本編の話

その日の夕方、ちょっとした事件が膝丸が暮らす部屋で起きていた。その始まりは、髭切が膝丸に送ってきた一通の電子通信から始まった。

『夕飯買って帰るの忘れちゃったから、何か用意しておいてくれないかな。おむらいすって料理がいいなあ』

昨晩、膝丸が帰ってきてから、彼は買い置きの惣菜を買ってきてはいない。そのため、冷蔵庫は髭切のリクエストはおろか、調理されたものが何一つとしてなかった。家庭を切り盛りする敏腕主婦のような計画性は、まだ膝丸の中にはない。
そして、髭切はまるで狙い澄ましたかのように、膝丸が仕事のために出立しなければならない時間に、通信を送ってきていた。
慌てて、事情を説明する返事をしたものの、既読を表すサインは通信上には現れなかった。つまり、髭切は気が付いていないということだ。
万事休す。
膝丸が冷蔵庫を前にして、顔を青くしている様子を、主は黙ったまま見守ること以外できなかった。

「……主」

残り僅かの時間を使って頭を悩ませた末に、膝丸は主に声をかける。彼は、首をこてんと倒して続きを待った。

「この家の近くに、料理を売っている雑貨屋がある」

膝丸の言っているのは、俗にコンビニエンスストアと呼ばれる店のことだ。残念ながら主は、まだ行ったことがない。

「たしか、以前、ここに書いてある料理を販売しているのを見かけたことがあってな。そこで、兄者が希望しているものを買ってきてくれるか」

膝丸は髭切が送ってきた電子通信の文面をトントンと指でつつく。主は、神妙な顔でゆっくりと頷いた。

「地図は簡単に書いておいた。そこまで複雑な行程ではない。鍵は預けておく。無くすと後々政府の者に連絡する必要があるから、極力なくさないように努力してくれ」

出かける直前であるためか、膝丸は珍しく慌てた様子で財布から幾ばくかの紙幣を主へと渡した。
このご時世、現金を持ち運ばない者も多いが、元々電子通貨が運用されていない場所まで赴くことが多い都合上、彼らは未だ財布にそれなりにお金を入れておくよう、管理者たちから厳命されていた。

「これで足りると思う。すまないが、俺は先に」
「……ひざまる」
「すまない、主。分からないのなら、無理せず戻ってこればいい。兄者とて、そこまで──」

主は、無言で膝丸が開けっぱなしにしていた冷蔵庫を指さす。
閉めるように言っているのではない。彼は、冷蔵庫の中に保管されている、膝丸が作った野菜炒めの残りを指さしていた。少し多めに作ったために、二人分は十分にある。
それだって、料理の一つだ。食べられないわけではない。なのに、膝丸は意図的に見ないふりをしている。

「ひざまる、これ、食べられるものだよ」
「……これは、兄者に見せられるようなものではない」

膝丸は、冷蔵庫を勢いよく閉めてしまった。ばたん、という音が、今日はいつもより大きく響いて聞こえた。

***

先を急ぐ膝丸に、大丈夫だと念押しをして、主はどこか頼りない足取りで夕闇に染まる道を歩いていた。
だが、歩けども歩けども、それらしき店には辿り着かない。膝丸のメモには、青い光る看板なのですぐ分かるとあるが、それらしき光る物体は全く見当たらない。

(曲がる所、間違えたかな。あとは、真っ直ぐ行きすぎたとか……)

どこで道を誤ったのか、最早判別は不可能だ。
手っ取り早いのは誰かに聞くことだろうか。あるいは、高台から確認するのもいいのではないかと、彼は乏しい経験から打開方法を探る。
丁度、近くに川沿いに土手があり、その天辺は通路になっているようだった。周りを確認するために、主は近くにあった階段を上り、天辺へと辿り着く。
そして、彼は思わず息を飲んだ。

(すごい──)

