかける。

(何を、俺は恐れているんだ)

このままでは、主が戻ってこないかもしれない。そんなことを、自分は到底看過できない。

「主一人守れない刀など、そもそもなまくら以下だ」

己の矜恃と、心の向かう先が、切っ先を揃えている。なればこそ迷いなど不要だと、膝丸は夜の道を駆け抜けた。

***

物心がついた頃から、常に彼女は険しい顔をしていた。
それが、世間的に母親と呼べる存在だとは知っていたが、母とも母さんともママとも呼ばないように、なるべく注意していた。
以前は、そう呼んでいた気もするが、とにかく思い出せる限りの記憶において、呼びかけるときは「あの」とか「えっと」とか、そんな風に声をかけていた。
シゴトというものが大変忙しい彼女は、なるべくこちらを見ることも避けるようになっていた。
関心を持ってもらおうと、何度か声をかけてみた日もあったが、大抵は彼女は見ないふりをしていた。
やがて、彼女は見ないふりをしているのではなく、無視しているのだと知った。
無視はどんどん加速していった。流石に寂しくなって、彼女の気を引こうと声をかけたら────。
それ以来、なるべく彼女を怒らせないようにしようと決めた。

「あんたがいなかったら、私はもっと自由だったのに」

棘のような言葉が、何度も何度も自分に突き立っていった。いなければよかったのに、という言葉は、まだ耳の奥に残り続けている。
自分は、どうやら彼女の幸せにおいて、とても邪魔なものらしいと知った。部屋の片隅以外の場所から顔を出すと、それだけでも彼女は嫌悪感をあらわにして、顔を歪めていた。
時が経つにつれ、無視は加速していった。それだけでなく、彼女が何日も帰ってこない日が続いた。久々に帰ってきた彼女は、元気そうにしていたので、楽しいことがあったのだろうと分かる。
上機嫌な彼女は、こちらに対して何もしない。それが、せめてもの救いだった。
ただ、あの日の外出は、あまりに長かった。何日も帰ってこなかった。お腹が空くというものが、極限まで至るとどうなるのか、嫌というほど知った。
だから、外に出た。外に出ることは禁じられていたけれど、自分が動けなくなる前に、何かしないといけないと思った。
ベランダの隅で死んでいた小さな羽虫。あれのように、動けなくなって、干からびていくことは、怖いと思った。
一歩歩くだけで、ふらつく足。それでも、どうにか階段が見えた。
あれを使って、下に降りようと、一歩踏み出し──。

***

ふっと、ぼうっとしていた意識が浮上する。少年は足を止め、思わず振り返ろうとした。だが、

「だめよ」

手を引く童女が優しく、きっぱりと否定する。

「……どうして?」

だめだと言われたことに、こんな風に疑問を投げかけたのはいつぶりだろうと、ぼんやりとした頭で少年は思う。
だめなものはだめだから。そんな愚かな質問をしたら、いつも彼女にそうやって叱られていた。だから、口を閉ざすのが当たり前になってしまっていた。

「行きはよいよい 帰りはこわい」

童女は、じっとりと地の底から湧き出す泉のような声で、ゆうるりと歌い上げる。

「だから、入るのはとても簡単。でも、私はあなたを帰さない。帰したくない。それが、私の役割だから」

言葉の意味は、あまりはっきりと頭に入ってこなかった。ただ、納得したのと同時に、後ろ髪を引かれるような気持ちだけが残っていた。

「行きましょう。みんなが待ってるわ」

童女に手を引かれて歩きながら、彼はようやく自分がどこを歩いているのかを目で確認していく。
足元にあるのは、白に近い色に磨かれた石畳だ。ぼんやりと温かな光を抱く灯籠が両側を飾り、電灯よりも優しい光が道を照らしている。
辺りには、ほうぼうで子どもたちの笑い声が響いている。あちらでは、何やら独楽のようなものを回している男の子たちがいる。
向こう側では、だるまさんがころんだ、という声が響いている。切り株に腰掛けて、指に絡めた糸で遊んでいる少女らもいる。あれは、あやとりという遊びだったか。
どの子も、自分と同じかもっと小さな子どもたちばかりだ。
彼らに興味を持っているのが、童女にも伝わったのだろう。彼女は軽く少年の手を引いて、自分の方へと注意を向けさせる。