土手に広がる斜面を、目映い光が覆っている。それは、今まさに沈みかけている夕日のものに間違いない。
川は光を浴びてきらきらと星を散らしたように瞬いており、川縁まで続く草むらのうえを今まさに、主より幾らか年上の子供たちが駆け回っていた。
犬の散歩をしている近所に住むと思しき老人がいる一方で、斜面の草むらで雑談に興じている、主と同年代の子供たちもいる。近くにいる女性は、恐らく母親なのだろう。
その姿を目撃した瞬間、主は思わず自分の着ているシャツを片手でぎゅっと掴んだ。

「おかあさん、今日なにつくるの?」
「そうねえ、何にしようかしらねえ」

向かい側から歩いてくる、母に手を引かれて歩く少年。屈託のない笑顔に応じる、温かな微笑の女性。夕日に照らされて、暖まっていた体が急速に冷えていくような気がした。

(昔、僕もこういうところを歩いていた)

通り過ぎる少年より、自分がもっと小さかった頃。先を歩きすぎないように、後ろから呼びかける女性の声があった。
どれだけ走っていっても、きっと追いついてきてくれると分かっていたから、短い足を懸命に動かして、わけもなく先を急いだ。走りすぎて転んで、膝の痛みに涙をこぼしたら、彼女はハンカチで涙を擦り、傷口を縛ってくれた。
古い記憶に頭の片隅が軋むように痛み、主は向かい側からやってくる親子を見ないように、土手の斜面へと無理矢理視線を逸らした。
土手には、沢山の草がびっしりと生えている。夕日に照らされて、やや白っぽくも見える葉を、主はじーっと見つめていた。

(三つの葉があわさってるから、これはくろーばーっていう名前で……)

トランプと一緒だ、と彼女は言っていた。びっしりと広がるクローバーのうち、一つを手折り、彼女はこんなことも言っていた。
──これ、三つの葉があわさったものばかりに見えるけど、四つの葉がくっついたのがあってね。

「それは、幸せを運んでくれると言われている……」

幸せ、という単語は今日聞いたばかりだ。膝丸は、髭切が一人で幸せを見つけにいってしまうのでは、と呟いていた。
それなら、二人で幸せになる方法はないのだろうか。膝丸があんなにいっぱい悩まずに、髭切と心の底から楽しそうに笑える方法は、何かないのだろうか。
膝丸は、髭切に楽しそうに笑ってほしいと言っていた。その気持ちを髭切には伝えられていないだろうが、もし伝えたなら、何かが──

「!」

突如、うわんと鳴り響く割れ鐘のような音に、主は一瞬頭がくらくらした。落ち着いて耳を澄ませば、それは帰る時間を知らせる町内チャイムのようなものだったらしい。
土手で遊んでいた子供たちが、一人また一人とチャイムを皮切りに家へと帰るため姿を消していく。

「……そうだ、ご飯」

髭切が帰ってきて、誰もいない家に辿り着いたなら、きっと困ってしまうだろう。空腹は我慢できると膝丸は言っていたが、しなくてもいい我慢など、二人にはしてほしくなかった。
当初の目的に立ち直り、主はきょろきょろと辺りを見渡す。だが、目に入るのは人家ばかりだ。家路を急ぐ大人たちは、立ち話をやめて、ほうぼうに散っていってしまった。
日が落ちて、薄暗くなった土手の上、立ち尽くしているのが主だけとなったとき、

「ねえ」

背後から、声がした。
鈴を転がすような、涼やかな声。だが、声を急にかけられ、主は反射的に振り返る。勢い余って、膝丸が渡してくれた鞄がぶんと振られた。
そこに立っていたのは、白いワンピース姿の少女だ。櫛をとおしたように真っ直ぐの黒髪の下、黄昏時のせいか表情はぼんやりとしてはっきりしない。

「迷っちゃったの?」
「う、うん」

家にいた白い影に似ている──ような気もする。
だが、そんなはずはないと、主は小さくかぶりを振る。あれは、膝丸には見えていなかった。つまり、幻のようなものに違いない、と主なりに考えていた。