「そっちは後にしましょう。先に、奥へ案内したいの。見せたいものがあるから」
「奥?」
「ええ。ほら、見えてきた」

石畳を通り抜けた先、そこには小さな木造の建物と、大きな木があった。緑の葉の代わりに、今は小さな花が無数に咲いている。
今まで何度か目にしたことがある木だ。ひらひらと花が散るさまを目にして、彼はそれが桜だと気が付いた。
一つ一つの花びらが、小さな光を伴い地面に落ちていく。地面に落ちた花びらは光を失い、不思議なことに空気へと溶けていく。終わることのない花吹雪が、この世界を包んでいた。
以前髭切たちと一緒に見たときは昼間だったが、この空間にあのような晴れやかな空はない。あるのは、どこまでも続く深い黒の天蓋だ。
だが、暗いとは感じない。それは、ほうぼうに建てられている灯籠に灯された灯りのおかげだろう。

「綺麗でしょう?」
「……うん」

いつまでも目にしていたくなるような美しさに、暫し少年は立ち尽くして桜を眺める。
綺麗なものは好きだ。夕焼けに光る川の水面や、澄んだ空。それに、以前目にしたあの星のような輝きを伴った刃も。

(……あれ?)

それはどこで見たときの記憶だったのだろうと、少年が疑問を持ちかけたときだ。

「ここで、ずっと私と一緒に暮らしましょう。ここなら怖いものは何もいない。お腹も空かない。痛い思いもしなくていい」

彼女が、にこにこと語りかけてきた。それは、とても魅力的な提案だった。だからこそ、一も二もなく頷きかけ、ふと彼は自分が何かを握っていることに気が付く。
右手に握りしめている、小さな何か。自分の目の前に持っていき、少年は気が付く。

「……よつばの、クローバー」

ゆらゆらと揺れる、幸せを運ぶもの。どうして、そんなものを探し求めていたのかを、少年は思い出す。
悲しそうに顔を曇らせ、思い悩む二人の青年の姿。彼らに笑ってほしかったから、自分はあの河川敷で何時間も探し求めていたのだ。

「だめだ」

気付けば、否定が口をついて出ていた。

「どういうことかしら?」
「ぼくは……ひげきりと、ひざまるの所に、帰らないと」
「彼らはあなたを待つかしら? 彼らのために何かしたわけでもないのに?」

突きつけられた言葉に、少年は口を噤む。
自分は、彼らのようにシゴトにも行っていない。料理の手伝いもしていない。
何をすればいいのか分からず、ただこの一ヶ月、部屋の中でじっとしていただけだ。

「そう、だけど……でも」
「何もしていない。役に立たない。だから、いらない。大人は皆そう言うけれど、それでも私はあなたにここで楽しく過ごしてほしい」

声を聞いているだけで、不安に揺れる意識が蕩けていく。彼女の差し出す手をとれば、無条件でどこまでも彼女に甘えられるのだと、理性ではなく心が理解してしまう。
けれども、少年は逡巡を挟みながらも、ゆっくりと首を横に振った。

「……ぼくは、二人のあるじだ」

髭切が、自分に告げた言葉が一つ一つ蘇る。

「ぼくは、二人の側にいなくちゃいけない」

たとえ、要らなくなったら捨てると言われていたとしても、少なくとも今は自分の役割を全うしていたい。
無視をしなかった彼らのために。ちゃんと、帰ってきてくれる彼らのために。約束を破ったり、見ないふりをしていては、彼女(はは)と同じになってしまう。

「ぼくは、ちゃんと待っていないといけない」

無事でいてくれるだけでいい。それだけが、何もできない自分に唯一求められていることだ。
それすらもできないのでは、本当に役立たずになってしまう。

「──ああ、そうだ」

後ろから、声がした。
温かく、そして力強さもある越え。けれども、最近は少し沈み、淀みかけていた声。
だけど、今は再び、凛とした強さをにじませている。

「彼は、俺の主だ」

振り返った先、ひらひらと舞い散る桜の下。まるで、そこだけこの世界から切り取ったかのように、鮮やかな薄緑が薄闇の中で輝いていた。
8/31ページ
スキ