「どこに行きたいの?」
「……あ、青い、光る看板のお店」

主がメモを見せようと前に差し出すより先に、少女は分かったように一度首肯した。

「それなら、案内してあげる」

最初、少女が纏う浮世離れした雰囲気に圧倒されて、主はなんと言われているのか分からなかった。
だが、やがて彼女が道案内を申し出ていると理解して、無性に安堵している自分に気がついた。
突如現れたというのに、彼女には不気味というよりは、まるで髭切や膝丸といるときのような、人を安心させる空気が満ちている。彼女についていけば、何も問題は起きないと、自然にそう思えるのだ。

「行かないの? それとも行くの?」
「その……お願い、します」

主は、ぺこりと彼女へと頭を下げた。誰かに何か頼むときはそうしろと、これも以前言われて覚えたことだ。
少女は、くすくすと笑って先導を始める。
年の頃は、おそらく自分より二つ三つは年上だが、まるで何十歳も年上のような大人びているようにも見える。髭切や膝丸に似た空気を感じるのは、その点も関係しているのかもしれない。
先をゆく少女の足取りに迷いはなく、主は奇妙な安心感と共に、彼女の後ろをついていった。
十分ほど経った頃だろうか。今まで無言だった少女が、口を開いた。

「坊や、あなたのお母さんは?」

その問い自体に不自然なところはない。一人でこんな小さな子供が、夜も近いこの時間にうろうろしていたら心配で尋ねるのは普通だ。
だが、少年は思わず足を止めてしまった。
土手で見かけた親子と、嘗て四つ葉のクローバーについて教えてくれた彼女の姿。そして──髭切と膝丸の顔が、ちらりとよぎる。

「お母さんは?」

もう一度、少女は尋ねる。彼は無言で、首を横に振る。

「いないの?」

何と答えたものか、少年は答えに窮してしまった。いないと言ってしまってもいいのではと、自分の中で誰かが囁く。そうしたら、何もかもが楽になる気がした。
気がつけば、少女は主の目の前に立ち、下から覗き込むようにして、じいっとこちらを見つめていた。
その瞳は夜闇の星を写し取ったように、きらりと輝いて見えた。

「じゃあ、お父さんは?」

これにも無言を貫き通す。
ふうん、と少女は興味なさそうに鼻を鳴らした。

「いないんだね」
「それは」

いないわけじゃない、と主は心の中で呟く。
記憶の片隅に、彼らは今もいる。思い出そうとしなくても、忘れられないのだ。特に、お父さんなる存在の方はともかく、もう一人の方は──。

「じゃあ、あなたは、家族に置いていかれたの?」

彼女は、少年から距離を置き、問いを重ねる。返事はやはり、沈黙しかなかった。

「あなたは、いらない子?」

ただの問いだ。見知らぬ少女が気紛れに吐いた質問だ。
そのはずなのに、胸に穴がぽっかりと空いたような虚無感に足元が崩れていくような錯覚に襲われる。膝が震え、目の前の視界が歪んだ気がした。
いらない子。嫌というほど、聞いた覚えのある言葉だ。
いっそのこと、首を縦に振ってしまおうかと思った。
だが、その瞬間。
──「これから、君が僕らの主になってもらう。分かったね?」
彼の声を、思い出せた。

「僕は──ひげきりと、ひざまるの、あるじだよ」

だから、いらないなんてことはない。どこかに勝手に行くこともできない。何故なら、そうあるように望まれたのだから。

「……そう」

少女はぱちぱちと、何度も瞬きをした。長い睫毛が瞳の上を往復し、その度に黒い瞳が見え隠れする。

「ひげきりと、ひざまるは、いい人?」
「……うん。すごくいい……人だよ」

膝丸曰く、彼らは刀のツクモガミらしいが、人間として見ても悪い人ではないと主は断じる。
見ず知らずの子供を家にあげて、服を与え、食べるものを与え、寝床を与えた。それだけで、主にとっては、十分過ぎるぐらい「いい人」だ。

「それなら、よかった」

少女は、目を細めてにっこりと笑ってみせた。
彼女の笑顔は、街灯の下に浮かび上がったものであるというのに、胸の内にお湯を注いだかの如く温かな気持ちにさせていく。
家路を急ぐときに目にする夕日のような笑顔だった。

「着いたよ」

藪から棒に言われ、何事かと主は思うが、彼女が指さした先にある看板を目にしてはっとする。それは、膝丸が話していたように光る看板だった。

「……ありが、とう」

少し拙い声で答えると、少女は「どういたしまして」と返事をしてから、どこか遠くを眺めながらぽつりと呟いた。

「──〈私〉に、気をつけてね」
「え?」

一体何の話だろうと思うも、瞬きした刹那、そこに少女はいなかった。通り過ぎる夜の風が、彼女を攫っていったかのように、通りを見渡しても少女の姿は影も形もなかった。


***

行きは大層迷わされたが、帰りはおっかなびっくり店員に道を聞いて、事なきを得た。
驚いたことに、主が兄弟と暮らすマンションはすぐそこにあったと言ってもよかった。
どうやら、曲がるべき所を曲がらずに、明後日の方角に向けて延々と歩いていたらしい。
今度から、もっと細かく書いてもらうしかないと、主は人知れず思う。ただ、実際に頼めるかどうかは未知数だ。

「あの子、誰だったんだろう」

道案内をしていた彼女は、妙なことを何度も主に尋ねていた。ただ、家で目にした白い着物の少女によく似ているのに、怖いとは思わなかった。
家で目にした彼女は、目が合った瞬間、僅かではあったがぞくりとしたのに。

(幽霊なんて、いないって、思っていたんだけど……)

人並みに、幽霊という存在の意味は知っている。怪談を二つか三つ聞いたこともある。だが、それは作り話だという少し冷めた考え方を少年はしていた。
そんな彼が今どこにいるかというと、マンションのエントランス前だった。
髭切がいるなら開けてもらおうと、インターフォンを駆使して呼びかけてみたが、どうやら彼はまだ帰っていないらしい。
それなら、外で待っていようと思ったのである。誰かをこんな風に待つなど、今まで経験がなく、お使いに続いてちょっとした冒険気分の延長だった。
夕闇を眺め続けること、五分ほど。ようやく、膝丸と同じくらいの背丈の青年が、自分に向かって歩いてくるのが見えた。

「ありゃ、主。どうしたんだい、こんなところに立って」
「おつかい、してきた」

案の定驚いている髭切に対し、主は一抹の誇らしさを胸に秘めて自分の成果を語る。もっとも、言葉にその感情は殆ど載っていなかった。

「……弟は?」

髭切は主が持つビニール袋を確認してから、怪訝そうに周りを見渡す。

「……お仕事、行くって」

自分が期待していたものとは予想外の反応をする髭切に、主の顔は徐々に不安に曇る。
だが、そんなことはお構いなしに、髭切は「ああ……」と落胆を声に出す。

「そうだった。弟は、今日も出る日だったんだね。……うーん、じゃあ、しょうがないのかなあ」

立ち話は何だから、と髭切は主を伴い、エレベーターを用いて部屋まで移動する。
時計を見ると、出かけてから一時間と少し程度しか経っていなかった。
慣れない夜道を歩いていたせいか、それとも迷子になったからか、まるで数日間に及ぶ大冒険を繰り広げてきたような気持ちだった主は、不思議そうに時計を見つめていた。

「弟が、もし家にいるなら、観念してくれると思ったんだけどなぁ」

髭切はすたすたと冷蔵庫の方へと向かう。彼は普段なら、滅多に冷蔵庫を開けようとしない。
突然どういう風の吹き回しだろうと思った主は、はっとする。確か、冷蔵庫には膝丸が隠そうとしていた料理があったはずだ。
どたばたしていて、あのときの膝丸がきちんと隠せていたとは思えない。

「ひ、ひげきり」

上ずった声で髭切の名を呼ぶと、髭切は冷蔵庫の手前で立ち止まってくれた。扉に手をかけていたので、まさに間一髪と言えるだろう。

「……ごはんは、こっちに、あるから」
「うん。そうだね。分かってるよ」

髭切は、にこにこと笑っている。けれども、その笑顔は常のものより、少し曇って見えた。
髭切に背を向けて、主は袋の中に入れてもらったお弁当を並べていく。その後ろで髭切が見ているものは、主の背からは窺えなかった。

「作ってくれると、思ったんだけどなあ」

手に持つ薄い冊子は、レシピがいくつか書かれたまだ真新しい本だ。開いたページに挟まっている付箋を、髭切はそっと指先で撫でた。

***

主が買ってきた弁当をぺろりと平らげてから、髭切はソファに腰を下ろして、じっと動かなくなった。
普段から、帰宅してからも端末を眺めているか、主に一方的に話しかけている彼だが、今日は今朝の膝丸によく似た顔をしている。つまり、何か考え込んでいる顔だ。
じーっと主が見つめてみても、すぐには膝丸のように返事はしてくれない。
髭切はその点、少し冷めた所がある。だから、主は髭切が優しい人だと思う一方で、時々分からなくなるのだ。彼の目には、一体何が映っているのだろうか、と思ってしまう。

「ねえ、主」

唐突にこちらに話を振ってこられて、主はこてんと首を傾げる。

「弟、何だか疲れた顔をしていなかった?」

無言で、首を縦に振る。どうやら、弟の不調は既に兄の知るところだったらしい。

「少し前に、やけにじーっと顔を覗き込んできたと思ったら、今度はお昼休みの時間にうたた寝なんかしていたんだよね。よほど草臥れていたのかなって思ったけれど、多分違う気がするんだ」

髭切は、ふぅ、と息を細く吐く。

「何だか、ひどく思い悩んでいるみたいでねえ。でも、何を考えているかは聞かせてくれなさそうだった。弟は真面目だから、少し考え過ぎちゃうんだろうね」

特に今は、と髭切は心の中で付け足す。
たまには休んで、足を止め、空を見上げてもいい。そんな日々を選んで、早一ヶ月。
この生活は、思った以上に世界の色々な側面を髭切たちに見せてくれた。
同時に、多様な切り口を受け止めるために、髭切は自分の中にあった感情が揺さぶられていると自覚し始めてもいた。
普段は泰然として、何事もなかったかのように振る舞える髭切でも、時々自身の情動に振り回されて目が回るような心地がする。
まして、生真面目な膝丸なら尚更だろう。

「弟は、色々考えていたとしても、僕のためだって判断すると、何も教えてくれなくなるからね」

いっそ膝丸が口にしていた言葉を、髭切に伝えてしまおうかと、主は悩む。
だが、髭切に勝手に話して、膝丸が怒ったらどうしようと考えてしまう。
優しい人が怒る姿を、まして自分に向かって怒鳴る姿を、彼はもう見たくないと思う。
どちらにも嫌われたくない。だが、どちらにも悲しんで欲しくはない。どうすればいいかは、主では決められない。

「……弟がこういう顔をしていると、僕も何だか眉間のあたりがぎゅーってなるんだよね」

こういう顔、と言いつつ、髭切は膝丸によく似たしかめ面を作ってみせた。さすが兄弟だけあって、二振りの顔はよく似ている。

「弟が何を悩んでいるかはさておくとしても、今日は胸にぽっかり穴が空いたみたいだよ。弟がいるって思って、帰ってきたのに」
「……ごめんなさい」
「どうしてそこで主が謝るんだい?」

反射的に呟いた謝罪に、髭切は驚きの声をあげる。彼にとって、弟がいることと主がいることは全く別次元の話であり、どうして主しかいないのかと責めたつもりは毛頭ない。
だが、主は無意識に膝丸がいないことを、非難されているように受け取ってしまっていた。
もっとも、その感情を理路整然と少年は説明できない。ただ、俯くばかりだ。

「主は主で、大事にしたいなって思うんだけど、それは別として、僕はやっぱり弟が隣にいてほしい。弟の──膝丸が、側にいてほしい」

主は微かに目を見開く。髭切は、この家で殆ど膝丸の名を呼ばない。
何か理由があるのかと思いきや、今彼は確かに、膝丸の名を口にした。

「弟が嬉しそうだと嬉しいし、弟が辛そうと僕も何だか辛くなる。弟が頑張っているなら、僕も弟に誇れるような兄でいたいと思うし、弟が怪我をしていたら──僕だって、痛い」

こんな風に今まで感じていたのかと、髭切は口にしながら思う。
何も感じていなかったわけではない。ただ、あまりに当たり前すぎて、或いは刀として不要だと切り捨てすぎて、正面から受け止めてはいなかったのだろう。
普通の人間なら、何を今更と当たり前のような気持ちであったとしても、髭切にとっては無意識で片付けられない感情たちを、彼は一つ一つ口にしていく。

「でもね。この気持ちだけじゃ、良くないことが起きてしまうんだよ」

髭切の否定に、主は首を傾げる。
互いを大事に思い、気持ちを共感し合うのは、主の価値観に照らし合わわせても、良いことのはずだ。
だが、髭切はゆっくりと首を横に振り、否定を露わにする。

「きっと、弟も同じように僕のことを思っていると、僕は確信している。でも、そうなると、僕は互いのためなら何でもしすぎてしまう。今みたいに、僕に内緒で弟がたくさん悩んでることもそうだけど──例えば、そうだね」

髭切は不意に立ち上がり、居間から続く和室へと入る。そこに置かれている刀掛けから刀を手に取り、彼はするりと鞘から抜いた。
安っぽい蛍光灯の下、ぎらぎらとした銀の刀身が主の目を奪う。
初めて目にしたときと変わらず、少年はその刃を「きれいだ」と感じていた。

「弟が喜ぶなら、僕は何でもする。弟が辛いなら、苦しめている物を排除する。弟を怪我させた者がいたなら、僕はそれが何であれ、許さないだろうし──もし、弟を守るために、僕がその身を擲つ必要があるのだとしたら」

髭切は、ごく軽い所作で、己の刃を首筋に添えた。

「いっぱい悩むだろうし、ちゃんと考えるだろうけれど、結局──まあ、それでもいいかなって思ってしまうだろうね」

危ない橋を渡る必要があるなら、自分は躊躇せずに渡ると髭切は告げる。
微笑みながら告げる髭切の首には、刀が添えられたままだ。この刃物の切れ味が抜群であると、主はよく知っている。
何より、刃物は危ないものだ。膝丸が包丁で、野菜を切っている姿を何度も主は目にしていた。怪我をすると危ないからと、遠ざけられたこともある。
鋏が紙をざくりと切り落とすように、髭切の首も落ちてしまうのではと、主は顔を青くする。

「大丈夫だよ、今は。主もいるのに、そんなことはできないものね」

髭切は宣言通り、刀を鞘に戻し、刀掛けに戻した。あの綺麗すぎる刃が見えなくなって、主は心の片隅で胸をなで下ろしていた。

「僕は、君を主にした理由は、僕らがこうならないためなんだよ。僕らが無茶をしすぎないように。その身を、互いのために削りきらないために。主がいる、と思ったら少しだけ僕らも冷静になるからね。二振りで守るべきと思っているなら尚更、僕らは己の身を軽んじていられなくなる」

髭切は、未だこちらを見上げる少年に、一歩歩み寄る。
端正な顔に、今はぞっとするぐらい綺麗な微笑が浮かんでいた。この人はいつもそうだ、と主は思う。
その顔は綺麗なのに、ただ綺麗なだけの野花とは違う。触れれば冷たく、けれどやはりどこか暖かくて、不思議な魅力を内に秘めている。

「君は、僕らの楔であればいい。だから、君が何かをする必要はないと言ったんだよ。まあ……一応他にも、考えはあったけど、これはおまけ程度だから、そんなに期待はしてないかな」
「おまけ?」
「君が覚えていないなら、それでいいんだよ」

言いつつ、髭切は刀掛けの側に据えられた小さな短刀のようなものを、ちょんちょんと指でつつく。それは、髭切と膝丸の本体を置く刀掛けとは異なり、本体が地面に対して直角に立つようになっている台座だった。
短刀──というよりは神楽舞に使われる鉾鈴に似た拵えに収まっているほどの小さな刃は、丁度主が持つのに具合がいい大きさだ。
主自身、この小さな刃物に見覚えがある。
彼らの主になると決まった日に、自分が持っていたものだ。気が付いたときには手に握っており、絶対になくさないようにと髭切から厳命されてもいた。

「そんな理由で君を選んだわけだから、僕は君が不要だと思ったら容赦なく切り捨てるだろう。騙し討ちみたいになるのは嫌だから、先に言っておくね」

髭切の言葉は冷淡で突き放すような言葉だったが、寧ろ主としては彼の潔い態度が有難いと思っている部分もあった。
嘘をついて、適当に優しい顔を取り繕っておいて、突然痛い思いをするくらいなら、切り捨てるかもしれないと宣告されておいた方がよほど気分が楽だ。

「……今は、いいの?」
「うん。何か気になることでも?」
「ぼくは、何もしてないから」
「さっきも言ったけれど、僕は何かしてほしいなんて思っていないよ。君は、ただ僕たちの背後で無事でいてくれればいい」

でも、と主は思う。
──あなたは、いらない子?
夕刻、あの少女にあんなことを聞かれたせいだろうか。少女とは違う、もう一人の声を、主になる前に聞いていた声を思い出してしまう。
──お前みたいな役立たず、いなければよかったのに。
耳の奥でこだまする声こそ幻聴であれど、思い出は決して幻にはならない。それは、彼の記憶にはっきりと刻まれた言葉だ。

「……そうだねえ。役割があるのに、それを果たさないのは、いいことではないだろうね。僕は刀としての役割を全うし続けるし、弟もきっとそうだろう」

それならば、と顔を上げる。
髭切は「でも」と言葉を続ける。

「君の役割は、僕らにとっては主で居続けることだから、君がどうしてもやらなきゃいけないことはないと、僕は思っているよ。主が何かしたいなら、それは好きにすればいいとは思うけれど、ね」

主は俯いて、黙りこくってしまう。
髭切の言っていることは少し難しくてよく分からない部分もあるが、結局は「何をしなくてもいい」の一言に尽きる。
だったら、膝丸のあの顔も、髭切が少し悲しそうに顔を歪めていたのも、放っておけばいいと言うのか。
髭切は、それでもいいと言うのだろう。主に何かしてほしいなどと思っていないのは、先ほどの言葉通りだ。
膝丸だって、同じように考えているに違いない。
だが、まるでお前は関係ないからと遠ざけられているようで、心が痛くなる。悲しくなる。寂しくなる。
──あんたみたいな子供には、分かんないわよ。
幻聴は、金切り声を上げて主張している。
彼女の言い分も今ならわかる。大人は、子供の知らないところでたくさんのことを考えている。複雑すぎて、分からないことばかりだ。
だから、家族のことだって分からない。本当に怒ってるのか、ただ虫の居所が悪かったのか。心の底から喜んでいるのか、それとも単に機嫌がいいだけなのか。
それでも、悲しまないでと言う気持ちくらいは持っている。子供だって、感じるぐらいはできる。何をしなくてもいいと言われても、気持ちは言うことを聞いてくれない。
たった一ヶ月だけでも、気にしてくれたから。こちらを見てくれたから。笑いかけてくれたから。

「さて、そろそろこの話はおしまい。弟と会ったら、また話をしないとね」

髭切は、踵を返し、主の横を通るついでにその頭に手を伸ばす。
反射的に、主は身を固くする。おや、と髭切は自分より二回り分小さな所にある主に視線を落とす。その細く小さな体は、微かに震えていた。

「これ、嫌いだったかな?」

主は、おずおずと髭切を見つめてから、ゆっくりと首を横に振ってみせた。

「そうかい? なら、よかった」

頭に載せられた髭切の大きな手がさわさわと動く。彼の手は広くて大きくて、温かいと主は改めて知る。

(この温かさ、膝丸にも……教えてあげたいな)


***


ひらりと、舞い散る桜が視界に入る。もう季節は過ぎたはずなのに、と彼はぐるりと辺りを見渡した。

「おや、これはまた随分と立派だね」

見上げた先、大きく枝を広げて薄紅の天井を作り上げている桜が目に入る。ゆるりと辺りを見渡すと、どうやら自分は見知らぬ山間の岩に腰掛けているようだ。
側には小さな木造の建築物がある。見慣れない様式ではあるが、髭切には何故か親しみを覚えるつくりと感じられた。
自分は今、どこかの山中にいるらしい。見渡す限り、まだ葉がつききっていない木々がほうぼうに生えている。所々では見たこともない花々が思い思いの色を咲かせ、彼──髭切の目を楽しませていた。

「おやおや、これはまた面白い夢だね」

見慣れない土地に行った覚えもなく、何より彼の記憶は先ほど布団に入った所でぱったりと途切れている。
それなら、目を覚ました瞬間に知らない土地にいたら夢であると断じて問題ないと判断したのだ。

「花見かあ。どこかで休みをとれないかなあ」

暢気にそのようなことを呟いていると、不意に何やら人の声がして、髭切はそちらへと顔を向ける。
とても整備されているとは言えない獣道から、人が姿を見せていた。しかも、それも一人ではなさそうだ。
大人の女性や男性、そして側には子供がいる。年の頃は、丁度主と同い年ぐらいだろうか。
彼らの来訪に気が付いたのか、家からは一人の男性が姿を見せた。白い着物が目映い彼の側には、同じように真っ白の着物を着た少女がちょこちょことついて回っている。
櫛を通したように、まっすぐの黒髪をした子供は、黒真珠のような瞳をきらきらと輝かせている。とてとてと子供たちに駆け寄ると、彼女は何が嬉しいのか、やってきた子供たちへと何か話しかけている。

「……あれ、あの子供」

髭切が思わず声を漏らしたのは、少女がいくら子供に話しかけようと、子供は彼女を無視しては親や男性の方にばかり視線を向けているからだ。
一方、少女は自分が見えていないことが分かっているらしく、特段落ち込む素振りも見せていない。
来訪者の親たちは、古びた着物の袂から木札のようなものを取り出し、男に渡している。男は何事かを喋り、親は嬉しそうに顔を綻ばせていた。

「何かのお祝いかな? 人の子が元気でいることは、いいことなのだろうね」

親たちの着物から察するに、恐らくは今髭切がいる時代よりは遙か昔のことだろう。不思議な夢を見るものだと、髭切は桜吹雪を浴びながら目を細める。
自分の逸話に纏わる夢なら多く見たし、今まで起きたことを夢に見た日もある。だが、己の経験とはかけ離れた一幕を目にしたのは初めてだ。
親子が帰ると、札を受け取っていた親子は小さな家へと戻っていった。残された少女は、立ち去る子供へと大きく手を振っている。
髭切も、岩に腰掛けたまま、何とはなしにゆっくりと手を振って、小さくなっていく親子を見送っていた。
不意に、少女がくるりとこちらを振り向く。黒々と輝く星のような目は、今は真っ直ぐに髭切を見据えていた。

「僕に何か用かな?」
「────」

彼女は、何か言おうとしている。だが、どういうわけか世界から音が急に消えてしまったように、言葉が耳に入ってこない。さっきまでは、あれほどはっきりと子供の歓声が耳に届いていたというのに。
彼女は大きく口を開けたり閉じたりして、その動きで何かを伝えようとしている。髭切は目を凝らして、その口の動きを己の口で真似する。

「お、と、う……?」

そこまで辿った瞬間、髭切の意識が急速に浮かび上がった。


どすん、という重々しい音。同時に、鈍い痛みが背中に走り、髭切は思わず柄にもない呻き声をあげた。
背中の下には、寝台の柔らかな感触ではなく、床の冷たい質感がある。恐らく、寝ぼけて転がり落ちたのだろう。

「さっきの夢、何だったんだろう……?」

だが、夢について考えるよりも早く、髭切は部屋中に響く携帯端末の着信音に顔を顰める。夢が中断されたのは、この音のせいだろう。

「……ああもう、仕方ないな」

枕元に転がしていた端末をやや乱暴に掴み、髭切は通話のボタンを押した。
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